日本書紀 卷第八 仲哀紀

足仲彥天皇(たらしなかつひこのすめらみこと) 仲哀天皇(ちうあいてんわう)


成務帝崩于六十年。次年葬倭國狹城盾列陵。以無子胤,遂立日本武尊次子足仲彥尊為皇太子。


角鹿
今福井縣敦賀市。芭蕉歌碑「古き名の角鹿や、戀し秋月」


角鹿笥飯宮跡 氣比神宮
一、天皇即位,追慕日本武尊

 足仲彥天皇(たらしなかつひこのすめらみこと)日本武尊(やまとたけるのみこと)第二子也。母皇后曰兩道入姬命(ふたぢのいりびめのみこと)活目入彥五十狹茅天皇(いくめいりびこいさちのすめらみこと)之女也。
 天皇容姿端正(みかほきらぎら),身長十尺。
 稚足彥(成務)天皇四十八年,立為太子。【時年三十一。】稚足彥(わかたらしひこ)天皇無男,故立為(ひつぎ)
 六十年天皇(成務)崩。
 明年,秋九月壬辰朔丁酉(),葬于倭國狹城盾列陵(やまとのくにのさきのたたなみのみさざき)【盾列,此云たたなみ(多多那美)。】
 元年,春正月庚寅朔庚子(十一),太子即天皇位。
 秋九月丙戌朔,尊母皇后曰皇太后。
 冬十一月乙酉朔(),詔群臣曰:「朕未逮于弱冠(かがふり),而父王(ちちのきみ)既崩之。乃神靈(みたま)白鳥(しろとり)而上天。仰望之情(しのひたてまつるこころ),一日勿息。是以冀獲白鳥,養之於陵域之池(みさざきのめぐりのいけ)。因以覩其鳥,欲慰顧情(しのひたてまつるこころ)。」則令諸國,俾貢白鳥。
 (うるふ)十一月乙卯朔戊午()越國(こしのくに)貢白鳥四隻。於是,送鳥使人宿菟道河邊(うぢかはのほとり)。時蘆髮蒲見別王(あしかみのかまみわけのみこ)視其白鳥,而問之曰:「何處將去白鳥也?」越人答曰:「天皇戀父王,而將養狎(かひなつけむ)。故貢之。」則蒲見別王謂越人曰:「雖白鳥而燒之則為黑鳥(くろとり)!」仍強之(あながちに)奪白鳥而將去。
 爰越人參赴之請焉(まゐきてまをす)。天皇於是惡蒲見別王無(ゐや)先王(さきのきみ),乃遣兵卒(いくさ)而誅矣。蒲見別王,則天皇之異母弟(ことはらのおと)也。時人曰:「父是天也,兄亦君也。其(あなどり)(たがひ)君,何得免(つみ)耶!」是年也,太歲壬申
 二年,春正月甲寅朔甲子(十一),立氣長足姬尊(おきながたらしひめのみこと)為皇后。
 先是,娶叔父彥人大兄(ひこひとのおほえ)之女大中姬(おほなかつひめ)為妃。
  生,麛坂皇子(かごさかのみこ)忍熊皇子(おしくまのみこ)
 次娶,來熊田造(くくまたのみやつこ)大酒主(おほさかぬし)之女弟媛(おとひめ)
  生,譽屋別皇子(ほむやわけのみこ)
 二月癸未朔戊子(),幸角鹿(つぬが)。即興行宮(かりみや)而居之,是謂笥飯宮(けひのみや)
 即月,定淡路屯倉(あはぢのみやけ)

