日本巫女史 總論
第一章、巫女史の本質と學問上の位置
第一節 巫女の種類と其名稱
巫女史の研究には、先づ其主體と成つてゐる巫女の種類、及び巫女の名稱を揭げ、此れが概念だけでも與へて置く事が、此れから後の記述を進める上に必要であり、且つ便利が多いと考へるので、此處に其等を列舉し、併せて、其語源等に就き、先學の考察と、私見とを、簡單に加へるとする。
私は便宜上、
巫女
(
フジョ
)
を分類して、
神和
(
カンナギ
)
系の
神子
(
ミコ
)
と、
口寄
(
クチヨセ
)
系の
巫女
(
ミコ
)
との二種とする。勿論、巫女の發生した當時に在つては、斯かる種類の存すべき筈は無いが、時勢の起伏と、信仰の推移とは、巫女の呪術的職掌や、社會的地位にも變動を
來
(
キタ
)
し、其結果は、遂に幾多の分化を見る樣に成つたのである。而して私は、宮中及び各地の名神・大社に附屬して、一定の給分を受けた公的の者を神和系の神子とし、此れに反して、神社を離れて町村に土著し、又は各地を漂泊して、一回の呪術に對して、一回の報酬を得た私的の者を口寄系の巫女とする。更に、記述の混雜を防ぐ為に、前者の總稱を
神子
(
ミコ
)
と呼び、後者の汎稱を
市子
(
イチコ
)
と呼ぶ事とした。
第一、神和系に屬する神子の名稱
同じく神和系に屬する神子にあつても、其間に、幾多の種類や、階級や、稱呼の有る事は、言ふ迄も無い。其と同時に、階級が違ふからとて、稱呼が異ふからとて、さう仕事も實質迄別な物だとは言はれぬのである。概して言へば、大同にして小異と言へるのである。左に、
是等
(
コレラ
)
の主なる物に就いて列舉する。
名稱 奉仕又は所屬神社 出典
神子
(
ミコ
)
中山曰:神子は巫女の總稱であつて、神の子と云ぐ程の內容を有つてゐる。『倭訓栞』に、「神子を
訓
(
ヨ
)
めり、巫女を
謂也
(
イフナリ
)
。『祝詞式』に、巫を
かんこ
と
訓
(
ヨ
)
めり、神子の義成れば
みこ
は其略也。」と有るのは、此意味に於いて要を盡してゐる。併しながら、此解釋は第二義的であつて、
巫女
(
ミコ
)
の第一義は、
神子
(
カムノコ
)
では無くして、神
其者
(
ソノモノ
)
であつたのである。
巫女
(
ミコ
)
が神と人との間に介在して、神意を人に告げ、人の祈りを神に申す樣に成つたのは、既に
巫女
(
ミコ
)
の退化であつて、決して原始の相では無い。猶此れに就いては、後に詳しく言ふ機會が有る。
齋宮
(
イツキノミヤ
)
伊勢皇大神宮
日本書紀
中山曰:伊勢神宮の齋宮は、
崇神朝
の
豐鍬入媛命
(
トヨスキイリビメノミコト
)
を始めとし、其より永く七十五代に及んで行はれた事は改めて申す迄も無い程著名である。唯、代代皇親を以て任ぜらるる齋宮を、直ちに巫女と申上げるのは、如何にも畏き事ではあるが、併しながら、「神の
御杖代
(
ミツヱシロ
)
」と云ひ、「
御手代
(
ミテシロ
)
」と云ふも、更に齋宮と申しても、其實際は巫女としての御役に立たれるのであるから、此處に併せ記す事としたのである。
齋院
(
サイイン
)
賀茂神社
延喜式
中山曰:齋院は、
嵯峨朝
に、第八皇女
有智子內親王
(
ウチコノヒメミコ
)
を以て任命せるを始めとし、三十餘代を續け、
順德朝
に
禮子
(
イヤコ
)
內親王の退下を以て終りとせし事が、『齋院記』及び『百練抄』等にて知られる。此れは、伊勢齋宮に對して設けた物であつて、朝廷で賀茂社を斯く手重く取扱つたのは、同社が京都の產土神であつた為である。
阿禮乎止賣
(
アレヲトメ
)
賀茂神社
類聚國史
賀茂社の齋院を一に阿禮乎止賣とも稱へた事が、『
類聚國史
』天長八年十二月條に載せて有る。
阿禮
(
アレ
)
の語釋に就いては諸說有るも、私は
產生
(
アレ
)
の意と解してある。賀茂社第一の神事である
御阿禮
(
ミアレ
)
は、即ち產出の事だと考へてゐる。
片巫
(
カタカウナギ
)
────
古語拾遺
肱巫
(
ヒヂカウナギ
)
────
同上
中山曰:古くから難問とされてゐる名稱であるが、
之
(
コレ
)
に關する私見は、本文中に詳述して置いた。
大御巫
(
オホミカムコ
)
宮中八神殿
延喜式
中山曰:
御巫
(
ミカムコ
)
は
御神子
(
ミカムコ
)
の古訓である。鈴木重胤翁の『延喜式祝詞講義』
(卷一。)
に、「神祇官の八神を齋奉りて、佗社と異なれば取分大御巫とは云也。又大官主御巫と云ふ事、聖武天皇御紀神龜九年八月の下に見えたり。」云云と有る。
御巫
(
ミカムコ
)
宮中の祭神奉仕
同上
中山曰:宮中に祭れる座摩・御門・生嶋等の神に奉仕せる巫女を斯く稱したのである。
御巫
(
ミカムコ
)
は
御神子
(
ミカムコ
)
である事は言ふ迄も無い。
巫
(
カンナギ
)
覡
(
ヲノコカンナギ
)
──── 倭名類聚抄
『和名抄』
(卷二。)
に云ふ、「『說文』云:『巫,
【無反,和名
カムナギ
(
加牟奈岐
)
。】
祝女也。』『文字集略』云:『覡,
【
ヲノコカムナギ
(
乎乃古加牟奈岐
)
。】
男祝也。』『倭訓栞』に:『かんなぎ。』神
和
(
ナギ
)
の義也、神慮を
和
(
ナゴ
)
むる意也。」
云云
。
中山曰:『源氏物語』
(四五。)
橋姬條に、「
恠
(
アヤ
)
しく、夢
語
(
カタリ
)
、
巫女
(
カムナギ
)
樣の者の、
問
(
ト
)
はず語りする樣に、
珍
(
メヅラ
)
かに
思
(
オボ
)
さる。」云云と有るより推せば、古くから巫女を斯く呼んだ者と見える。祝女に就いては、普通の巫女とは異る物が有ると考えるので、本文の後段に詳述する。而して
巫
(
カンナギ
)
は神社に奉仕する巫女を通稱した物である。
巫祝
(
キネ
)
────
古今和歌集
『
古今集
』
(卷二十。)
神遊歌に、「
霜八度
(
シモヤタビ
)
、
置
(
オ
)
けど
枯
(
カ
)
れせぬ、
榊葉
(
サカキバ
)
の、
立榮
(
タチサカ
)
ゆべき、
神
(
カミ
)
の
巫覡
(
キネ
)
かも。
(
1075
)
」と有るを始として、『拾遺集』にも、
巫祝
(
キネ
)
を詠じた和歌が、二首載せて有る。更に最近發見された『小野篁日記』
(『國語と國文學』四十四號。)
に據ると、「
社
(
ヤシロ
)
にも、
未
(
マ
)
だ
巫祝
据
(
キネス
)
へず、
石神
(
イソカミ
)
は、
知
(
シ
)
る
事難
(
コトカタ
)
し、
人心
(
ヒトノココロ
)
を。」の和歌が有り、然も此歌は
弘仁
頃の作であらうとの事である。
巫祝
(
キネ
)
の語源に就いては、先覺の間に種種な考証も有るが判然せぬ。『倭訓栞』に、「
神人
(
キネ
)
は
祈念
(
キネン
)
の音
以
(
モ
)
て、名
來
(
ク
)
るなるべし。」と有るが物足らぬ。『雅言考』に、「
木ね
(
キネ
)
、
元
(
モト
)
は草を
草ね
(
クサネ
)
と云ふ如く、木を
木ね
(
キネ
)
と云ひし
樣
(
サマ
)
なれど、中古
神人
(
キネ
)
の事に成れり。」と有るも、此又
頗
(
スコブル
)
物足らぬ感が有る。『神道名目類聚抄』卷五に、「
幾禰
(
キネ
