日本巫女史 第二篇:習和呪法時代
第三章、巫女の信仰的生活と性的生活
第一節 巫女を中心として見たる神神の起伏
『琉球國舊記』を讀むと、同國の神神は正しい名の外に、必ず「
諱
(
イベ
)
名」と云ふのを、一つか二つ程有つてゐる。
チャンバレン
(
Basil H. Chamberlain
)
氏は、此
諱
(
イベ
)
名は內地の
諱
(
イミナ
)
と交涉があらうと言はれてゐるが
〔
一
〕
、私には其詮索よりは、琉球の神神は何故に斯く一神にして多くの名を有してゐるかの考證に、興味が惹かれるのである。而して更に近刊の『對馬嶋誌』を見ると、神社篇に引用して有る『八幡傳記』
(
鎌倉期
の
文治年中
の記錄と傳へられてゐるが、私の信ずる所では、もう少し新しい者と思はれる。)
所藏の神名を讀んで、其大半迄が全く何の意味やら見當すら付かぬのに、我れながら驚き入つて
了
(
シマ
)
つた。勿論、此れは私の無學に原因してゐる事ではあるが、併し私とても、多少は神神の研究を試みた者、自分だけには相應の豫備知識を有してゐると信ずるのに、見當さへ付かぬのであるから、今更の樣に己の無學と寡聞とが恨めしくも成つた。此處に二三の例を舉げると、「よらのぐんつ」とか、「さごのもしこ」とか、「したるのつと」とか云ふ類の物で、恐らく私ばかりで無く、誰でも一寸手の下しやうが無い難問だと考へる。然るに、是等の分らぬ神名の內で、殊に私が關心したのは「つなのろかんよる」と云ふ神名であつた。此れは私の乏しき琉球語の知識から見ても、直ちに
綱
(
ツナ
)
と稱する
巫女
(
ノロ
)
に
神
(
カン
)
が
憑
(
ヨ
)
るので、斯く神名を負ふに至つたのであると判明した。斯く琉球で行はれてゐる言葉が有る以上は、此方面から手掛りを得る事が出來ようと思ひ、其方法を講じて見たが、此れも結局は徒勞に終つて了つた
〔
二
〕
。其處で、私の考へたのは、此對馬の神名も、琉球の神の
有
(
モ
)
てる
諱
(
イベ
)
名と同じ性質の物では無いかと思ひ付いたので、專ら其方針で
諱
(
イベ
)
名の發生に關して詮索を續け、漸く大體の見當だけを突き留める事が出來た。其が本節の中心であつて、我が古代の神神の發達と巫女との關係を知るに至つた次第なのである。
琉球の
巫女
(
ノロ
)
の制度は、我が內地の古代の其と少しも變る處が無く、
巫女
(
ノロ
)
の最高位に在る
聞得大君
(
キコエオホキミ
)
は、國王の姊妹を以て任命するのを原則とし、大昔に在つては王后の上位に在つて、國內に於ける女性の最高者としての待遇を受け、其下に「
大あむしられ
(
ウフ阿母志良礼
)
」と稱する取締の樣な機能を有する巫女が若干有つて大君を補佐し、更に此の「
大
(
ウフ
)
あむしられ」の下に、各村各村の
巫女
(
ノロ
)
が、適當に配置されて隷屬してゐた。そして此
巫女
(
ノロ
)
(內地の神和系の神子と同じ樣な者で、一定の給分を受けてゐた。)
の外に、ユタ
(內地の口寄系の市子に似た者で、給分は無くして、一回の神事に對して、一回の報酬を受けてゐた。)
なる者が存してゐたのである
〔
三
〕
。然るに、是等の
巫女
(
ノロ
)
が、國家又は鄉邑に有事の場合に、其事件の大小難易に依つて、或は高級の巫女、又は下級の巫女が、神意を承けて託宣をする時、或は自發的に、又は審神の問ふがままに、此託宣は何何の神の聖慮であるとて、頻りに神名を唱へるのを常とする。此れは神名に依つて事件を決しやうとするのであるから、神名を唱へる事が託宣を聽く者の信用を保つ點から必要である為に、斯うした結果を見るに至つたのであつて、巫女中心の原始的宗教に於いては、當然、將來すべき傾向に過ぎ無いのである。
然るに、茲に困難なる問題の伴ふのは、神託を承くる時の
巫女
(
ノロ
)
の身體上の工合や、
巫女
(
ノロ
)
に
憑
(
カ
)
かる神の性質──即ち其神が荒ぶる神か、
和
(
ナゴ
)
める神かの相違に依つて、同一の神の
憑代
(
ヨリシロ
)
と成つてゐながら、
巫女
(
ノロ
)
の唱へる神名なる物が、或は前の場合と後の場合と矛盾し、或は始めの折と終りの時とは全く別箇の物が出ると云ふ事である。而して斯かる場合には、先に稱してゐた神名を正しき物とし、後に唱へた變つた物を
諱
(
イベ
)
名と云うたので、斯く琉球の神神は多くの
諱
(
イベ
)
名を有する樣に成つたのである。換言すれば、琉球の
巫女
(
ノロ
)
は、託宣に際し、往往にして神名を創作するのである。同じ
御嶽
(
ウタキ
)
に鎮坐す神を
招降
(
オギオロ
)
しながら、場合に依つては、一般に信じられてゐる神名を言はずして、意の動くままに、飛んでも無い新しい神名を言出すが、其際は新しいのを
諱
(
イベ
)
名として傳へてゐたのであつて、此れで
諱
(
イベ
)
名の正體が朧げながらも知る事が出來たのである。對馬の神名の不可解なのは蓋し此創作された
諱
(
イベ
)
名を傳へた物では無いかと考へる。
然るに、猶ほ此處]に併せ考へて見無ければ成らぬ問題は、琉球に於ける神神の高下と云ふ事と
巫女
(
ノロ
)
との關係である。他の語を以て言へば、神に大小が有り、高下が有り、更に靈驗の著しい神が有り、
之
(
コレ
)
に反して靈驗の餘り聞えぬ神も有るが、斯うした神神の相違に就いて、
巫女
(
ノロ
)
が如何なる交涉を有してゐたかと云ふ事である。併しながら、問題は割合に簡單に說明の出來ぬ事であつて、好んで
巫女
(
ノロ
)
に
憑
(
カカ
)
る神が早く名を知られ、憑つた神の託宣が有效であれば、其神の位置が向上し、斯くて幾度か同じ事が繰返へされる內に、何何の神の託宣は常に靈驗が有ると成れば、其神は他神を壓して名神大社に昇り、壓せられた神は叢祠藪神に降り、神神の世界にも淘汰の理法が行はれてゐたと解して差支無い樣である。
其では、斯うした問題は、獨り南方の嶋嶋に限り存した事で、內地の古代には之に類似し、又は共通した信仰は無かつたかと云ふに、此事たるや、特に筆端を慎しまぬと、意外の誤解を受ける虞れが有るので、流石に無遠慮に物を書くのに馴れてゐる私でも、餘り突つ込んだ事は差控へ無ければ成らぬが、許された範圍內で說を試みると、此れと共通した信仰が、我が古代に顯然と存してゐた事だけは認めねばなるまいと思ふ。前に引用した『
日本書紀
』に、神后が親しく神主と成らせ給ひ、烏賊津臣を
審神者
(
サニワ
)
として神意を承けさせられた折に、審神が、誰神か其名を知らんと問ひしに、第一に撞賢木嚴之御魂天疎向津姬命と答へ、第二に天事代虛事代玉籤入彥嚴之事代神と答へ、第三に表筒男・中筒男・底筒男神に答へられてゐる。
(詳細前揭の書紀の本文參照。)
勿論、此れは琉球の其とは異り、同じ神を他の名で稱へてゐる物では無いが、其にしても、
神憑
(
カムガカ
)
りと云ふ事は、必ずしも一神が憑る物では無くして、二神又は三神が一時に憑り、審神の問ふに連れて、其神神の名を稱へる物であると云ふ事だけは、拜察されるのである。
然るに、私の寡聞なる、此れに類した文獻の他に有る事を知らぬので、此れ以上の事は何も言はれぬのであるが、琉球の例を以て古代を推す時は、教養の無い巫女の間に在つては、或は一神を他の名で稱へたり、或は同じ神を降ろしながら、前時と後時と名を異にする樣な事が、往往にして在つたのでは無いかと想像されるのである。『
神名帳
』に有る出雲の神魂伊能知奴志とか、『
地祇本紀
』に有る久久紀若室葛根神とか云ふのは、或は巫女に依つて創作された神名ではあるまいか。而して此傳統を承けた物か、後世の巫女は隆んに神名を創作した樣だが、誰でも知つてゐる八幡社の出現も、欽明朝に巫女
(職業的の者では無いが。)
に憑りて、「我は譽田の
八幡丸
(
ヤハタマロ
)
也。」と神託されたので八幡神の名が起り
〔
四
〕
、菅公も村上朝に巫女
(同上。)
に憑りて、天滿大自在天神と託宣されたので、天滿神の稱が起つた等は
〔
五
〕
、其顯著なる例證として舉げる事が出來るのである。
更に巫女に依つて神格を向上した神としては、先づ八幡神を其徵證とする事が、好適でもあり、且つ安全だと考へる。前にも言うた如く、八幡社は我國第一の託宣好きの神で、此れを集めた『宇佐託宣集』だけでも、十八卷の多きに達してゐる。從つて國家に有事の際には、殆んど懈怠無く託宣をされるが、殊に著聞せるは、『
續日本紀
』天平勝寶元年
十一月
(
辛卯朔
)
條に、
巳酉,八幡神託宣向京。
甲寅,遣參議從四位上石川朝臣年足,侍從從五位下藤原朝臣魚名等,以為迎神使。路次諸國,差發兵士一百人以上,前後驅除。又所歷之國,禁斷殺生。
(中略。)
十二月戊寅,
(中略。)
迎八幡神於平群郡。是日入京,即於宮南梨原宮造新殿以為神宮。請僧四十口,悔過七日。
丁亥,大神禰宜尼大神朝臣
杜女
【其輿紫色,一同乘輿。】
拜東大寺。
天皇
(
孝謙帝
)
、太上天皇、太后,同亦行幸。是日,百官及諸氏人等,咸會於寺。
(中略。)
奉大神一品,比咩神二品。
(中略。)
左大臣橘宿禰諸兄,奉詔白神曰:「天皇
が
(
我
)
御命
に
(
爾
)
坐申賜
と
(
止
)
申
く
(
久
)
。去辰年,河內國大縣郡
の
(
乃
)
智識寺
に
(
爾
)
坐盧舍那佛
を
(
遠
)
禮奉
て
(
天
)
,則朕
も
(
毛
)
欲奉造
と
(
止
)
思
ども
(
登毛
)
得不為之間
に
(
爾
)
,豐前國宇佐郡爾坐廣幡
の
(
乃
)
八幡大神
に
(
仁
)
申賜
へと
(
閉止
)
敕
く
(
久
)
。神我天神地祇
を
(
乎
)
率
誘ひて
(
伊左奈比天
)
,必成奉无事立不有,銅湯
を
(
乎
)
水
と
(
止
)
成,我身
を
(
遠
)
草木土
に
(
爾
)
交
て
(
天
)
,障事無
く
(
久
)
奈佐
むと
(
牟止
)
敕賜
ながら
(
奈我良
)
成
ぬれば
(
奴禮波
)
,歡
み
(
美
)
貴
みなも
(
美奈毛
)
念食
す
(
須
)
。然猶止事不得為
て
(
天
)
,恐
けれども
(
家禮登毛
)
御劍獻事
を
(
乎
)
,恐
み
(
美
)
恐
みも
(
美毛
)
申賜
くと
(
久止
)
申。」尼杜女,授從四位下。主神大神朝臣田麻呂,外從五位下。施東大寺封四千戶,奴百人、婢百人。
云云。(國史大系本。)
の一條である。當時、孝謙女帝は、父聖武帝の宿願を繼いで、盧舍那佛
(即ち奈良の大佛。)
を鑄造せられんとしたが、鑄造術の幼稚なる、幾度か鑄損じたのを、此れは佛像を鑄る事を、我國の神神が悅ばぬ為だと云ふ風說が有つたので、殊の外に叡慮を惱まさせられた折に、真に突如として九州の一角に在る八幡社が託宣して、必ず成就せしめんとの事であつたので、斯くは帝都に八幡神を迎へたのであるが、其盛儀の實に意外であつた事は、『續紀』の記事に盡して有る。更に『詞林采葉』卷一に據れば、
聖武天皇、
(中略。)
正八幡大菩薩を
此寺
(
東大寺
)
の
鎮守
(
手向山八幡宮
)
と崇奉らんとて、敕使を鎮西宇佐宮へ奉らせ給ひければ、乘物無き由敕答有るに依て、帝乘給ふ神輿を奉らせ給ひしかば、やがて乘現せ給ふ、南都へ入せ給ふ、自其以來、代代の御門の祖神一朝ノ宗廟四維八紘を擁護し給ふ者也。
とは、誠に以て託宣の力が如何に偉大であつたか、千載の後からでも恐察されるのである。殊に、巫女である
社女
が、禁色の輿に乘り、主神田麻呂の外從五位下に對して、從四位下に敘せらるる等、巫女の勢力の如何に甚大であつたかが推測されるのである。從つて、斯く皇室の御信仰を深く受けてゐたればこそ、
神護景雲三年七月
、
僧道鏡
の事件の起るに及んで、
和氣清麻呂
を宇佐八幡に遣して、神託を仰奉らしめたのである
〔
六
〕
。然るに、此八幡神が清和朝に僧行教に依つて、石清水に分靈鎮座されてより、一段と神威を加へ、更に清和源氏の棟梁達の信仰を博してから、式神として朝野の崇敬を受け、九州の一地方神であつたのが、天下の高位神として、全國に祭られる樣に成つたのである。
〔
註第一
〕此事に關しては、柳田國男先生が、先年、折口信夫氏の宅で、琉球見聞談を二回程試みられた際に、詳しく承つてゐたのである。
〔
註第二
〕琉球出身の伊波普猷氏に、此事の教示を仰いだが、『八幡傳記』の神神の名には、琉球語は多く發見されぬとの事であった。
〔
註第三
〕同上伊波普猷氏の『沖繩女性史』に同國の巫女の事が詳記して有り、且つ巫女の體系や關係が圖に成つて示して有る。篤學のお方の參照を望む。
〔
註第四
〕『八幡愚童訓』及び其他の書にも見えてゐる。因みに言ふが、八幡はヤハタと讀むのが古訓であつて、然も其
八幡
(
ヤハタ
)
