日本巫女史 第二篇:習和呪法時代
第五章 呪術方面に現はれた巫道の新義
第一節 巫蠱から學んだ憑物の考察
我國に於ける蠱術は、巫女よりは修驗道の山伏が、深い關係を有してゐた。巫女が
之
(
コレ
)
に交涉を持つ樣に成つたのは、恐らく山伏と性的共同生活を送る樣に成つてから、
之
(
コレ
)
に教へられた物と思はれる。此見地に立てば、憑物の考察は、巫女よりも山伏が對象と成るのであるが、教へられたに
為
(
セ
)
よ、巫女が此事に多少とも關係を有してゐた事も事實であるから、今は巫女を中心として、簡單に記述する事とした。既に憑物に就いては、諸先輩の研究が發表されてゐるので
〔
一
〕
、詳細は其に就いて知る便宜が有るからである。
而して茲に、憑物とは、上下兩野の
尾先
(
オサキ
)
狐、信濃の
管
(
クダ
)
狐、三河の
御寅
(
オトラ
)
狐、飛驒のゴホウ種、近畿の
吸葛
(
スヒカヅラ
)
、四國の犬神、出雲の
神狐
(
ジンコ
)
、中國の
道通
(
トウビャウ
)
等を重なる物として、此外に、貓神、猿神、飯綱、蟇憑き、狸憑き等の名で呼ばれ、更に
白神筋
(
シラカミスヂ
)
、ナマダコ、
人狸
(
ゲトウ
)
、院內等の「物持筋」と成り、一般に社會から嫌厭される家筋迄含めての意である。從つて此處に言ふ憑物とは、惡靈、死靈、生靈等の人間の靈魂が、人間に憑くと云ふ意味よりは、動物の靈が人間に憑くと云ふ方に重きを置く事に成つてゐるのである。而して是等の憑物に共通してゐる大體の俗信は、
一、是等の憑物は、年年の樣に繁殖して、常に飼つてゐる家でも困卻してゐると云ふ事。
二、其家の子女が、他家へ聟又は嫁に往く時、憑物が付いて其家に入ると云ふ事。
三、憑物筋の者は、他人の健康や作物を害さんと思ふと、其憑き物が活いて、健康を害し、作物を損じ、更に現金迄持つて來ると云ふ事。
四、此憑物を持つてゐると勝負運が強いと云ふ事。
五、物持筋が憑物を放さうと思うても、どうしても放れぬと云ふ事。
此五點である。而して巫女は、隨意に此憑物を使役する者として恐れられた。それでは是等の憑物と云ふ俗信は、何に依つて發生したか、先づ其から考へて見るとする。猶ほ此問題は、
第三篇
に於いても記述すべきであるが、多少の變遷有りとするも、同じ問題を二度書く事は氣が
差
(
サ
)
すので、茲には明治期迄押し包めて記すとした。敢て賢諒を乞ふ。
一、
尾先
(
オサキ
)
狐・
管
(
クダ
)
狐等
狐や蛇が
ヴント
(
Wilhelm Max Wundt
)
の所謂靈的動物として崇拜された事は既述した。其と同時に、我國の神の
使令
(
ツカハシメ
)
(又は眷屬とも云ふ。)
と稱する幾多の動物──例へば、稻荷神の狐、熊野神の鳥、日吉神の猿、春日神の鹿、貴船神の百足、三峯神の狼と云ふが如き物は、古くは其が原祀神では無かつたかと云ふ事も、併せて既記を經た。其故に是等の動物が、恰もアイヌ民族に見る如く、
憑神
(
トレンカムイ
)
から
守神
(
シラツキカムイ
)
に進んで往く過程も考へられるし、更に是等の動物靈が人間に憑くと云ふ、俗信の發生も考へられぬでも無いが、此俗信を強く、然も深く、我國に植込んだのは、前に在つては、支那の巫蠱の呪術で、後に在つては、佛法の吒吉尼の邪法だと信じてゐる。
而して蠱術に就いては略記したので、今は吒吉尼に關して云ふが、此邪法も古くから行はれてゐたのである。伴信友翁の『驗の杉』に引用された『拾葉抄』に、
東寺夜刄神事。
云云。
中聖天、左吒吉尼、右弁財天也。『天長御記』云:「東寺有守護天,稻荷明神使者也。名大菩提心使者神也。」
と有る『天長御記』は、淳和帝の御記と思はれるので、僧空海の在世中に、早くも吒吉尼信仰の行はれた事が知れる。勿論、稻荷信仰に伴ふ狐の崇拜は、吒吉尼の乘つてゐる動物と類似してゐる所から、兩者の關係を密接ならしめ、其結果として、僧空海と稻荷神と面談した等と云ふ俗說迄生れたが、兔に角、兩者の步み寄りが、狐を一段の靈物とし、稻荷神を吒吉尼化した事は、
稍
(
ヤヤ
)
明白に看取されるのである
〔
二
〕
。『
文德實錄
』
仁壽二年二月條
なる
藤原高房
傳に、
天長四年春,拜美濃介。
(中略。)
席田郡有妖婦,其靈轉行暗噉心,一種滋蔓民被毒害。古來長吏皆懷恐怖,不敢入其部。高房單騎入部,追捕其類。一時酷罰,由是無復噉心之害。
云云。
と有るのは、『谷響集』に『真言演密抄』を引いて、「荼吉尼是夜叉趣攝。
云云。
盜取人心食之。」と有るより推して、此妖巫が吒吉尼の邪法を行うた事は、疑ふべからざる事實である。而して此信仰から導かれて、狐の神格的地位は段段と向上し、一方に於いては
專女
(
トウノメ
)
御前と成り、
三狐
(
ミケツ
)
神と成り、遂には倉稻魂神と誤解される迄に成り、更に一方に於いては、神狐とか、靈狐とか云はれて、俗信を集める樣に成つたのである。狐を殺した為に、配流された例は多いが
〔
三
〕
、『中右記』長元四年八月四日條に、「京洛之中,巫覡祭狐枉定大神宮。如此事,不然之事也。」と有る樣な事態を見るに至つたのである。民間の惑溺亦思うべしである。
大江匡房
の『狐媚記』の如きは、此產物である。
私の鄉里である下野國足利郡地方の村村では、私の少年の頃迄は、
尾先
(
オサキ
)
狐の話を良く耳にした物である。大昔に、九尾狐が帝都を追はれて、那須野に隱れたのを、坂東武士の為に狩り出されて、殺生石と成つたが、其折に尾が方方へ散つて狐と成り、之を
尾先
(
オサキ
)
狐と云ふのだと故老から聽かされ、又た誰誰の家には、其狐が七十五匹戶棚の隅に飼つてある。每朝、
飯匙
(
シャモジ
)
で釜の端を叩くのは、狐に餌を遣る合圖だと云うて、私等が過つて此所作をすると、父母から嚴しく叱かられた事を覺えてゐる。斯かる事で、
尾先
(
オサキ
)
狐に憑かれた家の人程氣の毒な物は無いが、其でも私の地方等は、他國に比較すると、未だ氣の毒の程度が輕い樣である。通婚にも、交際にも、餘り忌嫌はれてゐぬからである。
之に反して、信州松本平の中央山脈の麓寄りの方から、木曾の谷へ掛けて、藪原、宮越、福島等の各驛から美濃堺迄、
管
(
クダ
)
狐の憑いてゐる家が多い。殊に福島驛に近い新開村
字
大原は、四十戶許の部落であるが、其中に五六戶は、「
彼所
(
アスコ
)
は
管
(
クダ
)
を飼つてる。」と昔から言はれてゐる家が有る。此評判が立つと、部落からは元より、稍遠い所の者から迄も特別の扱ひを受け、「俺の家は腐る方だが、
彼所
(
アスコ
)
は是れだからな。」と、物を掻く手真似をして見せる。腐るとは癩病の血統で、掻くのは狐を意味してゐる。即ち癩病よりも
管
(
クダ
)
狐を恐れる意味である。從つて通婚は此者同士に限られてゐる。
管
(
クダ
)
狐持が斯う迄嫌はれるのは、之に憑かれると、すつかり狐に成つてしまひ、「某の死んだのは、俺が締殺したのだ。」或は、「某家の馬の病氣は、俺がしたのだ。」又、「某家の南瓜は俺が挘つたのだ。」と云ふ樣な事を口走る。そして
管
(
クダ
)
狐は、元は伏見の稻荷社から受けて來た物だと傳へてゐる
〔
四
〕
。
出雲の
神
(
ジン
)
狐に關する氣の毒な事實は、夥しき迄に學會へ報告されてゐる
〔
五
〕
。其は大正十一年の事であるが、出雲某村の有力者が、息子に嫁を迎へやうとしたが、世話をする者が無いので、段段と調べてみると、其家は
神
(
ジン
)
狐持では無いが、主人の妹が嫁した家の遠緣の者に、其疑ひの有る事が判然し、親族會議の結果は、妹の家と絕交する事と成り、其を言渡す時の光景は、見るも憐れな物であつた。老母の顏は淚に曇り、言渡す主人の聲も振るへてゐた。絕交された妹は、世の成行と、自分の運命で、代代續いて來た綺麗な家の血筋を濁す事には代へられぬと、觀念の眼を閉じたと云ふ事である
〔
六
〕
。
而して斯うした社會の壓迫と、家庭の悲劇とは、獨り信州や出雲ばかりで無く、狐憑きの俗信の行はれてゐる所には、何處にでも存してゐるのである。元より俗信であり、理由の無い事であるから、疾くにも泯び無ければ成らぬのに、今に此陋習が依然と行はれてゐるとは、如何に俗信の力の偉大なるかに驚くのである。
狐持の家筋が、狐に憑かれた事に原因する事は言ふ迄も無いが、其狐を憑けた者が、巫覡である事も、勿論である。『榮花物語』卷七鳥邊野長保三年十二月條に、「斯かる程に、
女院
(
圓融后東三條院詮子
)
物せさせ給て、
惱
(
ナヤマシ
)
う思しめしたり、
殿
(
藤原道長
)
御心を
惑
(
マド
)
はして、
思召
(
オボシメ
)
し
惑
(
マド
)
はせ給、
(中略。)
御物
除
(
ノ
)
けを四五人
憑移
(
カリウツ
)
しつつ、おのおの僧供ののしりあへるに、此三條院の
すみ
の神の
祟
(
タタリ
)
と云ふ事さへいできて、
其氣色忌
(
ソノケシキイミ
)
じう
文
(
アヤ
)
にくげ
也
(
ナリ
)
。」と有る如く、物怪を四五人に
憑移
(
カリウツ
)
すとは、即ち
憑
(
ヨ
)
り祈禱であつて、此
憑座
(
ヨリマシ
)
の口から、種種なる御託が發せられ、三條院の場合は、
すみ
の神の祟と云ふ事であつたが、此れが狐が
憑
(
ツ
)
いてゐるとか、蛇が
憑
(
ツ
)
いてゐるとか云へば、其で其人は、狐
憑
(
ツ
)
き、蛇
憑
(
ツ
)
きと成つて
了
(
シマ
)
ひ、心理學上の暗示に支配されて、狐の真似したり、蛇の樣子して座敷を這迴ると云ふ事に成れば、其家は忽ち「持物筋」と成り、其が子孫へ迄遺傳する事に成るのであるから、是等の持物筋の發生が、巫覡の憑り祈禱に在る事は明白である。是に就いて、本居內遠翁は『賤者考』に於いて、左の如く述べてゐる。
犬神狐
役
(
ツカヒ
)
等云ふは、
唐土
(
モロコシ
)
の蠱毒の類にて、斯の土には金蠶・蝦蟇・蜈蚣等の毒種と見ゆれど皇國には聞かず、犬神と云ふ術四國に有りと聞けど、
(中略。)
