日本巫女史 第一篇:固有咒法時代


  • 第五章、巫女の作法と呪術の種類

     茲に巫女の作法とは、巫女が呪術を行ふに際して、如何なる動作を執つたかと云ふ意味なのである。反言すれば、巫女は呪術を為すに、呪文又は呪言を唱へる以外に、肉體的に如何なる所作を演じたかと云ふ事なのである。更に、呪術の種類とは、呪術の目的を基調とした種類では無くして、呪術の方法を標準として區別した種類の意味なのである。換言すれば、第二章に既記した呪術の目的の種類では無くして、呪術の方法の種類を言うたのである。敢て誤解を防ぐ為に附記する次第である。

    • 第一節 巫女の呪術的作法

       古代の巫女が呪術を行ふ折に、如何なる作法を執つた物か、其詳細は元より知る事は出來ぬけれども、古文獻に現はれた所では、(一)逆手を打つ事、(二)跳躍すことの二つだけは、やや明確に知る事が出來るので、此れに就いて記述する。

        一、逆手

         逆手の典據に就いては、『
        古事記國讓りの條に、八重事代主神が、「『此國者,立奉天神之御子。』即蹈傾其船而,天逆手矣。於青柴垣打成而隱也。」と有るのが、其である。然るに、此逆手の研究に在つては、此れ又、古くから異說が多く、今に其定說を見ぬ程の難問題なのである。此處には代表的の研究として二三の異說を舉げる。
         本居宣長翁は斯う云つてゐる。

           『伊勢物語』に、天の逆手を拍てなむ(ノロ)ひ居ると有ると、相照して思ふに、古へに逆手を拍て、物を(カヂ)る術(俗に云ふ麻自那比(マジナヒ)也。)のありし也。(中略。)此處は船を柴垣に變化(ナサ)む為の呪術也。さて、逆手を拍と云ふ拍狀は、先づ常に手を拍は、掌を擊つを、此は逆に翻して、掌を外に為して拍を云ふか、又は常には兩掌を同じ態に對へて拍を此は左と右との上下を、逆にやり違へて拍を云か、此二の間今定め難し。

         と說き、更に逆手は吉凶ともに拍つ物である事、及び逆手と後手(此事は後に云ふ。)とは別な物であるとて僧契沖と賀茂真淵の兩說を難じてゐる〕。
         然るに、本居翁の論敵である橘守部翁は、之に就いて先づ本居說を引き、更に曰く、

           逆手とは、逆は唯借字にて、榮手(サカデ)の義にこそ在れ、逆にするには非ず。榮手とは榮字を、常にさかえともはえとも訓如く、其為術事に榮あらせんとて、手を拍て物とするを云ふ。こを右の『古事記』以て云はば、即船を青柴垣に變化(ナス)術に榮あらせんとて手を拍てものし給ひし也云云。

         と論じ、猶お、「本居氏等の、恒に右の如き(ヲサナゴト)を言ひ流行(ハヤ)せる、打見るも(シレ)痴しく。」と云ひ、一歩を進めて、「斯くて復古の大道開くべき器かは、と思へば悲しくさへ成りて。」と迄極言してゐる〕。
         而して谷川士清翁は曰く、「天の逆手と云へるは、蒼柴垣に隱れたまはんとての事なれば、進むは順退くは逆なれば、逆手打とは云ふなるべし。『伊勢物語』に、『天逆手打て(ノロ)ひをりける。』と見えたるは、人を呪詛する樣逆手を用ゐたる成べし。猶後手(シリヘテ)の義の如し。天とは例文に依る詞也。今の人逆手を忌と云ふも是也。寄海人戀歌に、『我戀は、(アマ)の逆手を、打返し、思ひ時てや、世をも怨みん。』肖聞抄に海人のかつきに海底へ入らんとて、手にて浪を打也と云へり。」と述べてゐる〕。
         猶ほ、此外に、伊勢貞丈翁は、「逆手は退手也、退く事を退事(サカゴト)と云ふ、人前へ進みて逢ふ時に、手を拍つ、此れ進み見るの禮也、退く時にも又手を拍て退く、(コレ)退出の禮也。天逆手の事を海人の事と云說有り。(中略。)色色樣樣の邪說區區(マチマチ)也、用ゆべからず。(中略。)逆手とて(ウシロ)手に、手をうちて、人を呪詛する事也と云は、『伊勢物語』の本文に合ふ樣作りたる說也、是僻事(ヒガゴト)也。」と〕、殆んど以上の諸說を否定するが如き駁論を試みてゐる。
         而して是等の諸說を參酌して、私の考察を述べんに、事代主命の船を踏み傾けて青柴垣に隱るるとは、即ち入水した事を意味してゐるのであるから〕、此場合に拍つた逆手なる物が、本居翁の言ふ如く、吉凶の兩方に用ゐたと解せらるべき筈は無く、さればとて、守部翁の言ふ如く、船を柴垣に打ち成す榮手とも考へられず、谷川翁の三義も徹底せぬ嫌ひが有り、伊勢翁の退手も字義に捉はれた樣に想はれるので、所詮は賀茂翁の言はれた樣に、凶事にのみ用ゐる呪術の一作法と信ずるのである。後手に就いては、『日本書紀』の一書に、海神が彥火火出見尊に教へて、「以此鉤與汝兄時,則稱:『貧鉤(マチチ)滅鉤(ホロビチ)落薄鉤(オトロヘチ)。』言訖,以後手((シリヘデ)投棄與之。勿以向授。」と有る樣に、此れは呪術的の意味が明白に且つ濃厚に含まれてゐた事が知られる。『釋日本紀』卷八に、「今世(マジナフ)物之時,必以後手也。」と述べたのも、決して虛構だとは想はれぬ。私は逆手は此後手と同じ程の內容を有する物と信ずるのである。


        二、跳躍

         シャーマン教は、一名跳神教とも言はれる程であつて、之に屬する巫覡の徒は、猛烈に跳躍を續け、其結果催眠狀態に入るのであるが、我が古代の巫女が、此れと同じ樣に旺んに跳躍したか否か、判然し無い。勿論鈿女命が天磐戶の齋庭に於いて神憑りした事を、『
        日本書紀』には、「(タクミ)排優(ワザヲギ)。」と載せてゐる據り推すも、鈿女命が跳躍的の動作を執つた事は明白であるが、此動作が、神憑り狀態に入るべき必要條件であつたか、其れとも磐戶に隱れし天照神を誘出す手段として、八百萬神を咲樂せしむる為であつたか、其の點が少しく釋然せぬ嫌ひが有る。併しながら、私の考へてゐる所を簡單に言へば、鈿女命は『釋日本紀』に引用せる『天書』第二に有る如く、神憑りには熟練せる師巫であつたと想はれるので、シャーマンの如く狂跳勇躍せずとも、直ちに其狀態に入る事が出來たのであろうが、又相當の跳躍的動作を為した事も、覆槽を踏み轟かして拍手を取り、胸乳を搔き出し、裳紐を番登に押し垂れる有樣から見て、疑ふ餘地は無い。
         唯、問題として殘る所は、鈿女命の此動作が、シャーマンの其と、直接なり、間接なりに、交涉を有つてゐるか、どうかと云ふ點である。私の淺薄なる見聞では、此問題を解決する事は至難であるが、兔に角に我國の古代は、シャーマニズムの文化圏內に在つた所から見ると、全く影響が無かつたとは言へぬけれども、さりとてシャーマン即鈿女命と斷ずる事は如何かと考へられる。而してずつと後世に成ると、巫女も猖んに跳躍を試みた記事が散見するが、此れが鈿女直系の所作か、或は佛道・修驗道の影響を受けた物か、其の邊が明瞭を缺くので、此れを以て古代を反推する譯にも往かぬのである。猶ほ、巫女と舞躍との關係に就いては、後章に述べる考へである。

        • 註第一〕『古事記傳』卷一四(本居宣長全集本)
        • 註第二〕『鐘の響き』卷三(橘守部全集本)
        • 註第三〕『增補語林和訓栞』其條。
        • 註第四〕『貞丈雜記』卷一(故實叢書本)
        • 註第五〕事代主命が蒼柴垣に隱るるとは、即ち入水した意味と解釋する學者も少く無い。私もそう解釋する事が至當であると考へてゐる。


    • 第二節 顯神明之憑談としての呪術

       巫女の初見は菊理媛神であるが、此神に就いては、『日本書紀(『古事記』には載せてない。)の記事が餘りに簡單である為に、如何なる呪術を用ゐた物か全く知る事が出來ぬけれども、此れに較べると天照神の天磐戶隱れの齋庭に於ける天鈿女命の顯神明之憑談(カミガカリ)なる物は、やや詳しく記載されてゐるので、左に『古事記』から必要の部分だけを抄出し、此れに私見に添へるとする。

         天宇受賣命,手次繋天香山之天之(日影)而,為鬘天之真拆而,手草結天香山之小竹葉而,於天之石屋戶伏(汙氣)而,蹈(登杼呂許志),為神懸而,掛出胸乳,裳緒忍垂於番登也。爾高天原(ユス)而,八百萬神共(ワラ)。云云。(有朋堂文庫本。)

