日本巫女史 第二篇:習和呪法時代


  • 第六章 巫女の社會的地位と其生活

    • 第一節 歌舞音樂の保存者としての巫女

       神懸りに於いて舞踊を發明し、歌謠の源流である敘事詩を生んだ巫女が、更に是等を發達に導き、併せて其保存者と成るべき地位に置かれるのは、寧ろ當然の歸結である。神遊び(後の神樂。)は、時勢の降ると共に、漸く複雜化せるも
      〕、猶ほ遊びの前後に阿知女(アチメ)の作法を行ふ程の用意を忘れず、歌謠(カエウ)神樂歌(カグラウタ)より、催馬樂(サイバラ)今樣(イマヤウ)風俗(フウゾク)と多くの種目を加へたけれども、其歌手は概して巫女か、(ソレ)で無ければ巫女から出た歌女(カメ)と稱する者であつた。併しながら、時勢の發達は、舞踊や、歌謠を、何時(イツ)迄も巫女の手に委ねては置かず、其其(ソレゾレ)專門の者を出す樣に成つたが、(ココ)には其過程に就いて記述する。


        一、歌占(ウタウラ)の發達と巫女の詩人的素養

         古代に於ける巫女の託宣が、俗談平語を離れて、律語(リツゴ)的に、且つ敘事詩的に發せられるのを常としたが、此傾向は、漸次に歌占(ウタウラ)と稱する歌謠の形式を以て行はれる樣に成つた。
        前載 の、惠心僧都が金峯山に巫女を訪ねた時に答へたる物が、(ソノ)一例であるが、更に『平治物語』に鳥羽法皇が熊野へ參詣し、

           權現を勸請し奉らばやと思召て、(マサ)しき巫女やあると仰せければ、山中無雙の巫女を思召す、御不審の事有り、占申せと仰せ有りければ、權現(スデ)(オリ)させ(タマ)へりと云へる所の事を、(中略。)半井本には、巫、法皇に向進らせて、歌占を出したり、「手に(ムス)ぶ水に宿れる月影は、有るか無きかの世には在けり。」と有りて、下文にさて云云と申立てば、巫女取敢(トリアへ)ず、「夏は弦扇(ツルアフギ)と秋の白露(シラツユ)と、(イヅ)れか(サキ)に置まさるべき。」夏の終秋の始とぞ仰せられける。

         と有るのも、又其である〕。更に『安居院神道集』に、『和歌抄』を引用して、左の如き記事が有る。

           白河院御時、御兩所市阿波ト云御子を召、御□□(紙魚不明)云事ハ何樣ナル事アラント、銀壺ニ乳ヲ入テ、此ヲ亦物ニ入ツ、蓋ヲシテ、帝ト后トノ二人御心ニテ、亦人ニ不知之、サテ此中ナル物ヲ占ヘト、御子ノ前ニ差出ケレバ、度計(シバラク)跟蹡ナル歌占ニ、「(シロカネ)(ツホ)(ナラ)ヘテ水ヲ入ハ、(フタ)シテ(カタ)ク見ルヘクモ()シ。」ト、□出、御淚ヲ流給テ□□(紙魚不明)勇事哉ト思食サレタリケリ、□□(紙魚不明)銀共ヲ賜ハリケリ。(宮內省圖書寮本。)

         斯く巫女が、託宣を歌謠の形式を以て表現する樣に成つたのは、巫女の傳統的因襲の外に、歌謠の流行した事を併せ考へ無ければ成らぬ。私は曾て自ら揣らず、「我國神詠の考察」と題する剪劣なる管見を發表した事が有るが〕、代代の敕撰歌集を讀んで見て、平安朝以降に於いて、神神の詠歌と稱する物の遽かに增加した事は、注意すべき點である。熱田・賀茂・住吉・大神(ミワ)の各神を始めとして、神託の形式を殆んど和歌に假りてゐるのである。而して此流行(?)は、佛教方面にも取入れられて、又た盛んに(コレ)が利用されてゐるのである〕。勿論、私は是等の神詠なる物が、巫女に依つて假作された物である等とは、夢にも考へてゐぬ所であるが、斯うした和歌流行の世相は、巫女を驅つて歌人的素養を深からしめた事だけは言ひ得る物と信じてゐる。更に一口に、巫女と云つても、其中には自から階級が有り、名神大社に仕へる者と、叢祠藪神に仕へる者との間に、出自・品性・素養の相違有る事は言ふ迄も無いから、高級者にあつては、短歌や、今樣(グライ)は、平生の嗜みとしても、作り得らるるだけの用意は有つたらうが、(ソレ)にしても巫女をして詩人()らしめる世相の存した事は看取される。
         然るに、此託宣を歌謠を以てする事が、固定する樣に成れば、其歌謠を以て直ちに神意を占事(ウラナフコト)に利用されるに至つた。換言すれば、曾て巫女に依つて制作された歌謠、又は神詠(シンエイ)と稱する歌謠、若しくは其他の歌謠の或る數を限り、此中(コノウチ)の何れかを取り當てた物に由って、(即ち後世の御籤に似た物。)吉凶を判ずると云ふ信仰を生む樣に成つた。『長秋記』長承二年七月六日條に、

           自女院被仰云:「七月七日當庚申時,於乞巧奠前,不論男女,七人會同,各書舊歌百首,都合為一卷,用歌占。如指不違。云云。

         と有るのは、即ち其一例で、然も是が民間に移されて、七夕の星祭に、歌占を以て男女の緣を結ぶ民俗に迄成つたのである〕。(神判成婚の意。)而して更に此信仰の最も通俗化した物が、謠曲の『歌占』と稱する方法である。(コレ)に關しては、『參宮名所圖會』卷下にも記載が有るので、彼之(カレコレ)を參酌要約すると、概ね左の如き物であつた事が知られるのである。
         伊勢國度會郡二見鄉三津村に、度會家次(謠曲に有る歌占の發明者と云ふ。)の子孫なる者があつて、家號を北村と稱し、此者が歌占の弓と云ふ物を持傳へてゐた。即ち長さ三尺(バカリ)の丸木弓の握柄を赤絹にて纏き、上を絲で卷き、其弓の本末に短冊一枚づつ付けて、本には、「神心、(タネ)とこそ()れ歌占の。」と書き、末には、「()くも白木(シラキ)手束(タツカ)(カナ)。」と記し、別に弓弦に短冊八枚を付け、(コレ)に下の如き歌一首づつ書き付けて有る。

        • 增鏡(マスカガミ)(ソコ)なる(カゲ)に、(ムカ)()て、()らぬ(オキナ)に、()心地(ココチ)する。(中山曰、拾遺集の歌也。)
        • (トシ)()て、花鏡(ハナノカガミ)と、()(ミヅ)は、()()かるをや、(クモ)ると()ふらむ。(同上、古今集 044。)
        • 末露(スヱノツユ)本雫(モトノシツク)や、世中(ヨノナカ)の、後先絕(オクレサキタ)つ、(タメシ)なるらむ。(同上、新古今集 757。)
        • 物名(モノノナ)も、(トコロ)()りて、(カハ)りけり、難波(ナニハ)(アシ)は、伊勢(イセ)のは濱荻(ハマヲキ)(同上、蒐玖波集。)
        • (ウグヒス)の、卵中(カヒゴノナカ)の、霍公鳥(ホトトギス)、しゃが(チチ)()て、しゃが(チチ)()(同上、萬葉集長歌 1775 の一節。)
        • 千早振(チハヤブル)る、萬神(ヨロヅノカミ)も、聞食(キキシメ)せ、五十鈴川(イスズノカハ)の、(キヨ)水音(ミヅオト)(同上、出所不明。)
        • (キタ)()に、(ミナミ)(アオ)く、東白(ヒガシシロ)西紅(ニシクレナヰ)に、染色山(ソメイロノヤマ)(同上、同上。)
        • ()れて()す、山路(ヤマヂ)(キク)の、(ツユ)()に、散初(チリソメ)ながら、千代(チヨ)()にけり。(同上、古今集 273。)