なる語は地形から來てゐる物である事は、既に小山田與清翁も『松屋叢話』及び『松屋筆記』に述べてゐる。而して之をハチマンと讀んだのも新しい事では無いが、此讀み方は僧侶が佛教に附會せんが為に、古意にする所があつたのである。
〔
註第五
〕『北野緣起』及び『北野天神繪卷』の詞書にも見えてゐたと記憶してゐる。
〔
註第六
〕託宣好きであつた八幡神は、或意味から云へば、餘りに饒舌に過ぎて、思はぬ失敗を招かれた事すら有る。『
續日本紀
』天平勝寶七年三月の條に、「八幡大神託宣曰:『神吾不願矯託神命請取,封一千四百戶田、一百四十町,徒无所用,如捨山野。宜奉返朝廷,唯留常神田耳。』依神宣行之。」と有るのは、其一例である。更に習宜阿蘇麻呂が、八幡神の託宣を矯めて、
僧道鏡
に媚びた
顛末
、及び當時の大政治家であつた
藤原百川
が、如何に此八幡神の神威を有效に利用して、僧道鏡を退けたかに就いては、故田口卯吉翁の『史海』に載せた藤原百川傳に盡してゐる。八幡神に就いては、猶ほ記したい事が澤山有るが、深入りして誤解を受ける事も如何と考へたので割愛する。
第二節 御子神信仰の由來と巫女の位置
『
記
』・『
紀
』・『
風土記
』及び
延喜
の『
神名帳
』に現れた
御子神
(
ミコカミ
)
を、悉く巫女關係の神と云ふ事は許されぬ迄も、此內の幾神かは、巫女其の者を神と祀り、又は巫女と神との間に生れた
御子
(
ミコ
)
を神に祀つた物である事は認めねば成らぬ。私は此見地に立つて、先づ『神名帳』から是等の神神を檢出し、然る後に、
巫女神
(
ミコカミ
)
、及び御子神の由來と、巫女の地位に就いて、多少の考察を試みるとする。
第一、巫女を神に祀りしと思考する神社
所在地
神社名
山城國愛宕郡
天津石門別稚姬神社
大和國葛上郡
櫛玉比女神社
伊勢國多氣郡
天海田水代大刀自神社
尾張國愛智郡
火上姊子神社
伊豆國賀茂郡
佐伎多麻比咩命神社
伊豆國賀茂郡
優波夷命神社
美濃國賀茂郡
坂祝神社
信濃國更級郡
冰銫斗賣神社
同國埴科郡
玉依比賣命神社
越前國敦賀郡
天比女若御子神社
出雲國出雲郡
神魂意保刀自神社
紀伊國名草郡
都麻都比賣神社
伊豫國風早郡
櫛玉比賣命神社
讚岐國大內郡
水主神社
(備考、式外の古社にあつて巫女を祭つたと考ふべき神社も相當數多く見えてゐるが茲には省略した。)
是等の神神に就き、一一其出自の由來と、神名の解釋とを加へぬと、或は私の獨り合點に陷つて、讀者に納得されぬ點も多多有る事と思ふが、併し其を試みると成ると、非常なる紙幅を要するので、今は省略に從い
〔
一
〕
、更に御子神を祭つた者を同じ『神名帳』から摘錄して、是等の神神に對する私見を述べるとする。
第二、御子神を祀りしと思考する神社
所在地
神社名
山城國愛宕郡
片山御子神社
大和國宇陀郡
神御子美牟須比命神社
河內國高安郡
春日戶社坐御子神社
遠江國磐田郡
須波若御子神社
同上
御子神社二座
常陸國新治郡
鴨大神御子神主神社
陸奧國牡鹿郡
香取伊豆乃御子神社
同上
鹿島御兒神社
同國行方郡
鹿島御子神社
同國栗原郡
香取御兒神社
加賀國能美郡
氣多御子神社
對馬國上縣郡
和多都美御子神社
同上
胡祿御子神社
同下縣郡
島大國魂御子神社
(備考、此れも前記と同樣であるが今は態と省略に從ふ事とした。)
我國に於ける「
御子神
(
ミコガミ
)
」信仰は、決して新しい物では無い。『
常陸風土記
』
行方郡條
に、日本武尊が躬ら鴨を射られた鴨野里に、夙に香取神子神社の在つたと云ふ記事から推すも、此信仰が古代から民族の間に行はれてゐた事が知られる
〔
二
〕
。而して御子神とは、其神名が示してゐる如く「神神の神子」と云ふ事であつて、古く巫女の事をミコと云うたのも、又此意味に外成らぬのである。
併しながら、既に信仰の對象として祭られてゐる幽界の神神が、顯界に在る人間と同じ樣に生殖を營み、御子神を幾柱と無く儲けると云ふ事は、後世の神祇觀から言へば、誠に腑に落ちぬ理窟であるが、此れは神と云ふ物の內容が、時代に依つて變遷する事を會得すれば、忽ちに釋然する問題なのである。白河法皇の『梁塵秘抄』に、「神も昔は人ぞかし。」と有る如く、原始神道の立場から云へば、神主は直ちに祭神其の者であつた。古代に在つては、名神大社は云ふ迄も無く、更に叢祠藪神の末迄も、苟くも神主の有る以上は、其神主は「
現神
(
アキツカミ
)
」としての待遇を受けてゐたのである。
現今でこそ、神主と云へば、神と人との間に介在して、神意を人に傳へ、又は人の請を神に告ぐる職掌の樣に解されてゐるが、神主は即ち
神主
(
カンザネ
)
であつて、大昔は此職掌は專ら巫女が當つた物で、神主は活ける神として、是等巫女の上に臨み、殆んど絕對の神權を有してゐたのである。既述した諏訪神社の大祝や、出雲の兩國造や、大三島神社の神主等が、
明治期
に成る迄、特殊の地位を占めてゐたのは、此古俗を遺した物なのである。而して此現神である神主と、其神主に奉仕した巫女との間に生れた子が即ち御子神なのである。
後世に成ると、此御子神を「若宮」と稱する樣に成つたが、其でも若宮の名が『
延喜式
』
臨時祭條
に見えてゐる故、此稱も相應に古い事が知られる。然るに中古に成ると、此信仰が泯びて了つたので、若宮を有してゐる神社では、此れを常識化し、合理化するに種種なる苦心を重ねて、其破綻を防がんと試みてゐる。春日神社の若宮は最も著名な神であるが、此れが出現に就いては、『大和志料』卷上に、舊神主千鳥家所藏の古記錄を引用して、
長保五年三月三日巳時、從第四殿板敷、
心太
(
ココロブト
)
樣物三升許落つ、暫の程有りて從件物中に、五寸許なる
□□
(
缺字
)
地出、從乾柱下登入同殿內畢、
(中略。)
即時神宮預是忠奉見記也。
と有るのを典據として
〔
三
〕
、此れが若宮の出現であると言つてゐる等は、詭辯此上無しで寧ろ滑稽に感ずる程である。石清水八幡宮でも、攝社に水若宮
(本宮の東方、若宮殿の南に在る。)
と云ふのが有るのを、無理に史實に合ふ樣に解釋せんとて、此れの祭神を菟道稚郎子としてゐるが
〔
四
〕
、水若宮とは、常識的に云へば、流產した水子の事であるから、此れでは卻つて史實に遠ざかる事に成るのである。我國の御子神──及び若宮の出現は、
然
(
サ
)
る迴り
諄
(
クドイ
)
解釋をせずとも、古き信仰さへ知れば、容易に合點される問題であると同時に、又斯くの如く解釋するのが最も妥當であつて、さうで無ければ、東北地方に散在する鹿島神三十餘苗裔の御子神の由來や、熊野神の九十九王子の信仰等も、遂に不明と成つて了うのである。
而して是等の巫女──即ち御子神を儲けた女性は、神母
(或は人母、聖母とも云ふ。)
と稱して特に崇敬を受け、往往神として祭られた物であつて、前に載せた
巫女神
(
ミコガミ
)
の中の幾柱かは、蓋し其に相當してゐるのである。更に紀州海草郡宮村の官幣大社日前國縣神社には、古くから人母と稱する上﨟が、二人づつ神官として仕へてゐた
〔
五
〕
。土佐國長岡郡長岡村
大字
陣山
小字
神母の神母神社では、今でも
性神
(
セックス・ゴッド
)
として知られてゐるが
〔
六
〕
、此れも神に仕へた巫女を祭つた物であらう。筑前福岡市西町の島飼八幡宮では中央に八幡大神を、左方に寶滿大神、右方に聖母大神を祭つてゐる
〔
七
〕
。九州には聖母大神、又は聖母屋敷と稱する物が各地に存してゐるが、是等は古く神母としての巫女に由緣の有つた神神であり、土地であつたに違ひ無い。遠江國磐田郡佐久間村
大字
半場
小字
神妻に鄉社神妻神社と云ふのが有る。社記に據ると、昔一人の巫女が神を生んだが、其神が神妻社の祭神と成つたので、神の母也とて同社の傍に墳墓がある
〔
八
〕
。肥後國鹿本郡吉松村
大字
船島の菅牟田神は、元は阿蘇大神の妾であつたが、正妻の嫉妬の為に、神と成つても阿蘇山の見えぬ處に宮造りをするさうだが
〔
九
〕
、此れも神母の其と見て差支無い樣である。前に巫女神の一例として舉げた、紀州海草郡東山東村
大字
平尾の都麻都比賣命神社は、土人の傳へには、此神は同郡の古社である、伊太祁曾神社の妻女であるので、一切の神事は、伊太祁曾社の社人が勤める事に成つてゐると云ふが
〔
十
〕
、恐らく此れも巫女が神妻と成つた物と考ふべきである。
更に柳田國男先生の研究に據ると、
民間傳承
(
フォークロア
)
として最も豐產なる
人聞
(
ジンモン
)
菩薩は、此人母又は神母と關係有るかも知れぬと云ふ事である
〔
十一
〕
。『
三代實錄
』
元慶四年三月二十二日
に正六位上を授けられた筑前國の託神・咩神の如きも、其神名から推すも巫女神であつて、然も神母では無かつたかと思はれるのである。前引の『
萬葉集
』
卷二
に、「
玉葛
(
タマカヅラ
)
、
實成
(
ミナ
)
らぬ
木
(
キ
)
には、
千早振
(
チハヤブ
)
る、
神
(
カミ
)
そ
憑
(
ツ
)
くと
云
(
イ
)
ふ、
成
(
ナ
)
らぬ
木如
(
キゴト
)
に。
(
0101
)
」と有るのは、神に占められ易き女性の身の上を詠じた物であるが、然も其由つて來たる所は、神主と巫女との關係が、其基調と成つてゐたのである。
〔
註第一
〕神祇の研究に關する文獻は、餘りに多く存してゐて、其書目を舉げるだけでも容易で無いが、其中重なるは林道春の『本朝神社考』、白井宗因の『神社啟蒙』、鈴鹿連胤の『神社要錄』、伴信友の『神名帳考證』、栗田寬の『神祇志料』と、外に柳田國男先生が『鄉土研究』と『民族』との各號に載せられた諸研究の論文、及び折口信夫氏著の『古代研究』の民俗學篇等をお讀み下さると、私が此處に舉げた神神の出自や機能も、良く御合點が往く事と思ふ。
〔
註第二
〕八幡宮の祭神が古く王神
(ミコガミと訓む。)
であつたのが、偶偶王神の國音が應神に通ずる所から、應神帝が祭神となられた過程に就いては、柳田國男先生の「玉依姬考」
(『鄉土研究』四ノ十二所載。)
に段段と考證されてゐる。八幡宮の祭神に關しては、國法の認むる所に依れば、極めて明白であるが、併し學問上には、昔から研究すべき餘地が存してゐて、栗田寬翁も『栗田先生雜著』卷一の「八幡神考證」に於いて、祭神は彥火火出見尊なるべしと、主張された樣に記憶してゐる。
〔
註第三
〕神主千鳥家に傳へた古記錄は『若宮御本緣又根元、同六所諸神根元、並進物日記』と云ふ長い書名だと同志料に載せて有る。
〔
註第四
〕『山城綴喜郡誌』。
〔
註第五
〕『官幣大社日前國縣神宮本紀大略』。
〔
註第六
〕『土佐史壇』第一卷第十三號。
〔
註第七
〕『筑前續風土記』卷三
(益軒全集本)
。
〔
註第八
〕『明治神社志料』卷上。
〔
註第九
〕『肥後國志』卷一〇。
〔
註第十
〕伴信友翁の『神名帳考證』。
〔
註十一
〕『民族』第二卷第二號「健兒松王」記事參照。
第三節 社會相に現はれたる巫女の勢力
奈良朝
の情熱歌人であつた
山上憶良
が、天平五年三月に記した「
沈痾自哀文
」の一節に、
我犯何罪,遭此重疾。初沈痾已來,年月稍多。
(中略。)
欲知禍之所伏,祟之所隱,龜卜之門,巫祝之室,無不徃問。
云云。
と載せて有る
〔
一
〕
。憶良は渡唐留學迄した當時の新知識であつて、今で云へば、隨分ハイカラであるべき人物であるにも拘らず、猶ほ病氣と成れば、巫祝の室に赴かざるを得無かつたのは、巫祝の勢力が社會的に重きを為してゐた事を物語る物である。更に
奈良朝
の大政治家であつた
吉備真備
が、子孫の為に『私教類聚』三十八則を殘し、其三十一に於い、「莫用詐巫」と題して、「凡偽巫覡,莫入私家。巫覡每來,詐行不絕。」と記して
(此全文は後に揭げる。)
警戒した如き、又以て巫覡が社會的に相當の地步を占めてゐた事が推測されるのである。而して私は、是等の巫覡の中、特に巫女の勢力が中古の社會相に如何に現はれてゐたかに就いて、管見を記すとする。
一 政治方面に於ける巫女の勢力
祭政一致を國是としただけに、世が降つても、其規範は史上に多く貽されてゐる。『
欽明紀
』十六年春二月條に、百濟王子惠が來朝して援兵を乞ひし時、蘇我稻目
之
(
コレ
)
に對して言ふに、
昔在天皇
大泊瀨
(
雄略帝
)
之世,汝國為高麗所逼,危甚累卵。於是天皇命神祇伯,敬受策於神祇。祝者迺託神語報曰:『屈請建邦之神,往救將亡之主,必當國家謐靖,人物乂安。』由是請神往救,所以社稷安寧。
(中略。)
頃聞,汝國輟而不祀。方今悛悔前過,修理神宮,奉祭神靈,國可昌盛。汝當莫忘。
云云。
と有るのは、良く此問の消息を盡してゐて、然も神語を託する巫祝の勢力が、政治的にも、軍事的にも、顯然として信じられてゐた事が知られるのである。
而して斯くの如き狀態は時に消長有るも、依然として政治に現はれ、前に舉げた
孝謙朝に東大寺の建立