)
ト云モ、
巫
(
カンナギ
)
ノ事
也
(
ナリ
)
。」と判つた樣な事を載せてゐるが、唯傳統的の解釋を記した迄で、其真義には觸れてゐぬのである。
姊子
(
アネコ
)
──── 松屋筆記
同書
(卷七十四。)
に、「『曾禰好忠家集』冬十首の中に、『神
祭
(
マツ
)
る、冬は半に、成にけり、
姊子
(
アネコ
)
かねやに、榊をりしき。』
云云。
『新撰六帖』
(第一帖。)
に冬夜知家、『冬來ては、
姊子
(
アネコ
)
か閨の、たかすかき、幾夜
隙間
(
スキマ
)
の、風そ
寒
(
サム
)
けき。』
云云。
按に、
姊子
(
アネゴ
)
は
巫祝
(
キネ
)
を云ふ。『催馬樂』酒殿歌に、『
天原
(
アマノハラ
)
、
振放
(
フリサ
)
け見れば、
八重
(
ヤヘ
)
雲の、雲中なる、雲中との、中臣の、
天
(
アマ
)
の小菅を、
割拔
(
サキハ
)
らひ、祈りし事は、今日の日の為、
姊子
(
アナゴ
)
や
吾皇神
(
ワカスベノカミ
)
の
神籬
(
ヒモロギ
)
のよさこ。』と有る。「
姊子
(
アナゴ
)
」は「
姊子
(
アネゴ
)
」の通音也。
云云。
「
姊子
(
アネゴ
)
」の「あ」は
吾
(
ア
)
にて、
吾君
(
アギ
)
・
吾兒
(
アゴ
)
等の如く親みの詞也。「ねご」は「ねぎ」の通音なるべし。」と有る。
中山曰:「
姊子
(
アネコ
)
」の語は、『熱田緣起』
(此書が從來一部の間に稱へられてゐる樣に價值有る物か否かに就いては私見が有るも今は略す。)
に、倭尊の御歌として、「愛知
瀉
(
カタ
)
、冰上姊子は、我來むと、床避くらむや、
憐
(
アハ
)
れ
姊子
(
アネコ
)
は。」と載せて有り、古く用ゐられてゐた語ではあるが、此語を巫女の義に解釋したのは、寡見の及ぶ限りでは『松屋筆記』以外には無い樣である。而して私は、此解釋は、高田與清翁の卓見であつて、其は家族的巫女
(職業的巫女の生れる以前。)
の遠い昔を偲ばせる手掛りとして納得される。猶ほ此れに就いては、本文の「
於成
(
ヲナリ
)
神」條に詳記する考へである。而して、
巫祝
(
キネ
)
も、
姊子
(
アネコ
)
も、又
巫
(
カンナギ
)
の如く、神社に奉仕した一般の巫女を稱した物であらう。
古曾
(
コソ
)
────
日本書紀
『
孝德記
』
大化二年春二月
條に、「
神社福草
(
カミコソノサキクサ
)
」の名が見え、『
續日本紀
』
和銅三年正月
條に、「
神社
(
カミコソ
)
忌寸河內,授從五位下。」と載せ、『
萬葉集
』
卷六
に、「
神社
(
カミコソ
)
老麻呂」の名が有り、『
延喜神名帳
』に、「近江國淺井郡上許曾神社」を舉げ、此外にも、
古曾
(
コソ
)
の用例は、諸書に散見してゐる。此れに就き『書紀通証』には、「『
天武紀
』,
社戶
(
コソベ
)
訓
コソベ
(
古曾倍
)
。『
萬葉集
』,
乞
(
コソ
)
字亦訓
コソ
(
古曾
)
。盖神社則人之所為祈願,故訓社為
古曾
(
コソ
)
。
云云。
」と有るが、私に言はせると、少しく物足りぬ氣がする。
私は、
古曾
(
コソ
)
は、巫女の意に用ゐた物であつて、巫女が神社に屬してゐて、祈願を乞ふ時之を煩はしたので、後に神社を
古曾
(
コソ
)
と云ふ樣に成つたのであると考へてゐる。伊勢齋宮の寮頭藤原通高の妻が、
小木古曾
(
コギコソ
)
と稱して詐巫を行ひし事、
(此事は本文中に述べた。)
『宇津保物語』に古曾女の名有る事等を思ひ合せると、
古曾
(
コソ
)
は巫女の一稱と考へても大過無い樣である。
物忌
(
モノイミ
)
伊勢皇大神宮 大神宮儀式帳
『儀式帳』職掌雜任條に、「
物忌
(
モノイミ
)
十三人,物忌父十三人。」と有る。大神宮の
物忌
(
モノイミ
)
は九人で、管四宮の
物忌
(
モノイミ
)
が四人で、合計十三人と成るのである。而して、其九人は、大物忌・宮守物忌・地祭物忌・酒作物忌・清酒作物忌・瀧祭物忌・御鹽燒物忌・土師器作物忌・山向物忌であつて、管四宮とは、荒祭宮・月讀宮・瀧原宮・伊雜宮である。此等物忌と、皇大神宮
(豐受宮にも物忌六人を置かれた。)
に限られた子等、
(御子良とも云ふ。)
及び
母等
(
モラ
)
は、直ちに他の神社の巫女と同視する事は出來ぬけれども、又一種の巫女であつた事も否まれぬので、姑らく此處に舉げる事とした。猶、
物忌
(
モノイミ
)
や、子良に就いては、本文中に記述する所が有る。
宮能賣
(
ミヤノメ
)
三輪神社 大三輪神三社鎮座次第
同書に、「
磐余甕栗宮御宇
(
清寧
)
天皇,敕大伴室屋大連,奉幣帛於大三輪神社,祈禱無皇子之儀。時神明憑
宮能賣
(
ミヤノメ
)
曰:『天皇勿慮之。何非絕天津日嗣哉。』
云云。
」
中山曰:巫女の祖神である天鈿女命は、一に
大宮能賣命
(
オホミヤノメノミコト
)
とも呼ばれてゐたので、
宮能賣
(
ミヤノメ
)
は巫女の一般稱とも考へられ、敢て三輪社に限られた物では無いと思はれるのであるが、他社で巫女を斯く呼んだ事が寡見に入らぬので、姑らく同社に限つた物にして載せるとする。
玉依媛
(
タマヨリヒメ
)
賀茂神社 秦氏本系帳
柳田國男先生の「玉依姬考」
(『鄉土研究』四卷十二號所載。)
の一節に、「
玉依姬
(
タマヨリヒメ
)
と云ふ名は、其自身に於て、神の寵幸を專らにする事を意味してゐる。親しく神に仕へ、祭に與つた貴女が、屢屢此名を帶びて居たとても、
一寸
(
チツトモ
)
不思議は無い。と言ふよりも、寧ろ最初は高級巫女を意味する普通名詞であつたと見る方が正しいのかも知れぬ。
云云。
」と論じ、更に進んで、「玉依姬は
魂憑媛
(
タマヨリヒメ
)
也。」と斷定せられてゐる。實に前人未發の卓見であつて、然も後世規範の至言である。
惣市
(
サウノイチ
)
熱田神宮 鹽尻
同書卷十八所引の『熱田祠官略記』に、「
惣市
(
サウノイチ
)
,自祝部座出之。」と有る。勿論、惣市の名は、獨り熱田社に限らず、三輪神社
(此社の神子の階級等は本文中に載せた。)
を始め、各社に存し、且つ其名稱から推すも、神子の取締とか、監督とか云ふ位置に居つた者である事が知られるが、今は姑らく熱田社に掛けて揭げる事とした。
猶ほ尾張國中島郡の『一宮市史』に載せたる、真清田神社の祠官佐分但馬守が、文化十一年に取調べたる『歷代神主竝社家社僧一覧』に由ると、同社に、「巫女座四人,大之市、小之市、權之市、別之市。」等の神子の居事とが舉げて有る。
娍
(
ヲサメ
)
香取神宮 香取文書纂
中山曰:下總香取社の
娍
(
ヲサメ
)
社は、諸書に記載されてゐるが、何と訓むのか、解するに苦しんでゐた。或人は、「ヨメと訓むのだらう。」と言はれてゐるが、今はY先生の御說に從ひ、斯く訓むとした。
ヲソメ 吉備津神社 吉備見聞記
中山曰:吉備津社の巫女の通稱で、彼の有名なる
鳴釜神事
(
ナルカマシンジ
)
を掌つてゐるのも此ヲソメと稱する巫女である。
齋子
(
イツキコ
)
松尾神社 伊呂波字類抄
同書、松尾條の細註に、「本朝文集云,大寶元年,秦都理始建立神殿,立阿禮,居
齋子
(
イツキコ
)
供奉。」と有る。
中山曰:從來、巫女を