出雲の狐持と云ふ家も是と等し、先年領主より命有りて、此種を絕んとて多く刑にも行ひ、追放もせられしかど、猶其餘殘有るうへに。
(中略。)
又
其樣
(
ソノサマ
)
怪しげに偶偶聞ゆる事等有れば、狐
役
(
ツカヒ
)
ならむと云ひはすめれど、其も又別術なるか、事發覺に及ばざれば又辨知し難き物也。己が是迄聞及べるは、神佛に託して奇に人の上を言ひあてて祈等に金錢を貪り。
(中略。)
昔名高かりし真言僧等の行法に奇特とてありし事、又修驗加持等して、
憑座
(
ヨリマシ
)
とて生靈・死靈を人に
移
(
ウツ
)
して憤恨を云はせたり。
死靈
(
シリヤウ
)
の事、前に云ふ打臥しの巫の類、
(中山曰、此巫女の事は既述した。)
皆此狐役の術なるべし。今も日蓮宗の僧徒中に、疾病の祈を為し、
憑座
(
ヨリマシ
)
を立てて言はする類まま聞ゆ。佛法の行力無くば、其宗徒は總て為すべきを、
偶
(
タマ
)
さかなるは狐使の別術なる故也。
云云。(本居全集本。)
狐憑きの發生が、憑り祈禱に在る事は、此れから見るも明かであつて、憑座に對して
問口
(
トヒクチ
)
(大昔の
審神
(
サニワ
)
の役。)
をする者が、仕向けるままに放言する
與多
(
ヨタ
)
が
〔
七
〕
、遂に厭うべく悲しむべき結果を生む樣に成つたのである。
飯綱信仰は、信州の飯綱山に起り
〔
八
〕
、室町期に猖んに行はれた物であつて、殊に武田信玄と上杉謙信は、此れが篤信者であつたと傳へられてゐる。併しながら、其行法は吒吉尼を學んだ物で、他の巫覡と同じ樣に狐を遣ひ、飯綱遣ひとは狐遣ひの別名の如く民間からは考へられてゐた。飯綱に關する資料も相當に存してゐるが、今は深く言ふ事を避けるとする。
二、蛇神託と
道通
(
トウビョウ
)
蛇が狐にも增して人に憑く物と考へられるのは、あの醜惡なる形態と、之に伴ふ幾多の說話からも知る事が出來る。今に全國的に行はれてゐる物に、蛇は執念深い物故、半殺しにして置くと、人に祟ると云ふ事である。而して此蛇が、人に祟りをしたと云ふ傳說は、狐に比して更に多くの物が存してゐるが、これは直接此處に關係が無いので省略する。古く蛇が託宣した事が見えてゐる『「明月記』建久七年四月一七日條に、
刑部卿參入,中世間雜談等。新日吉近日有蛇,男一人隨其蛇,吐種種狂言,稱蛇託宣。又云:「後白河院後身也。云云。」此事不便,書奏狀進之。
云云。
と有るのが、其である。然るに、私の寡聞なる、此種の類例を他に全く知らぬので、比較して考察を試みる事も成らず、其に此記事だけでは、蛇が如何なる方法を以て託宣したのか、解釋に苦しむ程故、唯鎌倉期の初葉には斯うした俗信も有つたと紹介して置くに留める。而して此蛇が民間の憑き物と成つた
道通
(
トウビョウ
)
なる物に在つては、中國を中心として各地方に存してゐた。柳田國男先生は、之に就いて、左の如き有益なる研究を發表されてゐる。
蛇の神は
道通
(
トウビョウ
)
と云ふのが、元の名であるらしい。『大和本草』に、「中國の小
蛇
(
クチナハ
)
とて安藝に蛇神有り、又
土瓶
(
タウベウ
)
と云ふ。人家によりて蛇神を使ふ者有り。其家に小蛇多く集りゐて、他人に憑きて災を為す事四國の犬神、備前兒島の狐の如し。
云云。
」と有る。
(中略。)
石見等でも
道通
(
トウビョウ
)
と云ふのは蛇持又は蛇附きの事で、此を藝州から入つて來たと云つてゐる。
(日本周遊奇談。)
安藝の豐田郡宮原村の海上に當廟島と云ふ小さな島が有るのは、恐らく此神が未だ公に祀られてゐた時の由緒地であらう。備中にも川上郡手莊村
大字
臘數
(
シワス
)
に
小字
道
(
トウ
)
病神が有る。今日の如く此神に仕へる事を恥辱と考へて隱す世の中なら、到底こんな地名は出來ぬ筈である。備中には海岸部落は犬神の勢力範圍であるが、山奧の田舍から出雲へ掛けて
道通
(
トウビョウ
)
持と云はれる家筋が多い。此邊でも
道通
(
トウビョウ
)
は蛇だと云ふが、其形狀及び生活狀態と云ふ物が餘り蛇らしく無い。先づ其形は鰹魚節と同じく、
長
(
ケタ
)
短くして中程が甚だ太い。其を小さな瓶の類に入れ、土中に埋め其上に
禿倉
(
ホクラ
)
を立て、內內
之
(
コレ
)
を祭つてゐる。此神を祈れば金持に成るとの事で、其家筋の者は皆富んでゐる。
(中略。)
此神の甚だ好む物は酒であるから、折折瓶の蓋を開いて酒を澆いで遣らねば成らぬ。祟りの烈しい神である。
(藤田知治氏談。)
密閉した酒瓶の中に生息する蛇と云ふ物が、動物學上果して存し得る物か、大なる疑問である。四國は昔から犬神の本場であるが、讚岐の西部には之と良く似た
土瓶
(
トンボ
)
神の俗信が有る事を、近頃荻田元廣氏の親切に由つて知る事が出來た。斯の地方では
土瓶
(
トンボ
)
神と口で言つて文字は
土瓶神
(
ドヘイジン
)
と書くさうである。之を思ひ合す時は
道通
(
トウビョウ
)
も亦
土瓶
(
タウベウ
)
の音で、即ち蠱と云ふ漢字の會意と同じく、本來蟲を盛る器物から出た名目であつた。讚岐の
蜻蛉
(
トンボ
)
神は、往往にして蠱家の屋敷內に放牧して有る事も有るが、又土甕の中に入れ臺所の近く、人目に掛らぬ床下等に置き、或は人間と同じ食物を遣るとも、又酒を澆いで遣るとも傳へられてヲる。
(荻田氏報告以下同。)
唯蟲の形狀に於ては頗る備中の物と異り、小は竹楊枝位から大は杉箸迄で、身の內は淡黑色、腹部ばかりは薄黃色、頸部に黃色の輪が有つて、之を金の輪と云ふ。身を隱す事も敏捷だと有る。
土瓶
(
トウビョウ
)
神持は緣組に由つて新に出來る。相手の知る知らぬを問はず、娵又は聟
(?)
が來る時には、神も亦分封して附いて來る。連れて來るのか獨りで附いて來るのかは未だ詳ならず。
土瓶
(
トンボ
)
神持は如何なる場合にも、世評を否認するにも拘らず、金談其他で人と爭でもすれば、兔角其威力を利用したがる風が有る。世間の噂では、或者に怨みを抱くと成れば、
土瓶神
(
トンボガミ
)
に向つて斯う言ふ。「お前を年頃養つたのは、こんな時の為である。何の某に我恨みを報い玉はずば、今後は養ひ申すまじ。
云云。(中略)。
」氣の利いた
土瓶
(
トンボ
)
神は此相談を聞く迄も無く、家主の心の動くままに、直に往つて其希望を遂げさせるとの事である。此蟲が來て憑くと身內の節節が段段に烈しく痛む、醫者に言はせると急性神經痛とでも言ひさうな病狀である。之を防ぎ又は退ける方法は、一つには祈禱で、之を役とする
椿象
(
ヲガムシ
)
と云ふ巫女を依賴する。第二の方法は、至つて穢い物を家の周圍等に澆き散らす。
(中略。)
一旦
土瓶
(
トウビョウ
)
神持と成れば、永劫其約束を絕つ事が成らぬ。唯偶然に知らぬ人の手に依つて、根を
絕
(
タヤ
)
す事が出來れば、家にも其人にも、何等の祟りが無いと云ふ事で、竊にそんな折を待つてゐる。
云云。(以上『鄉土研究』第一卷第七號。)
瀨戶內海に面した備前・備中・安藝、及び讚岐の
道通
(
トウビョウ
)
は、以上の記事に依つて詳細を知る事が出來たが、其では日本海に面した物は如何に傳へられてゐるかと云ふに、
之
(
コレ
)
に就いては、『雪窗夜話抄』卷七に「伯州の
土瓶
(
タウベウ
)
狐の事」と題して、下の如き記事が載せて有る。
或人曰く、伯州には村村に
土瓶
(
タウベウ
)
を持たる者有り。殊に倉吉邊りに多く有りと云へり。國の御法度強く其所の人も
土瓶
(
タウベウ
)
を持つと云へば嫌ふ故に、他人に深く隱して云ざる也。是は
土瓶狐
(
タウベウキツネ
)
と云て、常の
狐
(
キツネ
)
とは變りて、別に一種の
狐
(
キツネ
)
也。形は
狐
(
キツネ
)
にて常の者よりも、甚だ小さく、大さ鼬鼠程あり。是を見たる者は多く在り。其狐に主有て先祖より子孫に傳はりて其家を離れず。
(中略。)
犬神に少も違はず、他の家に往て心の中に欲しきと思ふ時には、本人の知らざるに向の人に附て、其物欲しきと口走りて、本人は口外に出さぬ事を他人に披露して卻て其人を恥かしむ。或は瞋恨有る人には、本人は心中にて思ふ計りなるに、其人に付つて讐を為す事有り。
(中略。)
先年も倉吉に牛疫
流行
(
ハヤリ
)
て多く死せしに、此れを賴みて
呪
(
マジナイ
)
せしむれば即座に治す。是に依て大分の米銀を儲けたり。
土瓶
(
タウベウ
)
持の方より附たる疫病なる事、忽ち露顯して追放せられたり。少も犬神と變る事無し。狐の一名を
專女
(
タウメ
)
と云と古き書にも記せり、專女と云べきを誤て
土瓶
(
タウベウ
)
と云へるにやと云たる人も有り、然もありぬべき事ならんか。是も犬神と同じく、其人に飼れては末代迄家を離るる事無し。云云。
(以上『因伯叢書』本。)
此記事は、恐らく
享保
前後に書かれた物と思ふが
〔
九
〕
、伯耆に在つては、
道通
(
トウビャウ
)
は狐であつて、然も此名稱は、狐を
專女
(
トウメ
)
と云へる訛語であらうと說いてゐる。そして伯耆は言ふ迄も無く、因幡・美作・石見等の
道通
(
トウビャウ
)
は、今でも概して狐だと云はれてゐるが、事に東伯地方では、七十五匹が一群團であつて、世間の噂に
道通
(
トウビャウ
)
持の家に往くと、緣側とか板間とか等で、間間此れの足跡を見受ける事が有るさうで、斯うした家で拭き掃除を怠らぬのは、即ち其足跡を人目に觸れさせぬ用心だと言はれてゐる
〔
十
〕
。
道通
(
トウビャウ
)
が、蛇であらうが、狐であらうが、所詮は巫覡が糊口の為めに言ひ出した俗信上の動物であつて、大昔から誰あつて定かに見極めたと云ふ者が無いのであるから、私は此詮索には餘り深入りせぬ考へである。
三、犬神と貓神と狸神
四國は昔から狐が居らぬと言はれてゐるだけに、狐憑きは無いが、其の
代
(
カハ
)
りに、犬神と稱する憑物が跋扈してゐる。犬神の起源に就いては、『土州淵岳志』卷六に、
讚州東
麥
(
ムギ
)
と云ふ所に何某在り、讐を報ずべき仔細あれども時至らず、日夜
