風土逸文【參考】


大和國風土記逸文


  1. 御杖神宮(みつゑのかむみや)

       風土記曰:宇陀郡(うだのこほり)篠幡庄(ささはたのまさ)御杖神宮(みつゑのかむみや),所祭非正魂靈(おほみたま)
       倭姬命(やまと比賣のみこと)(いただき)天照大神(あまてらすのおほかみ),為御杖(みつゑ)此地(このところ)。仍(たづね)宮地(みやどころ)()三月,(つひに)神戶(かむべ)

    谷川士清『日本書紀通証』卷十一,一四丁表


  2. 大口真神原(おほくちのまかむがはら)

       是昔(むかし)明日香(あすか)地有老狼(おいおほかみ)在之,(くらふ)人者(おほく)土民(くにつびと)畏之,謂(大口神)おほくちのかみ
       名其住處(すめるところ),號大口真神原(おほくちのまかむがはら)【云云。】見風土記。『日本紀』亦云狼作貴神(かしこきかみ)

    下河邊長流『枕詞燭明抄』中「おほ口の」條〈『長流全集』上卷〉


  3. 三山(みつやま)

       三山(みつやま)者,畝火(むねひ)香山(かくやま)耳梨山(みみなしやま)也。見風土記。

    仙覺『萬葉集註釋』卷第一,一三番歌條〈冷泉家本〉


  4. 天津神命(あまつかみのみこと) 石津神命(いはつかみのみこと)三都嫁(みとのまぐはひ)。】

       大和國風土記云。天津神命(あまつかみのみこと)石津神命(いはつかみのみこと)三都嫁(みとのまぐはひ)(うらぶれ)面語(おもがたり)シテト()リ。三都嫁(ミトノマグハヒ)トハ結婚(トツグ)也。()レバ、(タハフレ)(ウラブレ)ト云也。

    毘沙門堂本『古今集註』卷四,二一六番歌條〈『未刊國文古註釋大系』4〉



河內國風土記逸文


  1. 百濟村(くだらのむら)

       百濟(くだら)所來人者,多居河內國(かふちのくに)久多羅郡(くだらのこほり)矣。(わけ)此郡,其內有百濟村(くだらのむら)。是卅一代敏達天皇(びだつてんわう)御時,阿耨多羅三藐三菩提寺(あのくたらさんみゃくさんぼだいのてら)所建也。故為地名,事(みゑたり)河內國風土記。因遷住其郡,號百濟人居日本カヲ(ママ)百濟人(くだらのひと)也。河內地名,有述百濟國云くだら(クダラ)(はなし)矣。

         譯注:阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)者,無上正等正覺(あのくたらさんみゃくさんぼだい)矣。

    多田義俊『日本聲母傳』〈國會圖書館本『鶯宿雜記』第三九一卷所收〉



攝津國風土記逸文


  1. 難波高津(なにはのたかつ)

       攝津國風土記曰。難波高津(なにはのたかつ)者,天稚彥(あめのわかひこ)天降臨之時(あもりしとき),屬天稚彥而降臨天探女(あめのさぐめ),乘天磐舟(あめのいはふね)而至于此。以天磐舟泊(ゆゑ),號高津(たかつ)【云云。】

    釋聖觀『神趾名所小橋車』卷上,十五丁表~裏〈大阪府立中之島圖書館藏本〉


  2. 味耜山(あぢすきのやま)

       攝津國風土記曰。大小橋山(おほをばせのやま)松杉(まつすぎ)完料佳。亦(れい)細辛(さいしん)奇石(くしきいし)金玉(きんぎょく)出之(いづる)【云云。】……因味耜高彥根命(あぢすきたかひこねのみこと)天降此山,而號味耜山(あぢすきのやま)矣。

    釋聖觀『神趾名所小橋車』卷上,十四丁裏〈大阪府立中之島圖書館藏本〉


  3. 形江(かたえ)

       所以云傍江(かたえ)者,因景行天皇(けいかうてんわう)巡幸諸國之時,於江澤(えざは)現其御姿(みすがた),故云形江。見於攝津國風土記(せのくにふどき)

    釋聖觀『神趾名所小橋車』卷中,二七丁裏〈大阪府立中之島圖書館藏本〉


  4. 吹江(ふきえ) 【深江。】

       風土記書吹江(ふきえ),今云深江(ふかえ)也。

    釋聖觀『神趾名所小橋車』卷中,二八丁表〈大阪府立中之島圖書館藏本〉


  5. 難波堀江之歌(なにはのほりえのうた)

    橘守部『稜威道別』卷二〈『橘守部全集』第一〉


  6. 味野原(あぢののはら)

       風土記云,味原(あぢはら)【云云。】文字上下如何。

    宮內廳本『謌枕名寄』卷十六,補遺條〈『校本謌枕名寄』本文篇〉


  7. 味經原(あぢふのはら)

       今(かむがふる)云,風土記味原野(あぢのはら)同所歟。

    宮內廳本『謌枕名寄』卷十六,補遺條〈『校本謌枕名寄』本文篇〉


  8. 八十頭島(やそかしらのしま) 【八十島】

       或物(あるもの)云,風土記云。堀江(ほりえ)之東有(さは)(ひろさ)三四町許,名曰八十頭嶋(やそかしらのしま)。昔,女待人負其兒。其間(もち)(あみ)(とらむ)鳥,待鳥之間(とりまつあひだ)河鳥(かはのとり)飛越,(かかる)羅網(あみ)。女人,不勝(たへず)鳥力而返。引返陷之而死矣(おちいりてしぬ)。又有人求其頭,有人頭二,鳥頭七十八,合八十頭也,依此起名(なづくる)也。【傍注:我頭與所負兒頭二也。鳥頭者,(かかりたる)於羅網之鳥頭,計有七十八也。】

    顯昭『古今集註』卷第九,四零七番歌條〈『日本歌學大系』別卷四〉


  9. 御魚家(みまなや)

       任那(みまな)者,種種(さまざま)魚物多有之國,每度獻於日本朝廷(やまとのみかど)。故,稱ミマナ(任那)。ミ者,御字之(こころ)。マナ者,(うを)之事也。任那者獻魚之事(いをたてまつりししこと)矣。於攝津國(せのくに)風土記西生郡篇,其魚來者,云御魚家(みまなや),送京(まで)之間所宿(やどりしたる)之地名也。

    多田義俊『日本聲母傳』〈國會圖書館本『鶯宿雜記』第三九一卷所收〉


  10. 御津海(みつのうみ)

       【不載(のせず)。】

    『萬葉集管見』二九三番歌條


  11. 籤稻村(くししろむら)

       攝津國風土記曰:河邊郡(かはのへのこほり)山木保籤稻村(くししろのむら)者,大鷦鷯(おほささぎ)天皇(仁德)御宇,津直沖名田(つなをきながた)也。本名(もとつな)柏葉田(かしはばのた)。造田串(たくし)罪事(つみにつみす),以田贖焉(あがなひ)。故號籤稻村(くししろむら)【云云。】按稻(よむ)作シロ之事,其()當稱シロ(など)矣。

    多田義俊『中臣祓氣吹抄』中〈『大祓詞註釋大成』下〉


  12. 廣田明神(ひろたのみやうじん) 御前濱(をまへのはま) 武庫(むこ)

       風土記。人皇(じんわう)十四代仲哀天皇(ちうあいてんわう),將攻三韓(みつのからくに),到筑紫(つくし)(かむあがり)。今氣比大明神(けひのだいみやうじん)者,此帝也。其后神功(じんぐう)者,開化天皇(かいくわてんわう)五世孫,息長宿禰(おきながのすくね)女也。於是,發軍伐三韓。時當產月,取石(さしはさみ)其腰裳,欲不產也。遂入新羅(しらき)高麗(こま)百濟(くだら),皆悉臣服()。歸到筑紫,產皇子。是譽田(ほむた)天皇(應神)也。皇后(神功)攝津國(せのくに)海濱北岸,廣田鄉(ひろたのさと)。今號廣田明神(ひろたのみやうじん)是也。故號其海濱(はま),曰御前濱(をまへのはま)。曰御前澳(おまへのおき)。又埋其兵器(つはもの)處,曰武庫(むこ)【今曰兵庫(ひゃうこ)。】譽田(應神)天皇者,今八幡大神(やはたのおほかみ)也。

    林道春〈羅山〉『本朝神社考』第二卷,二六丁表~裏「廣田」條



山背國風土記逸文


  1. 鎮火(ひしづめ)

       風土記曰:(いはゆる)在宮城四方角(よも)卜部(うらべ)等,鑽火(きりび)而祭。為防火災也,故曰鎮火(ひしづめ)云云。

    行譽『壒囊抄』卷五,五丁裏「鎮火祭事」條


  2. 賀茂祭祀(かものいはひまつる ) 乘馬始源(うまのりのみなもと)

       秦氏本系帳(はたしほんけいちゃう)云……。妋玉依日子(たまよりひこ)者,今賀茂縣主(かものあがたぬし)御遠祖(みとほつおや)也。其祭祀日,乘馬矣。志貴嶋宮(しきしまのみや)御宇(あめのしたしろしめし)天皇(欽明)之御世,天下舉國(くにこぞり),風吹雨零,百姓(おほみたから)含愁。爾時,敕卜部伊吉若日子(うらべのいきわかひこ),令卜。乃,賀茂神(かものかみ)(たたり)也。撰四月吉日,馬(かけ)鈴,人蒙豬頭(ししのかしら)駈馳(くち),以為祭祀,(よく)禱祀(ねぎまるたしめ)。因之五榖成熟(いつつのたなつものみのれり)天下(あめのした)豐平(ゆたか)。乘馬(はじまれり)於此也。

    底本:『本朝月令』四月,中酉「賀茂祭事」條〈『群書類從』第六輯〉
    勘案:顯昭『袖中抄』十七「瀨見小川(せみのをがは)」條〈『日本歌學大系』別卷二〉


  3. 桂里(かつらのさと)