市子
(
イチコ
)
と稱せる語源說は、概して
齋子
(
イツキコ
)
の轉訛
(他にも一說有る。)
であると言はれてゐるが、私には左袒する事が出來ぬ。
市子
(
イチコ
)
の語源に關する私見は、後段に述べるが、讀者は豫め此事に留意して貰いたい。
神齋
(
カミイツキ
)
春日・大原野兩社
三代實錄
同書
(卷十三。)
貞觀八年十二月二十五日
條に、「丙申,詔以藤原朝臣須恵子,為春日并大原野
神齋
(
カミイツキ
)
。
云云。
」と有る。
物忌
(
モノイミ
)
鹿島神宮 鹿島志
同書
(卷下。)
に、「身潔齋して神に仕奉るの稱也。
云云。
物忌
(
モノイミ
)
は龜卜を以て其職を定む。龜卜の次第は、神官の內、幼女未だ月水を見ざる二人を選み、百日の神事有りて日數滿れば二人の名を龜甲に記し、正殿御石の間にて朝より夕に至る迄之を燒くに、神慮に叶ふ女子の龜甲灼る事無し、叶はざれば燒失す。
云云。
」
中山曰:物忌の名は、前揭の『皇大神宮儀式帳』にも見えてゐるが、其名の解釋は相當に複雜してゐるので、本文の後段に詳述する。
內侍
(
ナイシ
)
嚴嶋神社 山槐記
同書、治承三年六月七日條に、「今曉,
前太政大臣
(
平清盛
)
令參安藝伊都岐嶋給。
(中略。)
於被□經供養,竝
內侍
(
ナイシ
)
【巫也。】
等祿物料也。三十石可許督。
云云。
」
中山曰:平清盛が內侍を愛し、其腹に儲けた女子を、後白河法皇の後宮に納れた事が『平家物語』にも見えてゐる。同社で巫女を內侍と呼んだのも古い事である。
大市
(
オホイチ
)
諏訪神社 諏訪神社資料
同書
(卷下。)
に、「
大市
(
オホイチ
)
。此職名、古代は本社に於ける重役と云ふ。山崎闇齋著『垂加考』に、諏訪・有賀・真志野各氏、皆信州諏訪郡の豪族、厥先諏訪明神に出づ。神子三人、長は諏訪に居り、仲は有賀に居り、季は真志野に居る、因て各氏と為す。諏訪氏を大祝に置き、有賀氏を
大市
(
オホイチ
)
に置き、而して明神に奉仕せしむ、之を神家と云ふ。
(中略)
大市職は即ち
市婆
の事か、
市婆
は
女巫
に同じ。
元來市婆は齋女と云ふが如し。
云云。
」
中山曰:大市の
市
(
イチ
)
が、
市子
(
イチコ
)
の其と共通の語である事は言ふ迄も無く、
之
(
コレ
)
に大の字を負はせたのは階級の上位を示した敬稱である。
若
(
ワカ
)
鹽竃神社 鹽社略史
同書
(卷上。)
に、「社人鍵持役、守役云云。又別に
若
(
ワカ
)
と謂へる者有り、是は所謂女巫の屬にして、重儀及び遷宮等の時は、必ず奏樂するを本務とす。然れども之を社人中の家族より選擇するが故に、給祿の制無し。人員本三名なれども、平素は二名を以て事に當る。」
云云。(以上摘要。)
中山曰:巫女を
若
(
ワカ
)
と言うた事に就いては、次項の
若
(
ワカ
)
の條に述べる。
女別當
(
オンナベッタウ
)
羽黑神社 出羽國風土略記
同書
(卷二。)
に、「『雅集』
(私註、三山雅集也。)
に云、『
女別當
(
オンナベッタウ
)
職と云ふ物有て、諸國の巫女を司り、神託勘辨の家業也。
(原註:最上郡新庄七所明神に、女にて奉仕する者有り。又土俗是を
鶴子のかみ
と云ふ。秋田城內の
稻荷
(
イナリ
)
に女にて奉仕する者有り、五十石領す。女別當と稱するは、此類にや。)
今も信州には智憲院より許狀を得て、羽黑派の
神子
(
ミコ
)
とて神託する者有りとぞ。寬文年中、聖護院宮
並
(
ナラ
)
びに神祇長上より被仰出たる書付、又公儀より著添被仰出たる書付の趣にも、神託宣等する神子は、寺家の手に屬する物とは見えず、莊內には羽黑派の神子とて神託する者、千早舞衣等著する者有り。』
云云。
」
更に同書
(同卷。)
に、「神子、左
(鶴岡七日町に在り。)
寄木
(
ヨリキ
)
(仙道に在り。)
とて、兩女は料六石三斗づつ。『羽源記』に云ふ、『仙道の寄木大梵寺の左なと云ふ神子共、一生不犯の行體にて加持しけるに。』と有り。
云云。
」
中山曰:左は、ヒダリと訓むか、アテラと訓むか、判然せぬ。後考を俟つ。寄木はヨリキで、
尸坐
(
ヨリマシ
)
の意に外成らぬ。『三山雅集』に、寄木の文字に囚はれて、靈木漂著の奇談を以て、此れが說明を試みてゐるのは附會であつて、採るに足らぬ。
湯立巫女
(
ユタテミコ
)
各所の神社に在る ────
中山曰:儀式
(卷一。)
園幷韓神祭儀條に、「御神子先迴庭火,供湯立舞。次神部八人共舞。」と有るのを見ると、此種の巫女の古くから存した事が窺はれる。而して、湯立と呪術の關係等は、本文に詳記する。
猶ほ此外に、出雲大社の
子良
(
コラ
)
、鴨神社の
忌子
(
イミコ
)
、日吉神社の石占井御前、鈴鹿神社の鈴巫女等を記すべきであるが、今は大體を述べるに
止
(
トド
)
め、他は其機會の有る每に記載するとして、今は姑く省略に從ふこととした。
第二、口寄系に屬する市子の俚稱
等しく口寄系の
市子
(
イチコ
)
と云ふも、其階級や、種別は、前に舉げた神和系の其に比較すると、更に驚くべき程の複雜と、多數とが存してゐるのである。勿論、此れには斯くあるべき、相當の理由が伴ふのであるが、是等の詳細は、追追と述べることとして、此處には各地方に亘つて、其名稱と、語源に就き、簡單に記すとする。
名稱 通用地方 出典又は教示者
市子
(
イチコ
)
殆ど全國に行はる 吾妻鏡
同書
(卷二。)
治承五年七月八日條に、「相模國大庭廚等
一古
(
イチコ
)
娘依召參上,奉行遷宮事。
云云。
」
中山曰:
市子
(
イチコ
)
の名稱の文獻に現はれたのは、寡見の及ぶ限りでは、『吾妻鏡』が最初の樣に思はれる。而して
市子
(
イチコ
)
の語源に就いては、二說有る。(一)は前に載せた
齋子
(
イツキコ
)
轉訛說で、(二)は『新編常陸國誌』卷十二に記して有る中山信名の考證である。此處に其
要
(
カナメ
)
を摘むに、「市子と云ふは、元市に出て此事を為せし故也。其證は『
日本後紀
』に
延曆十五年七月二十二日辛亥
、『生江臣家道女,遞送於本國。家道女,越前國足羽郡人。常於市鄽,妄說罪福,眩惑百姓。世號曰
越優婆夷
(
コシノウバイ
)
。』と有り。市子の事を市殿と云ひし事は『義殘後覺』にも見えたり。
云云。
」
中山曰:私には此考證も承認する事が出來ぬのである。而して、私案を簡單に言へば、
市
(
イチ
)
とは琉球語の
生靈
(
イチジャマ
)
(呪詛する人の意。)
の
生
(
イチ
)
と同じ語根に屬する物で、古くは
生
(
イチ
)
の語に呪詛の意の在りし物と考へてゐる。
(『朝鮮巫俗考』に由れば、朝鮮の古代に神市氏と云ふが在つたと記してゐる。或は
生
(
イチ
)
の語は北方系の古語ではあるまいか。)
武藏及び信濃の一部で、巫女をイチイと呼んだは、偶偶此古語の殘存せる事を思はしめ、更に九州の大部分で、巫女を
命婦女
(
イチジョウ
)
と稱してゐるのは、同じく琉球語と交涉有る事を考へさせる物が有る。敢て異を樹てるに急なる物では無いが、記して高批を仰ぐとする。
巫女
(
イタコ
)
陸奥國の大部分と隣國 民族
(二卷三號。)
中山曰:
巫女
(
イタコ
)
の語源に就いて、アイヌ語の
言語
