日本巫女史 第二篇:習和呪法時代


  • 第三章、巫女の信仰的生活と性的生活

    • 第一節 巫女を中心として見たる神神の起伏

       『琉球國舊記』を讀むと、同國の神神は正しい名の外に、必ず「(イベ)名」と云ふのを、一つか二つ程有つてゐる。チャンバレン(Basil H. Chamberlain)氏は、此(イベ)名は內地の(イミナ)と交涉があらうと言はれてゐるが
      〕、私には其詮索よりは、琉球の神神は何故に斯く一神にして多くの名を有してゐるかの考證に、興味が惹かれるのである。而して更に近刊の『對馬嶋誌』を見ると、神社篇に引用して有る『八幡傳記』鎌倉期文治年中の記錄と傳へられてゐるが、私の信ずる所では、もう少し新しい者と思はれる。)所藏の神名を讀んで、其大半迄が全く何の意味やら見當すら付かぬのに、我れながら驚き入つて(シマ)つた。勿論、此れは私の無學に原因してゐる事ではあるが、併し私とても、多少は神神の研究を試みた者、自分だけには相應の豫備知識を有してゐると信ずるのに、見當さへ付かぬのであるから、今更の樣に己の無學と寡聞とが恨めしくも成つた。此處に二三の例を舉げると、「よらのぐんつ」とか、「さごのもしこ」とか、「したるのつと」とか云ふ類の物で、恐らく私ばかりで無く、誰でも一寸手の下しやうが無い難問だと考へる。然るに、是等の分らぬ神名の內で、殊に私が關心したのは「つなのろかんよる」と云ふ神名であつた。此れは私の乏しき琉球語の知識から見ても、直ちに(ツナ)と稱する巫女(ノロ)(カン)()るので、斯く神名を負ふに至つたのであると判明した。斯く琉球で行はれてゐる言葉が有る以上は、此方面から手掛りを得る事が出來ようと思ひ、其方法を講じて見たが、此れも結局は徒勞に終つて了つた〕。其處で、私の考へたのは、此對馬の神名も、琉球の神の()てる(イベ)名と同じ性質の物では無いかと思ひ付いたので、專ら其方針で(イベ)名の發生に關して詮索を續け、漸く大體の見當だけを突き留める事が出來た。其が本節の中心であつて、我が古代の神神の發達と巫女との關係を知るに至つた次第なのである。
       琉球の巫女(ノロ)の制度は、我が內地の古代の其と少しも變る處が無く、巫女(ノロ)の最高位に在る聞得大君(キコエオホキミ)は、國王の姊妹を以て任命するのを原則とし、大昔に在つては王后の上位に在つて、國內に於ける女性の最高者としての待遇を受け、其下に「大あむしられ(ウフ阿母志良礼)」と稱する取締の樣な機能を有する巫女が若干有つて大君を補佐し、更に此の「(ウフ)あむしられ」の下に、各村各村の巫女(ノロ)が、適當に配置されて隷屬してゐた。そして此巫女(ノロ)(內地の神和系の神子と同じ樣な者で、一定の給分を受けてゐた。)の外に、ユタ(內地の口寄系の市子に似た者で、給分は無くして、一回の神事に對して、一回の報酬を受けてゐた。)なる者が存してゐたのである〕。然るに、是等の巫女(ノロ)が、國家又は鄉邑に有事の場合に、其事件の大小難易に依つて、或は高級の巫女、又は下級の巫女が、神意を承けて託宣をする時、或は自發的に、又は審神の問ふがままに、此託宣は何何の神の聖慮であるとて、頻りに神名を唱へるのを常とする。此れは神名に依つて事件を決しやうとするのであるから、神名を唱へる事が託宣を聽く者の信用を保つ點から必要である為に、斯うした結果を見るに至つたのであつて、巫女中心の原始的宗教に於いては、當然、將來すべき傾向に過ぎ無いのである。
       然るに、茲に困難なる問題の伴ふのは、神託を承くる時の巫女(ノロ)の身體上の工合や、巫女(ノロ)()かる神の性質──即ち其神が荒ぶる神か、(ナゴ)める神かの相違に依つて、同一の神の憑代(ヨリシロ)と成つてゐながら、巫女(ノロ)の唱へる神名なる物が、或は前の場合と後の場合と矛盾し、或は始めの折と終りの時とは全く別箇の物が出ると云ふ事である。而して斯かる場合には、先に稱してゐた神名を正しき物とし、後に唱へた變つた物を(イベ)名と云うたので、斯く琉球の神神は多くの(イベ)名を有する樣に成つたのである。換言すれば、琉球の巫女(ノロ)は、託宣に際し、往往にして神名を創作するのである。同じ御嶽(ウタキ)に鎮坐す神を招降(オギオロ)しながら、場合に依つては、一般に信じられてゐる神名を言はずして、意の動くままに、飛んでも無い新しい神名を言出すが、其際は新しいのを(イベ)名として傳へてゐたのであつて、此れで(イベ)名の正體が朧げながらも知る事が出來たのである。對馬の神名の不可解なのは蓋し此創作された(イベ)名を傳へた物では無いかと考へる。
       然るに、猶ほ此處]に併せ考へて見無ければ成らぬ問題は、琉球に於ける神神の高下と云ふ事と巫女(ノロ)との關係である。他の語を以て言へば、神に大小が有り、高下が有り、更に靈驗の著しい神が有り、(コレ)に反して靈驗の餘り聞えぬ神も有るが、斯うした神神の相違に就いて、巫女(ノロ)が如何なる交涉を有してゐたかと云ふ事である。併しながら、問題は割合に簡單に說明の出來ぬ事であつて、好んで巫女(ノロ)(カカ)る神が早く名を知られ、憑つた神の託宣が有效であれば、其神の位置が向上し、斯くて幾度か同じ事が繰返へされる內に、何何の神の託宣は常に靈驗が有ると成れば、其神は他神を壓して名神大社に昇り、壓せられた神は叢祠藪神に降り、神神の世界にも淘汰の理法が行はれてゐたと解して差支無い樣である。
       其では、斯うした問題は、獨り南方の嶋嶋に限り存した事で、內地の古代には之に類似し、又は共通した信仰は無かつたかと云ふに、此事たるや、特に筆端を慎しまぬと、意外の誤解を受ける虞れが有るので、流石に無遠慮に物を書くのに馴れてゐる私でも、餘り突つ込んだ事は差控へ無ければ成らぬが、許された範圍內で說を試みると、此れと共通した信仰が、我が古代に顯然と存してゐた事だけは認めねばなるまいと思ふ。前に引用した『
      日本書紀』に、神后が親しく神主と成らせ給ひ、烏賊津臣を審神者(サニワ)として神意を承けさせられた折に、審神が、誰神か其名を知らんと問ひしに、第一に撞賢木嚴之御魂天疎向津姬命と答へ、第二に天事代虛事代玉籤入彥嚴之事代神と答へ、第三に表筒男・中筒男・底筒男神に答へられてゐる。(詳細前揭の書紀の本文參照。)勿論、此れは琉球の其とは異り、同じ神を他の名で稱へてゐる物では無いが、其にしても、神憑(カムガカ)りと云ふ事は、必ずしも一神が憑る物では無くして、二神又は三神が一時に憑り、審神の問ふに連れて、其神神の名を稱へる物であると云ふ事だけは、拜察されるのである。
       然るに、私の寡聞なる、此れに類した文獻の他に有る事を知らぬので、此れ以上の事は何も言はれぬのであるが、琉球の例を以て古代を推す時は、教養の無い巫女の間に在つては、或は一神を他の名で稱へたり、或は同じ神を降ろしながら、前時と後時と名を異にする樣な事が、往往にして在つたのでは無いかと想像されるのである。『神名帳』に有る出雲の神魂伊能知奴志とか、『地祇本紀』に有る久久紀若室葛根神とか云ふのは、或は巫女に依つて創作された神名ではあるまいか。而して此傳統を承けた物か、後世の巫女は隆んに神名を創作した樣だが、誰でも知つてゐる八幡社の出現も、欽明朝に巫女(職業的の者では無いが。)に憑りて、「我は譽田の八幡丸(ヤハタマロ)也。」と神託されたので八幡神の名が起り〕、菅公も村上朝に巫女(同上。)に憑りて、天滿大自在天神と託宣されたので、天滿神の稱が起つた等は〕、其顯著なる例證として舉げる事が出來るのである。
       更に巫女に依つて神格を向上した神としては、先づ八幡神を其徵證とする事が、好適でもあり、且つ安全だと考へる。前にも言うた如く、八幡社は我國第一の託宣好きの神で、此れを集めた『宇佐託宣集』だけでも、十八卷の多きに達してゐる。從つて國家に有事の際には、殆んど懈怠無く託宣をされるが、殊に著聞せるは、『續日本紀』天平勝寶元年十一月(辛卯朔)條に、

