日本巫女史 第一篇:固有咒法時代
第七章、精神文化に於ける巫女の職務
巫女の職務を說くに當り、私は其を精神文化と物質文化の二つに區分して記述する事とした。勿論、此區分は、自分ながらも、決して學術的であると考へてゐる物では無い。全體、私が改めて言ふ迄も無く、巫女の職務と云へば、其悉くが信仰に基調を置いてゐるのであるから、精神文化を離れた物質文化等の在り樣筈は無いのであるが、併し同じ信仰に根差してゐる物の中でも、其間には直接的の物が有り、間接的の物が有る樣に、多少の相違の有る事は、又否定する事の出來ぬ事實である。神其の者としての巫女と、御陣女臈としての巫女とは、如何にするも、其間に職務の相違有るを認め無ければ成らず、更に、豫言者として巫女の職務と、收稅者としての巫女の職務とは、其對象に於いても、態度に於いても、徑庭の有る事を沒する譯には往かぬのである。其に、斯うして二つに區分する事が、讀んで貰うにも會得し易く、且つ記すにも便宜が有ると信じたので、非學術的であるとは知りながらも、試みて見たのである。而して茲に、精神文化とは、巫女の職務の中で、信仰と文學と藝術とに、特に交涉の深い物を抽出したのである。
第一節 神其の者としての巫女
巫女の發生を「
於成
(
をなり
)
神」信仰に在ると考へた私は、更に神其の者としての巫女の位置を說かねば成らぬのであるが、我が古代の文獻に現はれた所では、既記の如く、巫女の社會的位置は一段と引き下げられて、漸く神の代理者、又は神と人との間に介在する
憑座
(
ヨリマシ
)
としてのみ傳へられ、神託を宣べる時だけ神として崇拜されたのみで、更に民俗に見るも、傳說に徵するも、巫女を神其の者として信仰した事象を捉へる事が困難なのである。勿論、天照神である
大日靈貴
(
オオヒルムチ
)
を巫女として考覈する事が無條件に允さるるならば
〔
一
〕
、或る程度迄は、此事が明確に知り得らるるのであるが、併しながら、現在の學界趨勢と、社會感情とは、此至高神の民俗學的研究は或る程度迄差控へねば成らぬ狀態に置かれてあるので、此れは到底企てられぬ事である。其處で洵に窮余の一策ではあるが、他に相當の事例を見出して、間接的にも此れが記述を運ばねば成らぬのであるが、其には先づ內地の古俗を克明に保存した琉球の巫女信仰を知る必要が有ると信ずるので、左に折口信夫氏の所見を舉げ、然る後に內地の巫女に關する私見を述べるとする。、
生き神とか、
顯
(
アキ
)
つ神とか云ふ語は、琉球の巫女の上で、始めて云ふ事が出來る樣に見える。神と人との堺が明らかで無い。
(中略。)
神を拜むか、人を拜むか、判然し無い場合すら有る。
祝女
(
ノロ
)
(中山曰、巫女。)
殿內
(
ドンチ
)
に祀るのは、表面は
火神
(
ヒヌカン
)
であるが、是は單に
宅
(
ヤカ
)
つ神としてに過ぎ無い。
(中略。)
祝女
(
ノロ
)
自身は、『由來記』等に記した程、
(中山曰、『琉球國諸事由來記』の事。)
火神を大切にはしてい無い。
祝女
(
ノロ
)
の祀る神は別に有るのである。
正月には、村中の者が
祝女
(
ノロ
)
殿內を拜みに行く。最古風な久高島を例に取ると、其は確かに久高、
外間
(
ホカマ
)
(中山曰、地名。)
兩
祝女
(
ノロ
)
の火神を拜むのでは無い。拜まれる神は、
祝女
(
ノロ
)
自身であつて、天井に張つた
涼傘
(
リャンサン
)
と云ふ天蓋の下に坐つて、村人の拜を受ける。涼傘は神
天降
(
アフリ
)
の折に、御嶽に神と共に降ると考へてゐたのであるから、取りも直さず、
祝女
(
ノロ
)
自身が神であつて、神の代理或は、神の象徵等とは考へられ無い。併し、神に扮してゐるのは事實であつて、其が火神では無く、
太陽神
(
チダガナシ
)
若しくは
にれえ
神
(中山曰、常世から來る神。)
と考へられてゐる樣である。外間の
祝女
(
ノロ
)
殿內には、火神さへ見當ら無かつた位である。外間の
祝女
(
ノロ
)
或は、津堅島の
大祝女
(
ウフヌル
)
の如きは、其拜を受ける座で床を取り、蚊帳を釣つて寢てゐる。津堅の方は、其處で夫と共寢をする位である。
祝女
(
ノロ
)
自身が同時に神であると云ふ考が無ければ、斯うした事は無い筈である。
云云。(以上、『山原の土俗』(爐邊叢書本)に載せた「續琉球神道記」に據る。)
此折口氏の記事を基調として、更に前に引用した『
魏志
』倭人傳の卑彌呼條を考へ直して見たいと思ふ。
卑彌呼。事鬼道,能惑眾。年已長大,無夫婿,有男弟佐治國。自為王以來,少有見者,以婢千人自侍。唯有男子一人,給飲食、傳辭,出入.居處、宮室、樓觀。城柵嚴設,常有人持兵守衛。
云云。
『魏志』の倭人に關する記事は、恐らく帶方に居た支那人が、自分の見聞と、他人の見聞とを搗混ぜて、書いた物と思ふが、此鬼神に事へ、眾を惑すの一句は、支那人の知識から書いた物で、其實際は、卑彌呼は直ちに神であると信仰されてゐた物と考へられる。當時の支那人の知識から云へば、人が神である事は信ぜられ無かつたであらうし、且つ同じ樣に神と云つても、 我國と支那とは、神に對する觀念が異つてゐるので、支那流の巫覡思想で、斯くは鬼道に事へる者と記したに相違無い。卑 彌呼が、巫女──然も最高位の巫女である事は、私とても異存は無いが、併し其實狀にあつては、神其の者として民眾に臨んでゐたに違ひ無い。其は王と成つてから、見る者も少く、且つ千人の侍婢有るにも關わらず、唯男子一人有つて、飲食を給し 、辭を傳ふとあるのからも、知る事が出來る。
而して此男弟が在つて、治國を佐けたと有る一事は、當時の倭の國家成立と、社會組織とを考へる上に、極めて重要な る史料とすべき物が有る。即ち其頃の倭國に在つては、神──特に女性に限られた者が主權者として君臨していた事を傳へ てゐるのであるが、此れは國家成立が神意に依つて行はれ、社會組織が神掟に依つて定められてゐた事を證據立ててゐ る物である。換言すれば、神意を行ふ事が政治であり、神事を行ふのが祭祀であつた祭政一致時代の倭國に於いては、 卑彌呼の意は、直ちに神意であり、神事は即ち卑彌呼の事であつた。唯此れを執行する事を男弟が佐けたに過ぎぬので ある
〔
二
〕
。而して此れが一時代降ると、神其の者であつた女性主權者は、今度は己れが祀る神から託宣を受けて神意を述 べる樣に成り、此女性の兄、亦は弟が此れを承けて政治を行ふ事と成るのであるが、茲迄時代が降ると、我が古代にも、 其痕跡の在つた事が、やや明白に知られる樣な氣がするのである。
我國祭政は、
崇神朝
に於いて分離されたのであるが、其でも齋宮の初めと成られた
豐鍬入姬命
は
垂仁帝
の皇姊であり、次 の
倭姬命
は
景行帝
の皇妹であり、代代の齋宮が概して天皇の姊妹であらせられた事は、其古代の政治組織を殘した物で あつて、然も倭國の卑彌呼の其と共通した物が有つたのでは無からうか。
卑彌呼。事鬼道,能惑眾。年已長大,無夫婿,有男弟佐治國。自為王以來,少有見者,以婢千人自侍。唯有男子一人,給飲食、傳辭,出入.居處、宮室、樓觀。城柵嚴設,常有人持兵守衛。
云云。
更に、徵証としては、少しく不充分の嫌ひは有るが、『
常陸國風土記
』
行方郡當麻鄉藝都里條
に、
古有國栖,名曰
寸津毗古
(
キツビコ
)
、寸津毗賣二人。其寸津毗古,當
天皇
(
日本武尊
)
之幸,違命背化,甚无肅敬。爰抽御劍,登時斬滅。於是,寸津毗賣,懼悚心愁,表舉白幡,迎道奉拜。天皇矜降恩旨,放免其房。
云云
〔
三
〕
。
と有るのや、『
播磨國風土記
』
印南郡含藝里條
に、
志我高穴穂宮御宇天皇
(
成務帝
)
御世,遣丸部臣等始祖比古汝弟,合定國堺。爾時,吉備比古、吉備比賣二人參迎。於是比古汝弟娶吉備比賣,生兒印南別孃。
云云。
と有るのや、更に『
肥前國風土記
』
彼杵郡條
に、
昔者,
纏向日代宮御宇天皇
(
景行帝
)
,誅滅球磨噌唹,凱旋之時,天皇在豐前國宇佐海濱行宮,勒陪從神代直,遣此郡速來村,捕土蜘蛛。於茲,有人名曰速來津姬。此婦女申云:「妾弟名曰健津三間,住健村之里。此人有美玉,名曰石上神之
木蓮子玉
(
ヒタビダマ
)
。愛而固藏,不肯示他。」神代直,尋覔之,超山逃,走落石岑,即逐及捕獲。
云云。
と有るのや、未だ此外に、『
垂仁記
』に有る沙本毘古王と其妹沙本毘賣や、『賀茂緣起』に有る玉依日子と、其妹玉依日 賣等を重なる物として、兄妹又は姊弟の一對を物語中心とした物が多く傳へられてゐるのは、或は卑彌呼と男弟との 關係の如き事實の在つた事を意味してゐるのでは無いかと想はれる。我が古代に於ける家族相婚は、兄妹又姊弟間に行 はれるのが普通であつた
〔
四
〕
。古く妻を
吾妹
(
ワギモ
)
と稱したのは、此遺風であると考へられるのである。
〔
註第一
〕折口信夫氏は雜誌『民族』第四巻第二號「常世及び
客人
(
マレビト
)
」の記事中で、明確に天照神は最初の最高巫女也と言はれてゐる。
〔
註第二
〕卑彌呼が支配した倭國の所在地に就いては、今に學界に定說が無い程の難問題であるが、明治に成つて九州說を主張 する者は、白鳥庫吉氏・內藤虎次郎氏・橋本增吉氏を始め澤山有り。畿內說を主張する者は、三宅米吉氏・山田孝雄氏 等の外に澤山有る。私は民俗學的に見て、畿內說に加担する一人で、私見は曩に『考古學雜誌』に掲載した。
〔
註第三
〕寸津毗古・寸津毗賣と有るのから推して、此れを兄妹と見ずして夫妻と見るのは、古代民俗に必ずしも適當した物では無い。現に、『
常陸國風土記
』
那賀郡茨城里條
に、「古老曰,有兄妹二人,兄名努賀毗古,妹名努賀毗咩。」と有る樣に、此れは同胞と解するのが妥當である。そして
弟
(
オト
)
が妹であり、女性である用法も古代には往往有る。
〔
註第四
〕家族相婚は問題が風紀に關する物が多いので、餘り深く立入つて言ふ事は避け無ければ成らぬが、其でも其大體は拙著『日本婚姻史』に於いて觸れて置いた。參照を望む次第である。
第二節 司祭者としての巫女
神其の者であつた巫女は、同時に神に齋く祭官であつた。然るに時代の暢達は、神神を發達させた反對に、漸く巫女の社會的地位を引き下げる樣に成り、巫女も後には神託を宣べる時だけが神であつて、他は專ら司祭者としてのみ待遇される樣に成つてしまつた。而して此事象の由つて來たる所は、祖靈信仰に出發した原始神道に於ける神神の機能が、道徳的に解せられる樣に成つて一段の飛躍を為し、此れに反して、神に仕へる者は女性に限られてゐたのが、男子が其に代る樣に成つた為である。換言すれば、此事象は、神の方から云へば、血で繋がれた氏神が、地域を標準とする產土神と成つた事を意味し、巫女の側から云えば、家族的であつたのが、職業的と成つた事を意味してゐるのである。而して巫女が祭祀を司る樣に成つた過程と、職務の內容とに就いては、相當に複雜した信仰と推移が潛んでゐるので、茲には簡明を主とし、項を分けて記述する事とした。
一、墓前祭と巫女の職務
神に對して行うた祭祀の起源が墓前であつたか、社前祭であつたかに就いては、昔から相當に異說が存してゐる。其と同時に、世の所謂官僚神道家なる者は、兔角に社前祭說を主張して、墓前祭說を排斥する傾きが有る。勿論此れは神道の發生的方面を故意に閑卻して、無理勿體を付けたがる手段なのである
〔
一
〕
。併し、我國祭祀は、文獻的に見るも、民俗的に 見るも、墓前祭に始まつてゐる事は明確なる事實である。『
日本書紀
』の一書に、
伊奘冉尊生火神時,被灼而神退去矣。
故
(
カ
)
葬於紀伊國熊野之有馬村焉。
土俗
(
クニビト
)
祭此神之魂者,花時亦以花祭。又用鼓、
吹
(
フエ
)
、
幡旗
(
ハタ
)
、歌舞而祭矣。
云云。
と有るのが、祭祀の所見記錄であつて、然も墓前祭である事は、少しも疑ふべき餘地は無いのである。
更に此れを、民俗學的に見るも、墓前祭が社前祭より古い事が知られるのである。由來、太古民族は、人は死ぬと其靈魂 は黄泉國へ往く物と信じてゐたが、
(靈魂が地下の黄泉へ往かずして、天上の高天原へ往くと考へる樣に成つたのは、やや進步した信仰である。)