       或云,山城國(やましろのくに)風土記云:月讀尊(つくよみのみこと)天照大神(あまてらすのおほみかみ)(みことのり)。降于豐葦原中國(とよあしはらのなかつくに),到于保食神(うけもちのかみ)(がり),時有一湯津桂樹(ゆつかつらのき),月讀尊乃(より)其樹立之,其樹所有,今號桂里(かつらのさと)

    『山城名勝志』卷十「桂」條〈『改定史籍集覽』第二十二冊〉


  4. 南鳥部里(みなみのとりべのさと) 的餅化鳥

       山城國(やましろのくに)風土記云:南鳥部里(みなみのとりべのさと),稱鳥部者,秦公伊呂具(はたのきみいろぐ)的餅(いくはのもち)化鳥飛而(ゐりき)其所森,森云鳥部(とりべ)

    四辻善成『河海抄』卷二,夕顏「鳥部ののかた」條〈石田穰二校定、角川版〉


  5. 伊奈利社(いなりのもり)

       風土記云:伊奈利(稻荷)者,秦中家忌寸(はたのなかつやのいみき)遠祖(とほつおや)伊呂具秦公(いろぐのはたのきみ)。積稻梁(いね),有富裕(とみさきはひき)。乃用(もち)(いくは)者。化成白鳥(しらきとり),飛翔居山峰(やまのみね)生子。【子化成稻。】遂為(もり)。其苗裔(すゑ)先過(さきのあやまち),而(ねこじ)社之木(もりのき)殖家,禱祭也(のみまつりき)

    底本:卜部兼俱『延喜式神名帳頭註』「稻荷」條〈『群書類從』第二輯〉
    勘案:神宮文庫本『諸神記』〈乾冊一五丁裏「稻荷」條〉


  6. 宇治橋姬(うぢのはしひめ)

       山城國風土記云:宇治橋姬(うぢのはしひめ)七尋和布(ななひろノわかめ)惡阻(ツハリ)(ねがひ)ケル(ほど)ニ、(ヲトコ)海邊ニ尋行テ,笛ヲ吹ケルニ,龍神()デ,(むこ)ニトレリ。姬,夫ヲ尋テ海端(うみノはた)ニ行ケルニ,老女ノ家()ルニ行テ問程ニ,「()ル人ハ龍神ノ(むこ)成坐(なテオハ)スルガ,龍宮ノ火ヲ()ミテ,此ニテ物ヲ食スルナリ。其時(そのとき)()ヨ。」ト云ケレバ,隱居(カクレゐ)テ見之ニ,龍王ノ玉輿(たまのこし)(カカ)レテ來テ,供御ヲ食シケリ。()テ女,物語シテ,哭泣(ナクナ)(わか)レケリ。遂ニハ(カヘ)リテ彼女ニ()レタリト云リ。

         譯注:山城國風土記云,宇治橋姬以妊娠惡阻(害喜),願得七尋和布。故其夫至海邊尋之。吹笛之間,為龍神所愛,祟作聟人。橋姬覓其夫,出向海端,問於老女之家。曰:「是人,已成龍神之聟。然忌龍宮之火,故每食物於茲。其時可見。」遂匿居而,見其驅龍王玉輿而來,饗食供御。是而,橋姬與之相語,哭泣離別。其後良人遂歸,復與彼女連理云爾。

    『毘沙門堂本古今集註』卷十一,五零三番歌條〈『未刊國文古註釋大系』4〉


  7. 八十氏防人(やそうぢのさきもり)

       又古老(ふるおきな)傳曰:【昔。】崇神天皇(すうじんてんわう)御宇,逆徒自山背(やましろ)競來時,差遣八十氏防人(やそうぢのさきもり)宇治邊(うぢのへ),固守關城,云云。

    『詞林采葉抄』第一,「物武八十氏河」〈藤浪本〉


  8. 宇治隴津屋(うぢのをかつや)

       山城國(やましろのくに)風土記曰:宇治隴津屋(をかつや)祓戶(はらへど)也。【云云。

    多田義俊『創祓弁』〈『大祓詞註釋大成』下〉


  9. 石田(いはた)

       石田小野(いはたのをの)石田(いはた),山城國風土記(ふどき)尾張(をはり)

    『夫木和歌抄』卷二十二,九六二二番歌條〈『新編國歌大觀』第二卷〉



伊賀國風土記逸文


  1. 伊賀國號(いがのくにのな)

       伊賀國(いがのくに)風土記 伊賀郡(いがのこほり)
       猿田彥神(さるたひこのかみ)。始此之國屬伊勢(いせ)風速(加佐波夜)之國。時二十餘萬歲,(しれり)此國矣。猿田彥神女吾娥津媛命(あがつひめのみこと)日神之御神(ひのかみのみかみ)自天上投降(なげくだし)給之三種之寶器(みくさのたから)之內,金鈴知之守給。其知守(しりまもり)給之御齋處(みいつきのところ),謂加志之和都賀野(かしのわつがの)。今時云手柏野(たかしは)者,此其言(よこなまれる)也。又此神之依知守國,謂吾娥之郡(あがのこほり)。其後,清見原(きよみはら)天皇(天武)御宇,以吾娥郡分為國之名。其國之名,未定(さだめず)十餘歲。謂之空國(加羅具似)虛國(むらしくに)(こころ)也。後改伊賀(いが)吾娥(あが)之音轉也。伊賀之郡(いがのこほり),其郡之一也。此國之內,當郡者土地燥而多小川,其川之總號名而謂吳織濯川(久禮波之登利須須杵のかは)。此國,昔吳服之君(くれはとりのきみ)濯衣之(よし)也。此川者多出於年魚(あゆ)(さけ)雜鮮。今又內膳司(うちのかしはでのつかさ)干魚(ほしうを)者,自此川(みつぐ)之物也。

    今井似閑「風土記殘篇」『萬葉緯』卷第十七〈『未刊國文古註釋大系』3〉


  2. 伊賀津姬(いがつひめ) 伊賀國號(いがのくにのな)

       伊賀國風土記(ふどき)
       伊賀國(いがのくに)者,往昔(むかし)伊勢國(いせのくに)大日本根子彥太瓊(おほやまとねこひこふとに)天皇(孝靈)御宇癸酉(みづのととり)(わかち)而為伊賀國。本此號者,伊賀津姬(いがつひめ)之所領之(しる)郡也。仍為郡名,亦為國名。西限高師川(たかしのかは),東限加富唐岡(かとみのからをか),北限篠嶽(しののたけ),南限中山(なかやま)土地(つち)中肥(なかのこえたり)而民用有山川足業。

    今井似閑「風土記殘篇」『萬葉緯』卷第十七〈『未刊國文古註釋大系』3〉


  3. 唐琴(カラコト)

       云唐琴(カラコト)所,在伊賀國(いがのくに)彼國(かのくに)風土記云。大和(やまと)、伊賀之(さかひ),有河。中嶋之邊(なかじまのあたり)神女(かみのをみな)常來鼓琴(ことをこす)。人(あやしみ)見之,神女捨失(すてうせぬ)其琴。齋祭(いはへり)此琴為神,(ゆゑに)號其所為唐琴(カラコト)云也。

    『毘沙門堂本古今集註』卷十,四五六番歌條〈『未刊國文古註釋大系』4〉



伊勢國風土記逸文


  1. 度會郡(わたらひのこほり)

       裏書(うらがき)勘注(かんちゅう)曰:風土記(ふどき)曰。(それ),所以(なづくる)度會郡(わたらひのこほり)者,畝傍樫原宮(うねびのかしはらのみや)御宇神倭磐余彥(かむやまといはれひこ)天皇(神武)天日別命(あめのひわけのみこと)覓國(くにまぎ)之時,度會賀利佐嶺(わたらひのかりさのみね)火氣發起。天日別命(みづから)云曰:「此小佐(をさ)居歟。」禮使(ゐやまひのつかひ)令見(みする)使者(つかひ)還來申曰:「有大國玉神(おほくにたまのかみ)賀利佐(かりさ)到。」于時,大國玉神遣使奉迎(むかへたてまつる)天日別命。因令造其橋。不堪造畢(つくりをはる),于時到。今以梓弓(あづさゆみ)(はし)而度焉。(ここに)大國玉神(やすけ)彌豆佐佐良姬命(みつささら比賣のみこと)參來(まゐりきたり)迎相土橋鄉(つちはしのさと)岡本村(をかもとのむら)申。天日別命(よろこび)地出之(ところをいでて)參會(まゐりあひ)曰:「刀自(とじ)(ここに)度會(わたりあへり)焉。」(より)以為名也。

    神宮文庫藏『倭姬命世紀』應永本,三一丁表~裏〈『神宮古典籍影印叢刊』8〉


  2. 度會(わたらひ) 拆釧(佐古久志呂)

       風土記(ふどき)云:號度會(わたらひ)者,(おこる)川名也而已。五十鈴(いすず),謂神風(かむかぜ)百船(ももふね)度會縣拆釧(佐古久志呂)宇治(うぢ)五十鈴河(いすずのかは)上,皆因以古語(こご)名也。百船乃御船,神所獻也。拆釧(佐古久志呂)者,河水流通()()通儀也,【云云。】

    度會行忠『伊勢二所太神宮神名秘書』〈神宮文庫古本〉


  3. 五十鈴(いすず)

       五十鈴(いすず)云。風土記云:是日八小男(やをと)八小女(やをめ)等,迾逢(こぞりあひ)此,㳑樹接(いすすきまじはる)。因以名也。【云云。】

    度會行忠『伊勢二所太神宮神名秘書』〈神宮文庫古本〉


  4. 宇治鄉(うぢのさと)