         巳酉,八幡神託宣向京。
         甲寅,遣參議從四位上石川朝臣年足,侍從從五位下藤原朝臣魚名等,以為迎神使。路次諸國,差發兵士一百人以上,前後驅除。又所歷之國,禁斷殺生。(中略。)  十二月戊寅,(中略。)迎八幡神於平群郡。是日入京,即於宮南梨原宮造新殿以為神宮。請僧四十口,悔過七日。
         丁亥,大神禰宜尼大神朝臣杜女【其輿紫色,一同乘輿。】拜東大寺。天皇(孝謙帝)、太上天皇、太后,同亦行幸。是日,百官及諸氏人等,咸會於寺。(中略。)奉大神一品,比咩神二品。(中略。)左大臣橘宿禰諸兄,奉詔白神曰:「天皇()御命()坐申賜()()。去辰年,河內國大縣郡()智識寺()坐盧舍那佛()禮奉(),則朕()欲奉造()ども(登毛)得不為之間(),豐前國宇佐郡爾坐廣幡()八幡大神()申賜へと(閉止)()。神我天神地祇()誘ひて(伊左奈比天),必成奉无事立不有,銅湯()()成,我身()草木土()(),障事無()奈佐むと(牟止)敕賜ながら(奈我良)ぬれば(奴禮波),歡()みなも(美奈毛)念食()。然猶止事不得為(),恐けれども(家禮登毛)御劍獻事(),恐()みも(美毛)申賜くと(久止)申。」尼杜女,授從四位下。主神大神朝臣田麻呂,外從五位下。施東大寺封四千戶,奴百人、婢百人。云云。(國史大系本。)

       の一條である。當時、孝謙女帝は、父聖武帝の宿願を繼いで、盧舍那佛(即ち奈良の大佛。)を鑄造せられんとしたが、鑄造術の幼稚なる、幾度か鑄損じたのを、此れは佛像を鑄る事を、我國の神神が悅ばぬ為だと云ふ風說が有つたので、殊の外に叡慮を惱まさせられた折に、真に突如として九州の一角に在る八幡社が託宣して、必ず成就せしめんとの事であつたので、斯くは帝都に八幡神を迎へたのであるが、其盛儀の實に意外であつた事は、『續紀』の記事に盡して有る。更に『詞林采葉』卷一に據れば、

         聖武天皇、(中略。)正八幡大菩薩を此寺(東大寺)鎮守(手向山八幡宮)と崇奉らんとて、敕使を鎮西宇佐宮へ奉らせ給ひければ、乘物無き由敕答有るに依て、帝乘給ふ神輿を奉らせ給ひしかば、やがて乘現せ給ふ、南都へ入せ給ふ、自其以來、代代の御門の祖神一朝ノ宗廟四維八紘を擁護し給ふ者也。


       とは、誠に以て託宣の力が如何に偉大であつたか、千載の後からでも恐察されるのである。殊に、巫女である社女が、禁色の輿に乘り、主神田麻呂の外從五位下に對して、從四位下に敘せらるる等、巫女の勢力の如何に甚大であつたかが推測されるのである。從つて、斯く皇室の御信仰を深く受けてゐたればこそ、神護景雲三年七月僧道鏡の事件の起るに及んで、和氣清麻呂を宇佐八幡に遣して、神託を仰奉らしめたのである〕。然るに、此八幡神が清和朝に僧行教に依つて、石清水に分靈鎮座されてより、一段と神威を加へ、更に清和源氏の棟梁達の信仰を博してから、式神として朝野の崇敬を受け、九州の一地方神であつたのが、天下の高位神として、全國に祭られる樣に成つたのである。

        • 註第一〕此事に關しては、柳田國男先生が、先年、折口信夫氏の宅で、琉球見聞談を二回程試みられた際に、詳しく承つてゐたのである。
        • 註第二〕琉球出身の伊波普猷氏に、此事の教示を仰いだが、『八幡傳記』の神神の名には、琉球語は多く發見されぬとの事であった。
        • 註第三〕同上伊波普猷氏の『沖繩女性史』に同國の巫女の事が詳記して有り、且つ巫女の體系や關係が圖に成つて示して有る。篤學のお方の參照を望む。
        • 註第四〕『八幡愚童訓』及び其他の書にも見えてゐる。因みに言ふが、八幡はヤハタと讀むのが古訓であつて、然も其八幡(ヤハタ)なる語は地形から來てゐる物である事は、既に小山田與清翁も『松屋叢話』及び『松屋筆記』に述べてゐる。而して之をハチマンと讀んだのも新しい事では無いが、此讀み方は僧侶が佛教に附會せんが為に、古意にする所があつたのである。
        • 註第五〕『北野緣起』及び『北野天神繪卷』の詞書にも見えてゐたと記憶してゐる。
        • 註第六〕託宣好きであつた八幡神は、或意味から云へば、餘りに饒舌に過ぎて、思はぬ失敗を招かれた事すら有る。『續日本紀』天平勝寶七年三月の條に、「八幡大神託宣曰:『神吾不願矯託神命請取,封一千四百戶田、一百四十町,徒无所用,如捨山野。宜奉返朝廷,唯留常神田耳。』依神宣行之。」と有るのは、其一例である。更に習宜阿蘇麻呂が、八幡神の託宣を矯めて、僧道鏡に媚びた顛末、及び當時の大政治家であつた藤原百川が、如何に此八幡神の神威を有效に利用して、僧道鏡を退けたかに就いては、故田口卯吉翁の『史海』に載せた藤原百川傳に盡してゐる。八幡神に就いては、猶ほ記したい事が澤山有るが、深入りして誤解を受ける事も如何と考へたので割愛する。


    • 第二節 御子神信仰の由來と巫女の位置

       『
      』・『』・『風土記』及び延喜の『神名帳』に現れた御子神(ミコカミ)を、悉く巫女關係の神と云ふ事は許されぬ迄も、此內の幾神かは、巫女其の者を神と祀り、又は巫女と神との間に生れた御子(ミコ)を神に祀つた物である事は認めねば成らぬ。私は此見地に立つて、先づ『神名帳』から是等の神神を檢出し、然る後に、巫女神(ミコカミ)、及び御子神の由來と、巫女の地位に就いて、多少の考察を試みるとする。



    • 第三節 社會相に現はれたる巫女の勢力

       
      奈良朝の情熱歌人であつた山上憶良が、天平五年三月に記した「沈痾自哀文」の一節に、

         我犯何罪,遭此重疾。初沈痾已來,年月稍多。(中略。)欲知禍之所伏,祟之所隱,龜卜之門,巫祝之室,無不徃問。云云。


       と載せて有る〕。憶良は渡唐留學迄した當時の新知識であつて、今で云へば、隨分ハイカラであるべき人物であるにも拘らず、猶ほ病氣と成れば、巫祝の室に赴かざるを得無かつたのは、巫祝の勢力が社會的に重きを為してゐた事を物語る物である。更に奈良朝の大政治家であつた吉備真備が、子孫の為に『私教類聚』三十八則を殘し、其三十一に於い、「莫用詐巫」と題して、「凡偽巫覡,莫入私家。巫覡每來,詐行不絕。」と記して(此全文は後に揭げる。)警戒した如き、又以て巫覡が社會的に相當の地步を占めてゐた事が推測されるのである。而して私は、是等の巫覡の中、特に巫女の勢力が中古の社會相に如何に現はれてゐたかに就いて、管見を記すとする。


        一 政治方面に於ける巫女の勢力

         祭政一致を國是としただけに、世が降つても、其規範は史上に多く貽されてゐる。『
        欽明紀』十六年春二月條に、百濟王子惠が來朝して援兵を乞ひし時、蘇我稻目(コレ)に對して言ふに、

           昔在天皇大泊瀨(雄略帝)之世,汝國為高麗所逼,危甚累卵。於是天皇命神祇伯,敬受策於神祇。祝者迺託神語報曰:『屈請建邦之神,往救將亡之主,必當國家謐靖,人物乂安。』由是請神往救,所以社稷安寧。(中略。)頃聞,汝國輟而不祀。方今悛悔前過,修理神宮,奉祭神靈,國可昌盛。汝當莫忘。云云。


