日本巫女史 第一篇:固有咒法時代
第二章、巫女の呪術の目的と憑神
我が古代に於いて、巫女が行うた呪術は、其目的にも、種類にも、更に方法にも、幾多の異つた物が有つた樣に想はれるが、今日からは、文獻學的にも、民俗學的にも、其を詳しく知る事の出來ぬのは誠に遺憾である。記・紀其古典を讀んで見ても、原始神道なる物には、幾つかの異流と分化とが在つた樣に考へられるが、國家が、民族統一の目的を以て、神道を固定させ、代代の神祇官や、和學者なる者が、此意を承けて、專ら神道の整理と、神祇の淘汰を行ひ、祭儀中から呪術的の分子を除去し、此れに代へるに合理的の事由を補足するに努めたので、遂に斯かる結果を見る樣に成つたのである。而して茲には、原始期に行はれた巫女の呪術の目的、及び巫女が其目的を遂行するに必要であつた憑神に就いて記述する。
第一節 巫女の行いし呪術の目的と種類
巫女は我國に於ける呪術師の全部で無くして、僅に其一部分である事は既述した。從つて、巫女の用ゐた呪術は、我國の其の總てでは無くして、是れ又其一部である事は、言ふ迄も無い。其故に、巫女の行うた巫術の目的に當つても、一般の呪術から見る時は、頗る局限される事と成るが、此れは巫女史の立場から云へば、寧ろ當然の歸結であらねば成らぬ。而して我國の固有呪法時代に於ける巫女の呪術の目的は、大略左の如き物であつたと考へられる。
第一、自然を制御し、又は之を支配せんとせし事。
第二、神
(又は精靈。)
を善用又は惡用し、或は是等を征服せんとせし事。
第三、靈魂を鎮め、或は之を和めて、自己亦は宗族の保存を圖りし事。
第四、未來を識見して招福除災を企てし事。
併しながら、目的と行動とは、分離する事が困難である。換言すれば、是等の目的を遂行せんとする巫女の呪的所作は、巫女の職務として說明する方が便宜が多い。其故に茲には、其と重複せぬ程度で解說し、其詳細は巫女の職務を既述する條に讓るとする。
第一の、自然を制御し、又は支配せんとする目的下に巫女の行つた呪術は、私の知つてる限りでは、我國には實例も尠く、且つ其態度も概して消極的であつた。併し此れは言ふ迄も無く、我國の風土又は氣候の然らしめた結果である。勿論、我國にも、日神・月神・水神・火神・雨神・風神・土神・木神等の自然其の物を信仰對象とした神は古くから存し、更に國土の精靈と見るべき神御魂・高御魂・生魂・足魂・玉留魂等も有り、巫女は是等に對して呪術を以て、是等の神や精靈を通して制御し、又は支配し得る者と考へてゐた樣であるが、其徵證を覓めて具體的に說明しようとすると、其が極めて稀薄なるに驚くのである。例へば、日神
(此處には太陽の意である。)
に對して、「天の御陰、日の御陰。」を
恩賴
(
カガフ
)
る事を祈つてゐるが、呪術を以て天日を曇らせたとか、晴れさたとか云ふ物は、一つも發見されぬ。雨風神
(此處には風雨其の物。)
に對しても、同じく順風滋雨を念ずるばかりで、呪術を以て風を吹かせ、雨を降らせた物は、全く見當らぬ。信濃の諏訪社に行はれた「風祝」の故事や、肥後の霜宮に行はれた「火焚きの神事」や、及び是等に類する神事も少くないが併し其目的は、悉く消極的であつて、共に惡しき風の吹かぬ樣に、恐ろしい霜の降らぬ樣にと祈るのみであつて、此れに反して積極的に、風よ強く吹け、霜よ多く降れと呪つた者は皆無である。
尤も、
雩祭
(
アマゴヒ
)
