日本書紀 卷十六 武烈紀


小泊瀨稚鷦鷯天皇(をばつせのわかさざきのすめらみこと) 武烈天皇(ぶれつてんわう)


海柘榴市巷跡

武烈帝質鮪歌 其一:「潮瀨流且速 今見波折重幾重 游遊潮瀨間 鮪之鰭手鰭傍處 竟見吾契妻立兮【一本以潮瀨易水門。】反歌:「人臣子弟宅 八重韓垣層層圍 何以緩之出影媛 吾君御子矣

武烈帝質鮪歌 其二:「銳意大太刀 其刃立垂配腰間 今雖未出鋒 末果必當拔其刃 排除萬難會影媛反歌:「雖冀為大君 營宅懸組垣八重 以籠女仕之 然汝必不欲他媛 故不得為懸組垣

武烈帝質鮪歌 其三:「人臣子之宅 雖以八節柴垣編 一旦土下動 地震襲兮搖來者 八節柴垣將盡破【一本以八節柴垣易八重韓垣。】

武烈帝贈影媛歌:「琴頭奏神懸 憑談來居影媛矣 汝若為玉者 洽為我所欲美玉 華貴珍珠鰒白玉反歌:「八隅治天下 大君御帶倭文織 其雖結垂者 誰人僉不為吾念 所相思者唯鮪臣


乃樂山山道
鮪臣見戮,影媛至此,不由悲歌。


乃樂山 影媛歌碑

影媛悲鯁歌 其一:「韴靈石上兮 布瑠靈地已過之 菰枕薦枕兮 高橋之鄉亦過之 數眾物多兮 大宅之所且過之 春和晴日兮 春日之域今過之 籠妻妻隱兮 小佐保者亦過矣 手持玉笥器 盛飯華皿在其間 捧執玉盌椀 汲汲盛水彼器中 啼泣盈淚沾襟行 物部影媛甚哀憐其二:「青丹良且秀 奈良乃樂山谷間 非豬亦非鹿 埋隱水漬邊隅矣 水灌激飛散 鮪之若子藏於此 願豬莫漁出鮪子【此冀太子莫掘鮪臣屍。】

武烈天皇泊瀨列城宮跡
一、討伐平群臣濫權、即位

 小泊瀨稚鷦鷯天皇(をばつせのわかさざきのすめらみこと)億計(おけ)天皇太子(ひつぎのみこ)也。母曰春日大娘皇后(かすがのおほいらつめのきさき)
 億計(仁賢)天皇七年,立為皇太子。長好刑理(つみなへことわること),法令分明(あきらけく)日晏(ひくたつ)坐朝,幽枉(かくれたること)必達,斷(うたへ)(まこと)。又,頻造諸惡(もろもろのあしきこと),不(をさめる)一善。凡諸酷刑(からきのり),無不親覽。國內居人(くぬちのたみ),咸皆震怖(ふるつおづ)
 十一年,八月億計(仁賢)天皇崩。大臣平群真鳥臣(おほおみへぐりのまとりのおみ)專擅國政(くにのまつりごと),欲(きみ)日本,(いつはり)為太子(つくり)宮,(つくりをはり)即自居。觸事(ことごと)驕慢,(かつて)臣節(やつこらまのわきまへ)
 於是,太子思欲聘物部麤鹿火大連(もののべのあらかひのおほむらじ)影媛(かげひめ),遣媒人(なかだち),向影媛宅(ちぎり)會。影媛曾(をかさる)真鳥大臣男(しび)【鮪,此云しび(玆寐)。】恐違太子所期,報曰:「妾望奉待海柘榴市(つばきち)巷。」由是太子欲往期處,遣近侍舍人(つかへまつるとねり)就平群大臣宅,奉太子命,求索官馬(つかさうま)。大臣戲言(たはぶれごと)陽進曰:「官馬為誰飼養,隨命(みことのりのまにまに)而已。」久之不進。太子懷恨,忍不發顏(みおもへりにいだす)。果之所期,立歌場眾(うたがきのひとなか)【歌場,此云うたがき(宇多我岐)。】執影媛袖,躑躅從容(たちやすらひいざなふ)。俄而鮪臣來,(おしはなち)太子與影媛間立。由是太子放影媛袖,移迴向前立,直(むかひ)鮪,歌曰:

 鮪答歌(かへしうた)曰:

 太子歌(のたまはく)

 鮪臣(しびのおみ)答歌曰:

 太子(みうたよみ)曰:

 太子(おくり)影媛歌曰:

 鮪臣(ため)影媛答歌曰:

 太子(はじめ)知鮪曾(えたる)影媛,悉覺父子無敬之狀(ゐやなきさま)赫然(おもほてり)大怒。此夜,速向大伴金村連(おほとものかなむらのむらじ)宅,(つどへ)計策(はかり)。大伴連()數千兵,儌之(さききり)於路,(ころす)鮪臣於乃樂山(ならやま)【一本云,鮪宿影媛(いへ)即夜(そのよ)被戮。】是時,影媛逐行(おひゆき)戮處,見是戮(をへつ)驚惶(かしこみ)失所,悲淚盈目。遂作歌曰:

 於是影媛收埋(をさむめうづむ)既畢,(のぞみ)欲還家,悲鯁而言:「苦哉(くるしきかも)!今日,失我愛夫(はしづま)!」即便灑涕愴矣(なみたをそそきていたみ)(むすぼれ)心歌(いはく)

