日本書紀 卷第九 神功紀

氣長足姬尊(おきながたらしひめのみこと) 神功皇后(じんぐうくわうごう)

一、神功皇后獲神託,征熊襲

 氣長足姬尊(おきながたらしひめのみこと)稚日本根子彥大日日天皇(わかやまとねこひこおほびびのすめらみこと)曾孫(ひひこ)氣長宿禰王(おきながのすくねのおほきみ)之女也。母曰葛城高顙媛(かづらきのたかぬかひめ)
 足仲彥(仲哀)天皇二年,立為皇后(きさき)。幼而聰明叡智,貌容壯麗。父王異焉(あやしびたまふ)
 九年,春二月足仲彥(たらしなかつひこ)天皇崩於筑紫橿日宮(つくしのかしひのみや)。時皇后傷天皇不從神教而早崩,以為(おもほさく):「知所祟之神(たたれるかみ),欲求財寶國(たからのくに)。」是以命群臣(まへつきみたち)百寮(もものつかさ),以解罪改過(つみをはらへあやまちをあらため),更造齋宮(いつきのみや)小山田邑(をやまだのむら)
 三月壬申朔(),皇后選吉日(よきひ)入齋宮,親為神主(かむぬし)。則命武內宿禰(たけうちのすくね)(ひく)琴,喚中臣烏賊津使主(なかとみのいかつのおみ)審神者(さには)。因以千繒高繒(ちはたたかはた)琴頭尾(ことのかみしり),而請曰:「先日教天皇者誰神(いづれのかみ)也?願欲知其名。」
 逮于七日七夜(なぬかななよ),乃答曰:「神風伊勢國(かむかぜのいせのくに)百傳度逢縣(ももづたふわたらひのあがた)拆鈴五十鈴宮(さくすずいすずのみや)所居神,名撞賢木嚴之御魂(つきさかきいつのみたま)天疎向津媛命(あまざかるむかつひめのみこと)焉。」
 亦問之:「除是神,復有神乎?」答曰:「幡荻穗(はたすすきほ)出吾也,於尾田吾田節(をたのあがたふし)淡郡(あはのこほり)所居神之有也。」
 問:「亦有耶?」答曰:「於天事代於虛事代玉籤入彥嚴之事代神(あめにことしろそらにことしろたまくしいりびこいつのことしろのかみ)有之也。」
 問:「亦有耶?」答曰:「有無之不知焉(いさしらず)。」
 於是審神者曰:「今不答而更後有言乎?」則對曰:「於日向國橘小門(ひむかのくにのたちばなのをど)水底(みなそこ)所居,而水葉稚之出居(みなはもわかやけくいでます)神,名表筒男(うはつつのを)中筒男(なかつつのを)底筒男(そこつつのを)神之有也。」
 問:「亦有耶?」答曰:「有無之不知焉。」遂不言且有神矣。時得神語(かむごと),隨教而祭。
 然後遣吉備臣(きびのおみ)鴨別(かもわけ),令擊熊襲國(くまそのくに)。未經浹辰,而自服焉。
 且荷持田村(のとりたのふれ)羽白熊鷲(はしろくまわし)者,【荷持,此云のとり(能登利)。】其為人強健(つよくたけく),亦身有(つばさ),能飛以高翔(とびたかくかける)。是以不從皇命(おほみことのり),每略盜(かすむ)人民。