       此記事に據ると、神の憑代と成る者は、(一)蘿を襷に掛け、(二)真拆を鬘にし、(三)笹葉を手に持ち、(四)空槽の上に乘つて、其を踏み轟かして、神懸り狀態に入るのであるが、然も此狀態に入ると、(一)胸乳を搔出し(二)裳緒を番登に押垂れる等の放神的動作に出る事さへ有つた。併し、此時に、鈿女命に何れの神が憑り、何の託宣をしたかに就いては、記・紀ともに明記を缺いてゐるので、何事も知る事が出來ぬのである。
       由來、巫女が神懸り狀態に入る目的は、神の憑代と成つて、託宣をする事に存してゐて、其以外には殆んど此作法を必要としてゐぬのである。其にも拘らず、此鈿女命の場合に限つて、其を缺いてゐるのは如何なる次第であるか、此れには又た相當の理由が存してゐるのである。
       天照神の磐戶隱れに就いては、昔から學者の間に異說が有る。本居翁の如く、「神代卷の總てを一種の信仰と感激とを以て、其の在るがままに解釋した物は、此れを天照神が素尊の暴逆を怒つて、磐戶に隱れた物。」としてゐるが、新井白石翁の如く、「神代の記事は悉く歴史也。」と云ふ立場に在る者は、此事件を天照神の神避りと作し、齋庭の儀式は葬祭であると斷じてゐる〕。更に、高木敏雄氏の樣に、比較神話學から此事を說き、素尊を暴風雨神と作し、「暴風雨退散して、天日再び輝ける狀を記す物也。」と論ずる有れば〕、津田左右吉氏は、比較民俗學の觀點から此事象は蠻民俗の間に見る、日蝕の祭儀であると說く者も在る〕。  而して私は、是等の四說の中から、第二の新井白石の說を採る者であつて、磐戶隱れは、一種の墓前祭(我國祭祀の起原が、社前祭で無くして、墓前祭で在つた事は後節に述べる。)であつたと信ずるのである。然らば何故に墓前祭に斯かる巫女の神憑りが必要であつたかと云ふに、此れには又相當に重要なる理由が存してゐたのである。
       元來、我が古代では、人が死ぬと、其屍體を直ちに葬る事無く、八日八夜の間は、殯葬(モガリ)殯葬(モガリ)の民俗學的意義は後章に述べる。)と稱して梓宮(アラキノミヤ)に置く習俗が有つた〕。而して此殯葬の期間だけは、親族(ウカラ)宗族(ヤカラ)が集つて、一方死靈を慰め和げる為に、一方遺族の悲しみと憂ひを拂ふ為に、盛んに歌舞宴遊するのを習はしとしたのである。『古事記』に、天若日子が横死せるを殯葬せし條に、

         在天天若日子之父・天津國玉神,及其妻子聞而,降來哭悲。乃於其處作喪屋而,(中略。)日八日、夜八夜以遊也。

       と有るのが、一証である。而して茲に注意すべき事は、此殯葬中は、屍體を全く活ける者同樣に取扱ひ、そして生ける者に接する樣、其死顏を見ては、遊びを續けた點である。前に舉げた諾尊が冊尊を追うて黃泉國に往かれたと有るのは、民俗學的に言へば、冊尊を殯葬した靈柩を開いて窺ひ見られた事なのである。天照神が磐戶に隱れたと有るのは、考古學的に言へば、石棺に入られた事である。
       然も此民俗は、琉球には近年迄殘つてゐた。即ち、同國の津堅島では、二十四五年前迄は、人が死ぬと、蓆で包んで、後世山(グシャウヤマ)(中山曰、後世の語には骨を腐らすと云ふ程の意が有る。)と稱する藪中に放つたが、其家族や親戚朋友達は、屍體が腐爛して臭氣が出る迄は、每日の樣に後世山を訪れて、死人の顏を(ノゾ)いて歸るのであつた。死人がもし若い者である場合には、生前の遊び仲間の青年男女が、每晩の樣に酒肴や樂器を攜へて(コレ)を訪ずれ、一人一人死人の顏を覘いた後で、思ふ存分に踊り狂つて、其靈を慰めた物である〕。
       此民俗を知つて、再び天磐戶の記事を讀み返して見ると、其處に共通の信仰の含まれてゐる事が知られるのである。即ち鈿女命が神懸りしたのは、託宣する為めで無くして、專ら天照神の尊靈を慰め和らげるのに外成らぬのであつた。現在では、國語の「あそぶ」に、漢字の「遊」が箝當せられた所から、遊びと云へば、遊樂とか、道樂とかにのみ解釋されてゐるが、我國の「(あそび)」の古義は、祭祀を指した物であつて、祭祀の外に遊びは無かつたのである。度會延佳が、「遊は神事也。」と斷言したのは、最も良く我國の古俗を道破した物である。而して此遊びに必要として、胸乳を搔出し、番登を露出して、「八百萬神共(ワラ)。」と有る葬宴に成るのである。勿論、此等の局部が呪力(マジカル・パワー)として死靈の祟りを防ぐ事の出來る物と信じての動作である事は言ふ迄も無い。更に『古語拾遺』に此條を記した末に、「天晴(阿波禮)あな面白(阿那於茂志呂)あな樂(阿那多能志)あな清(阿那佐夜憩)をけ(飫憩)。」と稱へて、神神が手を伸して歌舞したと有る。此「面白」は、昔から如何にも古代に相應しからぬ措辭として、代代の學者も疑つてゐるのであるが、私に言はせると、琉球津堅島の民俗の如く、屍體の顏を覗き見ては、未だ變相せぬのを、斯く、「面白し、あな樂し。」と言うたのでは無いかと考へてゐる。天磐戶前に於ける鈿女命の神懸りの目的は、殯祭葬祭の為の遊樂であつた。從つて茲に憑り神無く、託宣無きは、當然であつたのである。猶ほ此れに就いては、次節の鎮魂條を參照せられたい。

        • 註第一〕『古史通』及び『古史或問』に、其意味の事が、明白に記されてゐる。
        • 註第二〕『比較神話學』一三〇ページに、其事が力說して有る。
        • 註第三〕『神代史の研究』及び『古事記・日本書紀の新研究』に見えてゐる。
        • 註第四〕殯葬は身分の高下に依り、其期間に長短の差の有つた事は言ふ迄も無いが、長いのは五・六年も要した物おさへ有る。此れは大規模なる墳墓を築造する為である。
        • 註第五〕雜誌『民族』第二卷第五號の「南島古代の葬儀」參照。


    • 第三節 鎮魂祭に現はれたる呪術

       我が古代人が我が靈魂を二つに分けて、一は荒魂(アラミタマ)──即ち生ける人の魂と、二は和魂(ニギミタマ)──即ち死せる人の魂とした事は既述したが、更に此靈魂の解釋は、時勢と共に一段と發展して、人が病魔に襲はれるのは、魂が身體の居るべき處に居られぬ為である。其故に、健康を續けんには、恒に魂を中府に置く樣にし無ければ成らぬと云ふので、此處に鎮魂祭なる物が發生した。然るに、此れに反して、死せる人の魂は、凶癘魂と成つて、疎び荒振る物である。此れを鎮めるにも同じく鎮魂の神事なる物が工夫された。而して前者は、鈿女命及び其系統に屬する猿女君(サルメノキミ)が傳へ、後者は伊賀の比自岐和氣(ヒジキワケ)に屬する遊部(アソビベ)なる者が承けたのである。私は此れに就いて、猶ほ少しく詳述して、兩者の關係と、古代の靈魂に對する信仰とを、明かにしたいと思ふ。
       生身魂(イキミタマ)を鎮める方法に就いては、『舊事本紀(第五天孫本紀。)に左の如き典據が載せてある。

         宇摩志麻治命,以天神御祖授饒速日尊天璽瑞寶十種,(中山曰、瑞寶十種は後に舉げる。)而奉獻於天孫。(中略。)宇摩志麻治命,十一月丙子朔庚寅,初齋瑞寶。奉為帝后,鎮祭御魂,祈請壽祚。其鎮魂之祭,自此而始矣。(中略。)凡厥鎮祭之日,猿女君等主其神樂,舉其言大謂:「()()()()()()()()()()。」而神樂歌儛,尤緣瑞寶,蓋謂斯歟。云云。(國史大系本。)

       此記事を文字通りに解釋すれば、鎮魂祭の本義は、瑞寶十種を齋ふ事に存するのである。而して其瑞寶とは、同じ『舊事本紀(第三天神本紀。)に、下の如く掲げて有る。

         天神御祖詔授天璽瑞寶十種。謂,瀛都(ヲキツ)鏡一、邊都(ヘツ)鏡一、八握劍一、生玉(イクタマ)一、死反(シニカヘシ)玉一、足玉一、道反玉一、蛇比禮一、蜂比禮一、品物(クサクサノモノ)比禮一是也。天神御祖教詔曰:「若有痛處者,令茲十寶謂:『()()()()()()()()()()。』而フルヘ(布瑠部)ユラユラとフルヘ(由良由良止布瑠部)。如此為之者,死人返生矣。」是則所謂「布瑠之言」本矣。云云。(國史大系本。)