と成つたのも、
稱德朝に僧道鏡に非望を懷かせ
、更に
之
(
コレ
)
が成否を神意に問うたのも、共に巫覡の力が政治に及ぼした影響と見る事が出來るのである。殊に
奈良朝
に成つてからは、此餘勢を承けてか、巫覡の跳梁は其極度に達し、政府も神託の濫出に苦しみ、之を禁斷する法令は
(其事は後に述べる。)
殆んど雨の如く下されたが、猶ほ其猖獗を奈何ともする事が出來無かつた。嵯峨朝の初めに、太政官符を以て、國司に神託の真偽を檢察せしめて、一面巫覡の跋扈を防ぎ、一面妖言と神託との詮議をしたのは、當時、前時代の遺弊を受けつつあるも、其剿絕の期難きを覺つた政府の彌縫策である事が知られると同時に、併せて
奈良朝
に於ける巫覡の勢力を窺ふ事が出來るので、左に此れが
官符
を抄載する。
類聚三代格
(卷一)
太政官符
(國史大系本)
。
應撿察神託事
右被大納言正三位藤原朝臣園人宜偁:奉敕,怪異之事,聖人不語。妖言之罪,法制不輕。而諸國民信狂言,申上寔繁。或言及國家,或忘陳福禍。敗法亂紀,莫甚於斯。宜仰諸國,令加撿察。自今以後,若有百姓輙稱託宣者,不論男女,隨事科決。但有神宣灼然,其驗尤著者,國司撿察定實言上。
弘仁三年九月二十六日
此れが更に
平安朝
と成ると、社會を舉げて、鬼神を恐れ、物怪を信じた神經衰弱時代だけに、巫覡の妖言に惑溺する事一段と猛烈なる物が有つた。
藤原兼家
が攝關の高位に居ながら、賀茂の若宮の良く憑る「打臥しの巫女」と云ふを招ぎ、手づから裝束を奉り、冠を著せ、然も自分の膝に枕させて、物を占はせたと有るのは、『大鏡』の筆者が、「
斯樣
(
サヤウ
)
に近く召し寄さるに、言ふ
甲斐
(
カヒ
)
も無き程の物にもあらで、少し
侍女
(
オモト
)
程のきはにてありけり。」と冷笑的に記してゐる所から推すと、曰くの有りさうな信仰である事が知られるが、併し此時代で無ければ、決して見る事の出來ぬ事象である。更に『宇津保物語』藤原の君の卷に、致仕の大臣三春高基が、德町と云ふ巫女を後妻に迎へた事が載せて有るが、架空の物語物に為よ、當時、斯かる世相の有る事を著者が知つてゐて記した物と考ふべきである。
殊に注意し無ければ成らぬ點は、當代に於いて藤原氏が、幼帝を擁し奉つて政權を爭うた為、其手段として往往巫蠱の疑獄を惹起し、之を以て政敵を陷れた事である。勿論、此手段たるや、決して平安朝に突如として惡辣なる政治家の間に發明された物で無く、遠く國初時代から慣用せられて來たのであるが、
奈良朝
に於いて猖んに惡用され、平安朝は之を踏襲したに過ぎぬのであるが、深く迷信に拉はれてゐた時代だけに、其陰險さは一段の熾烈を加へたのである。
『政事要略』卷七〇に載せた藤原為文、同方理、
佐伯公行妻
(
高階光子
)
、
方理妻
(
源氏
)
及び僧圓能等が相謀り、
上東門院
、及び其父
藤原道長
を呪詛したと云ふ巫蠱罪の判決文は、當時の人心が如何に巫蠱の徒を恐れてゐたか、併せて其結果が如何に政治に現はれたかを知るに便宜が有るも、餘りに長文なので此處に摘錄する事すら出來ぬのは遺憾である
〔
二
〕
。
併しながら、斯うした事件も平安朝に在つては決して珍しい事では無かつた。
承和皇太子の廢された
のも、
源高明
が
失腳した
のも、巫蠱を利用した政治家の犠牲に成られたのである。此事は一般の歷史にも記されてゐる事であるから、餘り深く言ふ事は差控へるが、又以て巫蠱の勢力の侮る事の出來無かつた事が知られるのである。『
古今著聞集
』の卷一に、「長暦二年大中臣佐國祭主となり、罪を獲て、翌三年六月に伊豆國へ流された。然るに、同七年十月と十六日の兩回に、齋宮內侍に御託宣が有り、同十九日に敕命に依つて、佐國が召還された。」のは、託宣が政治を動かした例として最も適切なる物である。而して斯かる事は後世にも往往行はれたと見えて『康富記』文安五年九月二十九日條に、西宮左大臣高明に從一位を贈つたが、此れは備前國の某村人に神託が有つたのを、山科中將顯言が耳にし奏聞した為めだと有る。
二 軍事方面に於ける巫女の勢力
神策を受ける事が、戰勝の唯一の原因とした時代に在つては、巫女が前代に引續き、軍事方面に勢力を有する事は當然である。『
推古紀
』十年春二月條に、
來目皇子
為擊新羅將軍,授諸神部及國造、伴造等,并軍眾二萬五千人。
と有る「神部」の解釋に就いては、學者の間に多少の異說も存してゐる樣であるが、此れは飯田武鄉翁が說かれた如く、
神部とは、
(中略。)
中臣・齋部・猿女・鏡作・玉作・盾作・神服・倭文・麻績等の氏人、又其氏人に隷屬せる人共をも、廣く云ふ名なるが、今新羅を撃給はむとして、然る職掌有る人を授給へるは、如何にと云に、此れは兵士の方にはあらで、
旨
(
ムネ
)
と神祭の為也けり。然るは上古は、天皇を始奉り、大將軍を遣して叛者を伐しめ給へるも、先づ神祭を嚴にして、神に乞願ひ、吾軍の恙無くして、敵の亡びん事を祈願し給へるは、神武以來御代御代の史に數多く見えたるが如く、此れ上古の道なれば、行先處處にて忌瓮坐ゑ、神祭を為し給はん為に、諸神部をも率て行給ふ也。
(日本書紀通釋其條。)
と有るのが、良く古代の事情を盡してゐる物と考へる。記事が少し前後するが『
雄略紀
』九年三月條に、
天皇欲親伐新羅。神戒天皇曰:「無往也。」天皇由是不果行。
と有る此神も、恐らく巫祝に憑つて託宣された者であらうと推察される
〔
三
〕
。更に『扶桑略記』卷六に、
養老四年九月,有征夷事。大隅、日向兩國亂逆。公家祈禱於宇佐宮。其禰宜辛島勝代豆米,相率神軍,行征彼國,打平其敵。大神託宣曰:「合戰之間,多致殺生。宜修放生。」者。諸國放生會,始自此時矣。
(國史大系本。)
と有るのは、元より正史には見えぬ事であつて、且つ放生會の緣起を說かうとする佛徒の術策の樣に思はれるが、併し此事は『濫觴抄』
(群書類從本。)
にも載せて有るので、多少とも此れに似寄つた事が有つたのでは無いかと考へ直したので採錄するとした。而して禰宜の辛島勝代豆米は即ち刀自であるから、女性であつた事は推測に難く無い。更に『
將門記
』には、巫倡が有つて將門を占ひ、此れが意を迎へた事が記して有る。巫倡の文字から推して、尋常の巫女で無い樣にも思はれるが、兔に角に神策を問ふに必要なる巫女が、陣中にゐた事だけは明白である。
斯うした信仰は、傳統的に戰士の間に殘り、合戰に際して血祭りをするとか
〔
四
〕
、又は兜に神體を籠めるとか
〔
五
〕
、鎧の袖に佛像を縫ふぃとか
〔
六
〕
、樣樣なる工夫を凝らし、以て冥助を受けん事を祈つた物である。迥に後世の記事ではあるが、尾張國西春日井郡萩野村
大字
辻に、淺野秀長の腕塚と云ふが在る。俚傳に秀長山崎合戰の折に
譽田別尊
の神像を奉持して臨み、敵軍に包圍されて右腕を斬落されたが、死地を脫して一命を保ち、安井村に隱栖して此地に腕塚を築いたのだと云うてゐる
〔
七
〕
。而して陣中に女性が禁止される樣に成れば、巫女に代つて男覡が之を勤めるのは當然の事であつて、壹岐の神職の棟梁である吉野末秋は、豐公征韓の際に前後七年間杉浦氏に屬して從軍し、武運長久勝利の祈念を專とした。凱旋の後に食祿百石を賞賜せんとしたのを辭し、子孫永く壹岐國惣大宮司兼社家支配役たらん事を許されたと有るのは
〔
八
〕
、蓋し其一例である。猶ほ男覡を軍事探偵に用ゐた例は澤山有るが、此れは巫女史に直接關係が無いので省略した。
三 信仰方面に於ける巫女の勢力
巫女の存在價值は、信仰方面に在るのであるから、此れは改めて記す程の事も無い樣に思はれるが、其信仰も時代に依つて多少とも變遷する物故、茲には其點を略述したいと思ふ。而して巫女が尤も其威力を發揮したと信ずべき物は、『
日本後紀
』
卷十二
に載せた左記の事件である。
延暦二十三年二月丙午朔。
(中略。)
庚戌,運收大和國石上社器仗於山城國葛野郡。
(中略。)
二十四年春正月辛未朔,廢朝、
聖體
(
桓武帝
)
不豫也。
(中略。)
庚戌,
(中略。)
典闈建部千繼,被充春日祭使。聞平城松井坊有新神,託女巫,便過請問。女巫云:「今取所問,不是凡人之事。宜聞其主。不然者,不告所問。」仍述聖體不豫之狀。即託語云:「歷代御宇天皇,以慇懃之志,所送納之神寶也。今踐穢吾庭,運收不當。所以唱天下諸神,勒諱贈天帝耳。」登時入京密奏。即詔神祇官并所司等,立二幄於神宮。御飯盛銀笥,副御衣一襲,並納御轝。差典闈千繼充使。召彼女巫,令鎮御魂。女巫通宵忿怒,託語如前。遲明,乃和解。
(中略。)
返納石上神社兵仗。
云云。(國史大系本。)
石上神宮は物部氏の氏神であるだけに、
(物部が靈界に通ずる者の
部曲
(
カキベ
)
である事は既述した。)
此社の兵器を故無く他に遷したと云ふので神怒を買ひ、巫女に
憑
(
カカ
)
つて桓武帝の聖壽を咀はんとしたのであつて、此れには在朝の百官も慴伏した事と思はれる。然も、其巫女たるや、京に召されても、通宵忿怒を續けるに至つては、更に恐れざるを得無かつたのである。桓武帝は此不豫より大漸に陷り、遂に翌
大同元年三月
を以て崩御あらせられたが、當時、民間に在つては、此巫女の凡庸で無かつた事を取沙汰した物と推測される。
然るに此れとは事情を異にするが、巫女の徵驗ある事を記した物が有る。『政事要略』卷七〇に、『善家異記』を引用して、
先君,貞觀二年,出為淡路守。至于四年,忽疾病危篤。時有一老媼,自阿波國來云:「能見鬼知人死生。」時先妣,引媼侍病。媼云:「有裸鬼持椎,向府君臥處,於是丈夫一人怒。追卻此鬼,如此一日一朝五六度,此丈夫即似府君
代
(
氏カ
)
神。」於是先考如言,祈禱氏神。媼亦云:「丈夫追裸鬼,令過阿波鳴渡。」既畢,此日先考平復安和。其後六年春正月,又疾病。即亦招媼侍病。媼云:「前年所見丈夫,又於府君枕上悲泣云:『此人運命已盡,無復生理。悲哉。』
(中略。)
」其後數日,先考遂卒。
(中略。)
此事雖迂誕,自所見,聊以記之,恐後代以余為鬼之薫狐焉。
(史籍集覧本。)
と有るのが、其である。而して『政事要略』の編者である
惟宗允亮
も、此れには頗る感心したと見え、「詐巫之輩,雖其制;神驗之者,為云其徵。載此記耳。」と記してゐる。
斯うした事件は、鬼を信じ巫を好んだ平安朝には、到底此處に舉げ盡せぬ程多く存してゐるが、就中、左の事件の如きは、神託の靈驗を知る上に必要であると考へたので、最後の類例として抄出した。『大神宮諸雜事記』卷一に、
長元四年六月十七日,大神宮御祭也。仍齋內親王依例參宮。
(中略。)
而爰齋王御託宣云:「我皇大神宮之第一別宮荒祭宮也。而依大神宮敕宣
て
(
天
)
。此齋內親王
に
(
仁
)
所託宣也。故何者,寮頭相通,並妻藤原古木古曾及數從者共
に
(
仁
)
,年來狂言之詞巧
て
(
:『天
)
,我夫婦
には
(
仁和
)
,二所大神宮翔付御
なり
(
奈利
)
,男女之子供
に
(
仁
)
荒祭宮
の
(
乃
)
付通給也。』女房共
には
(
仁和
)
,今五所別宮
の
(
乃
)
付給也
と
(
止
)
號
して
(
志天
)
,巫覡之事
を
(
遠
)
護陳
て
(
天
)
,二宮化異之由
を
(
遠
)
稱
す
(
須
)
,此尤奉為神明
にも
(
仁毛
)
,奉為皇帝
にも
(
仁毛
)
,極不忠之企也。
云云。
」同年八月二十日,寮頭相通者伊豆國,妻古木古曾子者隱岐國
に
(
仁
)
配流。
云云。
鎌倉期
に成ると、流石に、武斷政治を以て天下に號令しただけに、巫女を信賴する事、前代の如き物は無かつたが、其でも決して絕無と云ふ次第では無く、
源賴朝
程の人物でも、又此れを全く閑卻する事は出來無かつたのである。前揭『吾妻鏡』卷二治承五年七月八日條に、「相模國大庭御厨庤
一古
(
イチコ
)
娘參上。」と見え、同書卷六文治二年五月一日條には、
自去比黃蝶飛行,殊遍滿鶴岡宮,是怪異也。
(中略。)
有臨時神樂,此間
大菩薩
(
八幡神
)
託巫女給曰:「有叛逆者。
(中略。)
日日夜夜,奉窺
二品
(
源賴朝
)
之運,能崇神與君,申行善政者,兩三年中,彼輩如水沫可消滅。」
云云。
と載せて有る。此れに反して、民間には、前代の餘弊を承けて、巫女を崇拜して、鬼道を聽く事を悅んだ例が、夥しき迄存してゐるが、既に大體を盡したと信ずるので他は省略に從うた。 巫女の託宣に依つて、國家が神社を剏祭した事は、前に宇佐八幡宮及び北野天滿宮の其を舉げたが、斯かる類例は猶ほ此外にも存してゐるのである。本節の結末を急ぐ為に、茲には一二だけ揭げるに留めるが、『伊呂波字類抄』筑前筥崎八幡宮條に、
延喜二十一年六月二十一日,於觀世音寺西大門,若宮一御子七歲女子橘滋子
に
(
仁
)
就御
して
(
志天
)
託宣。
(中略。)
延長元年癸未歲,從大分宮遷御佛教已了,奉號筥崎宮矣。
と有り。更に『
日本紀略
』
後篇卷十二
の