之
(
コレ
)
を嘆く。或時、手飼の犬を生ながら地に掘埋め首許り出し、平生好む所の肉食を調へて、犬に言つて曰く、「やよ汝が魂を吾に與へよ、今此肉を食はすべし。」とて、件の肉を喰はせ刀を拔いて犬の首を討落し、其より犬の魂を彼が胸中に入れ、彼仇を為したる人を咬殺し、年來の素懷を遂げぬ。其より彼が家に傳りて犬神と云ふ物也、婚を為せば其家に傳り、さて土佐國へは境目の者、斯の國より婚姻しけるに依り、入來たると云ふ。
と載せて有る。之に由れば、犬神の本家は讚岐と云ふ事に成るが、讚州にとつては、此上も無い迷惑千萬の事と言は無ければ成らぬ。全體、斯うした憑物等は、何處が本家で、何處が分家だ等と云はれべき物では無く、土地に依つて、多少の前後と、粗密こそ有れ、さう明確に知れる筈が無いのである。併しながら、同じ四國でも此犬神なる物が、阿波國が殊に猖獗を極めてゐただけは、事實の樣である。『阿波志料飯尾氏考』に收めて有る緒方氏所藏文書に左の如き物が有る。
犬神下知狀
阿波國中使犬神輩在之。
云云。
早尋搜之,可致罪科之旨。相觸三郡
(中山曰、麻殖・美馬・三好三郡。)
諸領主堅可被加下知候由也。仍執達如件。
文明四年八月十三日 常連
(花押)
三好式部少輔殿
斯うして領主が公文書迄發して、犬神の剿絕に配慮してゐる所から推すと、阿波の國民は、相當に此問題で苦しめられて居た事が知れる。勿論、領主が斯かる手段を採つた事は、獨り阿波だけでは無く、柳田國男先生に依れば、
土佐の犬神は『土佐海續編』に最も詳しく、其形は山中に栖む
櫛引鼠
(
クシヒキネズミ
)
に似て尾に節有り、毛は鼠に似たり、乾して持つ者往往にして在りと有る。長宗我部氏の治世に犬神を吟味して、死刑に行ひ家を
絕
(
タヤ
)
したが、其子孫稀に存し、昔は之を賤んで參會言語する者が無かつた。其家では
口寄
(
クチヨセ
)
等と同じく、狗首を神に祀つてゐるとも有れば、犬神の名稱は使ふ神の形からでは無いのかも知れぬ。又こんな事も書いて有る。犬神は傳教大師に伴ひ歸り、
弦賣僧
(
ツルメソ
)
に附屬する神也、
齋藤
(
サイトウ
)
、
尾先
(
オオサキ
)
、
管
(
クダ
)
とも謂ふ。土州にて捕へたるは
齋藤
(
サイトウ
)
と云ふ者也。
云云。
と有るのを見ると
〔
十一
〕
、土佐の犬神の跳梁も、又頗る猛烈であつた樣である。更に前揭の『土州淵岳志』の續きの記事に、
土州の地に蠱を畜ふる者多し、別て幡多郡に多し。『御伽奉公』と云ふ草子に土佐幡多郡狗神の事と有る
之也
(
コレナリ
)
。能く人を魅す、然も大人正明の人に入る事無し。一度此蠱に逢へば、病形痛風にて骨節犬の咬むが如く、熱盛んにして譫言妄語す。蠱を畜ふる家其祖先に、此鬼を祭りて財を利し富を致す者有り、遂に其家に托りて去らざる成り。民間義を知る人は、蠱を惡む事癩脈の如く婚嫁を為さず、婢僕を召抱へるにも之を詮議する事也。蠱家は之を包隱せども、其鬼を避くるの術無し。愚婦庸夫に付くに針灸祈禱するに、偶偶去る事有り。或は筋骨を咬みて遂に殺す事有り。
(中山曰、茲に其一例を舉げて有るが省略す。)
按ずるに讚州・豫州に貓蠱と云ふ物有り土州に無し。『北山醫話』に、「本邦四國之地,不知蠱狐。其氣何自相反也。」俗に言ふ狐魅の人、四國に來れば、其魅自ら去ると。
猶ほ此外に、周防・長門兩國の犬神、肥後阿蘇谷の
犬神
(
インガメ
)
、琉球の
犬神
(
インガマ
)
等書くべき事も相當に殘つてゐるが、大體を盡すに留めて、今は省略に從ふ事とした。
貓神に就いては、「伊豫國宇摩郡では、貓を殺すと取憑くと稱して、決して貓に害を加へぬ。先年、上山の彌八と云ふ豪農の主人が誤つて貓を殺し、遂に發狂して『貓が
(
トリツ
)
いた。』と獨言を云ひつつ乞食に成つた。」と傳へられてゐる
〔
十二
〕
。併しながら、是れは未だ個人的の問題であつて、巫覡を介しての社會的問題に迄は發展してゐぬが、更に紀州邊の貓神の事を聞くと、此處では純然たる巫女の憑神に成つてゐる。而して南方熊楠氏の報告を集めた『南方來書』卷十には、左の如く載せて有る。
田邊町と山一つ隔てし岡
(中山曰、紀伊國西牟婁郡岩田村大字。)
と云ふ村落の小學校長の談に、此岡には今も代代の巫子數家有り。
(中略。)
此者の言ふには、蠱神は三毛貓を縛置きて、鰹魚節を示しながら食はせず、七日經る內に貓の慾念は其兩眼に集る。其時、其首を刎ね、其頭を箱に入れて事を問ふとの事也。熊楠思ふに、斯かる事は每度聞く所にて、安南にても犬を斯くする事有り、吾國の犬神に同じ。又國により人の胎兒を用ふる事有り。『輟耕錄』に見えたる小兒を生剝して、事を問ふ術等も大抵似た事也。此岡の巫子は隱亡の妻也と聞く。猿・犬・貓等は假話にて、實は人間の頭を用ふる
為
(
ナ
)
らず
哉
(
ヤ
)
とも存ず。
云云。(大正元年十二月二十八日附。)
此貓神の作方は、誰でも知つてゐる大昔に本願寺の毛坊主が、好んで信徒に與へたと傳へられてる「お
白藥
(
シロクスリ
)
」なる物と、全く同一の製法であつて、唯原料が貓と犬との相違だけである。少しく蛇足の嫌ひは有るが、斯うした怪事が行はれたと云ふ往昔の民間信仰を知る旁證として、要點だけを下に摘錄する事とした。『松屋筆記』卷三十九に「拔莠撮要」と題する上州高崎善念寺の僧秀覺筆記の復寫本を引用して曰く、
紀州法然寺圓成上人ハ、十八歲ニシテ出家ス、則一向宗人也。
(中略。)
其母語云:「我宗ニ御白ト云事
有
(
ア
)
リ、何ヲ以テ作ル事ヲ知ラズ。」或云、白犬ヲ養ヒ、其犬ヲ全ク地中ニ埋ミ、首ノミヲ出シテ種種ノ珍味ヲ
貫
(
ツラ
)
ネ、其首前ニ置ク。白犬、此ヲ喰ント食物ヲ念ジテ、氣單ニ逼ルニ及ビテ、犬首ヲ切テ、是ヲ燒灰ト
為
(
ナ
)
ス。此灰ヲ人ニ與ル時、其人大信ヲ起シテ、單ニ身命ヲ顧ズ、財寶ヲ
投賣
(
ナゲウ
)
ツト云。
(中略。)
兩本願寺東都參向ノ時分、道俗均ク御杯頂戴ト云フ有リ。御杯頂戴ノ事ニ
非
(
アラ
)
ズ御灰頂戴ノ
由
(
ヨシ
)
、各土器一枚ヲ得テ歡喜ス。此灰ハ親鸞聖人ノ遺灰ニシテ、「此灰ヲ服スル時、此身則親鸞聖人
也
(
ナリ
)
。」ト傳授ス。一說ニ、此事ヲ
御白
(
オシラ
)
ト云ト。
(中略。)
御白
(
オシラ
)
ノ事、西國・中國邊ノ人ハ時時云出ス事
有
(
ア
)
レド、關東ニテハ
餘
(
アマ
)
リ沙汰
為
(
セ
)
ヌ事也。秀覺
【上野高崎善念寺僧。】
知己ニ深川某寺上人、
元
(
モト
)
一向宗也。兒時、
御白
(
オシラ
)
ノ事ヲ聞知リ、「御白ハ白犬ノ灰也。」ト云テ、母ニ叱ラレシト語キ、此上人モ中國產也。
云云。(以上「國書刊行會」本。)
斯かる事が果して行はれた物か否か、今から思ふと腑に落ちぬ事であるが、其れにしても斯うした惡說を宣傳された本願寺にとつては、此上も無い迷惑の事であつたに相違無い。併し其詮議は、姑らく措くとするが、兔に角に、大昔に在つては、斯うして、貓なり、犬なりの首を、一種の呪力有る物として信じてゐた事だけは事實である。讚岐の犬神の作方に就いても、
茲
(
コレ
)
と全く同じ方法が傳へられてゐる所から見ると
〔
十三
〕
、古くは蠱術家が一般に遣つた事と思はれるのである。
狸神は寡見の及ぶ限りでは、殆んど阿波一國に限られてゐる樣である。由來、阿波には動物に關する不思議の傳說が多く、事に首切り馬の如きは、今に正解を見ぬ程の難問題である。而して同國の狸神に就いて、未見の學友後藤捷一氏の記す所に據ると、狸が人に憑いたり、又は惡戲をするので、
之
(
コレ
)
を神に祀つた祠は、枚舉に遑無しと云ふ程夥しく存してゐるが、就中、德島市寺町妙長寺の「お六さん」と云ふのは、狸合戰
(有名な八百八狸の物語である。)
に關係した女狸で、相場師、漁夫、藝妓等の俗信を集めてゐる。同市佐古町大谷臨江寺の「お松さん」も、同樣に、狸合戰に出た女狸であるが、
之
(
コレ
)
は緣結びの神として崇拜されてゐる。同市住吉島町に「おふなたさん」と稱する神社が有るが、此神體は子供を十二匹連れた狸で、子供の無い人が祈願する。そして何處の家でも、狸が憑くと、先づ陰陽師か修驗者を賴んで、祈禱して貰ふのが常であるが、
之
(
コレ
)
を落すのに、唐辛で燻殺したと云ふ事も耳にしてゐる。併し大抵は、神神の護符を戴かせて、退散させるのである。此時には必ず、狸が憑いた動機や名前を語り、最後に祠を立てて祀つてくれ等と註文を出すさうである
〔
十四
〕
。併し
之
(
コレ
)
に由ると、狸神は、狸其の者が無邪氣であるだけに、犬神や蛇神等に較べると、極めて罪が淺い樣である。猶此外に、備後の
人狸
(
ゲトウ
)
、伊豫のジヤグマ、陸中の
御行神
(
オクナイサマ
)
等記すべき物も有るが、大體に於いて共通した物と信ずるので、一臠を以て全鼎を推すとして省略する。
四、牛蒡種と吸葛
「牛蒡種」は、飛驒國の一部に行はれてゐる憑物であるが、
之
(
コレ
)
に關しては、曩に私見を發表した事が有るので
〔
十五
〕
、
之
(
コレ
)
を要約して載せるとする。即ち牛蒡種とは、其憑き工合が、恰も牛蒡の種の
其
(
ソレ
)
の如く、一度
憑
(
ツ
)
いたら容易に離れぬと云ふ意味に解されてゐるが、
之
(
コレ
)
は全く護法實
(此事は
既述
した。)
の轉訛にしか過ぎぬのである。而して此俗信の行はれてゐる地域、及び其狀態に就いては、『鄉土研究』第四卷第八號に左の如く揭げて有る。
牛蒡種と云ふ家筋は、飛驒の大野・吉城の二郡と、益田郡及び美濃國惠那郡の一部とに散在し、更に信濃の西部にも少し在ると云ふ。此家筋の男女は、一種不思議の力を有すると云はれてゐて、家筋以外の者に對し、憎いとか嫌だとか思つて睨むと、其相手は、立ち所に發熱し頭痛し、苦悶し悒惱して、精神に異狀を來たし、果は一種の瘋癩病者の如くに成り、病床に呻吟するに至る。幸に輕い者は數十日で恢復するが、重い者に成ると其が原因で死ぬ事も有ると云ふ。そして此力は家筋同士の間には效驗が無く、亦他の者に對して斯くの如き力を用ゐつつある間も、自分には何等の異狀を起さぬさうである。吉城郡上寶村