       此記事を讀めば、多くの說明を為さずとも、直ちに是等の瑞寶十種の悉くが、純然たる呪具(Talisman)である事が知られると同時に、唱ふる所の一二三(ヒフミ)の數字、及び由良由良(ユラユラ)の語が、此れ又た純然たる呪文(Spell)である事が知られるのである。而して此一事は、我國の呪術が醫術的方面にも交涉を有してゐた事を示唆する物であつて、然も此呪術を行へば、「死人反生」する物と、信じてゐたのである。『令義解』の職員令鎮魂條に、「謂鎮安也。人陽氣曰魂,魂運也。言招離遊之運魂,鎮身體之中府。故曰鎮魂。」と有るのも、又此方面に觸れてゐるのである。
       神代に發祥した鎮魂の祭儀は、列聖の間にも、每年十一月の中の寅日を以て、嚴かに執り行はれて來た。勿論、其の時代に依り、多生は繁簡の差は在つた事と思ふが、今日からは仔細に其を知る事は出來ぬ。此處には、やや時代が降るけれども、此祭儀の固定して永く規範と成つた、然も記錄として最も古き物に屬する『貞觀儀式』(『政事要略』第二十六要所收。)から、本節に必要有る處だけを抄錄する。

        鎮魂祭儀 【十一月中寅日,中宮(祭儀)准此。但東宮用巳日。】

         其日,所司預敷神座於宮內省廳事、次設大臣以下座於西舎南。(中略。)酉二點,大臣以下就西舎座。神祇伯以下率琴師、御巫、神部、卜部等,著榛摺衣,令持供神物,左右相分,入立庭中。神部昇自東階,置神寶於堂上。(中山曰、十種瑞寶。)次舁神机昇,御巫從之。次神部四人,各持琴,左右相分。(中略。)次大膳職、造酒司,供八代物。縫殿寮,率猨女昇自東側,就座。次內侍令賚御衣匣,自大內退出,昇自東階就座。治部省率雅樂寮樂人、歌女等,昇自西側階就座。訖大臣出自西舎,昇自西側階、就堂上座。(中略。)大臣宣:「賜縵木綿。」丞稱:「唯。」退。丞率錄史生、藏部等,實木綿於筥,入先賜神祇官人。(中略。)訖神祇伯喚琴師,各二人,共稱唯。次喚笛工,各二人,共稱唯。伯命琴笛相和,【○原註略。】四人共稱唯。先吹笛一曲,次調琴聲。訖,琴師彈絃,與神部共歌二成。次神樂寮歌人同音共歌二成,神部二人(催夕)拍子,御巫始舞。每舞巫部譽舞三週。【○原註略。】大藏錄以安藝木綿二枚實於筥中、進置伯前。御巫覆宇氣槽立其上,以桙撞槽,每十度。畢,伯結木綿縵。訖,御巫舞訖,以諸御巫猨女舞畢。(中略。)訖,各各退出。云云。(史籍集覽本。)

       此記事に據つて考へれば、宮中に行はれた鎮魂祭は、既載の『舊事本紀』の典據と、『古事記』に記された天磐戶の鈿女命の所作とを基調として、僅に此れに二三の新しい祭儀の手續きを加へただけであつて、其根幹と成つてゐる祭儀も信仰も、全く同一である事が、明白に看取せられるのである。而して其祭儀が呪術的であつて、且つ信仰が、呪術思想に出發してゐる事も、併せて拜察されるのである。
       猶ほ平安期の鎮魂祭に就いては、其機會が有れば記述したいと思うてゐるが、根本の信仰に在つては、依然として呪術的範疇に屬してゐたのである。因に云ふが、鎮魂祭に關する史料を集めた物には『古事類苑』の神祇部が有り、考証的の物には、伴信友翁の詳細を極めた『鎮魂傳』が有り、由良由良(ユラユラ)の呪文に就いての委曲を盡した考証は、同翁著の『比古婆衣』に在り。更に一二三(ヒフミ)の數字を呪文とした理由(此れはやや獨斷的の物ではあるが。)に就いては平田翁の『宮比神御傳記』が有る。參照せらるると仕合せである。
       然るに、此れに反して、我が古代には、死人の魂を鎮むるにも、鎮魂の神事が行はれてゐた。而して此れを行ふ者を「遊部」と稱してゐた。遊部の典據に就いては、『令集解』の喪葬令の條に、左の如き記載が有る。

         遊部者,終身勿事,故云遊部也。釋云。(中略。)遊部,隔幽顯境,鎮凶癘魂之氏也。終身勿事,故云遊部。古記云,遊部者,在大倭國高市郡,生目(垂仁)天皇之苗裔也。所以負遊部者,生目天皇之蘖,圓目王娶伊賀比自支和氣之女為妻也。凡天皇崩時者,比自支和氣等到殯所,而供奉其事。仍取其二人名稱禰義余此也。禰義者,負刀,並持戈。余此者,持酒食,並負刀,並入內供奉也。(中略)。後及於長谷(雄略)天皇崩時,而依罄比自支和氣,七日七夜不奉御食,依此荒び賜ひき(阿良備多麻比岐)。爾時諸國求其氏人,或人曰:「圓目王娶比自支和氣為妻,是王可問云。」仍召問。答云:「然也。」召其妻問,答云:「我氏死絶,妾一人在耳。」即指奉其事。女申云:「女者不便負兵供奉。」仍以其事移其夫圓目王。即其夫代其妻而奉其事,依比和平給也。爾時詔:「自今日以後,手足毛成八束毛遊詔也。」故名遊部君是也云云。(國書刊行會本。)

       是れに據ると大體次の如き事が知り得られる。
      • 一、遊部とは、生目(垂仁)天皇の苗裔であつた圓目王に屬し、中臣裔の猿女君以外に、一部の部曲(カキベ)を為してゐた事。
      • 二、其職務は、天皇の大喪に際し、殯所に於いて、幽顯の境を隔てて、凶癘の魂を鎮める事。
      • 三、然も此神事は、伊賀の比自支和氣の家に傳つてゐた事。
      • 四、神事を行ふには、比自支和氣の氏人二人を採り、其一人を禰義(ネギ)と云ひ、他の一人を余此(ヨシ)と云ひ。禰義は刀を負ひ、戈を持ち,余此は酒食を持ち、(私の謂ふ葬宴の儀式化した物である。)刀を負ひ、殯所の內に入つて供奉した事。
      • 五、然るに長谷(雄略)天皇の崩じた時に御食を奉らぬより荒びたので、比自支和氣の氏人を求めた所、其多くが死に絶えて、圓目王妃一人だけが殘つてゐたので是れを召す事。 六、女子では供奉に不便だと云うて其夫が代つて勤めた事。 七、遊部は手足の毛の八束になる迄遊べと詔ありて、總ての租調庸を免除された事。
       而して此比自支和氣の家に傳へた鎮魂の作法が、猿女系の其と同じく、全く呪術的祭儀と信仰である事は明白である。
       然るに、茲に一言注意して置か無ければ成らぬ事は、斯く猿女系の鎮魂は、生者に對して行はれ、此れに反して遊部系の鎮魂は、死者に對して行はれる樣に記載して有るが、果たして此記載の樣に太古から少しも渝る事無く行はれて來たか否かと云ふ點である。換言すれば、鎮魂を斯く兩樣に差別してゐるけれども、元は兩者同根より發生した物では無かつたか否か、其間に、混用なり、併用なりが、ありはせぬかと云ふ事である。而して更に、此場合に併せ考へて見無ければ成らぬのは、我が古代に支那に於いて發達した陰陽道の「招魂」の呪術が早くも輸入され、然も其が行はれてゐたと云ふ事である。仁德帝が皇弟の菟道稚郎子が薨去せられた折に、

         乃解髪跨屍,以三呼曰:「我弟皇子!」乃應時而活,自起以居。

       と有るのは〕、即ち『禮記』に載する(ナキタマヨバヒ)又は『楚辭』の注に在る復の思想と作法とを其のまま移された物である〕。而して此仁德帝の行はれた呪術的作法が、『日本紀』の編纂される折に後人から追記された物かどうか、其は姑らく別とするも、此呪術が陰陽道の影響を受けてゐる事だけは明確である。從つて斯うした事の有つた事等を考へ併せると、生者に對して行はれたとある鎮魂も、始めは死者に對して行はれた物では無かつたかと云ふ疑ひの起るのである。前に引用した『舊事紀』の、瑞寶十種の呪術中に、「死人反生。」と有るのは此事を想はせる。更に『天武紀十四年十一月條に、