         と有るのは、良く此問の消息を盡してゐて、然も神語を託する巫祝の勢力が、政治的にも、軍事的にも、顯然として信じられてゐた事が知られるのである。
         而して斯くの如き狀態は時に消長有るも、依然として政治に現はれ、前に舉げた孝謙朝に東大寺の建立と成つたのも、稱德朝に僧道鏡に非望を懷かせ、更に(コレ)が成否を神意に問うたのも、共に巫覡の力が政治に及ぼした影響と見る事が出來るのである。殊に奈良朝に成つてからは、此餘勢を承けてか、巫覡の跳梁は其極度に達し、政府も神託の濫出に苦しみ、之を禁斷する法令は(其事は後に述べる。)殆んど雨の如く下されたが、猶ほ其猖獗を奈何ともする事が出來無かつた。嵯峨朝の初めに、太政官符を以て、國司に神託の真偽を檢察せしめて、一面巫覡の跋扈を防ぎ、一面妖言と神託との詮議をしたのは、當時、前時代の遺弊を受けつつあるも、其剿絕の期難きを覺つた政府の彌縫策である事が知られると同時に、併せて奈良朝に於ける巫覡の勢力を窺ふ事が出來るので、左に此れが官符を抄載する。

            類聚三代格(卷一)太政官符(國史大系本)

              應撿察神託事

           右被大納言正三位藤原朝臣園人宜偁:奉敕,怪異之事,聖人不語。妖言之罪,法制不輕。而諸國民信狂言,申上寔繁。或言及國家,或忘陳福禍。敗法亂紀,莫甚於斯。宜仰諸國,令加撿察。自今以後,若有百姓輙稱託宣者,不論男女,隨事科決。但有神宣灼然,其驗尤著者,國司撿察定實言上。

          弘仁三年九月二十六日


         此れが更に平安朝と成ると、社會を舉げて、鬼神を恐れ、物怪を信じた神經衰弱時代だけに、巫覡の妖言に惑溺する事一段と猛烈なる物が有つた。藤原兼家が攝關の高位に居ながら、賀茂の若宮の良く憑る「打臥しの巫女」と云ふを招ぎ、手づから裝束を奉り、冠を著せ、然も自分の膝に枕させて、物を占はせたと有るのは、『大鏡』の筆者が、「斯樣(サヤウ)に近く召し寄さるに、言ふ甲斐(カヒ)も無き程の物にもあらで、少し侍女(オモト)程のきはにてありけり。」と冷笑的に記してゐる所から推すと、曰くの有りさうな信仰である事が知られるが、併し此時代で無ければ、決して見る事の出來ぬ事象である。更に『宇津保物語』藤原の君の卷に、致仕の大臣三春高基が、德町と云ふ巫女を後妻に迎へた事が載せて有るが、架空の物語物に為よ、當時、斯かる世相の有る事を著者が知つてゐて記した物と考ふべきである。
         殊に注意し無ければ成らぬ點は、當代に於いて藤原氏が、幼帝を擁し奉つて政權を爭うた為、其手段として往往巫蠱の疑獄を惹起し、之を以て政敵を陷れた事である。勿論、此手段たるや、決して平安朝に突如として惡辣なる政治家の間に發明された物で無く、遠く國初時代から慣用せられて來たのであるが、奈良朝に於いて猖んに惡用され、平安朝は之を踏襲したに過ぎぬのであるが、深く迷信に拉はれてゐた時代だけに、其陰險さは一段の熾烈を加へたのである。
         『政事要略』卷七〇に載せた藤原為文、同方理、佐伯公行妻(高階光子)方理妻(源氏)及び僧圓能等が相謀り、上東門院、及び其父藤原道長を呪詛したと云ふ巫蠱罪の判決文は、當時の人心が如何に巫蠱の徒を恐れてゐたか、併せて其結果が如何に政治に現はれたかを知るに便宜が有るも、餘りに長文なので此處に摘錄する事すら出來ぬのは遺憾である〕。
         併しながら、斯うした事件も平安朝に在つては決して珍しい事では無かつた。承和皇太子の廢されたのも、源高明失腳したのも、巫蠱を利用した政治家の犠牲に成られたのである。此事は一般の歷史にも記されてゐる事であるから、餘り深く言ふ事は差控へるが、又以て巫蠱の勢力の侮る事の出來無かつた事が知られるのである。『古今著聞集』の卷一に、「長暦二年大中臣佐國祭主となり、罪を獲て、翌三年六月に伊豆國へ流された。然るに、同七年十月と十六日の兩回に、齋宮內侍に御託宣が有り、同十九日に敕命に依つて、佐國が召還された。」のは、託宣が政治を動かした例として最も適切なる物である。而して斯かる事は後世にも往往行はれたと見えて『康富記』文安五年九月二十九日條に、西宮左大臣高明に從一位を贈つたが、此れは備前國の某村人に神託が有つたのを、山科中將顯言が耳にし奏聞した為めだと有る。


        二 軍事方面に於ける巫女の勢力

         神策を受ける事が、戰勝の唯一の原因とした時代に在つては、巫女が前代に引續き、軍事方面に勢力を有する事は當然である。『
        推古紀』十年春二月條に、

           來目皇子為擊新羅將軍,授諸神部及國造、伴造等,并軍眾二萬五千人。


         と有る「神部」の解釋に就いては、學者の間に多少の異說も存してゐる樣であるが、此れは飯田武鄉翁が說かれた如く、

           神部とは、(中略。)中臣・齋部・猿女・鏡作・玉作・盾作・神服・倭文・麻績等の氏人、又其氏人に隷屬せる人共をも、廣く云ふ名なるが、今新羅を撃給はむとして、然る職掌有る人を授給へるは、如何にと云に、此れは兵士の方にはあらで、(ムネ)と神祭の為也けり。然るは上古は、天皇を始奉り、大將軍を遣して叛者を伐しめ給へるも、先づ神祭を嚴にして、神に乞願ひ、吾軍の恙無くして、敵の亡びん事を祈願し給へるは、神武以來御代御代の史に數多く見えたるが如く、此れ上古の道なれば、行先處處にて忌瓮坐ゑ、神祭を為し給はん為に、諸神部をも率て行給ふ也。(日本書紀通釋其條。)


         と有るのが、良く古代の事情を盡してゐる物と考へる。記事が少し前後するが『雄略紀』九年三月條に、

           天皇欲親伐新羅。神戒天皇曰:「無往也。」天皇由是不果行。


         と有る此神も、恐らく巫祝に憑つて託宣された者であらうと推察される〕。更に『扶桑略記』卷六に、

           養老四年九月,有征夷事。大隅、日向兩國亂逆。公家祈禱於宇佐宮。其禰宜辛島勝代豆米,相率神軍,行征彼國,打平其敵。大神託宣曰:「合戰之間,多致殺生。宜修放生。」者。諸國放生會,始自此時矣。(國史大系本。)


         と有るのは、元より正史には見えぬ事であつて、且つ放生會の緣起を說かうとする佛徒の術策の樣に思はれるが、併し此事は『濫觴抄』(群書類從本。)にも載せて有るので、多少とも此れに似寄つた事が有つたのでは無いかと考へ直したので採錄するとした。而して禰宜の辛島勝代豆米は即ち刀自であるから、女性であつた事は推測に難く無い。更に『將門記』には、巫倡が有つて將門を占ひ、此れが意を迎へた事が記して有る。巫倡の文字から推して、尋常の巫女で無い樣にも思はれるが、兔に角に神策を問ふに必要なる巫女が、陣中にゐた事だけは明白である。
         斯うした信仰は、傳統的に戰士の間に殘り、合戰に際して血祭りをするとか〕、又は兜に神體を籠めるとか〕、鎧の袖に佛像を縫ふぃとか〕、樣樣なる工夫を凝らし、以て冥助を受けん事を祈つた物である。迥に後世の記事ではあるが、尾張國西春日井郡萩野村大字辻に、淺野秀長の腕塚と云ふが在る。俚傳に秀長山崎合戰の折に譽田別尊の神像を奉持して臨み、敵軍に包圍されて右腕を斬落されたが、死地を脫して一命を保ち、安井村に隱栖して此地に腕塚を築いたのだと云うてゐる〕。而して陣中に女性が禁止される樣に成れば、巫女に代つて男覡が之を勤めるのは當然の事であつて、壹岐の神職の棟梁である吉野末秋は、豐公征韓の際に前後七年間杉浦氏に屬して從軍し、武運長久勝利の祈念を專とした。凱旋の後に食祿百石を賞賜せんとしたのを辭し、子孫永く壹岐國惣大宮司兼社家支配役たらん事を許されたと有るのは〕、蓋し其一例である。猶ほ男覡を軍事探偵に用ゐた例は澤山有るが、此れは巫女史に直接關係が無いので省略した。