だけは積極的の呪術と見られるのであるが、此れが我國に行はれたのは『
天武紀
』が初見であつて、其以前のは寡見に入らず、然も天武紀の雩祭は、著しく支那の影響を受けてゐる物と思jはれるので、茲に言ふ固有呪法時代の埒外に屬するのである。勿論、私は文獻に見えぬからとて、雩祭と云ふが如き原始的で且つ呪術的の神事は、古代から行はれてゐた物と考へるのではあるが、此れは
何處
(
ドコ
)
まで言うても、考へるだけで、其以上には、一步も踏出す事が出來ぬのである。『
萬葉集
』に現はれた「
雨慎
(
)
み」の信仰は、猶お風や霜の如く、專ら霖雨を恐れ、豪雨を避ける態度であつた。從つて、火神・木神・水神に對しても、恩惠に浴せんとする祈願的呪術は在つたけれども、此れを左右せんとする支配的呪術は無かつた樣である。國土の精靈に對しても、又其の如くであつたと考へるので今は省略する。但し、巫女以外の公的呪術師が、自然を制御し、又は支配した痕跡は、極めて微弱ながらも存していゐた樣に思はれる。が、此れは本書の柵外に出るので、態と觸れぬ事とした。
第二の、神
(又は精靈。)
を善用し、惡用し、或は是等を征服せんとした巫女の呪術に就いては、相當に多く存してゐた樣である。一般宗教學者が言ふ樣に、「神は理解されぬ以前に、先づ利用される。」と有る事實は、蓋し我國にも發見される事なのである。例えば『
神武紀
』戌午年夏四月に、神武帝が大和の孔舍衛坂に長髓彥と戰ひ、皇兄五瀨命流矢に傷き、王師全く進み戰ふ事能はざりし時に、
天皇憂之,乃運神策於沖衿曰:「今我是日神之子,而向日征虜,此逆天道也。不若,退還示弱,禮祭神祇,背負日神之威,隨影壓躡。如此,則曾不血刃,虜必自敗矣。」
(中略。)
乃引軍還,虜亦不敢逼。卻至草香之津,植盾而為雄詰焉。
と有るのは、畏き事ながら神を利用して勝を制した物と拜察する事が出來る。而して、「禮祭神祇」とか、「植盾為雄詰」とか有るのは、即ち「神業」であつて、今から云へば呪術であつて、然も此呪術が巫女によつて行はれた事は疑ひ無い。
(此れに就いては、第七章の巫女と戰爭の條を參照せられたい。)
而して神
(精靈として)
を惡用し、征服し、支配した呪術に當つては、『
應神記
』に有る秋山之下冰壯夫と春山之霞壯夫の兄弟の母の行へる所作が、良く此れを說明してゐる。曰く、
恨其兄子,乃取其伊豆志河之河嶋一節竹而,作八目之荒籠。取其河石,合鹽而,裹其竹葉,令
詛言
(
トコヒイ
)
:「
如
(
ゴト
)
此竹葉青,如此竹葉萎而,青萎。又
如
(
ゴト
)
此鹽之盈乾而,盈乾。又
如
(
ゴト
)
此石之沈而,沈臥。」如此令詛,置於
烟
(
カマド
)
上。是以其兄,八年之間,
干
(
カワ
)
萎病枯。
故
(
カレ
)
其兄患泣,請其御祖者,
(中山曰、母の意。)
即令返其
詛戶
(
トコヒド
)
。於是其身如
本
(
モト
)
以
安平
(
タヒラ
)
也。
と有る。此れは明白に神を惡用し、且つ神を征服し、支配する信仰を現はした物であつて、然も其母は家族的巫女たる事を明白に示してゐる。唯、此呪術に就いて考ふべき事は、此母なる者は、新羅より我國に投化せる天日矛に由緣有る者なるが故に、此呪術は我國固有の物か、其とも新羅より將來した物が、其何れであるかの點である。併しながら、現在の學問の程度では、兩者の區別を截然と斷定する手掛りが無いので、今は姑らく我國固有の物として取扱ふ事とした。
