日本書紀 卷十二 履中紀/反正紀

【履中天皇】【反正天皇】


去來穗別天皇(いざほわけのすめらみこと) 履中天皇(りちゅうてんわん)


納采
今云結納。『禮記』:「昏禮既納幣,有吉日。女之父母死,則如之何?」鄭玄注:「謂昏禮納徵也。【云云。】吉日,取女之吉日。」


前期難波高津宮 復原模型
記云:「本坐難波宮之時,坐大嘗而為豐明之時,於大御酒歡醺【宇良宜】而大御寢也。爾其弟墨江中王欲取天皇,以火著大殿。」


飛鳥山
飛鳥山口,記云:「大坂山口。」蓋同。當摩徑,『和名抄』:「大和國葛下郡當麻。【多以末。】

太子謝少女歌:「河內大和堺 大坂所遇娘子矣 問道彼少女 不告近道訴遠路 諫吾迂迴當摩徑


龍田山
『古事記』循教走當摩徑,而『書紀』不然,徑行龍田道至石上。


石上振神宮 石上神宮
一、去來穗別尊立太子、仲皇子謀逆

 去來穗別天皇(いざほわけのすめらみこと)大鷦鷯(おほさざき)天皇太子也。【去來,此云いざ(伊弉)。】母曰磐之媛命(いはのひめのみこと)葛城襲津彥(かづらきのそつびこ)女也。
 大鷦鷯(仁德)天皇三十一年,春正月,立為皇太子(ひつぎのみこ)【時年十五。】
 八十七年,春正月大鷦鷯(仁德)天皇崩。
 皇太子自諒闇(みものおもひ)出之,未即尊位(たかみくら)之間,以羽田矢代宿禰(はたのやしろのすくね)之女黑媛(くろひめ)欲為妃,納采(あとふること)既訖,遣住吉仲皇子(すみのえのなかつみこ),而告吉日(よきひ)。時仲皇子冒太子名,以(たはく)黑媛。
 是夜,仲皇子忘手鈴(てのすず)於黑媛之家而歸焉。
 明日之夜,太子不知仲皇子自姧而到之。乃入(よどの),開(とばり)居於玉床(みどこ)。時床頭(とこのべ)有鈴音。太子異之(あやしびたまひ),問黑媛曰:「何鈴也?」對曰:「昨夜(きぞ)之非太子所齎鈴乎?何更問(やつこ)?」太子自知仲皇子冒名以姧黑媛,則默之避也(さりたまふ)
 爰仲皇子畏有事,將殺太子。密興兵,圍太子宮(難波高津宮)。時平群木菟宿禰(へぐりのつくのすくね)物部大前宿禰(もののべのおほまへのすくね)漢直(あやのあたひ)阿知使主(あちのおみ)三人,()啟於太子。太子不信。【一云,太子(ゑひ)以不起。】故三人扶太子,令乘馬而逃之。【一云,大前宿禰抱太子而乘馬。】仲皇子不知太子不在,而焚太子宮。通夜火不滅(よもすがらひきえず)。太子到河內國埴生坂(かふちのくにのはにふのさか)而醒之。顧望難波(なには),見火光而大驚。則急馳之自大坂(おほさか)(やまと),至于飛鳥山(あすかのやま),遇少女(をとめ)山口(やまのくち)。問之曰:「此山有人乎?」對曰:「執(つはもの)者多滿山中。宜迴自當摩徑(たぎまち)踰之。」太子於是以為,聆少女言,而得免難(わざはひをまぬかる),則歌之曰:

 則更還之,發當縣兵(そのあがたのいくさ)從身(つかへ),自龍田山(たつたのやま)踰之。時有數十人執兵追來者。太子遠望(とほくみそこなはし)之曰:「其彼來者誰人也?何步行(おひくる)急之,若賊人(あた)乎?」因隱山中而待之。近則遣一人問曰:「曷人(なにひとぞ)?且何處往矣?」對曰:「淡路野嶋(あはぢののしま)海人(あま)也。阿曇連濱子(あづみのむらじはまこ)【一云,阿曇連黑友(くろとも)。】為仲皇子令追太子。」於是出伏兵(かくしいくさ)圍之,悉得捕。
 當是時,倭直吾子籠(やまとのあたひあごこ)素好仲皇子。預知其(はかりこと),密聚精兵(ときいくさ)數百於攪食栗林(かきはみのくるす),為仲皇子將拒太子。時太子不知兵塞,而出山行數里(あまたさと),兵眾多塞,不得進行。乃遣使者,問曰:「誰人也?」對曰:「倭直吾子籠也。」便還問使者曰:「誰使焉?」曰:「皇太子之使。」時吾子籠憚其兵眾(いくさども)多在,乃謂使者曰:「傳聞:『皇太子有非常之事(おもほえぬこと)。』將助以備兵待之。」然太子疑其心,欲殺。則吾子籠愕之,獻己妹日之媛(ひのひめ),仍請赦死罪(しぬるつみ)。乃免之。其倭直等貢采女(うねめ),蓋始于此時歟。
 太子便居於石上振神宮(いそのかみのふるのかむみや)。於是瑞齒別皇子(みづはわけのみこ)知太子不在,尋之追詣。然太子疑弟王(おとのみこ)之心而不喚。時瑞齒別皇子令謁曰:「僕無黑心(きたなきこころ),唯愁太子不在而參赴(まゐきつらく)耳。」爰太子傳告弟王曰:「我畏仲皇子之逆,獨避至於此,何且非疑汝耶?其仲皇子在之,獨猶為我(やまひ)。遂欲除。故汝寔勿黑心,更返難波而殺仲皇子,然後乃見焉。」瑞齒別皇子啟太子曰:「大人(うし)何憂之甚也?今仲皇子無道(あづきなし)群臣(まへつきみたち)百姓(おほみたから)共惡怨之。復其門下(いへ)人皆叛為賊,獨居(ひとりゐ)之無與誰議。臣雖知其逆,未受太子(おほみこと)之。故獨慷慨(ねたみつらく)之耳。今既被命,豈難於殺仲皇子乎?唯獨懼之,既殺仲皇子,猶且疑臣歟。冀見得忠直者(ただしきひと),欲明臣之不欺(いつはらざること)。」太子則副木菟宿禰而遣焉。爰瑞齒別皇子歎之曰:「今太子與仲皇子並兄也。誰從矣(したがひ),誰乖矣(そむかむ)?然亡無道,就有道,其誰疑我?」則詣于難波,伺仲皇子之消息(あるかたち)。仲皇子思太子已逃亡,而無備。
 時有近習隼人(つかへるはやひと),曰刺領巾(さしひれ)。瑞齒別皇子陰喚刺領巾,而誂之(あとらへ)曰:「為我殺皇子,我必敦報汝。」乃脫錦衣(にしきのきぬ)(はかま)與之。刺領巾恃其誂言,獨執矛,以伺仲皇子入(かはや)刺殺(さしころし),即隸于瑞齒別皇子。於是,木菟宿禰啟於瑞齒別皇子曰:「刺領巾為人殺己君。其為我雖有大功(おほきなるいさをし),於己君無慈(うつくしびなき)之甚矣。豈得生乎?」乃殺刺領巾。即日向倭也,夜半(まゐたり)於石上而復命。於是,喚弟王以敦寵,仍賜村合屯倉(むらはせのみやけ)
 是日(とらふ)阿曇連濱子。