長和四年六月二十日條
に、「依疫神託宣,立神殿,奉崇重也。」と有るのが其である。靈驗衰へたりと云へども、中古の信仰方面に於ける巫女の勢力は、猶ほ後世からは信ずる事の出來ぬ程の強大さであつた。
〔
註第一
〕『
萬葉集
』
卷五
。
〔
註第二
〕平安朝の巫蠱の疑獄は、政治的であつただけに頗る複雜してゐる。一一茲に其等の事件を舉げて批判する事は出來ぬが、篤學の方方は一般の歷史に依つて夙に知つて居らるる事と思ふので多く言ふ事を避けた。
〔
註第三
〕軍事と巫女との關係に就いては、
第一篇
に略述したので、本編には再び其には觸れぬ考えでゐたのであるが、其では折角集めた資料も無駄に成るし、且つ
第一篇
に盡さぬ嫌ひが有つたので、又又記載する事とした。斯かる次第故、記事の時代が前後して頗る不體裁の物と成つて了つた。稿を改めれば良いのであるが、其も思ふに任せず、其のままとした事を深くお詫びする。
〔
註第四
〕軍神の血祭りと云ふ事は、良く物の本では見るが、さて我國に於いて具體的に其の祭儀を記した物は寡見に入らぬ。敢て高示を俟つ。
〔
註第五
〕兜に佛像を收めて戰勝を祈つた例は『
聖德太子傳暦
』にも見えてゐる。兜の頂邊を「八幡座」と云ふのも、此處に神靈の宿る為に言出した物と思はれる。
〔
註第六
〕鎧の袖裏、又は胴に、不動尊其他の佛像を畫き、又は刺繍した物は、『集古十種』の武具部等にも載せて有る。旗指物に神神の名を記した物は、餘りに知られてゐるので、改めて言はぬ事とした。
〔
註第七
〕『西春日井郡誌』。
〔
註第八
〕『壹岐鄉土史』。
第四節 巫女を通じて行はれた神の淨化
『
元享釋書
』の僧行基傳に有る一節は、元より荒唐無稽の說である事は、敢て平田篤胤翁の考證を俟つ迄も無く
〔
一
〕
、多少の注意を拂つて讀書する者ならば、誰でも氣の付く事ではあるが、唯問題と成る點は、斯うした思想が、古くから、我が神神の間に存してゐたと云ふ事である。換言すれば、僧行基が、伊勢の皇大神宮に參詣した折に、畏くも佛舍利を給はり、渡りに舟を得た樣だとか、闇夜に燈を得た樣だとか仰せられたと有るのは、虛偽には相違無いが、此虛偽を事實であらうと信用する程の交涉が、古い神と、佛との間に在つた事だけは、注意せねば成らぬ。
奈良朝
に芽を發した本地垂跡──即ち神佛一如の思想は、必ずしも佛徒の方面ばかりで提唱した物では無く、其根底には、神神の方から步寄つた形跡の有る事は、既述した。更に、道德を超越してゐた我國の神神が、道德的に淨化された過程に、佛教の力の加つてゐた事も記載した。然るに、此傾向は、
平安期
から鎌倉期に掛けて、巫女を通じて行ふ事が、特に目立つて來た。此れは巫女の方から云へば墮落であるが、神神の方から見れば進化であつて、他の時代には多く見る事の出來ぬ、巫女の新しい任務の一つであつた
〔
二
〕
。而して、此事を記したものは、相當に多く存してゐるけれども、左に二三を抄錄する。『私聚百因緣集』卷九「山王に詣てる僧担死人許す事」條に、
中比ノ事ナルニ、無事ナル法師世ニ歎有、自京日吉社ヘ有詣百日僧、
(中略。)
下向過大津ト云ふ所ヲ、或ル家ノ前ニ女ノ目モ不知サクリモアヘス溶溶有泣立。此ノ僧見此ノ氣色、
(中略。)
「何ヲカ?」問ヘハ、悲シムト、女ノ云フ樣ハ、「
(中略。)
母ニテ侍ヘル人ノ、日來惱ミ侍ヘリツルガ、朝終ニ無墓成リ侍ヘル也。」
(中略。)
僧聞之、
(中略。)
我レトモ斯クモ引隱サント、
(中略。)
日暮レヌレバ、夜ニ隱レ遷シテ送リテ便吉キ所。
(中略。)
ツラツラ思フ樣、サテモ詣八十餘日事成徒止ナン事口惜シキ事
是
(
ナ
)
レド、為名利不為只詣テ、知ル神ノ御誓樣ヲ、
(中略。)
又日吉ヘ打向フテ詣ル通道サスガ胸打騒キ、空恐シク畏ルル事無限、詣リ付テ見レバ、二ノ宮ノ前ニ人ノ所モナク集レリ。只今十禪師ノ付テ巫樣樣ノ事ノ
給
(
タマ
)
フ節也ケリ。此僧思知リテ身ノ誤、
(中略。)
為歸ント程ニ、巫遙ニ見付テ彼者僧近ク寄、有リト可云フ事ノ
給
(
タマ
)
フ。
(中略。)
汝勿恐事イミシク為物哉ト、見レハ我身本非神、哀ミノ餘垂タリ跡ヲ、信ヲ發サセン為メナレハ、忌物事又假ノ方便也。
(中略。)
僧ノ心斜ナランヤ、哀レニ忝ナク覺ヘテ流淚ツツ出ニケリ。
云云。(大日本佛教全書本。)
此記事等も、平田翁流に解釋すれば、佛徒が佛法弘通の方便として言ひ觸らした物であつて、所謂古川柳の「神道の
廂
(
ヒサシ
)
を
借
(
カ
)
りて大伽藍。」の一例と成るのであるが、斯うして神から佛へ步寄つた信仰は、此時代の特徵として數へる事が出來るのである。僧無住の書いた『沙石集』卷一に載せて有る十項の記事は、殆ど此神と佛との步寄りを傳へた物であつて、畏くも皇大神宮を始めとして、大和の三輪明神、尾州の熱田神宮、奈良の春日明神、安藝の巖島明神等が、其對象の重なる物として舉げられてゐる。而して其方法は、概して巫女が仲介者と成つてゐるのであるが、左に其一例を示すとする。同書卷一「神明慈悲貴給事」に大和三輪の常觀坊と云ふが、吉野へ詣でる途中不幸なる女子の死骸を葬り、身に不淨を負ひたれば、金峯神社へも參詣せず、
さて恐も有れば、御殿より
遙
(
ハル
)
かなる木下にて、念誦し法施
奉
(
タテマツ
)
るに、折節
巫神
(
カンナギ
)
つきて舞をどりけるが走出て、「あの御房は
如何
(
イカ
)
に?」とて來りけり。「あら淺猿、此れ迄も參まじかりけるに、御
咎
(
トガ
)
めにや。」と、胸內騒ぎて恐思ひける程に、近づきよりて、「何に御房此程待入たれば遲くはおはするぞ、我は物をば忌まぬぞ、慈悲こそたうとけれ。」とて、袖を引きて拜殿へ具しておはしける。
(中略。)
其のかみ慧心僧都の參詣せられたりけるにも、御託宣有て、法門なんど仰せられければ、目出度く
有難
(
アリガタ
)
く覺えて、天台の法門不審申されけるに、明かに答給ふ。
(中略。)
此巫柱に立添ひて、足を寄りてほけほけと物思すがたにて、「
餘
(
アマ
)
りに和光同塵が久しく成て忘れたるぞ。」と仰せられけるこそ中中哀に覺し。
云云。(國文學名著集本。)
斯うした思想は『
日本靈異記
』以來の傳統的の物であつて、其を集成したものが『今昔物語』であるが、其詮索は姑らく措くとするも、兔に角に神神の淨化が佛法に依つて行はれ、然も其仲介者が常に巫女であtた事は注意すべき點だと考へてゐる。
〔
註第一
〕『出定笑語』や『俗神道大意』等に、平田一流の說が載せて有る。
〔
註第二
〕巫女の任務に就いては、其作法が秘密とされてゐただけに、文獻にも現はれず、傳說にも殘らぬ多くの物が在つた樣である。併し、此事は今からでは、既に知る事の出來ぬ物と成つて了つた。
第五節 神妻より巫娼への過程
『
萬葉集
』
卷十六
に、「
我
(
ワ
)
が
門
(
カド
)
に、
千鳥繁鳴
(
チトリシバナ
)
く、
起
(
オ
)
きよ
起
(
オ
)
きよ、
我
(
ワ
)
が
一夜妻
(
ヒトヨヅマ
)
、
人
(
ヒト
)
に
知
(
シ
)
らゆ
勿
(
ナ
)
。
(
3873
)
」と云ふ短歌が載せて有る。而して此短歌は、
平安期
に刪定を經て、「
庭鳥
(
ニハトリ
)
は、
翔
(
カケ
)
ろうと
鳴
(
ナ
)
きぬ、
起
(
オ
)
きよ
起
(
オ
)
きよ、
我
(
ワ
)
が
一夜妻
(
ヒトヨヅマ
)
、
人
(
ヒト
)
に
知
(
シ
)
られ
莫
(
ナ
)
。」として、神樂歌に採用されてゐる。然るに、從來の物識りと稱せられた好事家は、此「一夜妻」を以て、後世の其の如く解釋して、直ちに性的職業婦人と同視してゐるが、此れは言ふ迄も無く、驚くべき速斷である。即ち、私は此「一夜妻」を以て、巫女──同集に散見する遊行女婦よりは時代に於いて古く、實質に於いては純なる一時的巫女──即ち一夜だけ神に仕へる家族的巫女であると考へてゐる。換言すれば、或る定められた一夜
(神樂の夜。)
だけ神に占められる役目
(古代に在つては此役目は義務では無くして、卻つて名譽として悅ばれてゐた。)
を有つてゐた女性を、斯く呼び習はした物だと信じてゐる
〔
一
〕
。
更に換言すれば、古代の女性は其悉くが殆んど巫女的生活を送つてゐた事は既述した。其と同時に、我國の巫女の起源が、此家族的巫女に在る事も、是れ又た既載した。而して後世の傳說ではあるが、神の使の
標
(
シルシ
)
である白羽の矢が家の棟に立ち、其家の女子が、人身御供に舉がると云ふ思想の最初の相が、此一夜妻であつたのである。傳說の通俗化は、我國の「
生贄
(
イケニエ
)
」と、支那の「犠牲」とを混同させ
〔
二
〕
、人身御供と云へば、邪神か惡神の為に、忽ち餌食として、取殺される樣に盲信させて了つたが、古き人身御供の內には、單なる神寵であつて一時的の神妻であり、神ノ
采女
(
ウネメ
)
に過ぎ無かつた物の在る事を知らねば成らぬ。此れが一夜妻の正しい解釋であつて、然も此れを勤めたのが、私の謂ふ所の家族的巫女なのである。
そして私の此解釋が、我が古代の實狀であつた事を裏書きする證左として想起される物は、各地の神社の祭儀に、一時女臈
(一夜官女とも云ふ。)
と稱する女性が參加する事と、併せて一夜妻と成り得べき──即ち神寵を受ける資格を定むる儀式の存してゐた事である。茲には、例の如く、僅に一二を舉げるに留めて置くが、攝津國西成郡歌嶋村
大字
野里の氏神祭には、每年、宮座二十四軒の內から
〔
三
〕
、六名の少女を選出し、之を一夜官女と名付け、
夏越桶
(
ゲコシオケ
)
と稱する飯櫃樣
(既述した洛西七條のオヤセの頂く
盒子
(
ユリ
)
と同じ樣な物。)
の物を供の者に持たせ、夜中に參拜するのを古式とした
〔
四
〕
。前揭の攝津國兵庫郡鳴尾村の岡神社は、俚俗「
可笑
(
オカ
)
しの宮」と云ふが、同社の例祭には、祭主と成る村男が、其年に村內へ嫁した新婦の衣裳を著て、一時女臈と云ふを勤める。其折に氏子が大勢集つて手を叩きながら、「一時女臈、
嗚呼可笑
(
アアオカ
)
し。」と囃し立てるので、此名が有ると云ふ
〔
五
〕
。常陸國西茨城郡笹間町の氏神祭には、新婦が鍋を被つて參列するが、其鍋の數は、恰も近江筑摩社の鍋被り祭の如く、初婚なれば一枚、再婚なれば二枚と、結婚した數だけ被るのである
〔
六
〕
。攝津國豐能郡中豐島村
大字
長興寺の氏神祭にも、其年に此村へ嫁した新婦は、鍋を頭に頂いて參列する役目を負はされてゐた
〔
七
〕
。而して是等の記事を親切に讀まれた方ならば、私が改めて說明する迄も無く、是等の祭儀に參加した女臈や、新婦の最古の務めが、神に占められる一夜妻であつた事を既に氣付かれた事と思ふ。其と同時に、男子が花嫁の衣裝を著けて代つて勤める事が、此最古の信仰が崩れて後に工夫された新儀であつて、且つ飯櫃樣の物が後に鍋に代つた事も、併せて氣付かれたに相違無い。然らば、其神寵を受くべき女性の資格は、如何なる方法を以て決するか、今度は其に就いて說明すべき順序と成つた。
琉球の久高嶋では、十二年目每に
皈內祭
(
イザイホウ
)
と稱して、島中の處女をカミアシャゲ
(神事を行ふ齋場。)
に集め、其庭に、高さ二尺程、長さ二間許り、幅一尺五寸位の、小さく低い橋の樣な物を作り、處女をして其を一人一人と渡らせる儀式を行ふ。然るに、同嶋古來の信仰として、一度でも異性に許した事の有る女子は、此橋を無事に渡り得ず、必ず途中で墜落して死ぬと傳へられてゐるので、身に暗い所を有つてゐる女子は、其以前に姿を隱くして了う
(此れは女子としては最上の不名譽であつて、此者は島內では結婚する資格の無い者とされてゐる。)
か、又は其暗い所を押隱して出場しても、神の祟りを恐れて、僅に二尺程の橋から
(然も下は平地である。)
落ちて、氣死する者さへあると云ふ事である
〔
八
〕
。而して、此
皈內祭
(
イザイホウ
)
なる物が、處女であるか否か──即ち神寵を受くべき資格が有るか否かの、試驗である事は言ふ迄も無い。此試驗を無事に通過して、始めて
神人
(
カミンチュ
)
(內地の家族的巫女と同じ意である。)
と成る事を許されるのである。だから、此橋が滯り無く渡り得られたと云ふ事は、久高島の女性にとつては、社會的にも、信仰的にも、深い意義が含まれてゐたのである。
內地に於いては、私の寡聞の為か、此れ程明確に女性を試驗する民俗の存する事を承知せぬが、併しながら、久高島の其と共通した物の曾て在つた事を思はせる手掛りだけは殘つてゐる。即ち各地に傳へられてゐる「裁許橋」の由來が其である。肥後の官幣大社阿蘇神宮の奧宮に詣でるには、阿蘇山
(往古は此火山が神として崇拜された。)