        三 信仰方面に於ける巫女の勢力

         巫女の存在價值は、信仰方面に在るのであるから、此れは改めて記す程の事も無い樣に思はれるが、其信仰も時代に依つて多少とも變遷する物故、茲には其點を略述したいと思ふ。而して巫女が尤も其威力を發揮したと信ずべき物は、『
        日本後紀卷十二に載せた左記の事件である。

           延暦二十三年二月丙午朔。(中略。)
           庚戌,運收大和國石上社器仗於山城國葛野郡。(中略。)
           二十四年春正月辛未朔,廢朝、聖體(桓武帝)不豫也。(中略。)
           庚戌,(中略。)典闈建部千繼,被充春日祭使。聞平城松井坊有新神,託女巫,便過請問。女巫云:「今取所問,不是凡人之事。宜聞其主。不然者,不告所問。」仍述聖體不豫之狀。即託語云:「歷代御宇天皇,以慇懃之志,所送納之神寶也。今踐穢吾庭,運收不當。所以唱天下諸神,勒諱贈天帝耳。」登時入京密奏。即詔神祇官并所司等,立二幄於神宮。御飯盛銀笥,副御衣一襲,並納御轝。差典闈千繼充使。召彼女巫,令鎮御魂。女巫通宵忿怒,託語如前。遲明,乃和解。(中略。)返納石上神社兵仗。云云。(國史大系本。)


         石上神宮は物部氏の氏神であるだけに、(物部が靈界に通ずる者の部曲(カキベ)である事は既述した。)此社の兵器を故無く他に遷したと云ふので神怒を買ひ、巫女に(カカ)つて桓武帝の聖壽を咀はんとしたのであつて、此れには在朝の百官も慴伏した事と思はれる。然も、其巫女たるや、京に召されても、通宵忿怒を續けるに至つては、更に恐れざるを得無かつたのである。桓武帝は此不豫より大漸に陷り、遂に翌大同元年三月を以て崩御あらせられたが、當時、民間に在つては、此巫女の凡庸で無かつた事を取沙汰した物と推測される。
         然るに此れとは事情を異にするが、巫女の徵驗ある事を記した物が有る。『政事要略』卷七〇に、『善家異記』を引用して、

           先君,貞觀二年,出為淡路守。至于四年,忽疾病危篤。時有一老媼,自阿波國來云:「能見鬼知人死生。」時先妣,引媼侍病。媼云:「有裸鬼持椎,向府君臥處,於是丈夫一人怒。追卻此鬼,如此一日一朝五六度,此丈夫即似府君(氏カ)神。」於是先考如言,祈禱氏神。媼亦云:「丈夫追裸鬼,令過阿波鳴渡。」既畢,此日先考平復安和。其後六年春正月,又疾病。即亦招媼侍病。媼云:「前年所見丈夫,又於府君枕上悲泣云:『此人運命已盡,無復生理。悲哉。』(中略。)」其後數日,先考遂卒。(中略。)此事雖迂誕,自所見,聊以記之,恐後代以余為鬼之薫狐焉。(史籍集覧本。)


         と有るのが、其である。而して『政事要略』の編者である惟宗允亮も、此れには頗る感心したと見え、「詐巫之輩,雖其制;神驗之者,為云其徵。載此記耳。」と記してゐる。
         斯うした事件は、鬼を信じ巫を好んだ平安朝には、到底此處に舉げ盡せぬ程多く存してゐるが、就中、左の事件の如きは、神託の靈驗を知る上に必要であると考へたので、最後の類例として抄出した。『大神宮諸雜事記』卷一に、

           長元四年六月十七日,大神宮御祭也。仍齋內親王依例參宮。(中略。)而爰齋王御託宣云:「我皇大神宮之第一別宮荒祭宮也。而依大神宮敕宣()。此齋內親王()所託宣也。故何者,寮頭相通,並妻藤原古木古曾及數從者共(),年來狂言之詞巧(:『天),我夫婦には(仁和),二所大神宮翔付御なり(奈利),男女之子供()荒祭宮()付通給也。』女房共には(仁和),今五所別宮()付給也()して(志天),巫覡之事()護陳(),二宮化異之由()(),此尤奉為神明にも(仁毛),奉為皇帝にも(仁毛),極不忠之企也。云云。」同年八月二十日,寮頭相通者伊豆國,妻古木古曾子者隱岐國()配流。云云。


         鎌倉期に成ると、流石に、武斷政治を以て天下に號令しただけに、巫女を信賴する事、前代の如き物は無かつたが、其でも決して絕無と云ふ次第では無く、源賴朝程の人物でも、又此れを全く閑卻する事は出來無かつたのである。前揭『吾妻鏡』卷二治承五年七月八日條に、「相模國大庭御厨庤一古(イチコ)娘參上。」と見え、同書卷六文治二年五月一日條には、

           自去比黃蝶飛行,殊遍滿鶴岡宮,是怪異也。(中略。)有臨時神樂,此間大菩薩(八幡神)託巫女給曰:「有叛逆者。(中略。)日日夜夜,奉窺二品(源賴朝)之運,能崇神與君,申行善政者,兩三年中,彼輩如水沫可消滅。」云云。


         と載せて有る。此れに反して、民間には、前代の餘弊を承けて、巫女を崇拜して、鬼道を聽く事を悅んだ例が、夥しき迄存してゐるが、既に大體を盡したと信ずるので他は省略に從うた。  巫女の託宣に依つて、國家が神社を剏祭した事は、前に宇佐八幡宮及び北野天滿宮の其を舉げたが、斯かる類例は猶ほ此外にも存してゐるのである。本節の結末を急ぐ為に、茲には一二だけ揭げるに留めるが、『伊呂波字類抄』筑前筥崎八幡宮條に、

           延喜二十一年六月二十一日,於觀世音寺西大門,若宮一御子七歲女子橘滋子()就御して(志天)託宣。(中略。)延長元年癸未歲,從大分宮遷御佛教已了,奉號筥崎宮矣。


         と有り。更に『日本紀略後篇卷十二長和四年六月二十日條に、「依疫神託宣,立神殿,奉崇重也。」と有るのが其である。靈驗衰へたりと云へども、中古の信仰方面に於ける巫女の勢力は、猶ほ後世からは信ずる事の出來ぬ程の強大さであつた。

          • 註第一〕『萬葉集卷五
          • 註第二〕平安朝の巫蠱の疑獄は、政治的であつただけに頗る複雜してゐる。一一茲に其等の事件を舉げて批判する事は出來ぬが、篤學の方方は一般の歷史に依つて夙に知つて居らるる事と思ふので多く言ふ事を避けた。
          • 註第三〕軍事と巫女との關係に就いては、第一篇に略述したので、本編には再び其には觸れぬ考えでゐたのであるが、其では折角集めた資料も無駄に成るし、且つ第一篇に盡さぬ嫌ひが有つたので、又又記載する事とした。斯かる次第故、記事の時代が前後して頗る不體裁の物と成つて了つた。稿を改めれば良いのであるが、其も思ふに任せず、其のままとした事を深くお詫びする。
          • 註第四〕軍神の血祭りと云ふ事は、良く物の本では見るが、さて我國に於いて具體的に其の祭儀を記した物は寡見に入らぬ。敢て高示を俟つ。
          • 註第五〕兜に佛像を收めて戰勝を祈つた例は『聖德太子傳暦』にも見えてゐる。兜の頂邊を「八幡座」と云ふのも、此處に神靈の宿る為に言出した物と思はれる。
          • 註第六〕鎧の袖裏、又は胴に、不動尊其他の佛像を畫き、又は刺繍した物は、『集古十種』の武具部等にも載せて有る。旗指物に神神の名を記した物は、餘りに知られてゐるので、改めて言はぬ事とした。
          • 註第七〕『西春日井郡誌』。
          • 註第八〕『壹岐鄉土史』。