       風土記云:宇治鄉(うぢのさと)者,伊勢國(いせのくに)度會郡(わたらひのこほり)宇治村(うぢのむら)五十鈴川(いすずのかは)上,造作宮社,奉齋太神(おほかみ)。是因以宇治鄉(うぢのさと),為內鄉(うちのさと)也。今以宇治(うぢ)二字為鄉名,以(なす)名。【云云。】

    度會行忠『伊勢二所太神宮神名秘書』〈神宮文庫古本〉


  5. 瀧原神宮(たきはらのかむみや)

       伊勢國(いせのくに)風土記曰:倭姬命(やまとひめのみこと),乘船而上,坐於度會(のぼり)河,定瀧原神宮(たきはらのかむみや)

    金澤文庫藏『伊勢【諸別宮。】』七丁表「瀧原宮」條


  6. 八尋機殿(やしろのはたどの)

       風土記云:機殿(はたどの)八尋(やひろ)者,倭姬命(やまとひめ)奉齋(いはひまつり)大神之日作立(つくりたて)。此神邑(みわのむら)又號鄉也。載大同本記具也。

    度會行忠『伊勢二所太神宮神名秘書』〈神宮文庫古本〉


  7. 多氣郡(たきのこほり)

       難波長柄豐碕宮(なにはのながらのとよさきのみや)御宇(あめのしたしろしめし)天皇(孝德)丙午,竹連(たけのむらじ)磯直(いそのあたひ)二氏,建此郡焉。

    度會行忠『伊勢二所太神宮神名秘書』〈神宮文庫古本〉


  8. 服機社(はとりはたのやしろ)

       不載(のらず)。】

    『倭姬命世記』裏書


  9. 麻績社(をみのやしろ)

       不載(のらず)。】

    『倭姬命世記』裏書


  10. 安佐賀社(あさかのやしろ)

       伊勢國(いせのくに)風土記:天照大神(あまてらすおほみかみ)美濃國(みののくに),迴到安濃藤方片樋宮(あのうのふぢかたのかたひのみや)坐。于時安佐賀山(あさかのやま)荒神(あらぶるかみ)(ももたり)往人(たびびと)(ころし)五十人(いそたり)四十(よそたり)往人者亡廿人(はたちびと)。因茲倭姬命(やまとひめのみこと)不入坐度會郡(わたらひのこほり)宇治村(うぢのむら)五十鈴川之宮(伊勢神宮)奉齋(いはひまつり)藤方片樋宮(ふぢかたのかたひのみや)。于時阿佐賀(あさか)荒惡神(あらぶるかみ)為行(),倭姬命遣中臣(なかとみの)大鹿嶋命(おほかしまのみこと)伊勢大若子命(いせのおほわくごのみこと)忌部玉櫛命(いみべのたまくしのみこと),奏聞天皇。天皇詔:「其國者,大若子命先祖(とほつおや)天日別命(あめのひわけのみこと)(むけし)山也。大若子命祭平(まつりはやし)其神,令倭姬命,奉入五十鈴宮(いすずのみや)。」即賜種種幣(くさぐさのみてぐら)而返遣。大若子命祭其神,已保平定(やすけしづめく),即(たて)社於安佐賀(あさか),以祭者(まつれるもの)矣。

    荒木田經雅『大神宮儀式解』卷第二,三四丁裏〈神宮文庫自筆本〉


  11. 稻生社(いなりのやしろ)

       本社緣起引風土記曰:大宮那江大國道命(なんおほくにみちのみこと),西宮地主姬命(ちぬしひめのみこと),三大神宮雷電神(いかづちのかみ)是也。昔,天若(あめわか)國若(くにわか)之時,天照大神(あまてらすおほみかみ)大國道命(おほくにみちのみこと),共計而曰,吾等天降(あもり)瑞穗國(みづほのくに)可王,人民(おほみたから)令豐。是時,保食神(うけもちのかみ),腹中生(いね)天照人(天熊人)取持云而奉進之。于時,天照大神,喜之:「是物者則顯見蒼生(うつしきあをひとくさ)可食而活也。」【云云。】

    藤堂元甫『三國地志』卷二九,伊奈富神社條〈定本三國地志〉



志摩國風土記逸文


  1. 吉津島(よしつしま)

       神宮(かむみや)之中,禮奠(れいてん)之間,為永例(ながきためし)有。長柏(ながきかしは),謂之三角柏(みつのかしは)。件柏者,志摩國(しまのくに)吉津島(よしつしま)(さかひ)土具島(どくしま)內在。山中生木上也。吉津島,風土記(ふどき)曰:昔,行基菩薩(ぎゃうきぼさつ),請南天筑(みなみてんじく)婆羅門僧正(ばらもんそうじゃう)、天筑(ほふし)佛哲(ぶってつ)(うゑ)三角柏為太神宮(おほかむみや)御園(みその)天平(てんぴゃう)九年十二月十七日,致御祭之勤(みまつりのいそしむ)也。其後,傳教大師(でんげうだいし)弘法大師(こうぼうだいし)慈覺大師(じかくだいし),續以修行(おこなひ)之,各以法樂(ほふらく)之。

         譯注:行基,百濟系渡來人高志氏之後,日本初大僧正位。婆羅門僧正,天筑僧菩提僊那,仰慕文殊菩薩而前往中國,後受遣唐使之邀而來日,為東大寺大佛開眼供養之導師。佛哲,林邑(越南)國渡來僧,與婆羅門僧正共經唐土而來日。傳教大師、弘法大師、慈覺大師,最澄、空海、圓仁之諡號。

    慈圓『拾玉集』卷第五,五五八三番歌左注〈『新編國歌大觀』第三卷〉



尾張國風土記逸文


  1. 尾張國號(をはりのくにのな)

       風土記(ふどき)云:日本武尊(やまとたけるのみこと)東夷(あづまえびす),還到當國,以所(はく)(をさむ)熱田宮(あつたのみや)。其劍,(もと)出於八岐巨蛇(やまたのをろち)()。仍號尾張國(をはりのくに)

    寺島良安『和漢三才圖會』第七十一卷


  2. 川嶋社(かはしまのやしろ)

       尾張國(をはりのくに)風土記云:葉栗郡(はぐりのこほり)川嶋社(かはしまのやしろ)【在河沼鄉(かはぬまのさと)川嶋村(かはしまのむら)。】奈良宮(ならのみや)御宇(あめのしたしろしめし)聖武天皇(しゃうむのすめらみこと)時,凡海部忍人(おほしあまべのおしひと)申:「此神化為白鹿(しらしか),時時出現。」有(みことのり):「奉齋,為天社(あまつやしろ)。」

    仙覺『萬葉集註釋』卷第一,總記條〈冷泉家本〉


  3. 福興寺(ふくこしてら) 【三宅寺(みやけでら)

       同國(尾張)愛智郡(あいちのこほり)福興寺(ふくこしてら)【俗名三宅寺(みやけでら)。南去郡家(こほりのみやけ)九里十四步。在日下部鄉(くさかべのさと)伊福村(いふくのむら)。】平城宮(ならのみや)御宇天璽國押開櫻彥命(あめしるしくにおしひらきさくらひこ)天皇(聖武),神龜元年,主政(まつりごとひと)外從七位下三宅連麻佐(みやけのむらじまさ),所奉造(つくりたてまつる)也。

    仙覺『萬葉集註釋』卷第一,總記條〈冷泉家本〉


  4. 玉置山(たまおきやま) 星池(ほしいけ)  【星石(ほしいし)

       玉置山(たまおきやま)山。出鹿(しか)(きつね)。在神,號道主命(みちぬしのみこと)。亦有一小石。昔人云:「赤星(あかぼし)之所落也。」山麓(やまのふもと)星池(ほしいけ),星之常宿(つねにやどる)所也。亦有怪石(あやしきいし),星之所化之石也。今猶且星落(ほしおつ)焉。

    今井似閑「風土記殘篇(尾張國風土記)」『萬葉緯』卷第十七〈『未刊國文古註釋大系』3〉


  5. 阿波手森(あはでのもり)  【咲山(わらふやま)

       顯昭云:「歸山(かへるやま)者,在越前(こしのみちのくち)。……」
       私云:古物(ふるきもの)ニハ風土記(ふどき)等ヲ()キテ,阿波手森(あはでのもり)咲山(わらふやま)等云フ(ところ)ヲバ,皆斯樣(ミナカヤウ)言表(イヒアラハ)セリ。

         譯注:顯昭云:「歸山者,在越前。……」私云:古物引風土記等,云阿波手森、咲山等處,皆斯樣之言表矣。

    顯昭『古今集註』卷第十七,九零二番歌條〈『日本歌學大系』別卷四〉


  6. 宇夫須那社(うぶすなのやしろ)

       不載(のせず)。】

    『塵袋』


  7. 葉栗尼寺(はぐりのあまでら)

       不載(のせず)。】

    『塵袋』


  8. 大吳里(おほくれのさと)

       不載(のせず)。】

    『塵袋』


  9. 張田邑(はりたのむら)

       不載(のせず)。】

    『塵袋』


  10. 藤木田(ふぢきた)

       不載(のせず)。】

    『塵袋』


  11. 登登川(ととかは)

       不載(のせず)。】

    『塵袋』


  12. 德德志(ふくよかな)

       不載(のせず)。】

    『塵袋』



參河國風土記逸文


  1. 豐河(とよかは)

       不載(のせず)。】

    山崎闇齋『再遊紀行』


  2. 矢作河(やはぎかは)

       晏子春秋(あんししゅんじう)云:「臨難鑄兵,臨渴掘井,此類也。」愚按,本朝(ほんてう)參河(みかは)風土記,有矢作河(やはぎかは)

         譯注:三河,則男川、豐川、矢作川。

    文明十七年本『下學集』態藝門「見軍作矢」條



遠江國風土記逸文


  1. 白羽官牧(しろはのかんまき)