 戊子(十七),皇后欲擊熊鷲,而自橿日宮遷于松峽宮(まつをのみや)。時飄風(つむしかぜ)忽起,御笠墮風(みかさふけおとされぬ)。故時人號其處曰御笠(みかさ)也。
 辛卯(廿),至層增岐野(そそきの),即舉兵擊羽白熊鷲而滅之。謂左右曰:「取得熊鷲,我心則安。」故號其處曰(やす)也。
 丙申(廿五),轉至山門縣(やまとのあがた),則誅土蜘蛛(つちぐも)田油津媛。時田油津媛(たぶらつひめ)之兄夏羽(なつは)興軍而迎來,然聞其妹被誅而逃之。
 夏四月壬寅朔甲辰(),北到火前國松浦縣(ひのみちのくちのくにのまつらのあがた),而進食於玉嶋里(たましまのさと)小河之側。
 於是,皇后勾針為(),取(いひぼ)(),抽取裳縷(みものいと)(つりのいと),登河中石上,而投鉤祈之曰:「朕西欲求財國(たからのくに)。若有成事者,河魚飲鉤!」因以舉竿,乃獲細鱗魚(あゆ)。時皇后曰:「希見物也。【希見,此云めづらし(梅豆邏志)。】」故時人號其處曰梅豆羅國(めづらのくに),今謂松浦(まつら),訛也。是以其國女人每當四月上旬(かみのとをか),以鉤投河中,捕年魚(あゆ),於今不絕。唯男夫(をのこ)雖釣,以不能獲魚。
 既而皇后則識神教有驗,更祭祀神祇(あまつかみくにつかみ),躬欲西征,爰定神田(みとしろ)(たつくり)之。時引儺河(なのかは)水,欲潤神田,而掘溝及于迹驚岡(とどろきのをか)大磐(おほいは)塞之不得穿溝。皇后召武內宿禰,捧劍、鏡,令禱祈神祇,而求通溝。則當時,雷電霹靂(かむとけ),蹴裂其磐,令通水。故時人號其溝曰裂田溝(さくたのうなて)也。
 皇后還詣橿日浦(かしひのうら)解髮(みぐしをとき)臨海曰:「吾被神祇之教,賴皇祖之靈(おほみおやのみたまのふゆ),浮涉滄海(あをうなはら),躬欲西征。是以今頭(すすぐ)海水。若有驗者,髮自分為兩。」即入海洗之,髮自分也。皇后便結分髮而為(みづら),因以謂群臣曰:「夫興師動眾,國之大事。安危成敗,必在於斯。今有所征伐(うつ),以事付群臣。若事不成者,罪有於群臣,是甚傷焉。吾婦女(たをやめ)之,加以不肖(をさなし)。然蹔假男貌(ますらをのすがた),強起雄略(ををしきはかりこと)。上(かかぶり)神祇之靈,下藉群臣之助,振兵甲(いくさ)而度嶮浪(たかきなみ),整艫船(ふね)以求財土(たからのくに)。若事就者,群臣共有(いさをし)。事不就者,吾獨有罪。既有此意,其共議之。」群臣皆曰:「皇后為天下(あめのした),計所以安宗廟社稷(くにいへ),且罪不及于臣下。頓首(つつしみ)奉詔!」