茲に考慮して見無ければ成らぬ問題は、其靈魂は何者の導きも待たずに、自然と其處へ往つた物であるか、其とも何者か其處へ往ける樣に導きをしたのであるかと云ふ事である。其と同時に靈魂が果して黄泉國へ往つたか否かと云ふ事を、何者が此れを証明したかと云ふ點である。而して此問題たるや、原始神道に於ける靈魂觀として、相當に關心し無ければ成らぬ事であるにも關はらず、從來の國學者とか、神道家とか云ふ者で、遂に此れに觸れた事の有るのを耳に為ぬのである。私の寡聞にして菲才なる、敢て此問題を說明し得るとは信じてゐぬけれども、茲に管見を記して是正を仰ぐとするが、私の考へを極めて端的に言へば、其等の事を行うた者は、即ち巫女であつたと信じてゐる。
私が改めて言ふ迄も無く、我が古代に於ける屍體の始末は、
素尊の言はれた
如く、「
顯見蒼生奧津棄戶
(
アオヒドグサノオキツスタヘ
)
。」で、野外に放棄する程の原始的の物であつて、未だ葬儀とか、葬禮とか云ふ物が、嚴かに執行はれてゐ無かつたのである
〔
二
〕
。斯く屍體が無造作に取扱はれたのに就いては、二つの理由が有る。第一は屍體は靈魂の抜け殻と考へた事で、第二は屍體の腐敗を嫌つた為である。而して此屍體を放棄する事が、巫女の職務なのである。我國で、祝──即ち巫祝の徒をハフリと稱する事に就いては、「
羽振
(
ハフ
)
りの義であつて、神官が著た淨衣の袖を鳥羽の如く振るので、此名有り。」と云ふ說も有るが
〔
三
〕
、元より
民間語原說
(
エスモロギー
)
であつて採るに足らぬ。此れに較べると、ハフリは
投
(
ハフ
)
るの意で、古く屍體を投棄てる役を勤めてゐたので、遂に此名を負ふに至つた物と解すべきである
〔
四
〕
。而して葬をハフリと訓んだ事も、又此意であつて、『
萬葉集
』
巻二
に、高市皇子殯宮時、柿本人麿が詠じた長歌の一節に、
言
(
こと
)
さへく、
百濟
(
くだら
)
の
原
(
はら
)
ゆ、
神葬
(
かむはぶ
)
り、
葬
(
はぶ
)
り
座
(
いま
)
して、
麻裳良
(
あさもよ
)
し、
城上
(
きのへ
)
の
宮
(
みや
)
を、
常宮
(
とこみや
)
と、
高
(
たか
)
くし
奉
(
たて
)
て、
惟神
(
かむながら
)
、
鎮
(
しづ
)
まり
ま
(
座
)
しぬ、……
(
0199
)
と有るのや、同集
巻十三
の長歌の一節に、
朝裳良
(
あさもよ
)
し、
城上
(
きのへ
)
の
道
(
みち
)
ゆ、
角障
(
つのさは
)
ふ、
石村
(
いはれ
)
を
見
(
み
)
つつ、
神葬
(
かむはぶ
)
り、
葬奉
(
はぶりまつ
)
れば、……
(
3324
)
と有るのは、其例証であつて、屍體を投棄した事から出た古語なのである。
然るに、古代に於いては、物を斬斷つ事も同じくハフリと言うてゐた。『
崇神記
』に、大毘古命が建波邇安王の兵と戰ひ、「亦斬
屠
(
波布理
)
其軍士,故號其地謂
波布理曾能
(
ハフリソノ
)
。」と有るのや、『
萬葉集
』
巻十三
の長歌の一節に、「
劍太刀
(
つるぎたち
)
磨
(
と
)
ぎし
心
(
こころ
)
を
天雲
(
あまくも
)
に
思散
(
おもひはふ
)
らし
臥轉
(
こいまろ
)
び
泥哭
(
ひづちな
)
けども
飽足
(
あきだ
)
らぬかも。
(
3326
)
」等を始めとして、此外にも斬る事をハフリと云うた例は多く存し、現に屠字をハフルと訓んでゐる程である。然らば何故に、我が古代に在つては、葬る事と斬る事とを同じくハフリと言はせ、併も其を巫祝の上迄及ぼして、此れをハフリと稱したのであらうか。問題は愈愈困難に成つて来たが、此れに對する私の考へは略ぼ左の如き物である。
私見に依れば、古く我國では屍體を葬る時は──勿論、其の悉くでは無いが、前に
辻占の條
に舉げた樣な變死を遂げた者の屍體は、此れを其の儘に葬る事無くして、屍體を幾つかに斬つて埋める民俗が存してゐたのでは無からうか。『記』・『紀』の神代巻に、諾尊が迦具土神を三段に斬つたと有るのは、諾尊が此神の為に冊尊を喪うたと云ふ單なる憤怒の餘りでは無くして、斯かる惡神は幾つかに斬つて葬る習はしの有つた事が、神話に反映したのでは無いかと想はれる
投
(
ハウ
)
るの意で、古く屍體を投棄てる役を勤めてゐたので、遂に此名を負ふに至つた物と解すべきである
〔
五
〕
。學友內藤吉之助氏が『史學』第三巻第七號に掲載された「喪かり考」は、此問題に對して、大なる暗示を投じてゐる物であつて、私も此れを披閲して、尠からず教へられた所が在つて存したのである。而して內藤氏に從へば、喪がりとは、從來の國學者が說けるが如き──殯宮の意味ばかりでは無くして、此間に於いて、屍體に何等の處置が加へられたに相違無い。
然
(
さ
)
れば、喪かりのかりは、必ずしも喪あがりの約語で無く、離す事をさ
かり
と云うた。其かりの意味であるとて、言外に屍體に加へられた處置なる物が、私が茲に云ふ截斷と同じ物である事を論じてゐる。實に卓見として敬服させられたのである。
我國古代に屍體を幾つかに截つて埋めた民俗の在つた事は、傳說として各地に存してゐる。斯う言ふと、其は支那の蚩尤傳說の輸入であると輕く斥けられるかも知れぬが、併し私としては、必ずしもさうだと許りは思はれぬ點が有る。茲に二三の傳說を舉げて、之に對する私見を述べるとする。屍體截斷の最古の物としては『
崇峻紀
』二年秋七月條に、物部守屋の資人
捕鳥部萬の屍體を梟する狀況
を記して、「河內國司,以萬死狀,牒上朝庭。朝庭下符稱:『斬之八段,散梟八國。』」と有るが、其である。若し私をして、想像を逞ふする事を許さるるならば、國史に載つたのは、僅に此一事だけであるけれども、國史に漏れた此種の事實が、他に存したと云つても、決して無稽だとは考へられぬ。
而して更に此れを民間傳承に覓めんか、先づ最も有名な物として誰でも知つてゐるのは、奥州安達ヶ原の黑塚傳說である。宮廷歌人であつた平兼盛が、「陸奥の安達ヶ原の黑塚に、鬼棲む也と云ふは誠か。」と詠んでから、此傳說は、專ら怪談として人口に膾炙される樣に成つてしまつたが、此れは當時の民俗として、姙婦が分娩に際し、其胎兒を產出せずして死亡した場合には、姙婦の腹を割いて、胎兒を取出して埋葬する事が行はれてゐたのを、居ながらにして名所を知る程の歌人が聽きかぢつて鬼とした為に、遂に怪談として傳はる樣に成つてしまつたのである。而して此民俗は、アイヌ民族の間に近年迄行はれたウフイと稱する物と全く軌を一にした物であつて
〔
六
〕
、內地に於いても明治中頃迄は各地に行はれた物である
〔
七
〕
。更に時代は降るが、陸奥國南津輕郡浪岡村
大字
五本松の加茂神社は、延曆年中に
坂上田村麿
が誅した女首惡路王の首を神體として祀り、隣村五鄉村
大字
本鄉の八幡神社は、同じ惡路王の片腕を祀つた物で、然も其神體は今に活きて損せずと云はれてゐるのや
〔
八
〕
、天慶亂に誅された平將門の首塚・胴塚・腕塚等が、東京を中心として各地に在る事等は
〔
九
〕
、共に屍體を分割して埋めた事を物語つてゐるのである。更に、丹波國北桑田郡周山村の八幡宮緣起に至つては、此傳說を最も詳細に盡してゐる。社傳に據れば、康平年中に源義家が安倍貞任の首を獲て歸洛し、此れを埋める場所を占はした所、四つに截つて東に山有り南に川有る池の四ヶ所に埋めよとの神託に依り、其地を覓めて同村に埋めたのであるが、猶ほ貞任の惡靈が荒びるので其を鎮める為に、宇佐八幡宮の分靈を勸請したのだと云うてゐる
〔
十
〕
。
未だ、此外にも、支解分葬の傳說は各地に存してゐるが、類例は別段に多きを以て尊しとせぬから他は省略するも、兔に角、我が古代で特種の屍體を截斷した民俗の有つた事は、事實として認めても差支無い樣に考へられる。勿論、此事實の發足點が、怨靈を恐れた信仰に由來してゐる事は言ふ迄も無く、時代の降るに從つて、此信仰は更に熾烈の度を加へて來たのであるが
〔
十一
〕
、後世に成れば、流石に支解分葬と云ふが如き野蠻の態度に出づる事も無く、漸く往來の頻繁なる道の辻に埋めて、惡靈の分散を防ぐ程度に成つてしまつたが、さて是れとても、其源流に溯つて見る時は、此支解の信仰の派生である事が知られるのである。
而して是等の慘忍なる仕事──即ち屍體を投棄したり截斷したりする役目こそ、當時の巫女の職務の中でも、殊に聖職として考へられてゐたのである。アイヌ民族に行はれた
燃剖
(
ウフイ
)
の主役は老婆であつて、鎌を揮て妊婦の腹を割く有樣は、凄絶を極めた物だと傳へられてゐる。琉球の洗骨も、此れに從事する者は女性に限られてゐて、然も此れとても凄絶眼を掩ふばかりであつたと云はれてゐる
〔
十二
〕
。優柔であるべき筈の女性が、此種任務に服する事は、後世の知識から云ふと、頗る矛盾してゐて、殆ど在り得べからざる樣に考へられるが、更に巫女史の立場から見る時は、此れは一種の性の倒錯であつて、女子に多くの神性を認めた時代に於いては、斯かる慘忍事は女子の役目として、社會も認め、亦女子自身も其を許して來たのである。猶ほ巫女の性の變換及び倒錯に就いては、後章に記す所ろがある。
靈魂と肉體との關係を、徹底的に二元と信じた原始期思想が、一轉して靈肉一元であると云ふ思想を培ふ樣に成れば、今度は投棄した屍體を大切に始末する民俗を見る樣に成るのは、當然の推移である。而して此思想を養ふに至つた原因は、種種存してゐるけれども、特に重要なる原因と成つた物は夢である。私は茲に原始民族に於ける夢の俗信を記そう等とは思つてゐ無いが
〔
十三
〕
、併し我國でも、古代に在つては、夢の信仰は相當に重大なる位置を占めてゐて、國家大事を決定するに夢を以てした例証は尠くなく
〔
十四
〕
、
現
(
アキ
)
つ神と云はれる者にあつては、隨時に夢を見る事の出來る樣に修養したので は無いかとさへ想はれる程である
〔
十五
〕
。
此夢に於いて、靈魂の遊離を知つた古代人は、其靈魂の宿る所は肉體であつて、然も人間は死後にあつても肉體さへ保存すれば、夢の如く靈魂が再び還宿る物と考へる樣に成り、斯くて肉體を保存させる樣に導いて來たが、其結果は屍體を生ける人間と同じ樣に待遇する迄に成つたのである
〔
十六
〕
。記・紀の『
神代巻
』の終り頃から、奈良朝の終りに至る迄の、所謂、考古學上の古墳時代と云ふのが、其信仰の最も旺盛の期間であつて、大規模の古墳を造り、石棺に斂め、殉死を強ひる等、極めて厚葬に努めた物である
〔
十七
〕
。而して此時期──即ち屍體を投棄した時代から、屍體を生ける人間と同じと見た時代迄は、靈魂の宿る所は墓地であつて、此れが祭祀は墓前に於いてのみ執行はれてゐたのである。前方後圓式
(別名を瓢型と云ふ。)
の墳墓が、後圓部に靈柩を斂め、前方部が祭場に當てられた物である事は、考古學的にも說明されてゐるが
〔
十八
〕
、更に民俗學的に言へば現在の名神・大社と云はれる神社の付近には、其祭神を葬つたと思はれる程の古墳を伴つてゐる事からも、此事實の在つた事が裏付られるのである。
記述が其から其へ脱線するが、墳墓を前方後圓に築き、其形式を瓢型に作つた事は、古く我國に於いて瓢は魂の入れ物と信じた民俗から出發してゐるのであつて
〔
十九
〕
、神社の起源が古墳に在る事は疑ふ餘地は無い。『神樂歌』に、「奥津城に、
皇神等
(
すめかみたち
)
を、
齋
(
いは
)
いこし、心は今ぞ、樂しかりける。」と有るのも其の証で、古くは墳墓即神社であつた。從つて墓前祭が、社前祭に先つて起り、然も其祭祀は巫女に依つて行はれた事も明確である。
二、靈魂の神への發達と巫女
萬有精靈
(
アニミズム
)
時代に在つては、總ての靈魂は神として崇拜されてゐたが、靈魂に善靈と惡靈と有る物と信ずる樣に成つて、茲に崇拜の分裂が生じ、更に善靈中に神格を認め、惡靈中に魑魅を考へる樣に成れば、靈魂は悉く神では無くして、其中の一部しか神となるべき資格の無い物と想ふ樣に成り、茲に信仰を教理的に解釋する迄に進んで來たのである。
我が古代で靈魂──即ち善靈を神にするのに就いて、如何なる形式が行はれたか、其は今から稽ふべき手懸りすら無い。現代習俗を基礎として、手近な例を舉げれば、菅原道真が薨去したのを、天滿宮と祭りさへすれば、其で昨日の人は今日の神 と成ると云ふ、極めて簡單な物にしか過ぎぬが、此例を以て古代を推す事は妥當で無いと信ぜられるが、
然
(
さ
)