         斯うした短冊の一枚を依賴者に取らせ、其歌の文句に依つて判斷するのであつて、後世の御籤と云ふ物と、全く同じ方法に過ぎぬのである〕。謠曲の『歌占(ウタウラ)(カヒコ)の中の時鳥。」と云ふ短冊を引き、さては親を尋ねるのだなと占うてゐる所を見ると、其方法も、解說も、極めて淺薄な物であると同時に、如何にも室町期の中頃に行はれさうな物であつた事が知られるのである。


        二、複雜せる巫女と傀儡女(クグツメ)との交涉

         巫女の工夫した神體としての木偶を、巫女の手から奪つて、木偶を舞わせる事を獨立的に發達させ、傍ら賣笑を兼ねた者が、即ち傀儡女(クグツメ)である。從つて古代に遡り、源流を究むる程、巫女と傀儡女との境界は朦朧として、一身か異體か、全く區別する事の出來ぬ程の親密さを有してゐるのである。前述の東北地方の一部で、今に巫女を傀儡(クグツ)と稱してゐるのは、良く古俗を殘した物であつて、又其親密さを、良く明らめてゐるのである。
        藤原明衡の『新猿樂記』の左の一節の如きは、明白に此間の消息を傳へてゐるのである。

           四御許者覡女也。占卜、神遊、寄絃(ヨリツル)口寄(クチヨセ)之上手也。舞袖飄颻如仙人遊,歌聲和雅如頻鳥鳴。非調子琴音,而天神地祇垂影向,無拍子鼓聲,而□□(紙魚不明)野干必傾耳。仍天下男女繼踵來,遠近貴賤成市舉。熊米(クマシネ)積無所納,幣紙集不遑數。尋其夫,則右馬寮史生,七條已南保長也。姓金典(カナツメ),名百成,鍛冶鑄物師并銀金細工也〕。云云。(以上、群書類從本。)

         同書は、人も知る如く、藤明衡が、當時(平安期中葉)西京の猿樂師右衛門尉一家の、三妻、十六女、九男に託して、世相の一端を記した物であるから、直ちに其悉くが事實也とは斷ぜられぬけれども、內容は明衡が耳聞目睹した物と思はれるので、大體に於いて信用する事が出來る樣である。而して此記事に由れば、卜占、神遊、寄弦、口寄等の呪術を行ふに際し、舞袖は仙人の遊びの如く、歌聲は頻鳥の鳴くに似て、琴音は神祇を影向させ、皷聲は野干の耳を傾けさせるとは、かなり形容が誇張に過ぎてゐる樣ではあるが、殆んど巫女か、舞伎か、更に傀儡女であるか、寔に其識別に苦しむ程の物が存するのである。試みに、下に大江匡房の『傀儡子記』の一節を抄錄して、如何に兩者の內的生活が近似してゐたかを證示する。

           傀儡子者,無定居、無當家,穹廬氈帳,逐水草以移徙,頗類北狄之俗。(中略。)女則為愁眉、啼粧,折腰步,齲齒咲,施朱傅粉,倡歌淫樂,以求妖媚。(中略。)夜則祭百神,鼓舞喧嘩,以祈福助。(中略。)動韓娥之塵,餘音繞梁,聞者霑纓,不能自休。今樣、古川樣、足柄片下(アシガラカタオロシ)(中山曰、是に關しては後に述べる。)催馬樂、黑鳥子、田歌、神歌、棹歌、辻歌、滿固、風俗、咒師、別法士等之類,不可勝計。即是天下之一物也,誰不哀憐者哉。(以上、群書類從本。)

         彼と之とを比較する時、巫女は神事を表面の職業とし、傀儡女は唱歌滛樂を世渡りの職業としただけの區別は有るが、其內(ソノウチ)的生活に至つては、殆ど相擇む物無迄の交涉を有してゐる。殊に、傀儡女が得意とした今樣、足柄片下、催馬樂、田歌、辻歌等の總ての歌謠は、悉く元は巫女の得意とし、且つ歌ひ出した物であるのを、後に傀儡女が之を以て獨立した職業に移した迄なのである。其故(ソレユヱ)に、巫娼史の觀點より言ふ時は、巫女と傀儡女とは同根の者であつたのが、巫女は神に仕へる古き信仰を言ひ立てて糊口の料とし、傀儡女は神を離れ、(併し全く離れきれぬ事は百神を祭る點からも察せられる。)信仰を棄てて、倡歌と賣笑とを、渡世の業とした區別にしか過ぎぬのである。『和訓栞』に、「舞舞虫(マヒマイムシ)を、(中山曰、東京邊の水()まし蟲。)備前美作に巫女舞(ミコマヒ)、東四國にて巫女(イタコ)蟲と云ふ。」と有り、更に備前邑久郡にては、巫女の事をコンガラサマと云ふのは、同じく水()まし蟲の事を、コンガラと稱するより出でし方言で〕、共に、巫女が此蟲の如く跳ねたり、踊つたりするので、其動作より形容した物である。併し此一事は、巫女の古き呪法に巫道(シャマニズム)の跳躍方面を多分に存してゐ事とを想わせると同時に、後には此方面と、(コレ)に伴うた歌謠とを傀儡女に持去られ、纔に佛法や修驗道に寄生して、殘喘を保つ樣に成つたのである。


