日本書紀 卷第六 垂仁紀

活目入彥五十狹茅天皇(いくめいりびこいさちのすめらみこと) 垂仁天皇(すいにんてんわう)

一、誕生與即位

 活目入彥五十狹茅天皇(いくめいりびこいさちのすめらみこと),御間城入彥五十瓊殖天皇第三子也。母皇后曰御間城姬(みまきひめ)大彥命(おほびこのみこと)之女也。
 天皇以御間城(崇神)天皇二十九年歲次壬子春正月己亥朔(),生於瑞籬宮(みづかきのみや)。生而有岐嶷(いこよか)之姿。
 及壯,倜儻大度,率性任真,無所矯飾。天皇(崇神)愛之,引置左右。
 二十四歲,因夢(しるし),以立為皇太子(ひつぎのみこ)
 六十八年,冬十二月御間城入彥五十瓊殖天皇(みかきいりびこいにゑのすめらみこと)崩。
 元年,春正月丁丑朔戊寅(),皇太子即天皇位。
 冬十月癸卯朔癸丑(十一),葬御間城(みまき)天皇於山邊道上陵(やまのへのみちのへのみさざき)
 十一月壬申朔癸酉(),尊皇后(御間城姬)曰皇太后。是年也,太歲壬辰
 二年,春二月辛未朔己卯(),立狹穗姬(さほびめ)為皇后。
  后生,譽津別命(ほむつわけのみこと)。生而天皇愛之,常在左右。及壯而不言。
 冬十月,更都於纏向(まきむく),是謂珠城宮(たまきのみや)也。


崇神帝 山邊道上陵
日本紀稱崇神、景行陵,同為山邊道上陵,故多循古事記稱崇神陵山邊道勾岡上陵


垂仁帝 纏向珠城宮跡碑。


都怒我阿羅斯像
蘇那曷叱智,一書云都怒我阿羅斯、于斯岐阿利叱智干岐,崇神紀作蘇那曷叱知。【古朝鮮語,蘇為金,那為國,曷即大邑,干岐、叱智為首長,故可譯為金國大君長、金國邑君。又都怒我蓋新羅最高官位角干之音。】


北陸道總鎮守 氣比神宮
越國,今福井縣敦賀市曙町地方。


千塔山遺跡出土青銅鋤先
禮記鄭玄注:「田具者,鎡錤之屬。」疏:「鎡者今鋤之類也。」


出石神社藏 天日槍開拓但馬圖
二、任那、新羅之抗爭

 是歲()任那(みまな)蘇那曷叱智(そなかしち)請之:「欲歸于國。」蓋先皇之世(さきのみかどのみよ)來朝還歟。故敦賞蘇那曷叱智,仍齎赤絹(あかきぬ)一百匹,賜任那王(みまなのこにきし)。然新羅人(しらきひと)遮之於道而奪焉。其二國之怨,始起於是時也。

 三年,春三月,新羅王子天日槍(あめのひほこ)來歸焉。將來物(もちきたるもの)羽太玉(はふとのたま)一箇、足高玉(あしたかのたま)一箇、鵜鹿鹿赤石玉(うかかのあかしのたま)一箇、出石小刀(いづしのかたな)一口、出石桙(いづしのほこ)一枝、日鏡(ひのかがみ)一面、熊神籬(くまのひもろき)一具,并七物。則藏于但馬國(たぢまのくに),常為神物(かみのもの)也。