       不載(のせず)。】

    『遠江山下氏系譜』



駿河國風土記逸文


  1. 駿河國號(するがのくにのな)

       風土記(ふどき)云:國中富士河(ふじかは)在之。其水極猛疾(キハメテたけくはやし)。故稱駿河國(するがのくに)【云云。】

    下河邊長流『枕詞燭明抄』上「うちよする」條〈『長流全集』上卷〉


  2. 神女羽衣(かみのをみなのはごろも) 三保松原(みほのまつはら)

       三保松原(みほのまつはら)者,在駿河國(するがのくに)有度郡(うどのこほり)有度濱北,有富士山(ふじのやま)。南有大洋海。久能山(くのうのやま)(さがしく)於西。清見關(きよみがせき)田子浦(たごのうら),在其前。松林蒼翠,不知其幾千萬株也。殆非凡境。誠天女(あまつをとめ)海童(わたつみ)之所遊息也。按風土記,古老傳言。昔有神女(かむめ)。自天降來,曝羽衣(はごろも)於松枝。漁人(あま)拾得而見之,其輕軟不可言也。所謂六銖衣(ろくしゅのころも)乎,織女機(おりめのはた)中物乎。神女乞之,漁人不與。神女欲上天,而無羽衣,於是,遂與漁人為夫婦(をとめ),蓋不得已也。其後一旦,女取羽衣(はごろも)乘雲而去,其漁人(あま)亦登仙云。

    林道春『本朝神社考』第五卷,三一丁表~裏「三保」條


  3. 手兒呼坂(てこのよびさか) 不來見濱(こぬみのはま)

    下河邊長流『續歌林良材集』上「て子のよひ坂の事」條〈『長流全集』上卷〉



伊豆國風土記逸文


  1. 伊豆國(いづのくに) 奧野神獵(おくののみがり) 獵鞍(かりくら)

       伊豆國(いづのくに)風土記曰:(わき)駿河國(するがのくに)伊豆乃崎(いづのさき),號伊豆國。日金嶽(ひがねがたけ),祭瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)荒神魂(あらみたま)奧野神獵(おくののみかり),年年國別(えだち)也。構八牧別所(やまきのわけどころ)幣坐(みてぐら)。出納狩具(かりくら)行裝之次第,有圖記。推古天皇(すいこてんわう)御宇(あめのしたしろしめし)伊豆(いづ)甲斐(かひ)兩國之間,聖德太子(しゃうとくのひつぎのみこ)御領(ごりゃう)多。自此獵鞍(かりくら)停止(とどめき)
       八牧別所,往古(むかし),獵鞍之(つかさ),司祭山神(やまつかみ),號幣坐神社(みてぐらのかみのやしろ)。其舊法(ふるきのり)斷久也(絶ゆひさし)。夏野獵鞍(かりくら)者,伊藤(いとう)、奧野,每年撰鹿柵(かせ)射手(おこなふ)云云(しかしかいふ)。】

         譯注:按『鎌倉實記』伊豆獵鞍條,以「奧野」作「興野」,以「幣坐神社」作「幣坐神坐(かみくら)」。

    加藤謙齋『鎌倉實記』第四,享保版本一三丁裏「賴朝八牧代兼隆を討事」條


  2. 奧野(おくの) 伊豆船(いづのふね)造船(ふなづくり)

       又曰:應神天皇(おうじんてんわう)五年甲午冬十月,(おほせ)伊豆國(いづのくに)造船。長十丈。船成(うかべし)海,而(かるきこと)如葉(はせき)。傳云:「此舟木(ふなき)者,日金山麓(ひがねのやまのふもと)奧野(おくの)(くす)也。是本朝(ほんてう)造大船始也。」

    加藤謙齋『鎌倉實記』第四,享保版本一三丁裏「賴朝八牧代兼隆を討事」條


  3. 日金嶽(ひがねがたけ)

       日金嶽(ひがねがたけ)者,往昔伊豆別王子(いづわけのわうし)所以勸請瓊瓊木尊(ににぎのみこと)。見於伊豆國風土記。伊豆第一高山(たかき)也。

    加藤謙齋『鎌倉實記』第四,享保版本一零丁裏~一一丁裏「賴朝八牧代兼隆を討事」條


  4. 伊豆溫泉(いづのゆ)

       准后親房記(じゅごうのちかふさのしるし),引伊豆國風土記(ふどき)曰:(かむがふる)溫泉()玄古(むかし)天孫(あめみま)未降也,大己貴尊(おほなむぢのみこと)少彥名(すくなびこな),我秋津洲(あきづしま)(あはれみ)夭折(あからさまにしぬ),始製禁藥(くすり)湯泉(ゆあみ)(みち)伊津神湯(いづのかみのゆ),又其數而,箱根(はこね)元湯(もとつゆ)是也。走湯(はしりゆ)不然(しからず)人王(じんくわう)四十四代(元正帝)養老(やうらう)年中開基(ひらき)。非尋常(よのつね)出湯,一晝夕(ひとひ)二度(ふたたび),山岸(いはや)中,火焰(ほのほ)隆發(さかりにおこり),而出溫泉。甚燐烈(いたくおにびひかる)(ぬるく)沸湯(わきゆ),以()湯船(ゆふね)。浸身者諸病悉治(もろもろのやまひことごとくなほり)

    加藤謙齋『鎌倉實記』第三,享保版本二一丁表「賴朝蛭兒嶋御館事」中「筥根走湯」條



甲斐國風土記逸文


  1. 菊花山(きくかさん)

    『夫木和歌抄』卷第十四,五九零零番歌條〈『新編國歌大觀』第二卷〉



相模國風土記逸文


  1. 足輕山(あしからのやま)

       相模國(さがみのくに)風土記云:足輕山(あしからのやま)者,取此山之杉木(すぎのき)作舟,足輕(あしのからき)之甚,(こと)他材(ほかのき)所作之船也。故(つけたり)足輕山。【云云。】

    下河邊長流『續歌林良材集』上「あしから小船の事」條〈『長流全集』上卷〉



下總國、上總國風土記逸文


  1. 下總(しもふさ)上總國號(かづさのくにのな)

       下總(しもふさ)上總(かづさ)(ふさ)木枝(きのえだ)(いふ)也。昔此國生大楠(おほいなるくす)(たけ)(おへり)數百(つゑ)。時帝怪之(あやしみ),賜令卜占(うならはし)大史(おほふひと)奏云:「天下大兇事(おほまがごと)也。」因茲,斷捨(きりすつる)彼木,(たをれぬ)於南方。上枝云上總,下枝云下總。風土記(ふどき)

    菊本賀保『日本國花萬葉集』卷之十。第十六冊,一丁表



常陸國風土記逸文


  1. 飼屋(かひや)

        登蓮法師(とうれんのほふし)云:常陸國風土記(ひたちのくにのふどき)に,淺廣(あさくひろき)(さは)と云,深狹(ふかくせばき)飼屋(かひや)と云,と()えたりと申侍しかど,彼風土記未見ば覺束無(おぼつかな)し。

         譯注:登蓮法師云:「按常陸國風土記,云淺廣者作澤,云深狹者作飼屋。」然未見於彼風土記,迷離不確矣。

    顯昭『袖中抄』第一「かひ屋がした」條〈『日本歌學大系』別卷二〉


  2. 沼尾池(ぬまをのいけ)

       不載(のせず)。】

    『夫木和歌集』


  3. 係蘇(かかりそ)

       不載(のせず)。】

    『塵袋』



近江國風土記逸文


  1. 淡海國號(あふみのくにのな) 細浪國(ささなみのくに)

       淺井家紀錄(あさゐけのきろく)近江國(あふみのくに)風土記云:淡海國(あふみのくに)者,以淡海(あはうみ)國號(くにのな)。故一名(またのな)細浪國(ささなみのくに)當思(おもふべし)所以(ゆゑなり)目前(まのあたり)向觀(むかひみる)湖上(うみのうへ)漣漪(ささなみ)(なり)

    橘守部『神樂歌入文』卷下〈『橘守部全集』第七〉


  2. 八張口神社(やはりぐちのかみのやしろ) 左久那太李神(さくなだりのかみ)

       近江國風土記(ふどき)曰:八張口神社(やはりぐちのかみのやしろ),即(いみ)伊勢左久那太李神(さくなだりのかみ)。所祭瀨織津比咩(せをりつひめ)也。【云云。】

    多田義俊『創禊弁』〈『大祓詞註釋大成』上卷〉


  3. 息長川(おきながのかは)

       不載(のせず)。】

    下河邊長流『枕詞燭明抄』下〈『長流全集』上卷〉


  4. 伊香小江(いかごのをうみ)

       古老(ふるおきな)傳曰:近江國伊香郡(いかごのこほり)與胡鄉(よごのさと)伊香小江(いかごのをうみ),在(さと)南也。天之八女(あめのやをとめ)(ともに)白鳥(しらとり),自天而降,(かはあび)於江之南津。于時,伊香刀美(いかとみ),在於西山。遙見白鳥,其形奇異(あやし)。因(おもふ):「若是神人(かみびと)乎?」往見(ゆきてみる)之,(まことに)是神人也。於是伊香刀美(いかとみ),即生感愛(めづるこころ),不得還去。(ひそかに)白犬(しろきいぬ)盜取(ぬすみとらし)天衣(あまのはごろも)。得隱弟衣(いろとのこもろ)。天女乃知,其(いろね)七人,飛昇(とびのぼる)天上。其弟一人,不得飛去。天路(あまぢ)永塞(ながくとざし),即為地民(くにつひと)。天女浴浦,今謂神浦(かみのうら)是也。伊香刀美,與天女弟女共為室家(をひとめ),居於此處,遂生男女。男二女二。兄名意美志留(おみしる),弟名那志等美(なしとみ)。女名伊是理姬(いぜり比咩),次名奈是理姬(なぜり比賣)。此伊香連(いかごのむらじ)等之先祖(とほつおや)是也。(おろは)搜取(さがしとり)天羽衣(あまのはごろも),著而昇天。伊香刀美,獨守空床(むなしきとこ)唫詠不斷(ながめすることやまざりき)