        三、巫女と遊女と傀儡女と

         我國には、古く神神が、定期又は臨時に、人里に天降(アモ)りして、氏子の間に神意を啟示する民俗が有つた。琉球では近年迄此事が克明に行はれてゐた。曲亭馬琴の『椿說弓張月』に引用した『琉球事略』に載せて有る所謂キミテスリの祭は、必ず十月であつて、七年に一回の荒神、又は十二年に一回の荒神が有り、遠國島島一時に出現す。其年八・九月の頃から、前兆として山山の峯にアヲリ天降(アモ)りの意?)と云ふ雲氣が現はれ、十月に神が出現すれば、託女王臣各各鼓を打ち、歌詠ひて神を迎ふ。王宮の庭を以て神の至る處と為し、大なる傘二十餘を立つと有る。更に『德之島小史』には、此光景を一段と精細に記述して、祭典にはカンギヤナシ(內地の巫女と同じ。)が各各珍絹を頭に被り、筒袖の白衣を著し、珠玉(內地の曲玉と同じ。)を纏ひ、恰も天神の天降りに擬す。(コレ)に隨屬せる少女をアラホレ(見習巫女とも云ふべき者。)と稱して、十二歲乃至十六歲の無垢神聖の者を以て充つ。アラホレも亦、振袖の白衣を著し、袴を穿ち、頭には鴛鴦の思ひ羽、或は鷺の寸羽を翳し、日陰蔓を以て鉢卷き()し、大小五色に編み()せる曲玉粒玉の襷を掛け、手には或は軍配團扇の如き物(檳榔葉製。)を持ち、或は長刀を攜へて舞を為す。此時、一種異樣の鈴響き(琉球本島では鉦。)が微かに聞ゆるかと思へば、(コレ)ぞ神の出現する時だと云つてゐる。而して此民俗に共通した神事の、我が古代に在つた事は、誠に微弱ながらも、推知し得べき資料が存してゐるのである
        〕。是即(コレスナハチ)賓神(マラウドカミ)」であつて、人里に大事が起る前とか、又は祭典の折等には、天降りますのが常であつた。殊に、歲旦とか、田植とか、刈上げとか云ふ節節には、(我國の節供の起源は(コレ)である。)氏子を祝福し、作物を豐穣にするために「壽詞(ヨゴト)」を下すのを習ひとした。而して此壽詞を傳誦してゐて、或る場合には、神神の代理者(古代は(コレ)を神其の者と考へてゐた。)として述べるのが、巫女の聖職の一つであつた。
         此信仰と神事とは、國初期から奈良朝迄は嚴存してゐたのであるが、奈良朝の中頃からは、神神の正體が知られて來ると同時に、漸く衰へ始めて〕、此壽詞の言立てをする一種の營業者とも云ふべき物が生れる樣に成つた。(コレ)が『萬葉集』に見えてゐる「乞食者(ホカヒビト)」であつて、彼等は年の始めの吉慶に、家屋の新築の棟祝ひに、更に旅行の無事を祈る餞別、或は災危を拂ふ呪願等を、當時の美辭麗句で綴り舉げて、其を旋律的(リズミカル)の調子で歌ひ步いて、世過ぎの料とした十一〕。後世の、千秋萬歲(センズマンザイ)物吉(モノヨシ)大黑舞(ダイコクマヒ)等は、悉く此賓神と祝言人との系統に屬してゐるのである。
         古く我國の巫女が、好んで鼓を攜へてゐたのは、此壽詞を唱へる折に必要であつた為である。鈴も、琴も、鼓も、其古き用法の意味は、神の御聲としての象徵であつた。曾て鳥居龍藏氏から承つた所に依ると、我國の(ツヅミ)と云ふ語は、ウラルアルタイの語系に屬し、蒙古・滿洲・朝鮮・我國とも、同語源であるとの事である十二〕。さうすれば、鼓は巫道(シャマニズム)と共に北方から輸入された物であつて、巫女の神を降すに缺く事の出來ぬ樂器であつたとも考へられる。『梁塵秘抄』には、巫女と鼓との關係を詠じた物が尠からず載せて有る。
         金峰山(カネノミタケ)に在る巫女(ミコ)の打つ鼓。打上げ打下げ面白や。我等も參らばや。ていとんとうとも響き鳴れ。如何に打てばか此音の。絕えせざるらん。
         殊に、此處に舉げた物等は、兩者の交涉を良く說明してゐるものである。更に『東北院職人歌合』の巫女條に、嫗の雙手に鼓を持てる繪に對して、「(キミ)()が、(クチ)()せても、()まほしき、(ツヅミ)(ハラ)も、打敲(ウタタ)きつつ。」と有るのも其一例であつて、巫女と鼓とは離るる事の出來ぬ間柄であつた。然るに、此巫女と深甚なる關係を有してゐる──即ち巫娼一體の境地に在つた遊女が、やがて、此鼓を巫女の手から奪つて自分の物として(シマ)ひ、同じく『梁塵秘抄』に有る如く、

           (アソビ)女の好むも雜藝(中山曰、後世の今樣。)鼓、小端船(コハシブネ)、大傘(カザ)艫取女(トモトリメ)、男の愛祈(アイノ)百太夫(ハクダユウ)

         と成るのである。斯くて巫女は、歌謠を傀儡女に持去られ、鼓(樂器としての。)を遊女に委ねば成らぬ樣に成つたのである。古い信仰が世の降ると共に影が薄く成り、曾て存した物が樣樣に分化して、世に推し移つて行く有樣が偲ばれるのである。巫女が社會の落伍者として、生存の競爭場裡から置いてきぼりにされたのも、決して偶然では無かつたのである。
         併しながら、傀儡女や遊女に、歌謠や樂器を渡す以前に在つては、音樂と歌舞との保存者は巫女であつた。前揭の『傀儡子記』に有る足柄片下(アシガラカタオロシ)とは、即ち足柄(相模國)明神の傳へた神歌なのである。『郢曲抄』に據れば、

           足柄は神歌にて、風俗と云へども其品替る也。(中略。)足柄明神の神歌故に、風俗と云へども其の音有り。

         と記し、更に高源光行の『海道記』には、

           彼山祇(ヤマズミ)の昔の歌を、遊女(中山曰、巫娼の意。)が口に傳へ、嶺猿の夕の啼は、行人の心を痛ましむ。昔青墓(美濃國)の宿の君女、此山を越えける時、山神翁に化して歌を教へたり。足柄と云ふ是也(コレナリ)

         と有る樣に、神歌を傳へた物は巫女であつた。(コレ)を後に殘した物が遊女なのであつた十三〕。斯く考へて來ると、巫女と、傀儡女と、遊女とは、一元から出發した物で、然も此三角關係が意外に複雜してゐるのも道理である事が知られるのである。

        • 註第一〕神遊びの後身が直ちに神樂であると云ふ說には、多少の疑義が有る事と思ふが、私は屢記の如く、神樂は古く葬禮にのみ限つて行はれた物と考へてゐるので、姑らく此說を支持したいと思ふ。
        • 註第二〕伴信友翁の『正卜考』後附に據つた。流布本の『平治物語』にも有るが、半井本と多少の出入が有るので、今は之に從つた。
        • 註第三〕國學院大學の鄉土會で講演した事が有る。誠に拙き物ではあるが、神詠なる物が、平安朝に成つてから、急に增加した事は、我國の託宣史上、注意すべき點である。
        • 註第四〕『野守鏡』の序文に、神佛の詠まれた和歌の多くが載せて有るが、更に『新古今集』の神祇部と、釋教部とにも多く載せて有る。
        • 註第五〕拙著『日本婚姻史』に、神判成婚の一例として舉げて置いた。敢て參照を望む。
        • 註第六〕我國の御籤なる物も相當に古い物で、『齊明紀四年十一月條に、「短籍」と有るのが(ソレ)で、降つては『吾妻鏡』脫漏元仁二年三月卅一日條、及び『明月記』貞永二年正月廿一日條等に見えてゐる。
        • 註第七巫女(シャーマン)教に於ける巫女と、鍛冶職との關係に就いては、有賀右衛門氏が『民族』誌上に高見を發表されてゐる。我國には、是等の關係を考覈すべき資料が殘つていぬが、偶偶『新猿樂記』に此一事が見えてゐる。(コレ)は遇然の事であらうが、參考迄に言ふとした。
        • 註第八(コレ)總論第一章第一節に舉げて置いたので、報告者の氏名は略すが、兔に角に、昔の巫女は甚だしく跳ねたり踊たりした物と見える。今に見る神樂巫女の動作だけでは、斯かる俚稱は起らうとも思はれぬ。
        • 註第九〕折口信夫の談に依ると、鈴木重胤翁の『祝詞講義』の大殿祭條に引用した文獻に、其を考へさせる物が有るとの事である。
        • 註第十〕『山原の土俗』に神を捕へる話が二つ載せて有る。そして捕へた神は巫女であつて、殊に其一つには、捕へた男の母が神の中に加つてゐたとの事である。
        • 註十一〕此條は折口信夫氏の研究を其のまま拜借し、且つ祖述した物である。明記して敬意を表す。
        • 註十二〕星野輝興氏が主催されてゐた祭祀研究會の講演で承つた物である。
        • 註十三〕『更級日記』に、足柄山で遊女が歌を謠つた事が載せて有るが、或は(コレ)は神歌の面影を傳へた物では無からうかと思はれる。全文は有名な物故、態と省略した。