二、即位磐余雉櫻宮,置諸國國史

 元年,春二月壬午朔(),皇太子即位於磐余稚櫻宮(いはれのわかさくらのみや)
 夏四月辛巳朔丁酉(十七),召阿曇連濱子,詔之曰:「汝與仲皇子共謀逆(さかふることをはかり),將傾國家(くに),罪當于死。然垂大恩(うつくしび),而免死科(ひたひきざむつみ),即日黥之(めさききざましむ)!」因此時人曰阿曇目(あづみめ)。亦免從濱子野嶋海人之罪,役於倭蔣代屯倉(こもしろのみやけ)
 秋七月已酉朔壬子(),立葦田宿禰(あしはのすくね)之女黑媛為皇妃(みめ)
  妃生,磐坂市邊押羽皇子(いはさかのいちのへのおしはのみこ)御馬皇子(みまのみこ)青海皇女(あをみのひめみこ)【一曰,飯豐皇女(いひどよのひめみこ)。】
 次妃,幡梭皇女(はたびのひめみこ)
  生,中磯皇女(なかしのひめみこ)是年也,太歲庚子
 二年,春正月丙午朔己酉(),立瑞齒別皇子為儲君(ひつぎのみこ)
 冬十月,都於磐余。當是時,平群木菟宿禰、蘇賀滿智宿禰(そがのまちのすくね)物部伊莒弗大連(もののべのいこふつのおほむらじ)圓大使主(つぶらのおほみ)【圓,此云豆夫羅(つぶら)。】共執國事。
 十一月,作磐余池(いはれのいけ)
 三年,冬十一月丙寅朔辛未(),天皇泛兩枝船(ふたまたぶね)磐余市磯池(いはれのいちしのいけ),與皇妃各分乘而遊宴(あそび)
 膳臣余磯(かしはでのおみあれし)(おほみき)。時櫻花落于御盞(おほみさかづき)。天皇異之,則召物部長真膽連(もののべのながまいのむらじ),詔之曰:「是花也,非時(ときじく)而來。其何處(いづく)之花矣?汝自可求。」於是,長真膽連獨尋花,獲于掖上室山(わきがみのむろのやま)而獻之。天皇歡其希有(めづらしき),即為宮名。故謂磐余稚櫻宮,其此之(えに)也。
 是日,改長真膽連之本姓(もとつかばね),曰稚櫻部造(わかさくらべのみやつこ)。又號膳臣余磯,曰稚櫻部臣(わかさくらべのおみ)
 四年,秋八月辛卯朔戊戌(),始之於諸國置國史(ふみひと),記言事(ことわざ)四方志(よものふみ)
 冬十月,掘石上溝(いそのかみのうなで)
 五年,春三月戊午朔(),於筑紫(つくし)所居三神(宗像),見于宮中言:「何奪我民矣?吾今慚汝!」於是(いのり)不祠(まつりたまはず)
 秋九月乙酉朔壬寅(十八),天皇狩于淡路嶋(あはぢのしま)。是日,河內飼部(うまかひべ)從駕(おほみもと)(おほみまのくち)。先是,飼部之(めさきのきず)皆未差。時居嶋伊奘諾神(いざなぎのかみ),託(はふり)曰:「不堪血臭矣。」因以卜之(うらなふ)(うらかた)云:「惡飼部等黥之()。」故自是後,頓絕(ひたふる)以不黥飼部而止之(やむ)
 癸卯(十九),有如風之聲,呼於大虛(おほそら)曰:「劍刀太子王(つるぎたちのみこ)也。」亦呼之曰:「鳥往來羽田(とりかよふはた)汝妹(なにも)者,羽狹(はさ)葬立往(はぶりたちいぬ)。」【汝妹,此云なにも(儺邇毛)。】亦曰:「狹名來田蔣津之命(さなきたこもつのみこと),羽狹()葬立往也。」俄而使者忽來曰:「皇妃(黑媛)(かむさり)!」天皇大驚之,便命(おほみま)而歸焉。
 丙午(廿二),自淡路至。
 冬十月甲寅朔甲子(十一),葬皇妃。
 既而天皇悔之不治神祟(かみのたたり)而亡皇妃,更求其(とが)。或者曰:「車持君(くるまもちのきみ)行於筑紫國,而悉校車持部(くるまもちべ),兼取充神者(かむへのたみ)。必是罪矣。」天皇則喚車持君,以推問(かむがへとひ)之。事既實焉。因以(せめ)之曰:「爾雖車持君,(ほしきまま)檢校天子(みかど)之百姓,罪一也。既分寄于神祇(かみ)車持部,兼奪取之,罪二也。」則負惡解除(あしはらへ)善解除(よしはらへ),而出於長渚崎(ながすのさき),令祓禊(はらへみそかしめ)。既而詔之曰:「自今以後,不得掌筑紫之車持部。」乃悉收,以更分之奉於三神(宗像)
 六年,春正月癸未朔戊子(),立草香幡梭皇女(くさかのはたびのひめみこ)皇后(きさき)
 辛卯(),始建藏職(くらつかさ)。因定藏部(くらひとべ)