      • 第四節 巫女を通じて行はれた神の淨化

         『
        元享釋書』の僧行基傳に有る一節は、元より荒唐無稽の說である事は、敢て平田篤胤翁の考證を俟つ迄も無く〕、多少の注意を拂つて讀書する者ならば、誰でも氣の付く事ではあるが、唯問題と成る點は、斯うした思想が、古くから、我が神神の間に存してゐたと云ふ事である。換言すれば、僧行基が、伊勢の皇大神宮に參詣した折に、畏くも佛舍利を給はり、渡りに舟を得た樣だとか、闇夜に燈を得た樣だとか仰せられたと有るのは、虛偽には相違無いが、此虛偽を事實であらうと信用する程の交涉が、古い神と、佛との間に在つた事だけは、注意せねば成らぬ。
         奈良朝に芽を發した本地垂跡──即ち神佛一如の思想は、必ずしも佛徒の方面ばかりで提唱した物では無く、其根底には、神神の方から步寄つた形跡の有る事は、既述した。更に、道德を超越してゐた我國の神神が、道德的に淨化された過程に、佛教の力の加つてゐた事も記載した。然るに、此傾向は、平安期から鎌倉期に掛けて、巫女を通じて行ふ事が、特に目立つて來た。此れは巫女の方から云へば墮落であるが、神神の方から見れば進化であつて、他の時代には多く見る事の出來ぬ、巫女の新しい任務の一つであつた〕。而して、此事を記したものは、相當に多く存してゐるけれども、左に二三を抄錄する。『私聚百因緣集』卷九「山王に詣てる僧担死人許す事」條に、

           中比ノ事ナルニ、無事ナル法師世ニ歎有、自京日吉社ヘ有詣百日僧、(中略。)下向過大津ト云ふ所ヲ、或ル家ノ前ニ女ノ目モ不知サクリモアヘス溶溶有泣立。此ノ僧見此ノ氣色、(中略。)「何ヲカ?」問ヘハ、悲シムト、女ノ云フ樣ハ、「(中略。)母ニテ侍ヘル人ノ、日來惱ミ侍ヘリツルガ、朝終ニ無墓成リ侍ヘル也。」(中略。)僧聞之、(中略。)我レトモ斯クモ引隱サント、(中略。)日暮レヌレバ、夜ニ隱レ遷シテ送リテ便吉キ所。(中略。)ツラツラ思フ樣、サテモ詣八十餘日事成徒止ナン事口惜シキ事()レド、為名利不為只詣テ、知ル神ノ御誓樣ヲ、(中略。)又日吉ヘ打向フテ詣ル通道サスガ胸打騒キ、空恐シク畏ルル事無限、詣リ付テ見レバ、二ノ宮ノ前ニ人ノ所モナク集レリ。只今十禪師ノ付テ巫樣樣ノ事ノ(タマ)フ節也ケリ。此僧思知リテ身ノ誤、(中略。)為歸ント程ニ、巫遙ニ見付テ彼者僧近ク寄、有リト可云フ事ノ(タマ)フ。(中略。)汝勿恐事イミシク為物哉ト、見レハ我身本非神、哀ミノ餘垂タリ跡ヲ、信ヲ發サセン為メナレハ、忌物事又假ノ方便也。(中略。)僧ノ心斜ナランヤ、哀レニ忝ナク覺ヘテ流淚ツツ出ニケリ。云云。(大日本佛教全書本。)


         此記事等も、平田翁流に解釋すれば、佛徒が佛法弘通の方便として言ひ觸らした物であつて、所謂古川柳の「神道の(ヒサシ)()りて大伽藍。」の一例と成るのであるが、斯うして神から佛へ步寄つた信仰は、此時代の特徵として數へる事が出來るのである。僧無住の書いた『沙石集』卷一に載せて有る十項の記事は、殆ど此神と佛との步寄りを傳へた物であつて、畏くも皇大神宮を始めとして、大和の三輪明神、尾州の熱田神宮、奈良の春日明神、安藝の巖島明神等が、其對象の重なる物として舉げられてゐる。而して其方法は、概して巫女が仲介者と成つてゐるのであるが、左に其一例を示すとする。同書卷一「神明慈悲貴給事」に大和三輪の常觀坊と云ふが、吉野へ詣でる途中不幸なる女子の死骸を葬り、身に不淨を負ひたれば、金峯神社へも參詣せず、

           さて恐も有れば、御殿より(ハル)かなる木下にて、念誦し法施(タテマツ)るに、折節巫神(カンナギ)つきて舞をどりけるが走出て、「あの御房は如何(イカ)に?」とて來りけり。「あら淺猿、此れ迄も參まじかりけるに、御(トガ)めにや。」と、胸內騒ぎて恐思ひける程に、近づきよりて、「何に御房此程待入たれば遲くはおはするぞ、我は物をば忌まぬぞ、慈悲こそたうとけれ。」とて、袖を引きて拜殿へ具しておはしける。(中略。)其のかみ慧心僧都の參詣せられたりけるにも、御託宣有て、法門なんど仰せられければ、目出度く有難(アリガタ)く覺えて、天台の法門不審申されけるに、明かに答給ふ。(中略。)此巫柱に立添ひて、足を寄りてほけほけと物思すがたにて、「(アマ)りに和光同塵が久しく成て忘れたるぞ。」と仰せられけるこそ中中哀に覺し。云云。(國文學名著集本。)


         斯うした思想は『
        日本靈異記』以來の傳統的の物であつて、其を集成したものが『今昔物語』であるが、其詮索は姑らく措くとするも、兔に角に神神の淨化が佛法に依つて行はれ、然も其仲介者が常に巫女であtた事は注意すべき點だと考へてゐる。

          • 註第一〕『出定笑語』や『俗神道大意』等に、平田一流の說が載せて有る。
          • 註第二〕巫女の任務に就いては、其作法が秘密とされてゐただけに、文獻にも現はれず、傳說にも殘らぬ多くの物が在つた樣である。併し、此事は今からでは、既に知る事の出來ぬ物と成つて了つた。