    • 第二節 巫女の給分と其風俗

       巫女の給分及び其收入等に就いては、神社に附屬せる神和(カンナギ)系の神子と、町村に土著せる口寄(クチヨセ)系の市子とに區別して記述するのが正當であるが、私の寡聞の為、前者に關しては多少の資料を有するも、後者に關しては全く知見する所が無いのである。其處で止む無く、茲には前者に就いてのみ記し、後者に就いては假定を述べて、後人の大成に俟つ事とする。
       伊勢の齋宮、賀茂の齋院は、普通の巫女と申上げる事は出來ぬので今は省くが、先づ宮中に於ける御巫、巫等に就いては、(一)一定の給分と、(二)臨時の給分とが有つた。而して一定の給分に就いては『
      延喜式卷三に、「其新任御巫,皆給屋一宇。【長二丈,庇二面長各二丈。】」と有つて、現今成れば、官舍とも云ふべき物を給り、外に、「凡諸御巫者,各給夏時服絁一疋。冬不給。其食人別日白米一升五合,鹽一勺五撮。」と有る。併し、(コレ)等の給分は、誠に寡少の物であつて、金額に見積れば、實にお話に成らぬ程であるが、要するに、宮中に於ける御巫や、巫等は、神神に仕へる聖職であり、且つ無上なる名譽でもあつたので、餘り物質上の事等は苦にせぬ人人であつたに相違無い。殊に、宮中の事は、九重雲深くして詳細に漏れ承る事は出來ぬが、(コレ)等の御巫や巫等は、世襲的に奉仕した者と察せられるので、旁旁、其給分の如きは、問題とされてゐ無かつたであらう。然るに、(コレ)に反して、臨時的の給分にあつては、其祭儀により、元より一樣では無いが、相當の收入と成つた樣である。『延喜式』に散見する所を要約して、左に記載する事とした。

      • 春日神四座祭
        • 齋服料
          • 物忌一人料,夾纈(カフケチ)帛三丈五尺,羅帶一條,紫絲四兩,錦鞋一兩。【已上封物。】錦二條,【一條長三尺五寸,一條長六尺,並廣四寸。】絁三疋二丈九 尺,綠絁一疋,紗七尺,韓櫛二枚。紅花一斤二兩,東絁三尺五寸。綿三屯半。攴子五升。云云。(中略。)

        • 右,祭料依前件,春二月、冬十一月,上申日祭之。(中略。)其物忌一人食,日白米一升二合,鹽一勺二撮。云云。(以上、卷一、四時祭上。)

      • 大原野神四座祭
        • 齋服料
          • 物忌二人,別夾纈帛、淺綠帛各三丈,絁一疋二丈五尺,帛一疋五丈六尺五寸。表裙(ウハモ)一腰,帶一條,(ハナダ)帛二丈四尺,緋帛一丈五尺,紫絲二兩,綿四屯,東絁三尺五寸,履一兩,紅花五兩,攴子(クチナシ)五升。御巫一人,絁一疋,淺綠帛一匹,綿二屯,表裙一腰。物忌御巫,別綠絁一疋。備供神物女孺一人,絁一疋,綿二屯,調布一端,表裙一腰。云云。(同上。)

      • 平岡神四座祭
        • 齋服料
          • 物忌一人裝束,絹四疋九尺,夾纐絁三丈五尺,綿三屯六兩,錦九尺五寸,紗七尺,紅花一斤三兩,攴子五升,錦鞋一兩,紫絲四兩,韓櫛二枚。云云。(同上。)

      • 松尾祭
      • 平野神四座祭【今木神、久度神、古關神、相殿比賣神。】
        • 齋服料
          • 物忌(オホギミ)氏夏絹五疋,【冬加一疋。】綿十屯,紅花小六斤,錢一貫六百卅文,【冬料准此。】(ヤマト)氏、大江氏,並夏別絹二疋,【冬加一疋。】綿三 屯,紅花小三斤,錢六百卅文。【冬料准此。】云云。(同上。)

      • 大殿祭【中宮准此。】
      • 忌火、庭火祭【中宮准此。】
        • 供奉神今食御巫等裝束。【十二月不給。】
          • 御巫,絹四疋,絁一丈一尺,綿二屯,細布六尺,紅花六斤。錢百卅文。【中宮御巫亦同。】座摩(ヰカスリ)、御門、生島、東宮巫,各絹三疋,絁各九尺,綿一屯,細布六尺。紅花一斤。錢百卅文。

        • 供奉神今食人等祿
          • (前略。)御巫,絹三疋。【中宮御巫亦同。】座摩、御門、生島、東宮巫,各二疋。同上。)

      • 鎮魂祭【中宮准此,但更不給衣服。】
        • 官人以下裝束料【中宮宮主准此。】
          • (前略。)御巫。【中宮、東宮御巫准此。】御門巫一人,生嶋巫一人,各青摺袍一領。【表裏別帛三丈。】綿二屯,下衣(シタカサネ)一領。【表裏別帛三丈。】綿二屯,單衣(ヒトへ)一領,【帛三丈。】表裼一腰,【表裏別帛三丈,腰料一丈。】綿二屯,下裙一腰。【表裏別帛三丈,腰料一丈。】袴一腰,【帛三丈五尺。】綿二屯,單袴一腰,【帛二丈。巾也,又言被。】(ウチカケ)一條,【帛二丈。】(ヒラミ)一條,【緋帛四丈。加裳上者也。】紐一條,【錦三丈。】髻髮并襪料細布一丈,領巾紗七尺,櫛二枚,履一兩。座摩巫一人,青摺袍一領,【表裏別帛二丈五尺。】綿一屯,下衣一領,【表裏別帛二丈五尺。】綿一屯,單衣一領,【帛二丈五尺。】表裾一腰,【表裏別帛三丈。腰料一丈。】綿一屯,下裙一腰,【表裏別帛三丈。腰料一丈。】袴一腰,【帛一丈五尺。】綿一屯,單袴一腰,【帛一丈。巾也。】帔一條,【帛一丈。】褶一條,【緋帛一丈五尺。】紐一條,【錦一尺。】領巾六尺,襪料細布五尺,履一兩。(以上、卷二、四時祭下。)

       以上の祭儀を一一詳述して、御巫及び巫等の職掌を細說し、而して是等の給分の事を說明すべきであるが、さう克明に涉らずとも、大體は會得される事と信じたので省略した。而して、伊勢の兩皇太神宮に於ける物忌の定員、及び給分等は、『延喜式卷四に據ると、大略左の如き物である。

      • 太神宮三座。【在度會郡宇治鄉五十鈴河上。】
        • (前略。)物忌九人。【童男一人,童女八人。】父九人。云云。

      • 荒祭宮一座【太神荒魂,去太神宮北二十四丈。】
        • 內人二人。物忌、父各一人。

      • 度會宮四座【在度會郡沼木鄉山田原,去太神宮西七里。】
        • (前略。)物忌六人,父六人。云云。

      • 多賀宮一座【豐受太神荒魂,去神宮南六十丈。】
        • 內人二人。物忌、父各一人。

      • 九月神嘗祭【但朝庭幣數在內藏式。】
        • 太神宮
          • 禰宜,大物忌二人,各絹三疋、綿三屯。(中略。)宮守、地祭、鹽燒物忌等三人,各絹一疋 三丈、綿一屯。大物忌、宮守、地祭、鹽燒物忌等父四人,并清酒、酒造、山向、瀧祭、土師器作物忌等五人,并父, 及御笥作、木綿作、忌鍛冶、陶器作、御笠縫、日()御巫、御馬飼內人二人,等九人,各絹一疋、綿一屯。
        • 荒祭宮
            (前略。)物忌一人。絹一疋三丈。綿一屯。云云。
        • 度會宮
            (前略。)大物忌一人,各絹二疋、綿二屯。御炊、鹽燒物忌等二人,各絹一疋三丈、綿一屯。根倉、菅裁、土師器作物忌等三人,并大物忌、御炊、鹽燒、根倉、菅裁、土師物忌等父六人,及木綿作、御巫、忌鍛冶、御笠縫、陶器作、御笥作、御馬飼內人二人,等八人,各絹一疋、綿一屯。云云。(中山曰、(コレ)は僅に其一節を舉げた物、詳しくは本書に就いて見られたい。)