から噴出する硫黃の臭いを嗅ぎながら、左京ヶ橋と云ふ小さな橋を渡ら無ければ往けぬ樣な道順に成つてゐるが、古くからの言傳へに、邪慳の女が此橋を渡ると、神の祟りで結髮が自然と解けるとあるので、此橋が無事に渡れるか否かで、其女の心の曲直が判るとて、誰もが純真の心持と成り、敬虔の態度で橋を渡る。古歌に、「音に聞く左京ヶ橋に來て見れば、誠
いはふ
(
硫黃
)
の心地こそすれ。」と有るのは、此事を詠んだ物である
〔
九
〕
。此左京ヶ橋が裁許橋の轉訛である事は改めて言ふ迄もあるまい。遠い昔に在つては、久高島の其の如く、處女か否かを試驗した神聖なる場所であつた事が知られるのである。而して各地の裁許橋に就いては、夙に柳田國男先生が「西行橋」と題して高見を發表されてゐるが
〔
十
〕
、是等の橋橋が、女性の試驗所であつた事は、直ちに
點頭
(
ウナヅ
)
ける問題である。近江國筑摩神社の鍋被り祭は、宮廷詩人の歌枕に好んで用ゐられた為に有名と成り、
江戶期
の物識り連は、筑摩社の祭神が穀物神であるから、祭儀に鍋を被つたのであらう等と、例の理窟に合はねば承知せぬと云ふ態度の詮索をして得意がつてゐるが、此れは折口信夫氏の言はれた如く、鍋一枚を被る女性にして始めて神寵を受くる資格有る者とした、內地に於ける
皈內祭
(
イザイホウ
)
の一種であつたと考ふべきである。
斯うして神寵を受けた女性が、神社に常住する樣に成れば、家族的巫女から離れて、職業的巫女と成るのであつて、更に此職業的巫女を世襲した者を神ノ采女と稱したのである。然るに、神も感情に支配される事も有るし、又往往にして、氣紛れの事も為さる。其と同時に、神寵を受けてゐる巫女にあつても、神戒に背き神社の掟を破る樣な事もする。斯くて神母であつた者や、神妻であつた者が、社を離れて身の振り方を如何にしたか、──其には古信仰の衰へた事や、世相の變遷等も手傳つて、斯うした女性の落ち往く先は、殆んど言ひ合はせた樣に、倫落の淵であつたのである。巫女は斯くして、巫にして娼を兼ねる樣に成り、此處に巫娼として新しい生活の道を覓める樣に成つたのである。
一 巫娼の宗家であった猨女君
我國に於ける賣笑の起源を說く事は簡單には往かぬが
〔
十一
〕
、巫娼が其先驅者であつた事だけは明白である。而して此巫娼の宗家は
猨女君
(
サルメノキミ
)
であつた。猨女の出自や、職掌に就いては、屢記したので再び言はぬが、猨女の名が職業上から常に戲謔を敢てした所から、ヂャレメ──即ち
戲女
(
ヂャレメ
)
から負うた事を知る時
〔
十二
〕
、更に現時でも用ゐてゐる
御洒落
(
オシャレ
)
と云ふのは、遊里に緣の有る語で、娼婦をオシャレ、又はオシャラクと呼んでゐた所の尠く無い事を併せ考へると
〔
十三
〕
、猿女君と巫娼との關係は決して淺い物では無かつたのである。
源順
の『和名抄』に、巫覡を乞盜部に載せ、遊女と同列に見た事は、當時の性的生活の反面が窺はれ、『新撰字鏡』に、「
妭
(
屮屮
)
、妭、魃。」の三字を舉げ、共に、「巧也,治也,遊也。
巫
(
加牟奈支
)
也。」と記し、『倭訓栞』に、「
巫
(
カンナギ
)
、神和の義也。
(中略。)
縣巫女は娼婦を兼ねたり。」と有るのや、『風來六部集』に娼女の異名を列ねた內に、「長崎にてはハイハチ。」と有るのを、『賤者考』の、「關西にて巫女をハイチと云う。」と有るに對照すると、兩語源が同一であつて、然も巫娼の意である事が、容易に看取される。『中右記』元永二年九月三日條に、神崎の遊女小最の名が見えてゐるが、柳田國男先生に據れば、此れはコサイと訓み、小道祖の義であつて
〔
十四
〕
、神名を用ゐた所から推すも、古い巫娼に緣を引いてゐる事は疑ひ無い。『日吉神道秘密記』に、「令託
寄妓
(
ヨリマシ
)
御歌」と端書して、「此處に來て此處に在りとは思へども、目に見ぬ程ぞ戀しかりける。」と有るのも、前に載せた『
將門記
』の巫倡と同じく、倡や妓の字に曰くがありさうに思はれるし、陸中國稗貫郡地方では、巫女を
傀儡子
(
クグツ
)
(傀儡女が娼婦であつた事は明確である。)
と稱した事
〔
十五
〕
、及び近年迄箱根其他の修驗派の道場に於いては、山伏の女房は凡て比丘尼と稱して即ち巫女であり、然も其巫女の最下級者は倡を兼ねてゐた事を想ひ合せると
〔
十六
〕
、巫女が娼妓と成つた事も古い事で、且つ其が廣く行はれてゐた事が知られるのである。而して
江戶期
に於ける巫女の大半迄は、表藝の呪術よりは、裏藝の賣笑で繁昌したのも、又遠い夤緣から來てゐるのである。
二 浮世の果は皆小町の采女達
神母の末路と共に、併せ考へ無ければ成らぬのは、采女と云はれた女性の身の行末である。采女の制度が神妻に起り、後に蕃客を待遇する貸妻に遷つた事は、曾て私見を發表した事が有るので省略する
〔
十七
〕
。而して宮中の采女は、地方郡領の子女を召す事に成つてゐたが、其人員は今から明瞭に知る事は出來ぬ。其を新井白蛾翁は、何に依つて計算したか、
平安朝
の小町の局にゐた采女だけでも六十名在るから、小町を一人の名と特定するのは無理だと云つてゐる
〔
十八
〕
。勿論、私も世に謂ふ
小野小町
が一人で無かつたと云ふ說には異議は無いが、併し此計算だけは、甚だ覺束無い物として、賛成し兼ねるのである。私は古代に遡る程采女の數は多く、恐らく六十名等よりは遙に夥しゐいた事と思つてゐる。郡縣の制は、
大化期
に完成されたのであるが、國郡の區劃は、遠く
成務朝
に行はれ、其數は相當多數に達してゐたと思はれるので、當時宮中及び各神社
(神社の采女は百姓から召募した。其は後で述べる。)
に召された采女の數は、意外の多數であつたと信じたい。
果して然らば、是等多數の采女達が、其任期を無事に終へてからの殘生涯を、何處の地で如何なる方法で送つたであらうか。勿論、采女は神母とは違ひ、由緒も有り地位も有る郡領の子女であるか、さうで無ければ、相當に生活してゐた百姓
(當時の百姓とは必ずしも農民では無く、種姓の
稍
(
ヤヤ
)
低き者を斯く稱したのである。)
の子女である。任期の盡きた後は、都の手振り神の宮仕へに馴れた身を故鄉の者に羨れつつ、幸福なる生活に惠まれた者も多かつたらうが、此中には『
雄略紀
』
九年二月條
に有る樣な、重臣の為に傷けられた采女も、尠く無かつたであらうし
〔
十九
〕
、更に奈良猿澤池の衣掛柳の故事として傳へられた樣な采女も多く存してゐたであらう
〔
二十
〕
。否否、私の想像する所では、多年宮中の生活を送り、久しく社內の起居を習うた采女は、恰も現代の女學生が、一度都會生活に親しむと、土臭い田舍を嫌ふのと同じ樣に、草深い故鄉に歸る事を好まず、次手を求めて京洛の地に留るか、其で無ければ、神社の付近に居を占めたのでは無からうかと考へる。都會が常に地方の人口を集める事は、昔も今も渝りは無い。然も當時の神社が、或は國府に近く、又は景勝の地に鎮座して、文化の中心と成つてゐた事は言ふ迄も無い。是等の事情は、采女の殘生を送るに氣安くも有り、都合も宜かつたので、多くの采女は好んで所緣の地に土著した事と思はれる。我國に古く、
佐用姬
、
小野小町
、
和泉式部
、菖蒲前と云ふが如き、名媛才女と同名の巫女の徒が、夥しき迄に各地に住み、又は各地を漂泊した事は既述したが、是等の內には、采女の土著した者、若しくは漂泊した者の在る事を考へ無ければ成らぬ。而して是等采女の子孫が巫女と成つたのは、彼等が此事に多少とも由緣を有してゐたからである。後世の俳諧の附句に、「樣樣に品
變
(
カハ
)
りたる戀もして、浮世の果は皆小町
也
(
ナリ
)
。」と有る樣な、氣の毒な境涯に終つた采女も少く無かつたのである。
三 處女は悉く娼婦たりし民俗
我國古代の「
處女
(
ヲトメ
)
」の意義は、現今の其とは大に內容を異にしてゐる。即ち人妻であらうが、娼婦であらうが、或る定められた物忌み
(但し此物忌は頗る嚴重な物であつた。)
だに完全に仕終うせれば、幾度でも處女と成り得る物と確信してゐた。反言すれば、性の復活を信じてゐたのである。我國に古くから「腹は
借物
(
カリモノ
)
」と云ふ思想の有つたのも、更に「操は賣つても身は污さぬ」と云ふ性を二元的に見た思想の存したのも、所詮は性の復活に由來してゐるのである。從つて古代の「
處女
(
ヲトメ
)
」と云ふ語は、人妻で無いと云ふ事だけは意味してゐるが、決して童貞を意味してゐた物では無い。『
萬葉集
』には
未通女
(
ヲトメ
)
を「をとめ」と訓ませて、此「をとめ」に童貞の意を含ませてゐるが、此れは
奈良朝
に成つてからの事で、其以前には全く見當らぬ事である。否、其所では無く、奈良朝に在つても、「
處女
(
ヲトメ
)
」の名で、賣笑を職業とした婦人さへ有つた
〔
廿一
〕
。神に仕へる女性は、處女たる事を原則としてゐたが、人妻であつても、娼婦であつても、物忌だに濟せば、再び元の處女として、神に仕へる事を許されたのである。而して此思想は、巫女と娼婦の境界線を撤廢するに、大きな力と成つて、社會的に動いてゐたのである。
私は此處に、我國の定期婚や、試驗婚や、更に勞働婚等の婚制の根底に、微弱ながらも賣笑的意識の有つた事を說かうとは思はぬ。又、純粹なる共同婚は、賣笑と擇む無き事情を論じ樣とも考へてゐ無いが
〔
廿二
〕
、古代の處女は、一面に於いて、巫女性を帶びてゐた
(此事は屢述した。)
と同時に、他の一面に於いては、娼婦性を有してゐた事を言ふに留めるが、此世相は
モルガン
(
Lewis H. Morgan
)
の所謂
娼婦制
(
ヘテリズム
)
に相當する物である。而して其遺物とも見るべき物は、古く羽後國鶴岡町の小岩川に近き厚見邊の村里では、富める者も、町人も、總て娘を持てる限り、遊び
傀儡子
(
クグツ
)
に遣るを習ひとした。此れを「濱の
姨
(
オバ
)
」と呼んでゐた
〔
廿三
〕
。伊豆の下田港でも、
明治
以前は、良家の娘でも、好んで旅客の枕席に侍した物であるが、斯うせねば一人前の女に成れぬと云はれてゐた
〔
廿四
〕
。肥前國の平戶町に遠からぬ田助浦は漁村であるが、此地の娘は、悉く娼妓の鑑札を受けてゐて、客が招けば貸座敷に出掛ける。平生は宅にゐて家事を取つてゐるが、他國には見られぬ慣習である
〔
廿五
〕
。志摩國の的矢港は、昔は大阪江戶間の寄港地であり、避難所でもあつたので、船が入ると女の名の付く者は、悉く船客船員の需めに應じた。古い俚謠に「的矢港や女郎島、チヨロ
(艀の事。)
は冥土の渡し船、死に行く人を乘せて漕ぐ。」と有る樣に
〔
廿六
〕
、殆んど全港の女子が娼婦であつた。更に『信州叡山藩盆踊薩摩歌』に有る、「嫁に往くなら越後今町いやでそろ、晝は三味
彈
(
ヒ
)
く、夜
去
(
サ
)
りはお客の褄を
引
(
ヒ
)
く。」と有る俚謠も、又た此意味に解釋されるのである。私等が覺えて迄も、伊勢や越後等では、娘を娼妓に賣る事を、行儀見習に遣る位に手輕に考へて居り、肥前邊りでは娼妓
上
(
アガ
)
りの女子を卻つて悅んだと云ふのも、古い民俗の殘片と思はれるのである。此れでは愛の標の白羽の矢が立つた時、其召に應ずる事は名譽であつたに違ひ無いのである。
猶ほ此れには、我國に於ける旅人に貸妻する各地の民俗を述べぬと徹底せぬのであるが
〔
廿七
〕
、今は其にも及ぶまいと考へたので割愛した。
四 琉球に殘存せる巫娼の傳說と事實
我が內地の古俗を化石させ、其を親切に然も克明に保存した、琉球の賣笑發達史に於いて、巫娼の成立と存在とを、更に有力に暗示する傳說と、證示する事實とが殘つてゐた。同地出身の伊波普猷氏は、此れに就いて大體左の如く記述してゐる。
琉球には
尾類
(
ズリ
)
と稱する一種特別の賣笑婦が居るが、其由つて來たる所が判ら無い。彼女等自身が自分等の鼻祖は、
御姊妹
(
オミナンベ
)
(王女。)
であると云つてゐる事や、一種の神
(原註略。)
を祭り、兼ねて遊郭內の一切の世話を燒く長老が、
牡前
(
オイメー
)
と云はれてゐる事や、老妓が
巫女
(
ノロ
)
同樣に世間の人から、一種の尊敬を拂はれてゐる所等を見ると、
尾類
(
ズリ
)
の鼻祖は、やはり他民族の歷史に於いて見る樣に、神に仕へる巫女にして賣笑を兼ねた物で、其歷史も亦た琉球の歷史と、同じ古さを有つてゐる物と思はれる。
云云(以上、『新小說』第三十一卷第九號。)
更に伊波氏は、琉球にも內地の采女の制度に類似した物が有り、然も此女性達が售春した事に關して、大要次の如く記述してゐる。
琉球の
城人
(
クスクンチネー
)
と云ふ者が、此采女の類では無かつたかと思はれる。『混效驗集』
(AD一七一一年編纂。)
と云ふ古代琉球語の辭書に、天妃の事を「みきよちやの
美御前加那志
(
ミオマエカナシ
)
」と書いて有るが、此れは御息所や御台所等と同じ義があらう。第二尚氏の事を書いた『王代記』と云ふ本を繙くと、代代の國王には、王妃の外に一兩人の婦人と幾人かの妻の有つた事が判る。