      • 第五節 神妻より巫娼への過程

         『
        萬葉集卷十六に、「()(カド)に、千鳥繁鳴(チトリシバナ)く、()きよ()きよ、()一夜妻(ヒトヨヅマ)(ヒト)()らゆ()3873」と云ふ短歌が載せて有る。而して此短歌は、平安期に刪定を經て、「庭鳥(ニハトリ)は、(カケ)ろうと()きぬ、()きよ()きよ、()一夜妻(ヒトヨヅマ)(ヒト)()られ()。」として、神樂歌に採用されてゐる。然るに、從來の物識りと稱せられた好事家は、此「一夜妻」を以て、後世の其の如く解釋して、直ちに性的職業婦人と同視してゐるが、此れは言ふ迄も無く、驚くべき速斷である。即ち、私は此「一夜妻」を以て、巫女──同集に散見する遊行女婦よりは時代に於いて古く、實質に於いては純なる一時的巫女──即ち一夜だけ神に仕へる家族的巫女であると考へてゐる。換言すれば、或る定められた一夜(神樂の夜。)だけ神に占められる役目(古代に在つては此役目は義務では無くして、卻つて名譽として悅ばれてゐた。)を有つてゐた女性を、斯く呼び習はした物だと信じてゐる〕。
         更に換言すれば、古代の女性は其悉くが殆んど巫女的生活を送つてゐた事は既述した。其と同時に、我國の巫女の起源が、此家族的巫女に在る事も、是れ又た既載した。而して後世の傳說ではあるが、神の使の(シルシ)である白羽の矢が家の棟に立ち、其家の女子が、人身御供に舉がると云ふ思想の最初の相が、此一夜妻であつたのである。傳說の通俗化は、我國の「生贄(イケニエ)」と、支那の「犠牲」とを混同させ〕、人身御供と云へば、邪神か惡神の為に、忽ち餌食として、取殺される樣に盲信させて了つたが、古き人身御供の內には、單なる神寵であつて一時的の神妻であり、神ノ采女(ウネメ)に過ぎ無かつた物の在る事を知らねば成らぬ。此れが一夜妻の正しい解釋であつて、然も此れを勤めたのが、私の謂ふ所の家族的巫女なのである。
         そして私の此解釋が、我が古代の實狀であつた事を裏書きする證左として想起される物は、各地の神社の祭儀に、一時女臈(一夜官女とも云ふ。)と稱する女性が參加する事と、併せて一夜妻と成り得べき──即ち神寵を受ける資格を定むる儀式の存してゐた事である。茲には、例の如く、僅に一二を舉げるに留めて置くが、攝津國西成郡歌嶋村大字野里の氏神祭には、每年、宮座二十四軒の內から〕、六名の少女を選出し、之を一夜官女と名付け、夏越桶(ゲコシオケ)と稱する飯櫃樣(既述した洛西七條のオヤセの頂く盒子(ユリ)と同じ樣な物。)の物を供の者に持たせ、夜中に參拜するのを古式とした〕。前揭の攝津國兵庫郡鳴尾村の岡神社は、俚俗「可笑(オカ)しの宮」と云ふが、同社の例祭には、祭主と成る村男が、其年に村內へ嫁した新婦の衣裳を著て、一時女臈と云ふを勤める。其折に氏子が大勢集つて手を叩きながら、「一時女臈、嗚呼可笑(アアオカ)し。」と囃し立てるので、此名が有ると云ふ〕。常陸國西茨城郡笹間町の氏神祭には、新婦が鍋を被つて參列するが、其鍋の數は、恰も近江筑摩社の鍋被り祭の如く、初婚なれば一枚、再婚なれば二枚と、結婚した數だけ被るのである〕。攝津國豐能郡中豐島村大字長興寺の氏神祭にも、其年に此村へ嫁した新婦は、鍋を頭に頂いて參列する役目を負はされてゐた〕。而して是等の記事を親切に讀まれた方ならば、私が改めて說明する迄も無く、是等の祭儀に參加した女臈や、新婦の最古の務めが、神に占められる一夜妻であつた事を既に氣付かれた事と思ふ。其と同時に、男子が花嫁の衣裝を著けて代つて勤める事が、此最古の信仰が崩れて後に工夫された新儀であつて、且つ飯櫃樣の物が後に鍋に代つた事も、併せて氣付かれたに相違無い。然らば、其神寵を受くべき女性の資格は、如何なる方法を以て決するか、今度は其に就いて說明すべき順序と成つた。
          琉球の久高嶋では、十二年目每に皈內祭(イザイホウ)と稱して、島中の處女をカミアシャゲ(神事を行ふ齋場。)に集め、其庭に、高さ二尺程、長さ二間許り、幅一尺五寸位の、小さく低い橋の樣な物を作り、處女をして其を一人一人と渡らせる儀式を行ふ。然るに、同嶋古來の信仰として、一度でも異性に許した事の有る女子は、此橋を無事に渡り得ず、必ず途中で墜落して死ぬと傳へられてゐるので、身に暗い所を有つてゐる女子は、其以前に姿を隱くして了う(此れは女子としては最上の不名譽であつて、此者は島內では結婚する資格の無い者とされてゐる。)か、又は其暗い所を押隱して出場しても、神の祟りを恐れて、僅に二尺程の橋から(然も下は平地である。)落ちて、氣死する者さへあると云ふ事である〕。而して、此皈內祭(イザイホウ)なる物が、處女であるか否か──即ち神寵を受くべき資格が有るか否かの、試驗である事は言ふ迄も無い。此試驗を無事に通過して、始めて神人(カミンチュ)(內地の家族的巫女と同じ意である。)と成る事を許されるのである。だから、此橋が滯り無く渡り得られたと云ふ事は、久高島の女性にとつては、社會的にも、信仰的にも、深い意義が含まれてゐたのである。
         內地に於いては、私の寡聞の為か、此れ程明確に女性を試驗する民俗の存する事を承知せぬが、併しながら、久高島の其と共通した物の曾て在つた事を思はせる手掛りだけは殘つてゐる。即ち各地に傳へられてゐる「裁許橋」の由來が其である。肥後の官幣大社阿蘇神宮の奧宮に詣でるには、阿蘇山(往古は此火山が神として崇拜された。)から噴出する硫黃の臭いを嗅ぎながら、左京ヶ橋と云ふ小さな橋を渡ら無ければ往けぬ樣な道順に成つてゐるが、古くからの言傳へに、邪慳の女が此橋を渡ると、神の祟りで結髮が自然と解けるとあるので、此橋が無事に渡れるか否かで、其女の心の曲直が判るとて、誰もが純真の心持と成り、敬虔の態度で橋を渡る。古歌に、「音に聞く左京ヶ橋に來て見れば、誠いはふ(硫黃)の心地こそすれ。」と有るのは、此事を詠んだ物である〕。此左京ヶ橋が裁許橋の轉訛である事は改めて言ふ迄もあるまい。遠い昔に在つては、久高島の其の如く、處女か否かを試驗した神聖なる場所であつた事が知られるのである。而して各地の裁許橋に就いては、夙に柳田國男先生が「西行橋」と題して高見を發表されてゐるが〕、是等の橋橋が、女性の試驗所であつた事は、直ちに點頭(ウナヅ)ける問題である。近江國筑摩神社の鍋被り祭は、宮廷詩人の歌枕に好んで用ゐられた為に有名と成り、江戶期の物識り連は、筑摩社の祭神が穀物神であるから、祭儀に鍋を被つたのであらう等と、例の理窟に合はねば承知せぬと云ふ態度の詮索をして得意がつてゐるが、此れは折口信夫氏の言はれた如く、鍋一枚を被る女性にして始めて神寵を受くる資格有る者とした、內地に於ける皈內祭(イザイホウ)の一種であつたと考ふべきである。
         斯うして神寵を受けた女性が、神社に常住する樣に成れば、家族的巫女から離れて、職業的巫女と成るのであつて、更に此職業的巫女を世襲した者を神ノ采女と稱したのである。然るに、神も感情に支配される事も有るし、又往往にして、氣紛れの事も為さる。其と同時に、神寵を受けてゐる巫女にあつても、神戒に背き神社の掟を破る樣な事もする。斯くて神母であつた者や、神妻であつた者が、社を離れて身の振り方を如何にしたか、──其には古信仰の衰へた事や、世相の變遷等も手傳つて、斯うした女性の落ち往く先は、殆んど言ひ合はせた樣に、倫落の淵であつたのである。巫女は斯くして、巫にして娼を兼ねる樣に成り、此處に巫娼として新しい生活の道を覓める樣に成つたのである。



      • 第六節 采女制度の崩壞と巫女の墮落

         采女制度は
        國初期から平安朝迄行はれて來たが、藤氏繁葉の放漫政策は、漸く帝室費の窮乏を來たし、其中期以降は、采女の徵募は絕えて了つた。斯くて宮中には采女の影は消えて了つたが、一部の國造や神主が、神社用として召募した所謂「神采女」なる者は、猶ほ依然として殘存してゐた。而して是等の神采女が、初めは神妻であつた事は既述したが、平安期に成ると、其名は舊時のままの神采女であるが、實際は、國司、國造、又は神主の婢妾に、成り下がつて了つたのである。此れは采女では無いが、當時、是等の支配階級に居た者が、一般の女性に對して、如何に亂暴の態度を以て莅んでゐたかを證明すべき物が、『催馬樂』の一章に殘つてゐる。

             插し櫛は、十まり七つ、有然(アリシカ)ど、武生の椽の、朝に取り、夕去り取り、
             取り(シカ)ば、插し櫛も()しや。さきんだちや。


         此歌謠は、越前武生の椽の誅求の為に、少女の插し櫛迄失いし物と說く學者も有るが、私は橘守部說に基き、國司の漁色の亡狀に苦しめる少女の叫びと信ずるのである〕。當時の國司は、民眾に對しては、殆ど生殺與奪の權を有してゐたと同時に、苛斂の限りを盡した物であつて〕、萬一にも農民に於いて納租を懈るが如き事有れば、其妻や女を拉し來つて、伐性の犠牲にする事さへ、珍らしく無かつたのである。年貢未進の為に、農民が妻や女を賣つた事は、夙くも此頃から行はれてゐたのである。
         然るに、多淫にして支配意識に燃えてゐた彼れ國司、國造等は、神威と權威(彼等は行政官であつて神主を兼ねてゐた。)とを笠に被て、濫りに艷容なる女性を召して枕席の塵を拂はせた。弊瀆の極まる所、遂に延暦十七年十月十七日に、右の如き官符の發せらるるを見るに至つた。『類聚三代格』卷一、「神主司神禰宜事」條に、