    神宮文庫本『帝王編年記』第十,元正天皇養老七年癸亥條


  5. 竹生島(ちくぶのしま)

       又云。霜速彥命(しもはや比古のみこと)之男多多美彥命(たたみ比古のみこと),是謂夷服岳神(いぶきのをかのかみ)也。(むすめ)比左志姬命(ひさし比女のみこと),是夷服岳神之(いろね),在於久惠峰(くゑのみね)也。次淺井姬命(あさゐ比咩のみこと),是夷服神之(めひ),在於淺井岡(あさゐのをか)也。是夷服岳與淺井岳(あさゐのをか)相競(あひきほひ)長高(たかき)。淺井岡一夜增高。夷服岳怒拔刀釰(つるぎ)(きりし)淺井(比賣)(比賣)(かしら)(おち)江中(うみのなか)而成江嶋(えしま)。名竹生嶋(ちくぶしま),其(かしら)乎。

    神宮文庫本『帝王編年記』第十,元正天皇養老七年癸亥條,續前條


  6. 注進風土記事(ふどきちゅうしんのこと)

       不載(のせず)。】

    中山忠親『山槐記』



美濃國風土記逸文


  1. 金山彥神(かなやまひこのかみ) 一宮(いちのみや)

       風土記(ふどき)云:伊弉並尊(いざなみのみこと)火神(ひのかみ)軻遇槌(かぐつち)之時,悶熱(あつかひ)懊惱(なやみ),因為(たぐり)。此化神曰金山彥神(かなやまひこのかみ)是也。一宮(いちのみや)也。

      卜部兼俱『延喜式神名帳頭註』「金山彥」條〈『大祓詞註釋大成』上卷〉



飛驒國風土記逸文


  1. 飛駄國號(ひだのくにのな)

       風土記云:此國本美濃(みの)內也。往昔(むかし)江洲大津(あふみのおほつ)王宮(おほきみのみや)時,自此郡良材(よきき)多出。而(おほせ)馬駄(ばだ)來,其(はやきこと)如飛。因改稱飛駄國(ひだのくに)

         譯注:江洲大津,此云近江大津宮(ふみのおほつみや)御宇天智天皇。

      寺島良安『和漢三才圖會』第七十卷



信濃國風土記逸文


  1. 其原伏屋(そのはらふせや) 帚木(ははきぎ)

       (むかし),風土記と申)見侍しにこそ,此帚木(ははきぎ)(よし)は大略見侍しか。()れど,年久に罷成て,捗捗(はかばか)しくも覺侍らず。件木(くだんのき)美濃(みの)信乃(しなの)兩國の(さかひ)其原伏屋(そのはらふせや)と云所に有木也。遠くて()れば,帚木(ははきぎ)を立たる樣にて()てり。(ちか)くて()れば,(それ)()たる木も()し。然者:「(あり)とは()れど()はぬ。」に(たと)へ侍。

         譯注:昔日侍觀風土記申文,略知此帚木之由。然以經年既久,無以明憶。件木者,生於美濃、信濃兩國交界其原伏屋之處。遠望者,由帚木所立之狀。近觀者,無木姿形似之。然者,以為「雖得見而不得逢。」之喻。

    顯昭『袖中抄』第十九「帚木(ははきぎ)」條〈『日本歌學大系』別卷二〉



陸奧國風土記逸文


  1. 淺香沼(あさかのぬめ)

       不載(のせず)。】

    久曾神昇藏『堀河院百首聞書』書入


  2. 鹽竈神社(しほがまのかみのやしろ)

       不載(のせず)。】

    藤原範兼『和歌童蒙抄』



若狹國風土記逸文


  1. 若狹國號(わかさのくにのな)

       風土記(ふどき)云:昔,此國有男女(をめ)。為夫婦(めをと)長壽(ながいき),人不知其年齡(よはひ)容貌(かたち)壯若(ををしくわかく),如少年(わらはべ)。後為神(かみとなり),今一宮神(いちのみやのかみ)是也。因(なづける)若狹國(わかさのくに)【云云。】

    寺島良安『和漢三才圖會』第七十一卷



越前國風土記逸文


  1. 氣比神宮(けひのかむみや)

       風土記云:氣比神宮(けひのかむみや)者,宇佐(うさ)同體也。八幡(やはた)者,應神天皇(おうじんてんわう)垂跡(すいじゃく)氣比明神(けひのあきつみかみ)仲哀天皇(ちうあいてんわう)鎮座(しづまり)也。

    卜部兼俱『延喜式神名帳頭註』「氣比」條〈『群書類從』第二輯〉



佐渡國風土記逸文


  1. 針原(はりはら)

       不載(のせず)。】

    西本願寺本『萬葉集』卷十四,三四一零番歌條書入



丹波國風土記逸文


  1. 注進風土記事(ふどきをしるしてたてまつること)

       不載(のせず)。】

    多和文庫藏,古文書



丹後國風土記逸文


  1. 丹波國號(たにはのくにのな)

       丹後國(たにはのみちのしりのくに)者,本與丹波國(たにはのくに)合為一國。于時,日本根子天津御代豐國成姬(やまとねこあまつみしろとよくになりひめ)天皇(元明)御宇,詔(わき)丹波國五郡,(おく)丹後國也。所以(なづくる)丹波者,往昔(むかし)豐受大神(豐宇氣のおほかみ)天降(あもり)於當國之伊去奈子嶽(いさなごだけ)坐之時,天道日女命(あめのみちひめのみこと)等,請於大神五榖(いつつのたなつもの)桑蠶(くはかひこ)等之(たね)矣。便(すなはち)於其嶽,掘真名井(まなゐ),灌其水,以定水田(こなた)陸田(はた),而(ことごとく)植焉。(すなはち)大神見之,大歡喜詔:「美哉(阿那邇惠志)田。」植彌(うゑいや)之與田庭(たには)。然后,復大神者,登于高天原(たかまのはら)焉。故云田庭(たには)也。丹波,本字田庭(たには)。訓たには(多爾波)。在當國風土記。

         譯注:美哉(あなにゑし),感嘆詞。『日本書紀』有「妍哉(あなにゑや)可愛少女(えをとめ)歟!」云云。

    『海部氏勘注系圖』割注〈『神道大系』古典篇十三,二四~二七頁〉瀧川論文所收影印參照


  2. 匏宮(よさのみや) 與佐郡由緣(よさのこほりのおこり)

       ……今世(いまのよ)比治之真名井(ひぢのまなゐ)者,訛也(よこなまれり)。此時,於磐境(いはさか)傍,生天吉葛(あめのよさづら)天香語山命(あめのかごやま)採其(よさ)(くみ)真名井之清泉(しみづ),乃調度神饌(みけ)而嚴祭奠。故曰匏宮(よさのみや)【匏,訓よさ(與佐)。】久志濱宮(くしはまのみや)也。此郡,所以號匏宮(よさのみや)者也。在風土記。

         譯注:按比治之真名井(ひぢのまなゐ)者,『丹後國風土記殘欠』田造鄉條:「昔天孫降臨之時,依豐受大神之教,天香語山命、天村雲命降於當國伊去奈子嶽。天村雲命、天道姬命共祭大神而為新嘗時,井水忽變,無以炊事。故云(ひぢ)之真名井。」云云。

    『海部氏勘注系圖』割注〈『神道大系』古典篇十三,二七~三十頁〉


  3. 凡海(おほしあま)

       所以(ゆゑ)其號凡海(おほしあま)者,古老(ふるおきな)傳曰:往昔(むかし)(をさむる)天下(あめのした),當大穴持神(おほなむぢのかみ)少彥名神(すくなびこなのかみ),到坐于此地之時,引集(ひきあつめ)海中(わたなか)大嶋(おほしま)小嶋(をしま)。小嶋凡拾以成壹之大嶋(おほしま)(かれ)名云凡海(おほしあま)矣。在當國風土記。

    『海部氏勘注系圖』割注〈『神道大系』古典篇十三,二四~二五頁〉瀧川論文所收影印參照


  4. 常世嶋(とこよのしま) 男嶋(をしま)女嶋(めしま)

       于時,大寶(文武)元年辛丑三月己亥,當國地震(なゐ)。三月不己(やまず)。此嶋一夜,蒼茫(あをうなばら)變而成海。漸(わづか)嶋中之高山二峯與立,神岩(かむいは)出海上。今號常世嶋(とこよのしま),亦俗稱男嶋(をしま)女嶋(めしま)。每嶋有神祠(かむほこり)。所祭者,彥火明命(ひこほあかりのみこと)日子郎女神(ひこいらつめのかみ)也。在當國風土記。

         譯注:按彥火明命者,天照國照彥火明櫛玉饒速日尊。日子郎女神者,市杵嶋姬命(いちきしまひめ)。男嶋、女嶋,今冠島(かんむりじま)沓島(くつじま)是也。

    『海部氏勘注系圖』割注〈『神道大系』古典篇十三,二四~二六頁〉瀧川論文所收影印參照



因幡國風土記逸文


  1. 稻葉國(いなばのくに)

       稻葉山。稻葉山(いなばのやま),在因幡國(いなばのくに)武藏國(むさしのくに)武藏(むさし)()ルが(ごと)シ。丹後(たにはのみちのしり)()レバ丹後浦(たんごのうら)()フ。伊勢に()レバ伊勢島(いせしま)。稻葉ハ,「()キナバ。」ト云(こころ)也。(みね)(おふ)(まつ)ヲ人ノ()ツニ(ソへ)タリ。風土記ニハ,稻葉國(いなばのくに)(なり)(あやま)リテ因幡(いなば)トス。(ただ)シ,此國ニハ區區(まちまち)ノ說()リ。