(
itaku
)
の轉訛なるべしと說く學者も有るが、私は遽に同意する事が出來ぬ。『源平盛衰記』に據れば、紀州熊野で神子をイタと呼んだ事が見えてゐるから、古くは全國的に行はれた物であらう。記して後考を俟つとする。
アリマサ 陸奥國の一部 津輕舊事談
中山曰:アリマサが
尸坐
(
ヨリマシ
)
の轉訛である事は、多く言ふを要せぬと思ふ。現在のアリマサは「物識り」の意に用ゐられてゐて、然も其多くは男子であると云ふ事だが、
(中道等氏談。)
併し、其「物識り」の古意が靈に通ずる人である事を知れば、古き
尸坐
(
ヨリマシ
)
の名殘りである事は疑ひ無い樣である。猶「物識り」の意義に就いては、本文後段に詳記する。
市子
(
インヂコ
)
羽後國由利郡地方 日本風俗の新研究
中山曰:東北人は、清濁の發音に往往明確を缺き、前揭の
巫女
(
イタコ
)
等も、大半は濁つてイダコと云うてゐる。此れから見ても、此語が
市子
(
イチコ
)
の延言訛語なる事は、深く言ふ迄もあるまい。
座頭嬶
(
ザトカカ
)
同國仙北郡 鄉土研究
(四卷四號。)
中山曰:東北地方に於ける
座頭
(
ザトウ
)
は、一にボサマとも稱して、古き盲僧の面影を濃厚に傳へてゐる。而して是等の妻女は、概して巫女であつたので、遂に斯かる俚稱を負ふ樣に成つたのであらうと考へる。
座下し
(
クラオロシ
)
同上 鈴木久治氏
巫女の俚稱には、(一)呪術の作法より負うた物、(二)呪術用の器具から來た物、(三)巫女の風俗に因る物等有るが、此れは第一の呪法に由來する物である。即ち同地方では、死者が有ると、埋葬後に日時を定めて巫女を招き「
七座下
(
ナナクラオロシ
)
」の行事を舉げる。
(琉球の
神人別
(
カンプトパカ
)
れや、土佐のタデクラヘと同じ意味の物で、是等に就いては本文中に詳記する。)
座下
(
クラオロシ
)
は、此意を略した物で、
座
(
クラ
)
とは一般の神事や、佛事で、一座二座
(一回二回の意。)
と云ふのから來た物である。
盲女僧
(
マウジョソウ
)
陸中國一部 東磐井郡誌
同誌に、「天台宗に屬したる
盲女僧
(
マウジョソウ
)
、郡中の各村に有り、是は信者の依賴に應じ、祈禱或は卜筮を為し、亡者有る家にては親族婦女子舉りて此盲女僧に凴りて亡者の幽言を聞くを常とす。之を「口寄」と云ふ。」と有る。
中山曰:天台宗に屬したのは、明治以後取締が嚴重に成つた為で、昔は普通の市子であつた事は言ふ迄も無い。
若
(
ワカ
)
陸前國の大部分 牡鹿郡誌
中山曰:陸前の鹽竃神社に「若」と稱する巫女の有る事は既述した。
若
(
ワカ
)
は、若宮・若神子の取意かと思ふが判然せぬ。中道等氏の談に據ると、同地方の巫女は呪術に取憑る際に、必ず柿本人麻呂の作といふ「
仄仄
(
ほのぼの
)
と、
明石浦
(
あかしのうら
)
の、
朝霧
(
あさぎり
)
に、
島隱
(
しまがく
)
れ
行
(
ゆ
)
く、
舟
(
ふね
)
をしぞ
思
(
おも
)
ふ。
(
409
)
」の和歌を唱へるので、斯く
若
(
ワカ
)
の名を冠して呼ぶ樣に成つたのであるに云ふが、覺束無いとの事であつた。私も勿論覺束無いと信ずる一人である。敢て後考を俟つ次第である。
御神明
(
オカミン
)
陸前登米町地方 登米郡史
(卷上。)
中山曰:
御神明
(
オカミン
)
は、
御神
(
オカミ
)
の意か、
御內儀
(
おかみさん
)
の意か、判然し無い。巫女は神子であり、神の代理者であると信じた思想から言へば、前者が穏當の樣に考へられるが、更に內儀を「山神」と稱した古意が、家族的巫女に在る事を知ると、後者の解釋も棄てるに忍びぬ物がある。今は私見を記して、識者の高示を仰ぐとする。
御神明樣
(
オカミンサマ
)
陸前國志田郡地方 わが古川
御若
(
オワカ
)
岩代國大沼郡地方 板內青嵐氏
若巫女
(
ワカミコ
)
同國南會津郡地方 新編常陸國誌
(卷十二。)
以上の三者は、此れ迄に載せた俚稱を繋ぎ合せた物、又は敬稱を附したに過ぎぬ物である故、說明は預るとする。
縣語り
(
アガタカタリ
)
磐城國石城郡一部の古語 佐坂通孝氏
中山曰:古く
縣
(
アガタ
)
とは、京に對して用ゐた語で、現在の
田舍
(
ヰナカ
)
)と云ふ程の意味が含まれてゐる。然れば「
縣語
(
アガタカタ
)
り」とは、本筋ならぬ田舍
(
度會
)
ワタラ
ひの巫女の意に外成らぬのである。
縣
(
アガタ
)
同國同郡植野村地方 土俗と傳說
(一卷二號。)
中山曰:前記の「
縣語
(
アガタカタリ
)
」の下略である事は、言ふ迄も無いが、唯斯かる古語が、今に殘つてゐる所が、珍重すべきである。
笹帚き
(
ササハタキ
)
常陸國久慈郡の一部 栗木三次氏
中山曰:大正五年八月に、
ネフスキー
(
Не́вский
)
氏と同地方に旅行した折に、同郡天下野村の小學校長である栗木氏から聽いた物である。『新編常陸國誌』卷十二にも
笹帚
(
ササハタキ
)
の名稱が載せて有る所から推すと、此話は信用して差支無い樣である。而して此名は、呪術の作法から負うた物で、巫女が自己催眠の狀態に入るには、其師承の流儀により、種種なる方法と、種種なる器具を要するのであるが、兩手に小笹の枝を持ち、其で自分の顏を
叩
(
ハタ
)
きながら
(湯立巫女の笹で全身を
叩
(
タタ
)
くのと交涉有る事は勿論である。)
呪術を進めるのも一方法であつて、
笹帚
(
ササハタキ
)
の稱へは、此れに由來するのである。猶、巫女の持物や、笹帚きの呪法に就いては、本文後段に詳述する。
守子
(
モリコ
)
同國新治郡地方 濱田德太郎氏
中山曰:神を
御守
(
オモ
)
りするの意と思ふが判然せぬ。但し此守りとは、神を遊ばせる意味の多分に含まれてゐる事は、事實である。巫女の職掌の內でも、神を遊ばせる事は、殊に大切なる物であつた。詳細は本文に記述する。
大弓
(
オホユミ
)
同國水戶地方 新編常陸國誌
(卷十二。)
中山曰:巫女の中には、長さ三四尺程の
弓
(
ユミ
)
を左手に持ち、
(紀州の巫女は六尺二分の弓を用ゐると云ふ。)
一尺程の細長い竹を棒として右手に持ち、此れで弦を敲きながら、呪法を行ふ者が有るので、其流儀の者を斯く稱した物と思ふ。大弓に對して「小弓」と云ふ所も有ると、同書に載せて有るが、地名が明記されてゐぬので判然せぬ。
梓巫女
(
アヅサミコ
)
關東の大部分 著者の採集
口寄せ
(
クチヨセ
)
同上 同上
中山曰:兩者とも、少しく誇張して云へば、唯に關東ばかりで無く殆ど全國的に用ゐられてゐるのである。此れは江戶が文化の中心と成り、江戶で刊行された書籍に據つて傳播された物と思う。而して、前者の
梓巫女
(
アヅサミコ
)
とは、梓で作つた弓を用ゐた古義から出た物で、後者の
口寄
(
クチヨセ
)
とは、
生口
(
イキクチ
)
と
死口
(
シニクチ
)
と
神口
(
カミクチ
)
とを呪術で引寄せると云ふ意味なのである。猶、是等に就いては、本文中に詳記する機會が有る。
禱巫
(
ノノウ
)
信濃國小縣郡地方 角田千里氏
中山曰:巫女を
禱巫
(
ノノウ
)