第三の、靈魂を鎮め、又は
和
(
ナゴ
)
めて、自己の健康を保持增進し、又は
宗族
(
ウカラヤカラ
)
の發展と幸福とを增加しようとした呪術は、我國に於いては太古から存してゐた。由來、宗教を生物心理學的に考察した
クローレー
(
crawley
)
の學說として、赤松智城氏の紹介された所に據ると、宗教は生きんとする意志の
活
(
ハタラ
)
きであつて、此意志は、第一は自己保存の衝動と成り、此れが二つに分れて、(A)防衛衝動と(B)營養衝動と成り、第二は種族保存の衝動と成り、此れも二つに分れて、(A)生殖衝動と(B)血族養育衝動と成ると說いてゐる
〔
一
〕
。此觀點に立腳して、我國古代の巫女、及び巫女の行ひし呪術に就いて考說を進める事は、極めて興味の多い事ではあるが、此處には其餘裕を有してゐいぬので差控へるとするも、兔にも角にも、我國の原始神道に於いても「天之益人」として生きんとする意志が、巫女を通じて、呪術の上に、多分に現れてゐる事は、爭う事の出來ぬ事實である。廣義に言へば、巫女の行うた呪術は、悉く生きん
(自己又は宗族。)
が為の現れとも見られるのである。我國の古代人が、生活價値の本質として神を崇め、更に生活價値の表現として祭
(其祭の基調は呪術的である。)
を重んじたのは、全く此信仰に出發してゐるのである。猶ほ靈魂を鎮め和めた呪術の目的と作法とに就いては、
第五章第三節
の鎮魂祭條を參照せられたい。
第四の未來を識見するとは、即ち卜占の呪術である。我國に於ける卜占は、
諾冊二尊が蛭子を儲けし時
、「於是二柱神議云:『今吾所生之子不
良
(
フサ
)
,猶宜白天神之御所。』即共參上,請天神之命。爾天神之命以
太占ト
(
フトマニウラ
)
相而詔之。」と有る樣に
〔
二
〕
、開闢當時から存してゐた物であるが、此太占は所謂鹿卜
(鹿の肩骨を灼て占ふ物。)
であつて、專ら中臣氏が掌り、鹿卜は後に龜卜と變り、中臣氏に代つて卜部氏が勤める樣に成つたが、此れは主として男覡の作業であつた。『
魏志
』倭人傳の一節にも、
其俗,舉事行來,有所云為,輙灼骨而卜,以占吉凶。
と見える如く、我が古代に在つては、殆ど事毎に太占を行ふのを習禮としてゐたので、記・紀を始め、代代の記録にも、此事例や作法が夥しき迄に載せて有るが、巫女が關係した事は、私の寡聞なる、纔に間接的の一例よりしか知らぬのである
〔
三
〕
。其では巫女は一切の占術に關係せぬかと云へば、此れは決して左様では無く、種種なる占術を行うてゐたのである。今此處に固有時代に屬する物を舉げると、其第一は琴占である。延曆の『皇大神宮儀式帳』六月條に、
以十五日夜亥時,第二御門
に
(
仁
)
御巫內人
に
(
仁
)
御琴給
て
(
弖
)
,大御事
(中山曰、大御命の意である。)
請祭
て
(
弖
)
,
云云。
と有るのが、其である。猶ほ巫女が神降ろしに呪具として琴を用ゐし事、及び此伊勢內宮の神降しの詳細に就いては、
第五章第四節
に述べる考へ故、參照を望む。第二は、片巫
(志止止と稱する鳥を以て占ふ者。)
肱巫
(米を用ゐて占ふ者。)
であるが、此れも後の機會に詳記する事として、今は保留する。
第三は、辻占
(亦
夕占
(
ユウゲ
)
とも云ふ。)
とて、現今にも其名殘りを留めてゐる物であつて、『
萬葉集
』
卷十一