大字
雙六と云ふ部落等は全戶此家筋から成立つてる樣に噂されてゐて、他村の者は甚だしく之を怖憚つてゐる。又美濃國惠那郡坂下村
大字
袖川と云ふ所にも、此家筋の者が居住し、或は其家から女を妻に貰つた男等は、妻に對して如何ともする事が出來ず、一朝、妻の怒りに觸れると、夫は忽ち病人に成ると云ふ有樣で、此種の女を妻とした男は、是非無く洗濯もすれば、針仕事もすると云ふ樣な譯で、全く奴隷同樣の境遇に落ちると云ふ話である。但し牛蒡種の威力も、幾ら部外の人でも、郡長・警察署長・村長とか云ふ目上の者に對しては、效果を發揮する事が出來ぬ。
云云。(中山曰、此點は土佐の犬神と同じで、
之
(
コレ
)
が俗信である事を證明する上に注意すべき點である。)
此憑物の正體は極めて簡單であつて、
既述
した
護法實
(
ゴハフダネ
)
と稱する巫覡の徒が、此地に土著し、
其
(
ソレ
)
の子孫が一般民眾から忌嫌はれた為に
(此例は殆んど全國に存してゐる。)
生じた物にしか過ぎぬのである。從つて此れが、下層民眾の間にのみ行はれ、知識階級に對して少しも呪力が無かつたと云ふのも、又此結果に外
成
(
ナ
)
らぬのである。
吸葛
(
スイカツラ
)
の行はれてゐる範圍に就いては、寡聞の為良く判然せぬが、『雍州府志』卷二に據れば、洛北の貴船神社の末社に、
吸葛
(
スイカツラ
)
社の在る事が見えてゐるので、古く近畿に此俗信の行はれた事が推察される。更に『嬉遊笑覧』卷八に『屠龍工隨筆』を引用して、
何處事
(
イヅコト
)
も限らず、
吸葛
(
スイカツラ
)
と云ふも有となむ、
其祀樣
(
ソノマツリヤウ
)
、人の知らざる密なる所に穴を掘て、蛇を
數多
(
アマタ
)
入置き神に崇めて遣ふ法、大
方
(
カタ
)
犬神に
等
(
ヒト
)
し。
吸葛
(
スイカツラ
)
付られたる人は、熱甚
出
(
ダ
)
しく心身惱亂するを、病家
其
(
ソレ
)
と知りぬれば、寶を送遣せば病癒ると聞けり。
と載せて有る。
之
(
コレ
)
に由れば、蛇神の一種で、
道通
(
トウビョウ
)
の地方化とも思はれる。猶お此外に、
御寅
(
オトラ
)
狐、ナマダコ、白神筋等云ふ憑物も存してゐるが、別に取り立てて言ふ程の特種の物では無く、且つナマダコや、白神筋に就いては、後段で
之
(
コレ
)
に觸れる機會も有らうと考へるので割愛し、最後に是等に對する結論とも云ふべき物を附記して、本節を終るとする。
是等の憑物が、我國の固有の物で無くして、殆んど
其
(
ソノ
)
悉くが、支那思想の影響である事は、疑ふべからざる事實である。然れば、此事に就いては、古くから識者の間には說が有り、『榊巷談苑』の著者の如きは、
四國に犬神と云ふ
厭魅
(
マジモノ
)
有り、唐國にては犬蠱と云ふ。
(中略。)
又陶瓶をば蛇蠱と云ふ、共に干寶の『搜神記』に見えたり。
と言うてゐる。山岡浚明翁も又其著『類聚名物考』に於いて、全く
之
(
コレ
)
と同じ意見を述べ、然も貓鬼の事に迄論及してゐる。
私は彼之の共通──と云ふよりは、更に一步を進めて、我國が支那の
巫蠱
(
マジモノ
)
に學んだ事を證示する為に、茲に『搜神記』より、其原據と成つてゐる文獻を檢出するとするが、犬神に就ては、同書卷十二に、
鄱陽趙壽有犬蠱。時陳岑詣壽,忽有大黃犬六七,群出吠岑。後余相伯婦,與壽婦食,吐血幾死,乃屑桔梗以飲之而愈。蠱有怪物若鬼,其妖形變化雜類殊種。或為狗豕,或為蟲蛇,其人不自知其形狀。行之於百姓,所中皆死。
と有るのが其である。勿論、支那の物が其のまま我國に行はれてゐるとは云へぬが、併し其蠱術の根本が、共通した物である事は、肯定されるのである。次に
道通
(
トウビョウ
)
と稱する蛇神に關しては、同書同卷に、
滎陽縣有一家,姓廖,累世為蠱,以此致富。後取新婦,不以此語之。遇家人咸出,唯此婦守舍。忽見屋中有大缸,婦試發之,見有大虵,婦乃作湯灌殺之。
云云。
と有り、彼之全く一致してゐる事が推知される。殊に柳田國男先生の記された所に據ると、
舊幕時代に、或人が國普請の夫役に當つて、讚岐中部の某村に往き、或る家に宿を借りて日日普請場に通つてゐた。一日家へ歸つて見ると家の者は皆留守で、台所の鑵子に湯がぐらぐら煮えてゐる。一杯飲まうと不斗床の下を見ると蓋をした甕が有る。茶甕かと思つて開けて見れば、例の神
(中山曰、
土瓶
(
トンボ
)
神。)
がうようよと丸で泥鰌の籠の樣であつた。乃ち熱湯を一杯ざつぷと掛けて蓋をして置いた。
(中略。)
其家では大喜びで、普請で知らぬ人を宿したお蔭に、永年の厄介物を片付ける事が出來たと云つてゐた。
云云。(以上『鄉土研究』第一卷第七號。)
と有るのは、『搜神記』に、何も知らぬ新婦が、熱湯を以て蛇蠱を灌殺したと有るのと、全く同巧異曲の物語と云へるのである。
更に狐蠱に在つては、一段の類似性を有してゐる事が發見される。例えば寬政頃に奧州の事を書いた『黑甜瑣語』第四編に載せた、羽後の秋田で、梓巫女に宿を貸した男が、巫女に酒を強ひて醉潰れて、臥た間に、巫女の用ゐる髑髏と、墓地で拾つて來た只の曝頭と入換へて置くと、翌朝一旦歸つた巫女、面色土の如く成つて戾來り、「惡戲も事にこそよれ、早く本物の髑髏を返せ。」と云うので、其理由を語れと云ひしに、此髑髏は、千歲の狐、形を人に變ぜんとする修行に、頭に戴いて北斗を拜する時用ゐた物で、稀には野外で
之
(
コレ
)
を見付ける事が有るも、其徵には必ず枯木で作つて杓子の樣な物が添へて有る、
之
(
コレ
)
をボッケイと云ふと有るのは、時珍の『本草綱目』に、「狐至百歲禮北斗,變為男婦。」と有るのから派生した物で、私等が子供の折に良く見た大雜書には、狐が髑髏を頭に載せて北斗を拜んでゐる插繪が有つた物である。貓神も狸神も、其原據を支那に求める事は決して難事無く、從つて是等の蠱術が舉げて支那のを學んだ物である事が判然するのである。
由來、我國の巫女の行ひし呪術は、其原義に於いては、北方民族の間に發達した
巫道
(
シャマニズム
)
の系統に屬してゐる物であるが、其發生地である
巫覡
(
シャーマン
)
に是等の蠱術の存在せず、且つ我國で工夫された物と、積極的に說明すべき證左の無い點から見るも、
之
(
コレ
)
が支那の影響である事は、多言を要する迄も無いと信じてゐる。
〔
註第一
〕我國の憑物の就いては、前に柳田國男先生が「巫女考」の中に連載され、後に『民族と歷史』では「憑物研究號」の特別號を出されてゐる。詳細は是等に據つて知つて貰ひたい。
〔
註第二
〕稻荷神と、吒吉尼天との習合に關しては、伴信友翁の『驗の杉』に委曲を盡してゐる。三州の豐川稻荷は、其の代表的の物であつて、古くは稻荷と云ふも、實際は荼吉尼天であつたと聞いてゐる。
〔
註第三
〕狐を專女と稱し、
之
(
コレ
)
を殺した為に配流された例は、『古事談』其他に散見してゐるが、今は煩を避けて
態
(
ワザ
)
と載せぬ事とした。
〔
註第四
〕『鄉土研究』第一卷第七號。
〔
註第五
〕『民族と歷史』の「憑物研究號」參照。
〔
註第六
〕同上。
〔
註第七
〕
與太
(
ヨタ
)
と云ふ言葉は、現時では、出鱈目とか、戲談とか云ふ意味に用ゐられてゐるが、其起源は、神託に關係有る言語であるらしい。近江の官幣大社多賀神社を初めて祀つた者を
與多
(
ヨタ
)
麿と稱し、紀州の官幣大社日前國縣神宮に
與多
(
ヨタ
)
と稱する神職が有り、更に下總の官幣大社香取神宮に近き所を
與多
(
ヨタ
)
浦と云ふ等は、此考へを裏付ける物と思うてゐる。
〔
註第八
〕飯綱信仰に就いては、記述すべき多くの資料を有してゐるが、餘りに長文に成るのを恐れて省略した。そして此信仰を言立てた行者は、山伏と殆んど擇む無き呪術を行つた者で、信仰の對象にこそ多少の相違は有れ、實質は兩者ともに同じ樣な物である。
〔
註第九
〕『雪窗夜話』の筆者である上野忠親は、寶暦七年に七十二歲で死んでゐる。更に同書卷七に「備前の
道通
(
タフベウ
)
の事」と題せる記事が載せて有るが、此方の
道通
(
トウビョウ
)
は蛇だと有るから、古くから此物の正體が不明であつた事が知られる。私は是等の動物は、
(
尾先
(
オサキ
)
狐、
管
(
クダ
)
狐、
神
(
ジン
)
狐、
道通
(
トウビョウ
)
等。)
所謂、妄想上の動物であると信じてゐるから、正體を見た者が無く、從つて正體不明が卻つて正當だと考へてゐる。
〔
註第十
〕前揭の「憑物研究號」。
〔
註十一
〕『鄉土研究』第一卷第七號「犬神蛇神の類」參照。
〔
註十二
〕同じく「憑物研究號」。
〔
註十三
〕「憑物研究號」に讚岐の犬神の話とて、白犬を首だけ出して地中に埋め、飯を見せびらかした後に首を切ると云ふのが載せて有る。
〔
註十四
〕此れも「憑物研究號」に據つた。
〔
註十五
〕私が、牛蒡種は護法實也との考證を『醫學及び醫政』の誌上へ發表連載したのは、大正九年頃と記憶してゐる。其折に喜田貞吉氏から、拙稿を見て自分もさう考へてゐたとの書信に接した。そして喜田氏が「憑物研究號」に牛蒡は護法實也とも云ふべき論說を揭載されたのは、大正十一年の事である。喜田氏は有名のお方であるのに反して私は無名の者、學說を剽竊した等と思はれるも折角だから、誤解を避くる為敢て附記する。
第二節 奧州に殘存せる
大白
(
オシラ
)
神の考察
陸中國を中心として、陸前と陸奧と羽後の各一部に掛け、
巫女
(
イタコ
)
と稱する巫女の持つてゐる
大白
(
オシラ
)
神なる者は、我が民俗學會に於ける久しい宿題であつて、今に定說を見るに至らぬ程の難問なのである。私の菲才にして寡聞なる、到底此難問を解決する事は不可能であるが、此處に所信を記述して、江湖の叱正を仰ぐとする。
一、
大白
(
オシラ
)
神に關する傳說
大白
(
オシラ
)