         譯注:稻葉山。稻葉山在因幡國,如武藏在武藏國也。於丹後有丹後浦,伊勢有伊勢島之所云矣。稻葉者,「徃去矣」之意,而猶以生嶺上松,譬待人之意也。風土記中,稱稻葉國也,訛作因幡。但此國有諸說。

    『寂惠本古今和歌集』上,卷第八,三六五番歌條〈古文學秘籍叢刊〉


  2. 宇倍神社(うべのかみのやしろ)武內宿禰(たけうちのすくね)

       武內傳(たけうちのつたへ)云。因幡國(いなばのくに)風土記曰:難波高津宮(仁德)天下(あめのした)五十五年春三月,大臣(おほおみ)武內宿禰(たけうちのすくね)御歲(みとし)三百六十餘歲,當國御下向(げかうし)。於龜金(かめかね)雙履(ふたつのくつ)(のこり)御隱所(みかくしところ)不知。蓋聞,因幡國(いなばのくに)法美郡(ほふみのこほり)宇倍山麓(うべのやまのふもと),有神社(かみのやしろ)也。曰宇倍神社(うべのかみのやしろ)。是武內宿禰(たけうちのすくね)(みたま)也。昔,武內宿禰,平東夷(あづまのひな),還入宇倍山之後,不知(しらず)終所。

    今井似閑『萬葉緯』卷第十八〈三手文庫本〉


  3. 白兔(しろきうさぎ)

       不載(のせず)。】

         譯注:據『因幡記』、彼國有高草郡,其名「二釋」。一者以野中草類高繁,故云高草,以其野為郡名。一者,竹草郡也。此所元有竹林,以其故云竹草矣。欲明其竹之事,昔此竹中有老兔棲息。或時,俄出洪水,其竹原為水沒時,荒浪掘竹根,皆崩毀。兔乘竹根,隨波逐流,到沖津島。復思:「待水退後,欲還到本所。」而無以渡之。其時,水中有魚,稱鰐鮫。此兔與鰐曰:「汝輩何多?其數如何?」鰐曰:「一類而數多,眾滿於海。」兔曰:「我輩亦多,滿遍山野。當先計汝類多少。自於此島,迄氣多崎,當集鰐鮫。吾將一一數之,已知眾類何多。」鰐為兔所謀,聚親族而成列。其時,兔踏鰐之上,計其數而歸於竹崎。其後,思今將終渡,嘲笑鰐等曰:「我謀汝輩,越渡於此。實非計汝親族數矣。」水側居鰐,怒而捕兔,剝其毛皮。大己貴神見其狀,哀憐之曰:「散蒲花伏其上而可也。」老兔依其教,而多毛復生,如原來之狀云也。又渡鰐之背而數之事,俗諺云:「兔踏其上讀來渡(ヨムデキタリワタル)」也。

    『塵袋』第十



伯耆國風土記逸文


  1. 伯耆國號(ははきのくにのな)

       又或書(あるふみ)風土記(ふどき)云:手摩乳(てなづち)腳摩乳(あしなづち)(むすめ)稻田姬(いなだひめ)八頭之蛇(やまたのをろち),欲吞之故,遁入(のがれいり)山中。于時母遲來。姬曰:「母來(ははき)【云云。】」故號母來國(ははきのくに)。後改為伯耆國(ははきのくに)【云云。】

    齋藤彥麻呂『諸國名義考』下卷,九丁表



石見國風土記逸文


  1. 人丸(ひとまろ)

       不載(のせず)。】

    由阿『詞林采葉抄』



播磨國風土記逸文


  1. 八十橋(やそばし)

       播磨國(はりまのくに)風土記曰:八十橋(やそばし)者,陰陽二神(めをのふたがみ),及八十二神(やそあまりふたがみ)降跡( あまくだり)也。然則,丹後(たにはのみちのしり)播磨(はりま)(ともに)(はし)

    林道春『本朝神社考』第六,三二丁表「天橋立」條


  2. 藤江浦(ふぢえのうら)

       不載(のせず)。】

    仙覺『萬葉集註釋』



備前國風土記逸文


  1. 牛窗(うしまど)

       神功皇后(じんぐうくわうごう)舟,過備前(びぜん)海上。時有大牛(おほうし),出欲(くつがへさう)舟。住吉明神(すみよしみやうじん),化老翁(おきな),以其(つの)投倒之(なげたふす)。故名其處,曰牛轉(うしまろび)。今云牛窗(うしまど)訛也(よこなまれり)。其牛,蓋塵輪鬼(ちんりんき)之所化也。塵輪(ちんりん)八頭(やつのかしら),嘗駕黑雲(くろくも)來,侵仲哀帝(ちゅうあいのみかど)。帝射之,身首(からだとくび)為二落死(おちてしぬ)。塵輪亦射帝,帝遂(かみあがり)

    林道春『本朝神社考』第六,三三丁「牛窗」條



備中國風土記逸文


  1. 松岡(まつをか)【今新造】御宅(みやけ)

       備中國(きびのみちのなかのくに)風土記云:賀夜郡(かやのこほり)松岡(まつをか)(さる)岡東南(すみ)二里,驛路(うまやぢ)(いま)新造御宅(みやけ)奈良朝廷(ならのみかど),以天平(てんぴゃう)六年甲戌,國司(くにのみこともち)從五位下勳十二等石川朝臣賀美(いしかはのあそんかみ)郡司(こほりのつかさ)大領(おほみやつこ)從六位上勳十二等下道朝臣人主(しもつみちのあそんひとぬし)少領(すけのみやつこ)從七位下勳十二等薗臣五百國(そののおみいほくに)等時,造始(つくりはじめ)【云云。】

    仙覺『萬葉集註釋』卷第一,總記條〈冷泉家本〉


  2. 宮瀨川(みやのせのかは)

       日本紀(やまとのふみ)風土記(ふどき)符合。景行天皇(けいかうてんわう)御宇。彼御子吉備武彥命(きびのたけひとのみこと),罷吉備國(きびのくに)。如備中(きびのみちのなか)風土記者。賀夜郡(かやのこほり)伊勢御神社(いせのみかみのやしろ)東有河。名宮瀨川(みやのせのかは)。河西者吉備建日子命(きびたけひこのみこと)(みや)造。此三王(みつのみこ)之故,之名宮瀨(みやせ)。勸請年紀未分明。

    卜部兼俱『延喜式神名帳頭註』「吉備津彥」條〈『群書類從』第二輯〉



長門國風土記逸文


  1. 赤間關(あかまがせき)

       長門(ながと)赤間關(あかまがせき)。以赤女(あかめ)多,名之(なづくる)。見風土記。

         譯注:按赤女者,鯛魚也。

    古川士清『日本書紀通証』卷七,六丁表



紀伊國風土記逸文


  1. 朝催(アサモヨ)

       朝催(あさもよ)ひトハ,人ノ食飯炊(くふいひかし)くヲ云也。見風土記。

         譯注:朝催者,所炊人之食飯云也。見風土記。

    『秘府本萬葉集抄』上,第九,一六八零番歌條〈萬葉集叢書〉


  2. 手束弓(たつかゆみ)

       手束弓(たつかゆみ)トハ紀伊國(きのくに)(あり)風土記(ふどき)見タリ。弓取柄(ゆみノトツカ)ヲ大ニスル也。其紀伊國雄山(きのくにのをやま)關守(セキもり)持弓(もつゆみ)也トゾ云ヘル。

         譯注:手束弓者,在紀伊國。見於風土記。放大弓之取柄者也。其紀伊國雄山關守所持弓也云爾。

    『秘府本萬葉集抄』下,第十九,四二五七番歌條〈萬葉集叢書〉



阿波國風土記逸文


  1. 波高(なた)

       大門,波高瀨戶(ナタセト)。】阿波國(あはのくに)風土記曰:波高(たな)【云云。】明石浦(あかしのうら)瀨戶無(セトナ)シ。波高(たな)ナルベキヲヤ。

         譯注:大門(波高瀨戶),阿波國風土記曰:波高云云。明石浦無瀨戶。蓋為波高者耶。

    『拾遺采葉抄』第三,二五四番歌條〈萬葉集叢書〉



讚岐國風土記逸文


  1. 阿波嶋(あはしま) 屋嶋(やしま)

       阿波嶋(あはしま)者,讚岐國(さぬきのくに)屋嶋(やしま)北去百步(ばかり),有嶋。()曰阿波嶋云也。

    仙覺『萬葉集註釋』卷第四,四、五零九番歌條〈仁和寺本〉



伊豫國風土記逸文


  1. 湯桁之數(ゆげたのかず)

       不載(のせず)。】

    四辻善成『河海抄』


  2. 天山(あめやま) 香山(かぐやま)

       (かんがふるに)風土記:謂天上(あめのうへ)有山,分而(おちつ)地。一片為伊豫國(いよのくに)天山(あめやま),一片為大和國(やまとのくに)香山(かぐやま)

    一條兼良『日本書紀纂疏』卷四,四二丁表〈天理圖書館善本叢書〉



土佐國風土記逸文


  1. 土左國號(とさのくにのな)

       風土記(ふどき)曰:陰陽(めを)二神,交通(まぐあひ)生此國。號曰速依別(はやよりわけ),取其意。後(あらたむ)號曰土左(とさ)

    下河邊長流書入,慶安版本『土佐日記』卷頭
    〈『土佐日記抄』朝日新聞社版『契沖全集』附卷『長流全集』上卷,所收〉


  2. 土左高賀茂大社(とさのたかかものおほやしろ) 一言主神鎮座(ひとことぬしのかみしづまり)

       國記(くにつふみ)曰:雄略天皇(いうりゃくてんわう)即位(あまつひつぎしらしめす)二年戊戌,奉移鄉。

    『釋日本紀』第十二「一言主神」條〈神道大系『釋日本紀』古典註釋編五〉


  3. 十市池(とをちのいけ)