りとて他に此れを說明すべき資料は寡聞に入らぬのである。然るに、琉球に於いては、靈魂が神に迄發達するには、相當の歲月を要し、併せて複雜なる形式を履んだ樣である。『東汀隨筆』第六回に左の如き記事が載せて有る。
第七 人家七世に神を生ずる事
我國
(中山曰、琉球。)
古來の習俗として、人家相繼して七世に及べば、必ず神を生じて尊信す。其神は只二位を設く、蓋し祖老以上始祖に至るの亡靈を以て神とする也。而して親族の女子二名を以て、神コデと稱し、之を任ぜしむ。一名はオメケーオコデと為し、一名はオメナイオゴデと為し、
(原註:「方言、男兄弟をオメケーと云ひ、姊妹をオメナヒと云ふ。」)
其神を祭る一切の事を掌る。其祭祀は、每年二月には麥穂祭と稱し、麥穂を薦む。三月には麥祭と稱し、酒香酢脯を薦む、五月には稲穂祭と稱し、酒香酢脯を薦む。亦族中課出金を以て祖考・祖妣の神衣を製し、祭祀每に神コデ二人
之
(
これ
)
を著て神を拜祭す。三月・五月の祭には、族中男女盡く來り、香を焚き禮拜す、コデの酌を受く。而して神の生ずる期月、三年の期月、七年の期月、十三年の期月、二十五年の期月、三十三年の期月には、酒香酢脯麩餅を具へて以て之を薦む。其費用悉く族中課出を為す。三十三年の期月を畢れば、其翌年復神を生じ、及び期月每に祭禮する事舊の如し。其コデの任命は專ら祖宗神靈の命ずる所に因る。豫め祖宗の神靈在り、其コデと為すべき者及び巫婦の身に附著して言語を為し、或はコデと為るべき者疾病を為し、其女コデと成る事を御請すれば即ち癒ゆ。是を以てコデと為る事を得る。コデは終身の職と為す。死する時は即ち其後任を選ぶ事復此の如し。故にコデ職は自ら命ぜられんと欲るも得ず、自ら免れんと欲するも得ざる物とす。
云云。(以上、片假名を平假名に改め、句讀點を加へた。)
此記事は種種なる意味に於いて、關心すべき多くの暗示を與へてゐるが、殊に七世にして神を生ず
(或は支那思想の影響かとも思ふが、私の學問力では判然し無い。)
と云ふ事は、即ち靈魂が神と成る過程を說明する物として考へたい。而して斯かる民俗が、古く內地にも存してゐたか否かに就いては、私は何等の耳福にも接してゐぬので餘り明白には言へぬけれども、此れに就いて思起される事は、土佐國長岡郡豐永本山等の山村に行はれた
御子神
(
ミコカミ
)
を祭る神事である。
茲に『御子神記事』により、其要領を摘記すると、同地方の神職其他の者で、先規に從ひ、御子神を祭つてゐる家筋が有る 。其家では人が死んで此れを御子神に祭らうとする時は、此れを旦那寺に斷り、亡父何右衛門事先例を以て後年神に祭る 故過去帳に御記し下されまじくと言つて置く。又、當時此斷りをせざりし者は、三年忌或は七年忌法事の節、此者先例を 以て今日より神に祭るを以て、過去帳の法名御消し下されと斷り、位牌を墓所へ捨てるのである。位牌を捨て無ければ神に成る事は出來ぬ。斯くて愈愈神に祭るのは、其年十一月氏神祭の日、神事の濟んだ後で、今日は是より何右衛門を神に祭る と云へば、子孫血緣の者が皆集り、
村長
(
ムラヲサ
)
を上座に招ぎ、太夫
(中山曰、神職也。)
二三人、又は四五人を賴み、其中の一人を本主の太夫と定め、白幣を振りて
楯食
(
タテクラ
)
へと云ふ儀式を行ふのである。在生中に正直を第一として惡事を
巧
(
たく
)
まぬ人は、唯一度の楯食へにて早速神の座に直るが、不正直であつて謀計多かりし者は、楯食へ五六度に及ぶも猶ほ神座に直らぬ事も有るが、其時は先ず此れ迄として置くのである。其より更に本主の太夫へ神を乗程り移すと稱して、何やら舞を舞つてゐると、やがて託宣が有る。曰く:「是より內は木葉の下のオボレ神にてありしが、大小氏子心を揃へ今日伊勢のミコが瀧へ請じられ、ホウメンをさましてやあら嬉しや。」と云ふ。答えに、大小氏子を揃へホウメンをさまします。大氏子小氏子惡事災難來候とも拂ひのけてちがへ守らせ給へと云ひ、やあら嬉しや嬉しやと舞ふ。御子神には名は附けぬが、其者子歲ならば子 歲御子神、丑歲なれば丑歲御子神と唱へ、年忌盆彼岸にも祭らず、唯氏神祭の日に
作初穂
(
ツクリハツホ
)
を出し神樂を舞つて貰うだけである。
(以上、土佐群書類從巻十所收。)
土佐の此記事を讀んで、更に琉球の民俗を考ふる時、何と無く、其間に、一脈相通ずる物が在る樣に思はれる。勿論、 土佐の其は、佛教や修驗道の影響を多く受けてゐて、其の元の
相
(
スガタ
)
は判然せぬ迄に雜糅してゐるけれども、仔細に其神事を檢討すると、琉球と同じく、靈魂の神への進化の過程と、儀式とを說明してゐる事が、會得されるのである。而して斯うした場合に其神事の中心と成つた者が巫女であつた事は、改めて言ふ迄も無い事である。
靈魂が神へ進化すると云ふ事は、他の語を以て云へば、即ち靈魂が神國
(此處では黄泉國よりは高天原の意。)
へ安住する事を得たと云ふ意味である。而して此靈魂を安住の國へ導く事が巫女の職務の一つであつた。記述が傳說から假說へと脱線する樣で少しく恐縮する次第であるが、全體、我が古代に在つて、人が死亡した折に、靈界に在る祖先に對して、此死人は其子孫であると云ふ事を、如何なる方法を以て證明したか、其を考へて見たいと思ふ。ずつと後世に成れば、旦那寺から授ける血脈なる物が、此代用を辨じてゐるのであるが、古代にも此れに似通つた信仰が在りさうに思はれる。勿論、佛教の血脈信仰の影響を受けた物に相違無いが、『熱田舊記』に熱田宮の神詠として、「彼世にて
何處
(
イヅク
)
の人と問ふたらば、熱田宮の者と答へよ。」と有るのは、神詠に假託した後世の俗歌ではあるけれども、斯うした信仰は我國にも存した所が、決して不思議では無いのである。我國に於けるトーテムの研究が進んでゐれば、此種問題も容易に解決される事と思うが、此れれは當分研究されさうにも見えぬので
〔
二十
〕
、
彌
(
イヤ
)
が上にも其解決に困難を感するのであるが、併し私に強辯する事を許さるるならば、我國の家紋起源は、實に此信仰と交涉を有してゐるのでは無いかと考へたい。
アイヌ民族間に行はれてゐる
神標
(
カムイシルシ
)
信仰は、極めて神聖なる物であつて、家長以外には絶對に知らせぬ事として、今に嚴重に秘密を守り、家長が死ぬ時に始めて相續人に告げ知らせる程の大切な物であるが、然も其
神標
(
カムイシルシ
)
とは、死者に持たせてやる其家の
合標
(
アイジルシ
)
であつて、アイヌは死人が出來ると、急いで家家に傳はる
神標
(
カムイシルシ
)
を木板に彫付けて死者の肌に付ける。此れさへ持つて往けば、靈界に於いて祖先が己の子孫である事を知つて保護してくれると信じてゐるのである
〔
廿一
〕
。
而して此れに似た思想は、南嶋の極地である琉球の與那國嶋にも現存してゐて、『與那國嶋圖誌』に據ると、「嶋家には夫夫ヤーハンと云ふ物が有つた。蓋し『家判』の意であらう。其は家紋よりもずつと廣い意味に用ゐられた。一方では屋號でもあ り、又其家を表示する記號でもあつた。以前は郵便物を配達するにも一一ヤーハンを封筒に記入して配つたと云はれてゐる。」と載せて有る。
此等の事を併せ考へる時、我國に行はれてゐる
輪鼓
(
リウゴ
)
や
入山形
(
イリヤマガタ
)
等と云ふ家家の記號も、其元形は斯うした思想をも含めてゐた物で、此れが始めはアイヌの
神標
(
カムイシルシ
)
の樣な物では無かつたかとも思はれる。そして此記號の意匠化された物、圖案化された物が、現時の家紋であると信じてゐる。胎兒の胞衣に父の紋所が現はれると云ふ俗信も、又此れと交涉が有るのでは無いかと考へる。而して是等合標を工夫したり、又は合標を死者に與へる事が、巫女の職務の一つであつたに違ひ無い。
死者が果して神國に安住したか否かを、知る──と云ふよりは占ふ方法は、古くから種種なる民俗が傳へられてゐる。此れも後世に成ると佛教に附會されてしまつて、成佛の
印
(
シルシ
)
とのみ解釋されてゐるが、其方法の如何にも原始的である所から推すと、卻つて我が古俗が佛教に取入れられた物と思はれるのである。而して其方法として、殆んど全國的に行はれた物は、死者を葬りし際に、墓上に青竹を三本サギテフ型に立てて結び、其中央から繩を下げ其先端に石を付けるのであるが、此繩が自然に腐朽して石が池上に落ちた時が、其死者の神と成つた時であると云ふ民俗である。更に此れを產婦の死の場合には、流れ灌頂とて、俗にサイミと稱する麻の粗布へ名號を記し、此れを竹にて低く四方に張り、通行者に水を掛けさせ、其布が腐れて穴が明けば成佛したと云ふのが、其である。元より私の寡聞かは知らぬが、斯くの如き原始的民俗は、佛教の渡來等よりは迥かに古き時代から在つた物と思はれるので、其起源は巫女が死者を取扱うた時分に工夫した物だと信じたいのである。
琉球各地では今に死人が有ると、四十九日目に
別靈
(
マブイワカシ
)
と云ふ事をするが、此れに就き故佐喜真興英氏の記された『
嶋
(
シマ
)
の話』に據ると、
七七日迄は亡者は未だ現世に殘ると信じられ、嶋人は每度食事を供へ、佛間に亡者の衣類を疊んで置いた。四十九日の供物を受け亡者は完全にあの世に行くと考へられた。四十九日の晚、マブイワカシ
(靈魂別れ。)
と云ふ儀式が行はれた。ユタ
(中山曰、內地の市子。)
が來て亡者の口寄せを為し、生者と別れを告げるのである。亡者の告別辭は固より種種雜多であるが、其內容は略同一で、何故に自分は死な無ければ成ら無かつたかと云ふ運命物語が其前半で、
然
(
サ
)
れば此れ此れ云云の事を宜しく賴む、
去來
(
イザ
)
さらばと云ふのが其後半であうた。
(中略。)
古くは此マブイワカシの儀式は、非常に重大なる意味を持つて居つたが、嶋人の知識が漸次進むに從つてユタの信用が薄く成り、マブイワカシも次第に形式化して來た。
云云。(爐邊叢書本。)
と有るのは、蓋し我が古俗を貽した物と考へる。今に內地の各村落でも、死人が有ると、初日に市子を賴んで死口を寄せて貰う事のあるのは、
彼之
(
カレコレ
)
共通の信仰を物語つてゐるのである。
三、社前祭と巫女の職務
神に對する觀念が固定するにつれて、神を祭る場所も固定した。此れが即ち神社の起源である。併しながら、我國の神神は、常には高き所に坐して、人の
祈
(
コ
)
いにより、
(又は突然に。)
或は定時に、或は臨時に、此世へ降つて來るのであつた。其と同時に、我國の神神は、分靈と云ふ事には殆んど無關心であつて、一神が百にも千にも分靈すると云ふ思想は、古文獻にも、原始信仰にも、曾て存してゐ無かつたのである。其であるから、我國の神社は、神が降つて來た時だけ宿る所であつて、神は何時でも社殿の奥に坐する者では無いのである。換言すれば、如在の神であつて常在の神では無いのである。祭禮の民俗に宵宮が有り、祭祀儀式に歸神神事が有るのは、良く此事象を說明してゐるのである。
然るに神社が固定するにつれて、巫女の社會的地位は、其と比例して、段段と低下せざるを得ぬ樣に成つて來た。此れは、神が其の時時に巫女に憑つて託宣をして祭らせた物が、日時と場所が一定する樣に成れば、一方に於いて男子神職が用ゐら れる樣に成り、一方に於いては巫女本來の職務は、此れが為めに大半迄失ふ事と成るので、低下すると同時に、輕視され る樣に成るのは、止むを得ぬ次第であつた。
例へば、『
尾張國風土記
』逸文丹波郡條に、
吾縵鄉
(
アヅラノガウ
)
。
卷向朱城宮御宇天皇
(
垂仁帝
)
世,品津別皇子生七歲而不語。傍問群臣,無能言之。乃後,皇后夢有神告曰:「吾多具國之神,名曰
阿麻乃禰加都比女
(
アマノミカヒメ
)
。吾未得
祝
(
ハフリ
)
,若為吾宛祝人,皇子能言,亦是壽考。」帝卜人
覓
(
マ
)
神者,日置部等祖建岡君卜食。即遣覓神時,建岡君到美濃花鹿山,
攀
(
ヲ
)
賢樹枝,造縵
誓
(
ウケヒ
)
曰:「吾縵落處,必有此神。」縵去落於
此間
(
ココ
)
。乃識有神,
因
(
カ
)
豎社。由社名里。後人訛言
阿豆良
(
アヅラ
)
里也
〔
廿二
〕
。
と有るが、此れが一段と古い所に溯れば、此祝は當然巫女で無ければ成らぬのに、斯く覡男が
卜食
(
ウラア
)
ふ事は神社の固定が神の觀念の固定から出發し、併せて覡男が巫女に代る樣に成つた事を暗示してゐるのである
〔
廿三
〕
。
斯う成れば神社にお於ける巫女は、祭神の朝夕御饌を供へるとか、神衣の世話をするとか云ふ、極めて輕い職務にしか與からぬ樣に成り、