三、狹穗彥王謀反

 四年,秋九月丙戌朔戊申,皇后母兄狹穗彥王(さほびこのみこ)謀反,欲危社稷(くに)。因伺皇后之燕居而語之曰:「汝孰愛(いろせ)(をひと)焉?」於是,皇后不知所問之意趣(みこころ),輙對曰:「愛兄也。」則誂皇后曰:「夫以(かほ)事人,色衰寵緩(めぐみゆるふ)。今天下多佳人(かほよきをみな),各遁進(たがひすすみ)求寵,豈永得恃色乎?是以冀吾登鴻祚(あまつひつぎ),必與汝照臨天下,則高枕而永終百年,亦不快乎?願為我弒天皇!」仍取匕首(ひもかたな),授皇后曰:「是匕首佩于(ころも)中,當天皇之寢,迺刺頸而弒焉!」皇后於是心裏兢戰(おぢわななき),不知所如。然視兄王之志,便不可得(いさむ)。故受其匕首,獨無所藏,以著衣中。遂有諫兄之(こころ)也。
 五年,冬十月己卯朔(),天皇幸來目(くめ),居於高宮(たかみや)。時天皇枕皇后膝而晝寢(ひるね)。於是皇后既無成事,而(むなしく)思之:「兄王所謀,適是時也。」即眼淚流之落帝面。天皇則寤之(おどろき),語皇后曰:「朕今日夢矣,錦色小蛇(にしきのちひさきへみ)繞于朕頸,復大雨從狹穗(さほ)發而來之濡面,是何(しるし)也?」皇后則知不得匿謀,而悚恐(おぢかしこみ)伏地,曲上兄王之反狀(そむくさま)。因以奏曰:「妾不能違兄王之(こころざし),亦不得背天皇之(みうつくしび)。告言則亡兄王,不言則傾社稷。是以一則以懼,一則以悲,俯仰喉咽(むせひ),進退而血泣(いたくなく),日夜懷悒(いきどほり),無所訴言(うるたへまをす)。唯今日也,天皇枕妾膝而寢之,於是(やつこ)一思矣:『若有狂婦(くるへるめ),成兄志者,適遇是時,不勞以成功乎?』茲意未竟,眼涕自流。則舉袖拭涕,從袖溢之沾帝面。故今日夢也,必是事應焉。錦色小蛇,則授妾之匕首也。大雨(ひさめ)忽發,則妾眼淚也。」天皇謂皇后曰:「是非汝罪也。」即發近縣(ちかきあがた)卒,命上毛野君(かみつけののきみ)遠祖八綱田(やつなた),令擊狹穗彥。
 時狹穗彥與師距之,忽積稻作城。其堅不可破,此謂稻城(いなき)也。踰月不降。於是皇后悲之曰:「吾雖皇后,既亡兄王,何以面目(おもて),蒞天下耶?」則抱王子譽津別命,而入之於兄王稻城。天皇更益軍眾,悉圍其城,即敕城中曰:「急出皇后與皇子!」然不出矣。則將軍(いくさのきみ)八綱田放火焚其城。
 於焉皇后令懷抱皇子踰城上而出之,因以奏請曰:「妾始所以(ゆゑ)逃入兄城,若有因妾子,免兄罪乎。今不得免。乃知,妾有罪。何得面縛,自經而死(わなきてみまからく)耳。唯妾雖死之,敢勿忘天皇之恩。願妾所掌后宮(きさきのみや)之事,宜授好仇。丹波國(たにはのくに)有五婦人,志並貞潔(いさぎよし),是丹波道主王(たにはのみちぬしのきみ)之女也。【道主王者,稚日本根子太日日(開化)天皇子孫彥坐王(ひこいますのひこ)子也。一云,彥湯產隅王(ひこゆむすみのみこ)之子也。好仇者,好逑之謂也。當納掖庭,以盈后宮之數。」天皇聽歟。時火興城崩,軍眾悉走,狹穗彥與(いろも)共死于城中。
 天皇於是美將軍八綱田之功,號其名謂倭日向武日向彥八綱田(やまとひむかたけひむかひこやつなた)也。