神功皇后像


筑紫橿日宮
仲哀帝崩於橿日宮。傳帝死後,其棺椎木散以異香,遂曰香椎宮。


栗田 昔松峽宮所在


神功皇后 山車
皇后將征新羅,蹔假男貌,強起雄略。謂群臣言,成則君臣共榮,不成則己獨有罪。


月延石 月讀神社藏
神功皇后開胎,故取石插腰鎮之曰:「事竟還日,產於茲土。」其石今藏月讀神社境內。


和珥津
神功皇后領軍自和珥津發,將伐新羅。蓋與鉏海水門同處。


三韓略圖
新羅、高麗、百濟,臣服日本,遂定內官家,謂作三韓。


神功皇后、武内宿禰、應神天皇像


長門住吉神社
住吉荒魂,祠穴門山田邑
二、蒙神助之新羅親征

 秋九月庚午朔己卯(),令諸國:「集船舶(ふね),練兵甲。」時軍卒(いくさびとども)難集。皇后曰:「必神心焉。」則立大三輪社(おほみわのやしろ),以奉(たち)(ほこ)矣,軍眾自聚。
 於是,使吾瓮海人烏摩呂(あへのあまをまろ),出於西海(にしのみち),令察有國耶。還曰:「國不見也。」又遣磯鹿海人名草(しかのあまなぐさ)而令覩,數日還之曰:「西北(いぬゐのかた)有山,帶雲橫絙,蓋有國乎。」
 爰卜吉日,而臨發(たちたまはむ)有日。時皇后親執斧鉞,令三軍(みたむろのいくさ)曰:「金鼓無節,旌旗錯亂,則士卒不整。貪財多欲,(うだき)私內顧,必為敵所虜。其敵少而勿輕(なあなづり),敵強而無屈(なおぢ)。則姧暴(をかししのがむ)(ゆるし),自服勿殺。遂戰勝者必有賞,背走者自有罪。」既而神有誨曰:「和魂(にきみたま)王身(おほみみ)而守壽命(みいのち)荒魂(あらみたま)先鋒(みさき)而導師船(みいくさぶね)【和魂,此云にきみたま(珥岐瀰多摩)。荒魂,此云あらみたま(阿邏瀰多摩)。】」即得神教而拜禮(をろがみ)之,因以依網吾彥男垂見(よさみのあびこをたるみ)祭神主(いはひのかむぬし)
 于時也 ,適當皇后之開胎(うみづき)。皇后則取石(さしはさみ)腰,而祈之曰:「事竟還日,產於茲土(ここ)。」其石今在于伊都縣(いとのあがた)道邊。既而則(をき)荒魂為軍先鋒,(をき)和魂為王船(しづめ)
 冬十月己亥朔辛丑(),從和珥津(わにつ)發之。時飛廉(かぜのかみ)起風,陽侯(うみのかみ)舉浪,海中大魚悉浮(たすく)船。則大風順吹,帆舶(ほつむ)隨波,不勞㯭楫(かぢかい),便到新羅(しらき)。時隨船潮浪,遠逮國中。即知,天神地衹(あまつかみくにつかみ)悉助歟。
 新羅(こにきし)於是戰戰慄慄(おぢわななき)厝身無所(せむすべなし)。則集諸人曰:「新羅之建國以來,未嘗聞海水(うしほ)凌國。若天運盡之,國為海乎?」是言未訖之間,船師(ふないくさ)滿海,旌旗燿日,鼓吹起聲,山川悉振。新羅王遙望,以為:「非常(おもひのほか)之兵,將滅己國。」(おぢ)失志(こころまとひぬ)。乃今醒之曰:「吾聞,(ひむがしのかた)神國(かみのくに),謂日本(やまと)。亦有聖王(ひじりのきみ),謂天皇(すめらみこと)。必其國之神兵也。豈可舉兵以距乎?」即素旆(しらはた)而自服,素組(しろきくみ)以面縛,封圖籍(しるしへふみた),降於王船之前。因以叩頭之曰:「從今以後,長與乾坤(あめつち),伏為飼部(みまかひ)。其不乾船柂(ふなかぢ),而春秋(はるあき)馬梳(うまのはだけ)馬鞭(うまのむち)。復不煩(いたつかず)海遠,以每年貢男女之調(みつき)。」則重誓之曰:「非東日更出西,且除阿利那禮河(ありなれがは)返以之(さかしま)流,及河石昇為星辰(あまつほし),而殊闕春秋之(まゐで),怠廢梳、鞭之貢,天神地祇共討焉(つみなへたまへ)!」
 時或曰:「欲誅新羅王。」於是皇后曰:「初承神教,將授金銀(くがねしろかね)之國,又號令三軍曰:『勿殺自服。』今既獲財國,亦人自降服。殺之不祥(さがなし)。」乃解其(ゆはひつな)為飼部,遂入其國中,封重寶府庫(たからのくら),收圖籍、文書(ふみ)。即以皇后所杖矛,樹於新羅王門,為後葉之印(のちのよのしるし)。故其矛今猶樹羅王之門也。
 爰新羅王波沙寐錦(はさむきむ)即以微叱己知波珍干岐(みしこちはとりかんき)(むかはり),仍齎金、銀、彩色(うるはしきいろ)(あやきぬ)(うすきぬ)縑絹(かとりのきぬ),載于八十(かはら)船,令從官軍。是以新羅王常以八十船之調,貢于日本國(やまとのくに),其是之緣也。
 於是高麗(こま)百濟(くだら)二國王聞新羅收圖籍降於日本國,密令伺其軍勢(みいくさ),則知不可勝,自來于營外(いほりのそと),叩頭而款曰:「從今以後,永稱西蕃,不絕朝貢(みつきたてまつる)。」故因以定內官家(うちみつやけ),是所謂三韓(みつのからくに)也。皇后從新羅還之。
 十二月戊戌朔辛亥(十四),生譽田天皇(ほむたのすめらみこと)於筑紫。故時人號其產處(うみところ)宇瀰(うみ)也。

 於是從軍神表筒男、中筒男、底筒男三神(をしへ)皇后曰:「我荒魂令祭於穴門(あなと)山田邑也。」時穴門直(あなとのあたひ)之祖踐立(ほむたち)津守連(つもりのむらじ)之祖田裳見宿禰(たもみのすくね)啟于皇后曰:「神欲居之地,必宜奉定。」則以踐立,為祭荒魂之神主。仍(やしろ)立於穴門山田邑(やまだのむら)