(宮中の御巫に就いては
第三篇
に述べる。)
延いて社前祭にあつても神樂を奏するか、湯立をするか、其役割りは是亦輕からざるを得ぬ樣に成つてしまつて、纔に伊勢齋宮、賀茂齋院に、古い面影を留める迄に成り、遂に其結果は、多くの巫女は神社を離れて、古き傳への呪術を以て世に處す樣に成つたのである。
〔
註第一
〕平田篤胤翁は、神社神道を國體神道に引揚げるに急であつた為に、どちらかと云へば、多分に原始神道の面影を殘し てゐる物を、鈴振神道の、乞食神道のと賤めてゐる等は、其の一例である。現代神道觀にも、特に發生的方面を忘れ て、發達的方面ばかり說く傾きが有るが、其は決して穏當だとは思はれ無い。
〔
註第二
〕雜誌『民族』第二巻第五號に載せた伊波普猷氏の「南島古代葬儀」及び同誌次號の「南島古代葬儀補遺」に、琉 球の墳墓の事が詳記して有るが、殊に
野墓
(
ヌバカ
)
の如きは、全く古代の奥津棄戶を偲ばせる物が有る。而して斯かる民俗 は、內地に於いても、近世迄各地に存してゐた。『出羽國風土略記』に載せた「みさき」と云ふ葬法は、山林中へ屍體を投棄す るのである。更に「阿波志」に在る麻植郡宮島村の極樂壙の如きも、又た俗に「投げ込み」と稱する埋め方であつた。
〔
註第三
〕『增補語林倭訓栞』。而して羽振りの意に解したのも古い事で、『
萬葉集
』にも其証歌と見るべき物が三四載せてある。
〔
註第四
〕山本信哉氏から承つた所である。猶ほ同氏の研究に據ると、信州の姥捨は
小泊瀬
(
ヲハツセ
)
の訛語であつて、古く墓地だとの事である。卓見として敬服すべき物と考へてゐる。
〔
註第五
〕從來の學說に據れば、神話が元と成つて民俗が起る物だと云はれてゐたのであるが、現今では此の反對に、民俗が在つたので神話に反映したのだと云はれてゐる。私も此說に從つて、民俗と神話との關係を見てゐるのである。
〔
註第六
〕『アイヌの足跡』に此事が詳記して有る。此れに據ると、氣丈夫な老婆が其に當るのであるが、老婆は葬禮が濟むと、鎌を 以て姙婦の腹を割き胎兒を引出すが、慘狀目も當てられず、老婆の著衣は血で染まると有る。然も此野蠻事は、明治の 終り頃迄行はれてゐた。私は安達原の鬼とは、此民俗の傳說化であると考へたので、管見は『東北文化研究』第二號の 餘白錄に投じて採錄されてゐる。
〔
註第七
〕私の宅に五ヶ年間行儀見習に來てゐた磐城國石城郡植田町生れの松本かう子の談に、姊が難產の為に入院したが、其時親戚の者が集つて、若し死亡したら胎兒を引出して、其を母に抱かせて葬ら無ければ成らぬと相談した事を聽き、同地 方には昔から斯うした習俗の在し事を語つてくれた。更に學友長山源雄氏が來宅された時の談話に、氏の鄉里なる愛媛縣 地方では、其場合には胎兒を引き出し、亡母と背中合せにして埋葬すると聞いてゐるとの事であつた。而して是等の習俗がア イヌ族のウフイに交涉有る事は言ふま迄な無。
〔
註第八
〕『浪岡名所舊跡考』。
〔
註第九
〕雜誌『旅と傳說』第三巻十一號に掲載した拙稿『將門神社考』は極めて粗笨の物であるが、此問題に觸れてゐる。敢て參照を望む次第である。
〔
註第十
〕『京都府北桑田郡誌』。
〔
註十一
〕我國の怨靈崇拜は、平安朝時代が最も猛烈を極めてゐた。此れは同時代の文弱が、天下を舉げて神經衰弱時代たらしめ た結果であって、就中、その代表的のものは、菅公を北野神社と祭ったことである。併して此の怨靈崇拜は、明治時代まで繼 續したのである。
〔
註十二
〕琉球の石垣嶋測候所長を三十餘年間勤續してゐる岩崎卓爾翁が、私に語つた所に據ると、昔同島では、死者の埋葬後 三年目に洗骨をするのが常規と成つてゐるが、若し此三年間に死亡者が有ると、前の死亡者が一年か一年半しか經過して ゐ無くとも、洗骨し無ければ新な亡者を墳墓に斂める事が出來ぬ習俗なので、未だ生生しい亡者の洗骨をするのであるが、實 見した岩崎翁の言ふには、其は眼を掩ふばかりの慘忍事で、女子達は手に包丁とか鎌とか攜へて、屍體を引出して、骨に付 いてゐる肉を削取り、其を申譯ばかりの酒
(水一升に酒一合位の物。)
で洗ふのだが、殘酷と臭氣で堪へられぬと言ふ事であつた。
〔
註十三
〕夢で古代人が肉體の外に靈魂の在ると信じた事は、先覺も說いてゐるが、其と同時に、高熱の有る病氣も又た錯覺や幻 聽を起させる物で、此れにより靈魂が自己の身體から抜け出る事の有ると云ふ俗信を得た事も注意せねば成らぬ。
〔
註十四
〕『
日本書紀
』に
崇神帝
が、夢に依つて
太田田根古をして大物主神を祭らせた
事、及び同帝が豐城・生目二皇子に命じ て夢を見させ、其を判じて
皇太子を定められた
皇太子を定められた事等を始め、國家大事を夢に依つて決定した事例は頗る多く存してゐる。 古代人にとつては、夢は神人交通の方法として、殊に重大視せられてゐたのである。
〔
註十五
〕我が古代の權力者が臨時に夢を見る事の出來る樣修養されたのでは無いかと論じたのは、心理學者の小熊虎之助氏の 創見に掛かる所で、氏は『心理學研究』誌上に於いて、此事を說かれてゐる。
〔
註十六
〕私が改めて言ふ迄も無く、死後の生活を信じたればこそ、棺內に死者の手迴りの道具を入れてやるとか、更に經帷子を著 せてやるの、杖を持たせてやるのと云ふ俗信は、皆此れから起つた物で、墓參り等も、又此俗信に據る物である。
〔
註十七
〕殉死の蠻習が我が古代に在つたか、無かつたかに就いては、今に定說を聞かぬ所であるが、私は存在說を主張する者で、現在では記錄や傳說ばかりで無く、考古學的に遺物の上からも說明出來ると考へてゐる。
〔
註十八
〕梅原末治氏著『佐味田及新山古墳の研究』に其事が論じられてゐる。
〔
註十九
〕瓢が魂の入れ物であると云ふ俗信に就いては、柳田國男先生が『土俗と傳說』第一巻第二號から連載された「杓子の信仰 」に詳說されてゐる。參照を乞ふ。
〔
註二十
〕我國に於けるトーテムの問題に就いては、餘り學界の注意を惹いてゐぬが、私は此れに就いて短見を發表した事が有る。拙著『日本民俗志』に收めた「本邦に於けるトーテミズムの考察」が其である。
〔
註廿一
〕アイヌに生れて和歌を良くした故違星北斗氏から承つた。猶ほ此機會に言ふが、アイヌ民族は立派にトーテムを有してゐて、 今に其信仰を貽してゐる。而して違星氏の談に據れば、其カムイシルシを見ると、本家・分家・新宅等の關係が良く判然し 、更に溯れば其家家のトーテム迄判明するとの事であつた。故違星氏は、手宮驛頭の古代文字と稱せらるる物は、アイヌ の
神標
(
カムイシルシ
)
であるとて、此研究にも手を著けられてゐたのであるが、完成せぬ內宿痾の為に不歸の客と成られたのは遺 憾の事であつた。
〔
註廿二
〕大岡山書房から發行された『
古風土記
逸文』に據つた。猶ほ此假名交り文は、栗田博士の旁訓を移した物である事を付記する。
〔
註廿三
〕『
肥前國風土記
』の
基津郡姬社鄉條
に、此れと同巧異曲の文が載せて有るが、此れも巫女の勢力が漸く劣へて、男覡が此れに代つた傾向を知るべき史料である。
第三節 靈媒者としての巫女
我が古代人が、高天原に在す神神を地上に
招降
(
オギオロ
)
すに就いて、如何なる方法が最も原始的かと云ふに、私の考へた所では、神の
憑代
(
ヨリシロ
)
として樹てたる御柱
(故愛山氏が韓國の神桿と似た物と論じた物である。)
の周囲を
匝
(
メグ
)
る事であつたと信じてゐる
〔
一
〕
、諾冊二尊が天御柱を行廻られたのは即ち其であつて、今に信仰に篤き者が神社に詣でた折に社殿を匝るのは、此面影を傳へてゐる物と考へるのである。併しながら、是れは單に高きに在す神を地上に降すだけであつて、其
降
(
オロ
)
した神を身に
憑
(
ヨ
)
らしめ、然も神意を人に告げる所謂「靈媒者」又は「託宣者」と成るには、如何なる方法が用ゐられたであらうか。而して私は是れに就いては、二つの方法が存したと考へてゐる。即ち第一は、既述した鈿女命の場合に見えし如く、空槽伏せて踏轟かし、跳躍して
顯神明之憑談
(
カムカガリ
)
の狀態に入るのと、第二は畏くも神功皇后が行はせられた方法である。『
日本書紀
』
巻九神功皇后九年條
に、左の如き記事が載せて有る。
三月壬申朔,皇后選吉日入齋宮,親為神主。則命武內宿禰令撫琴,喚中臣烏賊津使主,為
審神者
(
サニハ
)
。因以千繒高繒置琴頭尾,而請曰:「先日教天皇
(中山曰,仲哀天皇。)
者誰神也?願欲知其名。」逮于七日七夜,乃答曰:「神風伊勢國之,百傳度逢縣之,拆鈴五十鈴宮所居神,名撞賢木嚴之御魂天疏向津媛命焉。」亦問之:「除是神,復有神乎?」答曰:「幡荻穗出吾也。於尾田吾田節之淡郡所居神之有也。」問:「亦有耶?」答曰:「於天事代,於虛事代,玉籤入彥嚴之事代神有之也。」問:「亦有耶?」答曰:「有無之不知焉。」於是審神者曰:「今不答而更後有言乎?」則對曰:「於日向國橘小門之水底所居,而水葉稚之出居神。名表筒男、中筒男、底筒男神之有也。」問:「亦有耶?」答曰:「有無之不知焉。」遂不言且有神矣。時得神語,隨教而祭。
云云。(國史大系本。)
神功皇后征韓の大事業は、我が國家の發展上に一時代を劃した偉勲であつた。從つて、此れを遂行せらるるに就いては、當時の習禮と成つてゐた神神の加護を仰ぐ為、神意に聽く事と成つてゐたので、皇后の尊き御身でありながら、此神事を行は せられたのである。其故に、其儀式に於いて莊重を極め、其精神に於いて原始神道の古義を遵び、我が三千年歴史を 通じて、寔に一例しか見る事の出來ぬ聖範を貽されてゐるのである。『
日本書紀
』に據れば、皇后は、一年間に三度迄も 神に
託
(
ツカ
)
れてゐて、全く神人としての生活を送られてゐたのである。本居翁が、「此大后に斯く神
託
(
ヨラ
)
し賜へりしは、 尋常の細事には非ず、永く財寶國を言向定賜へる起本にしあれば、甚も重き事ぞかし。」と說かれし如く
〔
二
〕
、國運を賭して の出征を神慮に聽くのであるから、皇后の御心盡し拜察するだに畏き事である。而して此大事を決定すべき神意が、如何に して傳へられたか、それを前掲の『
日本書紀
』の記事に徵すると、
一
、吉日を選んで齋宮に入られた事
二
、皇后親らが神主と成られた事
三
、武內宿禰に琴を彈かせ、然も其琴の頭尾に千繒高繒を置かれた事
四
、
烏賊津使主
(
イカツノオミ
)
を
審神
(
サニワ
)
と為し、問答體を以て託宣せられた事
五
、七日七夜に逮んで祈念せられた事
六
、託宣は韻文的の律語を以て為された事
が知られるのである。私は此記事こそ、古代巫女の作法を考覈する上に全く唯一無二の重要なる物と信ずるので、此れに 關する先覺の研究を參酌し、私見を併せ加えて、やや詳細に記述したいと思ふのである。
第一は、皇后が吉日を選んで齋宮に入られた事であるが、當時、我國には
日奉部
(
ヒマツリベ
)
と稱して、日の吉凶を判定する部曲が有つた
〔
三
〕
。此れが後に
日置部
(
ヘキベ
)
と成り、國國に土著して、專ら天文道の曆日の事を掌つてゐたのである。祝詞等にも、「八十日
は
(
波
)
在
とも
(
止毛
)
今日
の
(
能
)
生日
の
(
能
)
足日
に
(
爾
)
」と見えてゐるから、古くから日の吉凶を定める信仰と、方法とが存してゐたに違ひ無い。齋宮は、皇后が此神事を行はせ賜ふに就き、新に設けられた物で、今に其故址が筑前國糟屋郡山田村
大字
豬野に在ると云ふ事である
〔
四
〕
。斯く吉日を選んで齋宮に入り、神事を行はれたのは、此神事の目的が、前に述べた樣に國家の運命にも關する程の重大事であつたので、斯く莊嚴を極めた物と考へる。『
神武紀
』等にも、戰前亦は戰爭中に、神慮を問はせられた事も有るが、此れ程に重く取扱は無かつたのは、其事件の輕重に依られた事と思はれる。
第二に、皇后が專ら神主と成られた事であるが、此れには先づ神主と云ふ語義から考へて見る必要が有る。我國で神主の語の初見は、『
古事記
』
崇神朝
に、
以意富多多泥古命為神主,而於御諸山拜祭意富美和之大神。
云云。
と有るのが、其である。而して此語義に就いて、本居翁は、「神主は、
神
(
カム
)
に奉仕る
主人
(
ヌシ
)
たる人を云ふ稱也。」と先づ定義を下し、更に、
思に、神主と云ふ稱は、元此段