         丙寅,法藏法師全鐘,獻白朮(オケラ)煎。是日,為天皇招魂。

       と有るが、當時の用語例より云へば、招魂は死者に對して行つた物である。而して後世の書ではあるが、兼好の『徒然草』に、

         真言書の中に呼子鳥の鳴くは招魂の法をば行ふ(中山曰、此事に就いて後章に述べる。)次第あり。

       と有るのも、其事を裏付てゐる樣に考へられるのである。
       而して是れに對する私の管見を極めて率直に言へば、猿女系の鎮魂祭も、元は遊部系の鎮魂神事と同じく、死魂に對して行はれたのであるが、神道が固定すると共に、墓祭葬宴であつた天磐戶の神事が、專ら天照神の復活又は再現の事とのみ解釋せられる樣に成つたので、遂に兩者を截然と區別する樣に成つたのであろうと考へるのである。勿論、斯う言ふ物の現人を神と崇め、現人の魂を鎮める事の無かつたと主張するのでは無く、唯鈿女命の行うた磐戶前の祭儀はそうであつたろうと言ふ迄で、其點誤解無き樣敢て附記する次第である。

        • 註第一〕『仁德紀』に載せて有る。
        • 註第二〕『曲禮』『楚辭』の註に、此事が詳記して有るが、有名な事であるだけに、原文を引用する事は見合せた。


    • 第四節 憑るべの水系の呪術

       私は昭和二年十月に白鳥庫吉氏が東洋文庫に於いて、前後九回に渡り試みられた「日本周圍民族の古傳說より見たる記紀の神代卷」とも題すべき講演を聽いて、實に多大なる啟發を受けた。就中、大己貴命の元に少彥名命が來られた際に、此神の名を知る者無いので、久延毘古(クエビコ)を召して問ひしに、此神は產靈神(ムスビノカミ)の御子であると答へたと有るが、此久延毘古は、「於今者山田之曾富騰(ソボト)者也。此神者,足雖不行,盡知天下之事神也。」と有るより推せば〕、俚俗に案山子(カカシ)と云ふ物に相當してゐるのである。然らば、何故に此案山子が天下事を盡く知る程の神通力を有してゐたかと云ふに、此れは西洋に行はれた水晶占(クリスタル・ゲージング)と同じく〕、水を見詰めて物を占ふとある思想と共通の物で、案山子が常に水面を見てゐる所から、斯かる神話を構成したのであらうと云ふ一條は、私の耳を聳たせ、目を睜かせずには置か無かつたのである。
       私は白鳥氏の此講演を聽かぬ以前から、我國に古く水を見て一種の占ひをする水占(ウォーター・ゲージング)の方法の有つた事、及び此占法が巫女の呪術として行はれてゐた事を、記錄又は民間傳承の方面から夙に知つてゐたので、此れに關する材料も相當に集めて持つてゐたのであるが、久延毘古の神通力が此れであると迄は少しも氣が付かず、同氏の講演に依つて始めて案山子の呪力を知つたと同時に、後世の巫女が「外法箱(ゲハウバコ)」と稱する呪具の內に、小さき案山子を入れて置く(此事は後章に述べる。)理由が判然したのである。此點に關しては、厚く白鳥氏の學恩を感謝する次第である。而して我國では此の水を見て行うた呪術を古く「()るべの水」と稱してゐたので、暫らく此名を以て代表させる事としたが、更に民間傳承では、小野小町の姿見の井とか、和泉式部の化粧水とか、水鏡の天神とか種種なる名で呼んでゐたのである。
       我國で水を見て物を占うたと思はるる記事の初見は〕、『仲哀紀八年九月條の、仲哀帝が神功皇后に神託有りしにも關はらず、新羅國の在る事を否認された折、

         時神亦託皇后曰:「如天津水影,押伏而我所見國。何謂無國!云云。

       の一節である。此れに對して、橘守部翁は、神依板(此板に就いては後節に載せる。)を解說した細註に於いて、

         其板下に、(中山曰、守部翁は神依板と琴とは別物で、神を降す際には琴の上方に神依板を立てると云うてゐる。)水を置いて注ぐ、其水影に映給う也、依瓶水(ヨルベノミヅ)と云ふ是也、古釋に依瓶水は、神前水也と云るは、違はざるを、後世人、神前と思ひ僻めて、御手濯(ミタラシ)と一つに心得たるは、いみじきひが事也、『仲哀紀』に:「天津、水影、押伏而。云云。」と有るも、依瓶水に降居ての神敕也。

       と論じてゐる〕。流石に創見に富んでゐる守部翁の說とて、誠に敬服に値ひする物が有る。(但し、琴と神依板とを別物として、板下に水を置く事、御手濯を憑るべの水と見るは僻事也との三點に就いては、贊意を表し兼ねる。其理由は後に述べる。)斯う言ふ點に成ると、守部翁の獨壇場で、本居・平田兩翁等は、到底、企て及ばざる天才の持主だと信じてゐる。
       併しながら、強ひて言へば、守部翁の此解說は、私が茲に言ふ所の水を觀て占ひを行ふ──所謂、水占系(ウォーター・ゲージング)の呪術が、我國にも存してゐた事を認識した上で、此解說を試みたか、其とも此反對に斯かる事には少しも關心せずして、漫然と論じたかと云ふ點である。琴と神依板とを別物と見たり、憑るべの水と御手濯とを異物と考へた所から推すと、頗る怪しい物の樣に思はれぬでも無いが、今は餘り深い詮索は措くとして、唯其著眼の非凡なりし事を推稱するに止めるとする。
       憑るべの水に就いては、伴信友翁獨特の、微に入り細を穿つた考證が、其著『比古婆衣』卷十一に載せてある。此れに由ると、伴翁は憑るべの水に對して、二樣の解釋を下してゐる。(一)は瓶に入れし水を神前に供へ置き、「此瓶の水に神の立より給ふを神水とて飲みつれば、有事無事の慥に(あらは)るる心也。」とて、水を飲んで吉凶を占ふ物と解し、(二)は、「さて其神水にて占問するには、其水に望みて己影を映して、占ふる方の在しなるべし。」とて占ふ物自身の影を映す樣に說いてゐる〕。
       此解說は、我國に於ける憑るべの水の原始的の方法が忘られ、單に其信仰だけを微かに傳へた平安朝頃の和歌や物語を資料として稽へた為に、遂に斯うした結論に到達した物と思はれる。是等は私が良く言ふ處の、世中の事は書物さへ見れば何でも判明すると盲信する文獻學者の短所であつて、實に伴翁の為に惜しむべき事である。今の文獻萬能學者にも往往此弊に堕するのを見るが、是は警むべき事である。併しながら、伴翁が琴の代用として神依板を用ゐしと說き、其神依板の下に水を置くと云はず〕、更に御手濯を憑るべの水の擴大された物又は延長した物と考へた點は〕、守部翁の其に比較する時、考證學者の第一人者たる事が納得されるのである。
       私は、此機會に餘いて、神功皇后が啻に、「如天津水影,押伏而我所見。」と水占(ウォーター・ゲージング)を行はせられたばかりで無く、更に一歩を進めて、水晶占(クリスタル・ゲージング)を為された事に就いて、管見を述べてみたいと思ふ。私が改めて言ふ迄も無く、神后の御一生は、神託を聞いて國威の發揚に努められ、其點から拜すると、最高の巫女としての聖職に居られたとも考へられるのである。而して神后が征韓の途次に、長門の豐浦津で「如意珠」を得た事が『日本書紀』にも載せてあるが、此如意珠こそ、即ち神后が水晶占(クリスタル・ゲージング)を行はせられる折に用ゐた呪具であると想はれるのである。而して此寶珠は、一に劍珠と稱せられて、攝州廣田神社の末社なる南宮神社の神體として奉祀されて現今に及んでゐるが、此れに就いて、元廣田神社に關係せる吉井良秀氏の『老の思い出』に左の如く記載されてゐる。此處に本書に必要の部分だけを抄錄する。

         南宮神社 (中略。)其主神と云ふのは、神功皇后廣田大神を御鎮祭遊ばされた時に御寄せに相成つた如意珠、即劍珠で有らねば成ら無い。南宮神は其劍球を祭つた神社である。(中略。)
         抑抑劍珠は神功皇后が、『書紀』に云ふ所の長門の豐浦津で得給ふた如意珠其物で、廣田大神御鎮座時に納められたと傳へられ、其珠は水晶で高さ一寸八分、徑一寸九分強、正中に凡一寸二分の劍の形が顯はれてゐる。故に劍珠の名が有るのである。御袋の如きも何時の物かは知ら無いが、至極腐損してゐる。此故に古昔は甚尊重せられて有名な物であつた。(中略。)茲に劍珠が或時代には世間から尊重せられた記事を摘載して見よう。先ず、
        • 一、二十二社本緣、廣田神社條に、「皇后三韓征伐()()御甲冑並()如意珠等有()。此寶珠()海中にして(仁之天)得給える(恵留)。由『日本紀()たり(多里)。左右()不能事也。如何樣にも(仁毛)皇后御事にて(仁弖)、其由有神也。」として有る。此書は元弘・建武頃よりは已前の物である。
        • 一、僧義堂の詩に、過西宮觀俗所謂劍珠者、「袖裏摩尼一顆圓,靈光夜射九重天。若從沙竭宮中過,龍女神珠不直錢。」と有る。『空華集』に入る。義堂は高僧で名は周信、夢窗國師に參禅し、南北朝の嘉慶二年に寂す、年六十四である。
        • 一、謠曲の內に、『劍珠』と云ふのが有る。(中略。)其文句に、「汐のひる兒の名を得たる西宮にも著にけり云云、此方へ御入候へ、是こそ劍珠の御社にて候、能能御拜み候へ云云」。
        • 一、『萬葉集』に、「玉はやす、武庫の渡りに、天傳ふ、日の暮れ行けば、家をしぞ思ふ。3895」の歌が有る。此玉はやすは武庫の冠辭である。武庫は此所の地名で玉は即劍珠で、はやすは玉を持つて(ホヤ)す意であると古人の說が有る。此說は享保頃神主左京亮良行の『劍珠祝詞』中に見えてある。
         劍珠を古く世の尊崇せし事既に斯の如くであつて、社中では莊重な宮殿(凡方一尺五寸許。)に納めて傳はつた事は、維新の最初に、余が西宮神庫に預かつてゐたので能く知つてゐる云云。