匕首
狹穗彥授皇后匕首,令弒帝於夢


錦色小蛇
垂仁天皇發夢,有錦色小蛇繞于頸,復大雨從狹穗發而濡面。


八綱田與狹穗姬 大日本名將鑑


當麻蹶速之塚
麻蹶速為人強力,能毀角申鉤,與野見宿禰令捔力而為其所殺。二人遂為相撲之祖。


野見宿禰 前賢故實

野見宿禰塚跡
野見宿禰與當麻蹶速捔力。兩相對立,各舉足互蹶。則蹶折當麻蹶速脇骨,亦蹈折其腰而殺之。
四、當麻蹶速與野見宿禰,立后

 七年,秋七月己巳朔乙亥(),左右奏言:「當麻邑(たぎまのむら)有勇悍士,曰當麻蹶速(たぎまのくゑはや)。其為人也,強力以能(かき)(のぶ)鉤。恒語眾中曰:『於四方求之,豈有比我力者乎?何遇強力者(ちからつよきひと),而不期死生,(ひたぶるに)爭力(ちからくらべ)焉。』」天皇聞之,詔群卿(まへつきみたち)曰:「朕聞:『當麻蹶速者,天下之力士也。』若有比此人耶?」一臣進言:「臣聞:『出雲國有勇士,曰野見宿禰(のみのすくね)。』試召是人,欲當于蹶速。」
 即日,遣倭直祖長尾市,喚野見宿禰。於是,野見宿禰自出雲至,則當麻蹶速與野見宿禰令捔力(ちからくらべ)。二人相對立,各舉足相蹶(あひくう)。則蹶折(くゑをり)當麻蹶速之脇骨(かたはらほね),亦蹈折(ふみをり)其腰而殺之。故奪當麻蹶速之地,悉賜野見宿禰。是以其邑有腰折田(こしをれだ)之緣也。野見宿禰乃留仕焉。
 十五年,春二月乙卯朔甲子(),喚丹波五女,納於掖庭。第一曰日葉酢媛,第二曰渟葉田瓊入媛,第三曰真砥野媛(まとのひめ),第四曰薊瓊入媛,第五曰竹野媛(たかのひめ)
 秋八月壬午朔(),立日葉酢媛命為皇后(きさき),以皇后弟之三女為(みめ)。唯竹野媛者,因形姿醜(かたちみにくき),返於本土(もとつくに)。則羞其見返,到葛野(かづの)自墮輿而死之。故號其地謂墮國(おちくに)。今謂弟國(おとくに)(よこなまれる)也。
 皇后,日葉酢媛命(ひばすひめのみこと),生三男二女。
  第一曰,五十瓊敷入彥命(いにしきいりびこのみこと)
  第二曰,大足彥尊(おほたらしひこのみこと)
  第三曰,大中姬命(おほなかつひめのみこと)
  第四曰,倭姬命(やまとひめのみこと)
  第五曰,稚城瓊入彥命(わかきにいりびこのみこと)
 妃,渟葉田瓊入媛(ぬばたにいりびめ)
  生,鐸石別命(ぬてしわけのみこと)膽香足姬命(いかたらしひめのみこと)
 次妃,薊瓊入媛(あざみにいりびめ)
  生,池速別命(いけはやわけのみこと)稚淺津姬命(わかあさつひめのみこと)

五、譽津別王

 二十三年,秋九月丙寅朔丁卯(),詔群卿曰:「譽津別王(ほむつわけのみこ),是生年既三十,髯鬚八掬(ひげやつか),猶泣如(わかご),常不言,何由矣?因有司而議之。」
 冬十月乙丑朔壬申(),天皇立於大殿前,譽津別皇子(みこ)侍之。時有鳴鵠(なきくくひ),度大虛(おほそら)。皇子仰觀鵠曰:「是何物耶?」天皇則知皇子見鵠得言而喜之,詔左右曰:「誰能捕是鳥獻之?」於是鳥取造(ととりのみやつこ)天湯河板舉(あめのゆかはたな)奏言:「臣必捕而獻。」【板舉,此云たな(拕儺)。】即天皇敕湯河板舉(ゆかはたな)曰:「汝獻是鳥,必敦賞矣。」時湯河板舉遠望鵠飛之方,追尋詣出雲而捕獲(とらへつ)【或曰,得于但馬國。】
 十一月甲午朔乙未(),湯河板舉獻鵠也。譽津別命(もてあそび)是鵠,遂得言語。由是敦賞湯河板舉,則賜(かばね)而曰鳥取造。因亦定鳥取部(ととりべ)鳥養部(とりかひべ)譽津部(ほむつべ)