(中山曰、神功紀。)
の如く、神命を請奉る時に、其神託て
命宣
(
ミコトノリ
)
あるべき人を、初より定設くる其人を云ふ稱にぞ在けむ、斯くて復神に奉仕る人を云ふ稱と為れるも、
神託
(
カムガカリ
)
の為に設くる人より
映
(
ウツ
)
れる成るべし。
と說明してゐる
〔
五
〕
。此れに從ふと、神主とは、神の託宣を人に
中言
(
ナカコト
)
する者と云ふ狹義の物と成つてしまうのである。飯 田武鄉翁は本居說を認めながらも、猶ほ、
神主は、
神
(
カム
)
に奉仕る
主人
(
ヌシ
)
たるを云ふ稱なる事は元よりなれど、此に斯く皇后の親ら神主と為賜へるを以思ふに、並べて神に奉仕する稱とは代りて、いと重かるべし。
(中略。)
大后に神の
託
(
ヨリ
)
て坐ける事も、神主と為て神の
依坐
(
ヨリマシ
)
と定 まり賜へるが故也。
と論じてゐるが、少しく徹底せぬ嫌ひが有る
〔
六
〕
。更に鈴木重胤翁は、
神主とは、神に仕奉る人の中の長者を云ふ、『
神代紀
』に、「齋主神號齋之大人。」と有る意ばへを察むべし。
と簡單に說いてゐるが、頗る物足らぬ物が有る
〔
七
〕
。而して是等の諸說に較べると、荻生徂徠が、
神主と云ふは、昔は其神の子孫を神主としたる也、喪主等の心也。
と云つたのは
〔
八
〕
、兔に角に一見識を有してゐた物と思はざるを得ぬ。
併しながら、私をして露骨に、且つ放膽に言はせると、是等の先覺の諸說は、悉く字義に拉はれて、我が古代の民俗を忘れた物にしか過ぎぬのである。換言すれば、神主なる者が、神祇官流の神道に固定した後の解釋であると同時に、文獻の上から ばかり立論して、神主の發生と發達の過程を疎卻した謬見である。私の考へを極めて率直に言へば、神主は即ち
神主
(
カムザネ
)
であつて、神其の者であると信じてゐる。其で無ければ、信州の諏訪神が、「吾に神體無し、
大祝
(
オホハウリ
)
を以て神體と為す。」と託宣した事や
〔
九
〕
、併せて此大祝が
現神
(
アキツカミ
)
として民眾に臨んだ理由が判然せぬ。更に出雲國造が、同じく現神として多年の間を通じて、深き崇拜を民眾から受けてゐた事や
〔
十
〕
、更に伊豫三島社の大祝が、半神半人として大なる信仰を
維
(
ツナ
)
いでゐた事が、解釋されぬのである
〔
十一
〕
。而して此神其の者であつた神主が、時勢の推移に依つて、信仰に動搖を來たし、神の內容にも變化を生じた結果は、遂に祭られる神と仕へる人との隔離と成り、後には祭神と神主とが全く別物の樣に理解され、認識される樣に成つたのである。併し神主が神其の者であると云ふ原始的の信仰は、神道の固定する迄は、永く民心を支配してゐて、此れを證明すべき民俗學的の事實は相當に多く存在してゐるのである。殊に
御子神
(
ミコガミ
)
の發生は、此信仰と民俗とに負ふ所が深甚であるが、此れに就いては、後段に述べる機會が有ると信ずるので、茲には注意迄に言ふとして、姑らく預るとする。私は此立場から、皇后が親ら神主と成られたと云ふ意味は、古くは神其の者と成つたと傳へてゐたのが、『
日本書紀
』が文字に記される時分には、夙くも此信仰が薄らいでゐたのと、神主と云へば神社に仕へる者と云ふ合理的の解釋が行はれてゐたので、斯かる記事と成つて殘された物と考へるのである。
第三の神を祭る折に琴を彈く事であるが、此事は關係する所が頗る廣く、且つ巫女の降神術にも交涉を有してゐるので、精しく述べて見たいと思ふ。元來、我が古代人は、琴音と、鈴響きとは、神聲を
象徵
(
シンボライズ
)
した物だと固く信じてゐたのである
〔
十二
〕
。現今でも神社へ參詣した者が、社殿に架けて有る鈴を鳴らすのは、神聲を聽かうとした
虔
(
ツツ
)
ましき態度の名殘りである。神に仕へる者の中で、殊に神に寵せられた巫女が、鈴を手にしたのも、此れが為である。其を齋藤彦麿翁が、「神拜の時に、鈴を振るは故實なるか。」と設問して、「
古
(
イニシヘ
)
はさる事無し。」云云と、事も無げに答へてゐるのは
〔
十三
〕
、本居翁の學風を承けた、私の所謂文獻神道の欠陷を暴露した物である。更に平田篤胤翁が古神道の面影を忠實に傳へてゐる巫覡を目して、猖んに、「鈴振り神道。」と罵倒してゐるのは、此れも私の所謂ブルヂョア神道の管見であつて、採るに足らぬ。是等に比較すると荻生徂徠が、「神道と云ふは、巫覡が神に
事
(
ツカ
)
ふる道也。」と喝破したのは
〔
十四
〕
、學問的には傾聽すべき物が有る。琴と鈴とは原始神道に於いては神聲として尊ばれてゐたのであつて、大己貴命が素尊の許から須勢理比賣命と攜へて奔る折に、生弓矢・生太刀と共に、天詔琴を忘れ無かつたのは
〔
十五
〕
、此信仰の古くから在つた事を證する物である。更に歴聖が即位の大禮として大嘗祭を行はせられ、天皇が親しく新穀を天神に供へる折に、御鈴神事が有るのは、蓋し此意味に外成らぬと拜察するのである。
原始神道に於ける神神と、琴及び鈴
(其他の笛、鼓等の樂器。)
との關係を說くのは、餘りに埒外に出るので省略するが、斯く初めは神聲として信じられてゐた琴や鈴は、後には使用目的が變つて來て、琴は神を
招降
(
ヲギヲロ
)
す折の樂器として、鈴は神を愉悦させる樂器として用ゐられる樣に成つた。併しながら、二つとも神聖なる物として、神を降すに琴、神を慰めるに鈴を、缺く事の出來ぬ物とした點は、古今共に渝る事が無かつた。前にも引用した延曆の『皇大神宮儀式帳』九月神嘗祭條に、
以十五日,
(中略。)
以同日夜亥刻時,御巫內人
を
(
乎
)
,第二御門
に
(
爾
)
令侍
て
(
弖
)
,御琴給
て
(
弖
)
,請天照座大神
の
(
乃
)
神教
て
(
弖
)
,即所教雜罪事
を
(
乎
)
、候禰宜舘始。內人物忌四人,館別解除清畢。
云云。
と有るのは、其徵證である。其から、『
萬葉集
』
巻九
に、「
神奈備
(
カムナビ
)
の、
神依板
(
カミヨリイタ
)
に、する
杉
(
スギ
)
の、
思
(
オモ
)
ひも
過
(
ス
)
ぎず、
戀
(
コヒ
)
の
繁
(
シゲ
)
きに(
1773
)」と有る神依板は、即ち琴の意であつて、出雲大社でも、此種神依板を近年迄用ゐてゐたと云ふ事である
〔
十六
〕
。更に、神功皇后が神を祭る際に、武內宿禰に琴を彈かせたのも、又、神依板としての呪具と考へられるのである。そして『
武烈紀
』に、「
琴頭
(
コトガミ
)
に、來居る影媛、珠ならば、吾が欲る珠の、鰒白珠。」と有る樣に、神は琴音に引かれて天降られる物と信じてゐたのである。
然るに、後世の巫女
(私の所謂口寄系の市子。)
が降神の際に、大弓・小弓を叩き、此弓の起源は、古代天鈿女命が琴の代りに六張の弓を並べて弦を叩きしに由る等と言うてゐるのは、此れは何事にも無理勿體を付けたがる陋劣なる心理から出た物で、我が古代の正しい記錄には、斯かる事は全く見えず、且つ神を降すに弓を用ゐる事は、我が固有呪術では無いと考へてゐるので、此事は巫女の徒が弓を用ゐ始めた支那の呪術の輸入された習合時代に詳述する事とする。
更に
神降
(
カミオロ
)
しする琴の頭尾に、千
繒
(
ハタ
)
高
繒
(
ハタ
)
を置いたと云ふ事に就いては、古くから學者の間に異說があつて、今に定說を聞かぬのであるが、私の專攻してゐる民俗神道學の方面から見ると、繒は即ち旛の意であつて、細長い小旛を幾本か立てたのを、斯く千繒・高繒と形容した物と考へてゐる。而して此小旛を立てる目的は、琴音に連れて降りし神が步んで來る道標に外成らぬ物であつて、賀茂の
御阿禮
(
ミアレ
)
神事の折に、阿禮木に附ける
阿禮旛
(
アレハタ
)
と同じ物であると信じてゐる。更に民俗學的に言へば、蒙古のハタツクと稱する、一本箭の頭の所へ一面の鏡と、長さ二・三尺程の色布とを結びつけた
〔
十七
〕
其布と、同じ
活
(
ハタ
)
らきを持つ物と考へてゐる。更に一段と手近の例を示せば、三河國北設樂郡の山村に殘つてゐる花祭の踊りの庭に、ボテ
(梵天の意か。)
から湯蓋
(湯立釜を覆へる物。)
迄、中空に曳架ける繩と同じく
〔
十八
〕
、神の來る道の標と見るのが穏當であらうと考へるのである。
第四は、烏賊津使主
(中山曰、『新撰姓氏錄』には雷大臣に作る。宗源神事の中臣系の人で卜部である。)
を
審神
(
サニワ
)
と為された事であるが、此審神とは『政事要略』第二十八賀茂臨時祭條に、『神后紀』を引き、其分注に、「審神者,言審察神明託宣之語也。」云云と有り
〔
十九
〕
、更に『釋日本紀』巻十一述義條に、「兼方案之:『審神者也,分明請知所案之神之人也。』」と有る
〔
二十
〕
。此兩說で、審神の解釋は、要を盡してゐるのであるが、猶此れを平易に言へば、審神とは神の憑代と成れる者に問掛け、答へを得て、其託宣の精細と諒解とを圖る者である。後世修驗道の間に行はれた
憑
(
)
り祈禱の場合には、神の憑代と成る者を中座
(又は御幣持ち、ヨリキとも云ふ。)
と稱し、審神の役に當る者を
問口
(
トイクチ
)
と稱した物である。口寄の市子にも又た此種の役割が有つて、信濃巫女では荷持と稱する者が是れに當つた。詳細は後章に記すので、茲では概要を述べるに止める。
第五の、七日七夜に
逮
(
オヨ
)
んで皇后が神を降す事に努めたと有るが、此日時の間に於いて、如何なる作法が行はれたかは、記錄が無いので、何事も言ふ事が出來ぬ。勿論、神を降す太祝詞も有つたらうし、此れに伴ふ神秘的の祭儀も伴ふてゐた事と想ふが、茲には其以上に言ふべき何等の手掛りさへ有してゐぬのである。唯是れに就いて想起こされるのは、古く我國で神を招降す場合に、如何なる
呪文
(
Spell
)
と云はうか、
禱文
(
Charm
)
と云はうか、兔に角に此れに類した祝詞の樣な物が有つたか、無かつたかと云ふ一事である。元より後世の記錄ではあるが、『皇大神宮建久年中行事』に載せた左の記事は、少し でも此事を考へさせる資料に成ると信ずるので、茲に要點だけを抄錄する。
六月十五日,御占神事。
(中略。)
御巫內人,
【衣冠。】
自外幣段
鵄尾
(
トヒノヲノ
)
御琴請。
(中略。)
次以笏御琴搔三度,度每有警蹕,次奉下神,其御歌。
阿波利矢
(
アハリヤ
)
。
遊波須度萬宇佐奴
(
アソビハストマウサヌ
)
。
阿佐久良爾
(
アサクラニ
)
。
天津神國津神
(
アマツカミク ニツカミ
)
。
於利萬志萬世
(
オリマシマセ
)
。
阿波利也
(
アハリヤ
)
。
遊波須度萬宇佐奴
(
アソビハストマウサヌ
)
。
阿佐久良仁
(
アサクラニ
)
。
奈留伊賀津千毛
(
ナルイカ ツチモ
)
。
於利萬志萬世
(
オリマシマセ
)
。
阿波利也
(
アハリヤ
)
。
遊波須度萬宇佐奴
(
アソビハストマウサヌ
)
。
阿佐久良仁上津大江
(
アサクラニウハツオホエ
)
。
下津 大江毛
(
シタツオホエモ
)
。
摩伊利太萬江
(
マヰリタマエ
)
。
于時大物忌父,正權神主,不淨不信疑以人別姓名,為某神主若有不淨事申。
(中略。)
御琴搔內嘯,件嘯音鳴以清 知,以不鳴不淨知也。
(中略。)
其後又御巫內人三度御琴搔,警蹕之後奉上神,御歌如本,但所奉下神御名申,今度歸御申。
云云。(續群書類從本。但し御歌の訓み方は伴信友翁に從つた。)
更に伴信友翁の『正卜考』の附記に據ると、次の如くである。
此事を、內宮の神官に尋問たるに、此御占神事、今も
御占神態
(
ミウラカワザ
)
とて、僅かに片ばかり行ふに、琴板とて、凡長二尺五寸ばかり、幅一尺餘、厚一寸餘なる檜板を用ふ、其を笏にて敲く態を為と云へり、其は後に琴を板に代へ、笏以て敲く事とせるなるべし。
云云。
私は茲に是等の御歌の內容を一一精查する事は避けるが、其措辭の古雅なる點から推し、更に儀式の簡素なる點から見 て、此御歌の決して中古の作で無い事だけは信じてゐる。其かと言つて、勿論、此御歌を神后期迄引上げやうとする 者では無いが、兔に角に斯うした神降しの御歌なり禱文なりが、神后の場合にも存した事と想つたので、其參考として長長と 書付けた次第である。猶ほ附記して置くが、我國に於ける神降しの呪文とも見るべき物で、私の寡見に入つた物では、是れ が最初の物である。其點から言ふも、此御歌の學問的価値は、かなり高い物と云はざるを得ぬのである。