       神后が得られた劍珠の用途は、私の獨斷では、神后が水晶占をなされた物であつて、然も此占ひに依つて神意を問ひ、戰へば必ず勝ち、攻めれば必ず抜くの捷利を博し、御女性でありながら、萬里の波濤を越え、國威を海外に迄輝かされたので、如意珠とも稱した物と拜察されるのである。神后は、古史の傳ふる所に據ると、新羅より投化した天日矛の第五世息長家より出でて、皇后に立たせられた御方である。從つて、是等の占法が、我國固有の物か、其とも息長家に傳へられた新羅の占法であるか、現今からは其各れとも判斷すべき史料も殘つてゐぬが、兔に角に神后が卓越せる占術を會得されてゐた事だけは、今からでも恐察せられるのである。
       巫女が憑るべの水を利用して呪術を行うた事を明白にするには、猶ほ其予備知識として、我が古代に有つては常人は鏡を見る事を忌恐れた信仰の有つた事を說く事が便宜が多い。即ち古代に在つては、神に仕へる巫女以外の常人は、鏡を見る事を悉く忌恐れてゐたのであつて、其は恰も明治初期の人人が寫真を撮るのを忌恐れたのと同じ心理で、鏡を見ると己れの影を薄くし、(古代人は影は生命の一つと信じてゐた、ヴントの所謂影象魂が其である。)延ひて精力を減じ、遂には生命迄も危くする物だと考へてゐたのである〕。反言すれば、常に鏡を所有し、此れを見る事の出來たのは巫女だけであつて、巫女は神の擇んだ女性として、鏡を見ても差支無いと信じてゐたのである。而して此鏡に對する信仰は、巫女が呪術を行ふ為に利用した事から一轉して、呪術──殊に他人を呪詛する時に限り用ゐられる樣に成つて來て、民間に水鏡天神(ミヅカガミテンジン)の迷信や、丑刻參りの女性は、必ず胸間に鏡を懸ける俗信を生んだのである。水鏡天神に就いては、既に私見を發表した事が有るので、茲に其を再び繰返す勇氣は無いが〕、要するに、他人を呪詛する折に水鏡を見たと云ふ古い思想を、型の上で示した物に外成らぬのである。  鏡の原始的用法を今更說く必要も無いが、其發生當時に在つては、鏡は陽火を取るのが目的であつて、決して顏面を映す為では無かつたのである〕。而して此思想は、稀薄ながらも、我國にも存してゐた。併しながら巫女が水を見詰めて呪術を行うた(此內容は明確には判らぬけれども、水面を凝視してゐると錯覺を起して、種種な影象が網膜に映じ、其に依つて禍福吉凶を占つた物らしい。是が實例とも見るべき物に就いては後段に述べる。)事は、恐らく鏡が發明されぬ以前から存してゐた物であらう。我國古代の巫女が此種の呪術を行うたと想はれる物が、小野小町の姿見池、和泉式部の化粧水等と稱する民間傳承に殘つてゐる。小町や式部に關する此種の傳承は、私が蒐めただけでも無慮百を以て數ふる程夥しい物である。從つて其を一一茲に掲げて、傳承の分化、分布、及び此れに伴ふ批判を加へる事は、到底なし能はぬ事なので、今は重なる物一二を舉げ、片鱗を以て全龍を推す事とする十一〕。
       京都府伏見町に近い深草村の以德院欣淨寺境內に、小野小町の姿見池とて、五坪程の雜草に覆はれた小池が在る。私は此寺に詣でて、深草少将の文張(フミハリ)の地藏とか、小町の落齒だとか云ふ物を見た事が有るが、其頃(明治四十四年。)は、殆んど廢寺と思はれる迄に荒れてゐた。東京に近い武藏國西多摩郡國分寺村に真形池と云ふのが在る。此れは小町が惡疾を患うて、國分寺の藥師如來に祈請し、平癒した姿を寫した池と傳へられてゐる十二〕。上野國北甘樂郡小野村大字後貫に、小町の化粧水と云ふ井が在る。旱天にも涸れず、豪雨にも增さぬ不思議を殘してゐる十三〕。
       和泉式部にあつては、選擇に苦しむ程で、僅に和泉國一ヶ國だけでも、式部の楊枝の清水、化粧水、鏡石、鐵漿壺、寢覺淵等の故地を數へると三十餘ヶ所にも達すると云ふ有樣であつて、少しく誇張して云へば、日本全國に亘つて存してゐるのである。今は著名なる物を舉げると、伊勢國三重郡神前村大字會井に清泉が在る。昔和泉式部が其美貌を此井に寫して化粧した所と、勢陽雜記に有る十四〕。長門國豐浦郡豐田村大字杢路子に和泉式部の子洗ひ池と云ふのが在る。式部が此村で子を儲けたが、其子が弱いので、生死を占ふ為に、杢路子(モクロジ)の木を立てて占うたので、此地名が起つたのである十五〕。山城國宇治郡醍醐村大字小栗栖の御前社邊にも、式部ヶ井と云ふが在る。此處は和泉式部が、此水を汲んで硯の水に用ゐたと傳へられてゐる十六〕。──此れに就いて、柳田國男先生は、「御前と云ふ名は本來上臈の敬稱で、後には遊女白拍子の名にも用ゐられ、更に轉じては瞽女(ゴゼ)(ボウ)のゴゼと迄成つた。御前社は即ち巫女優婆夷の(カシヅ)く社を意味したのであらう。」と言はれてゐる十七〕。
       例証は際限が無いから、大略にして置くが、此種に類する傳承は、小町や式部の外にも、又相當に殘つてゐるのである。陸前國遠田郡富永村大字休塚の、鈴木勇三郎氏の宅地內に、姿見池と云ふのが在る。此れは大昔に、松浦佐用姫が同地へ下向した際に、化粧に使用せる水鏡の池であつて、其東方の小丘には、姫の手植の柳が在つたと云ふが、今は枯れてしまつた十八〕。美濃國不破郡青墓村大字榎戶に照手姫の清水と稱する物が有る。此れは姫が朝夕水鏡して化粧した處である十九〕。河內國北河內郡蹉跎村蹉跎山の頂に菅原道真の姿見井が在る。俚傳に、菅公流謫の際、此山に登り遥かに京師を望んで別れを惜しみ、山頂の井に我が姿を映して、自作の像を殘して往つた。公の姫君が後を追うて此地に來たが、既に父公の出發せられたので、足摺りして嘆き悲しんだので、山名も村名も蹉跎と稱した二十〕。此俚傳等も水亦は井に對する信仰が泯びてしまつたので、斯うした變則な物に成つたのであるが、山頂に井が在る事は蹉跎──此語の古い意味が(諸國に佐太と在るのも同義である。)即ち(さえ)ぎると云ふ程の意味を有し、此井を中心とした信仰が存してゐたのが、サダに蹉跎の漢字を當てた為に、足摺の意に解せられて、原意を失ふ樣に成つてしまつたのである廿一〕。
       此蹉跎村から程遠からぬ山城國宇治郡に、「足摺池。在柳山麓四宮村之中也。俗謂蟬丸御手洗水,斯人修祓處乎。足摺,義不知為如何。」と有るが廿二〕、此等も古くはサダと稱して神事を行うた所を、蹉跎の字を用ゐて足摺りの意に曲解される樣に成つたので、碩學黑川道祐翁をして、「足摺りの義如何なるを知らず。」と嘆聲を發せしむるに至つたのである。安藝國賀茂郡の安志乃山の頂に寺趾が在るが、此處に紫式部の植ゑたと云ふ杜若池が在る。寺は無く成つたが花の種は民間に殘つてゐる廿三〕。
       猶此外に清少納言とか、小督局とか云ふ名で、此れと同系の傳承が各地に存してゐるが、他は省略して、如上の乏しき傳承だけに就いて考ふるも、是等の姿見池や化粧水の元の起りが、巫女の觀水呪術に發生した物である事だけは疑ひ無い。而して私は、更に一歩を進めて、此等の名媛才女の名で傳へられてゐる女性の正體を明らかにし、併せて水の神秘を利用した巫女の呪術を說くとする。
       尾張熱田神宮の社地內に古くから支那の揚貴妃の石塔と云ふのが在る廿四〕。俗說には、唐玄宗帝が、我が日本を征伐せんと企てたのを、熱田神が覺り、彼地に生れて揚貴妃と成り、玄宗帝を淫蕩に陷れ、國亂を起させ、斯くて我が日本を救つたのであると、誠しやかに傳へられてゐる。併し此俗說は昔から有名な物であつたと見えて、林羅山の『本朝神社考』にも『曉風集』を引いて、「熱田大明神は即ち揚貴妃也云云。神秘にして知る事無し。」と載せてゐる。
       此揚貴妃なる者の正體を、巫女史の立場から見ると、其は楊氏(ヤナギシ)を姓とした巫女であつて、熱田神宮に仕へた神人にしか過ぎぬのである。楊氏は我國への歸化族で、古く『新撰姓氏錄』左京諸蕃條に、楊侯忌寸、楊侯氏、楊侯直等載せて有り、吉備真備の生母が楊氏であつた事は、其墳墓から發掘された骨器の銘に明記されてゐる廿五〕。此楊氏の支族の者が、何かの緣故で、熱田神宮に仕へて巫女と成り、歿後、其塔婆か墓碑に、楊氏と記されてゐたか、又は口から耳へと傳承されてゐたのを、後世の無學にして好事癖有る者が、楊と揚と字體が似てをり、國音も同じ所から、遂に揚貴妃に附會して、斯かる俗說を生む樣に成つたのである。
       併しながら、楊氏の巫女が揚貴妃に附會されるに至つた、其の當時の民眾心理を知ら無ければ成らぬ。即ち當時に在つては、巫女は尊い者、神聖な者、崇むべき者と信じてゐた事を閑卻しては成らぬ。若しさうで無かつたならば、楊氏が揚貴妃に附會されべき筈が無いからである。そして此心理は、巫女自身の方にも、濃厚に(ハタラ)いてゐたのである。自分は生ける神と同じ樣な高い位置に居る者であると云ふ自信を有してゐたのである。然るに世が變り、時が遷つて、巫女の信用が漸落して來ても、今度は巫女達が自分の信用を維持する為に、小町とか、式部とか、又は小督とか、少納言とか云ふ、史上で著聞してゐる閨秀美姫の名を好んで用ゐる樣に成つて來た。それは恰も、明治時代に書生役者が式部と稱したり、活動辯士が德川姓を冒して、無理勿體を付けた心理と全く同じ物なのである。
       此れが我國に於いて、僂指にも堪へぬ程夥しき漂泊傳說を殘した小野小町や和泉式部の正體であつて、然も是等の漂泊者は、悉く村から村へと田舎度會した巫女なのである。奥州に多くの足跡を殘した佐用姫なる者が、古き遊行婦女の一團であつた小夜姫の分れと迄は、年代を引き上げる事が出來ぬにしても廿六〕、此れが西から東へと歩み續けて來た、巫女の名殘りである事は想像に難く無い。
       尚若狹國遠敷郡西津村松崎の釣姫(ツルベ)神社は、源賴政の女である二條院の次女讚岐を祀つたと有るのも廿七〕〕、長門國厚狹郡船木村逢坂に同じく讚岐の故事を傳へてをるのも廿八〕、丹波國何鹿郡吉美村大字多田に殘る菖蒲塚は、同じ源賴政の妾である菖蒲前の墳墓とあるのも廿九〕、伊豆國田方郡韮山村大字南條の西琳寺に、此れも源賴政の妾であつたと云ふ菖蒲屋敷を傳へたのも三十〕、播磨國赤穂郡高田村西山に、菖蒲前の墓所と云ふが在るのも卅一〕、越後國中蒲原村大字笹野宿の金仙寺を菖蒲前が開基したと傳へるのも卅二〕、更に讚岐の琴平神社の祭禮に、賴朝と稱する巫女が供奉するのも卅三〕、共に巫女(又は尸童。)をヨリマシと呼んだのを、ヨリマサ、又はヨリトモと誤解した結果に外成らぬのである。
       源賴政の墳墓の地及び由緣の神社が各地に在る事の真相に就いては、夙に柳田國男先生が先人未到の卓說を發表されてゐる卅四〕。此を讀んで、彼を想ふ時、其が悉く巫女に緣を曳いてゐた物である事が知られるのである。
       私は今度の『日本巫女史』を起稿するに當り、資料の乏しきを補ふ為に、少少泥繩的の窮策ではあつたが、各地に於ける未見曾識の學友に對して、是れが資料の報告をお願ひした卅五〕。然るに福岡縣嘉穂郡宮野村の桑野辰夫氏から寄せられた物は、在りし大昔の巫女の觀水呪術(ウォーター・ゲイジング)の一端に觸れてゐる物と信ずるので、左に綱要を抄錄する。