神を學會に提出したのは『遠野物語』であると信ずるが、其由來に就いては、概略左の如く記して有る。
昔
某
(
アル
)
處に貧しき百姓有り、妻は亡くして美しき娘有り、又一匹の馬を養ふ。娘、此馬を愛して夜に成れば廄舍に行きて寢ね、遂に馬と夫婦に成れり。或夜、父は此事を知りて、其次の日に娘に知らせず、馬を桑木に吊下げて殺したり。其夜、娘は馬の居らぬ
因
(
ヨ
)
り、父に尋ねて此事を知り、驚き悲て桑木の下に行き、死したる馬の首に縋りて泣きいたりしを、父は之を惡みて斧を以て、後より馬首を切落せしに、忽ち娘は其首に乘りたるまま天に昇去れり。
大白樣
(
オシラサマ
)
と云ふは此時より成りたる神也。馬を吊下げたる桑枝にて其神の像を作る。其像三つ有りき、本にて作りしは山口の大同に在り、之を姊神とす。中にて作りしは山崎の在家權十郎と云ふ人の家に在り。
(中略。)
末にて作りし妹神の像は、今
付馬牛
(
ツクモウシ
)
村に在りと云へり。
云云
〔
一
〕
。
此
大白
(
オシラ
)
神由來記とも云ふべき物が、支那の『搜神記』の蠶神の傳說の影響を、多分に受容れてゐる事は言ふ迄も無い
〔
二
〕
。而して此記事に就いては、更に注意すべき三つの點が有る。
第一は、此神を、民家で祭つてゐたと云ふ事である。併し、此れは初めからの習慣では無くして、巫女の家の後か、又は巫女の手を離れた神を、篤志の者が祭つたと見るべきであらう。現に磐城國石城郡上遠野村附近では、
大白
(
オシラ
)
神の事を
神明
(
シンメイ
)
樣と稱へ、在家では之を祭らず、修驗行者
(
若
(
ワカ
)
と稱する巫女。)
の徒が祈禱の折に持參し來つて拜ませると有るのでも
〔
三
〕
、其の古い時代の事が想はれるのである。
第二は、神體を桑木で作ると云ふ事であるが、此れも古い時代に在つては、必ずしも此木に限られた物では無くして、多くは竹で作つてゐた樣である。菅江真澄翁の『月の出羽路』卷廿一に、羽後國仙北郡地方の事として、次の如く出して有る。
谷を隔てて生立る桑樹の枝を採り、東の
朶
(
エダ
)
を雄神、西方を雌神とし、八寸餘りの
束
(
ツカ
)
の末に人頭を作り、陰陽二柱の御神に準ふ。絹綿を以て包み秘め隱し、巫女
其
(
ソレ
)
を左右の手に取りて、祭文祝詞を唱祈り加持して祭る。
此記事から推すと
〔
四
〕
、桑で作る事も、決して新しい物では無いが、更に遠き昔に於いては、竹で間に合せた樣である。恐らく、
大白
(
オシラ
)
神が『搜神記』等の影響で、蠶神と成つてから、桑で作る樣に成つた物と考へて差支無い樣である。
第三は、馬首を斬つたと云ふ事であるが、此れは阿波國に殘つてゐる首斬り馬の傳說と同じ物で、何か兩者の間に共通した物が有るのでは無いかと思はれるのである。而して姊崎正治氏は、曾て「中奧の民間信仰」と題せる記事中にて、
大白
(
オシラ
)
神に關し下の如く述べた事が有る。
盛岡付近にては、不動の變形を「
大白
(
オシラ
)
サン」と稱して崇拜し、其神體は桑樹の四枝を出だせる枝四體にして、常に此四體を離せば罰を受くと信ぜり。此神は婦女小兒の心願を成就せしむとて、彼等は布を以て之が頭を蔽ふを以て、之が崇拜の方法と
為
(
ナ
)
し、多くは小兒の守護神として、時には小兒等之を街上に引迴す事有り。此神靈は又時に桑梢の四岐せる所に宿れるを以て、
此如
(
コノゴト
)
き桑樹は靈樹として切るべからず、之を切る者は明を失し、其他重病に罹ると。此神に附屬せる古き神札を見れば、明かに阿遮羅尊の名を記し、其二童子の名を附記せり。故に「
大白
(
オシラ
)
サン」とは
阿遮羅尊
(
Acala
)
即不動なるも、「
大白
(
オシラ
)
サン」として祀れる者は不動と同一なるを知らざる也。何れにしても之を威力の神として、特に疾病に關係有る神として祭れるに至りては一也。
云云
〔
五
〕
。
姊崎氏の記事は、明治三十年頃の古い物で、且つ盛岡地方に限られた採訪であるから、
之
(
コレ
)
に對して批評がましい事を言ふのは差控えねば成らぬのであるが、其中の一つだけを云へば、
大白
(
オシラ
)
神と不動尊とが一體であると云はれたのは如何かと考へられるのである。前にも記した如く、東北の巫女は神と結婚する古俗を忠實に守つてゐて、愈愈一人前の巫女と成る時、
神附
(
カミツ
)
けと稱して十三佛中の一佛と結婚し、
之
(
コレ
)
を一代の呪神──即ち守り本尊として崇拜するのである。
(是等に就いては
第三篇
に詳述する。)
然
(
サ
)
れば姊崎氏が見られた神札に不動及び二童子の名が有つたと云ふのは、偶偶不動尊を守護佛とした巫女の出した物では無いかと思はれるのである。
二、
大白
(
オシラ
)
神の神體と裝束
此神に關する諸種の報告を參酌すると、
大白
(
オシラ
)
神の神體は陰陽二體を原則とし、古い物程竹で作り、
長
(
タケ
)
は八九寸
止
(
ドマ
)
り、頭は
雞頭
(
トリガシラ
)
、姬頭、馬頭等有り、
之
(
コレ
)
も古い物程動物で、新しく成ると人間に成つてゐる。裝束
(方言でセンタクと云ふ。)
としては、方一尺程の布の中央に穴を開け、其へ頭を通して被せる物で、俗に貫頭衣と云ふ形式其のままである。そして此裝束は、年に一度正月十六日に新調して被せるのであるが、其折にも古い物を其のままとして、上へ上へと幾重にも被せるので、古い神體に成ると、十枚も二十枚も重ねてゐるのが有る。而して
之
(
コレ
)
を祭る時には、顏面へ白粉を塗り、巫女が神體を左右の手に持ち、祭文を唱へながら、踊らせる樣に動かすのである。此裝束の被せ方は、他地方に於ける雛人形の
其
(
ソレ
)
と全く同じ物で、
大白
(
オシラ
)
神が人形であつた事を自ら證據立てる一つである。更に祭りの日に、顏へ白粉を塗る事も、我國には種種形式で殘つてゐる民俗であつて
〔
六
〕
、
之
(
コレ
)
も別段に
大白
(
オシラ
)
神に限つた物では無いのである。
三、
大白
(
オシラ
)
の語源と其分布
此神を何故に
大白
(
オシラ
)
と言ふかに就いては、相當學界に異說も有るが、此處に其大略を摘記すれば、第一說は、前揭の折口信夫氏の云はれた樣に、元はオヒラと稱して、
雛
(
ヒナ
)
を意味してゐたのが、斯く轉訛したのであると云ふのである。第二說は、加賀の
白山神社
(
シラヤマジンジャ
)
に仕へた巫女が、古く此神體を呪術に用ゐたのが、東北の巫女に傳り、其名を負うて
大白
(
オシラ
)
神と成つたのであらうと云ふのである。第三說は、此神は元元アイヌ民族の持つてゐた物で、同民族では守り本尊とも云ふべき神の事を、
守神
(
シラツキカムイ
)
と稱してゐるので、其轉訛であらうと云ふのである。第四說は、此神は蠶神であつて、蠶の
白彊蠶
(
オシラ
)
を舍利と稱して尊敬した俗信が有つたので、其に由來するのだらうと云ふのである。第五說は、
大白
(
オシラ
)
神は
御知
(
オシ
)
らせ神の轉訛であると云ふのである。第六說は、
ネフスキー
(
Nikolai Aleksandrovich Nevskii
)
氏の主張する
西比利亞
(
シベリヤ
)
からの輸入說等
(此事は
後段
に述べる。)
が存してゐる。
私は
大白
(
オシラ
)
神の語源に對する態度を明かにする以前に、更に此神が我國の如何なる地方に分布してゐるかに就いて述べるとする。此神が、東北一帶──殊に陸前・陸中・陸奧・羽後に掛けて分布してゐる事は、既に述べた如くであるが、此反對に、他地方には、全く見る事の出來ぬ神の樣に解されてゐた。換言すれば、
大白
(
オシラ
)
神は、東北地方の特殊神であつて、此以外には、存在せぬ物である如く見られてゐたのである。
併し、私の寡聞を以てするも、此解釋は全く誤りであつて、かなり廣く分布してゐた事が知られるのである。最近の報告に依ると、武藏國西多摩郡の各村落にては、此神を祭り、
(但し神體は異つてゐて、此地方のは佛像である。)
今に
大白
(
オシラ
)
講と云ふのが各村に在る事が證明された
〔
七
〕
。柳田國男先生の記事に據つて知つた、越後長岡邊では昔は蠶の事を四郎神と云ひ、正月・二月・六月の午日に、小豆飯を以て
之
(
コレ
)
を祭つたのや
〔
八
〕
、上野國勢多郡宮田村等でも、正月十四日の夜を
大白
(
オシラ
)
マチと呼び、神酒と麺類とで蠶影山の神を祭つたと有るのも
〔
九
〕
、共に
大白
(
オシラ
)
神の分布された物と見る事が出來るようである。
更に『
延喜式
』の
神名帳
に載つてゐる武藏國播野郡の
白髮
(
シラカミ
)
神社も、後には祭神清寧天皇と傳へられたが
〔
十
〕
、
是等
(
コレナド
)
も清寧帝が偶偶白髮であつたと云ふ故事から、白髮に附會した
賢
(
サカ
)
しらで、古くは
白神
(
シラカミ
)
と訓んだ物と解する方が穩當であつて、然も
大白神
(
オシラカミ
)
に關係が有つたのかも知れぬ。美作國苫田郡高野村
大字
押入に白神神社と云ふが有り、社記を刻した長文の石碑が建てて有るが、其に由ると、即ち
白神
(
シラカミ
)
と訓む事が明白である
〔
十一
〕
。出雲國大原郡佐世村
大字
下佐世に白神明神が有り、俚俗に祭神は素尊と稻田姬との二柱で、素尊の髮が白いので、斯く稱すのだと云うてゐる
〔
十二
〕
。猶ほ同村には白神八幡と云ふ神社も有る。此俚傳も、前の清寧帝の其の如く、
白神
(
シラカミ
)
に後世から附會した物である事は言ふ迄も無い。紀伊國有田郡田栖川村に白神磯と云ふ地名が有る。
是
(
コレ
)
は『
萬葉集
』に、「
由良崎
(
ユラノサキ
)
、
汐干
(
シホヒ
)
にけらし、
白神
(
シラガミ
)
の、
礒
(
イソ
)
の
浦迴
(
ウラミ
)
を、
敢
(
アヘ
)
て
漕
(
コ
)
ぎなむ。
(
1671
)
」と有るのが其である
〔
十三
〕