第六の託宣が韻文的の律語──即ち古き歌謠體を以て為されてゐる事であるが、此れも我國文學の發生を知る上に注意すべき重點である。託宣と文學の交涉に就いては、別に詳記したいと考へてゐるので、茲には後文と衝突するのを恐れて略述するが、始め神功皇后が審神の問ひまへらせしに對して、
神風伊勢國
(
カミカゼノイセノクニ
)
之,
百傳度逢縣
(
モモツトフワタラヒカタ
)
之,
折鈴五十鈴宮
(
サククシロノイスズノミヤ
)
所居 神,名
撞賢木嚴御魂天疎向津姬命
(
ツキサカキイツノミタマアマサカルムカツヒメノミコト
)
焉。
と答へられ、再び問はれて、
幡荻穂
(
ハタススキホ
)
出吾也。於
尾田吾田節
(
ヲダノアダフシ
)
之
淡郡
(
アハノコボリ
)
所居神之有也。
と答へ、三度問はれて、
於
天
(
アメ
)
事代,於
虛
(
ソラ
)
事代,
玉籤入彥
(
タマクシノイリヒコ
)
,
嚴
(
イツ
)
之
事代
(
コトシロ
)
神有之也。
と答へ、四度問はれて、
於日向國橘小門之
水底
(
ミナソコ
)
所居,而水葉
稚
(
ワカヤカ
)
之出居神。
云云と答へられてゐるが、斯く一句を發する每に
冠辭
(
マクラコトバ
)
を用ゐ、更に語意を強め、用語を莊重にする為に
折句
(
ヲリク
)
を用ゐてゐる所は、立派な敘事詩として見るべき物が有る。我國の詩は敘事詩に始まり、然も其敘事詩は必ず一人稱を以て敘べられてゐる。此れは神の託宣に胚胎し、併せて
神語
(
カミゴト
)
に發生した為めである。而して此事は、アイヌの
敘事詩
(
ユカラ
)
に徵するも、琉球の
託宣
(
ミセセル
)
に見るも、決して衍らぬ事を証明してゐるのである。
私は本節を終るに際し、特に言明して置かねば成らぬ事が有る。其は外でも無く、私は決して神功皇后を以て、巫女也、靈媒者也と申す物では無く、唯皇后が親ら行はせられた神事の形式・內容、及び結果が、偶偶後世の巫女及び靈媒者の行ふ 所と似通つてゐたに過ぎぬと云ふ事である。私の不文の為、意餘つて筆足らず、或は皇后を以て巫女亦は靈媒者と誤解 させる點が有はせぬかと思ふと畏きに堪えず、此處に此事を附記して不文の罪を謝する次第である。
〔
註第一
〕御柱を匝る事が、古代の降神法であつたと云ふ考察に就いては、拙著『土俗私考』に收めた「物の周りを匝る土俗」の中に述べて置いた。參照を願へると幸甚である。
〔
註第二
〕『古事記傳』巻三十
(本居宣長全集本)
。
〔
註第三
〕日奉部及び日置部に就いては、民族
(第二巻第五號。)
所載の柳田國男先生の「日置部考」及び中央史壇
(第一三巻第一〇號。)
掲載の拙稿「日置部異考」を參照せられたい。
〔
註第四
〕飯田武鄉翁の『日本書紀通釋』第三十四に引用した、岡吉胤著の『齋宮考』に據る。
〔
註第五
〕『古事記傳』巻二十三、同書巻三十に見えてゐる。猶ほ詳細は原本に就いて知られたい。
〔
註第六
〕前掲の『日本書紀通釋』巻三十四。
〔
註第七
〕『延喜式祝詞講義』巻一、新年祭條に據つた。
〔
註第八
〕『奈留別志』
(日本隨筆大成本)
。
〔
註第九
〕『諏訪大明神繪詞』巻上
(信濃史料叢書本)
。
〔
註第十
〕『出雲懷橘談』の杵築條。
(續續群書類從本地理部所收。)
〔
註十一
〕『三嶋大祝家譜資料』及び同書に引用せる『三嶋大祝記錄』並びに『豫樟記』等に載せて有る。
〔
註十二
〕我國の神神と音樂との關係は、原始神道史に於ける重要なる問題で、此處には略述する事さへ困難であるが、私見を摘要すれば、我國の神神は、其神神の系統に屬する音樂を有してゐた樣である。例へば、出雲系の神は琴鈴を、高天原系の神も琴鈴を、南方系の神は臼太鼓と稱する臼を樂器としたのを、更に笛を鼓をと云つた樣に特殊の物が在つた。『政事政略』第二十八賀茂臨時祭條に、「古老云,昔臨箕攪其背遊。」と有るのは、賀茂社に限られた音樂であり。『鄉土研究』一ノ四に載せた、磐城國石城郡草野村
大字
北神谷の白山神社の祭に、氏子の壯者が鍬と鋤とを叩いて踊るのも、此社に限られた音樂である。而して是等の音樂は、其始めに在つては、神聲であつた。其が追追と神が整理され、音樂が統一される樣に成つて、琴・鈴・鼓・笛が、神聲を代表する樣に成り、更に其が變化して、是等の音樂を奏する事は、神が出現する時の合圖と云ふ樣に解釋されて來たのである。巫女が弓弦を叩き、又は鼓を打てば、神を呼出し得る物と考へたのは、此信仰に由來してゐるのである。猶ほ、巫女と、音樂や、樂器の關係に就いては、本文の後章に記す故、參照せられたい。
〔
註十三
〕『神道問答』巻下
(大日本風教叢書本第八輯)
。
〔
註十四
〕前掲の『奈留別志』。
〔
註十五
〕『
古事記
』
神代巻
。
〔
註十六
〕『東京人類學雜誌』柴田常恵氏の「山陰紀行」の記事中に、出雲大社の神依板の事が、插圖迄加へて詳記して有る。
〔
註十七
〕鳥居龍蔵氏が、先年蒙古の將來品を以て白木吳服店で展覧會を開かれた時に、ハタツクなる物を目撃した。後に同氏著の『人類學上より見たる我が上代の文化』の口繪に此れが原色版と成つて載せて有るのを見た。
〔
註十八
〕國學院大學教授折口信夫氏の厚意で、此花祭を同大學で催された際に親しく見聞し、併せて同氏から其說明も承つた。
〔
註十九
〕『史籍集覧』本。
〔
註二十
〕『國史大系』本。
第四節 豫言者としての巫女
巫女の最も重大なる職務は、豫言者としてである。若し巫女の職務の中から、此部分を除去るとすれば、其大半迄失 はれて了う事に成るのである。天候に、戰爭に、狩獵に、更に疾病に、航海に、巫女の活動し、且つ神聖なる者として崇拜さ れた所以は、此豫言をする一事に係つてゐた物であつて、此れを完全に遂行する為めに、呪文を唱へたり、神憑りの狀態に入 つたりするのであつた。太卜と云ひ、託宣と云ふも、所詮は此豫言の方法にしか過ぎぬのである。而して、巫女の豫言には、狹 廣兩義の雙面を有してゐたと考へられる。即ち狹義としては、巫女自身に神が憑つて豫言する場合で、廣義としては、他人の歌謠なり、行動なりを聽知つて、此れを適當に判斷する事である。而して前者に關しては、既述した神功皇后の執行はれた事が、概略を盡してゐると信ずるので今は略し、茲には專ら後者に就いて記述したいと思ふ。
前にも引用したが『
崇神紀
』十年秋九月條に、大彦命が四道將軍の一員として出發の途上、少女の歌を聽きて
之
(
コレ
)
を
異
(
アヤシ
)
み、天皇に奏せしに、
於是天皇姑倭迹迹日百襲姬命,聰明叡智,能識未然。乃知其歌恠,言于天皇:「是武埴安彥將謀反之表者也。」
と有るが、此未然を知るとは、即ち歌を判じて豫言をしたのであつて、此場合に於ける百襲姬の所業は、巫女そのままであつ たのである
〔
一
〕
。
更に同『
崇神紀
』六十年秋七月條に、出雲大社の神寶に關して、出雲振根が誅されて、
出雲臣等畏是事,不祭大神而有間。時丹波冰上人,名冰香戶邊,啟於皇太子活目尊曰:「己子有小兒,而自然言之。
(中略。)
是非似小兒之言,若有託言乎。」於是皇太子奏于天皇,則敕之使祭。
云云。
と有るのも、其母親である冰香戶邊が
〔
二
〕
、巫女としての素養──當代女性は、殆んど悉く巫女的生活を送つてゐたので、夙くも此童謠を神託と判ずるだけの知識を有してゐたのであらう。斯う考へて來ると、例の速斷から、古代の託言を意味した童謠
(此れ以外にも『
皇極紀
』や『
齋明紀
』にも見えてゐる。)
の作者は、或は是等の巫女が豫言者としての所為では無かつたかとも想像せられるのである。例えば『
皇極紀
』
三年夏六月條
に、
是月,國內巫覡等,折取枝葉,懸掛木綿,伺大臣渡橋之時,爭陳神語入微之說。其巫甚多,不可具聽。老人等曰:「移風之兆也。」于時,有謠歌三首。
云云。
と載せたのは、其徵證とも見る事が出來る樣である。
猶ほ此機會に記したいと思ふ事は、歌占に關してである。後世に成ると、歌占は白木の
弓端
(
ユハヅ
)
に和歌を書いた幾枚かの短冊を附け、其を以て占ふ樣に成つて了つたが、
(此詳細は後章に述べる。)
其始は、託宣也、豫言也を、歌謠體の文辭を用ゐたにある事は言ふ迄も無い。そして此歌謠體の文辭を綴る事が、巫女の修養の一つであつた事は、恰も後世の巫女が神降ろしの文句や、口寄せの文句を暗記する修業と、全く同じ物であつたと想はれる。且つ古代巫女にあつては、唯に文辭を綴るばかりで無く、更に他者に突如として神が憑り、其當時に於いては既に死語と成つてゐる程の古語を以て託宣した場合には、其を解釋し判斷する事も、又一つの仕事であつたに相違無い。我國に古く夢占や、葦占や、石占の職掌の者が在つたのも
〔
三
〕
、此理由で說明の出來る事と考へる。『
萬葉集
』
巻三
の持統天皇の御歌なる、「
否
(
イナ
)
と
言
(
イ
)
へど、
強
(
シ
)
ふる
志斐
(
シヒ
)
のが、
強
(
シ
)
ひ
語
(
カタ
)
り、
此頃聞
(
コノコロキ
)
かずて、
朕戀
(
アレコ
)
ひにけり。
(
0236
)
」と有る志斐嫗は、『新撰姓氏錄』左京神別巻上に、「中臣志斐連, 天兒屋命十一世孫雷大臣命
(中山曰、『神功紀』に
審神者
(
サニハ
)
と成りし者。)
男,弟子後六世孫。」云云と記せるより推すと、此志斐嫗は卜部氏の出であつて、宮中に仕へた御巫の樣にも想はれ、從つて彼女が、至尊の側近に仕へて強ひ語りした事の內容が、神事に關する物であつたと信じられるのである。
〔
註第一
〕『
崇神紀
』に據れば、百襲姬は大物主神の妻と為られ、大和に箸墓の故事を殘された有名な御方だけあつて、其平生の 生活も、全く高級の巫女として考ふべき點が、多く存してゐる樣である。從つて、未然を察し、豫言を為す事も、當然の所業で あると拜察されるのである。
〔
註第二
〕戶邊の用例は、古代には數數見えてゐるが、其は概して女性を意味してゐる物で、私は我が古代の母權制度の面影を傳へた物だと信じてゐる。而して飯田武鄉翁の『日本書紀通釋』には、此冰香戶邊は男性だと論じてゐるが、私には首肯されぬ事である。
〔
註第三
〕葦占連は既記したので略すが、石占連のこと、『新撰姓氏錄』に見ゆるより推して、古くは此れを職掌とした者があつたと考へら れる。夢占に就いては、後章に言ふ機會もあらうが、平安朝には此職掌の者が置かれてあつた。
第五節 文學母胎としての巫女
紀貫之
は『
古今和歌集
』の
序
に於いて、我國文學の發生を說いて、「
和歌
(
ヤマトウタ
)
は,
人
(
ヒト
)
の
心
(
ココロ
)
を
種
(
タネ
)
として,
萬
(
ヨロヅ
)
の
辭
(
コトノハ
)
とぞ
成
(
ナ
)
れりける。
(中略。)
此歌
(
コノウタ
)
,
天地
(
アメツチ
)
の
開
(
ヒラ
)
け
始
(
ハジマ
)
りける
時
(
トキ
)
より,
居
(
イ
)
できにけり。
然
(
シカ
)
あれども,
世
(
ヨ
)
に
伝
(
ツタ
)
はる
事
(
コと
)
は,
久方
(
ヒサカタ
)
の
天
(
アメ
)
にしては,
下照姬
(
シタテルヒメ
)
に
始
(
ハジマ
)
り
荒
(
アラ
)
かねの
土
(
ツチ
)
にては,
素戔鳴尊
(
スサノヲノミコト
)
よりぞ,
興
(
オコ
)
りける。」と述べてゐる。而して貫之が、更に一步を進めて、此下照姬が巫女であつて、我國文學は巫女を母胎として發生した物であると論じてくれたならば、私は茲に此題目に就いて何事も言はずに濟んだのであるが、千年前の延喜に貫之が此事に關心せずして、千年後の昭和に私が此事を記述するのは、貫之と私との學問の相違では無くして、全く時代の相違と言ふべきである。
巫女が神託を宣べるに際し、此れを歌謠體の律語を以てした事は屢記した如くである。更に復言すれば、神を身に憑ける為に、巫女が
神招
(
カミオ
)
ぎの歌を謠ひ、音樂を奏し、或は起つて舞い等して、愈愈神懸の狀態に入つて託宣するとすれば、其發する物は
神語
(
カミゴト
)
であり、
祝詞
(
ノリト
)
であるから、平談俗語を以てせずして、律語雅言であるべき事は、當然である。而して茲に、古代に於ける託宣の詞そのままの形に近い物を傳へたと信ずべき二三の例証を舉げ、然る後に多少の管見を加へるとする。『