と言ふのは、或は子供達が神や佛をノノサンと呼ぶ程の敬語から來たのでは無いかと思ふが、併し此れだけでは、何と無く物足らぬ氣がする。敢て後賢を俟つ。但し同地方では、巫女を陰で賤しめて言ふ時はボッポㇰと稱してゐる。
旅女郎
(
タビジョラウ
)
長野市附近 長野新聞
中山曰:巫女が性的職業婦人を兼ねてゐた事には、段段と說明すべき資料が殘されてゐるが、其古い
相
(
スガタ
)
は、即ち巫娼である。下に載せた甲斐で巫女を
白湯文字
(
シロユモヂ
)
と呼ぶのも、又此意味に外成らぬのである。猶、此事に就いては、本文中に詳述する。
イチイ 同國松本市地方 胡桃澤勘內氏
中山曰:『新編武藏風土記稿』卷二六一に據ると、同國秩父郡兩神村
大字
薄の兩神山に、
一位
(
イチイ
)
の墓と云ふが有り、土人の傳に、「此山は女人禁制也しに、往昔一人の巫女が強ひて登り、石と化したのを埋めた物である。方言に
巫
(
カンナギ
)
をイチイと云ふので、誤つて一位と轉書したのであらうと載せてある。」此土人の傳は、巫女の化石傳說の一例として、
(此事は本文中に述べる。)
珍重すべき資料であるが、更に此れに依つて、巫女をイチイと稱したのは、獨り松本地方ばかりで無く、武藏の一部でも斯く呼んだ事が知られるのである。而して此のイチイの語源は、前に述べた樣に、琉球の
生靈
(
イチジャマ
)
と共通する物と考へてゐる。或は巫女にして「稻荷下げ」を兼ねてゐた所から、稻荷神が正一位と俗稱されてゐるので、其隠語としてイチイと呼んだのでは無いかと言ふ者が有るかも知れぬが、私にはそんな持迴つた考へには賛成が出來ぬ。
マンチ 越後國小千谷町地方 酒井宇吉氏
中山曰:『北越月令』には
滿日
(
マンニチ
)
と載せて有るが、蓋し同じ物であらう。而して、祭の事をマチと呼ぶ地方も多く在るので、此マンチは其の延言かとも考へられるが、少しく心
元無
(
モトナ
)
い樣にも思はれる。更に『鄉土研究』壹卷一二號に據ると、同國長岡市の、縣社金峯神社の末社、股倉神社の祭禮の折に、頭人は木綿鬘を被り、
伊達子
(
イタコ
)
、
(妻を唱ふ。)
脇伊達子
(
ワキイタコ
)
(妾。)
と共に、淨衣を裝ひ、神事に從ふと有るのから推すと、同地方にも古く巫女
(此場合の妻妾は巫女の資格である。)
を
伊達子
(
イタコ
)
と稱した物と考へられる。
守
(
モリ
)
同國絲魚川町地方 木嶋辰次郎氏
中山曰:前に舉げた常陸の其と同じく、神の御守りの意と思ふ。
白湯文字
(
シロユモヂ
)
甲斐國の一部 內藤文吉氏
中山曰:甲斐國で古く巫女を
白湯文字
(
シロユモヂ
)
と稱した事を、同國の地誌である『裏見寒話』
(寶曆頃の寫本。)
で見た記憶が有るが、同書が座右に無いので、參照する事が出來ぬ。此處には內藤氏の教示のままを載せるとする。而して此語源は、甲斐の隣國である信濃は、
步
(
アル
)
き
巫女
(
ミコ
)
の本場とて、
(此詳細は本文に記述する。)
關八州は勿論の事、遠くは近畿地方迄出掛けた物である。信濃巫女は常に二三人づつ連立ち、一人の荷物を伴うてゐるが、道中する時、著衣の裾を褰げ、白湯文字を出して步くので、遂に此名で呼ばれる樣に成つたのである。『鄉土研究』一卷四號の記事に據ると、紀州の田邊地方でも、信濃巫女の特徵は白湯文字であつたと載せて有る。此名は、巫女の風俗から負うた物であるが、更に土娼の白湯文字の俚稱の有る次第と、巫女との關係は、本文中に詳記する考へである。
寄せ巫女
(
ヨセミコ
)
三河國苅谷郡地方 加藤巖氏
口寄せ巫女
(
クチヨセミコ
)
美濃國加茂郡地方 林魁一氏
中山曰:此の二稱は、改めて說明する迄も無く、前に記した所で、解釋が出來ようと思ふ。
叩き巫女
(
タタキミコ
)
播磨國 物類稱呼
(卷一。)
中山曰:弓を
叩
(
タタ
)
きて呪術を行ひしより負うた名である。而して此俚稱を用ゐてゐる所は、紀州田邊町を始めとして、各地に在るが、今は煩を避けて省略する。
步き巫女
(
アルキミコ
)
大和奈良地方 大乘院雜事記
同書、寬正四年十一月二十三日條に、「七道者」と題し、「猿樂、
步
(
アル
)
キ白拍子、
步
(
アル
)
キ
御子
(
ミコ
)
、金
敲
(
タタ
)
キ、本
敲
(
タタ
)
キ、
步
(
アル
)
キ橫行、猿飼。」の七者が舉げて有る。
中山曰:巫女には、土著者と、漂泊者の二種が有つたが、大和のは、後者の其が時を定めて迴つて來たので、斯く稱した物である。
飯綱
(
イヅナ
)
丹波國何鹿郡地方 民族と歷史
同書
(四卷一號。)
に、「俗に狐付きを
飯綱
(
イヅナ
)
附、又は
飯綱持
(
イヅナモチ
)
と云つております。が夫れは
飯綱
(
イヅナ
)
と云ふ賤民が、狐を遣ふ人であるからです。
(中略)
彼等は、
口寄
(
クチヨセ
)
、稻荷降シ、諸呪を以て職業として、矢張多く人家と離れて居住しております。
云云。
」
中山曰:
飯綱
(
イヅナ
)
とは、信州の飯綱權現を主神とした巫女の一派?が有つたので、此名が生じたのであらうと思ふ。猶、此種に屬する巫女の徒が、賤民卑業者として、社會から差別待遇を受けた事情に就いては、本文中に記述する。
コンガラサマ 備前國邑久郡地方 時實默水氏
時實氏の報告に據ると、同地方では、
豉蟲
(
ミズスマシ
)
と云ふ蟲をコンガラマイと稱するより、巫女がグルグル人家を迴るので、斯く呼ぶ樣に成つたのであらうとの事である。
中山曰:『妻沼町誌』に據れば、武藏國妻沼町には、
瓢
(
テントウ
)
蟲の事をイチッコと云ひ、更に四國では巫女を
拜蟲
(
オガムシ
)
と云ふと『鄉土研究』一卷七號に有る。共に巫女の動作から來た俚稱である。
刀自話
(
トジバナシ
)
出雲の一部 鄉土研究
(二卷四號。)
中山曰:
刀自
(
トジ
)
は老女の意であるから、此地方では、專ら老女が巫女の業を營んだので、其で斯く言ふ樣に成つたのであらう。「話す」は前の磐城の「語り」と同じく、呪術の作法から來てゐる物である。
教へ
(
ヲシヘ
)
石見國 鄉土研究
(一卷一號。)
ナヲシ 中國邊 物類稱呼
(卷一。)
トリデ 筑後國の古語? 筑後地鑑
中山曰:三者共に、記述が簡單である上に、他に手懸りが無いので、何の事やら、皆目知る事が出來ぬ。同地方の讀者の示教を仰ぎたいと思つてゐる。
佾
(
イツ
)
土佐國 鄉土研究
同誌
(壹卷壹號。)
に、諸神社錄を引用して、「土佐で多くの社に
佾
(
イツ
)
と云ふ者が居るのも、亦是でであらう。
(中山曰、巫女の意。)
其住所を佾屋敷と云ひ、或は男の神主を佾太夫等とも云ふ。
云云。
」
更に『富岡町志』
(阿波國那賀郡。)
所載の延寶二年學原村棟付帳に、「
一
(
イチ
)
神子に入むこ、太次兵衛、此者
渭津
(
イツ
)
(中山曰、イツと訓む。)
籠屋町
左官
(
シヤクワン
)
次兵衛いとこ寬文拾年に參居申候。」と有る。巫覡を
佾
(
イツ
)
と稱したのは、獨り土佐ばかりで無く、廣く四國に及んでゐたのではあるまいか。
猶、『土佐國職人歌合』に、博士
(呪師。)
と有るのは、外法箱樣の物に弓を置き、左手に幣を、右手に棒を持つてゐるのは、尋常の神道者では無い。恐らく佾太夫の一種ではあるまいかと思ふ。
イチジョウ
(
市女?