稚櫻神社
稚櫻社,傳磐余稚櫻宮跡。『古語拾遺』別稱神功、履中朝作磐余稚櫻朝、後磐余稚櫻。


磐余池
有傳即吉備池,然非通說。


宗像大社 邊津宮
筑紫所居三神者,宗像三神也。即市杵島姬、湍津姬、田心姬,分坐邊津、中津、沖津三宮。所謂充神者,即神戶之民。


淡路島全景


長渚崎
惡解除、善解除,『三代格』延曆廿年五月十四日:「神事有犯,科祓贖罪。善惡二祓,重科一人。條例已繁,輸物亦多。事傷苛細,深損黎元。仍今弛張立例。」


履中天皇 百舌鳥耳原陵
延喜式諸陵:「百舌鳥耳原南陵。」注:「磐余稚櫻宮御宇履中天皇。在和泉國大鳥郡。兆域東西五町,南北五町。陵戶五烟。」
三、天皇崩御稚櫻宮

 二月癸丑朔(),喚鯽魚磯別王(ふなしわけのおほきみ)之女太姬郎姬(ふとひめいらつめ)高鶴郎姬(たかつるのいらつめ),納於后宮(きさきのみや)並為(みめ)
 於是,二嬪恒歎之曰:「悲哉!吾兄王(えのおほきみ)何處去耶?」天皇聞其歎,而問之曰:「汝何歎息也?」對曰:「妾兄鷲住王(わしすみのおほきみ),為人強力輕捷(かろくとし)。由是獨馳越八尋屋(やひろや)遊行(いで),既經多日,不得面言(あひかたらふ)。故歎耳。」天皇悅其強力(ちからこはし)以喚之,不參來。亦(かさね)使而召,猶不參來。恒居於住吉邑(すみのえのむら)。自是以後,廢以不求。是讚岐國造(さぬきのくにのみやつこ)阿波國腳咋別(あはのくにのあしくひわけ),凡二族之始祖也。
 三月壬午朔丙申(十五),天皇玉體不悆(おほみやまひ)水土不調(やくさみ)。崩于稚櫻宮。【時年七十。】
 冬十月己酉朔壬子(),葬百舌鳥耳原陵(もずのみみはらのみさざき)


瑞齒別天皇(みづはわけのすめらみこと) 反正天皇(はんぜいてんわう)

一、天皇即位與御崩

 瑞齒別天皇(みづはわけのすめらみこと),去來穗別天皇同母弟(いろど)也。
 去來穗別(履中)天皇二年,立為皇太子。
 天皇初生于淡路宮(あはぢのみや)。生而齒如一骨,容姿美麗。於是有井,曰瑞井(みづのゐ)。則汲之洗太子。時多遲花(たぢひ)落有于井中,因為太子名也。多遲花者,今虎杖花(いたどりのはな)也。故稱謂多遲比瑞齒別天皇(たぢひのみづはわけのすめらみこと)
 六年,春三月去來穗別(履中)天皇崩。
 元年,春正月丁丑朔戊寅(),儲君即天皇位。
 秋八月甲辰朔己酉(),立大宅臣(おほやけのおみ)木事(こごと)之女津野媛(つのひめ)皇夫人(きさき)
  生,香火姬皇女(かひひめのひめみこ)圓皇女(つぶらのひめみこ)
 又納夫人(きさき)弟媛(おとひめ)
  生,財皇女(たからのひめみこ)高部皇子(たかべのみこ)
 冬十月,都於河內丹比(たぢひ)。是謂柴籬宮(しばかきのみや)
 當是時,風雨順時,五穀成熟(いつつのたなつものみのれり)。人民富饒(とみにぎはひ’),天下太平(たひらかなり)是年也,太歲丙午
 六年,春正月甲申朔丙午(廿三),天皇崩于正寢(おほとの)

日本書紀卷十二 終


產宮神社 井戶
反正天皇瑞井者,今在產宮神社。或云此社即淡路宮。


柴籬神社
在丹比松原,傳柴籬宮址。

【久遠の絆】【卷十一】【卷十三】【再臨詔】