(中略。)
記錄には見えてゐ無いが、國王には此外に大勢の
城人
(
クスクンチネー
)
と云ふ女が有つたと云ふ事である。思ふに、古くは寵愛を失つた
城人
(
クスクンチネー
)
が、農村に歸ら無いで、首里其他の都會を徘徊して、春を賣つた事が有つたであらう。
云云。(同上。)
而して那覇の辻遊郭の開祖は、尚真王の世子浦添王子尚維衡の妃であつて、併せて此王妃が
尾類
(
ズリ
)
の鼻祖であると傳へられてゐる
〔
廿八
〕
。王妃が遊郭を開くとか、娼婦の初めと仰がれるとか云ふ事は、現在の社會感情から見れば實に在り得べからざる事であると共に、又た許すべからざる不祥の事であるが、併しながら、同國の古俗が、既述した如く、王妹は巫娼に緣故深き
巫女
(
ノロ
)
の最上官である
聞得大君
(
キコエオホギミ
)
として、國中の
巫女
(
ノロ
)
を支配した國情に置かれた事を知れば、此傳說は必ずしも無稽だとばかりは云へぬのである。琉球では今に娼妓を
尾類
(
ズリ
)
の名で呼び、此
尾類
(
ズリ
)
が守護神の祭日──即ち尚王妃の命日である每年正月二十日に行ふ「
尾類
(
ズリ
)
馬」と稱する祭禮は、全く娼婦が中心と成つてゐる。然も此祭禮を度度目撃した同地出身の友人金城朝永氏の談に據ると、
巫女
(
ノロ
)
が祭典に列する為に著用する神聖なる式服と、此「
尾類
(
ズリ
)
馬」に出る娼婦の盛裝とが、悉く同一形式であると云ふ事は、彼之の間に深甚なる關係の有つた事を考へさせるのである。更に辻遊郭に、男子の樓主が一人も無い事も、古俗を偲ぶ上に關心すべき事で、內地も大昔に在つては、樓主は女性に限られてゐた物で、其起源は遠く巫娼時代の部曲に緣を引いてゐるのである。而して是等辻遊郭の樓主中から、力量有り人望有る者が推されて、
牡前
(
オイメェ
)
(此語には神前に奉仕する人の義が有る。)
と稱する司祭長で、兼ねて遊郭の事務を總轄する者を選定する。由來、同遊郭は、
前村渠
(
アンダカリ
)
、
上村渠
(
サンダカリ
)
と云ふ二部落に分れて互に競爭してゐるので、從つて二名の
牡前
(
オイメェ
)
が有る譯であるが、此二名の牡前は、前者は
白堂
(
シラドウ
)
の
拜
(
オガン
)
所
(內地の神社とも云ふべき靈地。)
に仕へる屍婦で、後者は
古場津笠
(
クバツカサ
)
に仕へる屍婦である
〔
廿九
〕
。是等の事情を總合して考へると、琉球の娼婦は初め
巫女
(
ノロ
)
から出て、
拜
(
オガン
)
所を中心に生活した事が明確に知られるのであつて、我が內地の古俗も又此れと共通してゐた事が想像されるのである。
五 神社中心に發達したる各地の遊郭
神社は國家の宗祀であつて、然も國民崇敬の對象であると云ふ、現在の神社觀から云へば、不淨であり、不倫である遊郭が、神社を中心として發達したとは、誠に以て言語道斷の事であるが、併し、民俗神道學の立場から見れば、既に神社に仕へた巫女──若しくは神社を放れた巫女が、娼婦の先驅者と成つてゐるのであるから、各地の遊郭が神社を目安として發達し繁昌したのは、寧ろ當然の結果とも云へるのである。
伊勢の古市の娼婦の發生を說くに、御子良の墮落せる者が相集りしに初まると云ふ者が有るも、私は此說に容易に賛成する事が出來ぬ。寡見の及ぶ限りでは、斯かる事を考へさせる記錄に接しぬからである。併しながら、古市が參宮道者の攀花折柳に、都合良く設備されてゐたのは大昔からの事で、全國に亘り、「夫婦連れで參宮したのでは御利益が薄い。」と云ふ俚諺が行はれてゐた裏面には、道者は必ず古市で剪紅摘緑の遊びをし無ければ成らぬ樣に仕向けられてゐたのである。私の生れた南下野地方では、昔は伊勢參宮を殊の外手重い物とし、參宮すると其者の生涯の運が極まると稱して、五十歲以上に成ら無ければ參宮せぬ習いと成つてゐた。現に私の父も五十三歲で參宮したが、私等も此潛在意識が活いて今に參宮した事が無い。其癖、伊勢へは幾度と無く旅行して、宇治山田へも往つた事も有るが、態態參宮だけは差控へてゐる有樣である
〔
三十
〕
。而して此五十を越してからの參宮と云ふ事情は、古市の梅毒を非常に恐れたからであつて、參宮して發病した梅毒は、伊勢の水で治療し無ければ全治せぬと云ふ迷信が伴ひ、其が為めに思慮の定まつた知命以上を條件とした物と思ふ。古い俚謠に、「伊勢の古市女郎眾の名所、戾らしやんせよ迷はずに。」と有るのも、更に昔の川柳點に、「伊勢
參
(
マヰ
)
り太神宮へも寄つて來る。」と有るのも、共に此間の消息を傳へた物である。
古市遊郭が既に斯くの如くであるから、上を見倣ふ下下に在つては、少しく誇張して云へば、名が聞え德の高い物で、附近に遊郭を有してゐぬ神社は無いと云ふも、決して過言では無いのである。此處に四五の例を舉げると、京都に近い伏見市の泥町と、深草の撞木町とは、稻荷と藤森の兩者の為に發達し、「
食
(
ク
)
らはんか船」で有名な牧方及び橋本の兩地と男山八幡宮、奈良の木辻と春日社、攝津住吉社と乳守、廣田社と神崎、下關の赤間宮と稻荷町、筑前の筥崎宮と博多柳町、讚州金毘羅社と新町、日吉神社と大津の柴屋町、出雲の美保神社と同地の遊里、越後の彌彥神社と寺泊、越前敦賀の氣比神宮と六軒町、熱田神宮と宮宿、静岡市の淺間神社と彌勒町、伊豆の三嶋神社と三嶋女郎眾、常陸の鹿嶋社と潮來の遊郭、武藏府中の國魂神社と同所の遊女町、信州の諏訪社と高嶋遊郭、陸前の鹽釜神社と門前の遊郭等を重なる物として、殆んど枚舉に遑
非
(
アラ
)
ずと云ふ多數である。就中、珍重すべきは筑波神社を祭れる筑波山の半腹と、安藝の巖島の孤嶋に遊里の營まれてゐる事である。是等は神社に參拜する為に赴くのか、遊女を買はんが為に往くのか、恐らくは信心と道樂とを兼ねてゐたのであらうが、蓋し其關係は、歷史的に云へば、太古から傳統的に殘されてゐたのである。『梁塵秘抄』に、
住吉四所のお前には 顏
良
(
ヨ
)
き女體ぞ
坐
(
オハ
)
します。
男は誰ぞと尋ねれば
松崎
(
マツヶサキ
)
なるすき男。
と有る此女體こそ、即ち神社に附屬してゐた神采女の末であつて、併も「すき男」を歡迎へた巫娼其の者である。住吉社と乳守遊郭との關係は、後にも述べる機會も有るが、古く此巫娼が乳守の發達に與つてゐた事だけは、見逃す事の出來ぬ點である。併しながら、是等は神社に屬するか、又は神社を離れてゐても、未だ上位に數へられる者であるが、全く神社を棄てて各地を漂泊した巫女、又は采女の名に隱れて媚を售つた「
步巫女
(
アルキミコ
)
」に至つては、殆んど後世の「道の者」か、或は土娼と異る無き迄に墮落してゐたのである。
同じ『梁塵秘抄』に、
吾が子は十餘りに
成
(
ナ
)
りぬらん、
神巫
(
カウナギ
)
してこそ步りくなれ。
田子浦
(
タゴノウラ
)
に潮踏むと、
如何
(
イカ
)
に海士人集ふらん。
問ひみ問はずみ
調戲
(
ナブル
)
らん、
愛
(
イト
)
をしや。
給分を失ひ、神社に離れ、併も衰へた古い信仰を言立てて、情海の一角に辛うじて生活の血路を求めた多くの神采女や巫女の身の成り果ては、其は奈何にするも淚に富んだ、憐れな境遇であつたに相違無い。巫女の賣笑も決して新しい問題では無かつたのである。
六 神社の祭禮に遊女の參加する理由
神社の恒例祭に遊女が參加し、又は遊女が祭禮の中心と成る民俗は、各地に亘り、相當の數に達してゐる。前揭の琉球の
尾類
(
ズリ
)
馬は、遊女が祭儀の中心と成つてゐるだけに大掛りであつて、恰も在りし昔の吉原か嶋原の花魁道中の如く、廓內の名妓は、定まれる式服を纏ひ、派手やかな色布で鉢卷を為し、木で作つた馬首に紅白
(今は模樣物。)
等の縮緬の手綱を付け、其を前帶に挾み、兩手に手綱を取つて、廓內を練り步くのである。播州室津町の賀茂明神は遊女を具して降臨したと傳へられるだけに、祭禮には同地の遊女は、錦の袴に紫の帽子を頂き、二人づつ並んで、歌を謠ひ、笛太鼓を鳴らして、町中を迴つた物である
〔
卅一
〕
。攝津の住吉神社では、每年二回づつ、卯葉の神事には、大阪新町の遊女が八乙女として參加し、田植祭には乳守の遊女が早乙女と成つて參加し、昭和の現代でも其が懈怠無く行はれてゐる
〔
卅二
〕
。下關の赤間宮の先帝祭には、祭神に扈從した女性が生活に窮し遊女と成つたと云ふので參拜供奉するのは有名な事である
〔
卅三
〕
。長崎市の諏訪神社の大祭には、丸山・寄合兩町の遊女が、每年交代で參加する
〔
卅四
〕
。京都祇園の八坂神社の神輿迎へにも、古くは白拍子、加賀女等の遊女が出て、舞を奏した物である
〔
卅五
〕
。静岡市二丁目の遊女も、昔は每年元朝に打揃うて淺間神社に參詣する事に成つてゐた
〔
卅六
〕
。
而して是等は悉く當時の名神大社であつて、現今でも官國幣社として國民の崇敬を集めてゐるのであるが、此他の名も無き叢祠藪神の祭儀にも、遊女の參加した例は決して尠く無い。備中國淺口郡玉嶋町の天神祭には、藝娼妓が盛裝を凝らし多くの船に乘込んで、神輿船に從ひ、海上を漕迴り、大騒ぎをする
〔
卅七
〕
。遠江國磐田郡見付町は、明治以前には賣女が二百人餘り居て、每年舊二月初午には同郡中泉町御陣屋の稻荷祭に美服を纏ひ、參詣するのを恒としてゐた
〔
卅八
〕
。陸中國紫波郡見前村
大字
津田志町の大國神社は、同町の總鎮守であるが、祭日には鍬ヶ先から遊女が參拜に來て、振袖の色を爭ひ同音に彈立てる三絃の音に、信徒の心を狂はせたと有る
〔
卅九
〕
。更に奇拔なのは羽後國山本郡能代町で、每年舊三月四日に遊女調べを行ふが、其場所は同町の氏神住吉社の長床と定まつてゐる。然も當日は、能代方、木山方、出入役所の三吟味、及び庄屋、町宿老等が出張し、遊女を長床に
零
(
コボ
)
れる程集めて盛宴を張つた
〔
四十
〕
。遊女の點呼を神社で行ふとは、遊女が祭禮に參加するよりは一段と珍しい事ではあるが、詮索したら、更に此れより奇態な事が有るかも知れぬ。併し斯かる事を書き出すと、際限が無いので大抵にするが、兔に角に遊女屋を氏子に有してゐた神社ならば、其總てが祭禮に遊女の艷容を見たと云つても差支へ無い程である。大嘗祭の翌年に朝廷の名で執り行ふ八十嶋祭にも、遊女に纏頭を與へるのが恒例と成うてゐたのであるから
〔
卌一
〕
、祭禮と遊女の關係は古くも有り、且つ親しくも有つた事が知られるのである。而して斯くの如き事象が永く存したのは、遊女の發生が神社に交涉有る巫娼に在つた為である。
七 神に祭られた巫娼と遊女
源流を神妻に發した巫娼──良し其が、神母、神妾、神婢、采女として傳へられてゐるにせよ、是等の女性が軈て神として祭らるるべき充分の可能性を有してゐる事は既に記し、併せて神母の祭神と成つた類例も既に舉げた。
私は更に、巫娼又は遊女が、古くは神、新しくは佛に祀られた事實に就いて述べるとする。延喜の
神名帳
に載せてある伊勢國度會郡の
久久都比賣
(
傀儡子姬
)
神社は、社傳が全く失はれてゐるが、其神名から推して巫娼に交涉有るものの樣に想はれる。丹波國多紀郡の
母上
(
ハハカミ
)
神社は、後世には多田滿仲の母を祭つた物だと傳へてゐるが
〔
卌二
〕
、此れは古く
神名帳
〔
卌三
〕
。併しながら、此社を別に女別當と呼んだ所から見ると、同じく神母か巫娼に由緣有つた物として差支無い樣である。伊勢國鈴鹿郡片山神社の鈴御子に關しては、後世の謠曲や、御伽草子の為に書き崩されて了つて、其正體を知る事が困難であるが、其でも此御子を祭つた
鈴鹿御前社
が巫娼關係の物である事だけは看取される
〔
卌四
〕
。京都八坂神社の末社である美御前三座の如きも、社家の說には素尊の生める三女神と有るが、其神名を第一京上﨟、第二
岐
(
ミサキ
)
御前、第三小上﨟と有るのを聽くと
〔
卌五
〕
、何と無く神妻か巫娼に所緣が有る樣に察しられる。上總國長生郡土睦村
大字
岩井に玉崎祖母大明神と云ふが有る。里人は
祖母神樣
(
バアカミサマ
)
と云うてゐる。往古、一宮神社の祭禮每に誇つて參來るので訴訟と成り、官より姥神の名を差止められて、鵜羽山大明神と改めたと有る
〔
卌六
〕
。記事が簡單である為に委曲を盡さぬが、想うに一宮祭神に關係有つた神妻か、神妾の為に、誇つて參詣した物と見るのが妥當であらう。
猶ほ、民間に人氣の有つた和泉式部、小野小町、菖蒲前と稱した巫女
(又は巫娼。)
を祀つた物は、各地に亘り夥しき迄に存してゐる。和泉式部は、寡聞なる私でも二十餘ヶ所を知り、小野小町でも十餘ヶ所を、菖蒲前も數ヶ所を舉げる事が出來るが、此處には煩を避けて、一人一所づつを示すに留めるとする。紀伊國那賀郡中貴志村
大字