)
筑後國直方町地方 青山大麓氏
中山曰:九州では概して巫女を「
市女イ
(
チジョウ
)
」と稱してゐる。而して此語源は、
市女
(
イチコ
)
の條に述べた如く、琉球語の「
生靈
(
イチジャマ
)
」と關係有る物と思ふ。
狐憑
(
キツネツケ
)
肥前國唐津地方 倉敷定氏
中山曰:前に載せた丹波の
飯綱
(
イヅナ
)
と同じく、巫女の呪術の方面から負うた名である。
巫女
(
ユタ
)
琉球 古琉球
中山曰:琉球は
巫女
(
フジョ
)
を信仰する事が頗る猛烈であつた為に、本嶋を始め三十六嶋の各邑落迄、巫女の二人や三人居らぬ土地は無い程である。從つて、其俚稱の如きも、嶋で異り村で違うと云ふ有樣で、此處に其總てを盡す事は出來ぬが、詮ずるに、
巫女
(
ユタ
)
の語が、內地の
市子
(
イチコ
)
と同じ樣に、各嶋嶋に共通してゐるので、今は此れだけを舉げるに留め、他は必要の際に載せるとする。而して
巫女
(
ユタ
)
の語源は、豫言者の意であると云はれてゐる。
ヤカミシュ 伊豆國新嶋 人類學雜誌
(一〇九號。)
中山曰:何の事か全く見當さへも付かぬ。勿論、私の淺學に依る事ではあるが、何とも致し方が無い。記して後考を俟つ。
ツス アイヌ族 アイヌの研究
中山曰:ツスは呪術の意であるが、後には此呪術を行ふ者の名稱と成つてしまつた。語源は判然せぬ。
降し巫女
(
オロシミコ
)
地域不明 關秘錄
(卷七。)
一殿
(
イチドノ
)
同上 神道名目類聚抄 中山曰:語源は改めて說明する迄も無い程明瞭の物であるが、使用された地方の判然し無いのは物足らぬが、敢て揭げるとした。一殿に就いて、『神道名目類聚抄』の著者は、「神樂
巫女
(
ミコ
)
」也と云うてゐるが、私はイチの語源から推して、單なる「神樂
巫女
(
ミコ
)
」とは考へられぬので、此處に舉げる事とした。
猶、此他に、
里巫女
(
サトミコ
)
、
村巫女
(
ムラミコ
)
、
熊野巫女
(
クマノミコ
)
、
上原
(
カンバラ
)
太夫、
白山相人
(
ハクサンザウニン
)
等記すべき者も有るが、今は大體を盡すに留めて、他は必要の機會の有る每に本文中に記述するとした。
第二節 巫女史の意義と他の學問との關係
我國に於ける巫女の研究は、宗教學的にも、民俗學的にも、更に、文化史的にも、重要なる位置を占めてゐるのである。神國を標榜し、祭政一致を國是とした我國に在つては、巫女の研究を疎卻しては、政治の起伏も、信仰の消長も、遂に闡明する事が出來ぬのである。巫女の最初の相は、神其者であつた。巫女が神子として、神と人との間に介在する樣に為つたのは、神の內容に變化を來たし、併せて巫女が退化してからの事である。而して巫女史の目的とする所は、是等の全般に涉つて、仔細に研究を試みる物で有るが、先づ此處には、巫女史の名稱、及び其內容、並びに巫女史と他の學問との關係に就いて略記する。
一、巫女史と云ふ名稱に就いて
巫女史とは、巫女の生活の歷史と云ふに外成らぬが、併し此文字を學術語として書名に用ゐたのは、恐らく本書が嚆矢であらうと信じてゐる。巫女に關する從來の研究は、巫女だけを學問の對象として企てた物は極めて尠く、漸く神職の一員──其も極めて輕い意味の、最下級の神職、又は補助神職と云ふ程の態度で取扱つて來たので、從つて巫女史と稱するが如き獨立した巫女の歷史は、未だ曾て何人にも試みられ無かつたのである。然るに、私の巫女に關する研究は、從來の其とは全く趣を異にし、專ら巫女を中心として、他の神職なり、制度なりを取扱ふと云ふのである。此處に多少とも、從來の研究と相違する點が存し、獨立した巫女史の內容が伴ふ物と考へてゐるのである。
我國にも、巫女に對して、覡男とも稱すべき者が有つた。勿論、此熟字は、支那の其を其のまま採用した物ではあるが、兔に角に女祝に對して男祝が有つた樣に、巫女に對して覡男の在つた事は事實であつて、然も兩者の關係は、頗る密接なる物であつた。『梁塵秘抄』に、「
東
(
アヅマ
)
には女は無きか
男巫
(
ヲトコミコ
)
、然ればや神の男には
憑
(
ツ
)
く。」と有る樣に、巫女と男覡との交涉は、殆んど同視される迄に、近い物があつて存した。併しながら、私の立場から言へば、巫女が本であつて覡男は末である。巫女は正態であつて、覡男は變態である。更に極言すれば、覡男は巫女を學んで、その代理を勤める者にしか過ぎぬのである。其故に、私の此巫女史からは、覡男は當然除外されべき物である。巫女に詳しくして、覡男に疎なるのも、要は此れが為めである。豫め此點を含んで置いて貰いたいのである。
二、巫女史の內容と其範圍
巫女史が、巫女の生活の歷史である以上は、此れに伴ふ全般の研究が內容として盛られ無ければ成らぬのは、改めて言ふを俟たぬ。而して、其內容は、巫女の發生、巫女の種類、巫女の階級、巫女の用ゐた呪術の方法と、其種類、巫女の師承關係、巫女が呪術を營むより生ずる性格の轉換、巫女と戦争、巫女と狩獵、巫女と農耕、巫女に限られた相續制度、及び巫女の社會的地位等を重なる問題とし、更に是等に伴ふ幾多の問題を出來るだけ網羅して、此れを各時代に於ける信仰の消長、政治の隆替、經濟の起伏、及び社會事情の推移等を基調として、其變遷を討尋するのであるから、頗る複雜を極めてゐるのである。
而して單に巫女が用ゐた呪術だけにあつても、我國固有の物に、支那の巫蠱の邪法が加り、佛教の加持祈禱の修法と習合し、猶ほ我國に於いて發達した修験道の呪法が交る等、實に雜糅紛更の限りを盡してゐる。加之、更に此れを民族學的に見る時は、我國固有の呪術と、東部
亞細亞
(
アジヤ
)
に行はれた
巫女
(
シャーマン
)
教との交涉、アイヌ民族の殘したツスとの關係等、彌が上にも錯綜してゐるのである。然も其等の一一に就いて、克明に發達變遷の跡を尋ねて新古を辨え、固有と外來とを識別するのであるから、其研究はかなり困難なる物ではあるが、其困難が直ちに巫女史の內容であると考へるので、其處に巫女史が學問として相當の價值を認められるのである。
巫女史と他の學問との關係に就いては記述すべき範圍が廣いので、混雜を防ぐ為に各項目の下に略記する。
三、巫女史と政治史との關係
我國に關する最古の文獻である『魏志』
(卷三〇。)
の「倭人傳」に據れば、倭國の主權者であつた
卑彌呼
(
ヒミコ
)
なる者は、「克事鬼神惑眾」所の巫女に外成らぬのである。此點から言へば、倭國の原始文化は、巫女に依つて代表され、呪術に精通した物が、一國の支配者としての、機能を有してゐたのであつて、即ち
フレザー氏
(
James George Frazer
)
の
帝王の魔術的起源
(
マジカル・オリジン・オブ・キングス
)
の學說を事實に於いて証明してゐるのである。而して、斯くの如き事象は、獨り倭國ばかりで無く、我が內地に在つても、又明確に認められるのである。國語の政治を言へる「まつりごと」が、祭事から出發してゐる事を知る時、古く我國が祭政一致であつた事を覺ると同時に、巫女が政治の中心勢力者であつた事を併せ考へねば成らぬ。何と成れば、我國で「まつりごと」の國語を生んだ時代に在つては、巫女其自身が直ちに神であり、且つ巫女の最高者が主權者であつたからである。