に、「
言靈
(
コトダマ
)
の、
八十衢
(
ヤソノチマタ
)
に、
夕占問
(
ユフケト
)
ふ、
占正
(
ウラマサ
)
に
告
(
ノ
)
る、
妹相寄
(
イモアヒヨ
)
らむと。
(
2506
)
」と載せ、此外にも多くの證歌が載せて有る。然るに、辻占の原義に就いては、從來の學者の間に少しも說明されてゐぬし、且つ此事は後世の口寄巫女の守護神に交涉を有してゐるので、私の專攻する民俗學の上から略說する。由來、我が國では、溺死・焼死・縊死等の、所謂變死を遂げた者は、其凶靈が人に憑いて、病氣を起させ、災厄を負はせる等、頗る荒
疏
(
ウト
)
ぶので、是等の變死者の屍體は、普通の墓地に葬る事を許さず、屍體も洗はず、棺にも入れず、漸く簀卷か蓆包に
(大抵は其のままで然も倒樣。)
にして、道辻か、橋の袂に埋めるのを習俗としてゐた。
(琉球には十四五年前迄此習俗が有つて路傍に埋め、現在でも變死者は普通の墓地へ葬らぬ。)
此れは、斯かる場所へ埋めれば、往來の人が絶えず池上を踏固めるので、流石の凶靈も發散する事が出來ぬからと考へた結果であつた。而して此凶靈が
活
(
ハタラ
)
いて、行人の言を假り占はせる者と信じたのが辻占の起源で、有名なる宇治橋姬傳說も此思想から出たものである
〔
四
〕
。
更に辻占の作法も古くは嚴かに守られてゐた物で、『
萬葉集
』
卷十一
に、「
逢
(
ア
)
は
無
(
ナ
)
くに、
夕占
(
ユフケ
)
を
問
(
ト
)
ふと、
帑帛
(
ヌサ
)
に
置
(
オ
)
くに、
我
(
ワ
)
が
衣手
(
コロモデ
)
は、
亦
(
マタ
)
そ
繼
(
ツ
)
ぐべき。
(
2625
)
」と有るのは、辻占を聽く者は自分の片袖を截つて神へ供へた物である
〔
五
〕
。亦後世の書物ではあるが、『拾芥抄』第十九諸頌部に、問夕食歌とて、
岐
(
フナトサ
)
ヘ、
夕占
(
ユウケ
)
神ニ、
物問
(
モノト
)
ヘハ、道行人ヨ、
占正
(
ウラマサ
)
ニセヨ。兒女子云:「持黃楊櫛,女三人,向三辻問之。又午歲女,午日問之。」云云。今案,三度誦此歌,作堺散米,鳴櫛歯三度後,堺內來人答:「為內人。言語聞推吉凶。」云云。
と有るのも
〔
六
〕
、蓋し萬葉頃の遺風を傳へた物であらう。而して後世に成ると、辻占を聽くは、性の男女を擇ばぬ樣に成つたので、此れを必ずしも巫女の所業の如く言ふのは當らぬ樣に思はれるのであるが、併し其呪術の對象である
岐神
(
フナドノカミ
)
が女性であり
〔
七
〕
、更に此岐神を
衢神
(
チマタノカミ
)
として齋きし者が巫女である事を知れば、元は巫女の所業と見るこそ卻つて穏當と信じられるのである。未だ此外に、火占・飯占・歌占等は、共に巫女の行ひし物と思ふが、是等は後世に發生した物故、其時代に於いて記述する。
猶ほ巫女と占術との關係に就いて、一言すべき事は、前に述べた辻占に為よ、又後に記す火占・歌占に為よ、其發生當時に在つては、專ら巫女が此事を行ひしに相違無いが、其方法が極めて簡單である上に、呪力も尠く、且つ別段の修練も要せぬ事とて、遂に巫女の手から離れて民眾の手に移つた物と考える。其と同時に
太占
(
フトマニ
)
・石占等も、其發生期に於いては、或は巫女の手に在つた物が、時勢推移と共に、巫女が男覡と成り、女祝が男祝と成り、女禰宜が男禰宜と成つた樣に、女性の手から男性の手に渡つた物とも考へられるのである。