。安藝の廣島市の國泰寺の附近にも白神神社と云ふが有る。以前は竹竿に白紙を挾んで、海中瀨の有る所に立てた物を神に祭つた
〔
十四
〕
。此二つは共に
大白
(
オシラ
)
神である事は言ふ迄も無いが、海邊に祭られた理由に就いては、私には判然せぬ。而して是に關して、想起される事は、下總銚子町の齒櫛神社の由來である。『利根川圖誌』等に據ると、齒櫛の二字から構想して、長者の娘が失戀して入水し、齒と櫛が漂著したので、神と祀つたのである等と、とんでも無い怪談を傳へてゐるが、
之
(
コレ
)
は古く
白神
(
シラカミ
)
に白紙の文字を當てたのを、更に
白紙
(
ハクシ
)
と訓み過つて、齒櫛の傳說と成つた事が知られるのであつて、何か海邊に此神が由緣を有してゐた事、前記の紀州や安藝の
其
(
ソレ
)
や、及び渡島の白神岬等と共に考ふべき點である。阿波國美馬郡口山村宮內の白人神社や
〔
十五
〕
、『筑後國神名帳』に載せた上妻郡の白神神社も、
是亦
(
コレマタ
)
白神
(
シラカミ
)
であつて、阿波のは白神を白人と訓み習はしたのを、後に斯かる文字を當てた物と見るべきである。
以上は手許に有るカードから抽出したのに過ぎぬのであるが、克明に全國に涉つて詮索したら、未だ幾つかの
白神
(
シラカミ
)
を發見する事が出來ようと思ふ。而して此貧弱なる類例から推すも、古く此神が殆んど全國的に分布されてゐて、決して東北地方に限られた特殊神で無い事が釋然したと信ずるのである。從つて此立場から言へば、
大白
(
オシラ
)
神の語源に、第一說の
雛
(
ヒナ
)
の轉訛と見るのが、尤も妥當であると考へるのである。そして此神を東北に持運んだのは、熊野比丘尼の徒であると思ふのである。
四、
大白
(
オシラ
)
神のアイヌ說
此神はアイヌ民族の持つてゐた物であると云ふ說も、かなり古くから傳へられてゐる。例へば『蝦夷風俗彙纂』に引用した『松前記』の一節に、「蝦夷には
大白
(
オホシラ
)
神と云ふ物有り、何の神と云ふ其由來を知る者無し、桑木の尺餘なるに、
朦朧
(
オボロ
)
げに全體を彫る、男女の二神也。
(中略。)
其神、巫女に懸りて吉凶を云ふ。
(中略。)
中國に在る所の犬神と云ふ物に
等
(
ヒト
)
しきか。」と載せ、更に明治に成つてから出版された『あいぬ風俗略志』にも、
之
(
コレ
)
と同じ樣な記事が見えてゐる。併しながら、
是
(
コレ
)
は柳田國男先生が言はれた樣に、「信仰は普通に單なる二種族の接觸のみに由つて、一が他を感化し得る物とは想像し難く、殊に敗退者たる本土アイヌとして、其神を故地に留めて今日の盛況の原因を
成
(
ナ
)
したと云ふ事は、決して推斷し易い事柄では無いと思ふ。」と有る如く
〔
十六
〕
、此神をアイヌの遺物とする事は無理だと考へる。殊にアイヌ民族の研究者として當代の權威である金田一京助氏にお尋ねしても、
大白
(
オシラ
)
神を持つてゐた傳說も聽かず、又
之
(
コレ
)
を崇拜してゐる痕跡も見えず、殊に『松前記』に斯かる記事は載つてゐぬとて、近刊の『民俗學』第一號で發表されてゐるから、
之
(
コレ
)
は內地の神と見るのが穩當である。
五、
大白
(
オシラ
)
神は呪神で無い
斯う考えて來ると、
大白
(
オシラ
)
神は、其始めは巫女が行ふ所の呪力を授ける神では無くして、恰も
傀儡女
(
クグツメ
)
の持てる木偶、遊女の信仰した百太夫の
形代
(
カタシロ
)
の如き物であつたと見るべきである。殊に現在でも、此神を持つてゐる
巫女
(
イタコ
)
が呪術を行ふ時とは、昔の守袋に似た圓筒形の筒と、
最角
(
イラタカ
)
の珠數とを大切に取扱ひ、
大白
(
オシラ
)
神は
唯
(
タダ
)
舞はせるだけだと云ふ事からも、其間の事情を察知し得るのである。折口信夫氏は、
既記
の如く、
大白
(
オシラ
)
神は熊野明神の
使令
(
ツカワシメ
)
だと云はれてゐるが、私の信ずる所では、我國の用例として、動物以外に
使令
(
ツカワシメ
)
の意義を有たせた物の有る事を發見せぬので、
之
(
コレ
)
を直ちに使令と見る說に賛成し兼ねるのである。折口氏は、抽象的の假定で推論する天才であるが、動物以外の使令の類例を示してくれぬ以上は、氏の說は困難だと信ずるのである。猶ほ
大白
(
オシラ
)
神の舞はせ方、其折に唱へる祭文の如きは、
第三篇
に述べる考へであるから、
之
(
コレ
)
と
其
(
ソレ
)
と參照されん事を希望する。
〔
註第一
〕『遠野物語』は、柳田國男先生が、遠野町に近き陸中國上閉伊郡土淵村
大字
山口生れの佐佐木吉善
(當時は繁と云つた。)
の話を記された物で、我國の民俗學上には意義の深い著述である。
〔
註第二
〕『搜神記』の記事は餘りに有名で、誰でも知つてゐる事
故
(
ユヱ
)
、
態
(
ワザ
)
と省略した。
〔
註第三
〕『鄉土研究』第三卷第二號。
〔
註第四
〕同上第一卷第五號。
〔
註第五
〕姊崎氏の記事は『哲學雜誌』に載つた物だと云ふが、今は八濱督郎氏編纂の『比較宗教迷信の日本』に據つた。
〔
註第六
〕神や佛を祭る時に、其像へ、白粉や、獸魚の鮮血や、更に
紅殼
(
ベニガラ
)
、泥等を塗る民俗は各地に有る。殊に、面白いのになると、小豆飯の汁だの、饀等を、塗り付ける物さへ有る。
〔
註第七
〕八王子市出身の學友村上清文氏の談。因に、同地方の
大白樣
(
オシラサマ
)
の佛像は『民俗藝術』の人形芝居號に、寫真版に成つて插入して有る。
〔
註第八
〕『鄉土研究』第一號第五號所引の『北越月令』。
〔
註第九
〕同上所引の『宮田村沿革史』。
〔
註第十
〕『神名帳考證』に據る。
〔
註十一
〕『東作誌』。
〔
註十二
〕『雲陽誌』卷下。
〔
註十三
〕『有田郡誌』。
〔
註十四
〕『藝備國郡志』。
〔
註十五
〕『美馬郡鄉土誌』。
〔
註十六
〕『民俗藝術』第二卷第四號。
第三節 性器利用の呪術と巫女の異相
男女の性器に呪力有りとした民間信仰は、古代から存した事は既記の如くであるが、更に巫女が娼婦化し、巫道が墮落する樣に成つてから、此信仰が、一段と助長した事は、明白に看取される。此處には、其代表的事實として、毛髮信仰に由來する巫女の七難の揃毛に就いて記述を試みんとする。
一、原始的な毛髮信仰
毛髮を
生命の指標
(
ライフ・インデックス
)
とした信仰は、古くから我國にも存してゐた。『
神代紀
』に、素尊が種種の罪を犯して、高天原を逐はれる時に、
八束鬚を斷られた
と有るのは、即ち此信仰の在つた事を裏付ける物と見て差支無い樣である。降つて『
孝德紀
』に、「或為亡人斷髮刺股而誅。」を制禁したのも、又た髮に生命の宿る事を意識してゐた民俗に出發してゐるのである。現にアイヌ民族では、
巫女
(
ツス
)
の呪力は鬢髮の間に深く藏されてゐて、髮を剃れば巫術は行はれぬ物と信じてゐる
〔
一
〕
。斯うした信仰から導かれて、毛髮には或る種の呪力の存する物として、崇拜された民俗は、今に樣樣なる形式で殘つてゐる。
例へば、田畑に立てる
案山子
(
カカシ
)
の語源には異說も有るが、此れは毛髮を燒いた匂ひを鳥獸が嫌ふ為に、
之
(
コレ
)
を木に吊し、竹に挾んで立てた即ち
嗅せ
(
カガ
)
かがせの轉訛と見るのが穩當である
〔
二
〕
。節分の夜に、蟲の口を燒くとて、鰯の頭を毛髮で卷き、柊枝に刺し、豆殻を焚きながら唱へる種種なる呪文も
〔
三
〕
、
咸
(
ミンナ
)
臭氣を以て、農作に損害を與へる動物を拂ふ為で、其が毛髮を燒いた事に源流を發してゐる事は明白である。既載した琉球の「
於成
(
ヲナリ
)
神」の信仰は、男子が旅行する際に、姊なり妹なり
(姊妹無き者は從姊妹。)
の毛髮二三本を所持してゐれば、息災であると云うてゐるが、此れに似た信仰は、內地にも廣く古くから行はれてゐたのである。
此處に二三の類例を舉げれば、妊婦の橫生逆產を安產せしめるには、良人の陰毛十四本を燒研し、豬膏に和して、大豆大に丸めて吞ませると宜い
〔
四
〕
。人が若し、蛇に咬まれた時は、其人の口中に男子の陰毛二十本を含ませ、汁を嚥めば、毒の腹に入る事は無い
〔
五
〕
。私の生れた南下野地方では、男子が性病に掛つた時は、三人の女子の陰毛を貰集め、此れを黑燒にして服すと、奇功が有ると云うてゐる。是等は、廣く尋ねて見たら、更に他地方にも行はれてゐる事と思ふ。其から、芝居の興行師や、茶屋女等が、來客が少くつて困る時は、陰毛三本を拔き、一文膏へ貼り、人に知れぬ樣他の繁昌する店頭へ貼つて來ると、必ず其店の客を引く事が出來ると信じてゐた
〔
六
〕
。
而して以上は、專ら男女の陰毛に關した物であるが、
之
(
コレ
)
以外の毛髮に就いても、又た深甚なる俗信が伴つてゐたのである。播州飾磨郡地方では、惡疫流行の際に、袂の底に毛髮を二三本入れて置くと、惡疫に掛からぬと云つてゐる
〔
七
〕
。山城國葛野郡小倉山の二尊院の門前に、
長
(
タケ
)
明神と云ふが有る。社傳に據ると、檀林皇后の落ち髮を祀つた物だと云うてゐる
〔
八
〕
。記述した稱德女帝の御髮を盜んで、
犬養姊女等が呪詛した
と有るのも、髮に生命の宿る事を信じてゐたからである。京都市外の雙ヶ岡の長泉寺には、
吉田兼好法師
の木像が有り、外に辭世の、「契りをく、花と雙びの、岡の邊に、あはれ幾代の、春をへぬらむ。」の歌を、兼行が剃髮の毛で文字を綴つて作つた掛幅が有る
〔
九
〕
。同じ京都市外の栂梶の西明寺には、中將姬の髮の毛で、彌陀三尊の種子を作つた掛幅が有る
〔
十
〕
。此れと似た物が、上野國邑樂郡六鄉
大字
新宿の遍照寺にも有る。此れも中將姬の毛で、彌陀三尊の梵字を一字づつ織り出してゐるが、俗に頭髮の曼荼羅と稱してゐる
〔
十一
〕
。
其から、甲州御嶽の藏王權現の寶物中に、
北條時賴
剃髮の毛と云ふが有る。其毛は、綰ねて捲子の中に納め、其外に、「最明寺殿御髮毛、愛宕山へ納め候を、
當將軍樣
(
家光?