白鳥渡空
譽津別命及壯,仍不能言語,見鳴鵠渡空而始得言。天皇命湯河板舉補之,遂獲於出雲。是後,譽津別命弄是鵠,終得言語。


伊勢五十鈴川 宇治橋傍


伊勢神宮藏 玉纏御太刀

特展伊勢神宮與諸神之美術
卜兵器為神幣,吉。諸神之社,遂納兵器以祭神祇。
六、伊勢祭祀之肇,出雲神寶檢校

 二十五年,春二月丁巳朔甲子(),詔阿倍臣(あへのおみ)遠祖武渟川別(たけぬなかはわけ)和珥臣(わにのおみ)遠祖彥國葺(ひこくにぶく)中臣連(なかとみのむらじ)遠祖大鹿嶋(おほかしま)物部連(もののべのむらじ)遠祖十千根(とをちね)大伴連(おほとものむらじ)遠祖武日(たけひ)五大夫(いつたりのまへつきみたち)曰:「我先皇御間城入彥五十瓊殖(崇神)天皇,惟叡作聖,欽明聰達,深執謙損,志懷沖退,綢繆機衡,禮祭神祇(あまつかみくにつかみ),剋己勤躬,日慎一日。是以人民富足,天下太平也。今當朕世,祭祀(いはひまつる)神祇,豈得有(おこたり)乎?」
 三月丁亥朔丙申(),離天照大神(あまてらすおほみかみ)豐耜入姬命(とよすきいりびめのみこと),託于倭姬命。
 爰倭姬命求鎮坐大神之處,而詣菟田筱幡(うだのささはた)【筱,此云ささ(佐佐)。】更還之入近江國(あふみのくに),東迴美濃(みの),到伊勢國(いせのくに)。時天照大神誨倭姬命曰:「是神風(かむかぜ)伊勢國,則常世之浪重浪歸國(とこよのなみのしきなみよするくに)也,傍國可怜國(かたくにのうましくに)也。欲居是國。」故隨大神教,其(やしろ)立於伊勢國,因興齋宮(いつきのみや)五十鈴川(いすずのかは)上。是謂磯宮(いそのみや)。則天照大神始自天降之處也。

 二十六年,秋八月戊寅朔庚辰(),天皇敕物部十千根大連(もののべのとをちねのおほむらじ)曰:「屢遣使者於出雲國,雖檢校其國之神寶(かむたから),無分明(わきわき)申言者。汝親行于出雲,宜檢校定。」則十千根大連校定神寶,而分明奏言之。仍令掌(つかさどらしめ)神寶也。
 二十七年,秋八月癸酉朔己卯(),令祠官,卜兵器(つはもの)神幣(みてぐら),吉之。故弓矢(ゆみや)橫刀(たち),納諸神之社。仍更定神地(かむところ)神戶(かむへ),以時祠之。蓋兵器祭神祇,始興於是時也。
 是歲,興屯倉(みやけ)來目邑(くめのむら)【屯倉,此云みやけ(彌夜氣)。】