三、征韓凱旋,麛坂、忍熊謀反

 爰伐新羅之明年(辛巳),春二月,皇后領群卿(まへつきみたち)及百寮,移于穴門豐浦宮(とゆらのみや)。即收天皇之(みもがり),從海路(うみつぢ)以向京。
 時麛坂王(かごさかのみこ)忍熊王(おしくまのみこ)聞天皇崩,亦皇后西征,并皇子新生,而密謀之曰:「今皇后有子,群臣皆從焉。必共議之立幼主(いとけなきみこ)。吾等何以兄從弟乎?」乃(いつはり)天皇(仲哀)作陵,詣播磨(はりま)山陵(みさざき)赤石(あかし)。仍編船(わたし)淡路嶋(あはぢのしま),運其嶋石而造之。則每人令取兵,而待皇后。於是,犬上君(いぬかみのきみ)倉見別(くらみわけ)吉師(きし)五十狹茅宿禰(いさちのすくね),共隸于麛坂王。因以為將軍(いくさのきみ),令興東國(あづまのくに)兵。
 時麛坂王、忍熊王共出菟餓野(とがの),而祈狩(うけひがり)之曰:「若有成事,必獲良獸也!」【祈狩,此云うけひがり(于氣比餓利)。】二王各居假庪(さずき)赤豬(あかきゐ)忽出之登假庪,咋麛坂王而殺焉。軍士悉慄也。忍熊王謂倉見別曰:「是事大(しるまし)也。於此不可待敵。」則引軍更返,屯於住吉(すみのえ)
 時皇后聞忍熊王起師以待之,命武內宿禰:「懷皇子,橫出南海(みなみのみち),泊于紀伊水門(きのみなと)。」皇后之船直指難波(なには)。于時皇后之船迴於海中以不能進。更還務古水門(むこのみなと)而卜之。於是天照大神(あまてらすおほみかみ)誨之曰:「我之荒魂不可近皇后,當居御心廣田國(みこころのひろたのくに)。」即以山背根子(やましろねこ)之女葉山媛(はやまひめ)令祭。亦稚日女尊(わかひるめのみこと)誨之曰:「吾欲居活田長峽國(いくたのながをのくに)。」因以海上五十狹茅(うなかみのいさち)令祭。亦事代主尊(ことしろぬしのみこと)誨之曰:「祠吾于御心長田國(ながたのくに)。」則以葉山媛之弟長媛(ながひめ)令祭。亦表筒男、中筒男、底筒男三神誨之曰:「吾和魂宜居大津渟中倉之長峽(おほつのぬなくらのながを),便因看往來船(ゆきかよふふね)。」於是隨神教以鎮坐焉,則平得度海。忍熊王復引軍退之,到菟道(うぢ)而軍之。
 皇后南詣紀伊國(きのくに),會太子於日高(ひたか),以議及群臣。遂欲攻忍熊王,更遷小竹宮(しののみや)【小竹,此云しの(芝努)。】
 適是時也,晝暗如夜,已經多日。時人曰:「常夜行之(とこよゆく)也。」皇后問紀直(きのあたひ)豐耳(とよみみ)曰:「是(しるまし)何由矣?」時有一老父曰:「傳聞:『如是怪謂阿豆那比(あづなひ)之罪也。阿豆那比(あづなひ),或書誂倚(あづなひ)』」問:「何謂也?」對曰:「二社祝者(はふり),共合葬(あはせはぶれる)歟。」因以令推問巷里(むらさと),有一人曰:「小竹祝(しののはふり)天野祝(あまのはふり),共為善友(うるはしきとも),小竹祝逢病而死之。天野祝血泣(いさち)曰:『吾也生為交友(うるはしきとも),何(みまかり)之無宜同穴乎!』則伏(かばね)側而自死,仍合葬焉。蓋是之乎。」乃開墓視之,實也。故更改棺襯(ひとき),各異處以埋之。則日暉炳爃(てりかかやき),日夜有別(わきためあり)
 三月丙申朔庚子(),命武內宿禰、和珥臣(わにのおみ)武振熊(たけふるくま),率數萬眾,令擊忍熊王。
 爰武內宿禰等選精兵(ときいくさ),從山背(やましろ)出之,至菟道以屯河北。忍熊王出營欲戰。時有熊之凝(くまのこり)者,為忍熊王君之先鋒。【熊之凝者,葛野城首(かづののきのおびと)之祖也。一云,多吳吉師(たごのきし)遠祖(とほつおや)也。】則欲勸己眾,因以高唱(たかごゑ)之歌曰:

 時武內宿禰令三軍,悉令椎結,因以號令(のりごと)曰:「各以儲弦(うさゆづる)藏于髮中(たきふさのなか),且佩木刀(こだち)。」既而舉皇后之命,誘忍熊王曰:「吾勿貪天下,唯懷幼王(いとけなききみ),從君王(きみ)者也。豈有距戰耶?願共絕弦捨兵,與連和(うるはしみ)焉。然則,君王登天業(たかみくら)以安席,高枕專制萬機(よろづのまつりごと)。」則顯令軍中,悉斷弦解刀,投於河水(かは)。忍熊王信其誘言,悉令軍眾,解(つはもの)投河水,而斷弦。
 爰武內宿禰令三軍,出儲弦更張,以佩真刀(まだち),度河而進之。忍熊王知被欺,謂倉見別、五十狹茅宿禰曰:「吾既被欺,今無儲兵(まけのつはもの),豈可得戰乎?」曳兵稍退。武內宿禰出精兵而追之,適遇于逢坂以破。故號其處曰逢坂(あふさか)也。
 軍眾走之,及于狹狹浪栗林(ささなみのくるす)而多斬。於是血流溢栗林。故惡是事,至于今,其栗林之(このみ),不進御所(おもと)也。
 忍熊王逃無所入,則(よび)五十狹茅宿禰,而歌之曰:

 則共沉瀨田濟(せたのわたり)而死之。于時武內宿禰歌之曰:

 於是探其屍而不得也。然後數日之出於菟道河(うぢかは)。武內宿禰亦歌曰:

 冬十月癸亥朔甲子(),群臣尊皇后曰皇太后(おほきさき)是年也,太歲辛巳。即為攝政元年
 二年,冬十一月丁亥朔甲午(),葬天皇(仲哀)河內國長野陵(かふちのくにのながののみさざき)


明石神社
麛坂、忍熊王詣播磨,佯興山陵於赤石,竊興軍以謀社稷。赤石或云明石。詳為天皇作陵者,『萬象名義』云:「詳,詐也。」


務古水門 中國四國名所舊跡圖
按『延喜式神名帳:御心廣田國,攝津國武庫郡廣田神社。活田長峽國,攝津國八部郡生田神社。御心長田國,攝津國八部郡長田神社。大津渟中倉之長峽,攝津國住吉郡住吉坐神社。

熊之凝勸己眾歌:「遙遠彼方兮 茂茂斑斕松原者 欲渡菟道川 前行直攻彼松原 今舉槻弓起 副以鏑矢添圓鏃 高尚貴人者 貴人同士相結與 相好親友者 貴人同士互結與 去來爭鬥矣 吾等雄丈夫 玉極靈剋兮 內庭武內宿禰臣 吾意其腹內 豈詰磣砂其中乎 去來爭鬥矣 吾等雄丈夫


逢坂山關址

忍熊王喚五十狹茅宿禰歌:「去來吾君者 五十狹茅宿禰矣 玉極靈剋兮 內庭武內宿禰臣 彼以頭槌責 吾身既負此傷痛 不若如鳰鳥 亡身潛浪下

武內宿禰覓王屍歌:「淡海綿津海 今在彼海瀨田濟 放眼覓潛鳥 舉目探之不得見 不覺憤懣難平復

武內宿禰覓王屍歌 其二:「淡海綿津海 今在彼海瀨田濟 放眼覓潛鳥 其過近江越田上 吾在宇治捕而歸


仲哀天皇 惠我長野西陵


稚櫻神社 磐余若櫻宮
或云磐余稚櫻宮,神功、履中宮地。『古語拾遺』稱神功、履中朝作磐余稚櫻朝、後磐余稚櫻朝。

神功皇后壽太子歌:「香醇此御酒 此御酒兮非吾釀 稜威神酒司 鎮坐非俗常世間 佇岩杜康神 少彥名命少御神 此其豐壽祝 上壽起舞迴幾迴 此其神壽祝 上壽起舞踊狂亂 所釀以獻來 醇美御酒矣 願請暢飲兮 然然