       祭儀の行はれる每に、伊勢兩宮の物忌は、臨時の給分を受けた事は、以上の一例を以て知る事が出來るが、更に一定の給分としては、同じ『延喜式卷四に、「物忌,太神宮四人,度會宮三人,給年中食料、日各米八合。」と有り、猶ほ三節祭の直會には、「物忌汗袗一領。」を給する事と成つてゐた。(コレ)も宮中の御巫等と同じく、給分としては、誠に些少の物であるが、併し大物忌は、荒木田氏の女に限り、其他の物忌も、各各家筋が限られてゐた程の名譽の職掌とて、物質上の問題等はどうでも宜いと云ふ境遇であつた樣である。而して後世に、此物忌(モノイミ)御子良(オコラ)と改り、物忌父(モノイミノチチ)母良(モラ)と改まる樣に成ると、神領の(ウチ)から其其(ソレゾレ)一定の給分を與へた物と見えて、『神鳳抄』に左の如き記事が散見してゐる。

            諸神田注進文(建久四年云云。)

      • 安濃郡
        • 重昌神田,宮守子良神田五段云云。
        • 中萬神田,十一町之內二町五段之宮守子良神田。
        • 一町七段百八十步,大物忌子弘,子良粮料。
        • 二町五段在安東郡,大物忌父季貞神主,子良衣粮料。
        • 一町五段在安西郡,同季貞神主,子良衣粮料。
        • 三町七段在安西郡,大物忌父光兼,子良衣粮料。
        • 一町四段在安西郡,大物忌父氏弘,子良衣粮料。

      • 伊勢國安西郡
        • 母良神田、【一丁三反大。】子良神田、【四丁餘。】(中略。)舘母神田。

       『神鳳抄』は、源賴朝が鎌倉に覇府を開いた折に、伊勢神領の整理をした記錄であるが、(コレ)に由ると、物忌・子良の給分は、相當に豐富であつた樣に考へられる〕。併し、コレ()以外の神樂料等の雜收入が、如何に是等の者に配分されたかは、遂に寡見の及ばぬ問題である。
       宮中及び伊勢の御巫・物忌等の給分に就いては、極めて概略の記述を試みたが、さて(コレ)以外の、賀茂・春日・八幡・熱田等の大社に附屬してゐた巫女の給分はどうであつたか、(コレ)は各神社の古記錄を仔細に檢討したら、容易に知り得らるる事と思ふが、今の私としては此容易の問題を詮索する餘裕を有たぬので、誠に申譯の無い次第ではあるが、觸目した資料だけを揭載し、一臠を以て全鼎の味を推す事とする。而して既述した宇佐八幡宮の巫朝臣杜女に從四位下を授け、(コレ)に伴ふ封戶を賜つた事は元より例外であるが、普通の巫女の給分は大體に於いて尠少であつた樣である。『延喜式』卷卅五大炊寮條に、「松尾社物忌一人,料米三斗六升。【小月,三斗四升八合。】」と有るが、(コレ)は日割にすれば、一升二合にしか當らず、然も小月には一日分を控除するとは、かなり手嚴しい待遇と云は無ければ成らぬ。更に『三代實錄』には、巫女の給分に關する記事が二箇所程見えてゐるが、第一は貞觀十二年六月二十七日條に、「松尾神社物忌一人、充日【○一本作月。】粮,立為永例。云々。」と有るが、恐らく、前揭の給分が一時的であつたのを、定制とした迄であらう。第二は、元慶三年閏十月十九日の條に、「伊勢高宮物忌,准諸宮物忌,永充月粮,以神封物給之。」と有るのも、他の物忌に准ずとあれば、同じく食米を給せられる程度であつたと見て大過無い樣である。
       (コレ)では如何に物質に緣遠き聖職に在る巫女であつても、其日の生活にも追はれがちではあるまいかと想像されるが、神神に仕へ、信仰に活きる者には、又た相當の收入が在つた樣である。(コレ)に就いて、既述の攝州廣田・西宮の兩社に仕へて、五十年の神職生活を送られた吉井良秀翁が、其著書『老の思ひ出』に載せられた「平安末期に御巫が置かれて有つた事」と題せる一節は、良く廣西兩社の巫女の臨時收入の點を明かにし、且つ一般の巫女の生活にも觸れてゐる所が多いので、左に(コレ)を轉載する事とした。

         此頃(コノコロ)巫女(ミコ)等云ふと、洵に卑い樣に思はれるが、昔は決してさうで無い。宮中を始め、諸國の大社大社には、何方も置かれてあつて、我廣田・西宮にも同樣であつた。今日では、里神樂と稱して、各大小神社の私祭に雇はれて來る者が有る。之は各社でも、其待遇が粗末で、一般からも輕視されてゐる。伊勢神宮や、住吉・春日等は、其神樂所のみに、奉仕してゐるは別段で、是は品位を保たせて有る。昔は何れにても、普通一般神社の如くで無く、品位を有つた者である。我が廣田・西宮でも、優に位置高く置かれてあつた事は、書に見えて有る。併し上下の階級は有つたらしい。平家時代の巖島神社の如きは、幽雅美麗の御巫が置かれてあつた事は〕、高倉院巖島御代の途次、福原(中山曰、神戶市。)の御所に御立寄の時、豫て巖島から招寄せてあつた內侍八人(原注、內侍として有るが全く御巫である。)の舞樂を叡覧に入れ、終つて御神樂を奏してゐる。內大臣土御門通親公が、天人の降りたらんも()くやとぞ見ゆると、周圍の裝飾も有つたからであらうが、劇賞して日記に書いてゐる。巖島御參拜の折にも、內侍(ドモ)老いたる若き、樣樣(サマザマ)步連りて、神供(マヒ)らせ、取續(トリツヅ)きて、がくどもして、御戶(ヒラ)き參らせ云云と有る如く、榮えたる神社には、何時(イツ)も斯うした御巫が有つた。當神社でも、(中山曰、西宮社。)古くは置かれて有つたと見えて、近衛天皇の康治元年の事であるが、美福門院が新に寵を得られて、待賢門院の侍女で津守島子が、其夫なる散位源盛行が待賢門院の旨を受けて、廣田神社の御巫朱雀と云ふを召して、美福門院を呪詛せしめ、其事露顯して、檢非違使を遣はし、盛行を捕へ、銀筥を西宮神宮に得て、盛行を流に處した事が有る。是は『百練抄』に書いて有る、(原注、『大日本史』にも有る。)當時朱雀と稱した巫女が、西宮に在つたと見える。之を想像して見ると、現今大小神社に在る所の巫女の樣で無く、神前に常侍して居たもので、位置も決して卑しい者では無かつたのである。(ソレ)から五十年許りの後、後鳥羽天皇の建久頃に、巫女壽王と云ふ人が、當社に在る事を、『諸社禁忌』と云ふ書物に書いて有る。此壽王と云ふ巫女も、文意を見ると、社中の上位に置かれた人である。(ソレ)から又三十年許り後の、後堀河天皇の貞應三年に、神祇伯王が當社に參拜せられて、巫女の四條女宅を宿所とした。是は代代の例であると、『神祇官年中行事』に見えるが、此時伯王の行列と云ふ物は盛んな事で、船七八艘して下向し、大勢の行列で西宮濱に著き、伯王は乘輿で、衣冠の力者十二人で舁いで、神祇官員若干も皆衣冠、諸大夫以下皆布衣と有つて、大層な樣子に書いて有る。(ソレ)が巫女の四條の宅を宿所としたのである。()れば巫女の宅は宏莊な物であつたであらう。假令、隨行者皆迄が、此家で宿泊したのではあるまいが、兔も角も長官伯王の宿所と定めてあるから、(ソレ)相應な設備を要する資格の家で無ければ成ら無い。況や代代の常宿であるらしい。巫女と云へど社中でも立派な位置に居た者と見える。(ソレ)から未だ書いて有る事に、「今夜女房の宿願を果す為に、又夷宮(ヱビスノミヤ)に參る、前に御神樂を行ふ、夷三郎及御大教前に於て、種種の事等有つて、衣一領を『「北宮四條に給ひ』絹一疋を『南宮兵庫一戎臺』直垂『史巫為延』已上巫女等に給り了ぬ。此他堪能の巫女に纏頭を給ふ。大口一領、守護袋、帖紙等の類である。」として有る。其四條とは巫女の名で北宮は廣田社であらう。南宮兵庫の兵庫は巫女の名で、南宮に專屬の巫女であらう。一戎臺は何とも解き難かけれど〕、夷社、專屬の巫女の名であらう。史巫為延は即ち覡で、男の巫であらう。其他堪能の巫女にも夫夫(ソレゾレ)今云ふ祝儀を呉れたのである。之を見ると、巫女等の人數も、隨分多かつた事と見える。巫女に物を與へる事は、當節の慣例と見えて、『巖島御幸記』にも、一一綿を給つた事が見えてゐる。今から七百八十年以前、(中山曰、昭和三年より起算して。)巫女が當社に仕へてゐた。其地位を察すると、現今各社に用ゐる巫女の如きで無く、一廉の地位を占めてゐたらしい。此件を見て往昔廣田・西宮の隆昌であつた事が知られる。序に云ふて置きたい事が有る。明治維新當時(マデ)、當社には男の巫子が二人有つて、表門前に宿屋を兼業してゐた。元祿正德頃には幣司・鳥飼・大石・五十田等の名が見えてゐる。維新頃の所作を見ると、神樂と云ふ程で無く極簡素な業で、講中や氏子の乞ひにより、神樂所にて鈴の行事を行ふのである。社役人と同じく下級の社人と成つてゐた。然れども苗字帶刀はしてゐた。(中山曰、讀み易き樣、句讀點を加へた所が有る。)