七、殉死禁令──埴輪

 二十八年,冬十月丙寅朔庚午(),天皇母弟倭彥命(やまとひこのみこと)薨。
 十一月丙申朔丁酉(),葬倭彥命于身狹桃花坂(むさのつきさか)
 於是集近習者,悉生而埋立於陵域(みさざきのさかひ)。數日不死,晝夜泣吟(ひるよるなきいさつ)。遂死而爛臰之(くちくさり),犬、烏聚噉焉(はむ)。天皇聞此泣吟之聲,心有悲傷。詔群卿曰:「夫以(いけるとき)所愛令殉亡者(すぎにしひと),是甚(いたましきわざ)矣。其雖古風(いにしへののり)之,非良(よからず)何從?自今以後,議之止(したがひしぬること)!」
 三十年,春正月己未朔甲子(),天皇詔五十瓊敷命(いにしきのみこと)、大足彥尊曰:「汝等各言情願之物也。」兄王諮:「欲得弓矢。」弟王諮:「欲得皇位(あまつひつぎ)。」於是天皇詔之曰:「各宜隨情。」則弓矢賜五十瓊敷命,仍詔大足彥尊曰:「汝必繼朕(くらゐ)。」
 三十二年,秋七月甲戌朔己卯(),皇后日葉酢媛命,【一云,日葉酢根命(ひばすねのみこと)也。】薨。
 臨葬(はぶり)有日焉,天皇詔群卿曰:「從死之道,前知不可。今此行之葬,奈之為何(いかがせむ)?」於是野見宿禰進曰:「夫君王陵墓,埋立生人(いけるひと),是不良也,豈得傳後葉(のちのよ)乎。願今將議便事(たよりなること)而奏之。」則遣使者,喚上出雲國之土部(はにべ)壹百人,自領土部等,取(はにつち)以造作人、馬及種種物形,獻于天皇曰:「自今以後,以是土物(はに)更易生人,樹於陵墓,為後葉之法則(のり)。」天皇於是大喜之,詔野見宿禰曰:「汝之便議,寔(かなへり)朕心!」則其土物,始立于日葉酢媛命之(みはか)。仍號是土物謂埴輪(はにわ),亦名立物(たてもの)也。仍下令曰:「自今以後,陵墓必樹是土物,無(やぶり)人焉。」
 天皇厚賞野見宿禰之(いさをし),亦賜鍛地(かたしところ),即任土部職(はじのつかさ)。因改本姓(もとのかばね)土部臣(はじのおみ)。是土部連(はじのむらじ)等主天皇喪葬(みはぶり)之緣也。所謂野見宿禰,是土部連等之始祖(はじめのおや)也。
 三十四年,春三月乙丑朔丙寅(),天皇幸山背(やましろ)。時左右奏言之:「此國有佳人,曰綺戶邊(かにはたとべ)姿形美麗(すがたかたちうるはし),山背大國不遲(おほくにのふち)之女也。」天皇於茲執矛祈之曰:「必遇其佳人,道路見瑞(しるしあらはれ)。」比至行宮(かりみや)大龜(かめ)出河中。天皇舉矛刺龜,忽化為白石(しろいし)。謂左右曰:「因此物而推之,必有驗乎。」
 仍喚綺戶邊,納于後宮(きさきのみや)
  生,磐衝別命(いはつくわけのみこと)。是三尾君(みをのきみ)之始祖也。
 先是,娶山背苅幡戶邊(やましろのかりはたとべ),生三男。
  第一曰,祖別命(おほちわけのみこと)
  第二曰,五十日足彥命(いかたらしひこのみこと)
  第三曰,膽武別命(いたけるわけのみこと)。五十日足彥命,是子石田君(いしだのきみ)之始祖也。
 三十五年,秋九月,遣五十瓊敷命于河內國(かふちのくに),作高石池(たかしのいけ)茅渟池(ちぬのいけ)
 冬十月,作倭狹城池(さきのいけ)迹見池(とみのいけ)
 是歲,令諸國多開池溝(うなて)。數八百之。以(なりはひ)為事。因是百姓富寬(とみゆたか),天下太平也。
 三十七年,春正月戊寅朔(),立大足彥尊為皇太子(ひつぎのみこ)


倭彥命 身狹桃花鳥坂墓
倭彥命薨,葬身狹桃花鳥坂墓。近習者殉之,數日不死,晝夜泣吟,死而爛殠,為犬烏聚噉。天皇聞之惻隱,願廢生人殉死之儀。


埴輪
野見宿禰領土部,取埴作人,馬及種種物形,是謂埴輪。自後陵墓必樹是土物,無復傷人。


狹城盾列池
狹城池,『大和志』:「添下郡狹城盾列池在常福寺村,廣一千二百餘畝。一名西池,又名水上池。」迹見池,『大和志』:「添下郡迹見池,在池內村,廣三百餘畝。」高石池,『持統紀』:「河內國大鳥郡高腳海。」茅渟池,『和泉志』:「珍努池在日根郡野野村西。今曰布池。」『古事記』:「印色入日子命者,作血沼池,又作狹山池,又作日下之高津池。」


石上神宮
武門棟梁物部氏總氏神
八、石上神宮與神寶

 三十九年,冬十月,五十瓊敷命居於茅渟菟砥川上宮(うとのかはかみのみや),作劍一千口(ちふり)。因名其劍謂川上部(かはかみのとも),亦名曰裸伴(あかはだがとも)【裸伴,此云あかはだがとも(阿箇播娜我等母)。】藏于石上神宮(いそのかみのかむみや)也。是後,命五十瓊敷命,俾主石上神宮之神寶。