宿那彥神像石神社 酒神少彥名

武內宿禰代太子答歌:「香醇此御酒 釀此杜康御酒者 今豎鼓臼邊 以彼鼓鳴助杵歌 吟詠且歌舞 所以釀兮美酒哉 醇美此御酒 實味酒 轉樂珍味矣 然然


魏志:三國志魏書
四、譽田別尊立太子

 三年,春正月丙戌朔戊子,立譽田別皇子(ほむたわけのみこ)為皇太子。因以都於磐余(いはれ)【是謂若櫻宮(わかさくらのみや)。】
 五年,春三月癸卯朔己酉(),新羅王遣汙禮斯伐(うれしほつ)毛麻利叱智(もまりしち)富羅母智(ほらもち)等朝貢。仍有返先質微叱許智伐旱(みしこちほつかん)之情。是以誂許智伐旱(こちほつかん),而紿之(あざむかし)曰:「使者(つかひ)汙禮斯伐、毛麻利叱智等告臣曰:『我王以坐臣久不還,而悉沒妻子為(つかさやつこ)。』冀蹔還本土(もとつくに),知虛實(いつはりまこと)而請焉。」皇太后則聽之,因以副葛城襲津彥(かづらきのそつびこ)而遣之。
 共到對馬(つしま),宿于鉏海(さひのうみ)水門。時新羅使者毛麻利叱智等竊分船及水手(かこ),載微叱旱岐(みしかんき),令逃於新羅。乃造蒭靈(くさひとかた),置微叱許智之(とこ)(いつはり)病者(やみひと),告襲津彥曰:「微叱許智忽病之將死。」襲津彥使人令看病。即知欺,而捉新羅使者三人,納檻中(ひとや),以火焚而殺。乃詣新羅,次于蹈備津(たたらのつ),拔草羅城(さわらのさし)還之。是時俘人(とりこ)等,今桑原(くははら)佐糜(さび)高宮(たかみや)忍海(おしぬみ),凡四邑漢人(あやひと)等之始祖也。
 十三年,春二月丁巳朔甲子(),命武內宿禰,從太子令拜角鹿笥飯大神(つぬがのけひのおほかみ)
 癸酉(十七),太子至自角鹿。
 是日,皇太后(とよのあかり)太子於大殿(おほとの)。皇太后舉(みさかづき)(さかほかひ)于太子,因以歌曰:

 武內宿禰為太子答歌(かへしうた)之曰:

 三十九年是年(ことし)也,太歲己未

 四十年

 四十三年

五、親交百濟

 四十六年,春三月乙亥朔(),遣斯摩宿禰(しまのすくね)卓淳國(とくじゅのくに)【斯麻宿禰者,不知何(かばね)人也。】
 於是,卓淳王末錦旱岐(まきむかんき)告斯摩宿禰曰:「甲子年七月中,百濟人久氐(くて)彌州流(みつる)莫古(まこ)三人到於我(ところ)曰:『百濟王(くだらのこにきし)聞東方有日本貴國,而遣臣等,令朝其貴國。故求道路(みち)以至于斯土。若能教臣等,令通道路,則我(こにきし)必深德君王。』時謂久氐等曰:『本聞東有貴國,然未曾有通,不知其道。唯海遠浪嶮(うみとほくなみけはし),則乘大船僅可得通。若雖有路津(わたり),何以得達耶?』於是久氐等曰:『然即當今不得通也。不若,更還之備船舶,而後通矣。』仍曰:『若有貴國使人來,必應告吾國。』如此乃還。」爰斯摩宿禰即以傔人(したがへるひと)爾波移與卓淳人過古(わこ)二人,遣于百濟國,慰勞(ねぎらふ)其王。
 時百濟肖古(せうこ)王深之歡喜而厚遇焉,仍以五色綵絹(いつくさのしみのきぬ)各一匹及角弓箭(つのゆみや),并鐵鋌(ねりかね)四十枚,(あたふ)爾波移。便復開寶藏(たからのくら),以示諸珍異曰:「吾國多有是珍寶,欲貢貴國。不知道路,有志無從。然猶今付使者,尋貢獻耳。」於是爾波移(にはや)奉事而還,告志摩宿禰。便自卓淳還之也。