       當代の巫女の生活と收入とを說いて詳細を盡してゐるが、併し斯うした事象は、獨り廣田・西宮の兩社に限られた事では無く、他の名神大社に附屬してゐた巫女の上にも在つた事と想はれる。勿論、神德の高下や、神社の隆替に依つて、其悉くが軌を一にしてゐたとは言はれぬが、大體に於いて共通した物と考へて差支無い樣である。從つて巫女の收入は一定の給分よりは、臨時に參拜者より受くる纏頭が多きを()してゐたのであらう。江戶期に成ると、巫女の神社に於ける位置は極めて低下し、殆んど有るか無きかの待遇に甘んじ無ければ成らぬ迄に餘儀無くされてゐたが、其でも神樂錢の分配だけは收得する權利を有してゐた。是等に就いては、第三篇に述べるので、茲に保留して置くが、平安朝頃の巫女の臨時收入は蓋し尠く無かつたであらう。()ればにや、既述の如く、金持の巫女を後妻に迎へた大臣の有つた事が『宇津保物語』に見え、更に『源平盛衰記』に據れば、平清盛が巖島の內侍(巫女。)を愛し、其間に儲けた女を宮中に進め、然も此內侍は、後に土肥實平の妻と成つた事が載せて有り、所謂、氏無くして玉輿の好運を贏ち得た者も有つたに相違無い。時代は降るが、室町期に常陸國鹿島神宮の物忌(即ち巫女。)が、田地一町步を同地の根本寺に永代寄進した古文書(著者採訪。)が同寺に保存されてゐる。左に(コレ)を轉載する。

          奉寄進田地之事

            合壹町者【鹿嶋郡宮本鄉之內,神野下青木町也。】

         右彼田者,依有志,限永代寄附根本寺者也。末代於此田,不可有他之違亂妨,如往古可被知行。仍為後證寄附之狀,如件。

          應永十九年(壬辰) 十二月三日

            鹿島太神宮 物忌 妙善

            當寺長老水賛西堂

       鹿島社の物忌は、他の巫女とは多少性質を異にしてゐるし、(此事は既述した。)殊に此寄進者は物忌でありながら、佛教の篤信者と思はれるので、此一例を以て、他の總てを律する事は、元より危險である。否否、危險ばかりで無く、是等は一般巫女の生活から見れば、全く稀有の事であつて、(ソノ)多くは薄給に苦しみ、世過ぎの途に窮してゐたのである。例へば『越知神社文書』に、

          大谷寺(表袖書) 「得石御子補任谷下禰宜子」

            補任 八乙女神人事

              橘氏女

         右,以彼人所補任神人八乙女等,宜承知,敢以勿違失。依大眾僉議,所補任之狀如件。

          延德二年四月 日

          公文在廳法印

          院主傳燈大法師

       と有る。大眾の僉議の、補任のと、大袈裟であるから、巫女の收入も(コレ)に伴ふ物かと思へば、事實は極めて貧弱の物で、漸く祭禮の有る每に、「大飯二前。」か、「大飯三前,小飯四前,酒二瓶子。」かの分け前を受ける外には、「御神樂料米錢成在所。」として、「六斗應神寺,八斗在田村,八斗坪谷村。二斗嚴藏寺,壹貫文田中鄉。」等の給分を〕、然も神樂に從事する樂人や、八乙女等、大勢で分配するのであるから、其收入は實に粥を啜る程の乏しき物であつた。()れば、信仰の衰へると共に、巫女の地位も下り、後には下級の神人の妻女が、片手業に(コレ)に從事する樣に成つて(シマ)つたのである。
       記事が少しく前後するが、武家が勃興した鎌倉期に在つては、武家の為に往往神領を奪取され、神社の經營にすら困難を來たす樣に成つたので、()らぬだに輕視されてゐた巫女にあつては、猶ほ一段と給分を減少され、或は沒卻される破目に置かれるのであつた。『吾妻鏡』卷三十三に、此事を考へさせる左の如き記事が載せて有る。

      • 一、神宮御子職掌等,依為祠官。所充給之地,無指罪科。乍帶其職,不可點定事。
      • 一、同社司給地,無上仰之外,別當以私心。不可立替遠所狹少地。
      • 一、依為社司,令拜領地輩之中,無子息之族,或讓後家女子,或付養君。權門致沙汰之間,新補宮人無給地之條,不便事也。自今以後,子息不相傳之者,付職可充行其地事。

         以前條條,社家存此旨,不可違失之狀,依仰下知如件。

        延應二年二月二十五日        前武藏守(泰時)