         福岡縣嘉穂郡宮野村大字桑野の楪榮藏氏の妻女とら子(當年五十三。)は、當地方に於る有名の巫女であるが、同女が巫女としての修行は頗る堅固なる物で、七年間を通じて、一日に三度づつ居宅の附近を流るる嘉麻川上流に身を浸して垢離を取り、此れを續けてゐる內に、御光の射すのを覺える樣に成つた。そして川に臨める岩上に端座して、精神を統一する為に、水面を凝視してゐると、流れの淀む渦上に、不思議にも一寸八分の如來樣が立つてゐるのが見える。猶も其をヂット見詰めてゐると、一體の如來樣が數體數十體の如來樣と成り、其が或は一緒に成り、或は分散し、更に分散するかと思ふと一緒に成る等、變幻と莊嚴を極める光景を目擊する境地に達した。
         そして自宅にゐて神前に座し、一心に神佛を念じてゐると、次第に神燈が明暗し、左眼には神樣の氣高き御姿が現然と拜され、右眼には御華紋(插入の寫真參照。)が映じ、神懸りの狀態と成つて、夢中で其御華紋を寫すのであるが、寫し終ると全く御華紋が見え無く成る。そして每日斯うしては別な御華紋を見ては寫すのであるが、其數は非常の數に達してゐる。其中で三枚だけお送りした卅六〕。
         巫女とら子は、農家に生れ、別段に教育が有る譯でも無く、從つて圖案とか意匠とか云ふ知識の有るべき筈も無いのに、每日、異つた御華紋──圖案としても、構想としても、やや見るに足るべき物を描出すとは、全く不思議と云はざるを得ぬのである。寫真として插入された物は、上部に佛體が有り、菊紋を以て其を圍みたる所に神意を寓し、人間の顏を圖案化して排置したのは、三千世界皆一つと云ふ意味だと語つてくれた。
         此御華紋には、多少とも曼荼羅の影響を受けてゐる樣に見えるが、此外に澤山有る御華紋も構想極めて自由であつて、然も創意に富んだ物が尠く無い。斯うして每日描く所から推すと、一種の濫書狂とも思あれぬでも無いが判然せぬ。私は大本教の婆さんの御筆先を、字で往かずに、繪で往つた物だと考へてゐる。
         (以上、意を取つて書改めた所が有る。)

       此記事に現はれた所から推測するも、巫女が水を凝視して呪術を行ふ事は、其修練に依つて為し得られる事の樣に考へられる。我等の遠い祖先樣は、「變若(ヲチ)水」を飲めば、精神も肉體も更新する物と信じて、今に若水の習俗を正月に殘し、神の甘水に種を浸す事に依つて豐穰する物と信じて、今に廣瀨神の種井神事を行うてゐる。水から()れました神も有り、水底に在す神も有る。巫女が水を利用した事も決して偶然では無かつたのである。