       土佐國(とさのうに)風土記云:郡家(ほこりのみやけ)西,牧中(まきのうち)有三池。一名十市(とをち),二名暗山(くらやま),三名大乘(おほのり)

    『謌枕名寄』第三十四,補遺條〈校本謌枕名寄本文篇〉



筑前國風土記逸文


  1. 宗像郡(むなかたのこほり) 身形郡(みのかたのこほり)

       西海道(にしのみち)風土記云:宗像太神(むなかたのおほかみ),自天降居崎門山(さきとやま)之時,以青蕤玉(あをにのたま),置奧宮(おきつみや)(しるし)。以八尺蕤紫玉(やさかにのむらさきだま),置中宮(なかつみや)之表。以八咫鏡(やたのかがみ),置邊宮(へつみや)之表。以此三表(みつのしるし),成神體形(かみのみかた)納置(をさめおき)三宮,即隱之(かくし)。因曰身形郡(みのかたのほこり)【同風土記(ふどき)云:一云,天神(あまつかみ)之子有四柱(よはしら)。兄三柱神教弟大海命(おほあまのみこと)曰:「汝命者,為吾等三柱御身之像(みみのかた),而可居於此地。」便(すなはち)一前居於奧宮(おきつみや)一前(ひとはしら)居於海中(わたなか),一前居於深田村(ふかたのむら)高尾山邊(たかをのやまべ)。故號曰身像郡(みのかやのこほり)。云云。】後人(のちのひと)改曰宗像(むなかた)。共大海命子孫(すゑ),今宗像朝臣(むなかたのあそみ)是也(これなり)。云云。

    『宗像大菩薩御緣起』〈『宗像神社史』所收圖版第十四〉


  2. 宗像大神(むなかたのおほかみ)

       邊津宮(へつみや)は……宮人(みやびと)()びて,神寶(かむだから)を見る。社記()り。其中(そのなか)に,西海道(にしのみち)風土記曰,宗像大神(むなかたのおほかみ),自天降,居埼門山(さきとやま)之時,以青蕤玉(あをにのたま)【一本作八尺絮蕤玉(やさかのをのにのたま)。】奧津宮(おきつみや)表。以八尺蕤紫玉(やさかにのむらさきだま),置中津宮(なかつみや)表。以八咫鏡(やたのかがみ),置邊津宮(へつみや)表。以此三表(みつのしるし),成神體形(かみのみかた)而納三宮,即納隱之。因曰身形郡(みのかたのほこり)。後人改曰宗像(むなかた)。其大海命(おほあまのみこと)子孫,今宗像朝臣(むなかたのあそみ)等是也。【云云。】
       人皇(じんわう)第七代孝靈天皇(かうれいてんわう)四年(),自出雲國簸河(いづものくにひのかは)上,筑紫宗像(つくしのむなかた)()御遷宮(おみやうつり)。第一神者,集海淡(うみのあは)築島,示居於遠海之息(とほつうみのおく),未來際可降伏異國(あたしくに)(よし)御誓(みちかひ)留件島給。則號息御島(おきつみしま)日本(やまと)高麗(こま)中間也。居遠瀛(おきつ),是於奉號田心姬命(たごりひめのみこと)。第二神者,示居中海(なかつうみ)之息,今號大島(おほしま)是也。嚴重奇瑞多之(あはにあり),居是奉號湍津姬命(たぎつひめのみこと)。以三神者,示居於海邊(うみのへ),今號田島(たじま)是也。居海濱,是奉號市杵姬命(いちきひめ)云云と云へり。此外は,樣樣(さまざま)怪事(あやしきこと)等を記して,上古之物(いにしへのもの)とも(おも)はれず。

         譯注:邊津宮者……媚於宮人,而見神寶。社記載之。其中,西海道風土記曰,宗像大神,自天降,居埼門山之時,以青蕤玉,【一本作八尺絮蕤玉。】置奧津宮表。以八尺蕤紫玉,置中津宮表。以八咫鏡,置邊津宮表。以此三表,成神體形而納三宮,即納隱之。因曰身形郡。後人改曰宗像。其大海命子孫,今宗像朝臣等是也。【云云。】人皇第七代孝靈天皇四年,自出雲國簸河上,遷宮筑紫宗像。第一神者,集海淡以築島,示居於遠海之息,未來際可降伏異國之由有御誓留件島。則號沖島。日本、高麗中間也。居遠瀛,是於奉號田心姬命。第二神者,示居中海之息,今號大島是也。嚴重奇瑞多之,居是奉號湍津姬命。以三神者,示居於海邊,今號田島是也。居海濱,是奉號市杵姬命云云。此外,記種種怪事,不似上古之物矣。

    青柳種信『防人日記』下〈『幡掛正木編』〉
    宗像神社社務所發行『沖津宮』〈昭和三年七月刊〉所收


  3. 打昇濱(うちあげのはま) 狹手彥連(さてひこのむらじ)

       又筑前國(つくしのみちのくちのくに)風土記打昇濱(うちあげのはま)處に云く:狹手彥連(さてひこのむらじ)舟に()りて海に(とど)まりて(わた)る事を得難(えがた)し。爰石勝(いしかつ),推て(いは)く:「此舟の()かざる(こと)海神心(わたつみのこころ)也。其神甚(そのかみはなは)だ狹手彥連が率行(ゐてゆ)く處の(めかけ)()那古若(なこわか)(した)ふ。(これ)(とど)めば渡るべし。」于時,彥連,妾と相嘆(あひなげ)く。皇命(おほみこと)()かむ事を(おそ)れて,慈愛(うつくしび)()ち,菰上(こものうへ)()せて波に放浮(はなちうか)ぶと云云。(これ)は又,(こと)妾を相伴(あひともな)ひて海を(わた)りけると()えたり。

         譯注:又筑前國風土記打昇濱處云:狹手彥連乗舟,滯海難渡。爰石勝推曰:「此舟不行者,海神之意也。其神甚慕狹手彥連率行之妻那古若。留之則當得渡。」于時,彥連與妾相嘆。然恐不履皇命,遂斷慈愛,載於菰上,令浮波濤云云。玆又可見,與妾相伴渡海之例。

    『和歌童蒙抄』第三「山」條


  4. 三石(みついし)

       依風土記(ふどき)說:上宮(かみつみや)下有三石(みついし),立三角。【脫漏。】一丈,即此石神(いしかみ)體習也。【云云。】參詣往來人(かよふひと),件石間(いしま)步也。又神人(はふり)當山(のぼり),上宮一夜神樂(かぐら)【云云。】八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ),每夜上宮入御(はいりたまふ)【脫漏。】之。此神當山鎮坐(しづまり)元由。專在一乘守護,【脫漏。 】三大師入(もろこし)請益,(みな)是此神(ちから)也。

    金澤文庫本『對馬嶋』「寶滿大菩薩」條裏書


  5. 神石(かむいし)

       筑前(つくしのみちのくち)風土記曰:神功皇后(じんぐうくわうごう),將入于三韓(みつのからくに)時,既臨產月(うみつき)。皇后(おのづから)為祭神主(かむぬし)禱之曰:「事竟(ことをはり)還日,須產于玆土(ここ)。」于時,月神(つきのかみ)誨曰:「以此神石(かむいし),可撫腹。」皇后乃依神石撫腹,心體忽平安(たひらぐ)也。今其石在筑紫伊覩縣(つくしのいとのあがた)道邊。後雷霹(かむとき)神石為三段。

    黑川道祐『雍州府志』卷三,葛野郡「月讀神宮」條〈『續續群書類從』第八〉


  6. 大城山(おほきのやま)

       謂大城山(おほきやま)者,筑前國(つくしのみちのくちのくに)御笠郡(みかさのこほり)大野山(おほのやま)頂,號曰大城(おほき)者也。大城山(オホキノやま)ト云。風土記云:筑前國御笠郡(みかさのこほり)大野頂(おほのいただき)有。サテ大城山(オホキノやま)トハ云也。

         譯注:謂大城山者,筑前國御笠郡之大野山頂,號曰大城者也,云大城山。風土記云:在筑前國御笠郡大野頂。則云大城山也。

    『秘府本萬葉集抄』上,第十,二一九七番歌條〈萬葉集叢書〉


  7. 上座郡(かみつあさくらのこほり)

       筑前國(つくしのみちのくちのくに)上座郡に……朝倉(あさくら)木丸殿(このまるどの)土佐國(とさのくに)なるべし。風土記には筑紫(つくし)(しる)したり。是は,上座郡(かみつあさくらのこほり)と云へば,如何樣(いかさま)にも朝倉(あさくら)云名(いふな)(まが)へる也。

         譯注:筑前國上座郡間……朝倉木丸殿當在土佐國也。風土記誌於筑紫矣。是所謂上座郡者,與朝倉之名相紛也。

    下河邊長流『續歌林良材集』上「木の丸どのの事」條〈『長流全集』上卷〉



豐前國風土記逸文


  1. 宮處郡(みやこのこほり)

       豐前(とよくにのみちのくち)風土記曰:宮處郡(みやこのこほり)者,古天孫(あめみま)(たち)於此。天降(あまくだり)日向(ひむか)舊都(ふるきみやこ)。蓋天照大神(あまてらすおほみかみ)神京(みやこ)【云云。】

    多田義俊『中臣祓氣吹抄』上〈『大祓詞註釋大成』下〉



豐後國風土記逸文


  1. 餅的(もちのまと)白鳥(シロキトリ)()