       斯うして幕府の保護の有る(ウチ)は、()だ巫女の給分も多少の確實性を有してゐたが、(コレ)が武家の押領が猖んに成り、(コノ)反對に神威が行はれぬ樣に成れば、巫女の生活の如きは、有るか無きかの境地に落されたのも、又た止むを得ぬ世の歸趨であつた。
       更に神社を離れて村落に土著した口寄系の市子の收入であるが、之に就いては、皆目知る事が出來ぬのである。(コレ)こそ、全く私の寡聞の致す所ではあるが、止むを得無い。江戶期に成ると、多少とも知るべき手掛りが殘つてゐるが、(ソレ)以前に在つては、其手掛りすら發見されぬ。併しながら、強ひて想像すれば、其收入は決して多かつた物とは考へられぬ。後世の事情を以て中世を推しても、流行兒とか上手とか言はれる程の者であつたら、生活するだけ位の收入も有つたらうが、(ソレ)以外の者では、漸く糊口の料を得るのが關の山であつたらう。旅を漂泊した巫女にあつても、內職の性的收入を別にしたら、(ソノ)所得は必ず尠少であつたに相違無い。
       巫女は聖職に服する關係上、其風俗に於いて常人と異るものがあつたと思ふが、之を證示する資料は餘り多く殘されてゐ無い。『
      續日本紀卷三慶雲二年十二月條に、「令天下婦女,自非神部、齋宮宮人及老嫗,皆髻髮。云云。」と有るのは、古代から巫女は、放ち髮であつて、(後世の下げ髮。)然も文武朝に於いても、猶ほ髮を結ばずとも差支無い事を許されてゐたのである。鉢卷と千早は、神に仕へる女性が一般に用ゐた古制であるから、口寄せ市子も必ずや(コレ)に倣つた事と思ふ。時代が迥かに降つて室町期の末頃に成ると、關東邊の市子は、武田信玄が許せると云ふ特殊の竹子笠を被り、(此事は第三篇に詳述する。)信濃巫女は一名を白湯文字と呼ばれただけに、二布の白き湯具を纏ふのを常としてゐた樣であるが、(コレ)以外にあつては、未だ耳福に接して居らぬのである。

        • 註第一〕古代から中世へ掛けての巫女は、恰も近古の琉球の祝女(ノロ)の如く、一定の口分田を有してゐた事と思ふが、(コレ)を明確に證示する資料は見當ら無かつた。後世の「御子免(ミコメン)」又は「神樂免」或は「獅子免」等と稱する神田は、各地方の神社の附屬地として存してゐた物で、即ち巫女の給分であつた事を意味してゐるのである。併し、(ソレ)も江戶期に成ると、多く民有地と成つて(シマ)ひ、纔に耕地の字名として殘る樣に成つて(シマ)つた。
        • 註第二〕『山槐記』治承三年六月七日條に、「今曉,前太政大臣(平清盛)令參安藝伊都岐嶋給。(中略。)於放被□經供養竝內侍(巫也。)等祿物料也,卅石可有許督。云云。」と見えてゐる。即ち巫女の臨時收入の一例である。
        • 註第三〕此問題は、吉井翁の洽聞を以てしても、猶ほ解し難しと有る如く、相當に難問ではあるけれども、茲に試みに私見を簡單に記せば、西宮神社の(エビス)神には、末社に一ノ(エビス)・二ノ(エビス)・三ノ(エビス)と三社有り、後に(コレ)を、一郎殿・二郎殿・三郎殿と呼び習はした物と信じてゐる。(ソレ)故に一戎臺とは、即ち一ノ(エビス)(一郎殿。)に仕へた巫女で、臺とは女性の通稱を用ゐた物と思ふ。後世の巫女の『神(オロ)し』の一節に、「一郎殿より三郎殿、番も(カワ)れば水も(カワ)る。」云云と有るのは、必ずしも(エビス)神を指した物とは言へぬかも知れぬが、(此事は猶ほ第三篇の本文に述べる。)之が一神、二神、三神の意である事は、明白である。(エビス)三郎と有るより推して、事代主命が三男である等と云ふ合理的說明の信用すべき限りで無い事は、既に拙稿『(エビス)神異考』(鄉土趣味連載。)で發表した所である。吉井翁、果して私見を是認せらるるか否か、參考(マデ)に附記するとした。
        • 註第四〕『越知神社文書』の享祿二年五月の、「越知山大谷寺所所御神領坊領目錄事」其他に據つた。(チナミ)に言ふが、越知神社は、越前國丹生郡絲生村大字大谷寺に鎮座の鄉社である。


    • 第三節 巫女の流せる弊害と其の禁斷

       巫女教であつた原始神道が、時勢に促されて神社神道と成り、更に政治的の意味が加つて、國體神道と(マデ)發達する樣に成れば、從來は正信と認識されてゐた巫女の言行は、漸くにして悉く迷信と解釋せられるのは、蓋し止むを得ぬ世相の成行(ナリユキ)であつた。加之、支那の蠱術を受入れ、佛教の吒吉尼邪法を附會する樣に成れば、巫女の言行は全く有害無益の物と化し去つて(シマ)つたのである。而して此流毒は、既に古代から存してゐて、治者の間には、厄介なる問題として、取扱はれて來たのである。『
      皇極紀三年條に、

         秋七月,東國不盡河邊人大生部多,勸祭虫於村里之人曰:「此者常世神也。祭此神者,致富與壽!」巫覡等遂詐託於神語曰:「祭常世神者,貧人致富,老人還少!」由是加勸捨民家財寶,陳酒陳菜、六畜於路側,而使呼曰:「新富入來!」都鄙之人,取常世虫,置於清座,歌舞求福,棄捨珍財,都無所益,損費極甚。於是,葛野秦造河勝,惡民所惑,打大生部多。其巫覡等,恐休勸祭。云云。(國史大系本。)

       斯うした迷信騒ぎが、常に巫覡の手に依つて釀され、其弊害は各地に存した事と思ふが、就中、(ソレ)を助長したのは、奈良朝の聖武稱德の兩朝が、事に猖獗を極めた樣である。聖武帝は崇佛の餘り、正信の境を越えて、迷信に玉步を入れさせられた樣に拜さるる點も有り、稱德帝は女性であらせられた上に、前には惠美押勝を、後には僧道鏡を召される等、此兩朝には、巫覡の徒が跳梁すべき間隙が相當に多く存してゐた樣であるから、自然と斯くの如き結果を招致した物と考へられる。『續日本紀天平勝寶四年八月條に、「捉京師巫覡十七人,配伊豆、隱岐、土佐等遠國。云云。」と見えたるを始めとし、同じ天平勝寶六年十一月條には、左の如き記事が載せて有る。

         辛酉朔甲申,藥師寺僧行信,與八幡神宮主神司大神朝臣多麻呂等,同意厭魅。下所司推勘,罪合遠流。於是,遣中納言多治比真人廣足,就藥師寺宣詔,以行信配下野藥師寺。
         丁亥,從四位下大神朝臣杜女,外從五位下大神朝臣多麻呂,並除名,從本姓。杜女,配於日向國。多麻呂,於多褹嶋。因更擇他人,補神宮禰宜、祝。其封戶、位田,并雜物一事已上,令大宰檢知焉。(『續日本紀卷十九。)

       此杜女は屢記の如く、孝謙朝に東大寺の大佛が建立せらるる際に、遠く九州より宇佐八幡神を奉じて入京し、神佛一如の實を示したので、御感に入り、從四位に敘せられ、封戶を賜つた巫女であるが、忽ち或種の事件に觸れて、遠流に處せられたのであるが、其理由が蠱術に在る事は言ふ迄も無い。而して此事は、前にも一言したが、奈良朝から次期の平安朝へ掛けて、頻りと蠱術に由る疑獄が起つてゐるが、(コレ)は一面に於いて、當時斯うした事實の猖んに行はれてゐた事を明かにする物であると同時に、一面に於いては、是等を利用する政治家の在つた事を注意せねば成らぬのである。當時、巫覡の徒が、如何に識者の嫌厭を買つてゐたかを證示する物として、吉備真備の『私教類聚』の(ウチ)から、左の一節を引用する事が出來る。