        • 註第一〕『古事記』神代卷。
        • 註第二〕我國にも水晶を神體とした神社は各地に在る。『筑紫野民譚集』に據れば、九州の彥山神社の神體は大きな水晶であつたと云ふし、更に『裏見寒話』卷二には甲斐國東山梨郡(?)竹森村の竹森神社の神體も八尺餘の水晶だと載せてある。是等は、或は國產を、或は石の神秘を神として祭つた物で、必ずしもクリスタル・ゲーヂングに關係有る物とも思はれぬが、姑らく記して後考を俟つとする。
        • 註第三〕久延毘古を初見と云ふべきであるが、此れは解釋の結果で、記事として見えてゐぬ故、姑らく『仲哀紀』を以て初見とする。更に、『開化記』に、「日子坐王,(中略。)娶近淡海之御上(中山曰,今三上神社。)祝以齋く(伊都久)天之御影神之女・息長水依比賣。」云云と有るが、此神名又は姫名が、水占系の意味を有つてゐる樣に考へられ、殊に神后が此息長家の出であつた事は、注意すべき點である。
        • 註第四〕『稜威言別』卷九(橘守部全集本)
        • 註第五〕『比古波衣』は伴信友全集本に據つた。
        • 註第六〕『正卜考』に詳しい考證が載せて有る。
        • 註第七〕憑るべの水の信仰が擴大されて、御手洗の水で占をした例も伴翁の『憑るべの水』に載せて有る。更に此信仰は神水を飲む事、及び神水に浸した衣服を著させて善惡を裁く事、(我國の濡れ衣の起原。)起誓として神水の失等と云ふ信仰迄生む樣に成つたが、是等に就いては記述する機會が有らうと思つてゐる。
        • 註第八〕我國に於ける影の信仰に就いては、拙著『日本民俗志』に收めた「影を賣つた男の話」に大要を盡してゐる。
        • 註第九〕水の神秘と呪詛の關係に就いては『旅と傳說』第二卷第六號に「水鏡天神」と題して拙稿を載せた事が有る。同じく參照せられん事を望んで止まぬ次第である。
        • 註第十〕鏡の發生的考察、及び鑑と鏡との關係等に就いては、松本文三郎氏著『東洋文化の研究』に收めてある諸論文と、故富岡謙藏氏著『古鏡の研究』を參照せられたい。私の考へも悉く是等に依つて教へられた物である。
        • 註十一〕「鄉土研究」第四卷第□號に掲載された、柳田國男先生の「和泉式部」と題する論文は、良く巫女としての式部の要領を盡してゐる。私の考へは、此御說を拜借した迄に過ぎぬのであるが、水占は柳田先生も說かれてゐぬ。
        • 註十二〕元祿年中に古川古松軒の書いた『四神地名錄』に見えてゐる。
        • 註十三〕『群馬縣北甘樂郡史』。
        • 註十四〕『勢陽五鈴遺響』三重郡部。
        • 註十五〕『民族』第二卷第二號。
        • 註十六〕『京羽二重織留』卷四(京都叢書本)
        • 註十七〕前掲の柳田國男先生『和泉式部』の一節である。
        • 註十八〕『遠田郡誌』。
        • 註十九〕『新選美濃志』卷四。因に、此書外に『稿本美濃志』と云ふ紛らはしい書が有る故注意を乞ふ。
        • 註二十〕『京阪案內記』。
        • 註廿一〕サダの古義は、先驅、案內、東道と云ふ程の意味であつたのが、後にはサダの語に猿田を當てたのをサルダと訓む樣に成つたので、猿が陰陽道の申と附會され、佛教の青面金剛と習合し、遂に塞神と成り、岐神と成り、道路衢神と成り、全く境界の神と成つてしまつて、蹉跎と云ふ足に緣有る字を用ゐる樣に成つた。琉球では今にサダの語を先驅の意に用ゐてゐると伊波普猷氏の論文に見えてゐる。
        • 註廿二〕『雍州府志』卷九古蹟門下(續續群書類從本)
        • 註廿三〕『藝藩通志』卷八二。
        • 註廿四〕『鹽尻』卷六(帝國書院發行百卷本)
        • 註廿五〕吉備真備生母楊氏の骨器銘文は『古京遺文』に載せて有る。
        • 註廿六〕佐用姫が、小夜媛と稱する團體稱であつて、九州に於ける古き娼婦であつた事は、拙著『賣笑三千年史』に詳述した。巫女と賣笑の關係に當つては、後章に詳記する考へであるが、此巫女も佐用姫と稱するから、私の所謂巫にして娼を兼ねた巫娼であつたかも知れぬ。
        • 註廿七〕『若狹郡縣志』卷四(大日本地誌大系本)
        • 註廿八〕『長門風土記』卷八。
        • 註廿九〕『何鹿郡案內』
        • 註三十〕『北豆小誌』。
        • 註卅一〕『播磨鏡』。
        • 註卅二〕『越後名寄』卷四。
        • 註卅三〕『金毘羅名所圖會』に其繪迄載せて有る。
        • 註卅四〕『鄉土研究』第一卷第九號「賴政墓」參照。
        • 註卅五〕永年掛かつて集めた資料、もう執筆に不足も有るまいと整理して見て、自分ながら貧弱なるのに驚き、書信を以て未見曾識の先輩及び學友を煩し、誠に恐縮に堪へぬ次第である。唯此結果私が案外に思つた事は、厚誼を頂いてゐる御方程返事をくれぬ片便り、未見の御方が卻つて懇切に示教された點である。此不平を折口信夫氏に語つた所、氏の曰く、「中山君は友人から返事を貰うだけの人德の有る方では無いよ。」と一本正面から參らせられたが、私は此れに教へられて、頂いた芳信の返事だけは必ず直ぐ書く樣に成つた。
        • 註卅六〕三枚の中一枚だけ寫真版として載せたが、他の二枚は構想も圖樣も全く異り、一は神佛融合圖で、一は巫女とら子の宇宙觀とも云ふべき物であつた。此機會に於いて、珍重すべき資料を恵投された桑野辰夫氏に厚く感謝の意を表する。


    • 第五節 性器を利用した呪術

       
      我國の性器崇拜(Phalicism)は遠く神代から存してゐた。天鈿女命が磐戶の齋庭で神懸りせる折に、「掛出胸乳,裳緒忍垂於番登(ホド)也。」のは、性器に呪力が有る物と信じたからの所作である事は既述した。『古語拾遺』に、御歳神が怒つて、大地主神の營田を損ぜし時、大地主神が片巫・肱巫に占はせて、田の溝口に「男莖形(ヲバセガタ)」を作つて立てた事が記して有る。此れも性器の呪力を信じた結果である事は言ふ迄も無い。古墳から發掘された男子の土偶埴輪の中、性器を露出した物の有るのも又此れが為で、殊に元正陵の倍塚から出たと云ふ傳への有る恠奇なる石人は〕、此種信仰を現はした、代表的物として人口に膾炙されてゐる。
       私は茲に、我國に於ける性器崇拜の起原とか、發達とか云ふ問題に觸れる事は、努めて回避したいと思ふ。何と成れば其は餘りに周知されてゐる問題であると同時に、亦餘りに本書の柵外に出るからである〕。從つて私は巫女史の立場から、巫女が呪術を行ふに際して、如何に性器を利用したかに就いて記述するに止めるとする。
       の『神代卷』を讀んで、誰でも驚く事は、我國の神神なる者が、性道德の方面に於いて、全く洗練を缺いてゐたと云ふ點である。換言すれば、『神代卷』に現はれた神神の性的生活なる物は、必ずしも道德的に完全なる物では無かつた。更に露骨に言へば、神神は性的方面に於いて道德的に完全なる物であらねばならぬと云ふ思想は、未だ是等の神話を構成した、古代人の間には存してゐ無かつたのである。從つて『神代卷』に記された巫女が、性器を利用する呪術に大膽であつた事も、當然の歸結として考へられるのである。
       平田篤胤翁の『宮比神御傳記』に、天鈿女命の磐戶の所作に就きて、「女神の恥ぢて得すまじき胸乳を搔出し、內股さへに顯はし給ひ、裳紐を(ホド)の邊迄おし垂れ、態と可笑しく物狂はしく舞をどり給ひけり。」と有る註に、「今世に縫物すとて針を失ひたる時に、其女密かに信仰の神を念じて、前の毛を三返搔上げ、三返叩けば、失せたる針必ず出づるを、出たる時に前の毛を三返搔下すと云ふ厭勝(マジナヒ)も、此態の殘れる也。」と記してゐる。而して此厭勝なる物が、果して平田翁の說の如く天鈿女の所作の殘れる物か否かに就いては、多少の疑ひ無きを得ぬのであるが、兔に角に此種呪術が古くから在つた事だけは承認しても差支有るまいと思ふ〕。
       而して更に一段と注意すべき事は、天孫降臨の際に於ける鈿女命の所作である。『日本書紀』に此光景を記して、

         已而且降之間,先驅者還白:「有一神,居天八達之衢。其鼻長七咫,背長七尺餘,當言七尋,且口、尻明耀,眼如八咫鏡而赩然似赤酸醬也。」即遣從神往問。時有八十萬神,皆不得目勝(マガチ)相問。故特敕天鈿女曰:「汝是目勝於人者,宜往問之。」天鈿女乃露其胸乳,抑裳帶於臍下,而笑噱向立。云云。

       其一は目勝と云ふ事である。目勝は即ち邪視(Evil eye)であつて〕、眼光に呪力有る事を意味した語である。猿田彥の眼光が、「如八咫鏡,而赩然似赤酸醬也。」と照輝くので〕、八十萬從神は、(みな)此視害の為に神名を問ふ事すらも出來無かつたのを、獨鈿女命だけが、更に此猿田彥に目勝したと有るのは、取りも直さず、兩神の間に邪視の呪術が闘はされた結果、鈿女命の呪術が猿田彥の其に打勝つた事を、意味してヰるのである。
       其二は天鈿女が、例の胸乳を露はし、裳帯を臍下に抑し垂れた事であるが、斯く鈿女が、呪術を行ふ每に、一度ならず二度迄も、性器を利用した點から見ると、此所作は太古の巫女の常に執つた所の、呪術的作法とも考へられるのである。
       其三は少しく私の想像が加はるのであるが、此際に猿田彥と天鈿女との間に呪術としての媾合が行はれたのでは無いかと信ぜられる事である。其は、昭和四年二月に、豐前國京都郡城井村大字城井馬場の八幡宮に傳はりし神代神樂と云ふのが、國學院大學の鄉土會で開催されたが、私は此古雅なる神樂を參觀し、其『天孫降臨』と云ふ一齣に於いて、猿田彥に扮せる者と、天鈿女に扮せる者とが、顯然として媾合の所作を演じたのに驚異の眼を以て見守らざるを得無かつたのである〕。
       私は原始的の形式とを傳へてゐる神樂──若しくは祭式舞踊に於いて、此種の所作が、拜觀者の面前にて無遠慮に演じられる幾多の資料に接してゐるのである。例へば、原始的の匂ひと彩りとを其のままに保存してゐる琉球各地のムツクジャと稱する物は、全く露骨なる交接祭である〕。內地に在つても、此種物は殆んど枚舉に堪えぬ程有る〕。殊に信濃國下伊那郡且開村島田に、每年正月十五夜に行はれる田遊びの神事には、昭和の現代にも尉と嫗に扮した者が、神樂殿に於いて見物の見る眼も憚らず、其所作を演ずると聞いては〕、民俗の永遠性を考へさせられると同時に、其起原の呪術に出發してゐる事を想はせられるのである。時代は下るが、平安朝に書かれた『新猿樂記』に、