出雲國風土記
』
意宇郡
條に、
國引坐八束水臣津野命詔:「八雲立出雲國者,狹布之稚國在哉,初國小所作,故將作縫。」詔而,「栲衾志羅紀
の
(
乃
)
三埼矣,國之餘有耶見者。國之餘有。」詔而,
童女胸鉏
(
ヲトメノムネスキ
)
所取而,
大魚
(
オフヲ
)
之支太衝別而,
幡薄屠
(
波多須須支穗振
)
別而,三身之綱打挂而,霜黑葛闇耶闇耶
に
(
爾
)
,河船之
もそろもそろに
(
毛曾呂毛曾呂爾
)
。「
國來
(
クニコ
)
!國來!」引來縫國者。自
去豆
(
コツ
)
乃折絕而,八
百に杵築の
(
穗爾支豆支乃
)
御埼。
云云。(中山曰、讀易き樣假名 交りに書改めた。)
此れは有名なる國引きの一節であつて、從來の研究に據れば、此國引きをした八束水臣命は、素尊の別名であると傳へられてゐるのであるが、私には信じられぬし
〔
一
〕
、
縱
(
ヨシ
)
素尊であつたとしても、「童女胸鉏取らして」以下の文句は、どうも巫女が何かの場合に歌謠體で託宣した事のある物を茲に轉用した物と想はれる節が有るので、姑らく其一例として舉げるとした。次は一度前に梗概だけは引用した事が有るが『
播磨國風土記
』逸文に、
息長帶日女命
(
神功皇后
)
,欲平新羅國。下坐之時,禱於眾神。爾時,國堅大神之子爾保都比賣命,
著
(
カカリ
)
國造石坂比賣命,
教
(
サト
)
曰:「好治
奉
(
マツ
)
我前者,我爾出善驗,而
比比良木八尋桙底不附國
(
ヒヒ ラギノヤヒロホコソコツカヌクニ
)
、
越賣眉引國
(
ヲトメノマユヒキクニ
)
、
玉匣賀賀益國
(
タマクシゲカガヤククニ
)
、
苦尻有寶白衾新羅國
(
コモマクラタカラアルタクフスマシラキノクニ
)
矣,以
丹浪
(
ユナミ
)
而將平伏賜。」如此教賜。
云云。(大岡山書店本『古風土記逸文』に據る。)
此れは言ふ迄も無く、國譽めの詞の類ひであつて、我が古代の文獻には、相當多く散見する所である。而して長句と短句とを巧みに交へて措辭を修めた所は、一種歌謠としても立派な物と信ずるのである。更に第三例としては、『
皇大神宮儀式 帳
』に、
特宇治大內人仕奉宇治土公等遠祖大田命を、「汝國名何?」問賜き。「是川名
佐古久志留
(
サコクシル
)
伊須須川。」と申す。「是川上好大宮處在。」と申す。即所見好大宮處定賜て、「朝日來向國、夕日來向國、浪音不聞國、風音不聞國、弓矢鞆音不聞國と、大御意鎮坐國。」と、悦給て大宮定奉き。
(中山曰、武田祐吉氏著『神と神を祭る者との文學』所載の譯文に據る。)
此れも又、國譽めの詞であつて、其典據とも見るべき物は、『
古事記
』
天孫降臨條
に、
此地者向韓國,真來通笠紗之御前而,朝日之
直刺國
(
タダサスクニ
)
,夕日之
日照國
(
ヒデルクニ
)
也。故此地甚吉地詔而,於底津石根宮柱
太しり
(
布斗斯理
)
,於高天原
冰椽高しり
(
ヒギ多迦斯理
)
而坐也。
と有るのが、其である。而して此外に、前に引用した『
仲哀紀
』と『
神功紀
』に載せた託宣詞は、二つ共此場合の徵證として數へる事が出來るのである。
我國文學は是等の類例が示してゐる樣に、先づ敘事詩に依つて始められてゐて、然も其は言合はした樣に、悉く第一人稱と成つてゐる。而して、此事は、獨り我が內地ばかりで無く、アイヌに於いても、琉球に於いても、又た同じ經路を步んできた物である。アイヌに就いては、金田一京助氏は其著『アイヌの研究』詩歌條に於いて、概略左の如く論じてゐる。
總じてアイヌは歌を嗜む民族である。
(中略。)
裁判の辭が全部歌で述べられる。大酋長の會見も歌で辭令を交換する。神への祈禱にも、凶變の際の儀式にも、喜びの際の挨拶にも、皆曲調を持つ
辭遣
(
コトバヅカ
)
ひをする。
(中略。)
さて最後に、アイヌ文學の特徵である此第一人稱說述形式は、何を意味する物で、如何にして出來たと解釋すべき物であらうか。
(中略。)
アイヌはユカラは寧ろ男子の物で、オイナは寧ろ女子の物である。そしてアイヌでは婦女子は神へ祈禱する事は禁忌であるが、其代り神の
憑坐
(
ヨリマシ
)
と成つて其託宣を述べる役を持つのである。
(即ち巫は女子の專務。)
アイヌのオイナが女子に依つて傳へられ、其處で其が第一人稱の敘述に成つてゐると云ふ事は、即ち神自ら女子に憑つて述べた
(巫は歌で述べる。)
物を傳へ傳へた形に成つてゐる物に相違無いのである。
云云
〔
一
〕
。
琉球の其に就いては、伊波普猷氏は、其著「
神歌草子
(
オモロサウシ
)
選釋」の前文に於いて、大略左の如く論じ、歌謠の巫女に依つて發生した事とを言外に寓されてゐる。
神歌草子
(
オモロサウシ
)
は、
(中略。)
琉球の『
萬葉集
』とも云ふべき物である。けれども此れは、形式方面から見て云つた物で、其內容方面から云うと、
神歌
(
オモロ
)
は寧ろ、『
萬葉
』・「
祝詞
」・『
古事記
』の三つに該當する物で、琉球の聖典とも云ふ可き物である。オモロは普通「神歌」と記し、又「神唄」とも書く。
(中略。)
兔に角、祭政一致時代の產物であつて、其大部分が神事に關する物である事や、島津氏の琉球入後
神歌
(
オモロ
)
が頓に衰えて、神事若しくは神と稱せられた彼等巫女、其他神職間にのみ用ゐられる事か ら云ふと、語源はともあれ、今は神歌と稱へても差支無いのである。此神事に關する
神歌
(
オモロ
)
を能く吟味して見ると、近代の
祭司詩人
(
オモロトノバラ
)
は、今の神主が
祝詞
(
ノリト
)
を綴る樣に、古い
鎔
(
イガタ
)
に
填
(
ハ
)
めて之を作つた事が判る。
(中略。)
世に
神歌
(
オモロ
)
を措いて、琉球固有思想と、其言語とを、研究すべき資料は無い。
云云
〔
三
〕
。
斯うして巫女の口から發せられた託宣が、歌謠の一源泉と成り、時勢の變化と信仰の漸退とは、其末流を職業的詩人の手 に移し、茲に文學として發達を遂げるに至つたのである。後世の巫女ではあるが、奥川の
巫女
(
イタコ
)
が唱へる神遊びの詞章や、壹岐のイチジョウが謠ふ「百合若說教」の文句等は、其過程を如實に示してゐる物である。猶ほ是等の巫女が、文學的歌謠の保存者であつて、併せて民間傳承の運搬者であつた事に就いては、
第三篇
以下の各章に於いても記述する考へである
〔
四
〕
。而して其と是れとを參照する時、我國文學が巫女を母胎として發生した事の事實が、充分に會得されるのである。
〔
註第一
〕八束水臣津野命の名は、私の不詮索の為か、『a href="../../../../../text/kojiki/kojiki_top.htm" target="_blank">古事記
』・『
日本書紀
』には載せて無い樣であるが、此神を素尊の別名と云ふのは、典據の無い想像としか考へられ無い。既に水臣とある以上は臣僚であるから、之を素尊と見る事は不自然である。
〔
註第二
〕金田一京介氏の記述は長い物で、然も詳細に涉り卓見に富んだ物であるのを、餘りに要點のみ摘錄した事は誠に相濟ぬ事と、お詫びを申上げる次第である。篤學の士は、特に原本に就いて、御覧下さる樣お獎めする。
〔
註第三
〕伊波普猷氏の高見は、もつと適切に、巫女と歌謠との交涉を說いた記述が、其著述の中に有る事と信じてゐるが、其が見當ら無かつたので、姑らく此れを摘記するとした。此れも私の懶怠をお詫びし無ければ成らぬのである。
〔
註第四
〕此機會に、後世巫女の唱へる詞を載せて說明すると、私の記述がもつと明瞭に成るのであるが、其は後章と重複する事と成るので割愛したのである。
第六節 民俗藝術者としての巫女
茲に民俗藝術とは、第一に舞踊、第二に木偶遣ひ、第三に文身の、三つを意味してゐる物と承知せられたい。私は此三つ と巫女との關係に就いて記述する。
一、舞踊者としての巫女
天鈿女命が、磐戶の齋庭に於いて
俳優
(
ワザオギ
)
した事が、我國に於ける舞踊の初見であるが、此一事は少くとも三つの大きな暗示を投じてゐるのである。
其一、俳優とは、言ふ迄も無く、支那の熟語をそのまま用ゐた物であるが、此內容は如何なる物であつたかと云ふ點であ る。『釋日本紀』巻七に、「俳優萬態,不可殫記。」と載せてゐるが、此れも大體を形容した迄で俳優の本質に觸れた物では無い。而して私見を簡單に言へば、ワザオギは
態
(
ワザ
)
を以て
招奉
(
オギマツ
)
るの意で、『
日本書紀
』の
一書
に、思兼命は日象──即ち鏡を作らせて
招奉
(
オギマツ
)
り、天兒屋命は
神祝
(
カムホ
)
きに祝きて、
招奉
(
ヲギマツ
)
らんとしたのに對する物と見るべきである。換言すれば、磐戶に隠れた天照神を招奉る為に、
(茲には復活の意味が多分に活いてゐる。)
天兒屋命は呪文を以てし、思兼命は鏡を以てしたのに對して、鈿女命は
態招
(
ワザオ
)
ぎしたのである。而して此態招ぎたる、必ずやシャーマンが行ふ樣に猛烈なる跳躍を試みたのでは無いかと想はれる點も有る。『
古語拾遺
』の鈿女の名を解して、「其神強悍猛固,故以為名。」と有るのは、蓋し其動作に由來する物と見るべきである。
其二、我國の舞踊は、性行為の誇張的模倣に、出發してゐるのでは無いかと云ふ點である。鈿女命が胸乳を搔出し、裳緒を番登に押垂れたと有るのは、其事の實際を考へさせる物であると同時に、更に想像を逞うすれば、斯かる所作が我が古代舞 踊の條件では無かつたかとも思はれるのである。我國の舞踊の目的は、男子の腕力に對する女子の嬌態であつて
〔
一
〕
、古く踊 手は女子に限られてゐて、男子は此れに與ら無かつたのである。我國の祭式舞踊の中に、女子が秘處を露はす動作の多い事 は、私が改めて言ふ迄も無く、現時に於いてすら耳にする所である
〔
二
〕
。殊に巫女は、性器を利用して呪術を行ふ事を敢てす る勇者である。鈿女命の此所業は、性器の呪力に依つて、葬宴の際に襲來る精靈の退散に備へた事も知ら無ければ成ら ぬが、此れと併せて我國の舞踊が、性行為の模倣に起源を有してゐる事も考へねば成らぬのである。
其三、神事に交涉の深い祭式舞踊の發明者である巫女は、更に狩獵に關係して、動物の所作を學んで、
鹿舞
(
シシマヒ
)
・鷺舞等を發明し、又は農業に關係して、旱天には雩踊を、秋收には豐作踊を發明し、或は戰爭に從うて士氣を鼓舞すべき劍舞を發明する等、其結果は、祭式舞踊を人間の上に引下げて、享樂舞踊と迄進化させたのである。
『梁塵秘抄』の四句神歌の一節に、「神も哀れと思しめせ、神も昔は人ぞかし。」と云ふのが有る。確に我國の神の多くは、其昔は人であつた。而して神其自身であつた巫女の位置が一段と低下して、其が生ける神──即ち神と成らぬ以前の人に仕へる樣に成つてからの職務は抑抑何であつたか。其は決して想像に難い物では無いのである。信仰對象として、靈界に在るべき筈 の神神が、盛んに若宮を儲けられたと云ふ事象は、果して何事を意味してゐるのか。然も其答案は極めて簡單である。神と成るべき人──即ち神主と巫女との間に舉げられた
神子
(
ミコ
)
が若宮なのである。神道が固定して、神と人との距離が遠く成つた為に、若宮の解釋は、彌が上にも合理的に成り、八幡宮の若宮と云へば、菟道稚郎子と限られる樣に成つてしまつたが、其では春日社の若宮由來や、『
延喜式
』
神名帳
に載せてある多くの
若神子
(
ワカミコ
)
の由來は、說明されぬのである。
(浦木按、『延喜式』神名帳にで、若神子を見つかれず。)
巫女は人間を夫とせずして、神と結婚すると云ふ思想は、現代にも存してゐるが、其源流に溯れば、神とは即ち人であつた。唯神であつた人と云ふ意に外成らぬのである。又しても同じ事を繰返す樣ではあるが、神に對する觀念が固定してから、神主 とは、神と人との間に介在する
仲言者
(
ナカコトシャ
)
の樣にのみ合點されてゐるが、
神主
(
カムヌシ
)
とは
神主
(
カムザネ
)
であつて、神その者であつたのである。此れと結婚する事を餘儀無くされてゐた巫女の職務の第一義は、敢て記述する迄も無く、明白である。而して此職務の中に、神を
和
(
ナゴ
)
め遊ばせる必要から、巫女は歌謠者であらねば成らぬし、又同時に、舞踊者で無ければ成ら無かつた。巫女が民俗藝術の一角である舞踊を受け持つてゐたのは、此れで釋然する。然も此遺風は、巫女が憑神を象徵した木偶に對して迄遊ばせ舞はせる事を忘れ無かつたのも、又此れが為である。