          莫用詐巫事

         右詐巫之徒,里人所用耳也。真之巫覡,官之所知,神驗分明,不敢所謂者也。但子孫汝等,好用詐巫,具聞巫言,何費若此。又生死、病死,理之所然。天下含生,何物不死。詐巫邪道,豈得更生。何者,巫之子孫,何為夭折?巫之家道,何至貧窮?未得我身,何與他願。宜知此意,莫信詐巫。又常經他家,詐說怪異,教以解潔,即脫衣裳,損失過多,絕而无益。凡偽巫覡,莫入私家。巫覡每來,詐行不絕。(史籍集覧本『政事要略』卷七十所載。)

       此『私教類聚』なる物が、果して真備の遺誡であるか否かは、學問的に見れば、多少の疑ひ無きを得ぬのであるが、其詮索は姑らく措くとしても、兔に角に『政事要略』が編纂された平安朝に於いては、さう信じられてゐた事だけは、事實と見て差支無い樣である。而して此文意を解釋すると、真備は、(一)巫女を二大別して詐巫と真巫とに分ちし事、(二)詐巫は里人の用ふる者、即ち後世の口寄系に屬し;真巫は官用の者で、即ち後世の神和系に屬する者とした事、(三)詐巫は主として邪道を行ひし事、(四)詐巫の說く所は延命と招福とに在つた事、(五)そして彼等を信ずると多大の失費を要した事等が知られるのである。若し(コレ)にして誤り無くば、千年餘を經た江戶期の市子と殆んど擇む無き言行と云ふべきである。
       巫覡の弊害は、年と共に甚大を加へて來た樣で、遂に
      光仁朝寶龜年間には、左の如き禁斷の敕令が發布さるるに至つた。即ち『類聚三代格』卷十二に載せて有る物が、(ソレ)である。

          禁斷京中街路祭祀事

         敕:「比來無知百姓,構合巫覡,妄崇滛祀。芻狗之設,符書之類,百方作怪,填溢街路。託事求福,還涉厭魅。非唯不畏朝憲,誠亦長養妖妄。自今以後,宜嚴禁斷。如有違犯者,五位已上錄名奏聞,六位已下所司科決。但有患禱祀者,宜於京外祓除。」(國史大系本。)

        寶龜十一年十二月十四日

       此禁令の內容に據れば、當時、巫覡の詐術に迷うた者は、決して無智の百姓ばかりで無く、五位・六位の有識階級にも少く無かつた事が窺はれ、且つ巫覡が專ら延壽招福を說き、種種なる呪術を敢てし、殆んど後世の醫師の如き真似(マデ)した事が想はれるのである。而して斯かる巫覡の出沒は、恰も野火燒いて盡きず、春風吹いて又生ずる雜草の如く、官憲の力を以てしても、根絕する事は出來無かつたと見え、歷聖(トモ)に、(コレ)が禁斷の法令を下してゐる。同じ『類聚三代格』卷十二に、大同年中の禁令が見えてゐる。

          應禁斷兩京巫覡事

         右被右大臣宣,稱:「奉敕,巫覡之徒,好託禍福。庶民之愚,仰信妖言。滛祀斯繁,厭呪亦多。積習成俗,虧損淳風。宜自今以後,一切禁斷。若深祟此術,猶不懲革,事覺之日,移配遠國。所司知之不糺,隣保匿而相容,並准法科罪。」

        大同二年九月二十八日

       此禁令で、特に注意すべき點は、巫術を行ふ者は勿論の事、(ソレ)を信仰する者、並びに情を知つて不問に附せる所司、及び是等を隱匿せる隣保の者(マデ)、連座して罪科に處すと規定した事である。察するに、尋常の刑罰を以てしたのでは、到底、此習を積み、俗を成した害毒を掃蕩する事が出來ぬので、遂に遠流と云ふが如き重刑を科した上に、隣保を以て互に相警戒させる方法に出た物と考へるのである。併しながら、飯上の蝿の如き彼等は、追へば散ずるも、追はねば直ちに集來て、以前にも幾倍した跋扈を(ツヅ)けて止まぬのであつた。勿論、當代に於いて、斯く巫覡の徒が民心を支配してゐたのは、其時勢が要求した事を考へ無ければ成らぬ。貴族政治は(ヤヤ)もすると、國民を一種の搾取機關として輕視する傾きが生じ易く、民權は常に壓迫されて伸長する機會は與へられず、此反對に、惡疫は絕えず生命を脅し、群盜の出沒や、飢饉の襲來は生活を不安ならしめる等、民心は彌が上にも、迷信に奔らざるを得無かつたのである。從つて、官憲に於いて、巫覡禁斷の法令を雨下した所が、其根患が救濟されぬ以上は、中中に拂拭さるべき筈が無いのである。()れば代代の朝廷が、(コレ)が剿滅に努めたるにも()カカハらず、神託は依然として濫出し、巫術は以前にも增して猖行されてゐたのである。左に揭ぐる太政官符の如きは、神託の濫出を官憲が持て餘した內情が窺はれるのである。即ち『類聚三代格』卷一に曰く、

          應檢察神託事

         右被大納言正三位藤原朝臣園人,宜,稱,奉敕:「怪異之事,聖人不語。妖言之罪,法制非輕。而諸國民信狂言,申上寔繁。或言及國家,或妄陳禍福。敗法亂紀,莫甚於斯。宜仰諸國,令加檢察。自今以後,若有百姓輙稱託宣者,不論男女,隨事科決。但有神宣灼然,其驗尤著者,國司檢察,定實言上。」(同上。)

        弘仁三年九月二十六日

       斯うした禁令も、仔細に詮索したら、()だ此外に存する事と思ふが、今は大體を盡すに(トドメ)て、本節の結論に急ぐとする。而して私の寡聞かは知らぬが、此種の禁令も平安前期を境として、(ソレ)以來は餘り嚴重なる取締法の發布に接してゐぬのである。(ソレ)では、巫覡の出沒と、餘弊とは、全く跡を絕つたかと云ふに、事實は(コレ)を裏切つて、益益(ソノ)數と量とを加へてゐるのである。此事象を見て、私の考へた事は、古代から平安前期迄は、官憲の力を以てすれば、(コレ)を掃蕩する事が出來ぬ迄も、幾分なり制禦し、矯正し得られたのであるが、平安後期以降に在つては、社會の紐帶も弛み、上下とも迷信に惑溺した為に、(コレ)を取締る力が全く失せて(シマ)つた許りで無く、卻つて(コレ)を增長せしめる樣な態度さへ見える位である。而して斯うした世相は、時に消長有るも、鎌倉・室町の兩期を通じて大なる渝りも無く、更に江戶期に入つては、巫女の墮落が、自己の地位を低め、殆んど問題とされぬ迄に成つたので、嚴重なる禁令も無い代りに、漸く餘喘を保つと云ふ有樣を持續したのであるが、斯くて明治期に入り、遂に禁絕さるるに至つたのである。

       本篇を終るに際して、一言附記すべき事が有る。(ソレ)は外でも無く、總論に於いて述べた「巫女化石」の傳承に依つて、當代の巫女に對する俗信を記述し樣と思ひ、其材料を集めて置いたのであるが、(コレ)に就いては、既記の如く、柳田國男先生が『鄉土研究』に連載した「老女化石譚」に盡してゐるので、私の淺學を以てしては、(コレ)以上に言ふべき事は少しも無いと信じたので、今は總てを省略し、篤學のお方は同誌に就いて御覧を願ふとした事である。偏に讀者の寬容を乞ふ次第である。



  • [久遠の絆] [再臨ノ詔]