二、熊襲征討

 三月癸丑朔丁卯(十五),天皇巡狩南國(みなみのくに)。於是留皇后(きさき)百寮(もものつかさ),而從駕二三卿大夫(まへつきみたち)官人(つかさひと)數百,而輕行之。至紀伊國(きのくに),而居于德勒津宮(ところつのみや)
 是時,熊襲(くまそ)叛之不朝貢。天皇於是將討熊襲國。則自德勒津發之,浮海(みふね)而幸穴門(あなと)
 即日(そのひ),遣使角鹿,敕皇后曰:「便從其津發之,逢於穴門。」
 夏六月辛巳朔庚寅(),天皇泊于豐浦津(とゆらのつ)。且皇后從角鹿發而行之,到渟田門(ぬたのと),食於船上。時海鯽魚(たひ)多聚船傍。皇后以(おほみき)灑鯽魚,鯽魚(たひ)即醉而浮之。時海人多獲其魚而歡曰:「聖王(ひじりのきみ)所賞之魚焉!」故其處之魚至于六月(みなづき),常傾浮如(ゑひ),其是之緣也。
 秋七月辛亥朔乙卯(),皇后泊豐浦津。
 是日,皇后得如意珠(こころままのたま)海中(わたなか)
 九月,興宮室(みや)于穴門而居之。是謂穴門豐浦宮(あなとのとゆらのみや)
 八年,春正月己卯朔壬午(),幸筑紫(つくし)
 時岡縣主(をかのあがたぬし)熊鰐(わに)聞天皇之車駕(みゆき),豫拔取五百枝賢木(いほえのさかき),以立九尋(ここのひろ)船之(),而上枝(ほつえ)白銅鏡(ますみのかがみ)中枝(なかつえ)十握劍(とつかつるぎ)下枝(しづえ)八尺瓊(やさかに),參迎于周芳沙麼(すはのさば)之浦,而獻魚鹽(なしほ)地。因以奏言:「自穴門至向津野大濟(むかつののおほわたり)東門(ひむがしのみと),以名籠屋(なごや)大濟為西門(にしのみと),限沒利嶋(もとりしま)阿閉嶋(あへしま)御筥(みはこ),割柴嶋(しばしま)御甂(みなへ)【御甂,此云みなへ(彌那陪)。】逆見海(さかみのうみ)鹽地(しほどころ)。」
 既而導海路(うみつぢ),自山鹿岬(やまかのさき)迴之入岡浦(をかのうら)。到水門(みなと),御船不得進。則問熊鰐曰:「朕聞,汝熊鰐者有明心(あかきこころ)以參來。何船不進?」熊鰐奏之曰:「御船所以不得進者,非臣罪。是浦口有男女二神,男神曰大倉主(おほくらぬし),女神曰菟夫羅媛(つぶらひめ)。必是神之心歟。」天皇則禱祈之,以挾杪者(かぢとり)倭國菟田(うだ)伊賀彥(いがひこ )(はふり)令祭,則船得進。
 皇后別船,自洞海(くきのうみ)入之,【洞,此云くき(久岐)。】潮涸(しほひ)不得進。時熊鰐更還之,自洞奉迎皇后。則見御船不進,惶懼之(おぢかしこまり),忽作魚沼(うをいけ)鳥池(とりいけ),悉聚魚鳥。皇后看是魚鳥(うをとり)之遊,而忿心(いかりのみこころ)稍解。及潮滿,即泊于岡津(をかのつ)
 又筑紫伊覩縣主(いとのあがたぬし)五十迹手(いとて)聞天皇之行,拔取五百枝賢木,立于船之舳艫(ともへ),上枝掛八尺瓊,中枝掛白銅鏡,下枝掛十握劍,參迎于穴門引嶋(ひけしま)而獻之。因以奏言:「臣敢所以獻是物者,天皇如八尺瓊之勾以曲妙(たへに)御宇(あめのしたをさめたまへ),且如白銅鏡以分明(あきらかに)看行山川海原(やまかはうなはら),乃(ひきさげ)是十握劍平天下矣。」天皇即(ほめ)五十迹手曰:「伊蘇志(いそし)。」故時人號五十迹手之本土(もとつくに),曰伊蘇國(いそのくに)。今謂伊覩(いと)者,訛也。
 己亥(廿一),到儺縣(なのあがた),因以居橿日宮(かしひのみや)


南國 南海道


豐浦宮皇居跡記念碑


伊蘇國 平原遺跡


仲哀帝筑紫橿日宮跡


仲哀帝聞神言而疑之。便登高岳遙望,大海曠遠而不見國。


武內宿禰
孝元帝四世孫,武碓新命之子。景行帝立稚足彥尊為太子,武內宿禰為棟梁臣。乃大臣之濫觴,歷事景行、成務、仲哀、應神、仁德五帝,行年計愈三百。
三、天皇疑神託而崩

 秋九月乙亥朔己卯(),詔群臣以議討熊襲。
 時有神託皇后而(をしへ)曰:「天皇何憂熊襲之不服?是膂宍之空國(そししのむなくに)也,豈足舉兵伐乎?愈茲國而有寶國,譬如處女之睩(をとめのまよびき)向津國(むかつくに)【睩,此云麻用弭枳(まよびき)。】眼炎(まかかやく)(くがね)(しろかね)彩色(うるはしきいろ),多在其國。是謂栲衾新羅國(たくぶすましらきのくに)焉。若能祭吾者,則曾不血刃,其國必自服矣。復熊襲為服。其祭之,以天皇之御船及穴門直踐立(あなとのあたひほむたち)所獻之水田(こなた),名大田(おほた),是等物為(みてぐら)也。」
 天皇聞神言,有疑之情。便登高岳遙望之,大海曠遠,而不見國。於是天皇對神曰:「朕周望(みめぐらす)之,有海無國。豈於大虛(おほぞら)有國乎?誰神(いたづら)(をこつる)朕,復我皇祖諸天皇(みおやもろもろのすめらみこと)(ことごとく)神祇(あまつかみくにつかみ),豈有遺神耶!」時神亦託皇后曰:「如天津水影(あまつみづかげ)押伏而我所見國,何謂無國,以誹謗(そしり)我言。其汝王之如此言而遂不信者,汝不得其國。唯今皇后始之有胎(はらみ),其子有獲焉。」然天皇猶不信,以強擊熊襲,不得勝而還之。
 九年,春二月癸卯朔丁未(),天皇忽有痛身(なやみ),而明日(くるつひ)崩。【時年五十二,即知,不用神言(かみのみこと)而早崩。一云,天皇親伐熊襲,中賊矢而崩也。】
 於是,皇后及大臣武內宿禰(たけうちのすくね)匿天皇之(みも),不令知天下。則皇后詔大臣(おほおみ)中臣烏賊津連(なかとみのいかつのむらじ)大三輪大友主君(おほみわのおほともぬしのきみ)物部膽咋連(もののべのいくひのむらじ)大伴武以連(おほとものたけもちのむらじ)曰:「今天下未知天皇之崩。若百姓(おほみたから)知之,有懈怠(ほこたり)者乎。」則命四大夫(よたりのまへつきみ),領百寮,令守宮中。竊收天皇之(みかばね),付武內宿禰,以從海路遷穴門,而(もがり)于豐浦宮,為无火殯斂(ほなしあがり)无火殯斂,此謂ほなしあがり(褒那之阿餓利)
 甲子(廿二),大臣武內宿禰自穴門還之,復奏於皇后。
 是年,由新羅役(しらきのえだち),以不得(はぶり)天皇也。

日本書紀卷第八 終

【久遠の絆】【卷第七】【卷第九】【再臨詔】