         野干坂伊賀專之男祭,叩蚫苦本(アワビクボ)舞,稻荷山阿小町之愛法,鼿魧破前(カハラハビ)喜。云云。

       と有るのや、同じ頃に記された『雲州消息』卷上の一節に、

         今日稻荷祭。云云。又有散樂之態,假成夫婦之體,學衰翁為夫,模她女為婦。始發艶言,後及交接。都人士女之見者,莫不解頤斷腸。云云。

       と有る等〕、實に際限無い程在つて存してゐる。
       而して斯かる豫備知識から導かれてゐた私は、窃かに、天鈿女と猿田彥との邂逅の場合に、呪術として此種事が行はれてゐたのでは無いかと疑うてゐた所へ、此露骨なる神樂の所作を見せ付けられて、多年の疑ひが解けたと共に、性器を利用する呪術の真相が釋然したのである十一〕。我國現在の學問は種種なる方面から多大の束縛を受けてゐる。就中、性的神事の詳細を記こすとは、稍もすると宜ろしからざる事とされてゐるので、茲に之以上を明白に記す事を欲せぬけれども、巫女の性器利用は常人が後世から考へるより以上に、深刻であり、且つ露骨であつた事を注意し無ければ成らぬのである。
       性器崇拜の當然の派生として、異相の性器を有する巫女程、其呪力の增加する物であると考へる信仰が伴つてゐた事も、此場合に逸する事の出來ぬ問題である。而して此信仰は「七難の揃毛(ソソゲ)」と云ふ名で呼ばれてゐるので、私も此通稱に從ふ事とした。勿論、七難とは、奈良朝から平安朝へ掛けて民間信仰と成つた『佛說仁王經』の、「七難即滅・七福即生。」の經文から出た語であるから、此れを以て佛教渡來以前の古代信仰に冠する事は元より妥當を缺いてゐるが、茲には其七難の揃毛の古い相──即ち我國固有の信仰を記すに留め、詳細は仁王信仰の隆盛を極めた平安朝に於いて記述する。誤解を防ぐ為に敢て附言する次第である。
       讚岐國大內郡譽水村大字水主の水主(ミヅシ)神社の祭神は比賣神であるが、俚俗の傳へに、此神は御陰(ミホド)の毛が甚だ長いので、親神が恥ぢ給ひ、獨木船に乘せて海に放流してしまつた。其で比賣神は、何處とも無く流漂うた末に、同郡(?)馬篠濱に著いた所、同地の土人が比賣神の上陸を拒み、船を突いて沖へ流したので、其より東方に漂ひ、同郡安戶浦へ著き、其處より上陸して鎮座すべき淨地を其處彼處と覓給うて、遂に水主村に留り、後に水主神社と祭られたのであると云うてゐる十二〕。此俚傳に殘つた比賣神の正體が、地方度會(ワタラヒ)の巫女である事は、多くの說明を俟たずして、直ちに會得される物が有る。殊に陰毛が甚だ長かつたと云ふ事は、即ち異相の性器の持主で、然も呪力の效驗なる後章の七難揃毛を參照せられたい。)物と信じられてゐた為めである。
       全體、私が改めて言ふ迄も無く、我國にも、毛髪が一種の呪力を有してゐた物と考へた思想は、古代から有つた。神代に素尊が罪を贖ふ為に、八束髯を斬つたのは、唯に其威嚴を損じて、懲罰に換へると云ふだけの意味では無くして、素尊にとつては、髯は一種の生命指標(ライフ・インデックス)であるとも云へるのである。大己貴命が素尊の女なる須勢理媛命と奔る時、素尊の髯を室戶に繋いだと有るのは、私にさう考へさせる暗示を與へてゐるのである。案山子(カカシ)の語源も()がしであつて、古く人毛を燒いた匂ひを鳥獸が恐れて、作物に近づかぬ呪術的意味が含まれてゐたのである十四〕。『孝德紀』の大化の詔の一節に於て、「為亡人斷髪刺股。」事を禁じたのは、髪を斷る事は肉に活きても靈に死ぬと云ふ意味を現したからの迷信を停める為であつた。從つて陰毛の甚だ長かつた事が、呪力の強烈であるとした考慮の內には、此種の毛髪に對する信仰の多分に加つてゐる事を注意し無ければ成らぬ。
       七難揃毛は、此兩者の歩み寄りに依つて、大成された信仰である。而して是等の毛髪の所有者が、古い巫女であつた事は言ふ迄も無い。猶ほ代代の性器利用の呪術や、是れに伴ふ毛髪信仰等は、各時代の下に詳述する考へである。

        • 註第一〕藤貞幹の『好古小錄』及び其他の書物にも載せて有る。
        • 註第二〕我が國の性器崇拜に關する書物は夥しき迄に存してゐて、世の所謂好事家なる者で、此事を知らぬ者は無い程である。併し、好事家の手に掛かつた為に、卻つて學術的には幾分割引された傾きが有る。是等の內で、澤田四郎作氏のファルス・クルッス(全一五輯。)、出口米吉氏の『生殖器崇拜の話』及び『原始母神論』の如きは、頗る真摯な物で、學問的にも價値の多い物である。
        • 註第三〕在朝鮮の未見の先輩である今村鞆氏の示教に據ると、縫針の失せた時に牝部を撫す呪術は、德川氏の大奥に在つては、幕末迄行はれてゐたと云ふ事である。
        • 註第四〕我國で邪視の事を初めて學術的に論じたのは、實に南方熊楠氏である。氏は『南方隨筆』所收の「兒童と魔除」の條に於いて、氏一流の內外古今の例を集めて論じてゐる。敢て參照を望む。
        • 註第五赤酸醬(あかがち)とは鬼火の古名で、猿田彥神の眼球の赤い事を形容した物である。此一事から推して、猿田彥神は異人種である等と言ふ人も在るが、勿論、私は贊成し兼ねる說である。
        • 註第六〕其折に恰も先輩の金田一京助氏が隣席に居られたので、互ひに顏を見合せて、一寸苦笑させられたと同時に驚かされた物である。
        • 註第七〕琉球本島の事を書いた『山原の土俗』に、二三の實例が載せて有る。此外にも、琉球の島島には、此種の祭が尠からず存してゐたのである。
        • 註第八〕我國の交接祭は、農業の俗信と交涉する所が深い。此れに就いては、拙著『日本民俗志』に收めた「農業祭に現はれた生殖器崇拜」に多數の例を舉げて述べて置いた。參照下さると幸甚である。
        • 註第九〕此祭禮を目擊された折口信夫氏の談に據る。
        • 註第十〕『新猿樂記』も『雲州消息』も共に群書類從本に據つた。
        • 註十一〕私の知人である川口芳彥氏が、「同人會」と稱する相當知名の人の集る會合の席上に於いて語られた所に據ると、東京府大森町に近き某所の祈禱所の所主は婦人であるが、常に二三名の若き男子を雇置き、最も大切なる占ひをする時は、其男子と合衾し、最高調に達した際に發する言語であつて、此れを託宣と稱してゐるとて、神前及び託宣する部屋の構造迄詳說された。私は此一事を以て、古代巫女が行うた性器利用の呪術を推論する者では無いが、併し斯かる原始的の事が、此祈禱女の發明とも思はれぬので、或は遠い昔から彼等の間に傳つてゐた物では無いかと想ふ時、此れに類似した樣な呪術が、古代に存したのでは無からうかと考へても見たのである。
        • 註十二〕『讚岐國官社考証』(神祇全集本)卷上。因に『全讚史』には、水主神を孝靈(××)天皇第一皇女百襲媛命として有るが、元より信用する事の出來ぬ附會說である。我國各地に、高貴の方方の流謫を說く民間傳承は、夥しき迄に存してゐるが、是れに就いて、柳田國男先生が『巫女考』に於いて說かれた如く、殆んど其の全部が、田舎步きした巫女の身上に關した物である。猶ほ陰毛の長かつた神の事が『豫樟記』にも載せて有つたと記憶してゐるが、座右に同書が無いので、今は此れだけ言ふに留める。
        • 註十三〕闕。
        • 註十四〕斐驒中學校長であつた川口孫次郎氏が『飛驒史壇』の誌上で詳說された事が有る。



  • [久遠の絆] [再臨ノ詔]