 八十七年,春二月丁亥朔辛卯(),五十瓊敷命謂妹大中姬曰:「我老也,不能掌神寶。自今以後,必汝主焉。」大中姬命(いなび)曰:「吾手弱女人(たわやめ)也,何能登天神庫(あめのほくら)耶?【神庫,此云ほくら(保玖羅)。】」五十瓊敷命曰:「神庫雖高,我能為神庫造梯。豈(わづらひ)登庫乎?」故(ことわざ)曰:「神之神庫,隨樹梯(はしたて)之。」此其緣也。然遂大中姬命,授物部十千根大連而令治。故物部連等,至于今治石上神寶,是其(えに)也。
 昔丹波國桑田村(くはたのむら)有人,名曰甕襲(みかそ)。則甕襲家有犬,名曰足往(あゆき)。是犬咋山獸(やまのしし)牟士那(むじな)而殺之。則獸腹有八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)。因以獻之,是玉今有石上神宮。

九、天日槍與神寶

 八十八年,秋七月己酉朔戊午(),詔群卿曰:「朕聞:『新羅王子天日槍,初來之時,將來寶物(たからもの)今有但馬。元為國人見貴,則為神寶也。』朕欲見其寶物。」即日遣使者,(みことのり)天日槍之曾孫清彥而令獻。於是清彥被(みことのり),乃自捧神寶而獻之。羽太玉一箇、足高玉一箇、鵜鹿鹿赤石玉一箇、日鏡一面、熊神籬一具(ひとそなへ)。唯有小刀(かたな)一,名曰出石(いづし),則清彥忽以為非獻刀子,仍匿袍中,而自佩之。天皇未知匿小刀之情,欲寵清彥,而召之賜酒於御所(みもと)。時刀子從袍中出而顯之。
 天皇見之,親問清彥曰:「(いまし)袍中刀子者何刀子也?」爰清彥知不得匿刀子而呈言:「所獻神寶之類也。」則天皇謂清彥曰:「其神寶之豈得離類乎?」乃出而獻焉,皆藏於神府(みくら)。然後,開寶府(みくら)而視之,小刀自失。則使問清彥曰:「爾所獻刀子忽失矣。若至汝所乎?」清彥答曰:「昨夕(きぞ),刀子自然至於臣家,乃明旦失焉。」天皇則惶之(かしこまりたまひ),且更勿覓。是後出石刀子自然至于淡路嶋,其嶋人謂神,而為刀子立(ほくら)。是於今所祠(まつらるる)也。
 昔有一人,乘艇而(とまれり)于但馬國。因問曰:「汝何國人也?」對曰:「新羅王子,名曰天日槍。」則留于但馬,娶其國前津耳(さきつみみ)麻拖能烏(またのを)【前津耳,一云,前津見(さきつみ)。一云,太耳(ふとみみ)。】
  生,但馬諸助。是清彥之祖父(おほち)也。


出石神社、天日槍之碑
祭天日槍命、出石八前大神,境內有天日槍之碑。出石八前大神者,即天日槍命所攜八種神寶矣。


垂仁天皇 菅原伏見陵


菓祖神田道間守命御塚
十、田道間守與非時香菓

 九十年,春二月庚子朔(),天皇命田道間守(たぢまもり)常世國(とこよのくに),令求非時香菓(ときじくのかくのみ)【香菓,此云かくのみ(箇俱能未)。】今謂(たちばな)是也。
 九十九年,秋七月戊午朔(),天皇崩於纏向宮(まきむくのみや)。時年百四十歲。
 冬十二月癸卯朔壬子(),葬於菅原伏見陵(すがはらのふしみのみさざき)
 明年,春三月辛未朔壬午(十二),田道間守至自常世國。則齏物也,非時香菓八竿八縵(やほこやかげ)焉。田道間守於是泣悲歎之曰:「受命天朝(みかど),遠往絕域,萬里蹈浪,遙度弱水。是常世國,則神仙秘區(かくれたるくに)(ただひと)非所臻。是以往來之間(かよふあひだ),自經十年。豈期,獨凌峻瀾,更向本土乎?然賴聖帝之神靈(みたまのふゆ),僅得還來。今天皇既崩,不得復命。臣雖生之,亦何益矣!」乃向天皇之陵叫哭(おらびなき)而自死之。群臣聞皆流淚也。田道間守,是三宅連(みやけのむらじ)之始祖也。

日本書紀卷第六 終

【久遠の絆】【卷第五】【卷第七】【再臨詔】