       年始(としはじめ)には人每(ヒトゴト)(もち)を賞翫するは何心(なにのこころ)()る。餅は福物(サチノモノ)なれば(いはひ)(もち)ふる歟。
       (ムカシ)豐後國(とよのみちのしりのくに)球珠郡(クズノコホリ)廣野(ヒロキノ)()る所,大分郡(ホタケノコホリ)()む人,其野(ソノノ)(キタ)りて,家作(いへつく)り,田作(たつく)りて()みけり。在著(アリツ)きて家富榮(トミタノシ)かりけり。酒飲遊(サケノミアソ)びけるに,取敢(トリア)へず(ゆみ)()けるに,(マト)()かりけるにや,(モチ)(クク)りて,(まと)にして()ける(ホト)に,其餅白鳥(シロキトリ)()りて飛去(トビサ)りにけり。(ソレ)より後,次第に(オトロ)へて,惑亡(マトヒウ)せにけり。
       (あと)曠野(ムナシキノ)()りたりけるを天平(てんぴゃう)年中に速見郡(はやみノコホリ)()みける訓邇(くに)(イヒ)ける人,()しも()(ニギワ)ひたりし所の(アセ)にけるを(アタラ)しとや思ひけん,又此處(ココ)(ワタ)りて田を(つくり)たりける(ホド)に,其苗皆枯亡(ソノナへミナカレウ)せければ,驚恐(オドロキヲソ)れて,又も(ツク)らず,()てにけりと云へる事あり。餅は福源(さちのみなもと)なれば福神()りにける(ゆゑ)(オトロ)へけるにこそ。

         譯注:年始之際,人人賞翫鏡餅者,何心之有哉。餅者福物,用於祝歟。昔豐後國球珠郡有廣野。大分郡住人來其野,造家耕田而住之。在著而家亦富榮。飲酒遊興,欲將射弓,而卻無的。遂括餅為的射之,時其餅,化作白鳥飛去。其後次第衰廢惑亡,終成曠野。天平年中,速見郡住人,名訓邇者,惜此饒地之廢,又渡此處耕田時,苗皆枯亡。戰慄驚恐,不復再耕,遂捨而去云也。餅者福之源,則福神已去,故當衰廢。

    『塵袋』第九「餅福」條〈日本古典全集〉



肥前國風土記逸文


  1. 鏡渡(かがみのわたり) 袖振峰(そでふるたけ)

       肥前國(ひのみちのくちのくに)風土記曰:昔武小廣國押楯(たけをひろくにおしたて)天皇(宣化)(みよ)大伴狹手彥連(おほとものさでひこのむらじ)任那國(みまなのくに)(しづ)め,()ねて百濟國(くだらのくに)(すく)はんが(ため)(みことのり)受給(うけたま)はりて,此村(このむら)至着(いたりつ)きぬ。(すなはち)篠原村(しのはらのむら)弟日姬子(第四姬子)(つまどひ)しつ。其(かたち)人に(すぐ)れたり。別去日(わかれさりひ)(かがみ)()りて(をみな)(あた)ふ。婦,別悲(わかれのかなしび)(いだ)きて栗川(くりかは)(わた)る。(あた)ふる所の(かがみ)()(いだ)きて川に(しづ)みぬ。(ここ)鏡渡(かがみのわたり)()ふ。狹手彥連(さでひこのむらじ)(ふね)を出してさる時,弟日姬子(第四姬子)此處(ここ)(のぼ)りて(そで)()ちて振招(ふりまね)く。此故に袖振峰(そでふるたけ)と云と云云。

         譯注:肥前國風土記曰:昔宣化天皇世。大伴狹手彥連,為鎮任那,兼救百濟,故受詔而至此村。輙娉篠原村弟日姬子,其貌出眾。別去之日,取鏡與婦。婦抱離別之悲而渡栗川。懷所與之鏡而沉川底。故此處云鏡渡。狹手彥連出船之時,弟日姬子登此處,振袖招之。此故,云袖振峰。云云。 【○按底本書第四姬子者,弟日姬子之訛歟。】

    藤原範兼『和歌童蒙抄』第三「山」條


  2. 與止姬神(よどひめのかみ)

       風土記(ふどき)云:人皇(じんわう)卅代欽明(きんめい)廿五年甲申(きのえさる)冬十一月朔日(つきたち)甲子(きのえね)肥前國(ひのみちのくちのくに)佐嘉郡(さかのこほり)與止姬神(よどひめのかみ)鎮座(しづまり)。一名豐姬(ゆたひめ),一名淀姬(よどひめ)

    卜部兼俱『延喜式神名帳頭註』「與止日女」條〈『群書類從』第二輯〉



肥後國風土記逸文


  1. 益城郡(ましきのこほり) 大伴君熊凝(おほとものきみのくまこり)

       此歌(このうた)は,肥前國益城郡(ひのみちのくちのくにましきのこほり)云所(いふところ)(あり)ける大伴君マキ(おほとものきみのまき)云者(いふもの)の,年十八にて天平(てんぴゃう)三年に(モノ)()きけるが,安藝國(あぎのくに)佐伯高庭驛(さえきのたかにわのうまや)にて死ける時,「()なん。」とて(なげ)て云ける樣:「此世中(このよのなか)(アハ)(やう)なる(いのち)なれば,(ダレ)かは殘留(ノコリトマ)るべき。()みじき人なれども,皆世を(ハヤ)くする事也(ことなり)(ソレ)(ワレ)()みじく(カナ)しく(アハ)れなる事なんある。父母未坐(マダヲハ)する(ナリ)。其が二人(フタリ)ながら,我身獨失(ヒトリウ)せなば,()みじく(ナゲ)かれむ。(カナ)しかりぬべき(ナリ)。」と云て,歌()つを()める歌の中也。風土記(ふどき)并此歌序にも見()たり。

         譯注:此歌者,肥後國益城郡大伴君熊凝者,【○肥後國、熊凝,依『萬葉集』改之。】天平三年年十八,向京而死於安藝國佐伯高庭驛時,歎己之將死曰:「此世之間,命猶泡沫,孰人永哉。優秀之人,盡皆早世。厥我身者,甚悲哀也。父母尚在,成雙偕老,唯我隻身,孤獨逝者,理宜悲嘆。」云而所詠六首歌之中也。『風土記』可見此歌並序。

    『秘府本萬葉集抄本』上,第五,八八七番歌條〈萬葉集叢書〉



日向國、大隅國、薩摩國風土記逸文


  1. 隼人(はやひと)

       日向(ひむか)大隅(おほすみ)薩摩(さつま)(くにひと),皆隼人(はやひと)也。其猛烈(たけくはげしき)事,(ごと)(ハヤブサ)也。(みゆ)於風土記。

    下河邊長流『枕詞燭明抄』上「はや人の」條〈『長流全集』上卷〉



壹岐國風土記逸文


  1. 新羅烏(しらぎのからす)

       對馬烏(つしまのからす)と云ふ鳥有(とりア)り。(ハシ)(アシ)赤くして身毛(みのけ)も多くは(シロシ)(ヒエドリ)(タグヒ)也。何故(なんのゆゑ)()からんと云ふ。(カラス)云事(いふこと)茲一(コレひとつ)(カギ)らず。壹岐嶋(いきのしま)に鳥()り。(コレ)をば新羅烏(しらぎのからす)と云ふ。麥種蒔(ムギノタネマ)く時,群飛(ムラガリトビ)(むぎ)(クラ)ふと。【云云。】

         譯注:有鳥稱對馬烏。其徵,嘴、腳赤而身毛多。鵯之類也。何故書之。所謂烏者,非限此一。壹岐嶋有鳥,此謂新羅烏云也。蒔麥種時,群飛而喰麥。云云。

    『塵袋』第三「對馬烏」條〈日本古典全集〉



風土記逸文 國不詳


  1. 妙野(たへの)

       妙野(たへの)には尾上嵐音冴(をのへのあらしおとさ)えて笹葉戰霰降(ささのはそよぎあられふ)(なり)(かの)妙野には細竹(ささ)生えて西方(にしのかた)三峰(みつね)(たか)聳立(そばたて)りと風土記(ふどき)見得(みえ)たるが(ゆゑ)に,「尾上嵐(をのへのあらし)笹葉戰(ささのはそよ)ぎて。」とは()まれたるにこそ,山野(やまの)之勝絕,冴陰(さえくもり)之景色,(まことに)眼前(めのまへ)搖情(こころをゆかす)也。

         譯注:妙野之地,尾上嵐音冴而,笹葉戰慄霰降也。彼妙野者,細竹叢生,西方有三峰,高聳峙立。見於『風土記』。故人詠之:「尾上之嵐,笹葉戰慄。」山野之勝絕,冴陰之景色,誠浮眼前搖情也。

    『建長八年百首歌合』五百八十五番,左負,一一七零番歌條〈『新編國歌大觀』第五卷〉


  2. (でう)

       人ノ辯說()けたるを,怖ぢ怖ぢ(オジオジ)なると云ふは如何(いかか)……。諸國(もろもろのくに)風土記に山(イク)ツ河(イク)ツと(シル)すに,大道(おほみち)をば大略(おほむね)一條と(シル)せり。道は(スヂ)(トヲ)したる(モノ)なれば,(スヂ)(こころ)にて一條(いちでう)とは云ふ。

         譯注:遇人之辯說,云怖怖者如何耶……。諸國風土記中 ,所誌幾山、幾河之際,大道大略記為一條。道者通筋之物,則取筋之意而云一條矣。

    『塵袋』第十「條」條〈日本古典全集〉


  3. 紫草(むらさき)

       三枝(さきくさ)に說說()る歟……風土記(ふどき)には紫草(むらさき)とも書之。

         譯注:三枝者有諸說歟……『風土記』書之紫草。

    四辻善成『河海抄』卷十,初音「ささくさのすゑつかた」條


  4. (ヱグ)

       (ヱグ)トハ(セリ)ヲ云也。風土記(ふどき)ニ見タリ。

         譯注:蘞者,芹之云也。見於『風土記』。

    『秘府本萬葉集抄本』上,第十,一八三九番歌條〈萬葉集叢書〉