韓國地圖
卓淳,或云㖨淳。『三國史記』卷卅四地理云:「大丘縣,本達句火縣。」現慶尚北道大邱。欽明帝二年,卓淳為新羅所滅。


沙比
沙比,近緣鉏海、歃良,【鉏、歃音同沙比。】今慶尚南道梁山。是為新羅、任那之國境。
按『禮記』月令云:「命有司,省囹圄。」蔡邕疏:「囹,牢也。圄,止也。所以止出入,皆罪人所舍也。」
『百濟記』、『百濟新撰』、『百濟本記』多為『日本書紀』所引,並稱百濟三書。皆已散逸。
六、百濟、新羅鬩以朝貢

 四十七年,夏四月,百濟 (こにきし)使久氐、彌州流、莫古,令朝貢。
 時新羅國調使(みつきのつかひ)與久氐共詣。於是皇太后、太子譽田別尊(ほむたわけのみこと)大歡喜之曰:「先王(さきのきみ)所望國人,今來朝之。痛哉,不逮于天皇矣。」群臣皆莫不流涕。仍檢校(かぞふ)二國之貢物。於是,新羅貢物者珍異甚多(にへさ),百濟貢物者少賤(すくなくいやしく)不良。
 便問久氐等曰:「百濟貢物不及新羅,奈之何(いかに)?」對曰:「臣等失道至沙比(さひ)新羅。則新羅人捕臣等禁囹圄(ひとや),經三月而欲殺。時久氐等向天而呪詛之(のろひとごふ),新羅人怖其呪詛而不殺。則奪我貢物,因以為己國之貢物,以新羅賤物相易,為臣國之貢物。謂臣等曰:『若(あやまる)此辭者,及于還日,當殺汝等(いましら)!』故久氐等恐怖而從耳,是以僅得達于天朝(みかど)。」
 時皇太后、譽田別尊責新羅使者,因以祈天神曰:「當遣誰人於百濟,將(かむがへす)事之虛實。當遣誰人於新羅,將推問(かむがへとはす)其罪?」便天神誨之曰:「令武內宿禰行議。因以千熊長彥(ちくまながひこ)為使者,當如所願(ねがひ)【千熊長彥者,分明不知其(かばね)人。一云,武藏國(むざしのくに)人,今是額田部槻本首(ぬかたべのつきのもとのおびと)等之始祖也。『百濟記(くらだき)』云:「職麻那那加比跪(ちくまななかひく)者,蓋是歟也。」】」於是遣千熊長彥于新羅責,以(みだれ)百濟之獻物(たてまつりもの)