 冬十一月戊寅朔戊子(十一),大伴金村連謂太子曰:「真鳥(あた),可擊。請討之。」太子曰:「天下將亂。非希世之(たけきひと),不能(ことなす)也。能安之者,其在連乎?」即與定謀。
 於是,大伴大連率兵自將圍大臣宅,(はなつ)火燔之。所(さしまねく)雲靡。真鳥大臣恨事不濟,知身難免,計窮望絕(はかりこときはまりのぞみたえ),廣指鹽(とごふ)。遂被殺戮,及其子弟(うがら)。詛時,唯忘角鹿海鹽(つぬがのうしほ),不以為詛。由是角鹿之鹽為天皇所食(おもの)(あたし)海之鹽為天皇所忌(おほみいみ)
 十二月,大伴金村連平定賊訖,(かへし)政太子。請上尊號(みな)曰:「今億計(仁賢)天皇子,唯有陛下(きみ)億兆(おほみたから)攸歸,曾無與二。又(みたまのふゆ)皇天翼戴(たすけたまふ),淨除凶黨(あた)英略雄斷(すぐれたるはかりごとををしきたばかり),以盛天威天祿(あまついきほひあまつしるし)日本(やまと)必有主。主日本者,非陛下而誰。伏願陛下,仰答靈祇(あまつかみくにつかみ),弘宣景命(おほきなるみこと)光宅(てります)日本,誕受銀鄉(たからのくに)。」於是太子命有司(つかさ),設壇場(たかみくら)泊瀨列城(はつせのなみき)陟天皇位(あまつひつぎしろしめす)。遂定(みやこ)焉。
 是日,以大伴金村連,為大連(おほむらじ)

二、武烈帝之暴虐

 元年,春三月丁丑朔戊寅(),立春日娘子(かすがのいらつめ)為皇后。未詳(つばひらかにせず)娘子父。】是歲也,太歲己卯
 二年,秋九月(さき)孕婦之腹,而觀其(はらご)
 三年,冬十月,解人指甲(つめ),使掘暑預(うも)暑預,山芋(やまいも)之謂也。
 十一月,詔大伴室屋(おほとものむろや)大連:「發信濃(しなの)男丁(よほろ),作城像(きのかたち)水派邑(みまたのむら)。」仍曰,城上(きのへ)也。
 是月,百濟意多郎(おたら),卒。葬於高田丘上(たかたのをかのへ)
 四年,夏四月,拔人頭髮(かみ),使昇樹巔(こずゑ),斮倒樹本,落死(おとしころす)昇者為(たのしび)
 是歲,百濟末多王無道(あぢきなくす)暴虐百姓(たみ)國人(くにひと)遂除而立嶋王(せまきし),是為武寧王(むねいわう)

 五年,夏六月,使人伏入塘楲(つつみのひ),流出於外,持三刃矛(みつはのほこ)刺殺(さしころす)為快。
 六年,秋九月乙巳朔(),詔曰:「傳國之(まつりごと),立子為(たふとし)。朕無繼嗣(ひつぎ),何以傳名?且依天皇舊例(ふるきためし),置小泊瀨舍人(をばつせのとねり),使為代號(みよのな)萬歲(よろづとせ)難忘者也。」
 冬十月,百濟國遣麻那君(まなきし)進調。天皇以為(おもひたまふ):「百濟歷年不脩貢職(みつき)。」留而不放。
 七年,春二月,使人昇樹,以弓射墬(いおとし)(わらひ)
 夏四月,百濟王遣斯我君(しがきし)進調。別表(ことにふみたてまつり)曰:「前進調使(みつきたてまつれるつかひ)麻那者,非百濟國主(くだらのくにのにりむ)骨族(やから)也。故謹遣斯我,奉事於朝。」遂有子,曰法師君(ほふしきし)。是倭君(やまとのきみ)之祖也。
 八年,春三月,使女躶形(ひたはだか),坐平板上,牽馬就前遊牝(つるびせしむ)。觀女不淨(ほとどころ)沾濕(うるへる)者殺,不濕者沒為官婢(つかさやつこ),以此為樂。及此時,穿(ほり)(つくり)苑,以盛禽獸(とりけもの)。而好田獵(かり),走狗試馬。出入不時,不避大風(おほかぜ)甚雨(ひさめ)衣溫(みそあたたか)而忘百姓之(こゆること)食美(うまきものをし)而忘天下之(ううること)。大進侏儒(ひきひと)倡優(わざをぎ),為爛漫之樂(みだりがはしのうたまひ),設奇偉之戲(あやしくうたてあるたはむれ),縱靡靡之聲(たはしきこゑ),日夜常與宮人沉緬(ゑひさまたれる)于酒,以錦繡(にしきぬひもの)(むしろ)(きるもの)綾紈(あやしらきぬ)者眾。
 冬十二月壬辰朔己亥(),天皇崩于列城宮(なみきのみや)

日本書紀卷十六 終


水派邑


武烈帝系圖
雄略帝弒其兄弟,僅押磐皇子之嗣倖存,然其嗣又獨得武烈一嗣。故武烈既崩,後嗣無人。遂立繼體。

【久遠の絆】【卷十五】【卷十七】【再臨詔】