巫女史の立場から言へば、神璽と共殿同床した時代迄は、巫女が政治中心であつたと考へる事が出來るのである。然るに、政治と祭祀とが分離し、神を祭る者と民を治める者との區別が國法的に定められ、神其自身であつた巫女が一段と退化して、即ち
神子
(
ミコ
)
(神の子の意。)
として、神と人との間に介在する樣に成つても、猶ほ神託は、往往にして政治を動かす勢力を有してゐた。是等に就いては、各時代に於いて、例證を舉げて、詳記する考へであるが、巫女史と政治史との關係は、決して淺少なる物では無いのである。
四、巫女史と祭祀史との關係
我國の原始神道は、原則として、神を祭り神に仕へる者は、悉く女性に限つてゐて、男子は全く
之
(
コレ
)
に與る事が出來無かつたのである。天照神が、我國の最高神でありながら、
天神を祭られた
のは、女性であつた為である。
神武朝
に、道臣命が敕命に依つて神を祭る時、嚴媛の女性の名を負うたのも、此れが為である。崇神朝に、皇女である
豐鍬入媛命
が神の
御杖代
と成られたのも、又女性であつた為めである。今に男子が特殊の神事を行ふ時、女裝するのも、此古き原則を守る為である。而して、女性に限つて、神を祭る事を許されたのは、我國の原始神道が、一面巫女教であつた事を意味してゐると共に、一面神を祭る者は、悉く巫女としての資格を有してゐた事を意味してゐるのである。然るに、時勢の暢達は、漸く神の內容に變化を來たし、神道が固定する樣に成つたので、神主・祝・禰宜等の男性神職を出現させ、巫女の手から祭祀と神事の機能を奪つてしまい、此處に主客位置を代へて、巫女は下級の神職、又は補助神職か、員外神職の如き待遇を與へられるに至つたのである。併しながら、巫女教であつた原始神道の傳統は、神道が神祇官流に解釋され、更に神社神道から國體神道と迄發達しても、猶ほ且つ巫女なる者を泯滅する事が出來ず、今に其面影を留めてゐるのである。
巫女は祭祀としての葬儀史にも、亦深甚なる關係を有してゐるのである。佛教の渡來せぬ以前──即ち、我國固有の信仰と、祭儀とを以て、死體を葬り、死靈を祭るには、專ら巫女が其任に當つてゐたのである。神職の一つである
祝
(
ハフリ
)
の語源は、死體を
屠
(
ハフ
)
るを職とせし為に、
葬
(
ハフ
)
りと成り、更に
祝
(
ハフリ
)
と成つた事を知り、然も此
祝
(
ハフリ
)
が、元は巫女の役である事を知る時、葬儀史に於ける巫女の務めが、如何に重大なる物であつたかを考へずには居られ無いのである。而して、此問題は、相當に研究を要すべき事なので、詳細は本文に於いて述べるとする。
五、巫女史と呪術史との關係
巫女の聖職は呪術を行ふ事に重大の使命が存してゐた。併しながら、巫女の行うた呪術は、我國に於ける呪術の全體では無くして、僅に其一部分にしか過ぎぬのである。呪術史の觀點に起つて、古代の祭祀を檢討すれば、其機構を
為
(
ナ
)
してゐる重たる部分は、全く呪術の集成である。從つて、神事の宗源と言はれた天兒屋命及び太玉命は、公的の大呪術師とも考へられるのである。鹿の肩骨を灼いて太占を行ふ事も、更に此れが龜卜に代つても、其信仰の基調は呪術である。祝詞を發生的に考覈すれば、此れの內容に、呪術の思想が濃厚に含まれてゐた事が、看取される。諾尊が黄泉軍を郤ける時、桃實を投じたのも、神武帝が天香山の土を採つて平瓮を造られたのも、共に呪術の一種であると言ふ事が出來るのである。而して、國民の生活は、其悉くが殆ど呪術的であつて、火を鑽るにも、水を汲むにも、更に誇張して言へば、寢るにも起きるにも、食ふにも衣るにも、呪術の觀念を疎外する事は出來無かつたのである。科學を知ら無かつた古代に在つては、呪術が生活の根蔕を
為
(
ナ
)
してゐたのである。
然るに、巫女の行うた呪術は、是等の多種多樣の呪術より見れば、實に其一端にしか過ぎぬ物であつて、然もそれ が後世に成る程、呪術の範圍が局限され、漸く其面影を留めると云ふ有樣であつた。其故に、我國にも、歐米の心理學者、又は宗教學者が論ずるが如き、幾多の呪術の種類、及び呪術と宗教との交涉等も在つて存するのであるが、是等は一般の呪術史に關する問題であつて、巫女史は此れに
與
(
アズカ
)
る事が尠いので、本書は出來るだけ此種の問題には觸れぬ事とした。
六、巫女史と文學史との關係
巫女の始めは神其者であつた。從つて、神が意の有る所を人に告げるには、其時代としては、出來るだけ莊嚴にして、華麗なる口語を以てしたに相違無い。我國の
祝詞
(
ノリト
)
や、
壽詞
(
ヨゴト
)
は、此處に出發したのである。從つて我國の敘事詩が、古き物程一人稱に成つてゐるのは、巫女が神として述べた事に出發してゐる為である。然るに、神の內容が變化し、巫女は神の子として、其託宣を取次ぐ樣に成れば、巫女は神を降ろし、神を遊ばせ、神を
和
(
ナゴ
)
め、神を慰め、神を歸す等の呪文を發明すべき必要があつた。而して此呪文は、古きに溯る程、律語を以て唱へられるのが常であつて、我國の歌謠は、斯くして一段の發達を致したのである。巫女が唱へた是等の律語が、如何なる物であつて、然も是等の律語と歌謠との關係、及び律語が歌謠化され、更に說話化されて、各地に分布された過程に就いては、本文に詳記する機會を保留するが、兔に角に、我國の文學史は、巫女の呪文に依つて、スタートが切られてゐるのである。
此機會に、併せ言ふべき事は、巫女史と舞踊史との關係である。我國の舞踊史は、其第一
頁
(
ペーヂ
)
が巫女の祖先神と稱せらるる天鈿女命に依つて飾られてゐるのである。鈿女命の天磐戶前に於ける
神憑
(
カムガカ
)
りの狀態が、跳躍教と迄言はれる
巫道
(
シャーマニズム
)
の其と、如何なる點迄民族學的に共通性を帶びてゐるか否か、更に此種の神憑りの狀態を以て、直ちに舞踊と云ふ事が出來るか否か、更に我國の舞踊起源が、性的行為の誇張化から出發してゐるか否かは、本文に詳述するとしても、巫女と舞踊とは、決して無關係であつたとは言へぬのである。巫女と音樂の關係も又さうであつて、我國の古代に於ける樂器は、概して巫女が神を降し、神を和める折に用ゐた物であつて、然も此れに依つて相當の發達を遂げたのである。猶ほ是等に就いても、段段と記述する考へである。
七、巫女史と經濟史との關係
我國の狩獵時代に於ける巫女の任務は、今人が想像するよりは重大なる物であつた。狩區の方面、及び日時の選定は、巫女が山神と海神とを祭り、其神意を問うて決定したのである。更に農耕時代に入つても、穀神は女性であり、插秧にも、收穫にも、巫女が中心と成つて、穀神を祭り、其恩賴を祈つた。巫女と經濟との交涉は、此處に端が開かれたのである。我國の古代に在つては、山に狩るも、海に漁るも、更に田に稻を播くも、畑に麥を作るも、悉く神意に聽くべき信仰が伴ひ、然も此神意は、獨り巫女に依つて、人間に傳へられてゐたのである。
生命を繋ぐべき食物に於いて既に斯くの如くである。從つて家屋の建築に、飲料水の保護に、更に機織の道に、裁縫の術に、經濟上の生產物は、悉く巫女の呪術に依つて神神の冥助を仰がねば成らぬ狀態に置かれてゐたのである。而して、時勢が降り、巫女が神社を離れて、各地方に漂泊する樣に成るや、巫女は背に負ひし箱を神意に托して、或は村落に入りて農耕の方法を教へ、或荒蕪の地に土著して、村を開き里を作る者さへ有つた。