             
              太政官符

              禁出雲國造託神事多娶百姓女子為妾事

             右被右大臣(神主)宜偁,奉敕今聞承前國造兼帶神主,新任之日,即棄嫡妻,仍多娶百姓女子,號神宮采女〕,便娶為妾莫知限極。此是妄託神事遂煽淫風,神道益世豈其然乎。自今以後,不得更然。若娶妾供神事不得已者,宜令國司注名密封卜定一女不得多點,如違此制隨事科處,筑前宗像神主准此。(國史大系本。)


         是等野獸の如き國造の人身御供と成つた神采女が、やがて紅顏褪せ、寵愛衰へた曉に、身の振り方を情海の濁流に任せて、誘ふ水の(マニマ)に、巫娼と墮ちて往く事は、當時の傾向としては、極めて容易に合點されるのである。而して斯くの如き事實は、決して出雲國造や、宗像神主だけに止まらず、他にも多く在つた物と見るべく、偶偶、官符に現はれたのが、此二者であつたと見るべきである。從つて斯うした生活を餘儀無くされた巫女の墮落は、時勢の降ると共に、益益其速度を早めたのである。既記の如く、天長年間に編纂された『和名抄』に、巫女は遊女と同視されて、乞盜部に載せられる迄に輕蔑される樣に成つたが、更に乞盜とは、乞食と盜賊との一字づつを採つた熟語である事を知れば、如何に巫女の社會的地位が低下したかが察しられるのである。然れば、當時に在つては姓氏に巫部を稱する事さへ忌嫌つて、此れが改姓を朝廷に訴へる者が續出する有樣であつた。其顛末を簡單に述べれば、『新撰姓氏錄』和泉國神別條に、

             巫部連(カムナギベノムラジ),雄略天皇,御體不豫,因茲召上筑紫豐國奇巫,今真椋大連率巫仕奉,仍賜姓巫部連。


         此記事に據れば、雄略帝の不豫に際し、遠く九州から巫女を伴ひし者が、其偉功に依つて此姓を賜り、然も其は家門の名譽として、永久に誇るべき事柄であるのに、此事有つてから約三百五十年を經た巫部連の子孫は、斯かる姓を冒してゐる事は、卻つて不名譽也として、改姓の事を朝廷に訴へて允許を得た。即ち『
        續日本後紀仁明帝の條に、左の如く載せて有る。

             承和十二年秋七月巳未,右京人中務少錄正五位下巫部宿禰公成、大和國山邊郡人散位從六位下巫部宿禰諸成、和泉國大島郡正六位上巫部連繼麿、從七位下巫部連繼足、白丁巫部連吉繼等,賜姓當世宿禰。公成等者,神饒速日速命苗裔也。昔屬大長谷稚武天皇(雄略帝)公成等始祖真椋大連奏,迎筑紫之奇巫,奉救御病之膏盲,天皇寵之賜姓巫部,後世疑謂巫覡之種,故今申改之。(國史大系本。)


         先祖は(コレ)を無上の光榮とし、子孫は敢て進んで不名譽と云ふ。同じかるべき巫部の姓が斯く變遷した事は、取りも直さず、巫女其の者の變遷である。雄略朝には、巫女の威望が高く、君側に仕へて御惱の平癒を祈つた物が、代を替へ時を經るに隨つて、次第に聲價が下落して來て、巫女の關係と云はれる事は、大なる恥辱と成つて了つたのである。而して此變遷と、下落とは、巫女の徒が、全く娼婦と化し去つた為に外成らぬのである。『續日本紀天平勝寶四年五月條に、「免官奴鎌取,賜巫部宿禰。」と有るのは、官奴に為よ奴隷に賜つた物であるから、餘り名譽の姓で無かつた事が想はれる。更に『延喜式臨時祭條に、「凡御巫取庶女,堪事充之。」と有るに至つては、愈愈巫女の低下した事が知られるのである。後世に於いても、巫女は一般社會から嫌惡され、蔑視されてゐたが、此れは平安期の其とは又た事情を異にしてゐる所が有るので、第三篇に於いて改めて記述する考へである。

          • 註第一〕『催馬樂譜入文』(橘守部全集本)卷中。
          • 註第二〕『今昔物語』に、信濃の國司が谷へ落ち、其序に箪を採り、「國司は轉んだら土でも掴め。」と云ふ警句を吐いた有名な事件が載せて有る。當時の農民は、全くの搾取機關としてのみ生活を許され、國司は誅求を以て總ての職務だと心得てゐた。永祚年中に、尾張國司藤原元命が餘りに苛誅に過ぎ、農民より三十餘箇條の非政を舉げられて彈劾された事は、此れ又た有名な事件であるが、然し當時の國守にあつては、其大半迄が、悉く元命の亞流と見て差支無かつたのである。
          • 註第三〕古代に於ける百姓の意義は、後世の其の如く決して農民だけを指してゐるのでは無く、貴姓にあらざる者を廣く意味してゐたのである。改めて言ふ程の事も無いのであるが敢て附記した。


      • 第七節 女系相續制と巫女墮落の關係

         
        平安期を境界線として、巫女の墮落が殊に著しく成つたのは、勿論、幾多の原因が在つて存した事は言ふ迄も無い。想出すままを數へて見ても、(一)時勢と環境とが淫蕩靡爛であつた事、(二)彼等に對する信仰が全く衰へた事、(三)給分を失ひ、收入の減損した事が、重なる物であるが、他に併せ考うべき事は、(四)巫女は原則として女系相續制度を強ひられてゐた事も、又た大なる原因であると見るべきである。
         元來、巫女が好んで獨身生活を送つた事は、屢記の如く「神に占められた」古き信仰を墨守した為であるが、此結果として當然、二つの事象が隨伴してゐたのである。即ち第一は、獨身なるが故に(後世になると神妻とも成り得られぬ為。)實子の有るべき筈が無いので、其遺跡は、自分の兄弟の子(其は必ず姪に限られてゐた。)に讓つた女系相續制度であつて、第二は、巫女の行ふ呪術は擇まれた女性以外には相傳する事の出來ぬ物であつて、且つ此繼承者は、自分の血統に屬する者に限ると云ふ──一種血液の迷信に囚はれてゐたのである。大和の葛城山麓の、前鬼・後鬼の家は、修驗道の開祖と云はれる役小角が初めて峯入りした折に、此れを助けた所謂「鬼筋」として有名の子孫であるが、此家等でも、血筋の混濁するのを恐れて、幾十代と無く、血族結婚のみを(後世に成ると卻つて一般人から通婚を忌まれ、據ろ無く血族結婚をしたのである。)續けてゐたが、近世に成り他氏族の血液を加へてから、祖先に比して、飛行・隱形等の呪術が衰へたと云うてゐた〕。而して此心理狀態は、等しく神に仕へ、呪術を生命とした巫女に在つても、全く同一であらねば成らぬのである。血液を濁すまい、呪術を墮すまいとの志願から、古き信仰に引きずられて、女系制度を嚴守して來たのである。然るに、平安期に成つて、此制度が漸く崩壞を見る樣に成つた。『朝野群載』卷九に左の如き文書が載せて有る。

             
              丹後國司解 申請 官裁事

                請被殊蒙官裁依采女(ウネメ)從五位下丹波勝子辭讓姪同姓德子補任采女職狀

             右得勝子解狀偁。謹檢案內,去天慶七年被補當職,從事之後,未闕職掌。依其勞效,安和二年初預榮爵。永延元年,更敘內階。計其年勞,三十五個年于今遺命不幾,且暮難期。方今,以所帶職,讓與同姓姪之例,繼踵不絕。近則紀伊國采女寬子,讓於同安子。備前國采女壬生平子,讓於同貞子等是也。以往之例,不可勝計者。國加覆審,所申有實。仍言上如件。望請,官裁以件德子,被替神采女職,將令勤譜第之業。仍錄事狀謹言。

            永祚二年二月二十三日 正六位上行□□(紙魚不明,以下同)坂上□□(史籍集覧本。)