)
御申下し、愚僧方へ參候を、當山へ奉納候、寬永一六年正月吉日、納主不明。」と記して有るさうだ
〔
十二
〕
。更に、雲州出雲郡神立村の立蟲神社は、社家の傳に素尊の毛髮を納めた所だと云つてゐる
〔
十三
〕
。そして薩摩國日置郡羽島村の髢大明神は、天智帝の妃大宮媛が、頴娃に下向の時、同村を過ぎ髢を遺されたのを祀つた物と傳へられてゐる
〔
十四
〕
。斯うした毛髮信仰は未だ各地に存してゐるが、煩を避けて他は割愛した。昭和の現代でも、嬰兒の
產
(
ウブ
)
毛を保存して置くのは、此古い信仰の名殘りであると言ふ事が出來るのである。
其では、斯かる信仰は、何に由來してゐるかと云ふに、其總てを盡す事は、アニミズム時代から說かねば成らぬので、其は茲には省略するより外に致し方は無いが、兔に角に、(一)毛髮が自然と伸長する事、(二)黑い毛が年齢により白くなる事、(三)死體は腐つて了つても、毛だけは永く殘ると云ふ事等が、古代の人人をして毛髮にも一種の靈魂が宿る物と考へさせたに起因するのである。而して古代人は、異常は必ず神秘を伴ふか
〔
十五
〕
、又は神秘の力を多分に有してゐる物と併せ信じてゐた。此處に頭髮なり、鬚髯なり──殊に陰毛なりが、異常に長い事を、一段と不思議とも考へ、神秘力の多い物とも考へる樣に成つた。巫女の七難の揃毛は、此信仰から發生し、此れに佛法の仁王信仰が加つて完成された物である。
二、各地に存した七難の揃毛
七難の
揃毛
(
ソソゲ
)
の文獻に現はれたのは、『扶桑略記』卷二十八が初見の樣である。即ち
治安
三年十月十九日に、
(七月十三日に、
萬壽
と改元。)
入道前大相國
(
藤原道長
)
が、紀州高野山の金剛峯寺へ參詣した歸路に、奈良七大官寺の一なりし元興寺に立寄り、「開寶倉令覧,中有此和子陰毛。
【宛如蔓,不知其尺寸。】云云。
」と有るのが、
其
(
ソレ
)
である。勿論、
是
(
コレ
)
には七難の揃毛とは明記して無いが、此和子の陰毛が宛も蔓の如く、其尺寸の知れぬ程長い物であつたと云ふ事は、他の多くの類例から推して、明確に知り得られるのである。
而して私は、茲に
之
(
コレ
)
が類例を舉げるとするが、先づ東京市の近くから筆を起すと、北千住町の少し先きの、武藏國北足立郡谷塚村
大字
新里に、毛長明神と云ふが有つた。昔は長い毛を箱に納めて神體としてゐたが、
何時
(
イツ
)
頃の別當か、不淨の毛を神體とするは非禮だと云つて、出水の折に、毛長沼に流して
了
(
シマ
)
つた。此毛長明神の鳥居と相對せる、南足立郡舍人村
大字
舍人には、玄根を祀つた社が有つたが、今では取拂はれて無く成つて
了
(
シマ
)
つた
〔
十六
〕
。下總國豐田郡石下村の東弘寺の什物に、七難の揃毛と云ふが有る。色は五彩、
(五色の陰毛とは注意すべき事で、後出の記事を參照されたい。)
長さ四丈有餘、何者の毛か判然し無い。傳に、往古七難と稱する異婦が有つて、此者の陰毛だと云つてゐる
〔
十七
〕
。
是
(
コレ
)
に就いては、『甲子夜話』卷三十に僧無住の『雜談集』を引用して、「俗に往昔の靈婦の陰毛也。」と載せてゐる。今、私の手許に雜談集が無いので、參照する事が出來ぬが、
若
(
モ
)
し此記事に誤りが無いとすれば、僧無住は、
梶原景時
の末裔で、
嘉祿
年中の出生であるから、此揃毛は鎌倉期には在つた物として差支無い樣である。
其
(
ソレ
)
から、伊豆の箱根權現の什物中にも、悉難ヶ揃毛と云ふ物が有つた。『尤草子』に長き物の品品にも、七
難揃毛
(
ナンガソソゲ
)
と有るのを見ると、長い物であつた事が想はれる
〔
十八
〕
。上野國多野郡上野村
大字
新羽に神流川と云ふが有る。
慶長
頃に洪水が有り、
其
(
ソノ
)
時に、此川の橋杭に怪しい長い毛が流れ掛かり、村民が大勢して拾揚げて見ると、長さ三十三尋餘り有り、其色黑くして艷
美
(
ウツク
)
しく、何の毛か分らぬので、村民も驚いたが、其のまま打棄てて置く事も出來ぬので、巫女を招んで占はせた
所
(
トコロ
)
が、此毛は同村野栗權現の流した陰毛だと云ふので、直ちに同社へ送返した。同社では每年舊六月十五日の祭禮の節には、神輿の後へ此陰毛を筥に入れて、恭しく捧げ持ち、今に陰毛の寶物とて名が高い
〔
十九
〕
。然るに、此毛髮は現存してゐると見え、近刊の『多野郡誌』に據ると、新羽村の新羽神社の神寶にて、橘姬の毛髮長さ七尺五寸と記して有る。
更に、同樣の例を舉げれば、信州の戶隱神社にも、古く七難の揃毛と云ふ物が有つたが、現今では山中院と稱する宿坊の物と成り、
平維茂
に退治された鬼女紅葉の毛と傳へ、色は赤黑く縮れてゐて、長さ五六尺
許
(
バカリ
)
、丸く輪に成つて壺中に納めて有ると云ふ事である
〔
廿
〕
。
其
(
ソレ
)
から、天野信景翁の記す所に據ると、尾張の熱田神宮にも、昔は此種の長い毛が有つたと云ふ事である
〔
廿一
〕
。そして、飛驒國大野郡宮村の水無瀨神社の神寶は六種有るが、
其
(
ソノ
)
一に七難の頭髮と云ふが有る。社家の說に、昔此地に鬼神が居て、名を七難と稱した。神威を以て誅伐されたが、其毛髮だと云つてゐる
〔
廿二
〕
。
尚、近江國の琵琶湖中に在る竹生島の辨才天祠にも、七難の揃毛が有つた
〔
廿三
〕
。同國石山の
阿痛
(
アライタ
)
藥師堂には、龍女の髮毛と云ふのが有る。琵琶湖に栖んでゐた龍女が得脫して納めた物だと傳へてゐるが、其髮は長くして、地に垂れる程の物である
〔
廿四
〕
。
是
(
コレ
)
には、戶隱の
(
其
)
ソレ
と同じく、別段に七難の揃毛とは明記して無いが、併し鬼女と云ひ、龍女と云ふも、結局は揃毛の呪術が忘れられた後に附會した說明であるから、元は揃毛であつた事は、他の類例からも知る事が出來るのである。大和國の官幣大社──巫覡に緣故の深い物部氏の氏神である石上神宮にも、
亦
(
マタ
)
七難の揃毛と云ふのが現存してゐる。最近に發行された繪端書で見ると
〔
廿五
〕
、今に婦人が用ゐる「ミノ」と稱する
髢
(
カモジ
)
の樣な物で、餘り長い物だとは思はれぬ感じがした。同國吉野の
洞
(
ドロ
)
川と云ふ所の奧の
天川
(
テンノカハ
)
の辨天堂に、七難のすす毛とて、長さ五丈
許
(
バカリ
)
の物が有る。俗に白拍子
静御前
の髮毛だとも云ひ、
又
(
マタ
)
緣起を聞くと、甚だ尾籠な物だと云ふ事である
〔
廿六
〕
。備後國奴可郡入江村の熊野神社の末社に、跡厨殿と云ふのが有るが、祭神は判然せぬ。神體は男女とも毛が長く、一に毛長神とも云つてゐる
〔
廿七
〕
。越前國大野郡平泉寺村から白山禪定の故地に往く道に、七難の岩屋と云ふが殘つてゐる
〔
廿八
〕
。此二つは、
稍
(
ヤヤ
)
明瞭を缺く所も有るが、毛長と云ひ、七難と云つてゐるので、姑らく此處に係けて記すとした。
三、陰毛の長い水主明神
巫女と七難の揃毛を記す以前に、猶ほ豫備として、陰毛の長い神の在つた事を述べて置く必要が有る。讚岐國大川郡譽水村の水主神社の祭神が、陰毛が長い為に、親神から棄られた緣起は既載した。但し、親神が何が故に、陰毛の長いのを恥ぢたのか、理由が判然せぬが、恐らく磯良神が變面を恥ぢたと云ふ傳說と共に、異相であつた事を心憂く思つた物と考へられる。而して讚岐の隣國なる、阿波三好郡加茂村
字
豬乃內谷の彌都波能賣神社にも、神毛に
纏
(
マツ
)
はる信仰が傳へられてゐる。此神社は、僅かに一筋の長い毛であるが、常には麻桶に入れて、神殿の奧深く安置して有る。神慮の穩かならざる時は、其毛が二岐に分れて大いに延び、桶を押し上げて外へ餘る樣に成る。
之
(
コレ
)
に反して、神意の
和
(
ナゴ
)
む時は、
本
(
モト
)
の如く成ると、里人は語つてゐる
〔
廿九
〕
。
之
(
コレ
)
には陰毛だとは明記して無いが、同書の附載として、「大和國布留社
(記述の石上神宮の事。)
にも大なる髮毛有り、
揃毛
(
ソソゲ
)
と云ふ由。」と有るのから推すと、筆者が
態
(
ワザ
)
と此點の明記を避けた物と考へられる。
日向國兒湯郡西米良村
大字
小川
字
中水流の米良神社は、祭神は磐長媛命と傳へられてゐるが確證は無い。此社にも、昔は一筋の毛髮が有つて、
之
(
コレ
)
を極秘の神寶としてゐた。俚傳に依ると、祭神が世を憤給ひ、此地の池に投身された折の神毛だと云ふてゐる。
元祿
十六年の洪水で、此神毛は流失して
了
(
シマ
)
つたが、
之
(
コレ
)
の在つた間は、神威殊に著しく、不淨は勿論の事、外人殊に下日向の人を憎んで、一步も境內に入れ無かつたと云ふ事である
〔
卅
〕
。俚謠に、「御竹さん、×××の毛が長い、
唐土
(
カラ
)
(又は江戶。)