七、再討新羅

 四十九年,春三月,以荒田別(あらたわけ)鹿我別(かがわけ)為將軍。則與久氐等共(ととのへ)兵而度之,至卓淳國,將襲新羅。時或曰:「兵眾少之,不可破新羅。」更復奏上沙白(さはく)蓋盧(かふろ),請增軍士。即命木羅斤資(もくらこんし)沙沙奴跪(ささなく)【是二人不知其(かばね)人也,但木羅斤資者百濟(いくさのきみ)也。】領精兵與沙白、蓋盧共遣之。俱集于卓淳,擊新羅而破之。因以平定比自㶱(ひしほ)南加羅(ありひしのから)㖨國(とくのくに)安羅(あら)多羅(たら)卓淳(とくじゅ)加羅(から)七國。乃移兵,西迴至古奚津(こけのつ),屠南蠻(ありひしのからくに)忱彌多禮(とむたれ),以賜百濟。於是其王肖古及王子貴須(せしむくゐす)亦領軍來會。
 時比利(ひり)辟中(へちう)布彌支(ほむき)半古(はんこ)四邑自然降服,是以百濟王父子及荒田別、木羅斤資等共會意流村(おるすき)【今云,州流須祇(つるすき)。】相見欣感(おもがしみ),厚禮送遣之。唯千熊長彥與百濟王,至于百濟國,登辟支山(へきのむれ)盟之。復登古沙山(こさのむれ),共居磐石(いは)上。時百濟王盟之(ちかひ)曰:「若敷草為(ゐしき),恐見火燒。且取木為坐,恐為水流。故居磐石而盟者,示長遠之不朽者也。是以自今以後,千秋萬歲(ちあきよろづよ),無絕無窮,常稱西蕃,春秋朝貢。」則將千熊長彥至都下(みやこ),厚加禮遇。亦(そへ)久氐等而送之。
 五十年,春二月,荒田別等還之(かへる)
 夏五月,千熊長彥、久氐等(かへりいたる)自百濟。
 於是皇太后歡之問久氐曰:「海西諸韓(わたのにしのもろもろのから)既賜汝國(百濟),今何事以頻復來也?」久氐等奏曰:「天朝鴻澤,遠及弊邑。吾王歡喜踊躍,不任于心。故因還使以致至誠(まこと)。雖(およぶ)萬世,何年非朝(つかへまつらさむ)。」皇太后敕云:「善哉(よきかも)汝言,是朕懷(わがおもふこと)也。」增賜多沙城(たさのさし),為往還路驛(みちのうまや)
 五十一年,春三月,百濟王亦(まだし)久氐朝貢。
 於是皇太后語太子(應神)及武內宿禰曰:「朕所交親(むつましみ)百濟國者,是天所致,非由人故。玩好(もてあそびもの)珍物(めづらしきもの),先所未有。不闕歲時(とき),常來貢獻。朕省此(まこと),每用喜焉。如朕存時,敦加恩惠(うつくしび)。」
 即年,以千熊長彥,副久氐等遣百濟國。因以垂大恩(うつくしび)曰:「朕從神所(あらはし),始開道路,平定海西,以賜百濟。今復厚結好,永(あがめ)賞之。」是時百濟王父子並顙致地(ならびにぬかづき)啟曰:「貴國鴻恩,重於天地。何日何時,敢有忘哉?聖王在上,明如日月。今臣在下,固如山岳。(とこしへ)為西蕃,終無貳心(ふたごころ)。」
 五十二年,秋九月丁卯朔丙子(),久氐等從千熊長彥詣之。則獻七枝刀(ななさやのたち)一口、七子鏡(ななこのかがみ)一面及種種重寶(たから)。仍啟曰:「臣國以西有水,源出自谷那鐵山(こくなのかねのむれ),其(とほき)七日行之不及。當飲是水,便取是山鐵,以永奉聖朝(ひじりのみかど)。乃謂孫枕流王(とむるわう)曰:『今我所通海東(わたのひむがし)貴國,是天所啟。是以垂天恩(みうつくしび),割海西而賜我,由是國基(くにのもとゐ)永固。汝當善脩和好(よしび),聚斂土物(くにつもの),奉貢不絕,雖死何恨。』」自是後,每年相續(あひつぎ)朝貢焉。
 五十五年,百濟肖古王(みまかる)
 五十六年,百濟王子貴須立為(こにきし)
 六十二年,新羅不朝(まゐでこず)
 即年,遣襲津彥(うつ)新羅。

 六十四年,百濟國貴須王(くゐすわう),薨。王子(せし)枕流王立為王。
 六十五年,百濟枕流王,薨。王子阿花(あくわ)年少,叔父辰斯(しんし)奪立為王。
 六十六年【是年,晉武帝泰初二年。晉『起居注』云:「武帝泰初二年十月,倭女王遣重(をさ)貢獻。」】
 六十九年,夏四月辛酉朔丁丑(十七),皇太后崩於稚櫻宮(わかさくらのみや)【時年一百歲。】
 冬十月戊午朔壬申(十五),葬狹城盾列陵(さきのたたなみのみさざき)
 是日追尊(おひたふとび)皇太后曰氣長足姬尊。是年也,太歲己丑

日本書紀卷第九 終


古奚津
皇軍屠南蠻忱彌多禮於古奚津。是今全羅南道康津。


辟支山
千熊長彥、百濟王共登辟支山盟之。今在全羅北道金堤。


七支刀
神功皇后攝政五十二年,久氐獻七枝刀、七子鏡等重寶。七支刀,谷那鐵山神鐵所鑄,今奉石上神宮。七子鏡者,以七小鏡周飾之鏡矣。『藝文類聚』天部梁簡文帝望月詩云:「形同七子鏡,影類九秋霜。」以喻滿月,故知為圓鏡。


神功皇后 狹城盾列池上陵

【久遠の絆】【卷第八】【卷第十】【再臨詔】