二、木偶遣ひとしての巫女
現在行はれてゐる人形劇なる物は、支那の其を夥しき迄受容れてゐるが、我國には古く固有の木偶の遣ひ方が在つた 筈である。『
肥前國風土記
』
基肄郡姬社鄉條
に、
珂是古,自知神之在處。其夜,夢見臥機
【謂
クツビキ
(
久都毗枳
)
。】
・絡垛
【謂
タタリ
(
多多利
)
。】
儛遊出來,壓驚珂是古。於是,知織女神。即立社祭之。
云云
。
と有るのは、
クツビキ
(
久都毗枳
)
と云ふ名が、後世の
クグツ
(
久具都
)
(傀儡。)
と無關係にもせよ、當時、神が木偶の如く儛遊ぶと云ふ思想の在つた事を、考へさせる手掛りだけには成るのである。私は最近に、「巫女の持てる人形」と題して、大略左の如き管見を發表した。元より粗笨な物ではあるが、此問題に觸れる所が有るので摘記し、併せて其後に考へ得た事を增補するとする。
人間が神を發見した時、其神の姿を自分達に似せて作つたのが人形
(木偶の意、以下同じ。)
の始めである。祓柱と云ふても其が生きた人間であり、蒭靈と言うても、同じく其が
人形
(
ヒトガタ
)
であるのも、此理由から出發してゐるのである。
關八州を中心として、更に此れに隣接せる國國、及び遠く近畿地方迄活躍した巫女は、信濃國小縣郡禰津村
大字
禰津東町を根據とした所謂「
信濃巫女
(
シナノミコ
)
」なる者であつた。同村には明治維新頃迄は、四十八軒の巫女の親方宿が有り、一軒で少きも三・四人、多きは三十人も巫女を養成して置いて、年年諸方へ
旅稼
(
タビカセ
)
ぎに出した物である。
(猶此れが詳細は
第三篇
に記述する。)
而して此信濃巫女は、「
外法箱
(
ゲホウバコ
)
」と稱する高さ一尺程、長さ八寸程、巾五寸程の小箱を、紺染めの風呂敷を船形に縫合せた物の中に入れて、背負うてゐるのを常とし、呪術を行ふ際には、片手亦は兩手を箱へ載せ、頰杖付いて行ふのが習ひであつた。そして此箱のには、一個
<(又は二個。)
人形を入れて置くのが普通で、然も此人形が呪力源泉とせられていたのである。
然るに此人形がどんな物であつたかに就いては、報告が區區であつて判然し無いが、(一)は普通の雛だと云ふし、(二)は 藁人形だと云ふし、(三)は久延毘古神を形代とした案山子の樣だと云ふ、(四)は歡喜天に似た男女の和合神だと云ふし、( 五)は犬又は貓の頭蓋骨だと云ふし、(六)更に奇抜なのになると、外法頭と稱する天窗の所有者であつた人間の髑髏と云ふのも有る。
而して、斯うした臆說は、巫女が外法箱の中の物を秘し隠しに隠した為めに生じた物で、私が鄉里に居た頃目撃した物は、第三の案山子樣の人形であつた。併し此れは、其一例だけであつて、此れを以て他の總てがそうであるとは決して言はれぬ のである。何となれば、同じ禰津村の巫女であつても、四十八軒も親方宿が在る以上は、其が悉く同じ流義で、同じ師承の 物とは考へられぬからである。現に、信州北部では、巫女をノノーと云つてゐるに反し、南部ではイチイと云つてゐる。然も此 イチイは、武蔵秩父地方にも行はれてゐるのを見ると、信濃巫女の間にも幾つかの異流が有つたと考ふべきである。
巫女の所持する人形が、如何なる手續きで、然も如何なる姿に作られる物であるか、此れに就いての古代の見聞は、全く 私には無いのであつて、僅に極めて近世の物しか──其も漸く二三しか承知してゐぬのである。併しながら此二三の例証と ても、嚴格なる意義から言へば、後世に支那の巫蠱の影響を受けた作法であつて、決して我國固有の呪法では無いと考へられ るのである。其故に是等の詳細は、
第二篇
又は
第三篇
に於いて記述する事とし、茲には比較的我國の古俗に近いと信じた 物だけを舉げるとした。今は故人と成つたが、上銘三郎平氏
(國學院大學生。)
が鄉里傳說とて語つた所に據ると、越中國城端町附近の巫女は、昔は七箇所の墓地の土を採集め、其土を捏合せて、丈け三四寸位の人形を拵へ、此れを千人の人に踏ませると呪力が發生するとて、大概は橋の袂か四ツ辻に埋めて置き、千人の足に掛かつたと思ふ時分に掘出して箱に收め用ゐたさうである。そして此人形を同地方ではヘンナと言つてゐたが、ヘンナはヒイナ──即ち雛の轉訛であるさうだ
〔
三
〕
。此話は、私が前に記述した壹岐國の巫女が、ヤボサと稱する墓地にゐる祖先の精靈を憑神とし、併せて呪術の源泉と信じた物と一脈相通ずる物が有る樣に考へられて、私には特に興味深く感じられた次第なのである。
奥州の
巫女
(
イタコ
)
が持つてゐる
大白
(
オシラ
)
神も、其が人形である事は疑ひ無い樣である。そして私の見た
大白
(
オシラ
)
神は、オヒナ──即ち雛の訛語であつて、
(東北地方ではヒナをヒラと發音し、オヒラと云うてゐる所が有る。)
古くは同じく他の巫女が持つてゐた人形と異 る物で無いと信じてゐる。
大白
(
オシラ
)
神は昔は竹で作られ、今では東方から出た紫桑枝で作り、然も桑で拵へるのは、此木の皮を剝いだ匂ひが牝口の其に似てゐるからだと云ふ傳說も有るが、其理由は何れにせよ、人形であつた事だけは否まれぬ。其と同時に、
大白
(
オシラ
)
神は古作程、人顔で無くして馬首であるから、人形ではあるまいと云ふ說も私には受容れられぬ。此れは巫女神であつた
大白
(
オシラ
)
神が蠶神と成り、更に蠶が馬と結付けられたのである事を知れば、馬首の問題は容易に解決される筈である。
斯うして巫女は、生ける神の形代である──否、巫女にとつては生ける神も全く同じと信じてゐた人形を遊ばせるに、第一に發明した物が呪文から導かれた歌謠であつて、第二に工夫した物が人形の舞はし方である。然も此舞はし方は、曾て巫女が 生ける神を遊ばせる折に遣つた所作から出てゐる物であつて、我國舞踊の起源を、性行為の誇張と模倣から見る事の出來 る一理由である。斯くて神寵が衰へた巫女や、神戒に反いた巫女達が、巫娼と迄成下がつても、常に人形を放たず、此れが 更に
傀儡
(
)
の手に渡り、遂に職業的の人形遣ひを出す迄に成つたのである。
(以上『民俗藝術』第二巻第四號所載。)
斯うは言ふものの、古代巫女の持つてゐた人形の姿は、今から確然と知る事は不可能である。考古學者の「土磐」と稱する物は、或は此れが原型であるかも知れぬが、判然せぬ。前に引用した『
肥前國風土記
』の珂是古が夢に見たと云ふ久都毗枳なる物も、正體は分明せぬ。宇佐の八幡神社の系統に屬する各地の八幡社に古く傳えた「
細男
(
セイノオ
)
」なる者も、傳說に據ると、磯良神の故態を學んだ者だと云はれてゐるけれども
〔
四
〕
、併し此れが古代から存した物か否かに就いては、傳說以外に証明すべき手掛りさへ殘つてゐ無いのである。人形は在つたに相違無く、從つて人形の舞はし方も存したに相違無いが、現在の學問では、此れ以上に溯る事が出來ぬのである。敢て後考を俟つ次第である。
三、文身の施術者としての巫女
支那から我國へ呼掛けた異稱は合計七つ程有るが、其中に「黥面國」と云ふのが有る
〔
五
〕
。更に『
魏志
』倭人傳に據ると、「男子無大小,皆黥面文身。
(中略。)
諸國文身各異,或左或右,或大或小,尊卑有差。」と詳しく記して有る。然るに、斯く『倭人傳』には詳記して有るが、飜つて我國の古文獻に此れを徵すると、誠に明確を缺いてゐるのである。勿論、『
神武記
』に有る大久米命の割ける
利目
(
トメ
)
の故事や、『
播磨風土記
』
餝磨郡
麻跡里
(
マサキ
)
條に有る
目割
(
マサキ
)
傳說や、更に『
履中紀
』に有る淡路大神が、馬飼の黥面の臭ひを厭うた記事
(浦木按、『書紀』には、馬飼の事を飼部と記す。)
等散見してゐるのであるが、文身の大小左右を以て尊卑の標識としたと云ふが如き記錄は曾て存在してゐぬのである。唯記錄に見えぬばかりで無く、人類學的にも、考古學的にも、此れを說明すべき出土品すらも、今に發見されぬ有樣なのである。茲に於いてか『魏志』の記事は、その筆者の見聞の及んだ一部の國國に行はれた物であつて、決して全國に行はれた物では無く、且つ行はれた年代が餘りに悠遠である為に、其後に於いて泯びてしまつたのであらうと言はれてゐる。此說は誠に徹底せぬ常識論ではあるけれども、現狀にあつては此れ以上に說明を進める事が出來ぬのである。尤も江戶期中葉以降に猖んに行われた文身は、自から別問題である事は言ふ迄も無い。
然るに、我國の兩極端を為してゐる北方アイヌ族と、南方琉球民族との間には、古くから近く迄黥面文身の民俗が、女性に 限つてのみ行はれてゐた。併しながら、アイヌは我が民族とは種族を異にしてゐるし、琉球民族には我が民俗以外の南方系の 民俗が豐富に移入されてゐるので、其と此れとを一律の下に說く事は出來ぬけれども、更に想像を押し擴げると、アイヌや琉 球の黥面文身の習慣は、古く我が內地の民俗を學んだ物が、後には女子の裝身法
(又は成女の標識。)
として殘つた物では無いかと思はれぬでも無い。併し私は茲に文身の研究をするのが目的で無いから大概にして措くが、兔に角に我國にも古くから黥面
(文身の記錄は見當らぬが、傳說には種種なる物が有る。)
の行はれてゐた事は事實であるが、此施術者は巫女が職務として行つたのでは無いかと考へるのである。アイヌでも、琉球でも、女子は通經を境として、前者は口邊に、後者は手甲に入墨をするのであつたが、其施術者は共に母親であつたと云はれてゐる。私は內地にも、此種の民俗が曾て存在した事を信じてゐる者であるが、
(併し其を言ふと餘りに長くなるので省略する。)
此母親が行ふ樣に成つたのは、黥面文身の事が、世間から輕視される樣に成つてからの事で、其以前に於いては、巫女が神名に依つて施術した物と信じたい。其は恰も男子の割禮、又は少女の處女膜を破る民俗が
〔
七
〕
、神名に依つて、行はれたのと同じ樣であつたに相違無いと思ふのである。
〔
註第一
〕學友
ニコライ・ネフスキー
(
Николай Не́вский
)
氏の談に、日本のオドリの語源は、男子が腕力を以て女子を掠奪した事を
メト
(
女取
)
ル
(娶る。)
と云うたに 對して、女子が舞踊を以て男子の注意を惹いた
男取
(
オト
)
リの意であると言はれたのは卓見だと思ふ。
躍
(
オトリ
)
と
男取
(
ヲト
)
りとは、假名遣ひが違ふと云ふかも知れぬが、囮がオトリであるのを知れば、此れは問題に成らぬと思ふ。
〔
註第二
〕我國に於ける女性の祭式裸體踊は、明治初年頃迄、各地に行はれてゐた。其を一一舉げる事は省略するが、琉球の 各嶋嶋には、現に其風習を偲ぶべき舞踊が殘つてゐて、伊波普猷氏は曾て之を論じ、其著『琉球古今記』に收めてある。
〔
註第三
〕上銘氏の談に據る。人形の拵へ方で、殊に注意すべき點は、千人の人に踏ませると云ふ事である。此れは
既述した辻占の呪 力
の源泉と成つた屍體の埋め方と共通した信仰から出た物と思ふ。因みに、上銘氏は民俗學に深い興味を有してゐた青年學 徒であつたが、急病の為に永眠された事は遺憾であつた。
〔
註第四
〕『八幡愚童訓』を始め、其他書物に磯良神の事が載せて有り、此神の所作が、細男
(齋男、精農、聲納等書く。)
の最初の樣に記して有るが、此れは猶ほ研究の餘地が有る樣である。山城の離宮八幡社に在る細男は、平板を人物態に截つた物で、兩手は別に取付け、動く樣に成つてゐて、頗る後世の人形じみた物で、古代の細男の形かどうか明確で無い。更に、細男は、八幡神系以外の賀茂社や、春日社にも傳へられてゐるので、此れ等の社と八幡社との關係も調べて見無ければ成\らぬ。折口信夫氏は『民俗藝術』第二巻第四號で「才の男は人形であるのが本體である。」と、例の天才振りを發揮されてゐるが、私の不敏なる、氏の說明だけでは、未だ納得されぬ點が有る。猶ほ研究して見たいと思つてゐる。
〔
註第五
〕扶桑國・黑歯國等其であるが、一條兼良は『日本紀纂疏』に於いて、我國の黥面國なる事を肯定してゐる。而して我 國に『魏志』に載せた程の黥面文身の民俗が有つたかどうか判然し無い。各地から發掘された土偶にも、其を証據立てる物 が今に見出されぬのである。此れも今後の研究に俟つべき物である。
〔
註第六
〕闕。
〔
註第七
〕闕。
[久遠の絆]
[再臨ノ詔]