〔
註第一
〕前揭の『輓近宗教學の研究』に據つた。
〔
註第二
〕『
日本書紀
』
神代卷
に在る。
(浦木按、『日本書紀』にで、其事が在るものの、文辭に相違有り、『古事記』を觀るべし。)
〔
註第三
〕『釋日本紀』卷五
(國史大系本)
。
〔
註第四
〕宇治橋姬に就いては、種種なる傳說と成つて傳へられてゐるが、私は辻祭の起源と同じく、變死者を橋畔に埋めた民俗に由來する物と考へてゐる。
〔
註第五
〕我國には「袖
捥
(
モ
)
ギ」と稱して、神を祭る折に片袖を截る民俗が有つた。此れに就いては、拙著『土俗私考』に、各地の例を集めて論じた事が有る。
〔
註第六
〕『拾芥抄』は室町期に編纂された物であるが、此記事はずつと古い物と思ふ。猶ほ私の見た物は故實叢書本である。
〔
註第七
〕岐神が女性であるとは、鈴木重鄉胤翁の『日本書紀傳』に詳しい考証が有る。
第二節 巫女の有せる憑き神の源流
我國の巫女は、各自共呪術の原動力とも云ふべき
憑神
(
ツキガミ
)
を有してゐた。併し其神の事を、古くは何と云つてゐたかは、判然し無い。後世の知識で云ふと、佛教の守り本尊は、又はアイヌの
トレンカムイ
(
憑神
)
と同じ樣な物である。其で私は姑らく憑神の名で呼ぶ事とした。
我國の神神の發達を民俗學的に見ると、其多くは、始め氏神であり、家神であつた。從つて、我國の古き神神は、其神の血筋を承けた同氏族を保護するに限られてゐて、神と血筋を異にせる異氏族を保護する迄には進んでゐ無かつたのである。而して、此氏なり、家なりが、時勢と共に、膨張し、發達して來ると、今迄氏神であり、家神であつた物が、其に連れて、村神と成り、郡神と成り、國神と成り、更に日本全國の神と成るのである。
其一例を簡單に舉げると、常陸國の鹿島神は、始めは、祭神天兒屋根命の血筋を繼いだ中臣氏の神であつた。然るに、中臣氏が藤原氏と成つて、帝京に居を占め、皇恩に浴して、家門が時めく樣に成ると、氏神を遠隔の地である常陸に置く事は、祭儀其他に不便が多い所から、先づ其分靈を河內國河內郡牧岡里に遷し祀つた。此れが即ち牧岡神社である。所が河內に氏神が在るのでは未だ不便なので、後に大和國添上郡春日里に遷し、此れを春日神社と稱した。而して斯くてある間に藤原氏の門葉が天下に茂り、藤原氏にあらざれば人に非ずと云ふ程の繁昌を致し、領地が國國に亘り、莊園が各地に開かれる樣に成れば、其等の人人に依つて、鹿島神は各地に遷し祀られる事と成る。其と同時に、鹿島社の社格も、氏人である藤原氏の發達に伴ひ向上して、社領も加り、社領の在る所には鹿島神を祀る者が多く、斯うして氏神が國神と成り、遂には日本國中の神と迄發達してしまつたのである。此れが我國に於ける氏神信仰の由來なのである。
然るに、氏族の移動が烈しく成り、氏族の分裂が盛んに行はれる樣に成ると、氏神信仰は漸次に衰へて
產土神
(
ウブスナ
)
信仰が起る樣に成つて來た。即ち祭神と血液で繋がれた氏族の守護神は一變して、今度は其神の
占領
(
ウシハク
)
所の土地內に生れ、又は住む者は誰人でも守護すると云ふ產土神と成つた。換言すれば、立體的に父から子へ、子から孫へと血を分ける事が信仰の基調と成つてゐた氏神が、後には平面的に神の領する土地內に住みさえすれば宜いと云ふ產土神と改められてしまつたのである