         此國司解を仔細に檢討すると〕、巫女(神采女とあるが、其實質の同じ物である事は既述した。)が、其職を姪に讓るに、他の類例を舉げて、證左とする所は、既に此制度の崩壞期に在る事を物語る物である。何となれば、若し從來の如く姪に讓る事が當然であつたとすれば、別段に他の類例等を舉げる必要が無いからである。而して世襲の職務と給分とを有する神采女迄が、斯くの如き地位に置かれたのは、一般の神社に奉仕する巫女が墮落したので〕、官憲としては出來るだけ此れを取締り、併せて女系制度を廢止する計畫が存してゐたのであらう。さなぎだに艷聞の伴易い巫女にあつて、殊に其が女系制度の為に、人道に反した獨身生活を強ひられては、耳に餘り眼を掩ふ樣な醜態が頻出したであらうから、官憲は彼等の信仰が落ち、神事の形式も漸く女子の手を離れて男子に移らうとした變革期を機會に、此不自然な制度を根絕せん為に、特に嚴重に相續を監督したのであらう。前に記した京都の桂女が古くから女系相續を固守して明治期迄傳へ〕、更に紀伊國海草郡加太町の淡嶋神社の祠官前田氏が、同じく女系のみで相續したと有るのは〕、共に特別なる事例であると言はねば成らぬ。
         併しながら、巫女の獨身生活は、極めて形式的ではあつたが、其後とても續けられてゐたのである。世が變つても、巫女は神と結婚すべき者、常人の男を良人としたのでは信仰に反く物であると云ふ潛在意識は代代相續されて來て、內緣の夫は持ちながらも、猶ほ表面だけは、獨身を裝ふ事を忘れ無かつた。畏き事ではあるが『古事談』第一に、「前齋院、齋院は、人妻と成つても、無子息。」と有るのも、蓋し此事を言うたのではあるまいか。而して單に良人を持たぬばかりで無く、稀には親子の緣迄切つて巫女に出る習はしさへ有つた。『和歌童蒙抄』卷二鹽竃條に左の如き記事が有る。

           陸奧(ミチノク)千賀(チカ)鹽竃(シホガマ)(チカ)ナガラ、(カラ)キハ(キミ)()ハヌ(ナリ)ケリ
           昔陸奧守(ミチノクノカミ)鹽竃(シホガマ)ノ明神ニ(チカ)ヒ申事有(コトア)リテ、獨女(ヒトリムスメ)()(マヰ)リテ、()ノ神ノ寶殿ノ(ウチ)押入(オシイ)レテ(カヘ))リケリ、此女(コノムスメ)()(カナ)シビテ、神殿ヨリ差出(サシイデ)タリ、(チチ)(コレ)()ケルニ、心(マド)ヒニケリ、(ソレ)ヨリ()ノ神ノ命婦(中山曰、巫女の意。)ハ、宮司(ミヤヅカサ)(カザ)(カキ)リハ、親子互(オヤコタガ)ヒニ()ユマジト(チカ)ヘリ、年每一度(ニヒトタビ)祭日(マツリノヒ)ナラヌ(カギ)リハ、(ヒト)合見(アヒミ)エズ、件ノ(ムスメ)ノ子孫(イマ)(ツギ)テ、()ノ命婦タリ。(中山曰、傍訓の漢字は私に加へた物。)


         如何にも簡古の記述ではあるが、此れに依つて、巫女は親子の俗緣を斷つて神に仕へ、併も神に占められて子孫を舉げる事を如實に傳へてゐる。筆路が多少脫線するが、『源平盛衰記』卷十一金剛力士兄弟事の條、静憲法印熊野參詣の次に、

           皆石皆鶴兄弟を請出て見參し、(中略。)「此兒童兄弟は如何なる人ぞ?」と尋給へば、祐金答申て云、「母にて侍し者は、夕霧(ユフギリ)(イタ)(中山曰、熊野で巫女を(イタ)と稱したとは、奧州の巫女(イタコ)と對照して關心すべき事である。)とて山上無雙の御子(ミコ)、一生不犯の女にて候し程に、不知者夜夜通事有て、儲けたる子供とぞ申侍し、其御子(ミコ)離山して今は行方を不知。」とぞ申す。


         と有るのは、神を夫とする信仰の殘れるを證示すると同時に、寔に畏き事ながら、古き
        百襲媛の故事迄想出され、更に「處女受胎」の古俗が偲ばれるのである。
         斯うした生活は、近世迄續けられてゐて、琉球では巫女(ノロ)は原則として亭主を持つ事が出來ず、內地にても內緣關係以上に進む事は憚つてゐた。『新編常陸國志』卷十二に、大略次の如く有る。

           近き世迄も神主を宮市子と云ひて、女子の勤めしがままありしなり。夫は有れど奴僕の如し。然るに近頃に至り、夫たる者吉田家の假官等授かりて、自ら主人の如く成れり。當地邊にも此類まま有る也。當國の內さるべき神社には、大市・小市又は市子と呼ばれて、祭事に預る婦女有り。又神主をも、市とも市子とも云ふ村村有り。此れは女の名いつと無く男子の方に移れるなるべし。云云。


         更に柳田國男先生の記す所に據れば、

           近頃、越前のテテと稱する、或神官の家の系圖を見たが、十數代の間婦女から婦女に相續の朱線を引き、夫の名は女の右に傍註して有つた。處女の間ばかり神職を勤めた物ならば、直系で續く筈が無いから、此れは疑ひも無く不處女に成つても神子をして居たのである。云云


         巫女の性生活も又た幾多の變遷を經て、以て墮落期に到達したのであるが、此問題こそ巫女自身にとつても、更に巫女史にとつても、一番複雜してゐて、然も一番困難な問題なのである。
         巫女が娼婦と化した事象に就いては、猶ほ熊野比丘尼及び此後身なる賣り比丘尼の事を記さねば成らぬが、其を言ふ以前に一言して置くべき事が有る。其は外でも無く、古代から平安朝の末頃迄は、遊女と云ふ者の社會的地位は、必ずしも後世の如く低劣では無かつたと云ふ一事である。勿論、何時の時代でも高下の有る事は言ふ迄も無いが、平安朝迄は高級の遊女は畏くも宮中にも召され、又た仙洞にも聘せられ、更に金枝玉葉の身近く招かれた例さへ、史上に少からず存してゐるのである。而して斯く遊女が社會から卑められ無かつた理由は、此處に詳細を盡す事は埒外に出るので、省筆するのが當然と考へるので〕、此れ以上は何事も言はぬとするが、此理由は、或る程度迄は、巫女から出た巫娼の上にも適用される事であつて、後代の成心を以て當代を推すには、其處に相當の手心を要する事が必要なのである。

          • 註第一享保頃に書かれた『諸州採藥記』に據る。猶『大阪每日新聞』(大正四年七月廿四日。)に據ると、大和國吉野郡天川村大字洞川が後鬼の居た所で、同郡下北山村大字前鬼が前鬼の住んだ所で、極端なる血族結婚の事情が載せて有る。又『紀伊續風土記』卷三十三には、前鬼より分れたる子孫が、同國那賀郡粉河町大字中津川に居住し、同じく家族相婚した事が記して有る。
          • 註第二〕此れと同じ國司解が『類聚三代格』にも載せて有る。更に物忌(巫女と同じ。)の補任に就いては『類聚符宣抄』卷一「太政官符神祇官」條に左の如き物が有る。

                應補坐河內國平岡神社物忌大中臣時于事

               右得官去正月十三日解稱。彼社物忌大中臣吉子,長體之替撰定件時子,言上如件,望請官裁。彼補物忌,將會勤職掌者。中納言從三位兼行左衛門督源朝臣高明宣,依請者,官宣承知依宣行之,符到奉行。

              防鴨河使位   右大史位

              天暦六年五月十一日

             初めは本文に採錄する考へでゐたが、餘りに同じ樣な物と思うたので略し、此處に參考迄に附載した。
          • 註第三〕巫女の墮落には、制度とか環境とか云ふ以外に、巫女の內的衝動から來る物が多い事も注意せねば成らぬ。前に舉げた平田篤胤翁が『古今妖魅考』三卷に集めた比丘尼の性的苦惱の事情は、當然、巫女の身上で有らねば成らぬ。茲には詳細を盡す事が出來ぬが、特に此種の問題に興味を有さるる御方は、同書に就いて知られたい。
          • 註第四〕桂女が時勢の推移に頓著せず、古きままの女系相續を墨守した為に、思はぬ悲劇迄惹起した事が有る。詳細は前揭の柳田國男先生の『桂女由來記』に載せて有る。
          • 註第五〕『和歌山縣海草郡誌』。
          • 註第六〕『鄉土研究』第一卷第十號。
          • 註第七〕是等の事情に就いては、拙著『賣笑三千年史』に詳記して置いた。參照が願はれると仕合せである。



  • [久遠の絆] [再臨ノ詔]