殊に注意すべき事は、祭祀を中心として發達した工業は、殆んど巫女に依つて制作せられた點である。鏡作りの祖は石凝姥神であり、機織の祖は天棚機比賣神であり、此外に、酒を作る刀自、稻を白げる搗女等、巫女が經濟的に活動した事は、決して尠く無いのである。從つて、我國の原始經濟狀態を知るには、巫女史の研究に負ふ所が多いのである。
八、巫女史と賣笑史の關係
我國の性的職業婦人の起源は、神寵の衰へたる巫女、又は神戒に叛きたる巫女に
由
(
ヨ
)
つて發生した物である。私の所謂「巫娼」なる者は、此れを意味してゐるのである。勿論、巫娼の間には、幾多の種類も有つた。其と同時に、我國の古代に在つては、賣笑は必ずしも不德の行為でも無く、且つ決して醜業では無かつた。宗教的の意味を濃厚に含んでゐる賣笑も有れば、亂婚時代の習俗を承けた賣笑も有つたが、併し其等の者が、純粹なる賣笑行為として常習的に、且つ繼續的に營まれる樣に成つたのは、巫娼に始まるのである。伊勢の古市遊郭の起源と、子良・母良の關係を知る事は、現在の史料からは殆ど不可能の事に成つて
了
(
シマ
)
い、更に大和の春日若宮に仕へた巫女と、同地木辻遊郭との交涉を尋ねる事も、至難の事に成つて了つたが、此れに反して、攝州住吉神社と乳守の遊郭、播州室津の賀茂神社と同所の遊女の關係は、今も朧げに知る事が出來るのである。而して、我國の名神・大社と言はれる神社が、殆ど言ひ合わせた樣に、其神社の近くに遊郭を有してゐる事は、古き巫娼の存在を想はせる物である。從つて是等の巫娼から出た我國の遊女が、古く流れの身と言はれてゐながらも、猶ほ立烏帽子を著け、皷を持ち、更に太夫と稱して、歌舞に迄關係してゐたのである。我國の歌舞伎の源流が、出雲大社の巫娼であるお國に依つて發した事も、決して偶然では無かつたのである。
九、巫女史と法制史との關係
我國には、人が人を裁く以前に、人が神の名に由つて、人を裁いた時代が有つた。即ち神判なる物が此れであつて、然も此れを行うた者は巫女である。
濡れ衣と云へば、現在では冤罪の意に解釋されてゐるが、此れは我が古代に於いて、嫌疑者に濡れたる衣を著せ、其水の乾く事の遅速を以て、罪の有無を判じた事實に出發してゐるのである。更に神水を飲ませて罪を按じ、鐵火を握らせ、
探湯
(
クガタチ
)
を為さしめ、蛇に咬ませ、起誓の失を判じさせる等の、神判を掌つてゐた者は巫女であつた。江戶期の初葉迄行はれてゐた、神文の鐘を撞くと云ふ裁きも、其始めは巫女が此れを主宰してゐたのである。素尊が天津罪を犯した折に、諸神が神
議
(
ハカ
)
りに議りて、鬚を切り、爪を切り、千座の置座を負せて、神
逐
(
ハラ
)
い逐い給うたと有るのも、所詮は巫女が神意を問うての結果と見るべきである。斯う考へて來ると、我國の法制史と巫女との交涉は、決して淺い物では無いのである。 猶、巫女史は、此外にも、原始神道史や、民間信仰史にも、深甚なる交涉を有してゐる事は言ふ迄も無いが、是等に就いては本文中に詳記する機會が有るので、今は省略する。
第三節 巫女史の學問上に於ける位置
巫女史の交涉する所は、既述の如く、政治、經濟、祭祀、文學、歌舞、法制等の各般に及んでゐるのであるが、是等は言ふ迄も無く、我國の文化の大系であつて、
之
(
コレ
)
を知るにあらざれば、文化の真相は遂に了解する事が出來ぬのである。而して、巫女史の學問上に於ける地位は、大略、左の三點より考察すべき物と信じてゐる。
一、文化史に於ける巫女史の地位
發生的に言へば、我國のあらゆる文化は巫女から生まれた物であると云へるのである。即ち巫女史は、人類文化生活の根蔕である。政治、經濟、法制、文學、歌舞、祭祀等の總てに亘って交涉を有し、然も是等の文化事象を生んだ母體であるから、廣い意味から言へば、文化史の起源であつて、
之
(
コレ
)
を疎卻しては、文化の發生的意義は、尋ねる事が出來ぬのである。文化史に於いて、與へられたる巫女史の地位は、かなり重要なる役割を占めてゐるのである。
巫女史を、文化發達史の方面から見れば、其は母權時代の人類生活を意味してゐる。此時代に在つては、專ら女子が社會の中心と成つてゐて、所謂、女子政治時代を現出してゐた。巫女の發生は即ち此時代に在つた物で、鬼道に通ぜる巫女が支配者として、一國亦は一郡を統治してゐた。而して、此時代に在つては、巫道に通じ、呪術に長じた物が、社會の最高位に置かれたのであるから、此處に種種なる巫術の發達を促し、併せて巫道の進步を來たしたのである。巫女史は、是等の各般に就いて、研究すべき使命を有してゐるのである。
二、原始神道に於ける巫女史の地位
人類の間に宗教なる物が發生せぬ以前に於いて、既に呪術なる物が存在し、宗教は此呪術に依つて發生したと云ふ呪術先行論と云ふのがある。此れに反して、宗教の基調である神聖觀念は、呪術の發生に先つて人類の間に意識されてゐたので、宗教は呪術の以前に發生した物だと云ふ宗教先在論が有る。更に、此兩說を折衷して、宗教と呪術とは、元元發生の動機を別にしてゐる物で、此れに前後の區別をするのは無理であつて、兩者ともに併行した物だと云ふ併行論も有る。而して我國の巫女の有する呪術なる物が、宗教──即ち神聖觀念の基調を外にして發生した物か否か、更に原始神道と巫女教との關係が如何であつたか、是等は共に相當の研究を要すべき問題であるが、
(但し其事は本文中に記す考へである。)
兔に角に、廣い宗教學の意味から離れて、狹い意味の原始神道の上から見ただけでも、巫女史の研究は、相當に意味の深い物と言へるのである。
現在の如く、神道が固定して
了
(
シマ
)
つて、祭神の考覈も、教義の研究も、內務省の神社局から發せられる物が絕對の權威を有つ樣に成つては、巫女と神道との關係の如きは、有無共に問題に成らぬ迄に稀薄な勿と成つたが、原始神道は巫女教であつただけに、巫女を閑卻しては、教義の考覈等は、到底企てる事が出來無かつたのである。原始神道の研究は、巫女史を闡明にするに有らざれば、達成する事は不可能である。
三、民俗學に於ける巫女史の地位
民俗學
(
Ethnology
)
の目的の一は、異つた集團の性質を究める點に在る。我國の民族の如きも、現時に在つては、殆んど同一民族と見る迄に、同化し、融和して了つたが、併し是等の
中
(
ウチ
)
に、幾多の異つた民族の集團の曾て存在した事は、今や、人類學的にも、考古學的にも、更に民俗學的にも、証示される迄に成つた。而して此異つた集團は、又各自の巫女を有してゐたのである。其が巫女の流派として、後世に殘された物である。勿論、此流派の
中
(
ウチ
)
には、師資の關係から來た變化も認め無ければ成らぬけれども、鼓を打つて神を降した巫女と、弦を叩いて神を降した巫女とは、民俗學的には、必ずしも同一と見る事は出來ぬのである。此れには、文化の移動と云ふ事も考慮の內に加へ無ければ成らぬが、巫女史の研究は、民俗學的に見る時、一段と學問的の價值を大ならしめる物と信ずるのである。
[久遠の絆]
[再臨ノ詔]