〔
一
〕
。
巫女の憑神も亦此の推移から脱する事は出來無かつたのである。巫女の憑神は、其最初は氏神と同じく、血で繋がれた祖先の靈魂であつた。其故に、後世の口寄の市子が、第三者に依賴されて、幽界に居る靈魂を寄せる時に、依賴者と關係無き者は出て來ぬと云ふのは、此れが為である
〔
二
〕
。而して古代の巫女が如何にして祖先の靈魂を自分の憑神としたか、其方法に就いては全く知る事が出來ぬのである。勿論、一般的の神道から言へば、祖先の靈を祀る事だけで充分な筈であるが、併し普通の祭祀よりは一步を進めた呪術を行ふ為の憑神とするには、何か其處に特殊な方法が行はれてゐたのでは無いかと考へられる。私は此れに就いて想起こす事は、壹岐國の巫女
(私の謂ふ口寄系の者で、同地で
命婦女
(
イチジョウ
)
と呼んでゐる事は既記した。)
が「
籔佐
(
ヤボサ
)
」と稱する一種の憑神を有してゐる事である。同國へ親しく旅行して民俗學的の資料を蒐集された、畏友折口信夫氏の手記及び談話を綜合すると、其「
籔佐
(
ヤボサ
)
」の正體は、大略左の如き物である。
壹岐では巫女の事を、一體に
命婦女
(
イチジョウ
)
と言うてゐるが、
命婦
(
イチ
)
と云ふのが正しい形なのであらう。今の人はジョウに女の感じを受けてゐる樣である。面白いのは、湯立と口寄とを兼ねてゐるらしい點である。武生水のK氏と云ふ非職陸軍中尉の家が是れであり、又勝本にもあつたと柳田
(地名。)
の松本翁が話してくれた。處が、箱崎の芳野家に在る『神田愚童隨筆』と云ふ書に、
命婦
(
イチ
)
(中山曰、壹岐や對馬では巫女を命婦と書いた例證は文獻に見えてゐる。)
は女官の長で、大宮司、權大宮司の妻か娘を
御惣都
(
オソウイチ
)
と云うて、壹岐に其屋敷が二箇所在ると載せて有る。併し大宮司や權宮司の妻子許りを
命婦
(
イチ
)
としたと有るのは疑問である。
御惣都
(
オソウイチ
)
という名が他の多くの
命婦
(
イチ
)
の存在を示してゐるのであらう。
壹岐の
命婦女
(
イチジョウ
)
の祀る神は、天臺
籔佐
(
ヤボサ
)
であつて、稻荷様は其一の眷屬で、
籔佐
(
ヤボサ
)
様の下であると云うてゐる。そして
籔佐
(
ヤボサ
)
とは祖先の墓地を意味してゐる樣である。
(在文責筆者。)
壹岐の「
籔佐
(
ヤボサ
)
」に就いては、曩に後藤守一氏が『考古學雜誌』に寫真を入れて記載された事が有るので
〔
三
〕
、私は後藤氏から
寫真の種板
の惠與を受くると共に、「
籔佐
(
ヤボサ
)
」の墓地である事──然も原始的の風葬らしい痕跡の有る事迄承つてゐた事が有る。而して更に近刊の『對馬島誌』を見ると、矢房、山房、氏神山房、天臺矢房、
慳
(
ヤフサ
)
神等の神名が、狹隘な同地としては驚く程多數に載せて有る。又『日向國史跡報告』に據ると、同國に產母神社をヤブサと訓ませた物が見えてゐる。更に此事を琉球出身の伊波普猷氏に話した所、琉球には「
籔佐
(
ヤボサ
)
」と書いた地名が在ると教へてくれた。
私は甚だ早速であるが、是等の神名や地名を手掛りとして、此「
籔佐
(
ヤボサ
)