迄届
(
マデトド
)
く。」と有るのは、
何時
(
イツ
)
の世に、誰が何の理由が有つて、言出した物か知る由も無いが、七難の揃毛を背景として考へる時は、常人に
勝
(
スグ
)
れた長い陰毛を持つてゐると云ふ事は、或る種の呪力有してゐる人と見られてゐたのであらう
〔
卅一
〕
。そして此信仰は、巫女が性器を利用した呪術に發し、
之
(
コレ
)
に仁王信仰が附會して、巫女が好んで陰毛の長大を誇り、併せて
之
(
コレ
)
に種種なる裝飾を加へる
迄
(
マデ
)
に至つたのである。
四、仁王信仰と七難即滅の思想
現在では、仁王尊と云へば、寺院の門番と思はれる
迄
(
マデ
)
に冷遇されてゐるが、古く奈良朝から平安朝へ掛けては、仁王信仰は上下の間に深く行はれた物である。而して仁王尊の功德に就いては、仁王經に載せて有るが、
之
(
コレ
)
に關して南方熊楠氏の言はれるには、
七難の事、仁王經に有り。
(中略)
是等七難を避くる為に、五大力菩薩
(五人の菩薩名は略す。)
の形像を立て、
之
(
コレ
)
に供養すべしと成り。朝家に行はれし仁王會の事也。然るに、其は一寸大仕事
故
(
ユヱ
)
、七難即滅の為に一種の巫女が七難の舞をやらかせしにて、其より色色と變り、猥褻なる事にも成り、陰を出し
(中山曰、所載の貴船社の巫女と和泉式部の件參照。)
通しては面白からぬ故、秘儀を神密にせんとて、殊更に長き陰毛を纏ひしなるべし。凡て佛法に隱れたる所に有る長毛を神靈とせるは『比丘尼傳』の外に『大唐西域記』卷十中「天竺伊爛孥伐多國,
聞二百億
(
室縷多頻沒底抅胝
)
。」の傳にも見へたり。
(中略。)
此人
(
釋迦の弟子
)
は、一足の裏に長き金色の毛有り、甚だ寄なりとて、國王が召して見た事が有る。
と有る
〔
卅二
〕
。以上の說明に依つて、七難の揃毛の由來と、巫女が好んで陰毛の長きを利用した事情が、全く釋然したであらうと思う。 更に下總の東弘寺に傳つた陰毛が、五彩であつたと云ふ事であるが、
之
(
コレ
)
に就いても、南方熊楠氏は、
姚秦三龍佛陀耶舍共笠法念譯、『四分律藏』二十九卷に、「爾時
佛事
(
薄伽婆
)
在舍衛國給孤獨園。時六群比丘尼,蓄婦女,裝嚴身具,手腳釧及猥所莊嚴具。
(印度は裸で熱い所故に、衣服を飾りても久しく保たず、汗に污れる故に、髮腕足の輪環又陰毛を染め、甚だしきは陰部に玉を嵌める等の飾り有り。)
諸居士皆見識嫌。
云云。
」
との例を舉げ
〔
卅三
〕
、我國のも
之
(
コレ
)
を真似た物だらうと言はれてゐる。
以上の俗信を頭腦に置いて、古い七難の揃毛の事を再考すると、其は前にも述べた如く、佛說を土台とした巫女等が、猖んに長い程呪力の加はる物として利用した結果が、三丈五丈の物を殘す樣に成つたのである。巫女の墮落と、異相も、
此處
(
ココ
)
に至つて極まれりと言ふべきである。猶ほ本節を終るに際し、南方熊楠氏の示教に負ふ事の多きを記して、敬意を表する次第である。
〔
註第一
〕金田一京助氏談。
〔
註第二
〕川口孫次郎氏が『飛驒史談』に於いて、詳しい考證を發表された事が有る。私の記事は、
之
(
コレ
)
に據つた物である。
〔
註第三
〕『水戶歲時記』に據れば、同地方では、「隣りの嫁さんの××の臭さよ、ふふん。」と唱へ、更に『吉居雜話』に據れば、駿河の吉原町邊では、「
久長
(
ナガナガ
)
も候、やッかがしも候、隣りの婆さん屁を
垂
(
タ
)
れた、やれ臭い其れ臭い。」と云ふ由。共に臭氣を以て、鳥獸を逐うた名殘を
留
(
トド
)
めた物で、更に此問題は、惡臭のする草木を呪符の代用した俗信にも觸れてゐるのである。
〔
註第四
〕『千金方』。
〔
註第五
〕時珍の『本草綱目』。そして以上の二書は、支那の物であるが、
是
(
コレ
)
等の呪術が我國に行はれてゐたので、敢て舉げるとした。
〔
註第六
〕『東京人類學雜誌』第二十九卷第十一號。
〔
註第七
〕『飾磨郡風俗調查』。
〔
註第八
〕『山州名跡志』卷九
(史籍集覧本)
。
〔
註第九
〕『甲子夜話』卷五十二
(國書刊行會本)
。
〔
註第十
〕同上。
〔
註十一
〕『群馬縣邑樂郡誌』。
〔
註十二
〕『甲斐國志』卷六十四。
〔
註十三
〕『出雲國式社考』卷下
(神祇全集本)
。
〔
註十四
〕『三國名勝圖繪』卷十。
〔
註十五
〕俗に白ツ子と云ふ者や、低能者等を、異常者として、一種の崇敬した例さへ有る。
〔
註十六
〕
元祿
年中に、古川常辰の書いた『四神地名錄』に據る。
〔
註十七
〕『和漢三才圖會』卷六。
〔
註十八
〕加藤雀庵の『
囀
(
さへずり
)
草』。
〔
註十九
〕『閑窗瑣談』卷四
(日本隨筆大成本)
。
〔
註二十
〕『日本傳說叢書』信濃卷。
〔
註廿一
〕『鹽尻』卷二
(帝國書院百卷本)
。
〔
註廿二
〕『斐太後風土記』卷四
(日本地誌大系本)
。
〔
註廿三
〕『和漢三才圖會』同條。
〔
註廿四
〕『近江輿地誌略』卷三十六
(日本地誌大系本)
。
〔
註廿五
〕「東京の溫故會」と稱する好事家の集りで秘密に出版した物に據る。
〔
註廿六
〕『塵塚物語』卷四
(史籍集覧本)
。
〔
註廿七
〕『藝藩通志』卷四。
〔
註廿八
〕『大野郡誌』下編。
〔
註廿九
〕『日本傳說叢書』阿波卷。及び『阿州奇事雜話』に據る。
〔
註三十
〕『鄉土研究』第四卷第十二號。
〔
註卅一
〕福島縣石城郡草野村
大字
北神谷の高木誠一氏の談に、同地方では『
百舌鳥
(
モンズ
)
ヴィモンモの毛、
太夫
(
巫女
)
さんの×××毛三本
繫
(
ツナ
)
げば江戶迄届く』と言ふさうだ。
〔
註卅二
〕『南方來書』明治四十四年九月十三日條。
〔
註卅三
〕同上。明治四十四年十月十日條。
第四節 巫女の間に用ゐられた隱語
巫女が呪術の際に用ゐた隱語は、其時代に依り、更に其流派
(又は師承。)
に依り、必ずや異つた物が存した樣に想はれるけれども、遺憾ながら、詳しい事は、寡見に入らぬ。誰でも知つてゐる『東海道膝栗毛』日坂の條で、巫女の母子が口寄せした折に、夫の事を
唐鏡
(
カラノカガミ
)
と云ひ、妻の事を
相枕
(
アヒノマクラ
)
と云つたと有る程度の物で、誠に自分ながら慚愧に堪へぬ次第であるが、今の所、奈何ともする事が出來ぬので、知り得た所を記して、敢て後人の集成に俟つとする。
『南總珍』
(房總志料叢書本。)
「市子の隱語」條
寶
(
タカラ
)
(子供)
弓取
(
ユミトリ
)
(夫)
相枕
(
アヒノマクラ
)
(妻)
篦取
(
ヘラトリ
)
(男)
松露
(
マツノツユ
)
(孫)
瓜蔓
(
ウリノカヅラ
)
(兄弟)
唐鏡
(
カラノカガミ
)
(世間)
舞台
(
ブタイ
)
(身代)
烏帽子寶
(
エボシノタカラ
)
(惣領)
『登米郡史』
(宮城縣)
卷上、「方言」條
唐鏡
(
カラノカガミ
)
(妻)
相枕
(
アヒノマクラ
)
(夫婦)
篦取
(
ヘラトリ
)
(主婦)
幾大升
(
ヰクラダイショウ
)
(主人)
幾並
(
ヰクラナラビ
)
(隣家)
鈴木久治氏談
(秋田縣仙北郡長信田村出身。)
「巫女の隱語」
相枕
(
アヒノマクラ
)
(夫婦)
弓取
(
ユミトリ
)
(男)
篦取
(
ヘラトリ
)
(女)
居家を踏まへる
弓取
(
ユミトリ
)
(相續人の男子)
又や續きの
弓取
(
ユミトリ
)
(家の次男)
一の
親類
(
シンルイ
)
(本家)
故鄉
(
フルサト
)
(嫁聟の生家)
戀式
(
コヒシキ
)
(緣談)
藥師
(
ヤクシ
)
(醫者)
寶
弓取
(
ユミトリ
)
(寄せられた佛の子の男)
寶
篦取
(
ヘラトリ
)
(同上の女子)
寶同然の
弓取
(
ユミトリ
)
(同年輩の他人の男子)
寶同然の
篦取
(
ヘラトリ
)
(同上の女子)
親神の
弓取
(
ユミトリ
)
(父親)
親神の
篦取
(
ヘラトリ
)
(母親)
元より秘密にしてゐる巫女の隱語であるから、明確に總てを知らうとするのは無理な事であつて、此乏しき例に就いて見るも、既に二三の相違が有り、殊に『南總珍』に載せた
篦取
(
ヘラトリ
)
を男とした如きは、全く誤りである事が知られるのである。
而して斯くの如き巫女の隱語が、何時頃に定められた物か、
之
(
コレ
)
も明確には知る事の出來ぬ問題ではあるが、曾て南方熊楠氏が、私に語つた所によると、「巫女の隱語中に、弓取・烏帽子・鏡等の語の有る所より推して考へるに、是等の物が家の體面上、又は身の裝飾上に必要缺くべからざる時代に出來た物と見て差支無かるべく、其は概ね鎌倉中葉以降と見るべきである。」との事であつた。私は別に異說が無いので、茲に南方氏の意見を取次ぐだけにする。
[久遠の絆]
[再臨ノ詔]