上野山に和泉式部社と云ふが有る。俚傳に式部が熊野參詣の歸途此處で病死したので、埋葬の地に社を建てて祀つたのである
〔
卌七
〕
。美濃國加茂郡蜂屋村の小野寺は、
小野小町
の開基であつて、境內の觀音堂は、小町の護身佛と小町とを併せて祀つた物である
〔
卌八
〕
。丹波國何鹿郡吉美村
大字
多田
字
聖塚に菖蒲前を祀つた塚が有る。俚傳に
源賴政
の妾であつたと云うてゐる
〔
卌九
〕
。是等の乏しき類例から推すも、巫娼の勢力と分布とを、窺知するに足る物が在つて存するのである。
更に巫娼より一段と世の降つた純粹なる娼婦を神又は佛に祀つた例も尠く無い。此處には僅に一二を舉げるとするが、近江國野洲郡祇王村
大字
中北は、
平清盛
の寵愛を受けた祇王祇女姊妹の生地で、同所と隣村の富波の兩所に姊妹の祠堂が有り、村民は其命日には精進する
〔
五十
〕
。此事象は、儒者氣質の伊藤東涯には餘程不思議に考へられたと見えて、其著『輶軒小錄』にも載せてゐる。駿河國富士郡鷹岡村
大字
厚原
字
中宿の玉渡神社は、
曾我祐成
が買ひ馴染んだ大磯の遊女虎御前
(中山曰、虎と云ふ巫女が、式部や小町の如く各地を漂泊した事跡が多く殘つてゐる。此れに就いては後で言ふ機會が有らうと思うてゐる。)
を祀つた物で
〔
五一
〕
、同國安倍郡長田村
大字
手越の少將神社は同じ遊女の少將を祭神としてゐる
〔
五二
〕
。陸中國東磐井郡千廄町の千壽長根と稱する山麓に千壽塚と云ふが有る。傳說に
平重衡
に愛せられた名妓千壽が狂亂して、此處に迷來て死んだので祀つたのだと云つてゐる
〔
五三
〕
。美濃の大垣市に近い結村には、小栗判官の寵妓であつた照手姬を神に祀り
〔
五四
〕
、上野國多野郡新町の御菊稻荷神社は、同町の妓樓大黑屋の賣女御菊を併祀した物である
〔
五五
〕
。更に近世の事ではあるが、東京市の永代橋の袂には、遊女高尾を祀つた高尾神社なる物が、明治初年迄存してゐたと云ふ。而して斯くの如く、巫娼遊女が神に祭られ佛と崇められて、一部の崇敬を受けてゐたのは、其大昔に於いて是等の者が神妻として、又は神妾として、更に神母として、神に親しみ、神を生んだ信仰に系統を引いてゐる為である。
神妻から巫娼への過程は、此れで
稍
(
ヤヤ
)
輪廓を盡したと思ふので本節を終るが、更に此遺風餘俗は、熊野信仰の興隆に連れて、繪解比丘尼より、賣り比丘尼を出すに至り、
江戶期
に於いては、巫女の大半迄賣笑する迄に墮落したのであるが、是れの及ばざる所は、彼に補ふ考へであるから、併せ讀まれん事を望む次第である。
〔
註第一
〕折口信夫氏は、一夜妻の對手と成る者は、
賓神
(
まれびとがみ
)
であつて、此信仰から旅客に貸妻する土俗が派生したのだと說いてゐる。私はさう迄せずとも、一夜妻の對手は、考へられると思ふのである。
〔
註第二
〕我國の生贄は、其言葉の如く、神の占めてゐる山なり、池なりに、放ち飼ひにして有る獸や、魚を云つた物で、必ずしも支那の犠牲と同一に見る事が出來ぬのである。詳細は長くなるので見合せるより外に致し方が無い。
〔
註第三
〕宮座とは、祭神に對して特種の權限を有する氏子の事で、詳細は『社會學雜誌』に載せた拙稿『宮座考』を參照せられたい。
〔
註第四
〕『攝津名所圖會』其他にも載せて有る。
〔
註第五
〕『攝陽落穂集』卷二。
〔
註第六
〕『鄉土研究』第一卷第七號。
〔
註第七
〕『攝陽落穂集』卷四。
〔
註第八
〕『女性改造』第三卷第九號。
〔
註第九
〕『阿蘇郡誌』。
〔
註第十
〕『鄉土研究』第四卷第七號。
〔
註十一
〕猿女君と巫娼の關係、及び我國の賣笑の發生等に就いては、拙著『賣笑三千年史』に
稍
(
ヤヤ
)
詳しく述べて置ゐたので、參照を望む。
〔
註十二
〕猿女の語源は、從來、鈿女命が猿田彥の名を併せ得て、斯く稱したのであると言はれてゐるが、信用すべき限りで無い。猿田はサダと訓むべきであつて、サルダと訓むべきで無い。此事も前記『賣笑三千年史』に詳しく述べて置いた。
〔
註十三
〕『物類稱呼』卷一遊女條に、信州輕井澤にて「おじやらく」、奧州にて「おしやらく」と云ふと載せ、『米澤方言考』に「おしゃめ女郎」と舉げ、『異本洞房語園』卷六に、越前三國にて遊女の別名をシャラと云ふと有る。『鹿嶋
詣
(
マウデ
)
』に、舊三月九日に、鹿嶋神宮で行はれる齋頭祭に用ゐる俚謠の一句に、「おしゃらく目の毒。」と有る。此邊にても古くは斯く言ひし物か。
〔
註十四
〕『東京人類學雜誌』第二十八卷第二號以下に連載された、柳田國男先生の「
巫女
(
イタカ
)
及び
山家
(
サンカ
)
」と題せる研究は、巫女と賣女との關係並に其過程が詳記されてゐる外に、先生獨特の創見に富んだ記事である。私のは其を真似たり、拜借したりした物である事を明記し、謹んで先生に敬意を表する次第である。
〔
註十五
〕「
傀儡子
(
クグツ
)
」の娼婦であつた事は、改めて言ふ迄も無いが、此れも『賣笑三千年史』に詳記して置いた。
〔
註十六
〕前揭の柳田國男先生の記事に見えてゐる。
〔
註十七
〕我國に於ける貸妻の發生、其他に就いては、拙著『日本婚姻史』に詳說して置いた。
〔
註十八
〕『牛馬問』
(溫知叢書本)
。
〔
註十九
〕『
雄略紀
』に、「遣凡河內直香賜與采女,祠胸方神。香賜與采女既至壇所,及將行事,奸其采女。
云云。
」
〔
註二十
〕『大和物語』其他にも有る有名な話である。
〔
註廿一
〕『
萬葉集
』
卷九
に載せた
上總の末の珠名娘子
が其である。こは、本居內遠の『賤者考』に考證して有る。
〔
註廿二
〕是等の婚姻の種種相に就いては、前揭の『日本婚姻史』に盡して置いた。
〔
註廿三
〕天明四年九月に記した菅江真澄翁の『齶田濃刈寐』に據る。
〔
註廿四
〕『新小說』第十一卷第十號。
〔
註廿五
〕『週刊朝日』第九卷第廿三號。
〔
註廿六
〕雜誌『性之研究』特別號『賣淫研究』參照。
〔
註廿七
〕貸妻及び妻女を交換する土俗に關しては『日本婚姻史』に述べた。
〔
註廿八
〕前揭の『沖繩女性史』に收めた「
尾類
(
ズリ
)
の歷史」。
〔
註廿九
〕『新小說』第三十一卷第九號所載の「琉球の賣笑婦」に據る。
〔
註三十
〕皇太神宮に對して、私幣禁斷の制は、古くから國法として行はれてゐた。從つて、本來なれば、華士族でも、平民でも、幣帛を捧げ、參詣する等とは、過分の振舞である。慎しみ畏れ無ければ成らぬ事である。
〔
註卅一
〕『明治神社志料』卷上。因に、遊郭が神社中心に發達した人文上の理由も、他に相當に存してゐるが、此處には煩を避けて省略した。誤解無き樣に敢て附記する。
〔
註卅二
〕『東成郡神社誌』及び『住吉名勝記』。
〔
註卅三
〕『長門志料』。
〔
註卅四
〕『官國幣社特殊神事調』一。
〔
註卅五
〕『八坂志』乾卷
〔
註卅六
〕麗澤叢書本の『晁東仙鄉志』。
〔
註卅七
〕文藝倶樂部增刊の『花柳風俗誌』。
〔
註卅八
〕山中共古翁の手記『見付次第』。
〔
註卅九
〕『紫波郡誌』。
〔
註四十
〕『能代由緒記』。
〔
註卌一
〕『江家次第』卷十五。
〔
註卌二
〕大日本風教叢書本の『神社啟蒙』卷七。
〔
註卌三
〕大日本地誌大系本の『近江輿地志略』卷十五。
〔
註卌四
〕『勢陽雜記』卷二。
〔
註卌五
〕同上の『神社啟蒙』卷三。
〔
註卌六
〕『房總志料叢書』續篇卷五。
〔
註卌七
〕紀州德川家で編纂發行の『紀伊續風土記』卷三十七。
〔
註卌八
〕『新選美濃志』卷二十三。因に『稿本美濃志』と間違はぬ樣、注意せられたい。
〔
註卌九
〕『何鹿郡案內』。因に言ふが、茲に賴政と有るのは、即ち
憑坐
(
ヨリマシ
)
の訛語であつて、初め巫女を
憑坐
(
ヨリマシ
)
と稱してゐたのが賴政と訛り、更に賴政から菖蒲前が附會されるに至つたのである。此過程に就いては、柳田國男先生の『鄉土研究』第一卷第九號の「賴政の墓」と題せる研究に盡して有る。
〔
註五十
〕『淡海溫故錄』卷一。
〔
註五一
〕山中共古翁の手記『吉居雜話』。
〔
註五二
〕『駿河志料』卷二十六。
〔
註五三
〕『封內風土記』卷二十。
〔
註五四
〕『三河雀』卷四。猶ほ同書に據ると、羽前山形市の近村に、金賣り吉次が、遊女龜鶴を神に祀り、社領五百石を寄せたと記して有るが、此事は山形地方の地誌類にも見えてゐぬので、真偽ともに判然せぬけれども、五百石は少し多きに過ぎるので、少しく怪しい樣に思はれる。
〔
註五五
〕『多野名勝誌』。
第六節 采女制度の崩壞と巫女の墮落
采女制度は
國初期
から
平安朝
迄行はれて來たが、藤氏繁葉の放漫政策は、漸く帝室費の窮乏を來たし、其中期以降は、采女の徵募は絕えて了つた。斯くて宮中には采女の影は消えて了つたが、一部の國造や神主が、神社用として召募した所謂「神采女」なる者は、猶ほ依然として殘存してゐた。而して是等の神采女が、初めは神妻であつた事は既述したが、
平安期
に成ると、其名は舊時のままの神采女であるが、實際は、國司、國造、又は神主の婢妾に、成り下がつて了つたのである。此れは采女では無いが、當時、是等の支配階級に居た者が、一般の女性に對して、如何に亂暴の態度を以て莅んでゐたかを證明すべき物が、『催馬樂』の一章に殘つてゐる。
插し櫛は、十まり七つ、
有然
(
アリシカ
)
ど、武生の椽の、朝に取り、夕去り取り、
取り
然
(
シカ
)
ば、插し櫛も
無
(
ナ
)
しや。さきんだちや。
此歌謠は、越前武生の椽の誅求の為に、少女の插し櫛迄失いし物と說く學者も有るが、私は橘守部說に基き、國司の漁色の亡狀に苦しめる少女の叫びと信ずるのである
〔
一
〕
。當時の國司は、民眾に對しては、殆ど生殺與奪の權を有してゐたと同時に、苛斂の限りを盡した物であつて
〔
二
〕
、萬一にも農民に於いて納租を懈るが如き事有れば、其妻や女を拉し來つて、伐性の犠牲にする事さへ、珍らしく無かつたのである。年貢未進の為に、農民が妻や女を賣つた事は、夙くも此頃から行はれてゐたのである。
然るに、多淫にして支配意識に燃えてゐた彼れ國司、國造等は、神威と權威
(彼等は行政官であつて神主を兼ねてゐた。)
とを笠に被て、濫りに艷容なる女性を召して枕席の塵を拂はせた。弊瀆の極まる所、遂に
延暦十七年十月十七日
に、右の如き官符の發せらるるを見るに至つた。『類聚三代格』卷一、「神主司神禰宜事」條に、
太政官符禁出雲國造託神事多娶百姓女子為妾事
右被
右大臣
(
神主
)
宜偁,奉敕今聞承前國造兼帶神主,新任之日,即棄嫡妻,仍多娶百姓女子,號神宮采女
〔
三
〕
,便娶為妾莫知限極。此是妄託神事遂煽淫風,神道益世豈其然乎。自今以後,不得更然。若娶妾供神事不得已者,宜令國司注名密封卜定一女不得多點,如違此制隨事科處,筑前宗像神主准此。
(國史大系本。)
是等野獸の如き國造の人身御供と成つた神采女が、やがて紅顏褪せ、寵愛衰へた曉に、身の振り方を情海の濁流に任せて、誘ふ水の
隨
(
マニマ
)
に、巫娼と墮ちて往く事は、當時の傾向としては、極めて容易に合點されるのである。而して斯くの如き事實は、決して出雲國造や、宗像神主だけに止まらず、他にも多く在つた物と見るべく、偶偶、官符に現はれたのが、此二者であつたと見るべきである。從つて斯うした生活を餘儀無くされた巫女の墮落は、時勢の降ると共に、益益其速度を早めたのである。既記の如く、天長年間に編纂された『和名抄』に、巫女は遊女と同視されて、乞盜部に載せられる迄に輕蔑される樣に成つたが、更に乞盜とは、乞食と盜賊との一字づつを採つた熟語である事を知れば、如何に巫女の社會的地位が低下したかが察しられるのである。然れば、當時に在つては姓氏に巫部を稱する事さへ忌嫌つて、此れが改姓を朝廷に訴へる者が續出する有樣であつた。其顛末を簡單に述べれば、『新撰姓氏錄』和泉國神別條に、
巫部連
(
カムナギベノムラジ
)
,雄略天皇,御體不豫,因茲召上筑紫豐國奇巫,今真椋大連率巫仕奉,仍賜姓巫部連。
此記事に據れば、雄略帝の不豫に際し、遠く九州から巫女を伴ひし者が、其偉功に依つて此姓を賜り、然も其は家門の名譽として、永久に誇るべき事柄であるのに、此事有つてから約三百五十年を經た巫部連の子孫は、斯かる姓を冒してゐる事は、卻つて不名譽也として、改姓の事を朝廷に訴へて允許を得た。即ち『
續日本後紀
』
仁明帝の條
に、左の如く載せて有る。
承和十二年秋七月巳未,右京人中務少錄正五位下巫部宿禰公成、大和國山邊郡人散位從六位下巫部宿禰諸成、和泉國大島郡正六位上巫部連繼麿、從七位下巫部連繼足、白丁巫部連吉繼等,賜姓當世宿禰。公成等者,神饒速日速命苗裔也。昔屬
大長谷稚武天皇
(
雄略帝
)
公成等始祖真椋大連奏,迎筑紫之奇巫,奉救御病之膏盲,天皇寵之賜姓巫部,後世疑謂巫覡之種,故今申改之。
(國史大系本。)
先祖は
之
(
コレ
)