」信仰は、古く壹岐・對馬・日向・琉球へ掛けて一帶に行はれた物で、然も其信仰對象は墓地であつて、即ち祖先の靈魂を身に憑けると云ふ事が信仰の起源であらうと考へて見た。而して其靈魂を身に憑けるとは、後世の巫女が好んで墓地の土で呪術の源泉としての人形を造る事の先驅を為してゐるのでは無からうかと想像して見た。巫女の持てる人形の造方や、其の材料や、此種の人形が如何なる呪力を有してゐたかに就いては、後章に詳述する機會が有るので、茲には餘り深く言ふ事を避けるとするが、兔に角に墓地の土──殊に祖先を埋めた土には、祖先の靈魂の宿つてゐる物と信じて、
(後世に成ると支那の巫蠱思想や呪術の影響を受けてゐるが。)
其を所持し、憑神として呪術は此れが教示す物と考へてゐたのではあるまいか。『
神武紀
』に
椎根津彥
と
弟猾
の二人が、
(折口氏の高示に據ると弟猾は女性だとある。)
天香山の土を取つて天平瓮を造りて戰勝を祈つたのも、
(此呪術に就いては
第四章第四節
に述べる。)
香山は古く墓地であつたので
〔
四
〕
、殊に此山の土が擇ばれたのでは無からうか。
產土の語源に就いては昔から異說が有るも
〔
五
〕
、民間語源說ではあるが、「產れた里の社の土」と云ふ說も、決して輕視する事は出來ぬのである
〔
六
〕
。こんな事を種種と想ひ合せると、古代巫女の憑神は、祖先の靈魂であつて、然かも其靈魂は祖先を埋めた墳墓の土で象徵されてゐた樣に考へるのである。
然るに、文獻上から見ると、巫女は古くから「卜庭二神」として太詔戶神と櫛真知神とを私の謂ふ憑神の意味で奉持してゐた樣に考へさせるのである
〔
七
〕
。併しながら、私の信ずる所では、前者の太詔戶神は祝詞の神格化された者、後者の櫛真知神は波波加木の神格化された者の樣に考へられるし、殊に此兩神は巫女の神と云うよりは、男覡の神として見るべき者の樣に思はれる。而して其詳細は、次の
第三章
に記述する故參照を乞ふとするが、私にはさう考へる事の決して無稽で無いと信じられる點が存するのである。
巫女の憑神も時勢と共に推移るのは當然である。古い巫女の面影を濃厚に殘してゐると思はれる奥州の
巫女
(
イタコ
)
の憑神は、十三佛中の一佛であり、飯綱遣ひとか、稻荷下げとか言はれた巫女の憑神は狐であつた。犬神、貓神、蛇神の如きも、悉く巫女の憑神として發生した物に外成らぬのである。
〔
註第一
〕神道學者の中には、氏神と祖靈神とを區別して說く論者も有るが、私には此區別は發達的には言得るかも知れぬが、發生的には無意味だと考へてゐる。
〔
註第二
〕江戶期の隨筆物に此種記事が見えてゐるが、當然、口寄の市子に聞いて見るも、死靈は氏族の者へで無ければ憑らぬと言うてゐる。
〔
註第三
〕
籔佐
(
ヤボサ
)
の語源に關して二三の學友に尋ねて見たが、遂に要領を得無かつた。併し其が墓地である事だけは疑ひ無い事實である。
〔
註第四
〕天香山が墓地である事は、古く藤貞幹が『衡口發』で論じてゐる。私は卓見だと考へてゐる。
〔
註第五
〕新村出氏の『
產土
(
ウブスナ
)
考』が中央公論に發表されたが、私は單に言語學の方面から論斷する事は、多少の危險が伴ふ事と感じてゐる。產土神社の、土なり、砂なりを所持して、除災する土俗は、古くから廣く行はれてゐた樣である。
〔
註第六
〕或る神社の土なり砂なりを住宅の周圍に撒いて招福の呪法とした事も、又相當に古い民俗である。詳細は『鄉土趣味』に拙稿「砂撒き」と題して發表した事が有る。
〔
註第七
〕『
延喜式
』に載せてある。
[久遠の絆]
[再臨ノ詔]