を無上の光榮とし、子孫は敢て進んで不名譽と云ふ。同じかるべき巫部の姓が斯く變遷した事は、取りも直さず、巫女其の者の變遷である。
雄略朝
には、巫女の威望が高く、君側に仕へて御惱の平癒を祈つた物が、代を替へ時を經るに隨つて、次第に聲價が下落して來て、巫女の關係と云はれる事は、大なる恥辱と成つて了つたのである。而して此變遷と、下落とは、巫女の徒が、全く娼婦と化し去つた為に外成らぬのである。『
續日本紀
』
天平勝寶四年五月條
に、「免官奴鎌取,賜巫部宿禰。」と有るのは、官奴に為よ奴隷に賜つた物であるから、餘り名譽の姓で無かつた事が想はれる。更に『
延喜式
』
臨時祭條
に、「凡御巫取庶女,堪事充之。」と有るに至つては、愈愈巫女の低下した事が知られるのである。後世に於いても、巫女は一般社會から嫌惡され、蔑視されてゐたが、此れは
平安期
の其とは又た事情を異にしてゐる所が有るので、
第三篇
に於いて改めて記述する考へである。
〔
註第一
〕『催馬樂譜入文』
(橘守部全集本)
卷中。
〔
註第二
〕『今昔物語』に、信濃の國司が谷へ落ち、其序に箪を採り、「國司は轉んだら土でも掴め。」と云ふ警句を吐いた有名な事件が載せて有る。當時の農民は、全くの搾取機關としてのみ生活を許され、國司は誅求を以て總ての職務だと心得てゐた。
永祚年中
に、尾張國司藤原元命が餘りに苛誅に過ぎ、農民より三十餘箇條の非政を舉げられて彈劾された事は、此れ又た有名な事件であるが、然し當時の國守にあつては、其大半迄が、悉く元命の亞流と見て差支無かつたのである。
〔
註第三
〕古代に於ける百姓の意義は、後世の其の如く決して農民だけを指してゐるのでは無く、貴姓にあらざる者を廣く意味してゐたのである。改めて言ふ程の事も無いのであるが敢て附記した。
第七節 女系相續制と巫女墮落の關係
平安期
を境界線として、巫女の墮落が殊に著しく成つたのは、勿論、幾多の原因が在つて存した事は言ふ迄も無い。想出すままを數へて見ても、(一)時勢と環境とが淫蕩靡爛であつた事、(二)彼等に對する信仰が全く衰へた事、(三)給分を失ひ、收入の減損した事が、重なる物であるが、他に併せ考うべき事は、(四)巫女は原則として女系相續制度を強ひられてゐた事も、又た大なる原因であると見るべきである。
元來、巫女が好んで獨身生活を送つた事は、屢記の如く「神に占められた」古き信仰を墨守した為であるが、此結果として當然、二つの事象が隨伴してゐたのである。即ち第一は、獨身なるが故に
(後世になると神妻とも成り得られぬ為。)
實子の有るべき筈が無いので、其遺跡は、自分の兄弟の子
(其は必ず姪に限られてゐた。)
に讓つた女系相續制度であつて、第二は、巫女の行ふ呪術は擇まれた女性以外には相傳する事の出來ぬ物であつて、且つ此繼承者は、自分の血統に屬する者に限ると云ふ──一種血液の迷信に囚はれてゐたのである。大和の葛城山麓の、前鬼・後鬼の家は、修驗道の開祖と云はれる
役小角
が初めて峯入りした折に、此れを助けた所謂「鬼筋」として有名の子孫であるが、此家等でも、血筋の混濁するのを恐れて、幾十代と無く、血族結婚のみを
(後世に成ると卻つて一般人から通婚を忌まれ、據ろ無く血族結婚をしたのである。)
續けてゐたが、近世に成り他氏族の血液を加へてから、祖先に比して、飛行・隱形等の呪術が衰へたと云うてゐた
〔
一
〕
。而して此心理狀態は、等しく神に仕へ、呪術を生命とした巫女に在つても、全く同一であらねば成らぬのである。血液を濁すまい、呪術を墮すまいとの志願から、古き信仰に引きずられて、女系制度を嚴守して來たのである。然るに、
平安期
に成つて、此制度が漸く崩壞を見る樣に成つた。『朝野群載』卷九に左の如き文書が載せて有る。
丹後國司解 申請 官裁事
請被殊蒙官裁依
采女
(
ウネメ
)
從五位下丹波勝子辭讓姪同姓德子補任采女職狀
右得勝子解狀偁。謹檢案內,去天慶七年被補當職,從事之後,未闕職掌。依其勞效,安和二年初預榮爵。永延元年,更敘內階。計其年勞,三十五個年于今遺命不幾,且暮難期。方今,以所帶職,讓與同姓姪之例,繼踵不絕。近則紀伊國采女寬子,讓於同安子。備前國采女壬生平子,讓於同貞子等是也。以往之例,不可勝計者。國加覆審,所申有實。仍言上如件。望請,官裁以件德子,被替神采女職,將令勤譜第之業。仍錄事狀謹言。
永祚二年二月二十三日 正六位上行
□□
(
紙魚不明,以下同
)
坂上□□
(史籍集覧本。)
此國司解を仔細に檢討すると
〔
二
〕
、巫女
(神采女とあるが、其實質の同じ物である事は既述した。)
が、其職を姪に讓るに、他の類例を舉げて、證左とする所は、既に此制度の崩壞期に在る事を物語る物である。何となれば、若し從來の如く姪に讓る事が當然であつたとすれば、別段に他の類例等を舉げる必要が無いからである。而して世襲の職務と給分とを有する神采女迄が、斯くの如き地位に置かれたのは、一般の神社に奉仕する巫女が墮落したので
〔
三
〕
、官憲としては出來るだけ此れを取締り、併せて女系制度を廢止する計畫が存してゐたのであらう。さなぎだに艷聞の伴易い巫女にあつて、殊に其が女系制度の為に、人道に反した獨身生活を強ひられては、耳に餘り眼を掩ふ樣な醜態が頻出したであらうから、官憲は彼等の信仰が落ち、神事の形式も漸く女子の手を離れて男子に移らうとした變革期を機會に、此不自然な制度を根絕せん為に、特に嚴重に相續を監督したのであらう。前に記した京都の桂女が古くから女系相續を固守して明治期迄傳へ
〔
四
〕
、更に紀伊國海草郡加太町の淡嶋神社の祠官前田氏が、同じく女系のみで相續したと有るのは
〔
五
〕
、共に特別なる事例であると言はねば成らぬ。
併しながら、巫女の獨身生活は、極めて形式的ではあつたが、其後とても續けられてゐたのである。世が變つても、巫女は神と結婚すべき者、常人の男を良人としたのでは信仰に反く物であると云ふ潛在意識は代代相續されて來て、內緣の夫は持ちながらも、猶ほ表面だけは、獨身を裝ふ事を忘れ無かつた。畏き事ではあるが『古事談』第一に、「前齋院、齋院は、人妻と成つても、無子息。」と有るのも、蓋し此事を言うたのではあるまいか。而して單に良人を持たぬばかりで無く、稀には親子の緣迄切つて巫女に出る習はしさへ有つた。『和歌童蒙抄』卷二鹽竃條に左の如き記事が有る。
陸奧
(
ミチノク
)
ノ
千賀
(
チカ
)
ノ
鹽竃
(
シホガマ
)
誓
(
チカ
)
ナガラ、
辛
(
カラ
)
キハ
君
(
キミ
)
ニ
逢
(
ア
)
ハヌ
也
(
ナリ
)
ケリ
昔
陸奧守
(
ミチノクノカミ
)
、
鹽竃
(
シホガマ
)
ノ明神ニ
誓
(
チカ
)
ヒ申
事有
(
コトア
)
リテ、
獨女
(
ヒトリムスメ
)
ヲ
居
(
ヰ
)
テ
參
(
マヰ
)
リテ、
斯
(
カ
)
ノ神ノ寶殿ノ
內
(
ウチ
)
ニ
押入
(
オシイ
)
レテ
歸
(
カヘ
)
)リケリ、
此女
(
コノムスメ
)
泣
(
ナ
)
キ
悲
(
カナ
)
シビテ、神殿ヨリ
差出
(
サシイデ
)
タリ、
父
(
チチ
)
、
之
(
コレ
)
ヲ
見
(
ミ
)
ケルニ、心
惑
(
マド
)
ヒニケリ、
其
(
ソレ
)
ヨリ
此
(
コ
)
ノ神ノ命婦
(中山曰、巫女の意。)
ハ、
宮司
(
ミヤヅカサ
)
ノ
餝
(
カザ
)
ム
限
(
カキ
)
リハ、
親子互
(
オヤコタガ
)
ヒニ
見
(
ミ
)
ユマジト
誓
(
チカ
)
ヘリ、年
每一度
(
ニヒトタビ
)
ノ
祭日
(
マツリノヒ
)
ナラヌ
限
(
カギ
)
リハ、
人
(
ヒト
)
ニ
合見
(
アヒミ
)
エズ、件ノ
女
(
ムスメ
)
ノ子孫
今
(
イマ
)
ニ
繼
(
ツギ
)
テ、
其
(
ソ
)
ノ命婦タリ。
(中山曰、傍訓の漢字は私に加へた物。)
如何にも簡古の記述ではあるが、此れに依つて、巫女は親子の俗緣を斷つて神に仕へ、併も神に占められて子孫を舉げる事を如實に傳へてゐる。筆路が多少脫線するが、『源平盛衰記』卷十一金剛力士兄弟事の條、静憲法印熊野參詣の次に、
皆石皆鶴兄弟を請出て見參し、
(中略。)
「此兒童兄弟は如何なる人ぞ?」と尋給へば、祐金答申て云、「母にて侍し者は、
夕霧
(
ユフギリ
)
の
板
(
イタ
)
(中山曰、熊野で巫女を
板
(
イタ
)
と稱したとは、奧州の
巫女
(
イタコ
)
と對照して關心すべき事である。)
とて山上無雙の
御子
(
ミコ
)
、一生不犯の女にて候し程に、不知者夜夜通事有て、儲けたる子供とぞ申侍し、其
御子
(
ミコ
)
離山して今は行方を不知。」とぞ申す。
と有るのは、神を夫とする信仰の殘れるを證示すると同時に、寔に畏き事ながら、古き
百襲媛
の故事迄想出され、更に「處女受胎」の古俗が偲ばれるのである。
斯うした生活は、近世迄續けられてゐて、琉球では
巫女
(
ノロ
)
は原則として亭主を持つ事が出來ず、內地にても內緣關係以上に進む事は憚つてゐた。『新編常陸國志』卷十二に、大略次の如く有る。
近き世迄も神主を宮市子と云ひて、女子の勤めしがままありしなり。夫は有れど奴僕の如し。然るに近頃に至り、夫たる者吉田家の假官等授かりて、自ら主人の如く成れり。當地邊にも此類まま有る也。當國の內さるべき神社には、大市・小市又は市子と呼ばれて、祭事に預る婦女有り。又神主をも、市とも市子とも云ふ村村有り。此れは女の名いつと無く男子の方に移れるなるべし。
云云。
更に柳田國男先生の記す所に據れば、
近頃、越前のテテと稱する、或神官の家の系圖を見たが、十數代の間婦女から婦女に相續の朱線を引き、夫の名は女の右に傍註して有つた。處女の間ばかり神職を勤めた物ならば、直系で續く筈が無いから、此れは疑ひも無く不處女に成つても神子をして居たのである。
云云
〔
六
〕
。
巫女の性生活も又た幾多の變遷を經て、以て墮落期に到達したのであるが、此問題こそ巫女自身にとつても、更に巫女史にとつても、一番複雜してゐて、然も一番困難な問題なのである。
巫女が娼婦と化した事象に就いては、猶ほ熊野比丘尼及び此後身なる賣り比丘尼の事を記さねば成らぬが、其を言ふ以前に一言して置くべき事が有る。其は外でも無く、古代から
平安朝
の末頃迄は、遊女と云ふ者の社會的地位は、必ずしも後世の如く低劣では無かつたと云ふ一事である。勿論、何時の時代でも高下の有る事は言ふ迄も無いが、平安朝迄は高級の遊女は畏くも宮中にも召され、又た仙洞にも聘せられ、更に金枝玉葉の身近く招かれた例さへ、史上に少からず存してゐるのである。而して斯く遊女が社會から卑められ無かつた理由は、此處に詳細を盡す事は埒外に出るので、省筆するのが當然と考へるので
〔
七
〕
、此れ以上は何事も言はぬとするが、此理由は、或る程度迄は、巫女から出た巫娼の上にも適用される事であつて、後代の成心を以て當代を推すには、其處に相當の手心を要する事が必要なのである。
〔
註第一
〕
享保
頃に書かれた『諸州採藥記』に據る。猶『大阪每日新聞』
(大正四年七月廿四日。)
に據ると、大和國吉野郡天川村
大字
洞川が後鬼の居た所で、同郡下北山村
大字
前鬼が前鬼の住んだ所で、極端なる血族結婚の事情が載せて有る。又『紀伊續風土記』卷三十三には、前鬼より分れたる子孫が、同國那賀郡粉河町
大字
中津川に居住し、同じく家族相婚した事が記して有る。
〔
註第二
〕此れと同じ國司解が『類聚三代格』にも載せて有る。更に物忌
(巫女と同じ。)
の補任に就いては『類聚符宣抄』卷一「太政官符神祇官」條に左の如き物が有る。
應補坐河內國平岡神社物忌大中臣時于事
右得官去正月十三日解稱。彼社物忌大中臣吉子,長體之替撰定件時子,言上如件,望請官裁。彼補物忌,將會勤職掌者。中納言從三位兼行左衛門督源朝臣高明宣,依請者,官宣承知依宣行之,符到奉行。
防鴨河使位 右大史位
天暦六年五月十一日
初めは本文に採錄する考へでゐたが、餘りに同じ樣な物と思うたので略し、此處に參考迄に附載した。
〔
註第三
〕巫女の墮落には、制度とか環境とか云ふ以外に、巫女の內的衝動から來る物が多い事も注意せねば成らぬ。前に舉げた平田篤胤翁が『古今妖魅考』三卷に集めた比丘尼の性的苦惱の事情は、當然、巫女の身上で有らねば成らぬ。茲には詳細を盡す事が出來ぬが、特に此種の問題に興味を有さるる御方は、同書に就いて知られたい。
〔
註第四
〕桂女が時勢の推移に頓著せず、古きままの女系相續を墨守した為に、思はぬ悲劇迄惹起した事が有る。詳細は前揭の柳田國男先生の『桂女由來記』に載せて有る。
〔
註第五
〕『和歌山縣海草郡誌』。
〔
註第六
〕『鄉土研究』第一卷第十號。
〔
註第七
〕是等の事情に就いては、拙著『賣笑三千年史』に詳記して置いた。參照が願はれると仕合せである。
[久遠の絆]
[再臨ノ詔]