日本巫女史 第一篇:固有咒法時代
第一章、原始神道に於ける巫女の位置
第一節 我國に於ける神の發生と巫女
我我日本人の遠い祖先達が、始めて發見した神の
相
(
スガタ
)
は、
(超自然的の力と云はうか、非人格的の力と云はうか、神と云ふには相當の距離の有る物。)
其は疑ひも無く
魔
(
デーモン
)
であつた。而して其第一は病魔であつた。『
古事記
』に冊尊が火之迦具土神を產んだ為に、「
美蕃登見炙
(
ミホトヤカ
)
而
病臥
(
ヤミコヤ
)
在。」と有るのが其であつて
〔
一
〕
、『
日本書紀
』一書に同じ事象を記して、「伊弉冉尊,且生火神軻遇突智之時,
悶熱懊惱
(
アツカヒナヤム
)
,因為
吐
(
クグリ
)
。此化
為
(
ナ
)
神,名曰金山彥。次
小便
(
ユマリ
)
,化
為
(
ナ
)
神,名曰
罔象女
(
ミヅハノメ
)
。次
大便
(
クソ
)
,化為神,名曰埴山媛。」と有り
〔
二
〕
、是等の神神は、冊尊が病魔に惱された為に成坐した
魔
(
デーモン
)
であつた
〔
三
〕
。
而して其第二は、死魔であつた。『
古事記
』に、諾尊が冊尊の後を追うて
黃泉
(
よみ
)
に往き、冊尊の神避りし屍體を見ると、「
蛆集蘯
(
宇士多加禮許呂呂岐
)
而,於頭者大雷居,於胸者火雷居,於腹者黑雷居,於陰者拆雷居,於左手者若雷居,於右手者土雷居,於左足者鳴雷居,於右足者伏雷居,并八雷神成居。」と有る。而して此處に雷とあるのは蛇の意であつて
〔
四
〕
、即ち蛇の如き形した污き蛆の居るを言うたのである。而して此死魔に驚いて諾尊が逃還へる折に、冊尊が追はしめた
黃泉醜女
(
ヨモツシコメ
)
が
魔
(
デーモン
)
である事は言ふ迄も無い。
魔を發見した古代人は、直ちに此を拂ふべき呪術を併せて發見した。即ち冊尊を死に導いた火神を拂ふべく、水神と土神を生み
〔
五
〕
、更に諾尊が黃泉醜女──即ち
魔
(
デーモン
)
に追はれる途上に於ける狀態を『
古事記
』は記して、
爾
(
カレ
)
伊邪那岐命,取黑御鬘投棄,乃生
蒲子
(
エビカツラノミ
)
。是
摭
(
ヒリ
)
食之間逃行,猶追。亦刺其右御
角髮
(
美豆良
)
之湯津津間櫛
引闕
(
ヒキカキ
)
而投棄,乃生
笋
(
タカムナ
)
等。是拔食之間逃行。且後者,於其八雷神,副千五百之
黃泉軍
(
ヨモツイクサ
)
,令追。
爾
(
カレ
)
拔所
御佩
(
ミハカ
)
之
十拳劍
(
トツカノツルギ
)
而,於
後手振きつつ
(
シリヘデ伎都都
)
逃來。猶追,到黃泉比良坂之坂本時,取在其坂本
桃子
(
モモノミ
)
三箇持擊者,悉返也。
(中略。)
最後其妹伊邪那美命,身自追來焉。
爾
(
スナハチ
)
千引石,引塞其黃泉比良坂。其石置中,各對立而,度事戶之時。
(中略。)
亦所
塞
(
サヤ
)
其黃泉坂之石者,號道反大神,亦
謂
(
マヲ
)
塞坐黃泉戶大神。
と有る如く、
魔
(
デーモン
)
を拂ふ呪術として、鬘・櫛・劍・桃・石の五つが、其に當てられたのである。
而して此記事は、種種な暗示を投じてゐるが、其第一は、我國に於ける原始的神聖觀念
(未だ宗教とか神道とか云ふ段階に達せぬ。)
とも見るべき物であつて、魔に對する呪術の發生を説く物として注意すべきである
〔
六
〕
。
第二、此記事に現はれた諾尊の位置は、宗教學的又は民族心理學的に言へば、全くの呪術師としての仕事を為された結果と成つてゐるのである。
第三は、其呪術師の投棄てた物の中で、鬘より蒲子、櫛より筍、及び桃と、三つ迄人類の食料と成るべき物が含まれてゐる事である。此れは我國原始時代が未だ農耕期に入らずして、野に山に食料を蒐めた奪略生存時代である事を知ると同時に、呪術師の第一の仕事が食料を齎らす事に在つた事が知られるのである。
第四、是等の食料に對して、一種の靈のある事を認めてゐたのは、當時の
萬物有靈
(
アニミズム
)
の思想を表はしてゐるのである。是等は元より神話の事であるから、直ちに此れを以て人類生活の狀態と見る事は出來ぬけれども、由來、神話なる物は、其習慣なり、民俗なりが存してゐたので構成される物であつて、神話の機構から習慣や民俗が生れぬ事を知る時、此神話中に太古の人類生活狀態が濃厚に反映してゐる事が認められるのである。
斯うした最初の發見の
魔
(
デーモン
)
は、一面社會的であると同時に、一面個人的の物であつた。而して前者の社會的魔は山や河に潛む魔に成り、更に森や野に、又は時として空中に迷ひ、地下に潛む魔と成つた。そして後者の個人的魔は死體より出づる魔、病氣を起す魔と成つたのである。けれども、魔は個性を有せず、類型的である為に、後には雜糅されて、魔から幽靈へ、更に幽靈から靈魂へと過程して、遂に精靈なる物と成つて信仰される樣に成つた。即ち此れが古
有靈
(
プレアニミズム
)
から
精靈
(
スピリット
)
への發見の過程である。
併しながら、魔と云ひ、靈魂と云ひ、精靈と云ふも、所詮は眼に見る事の出來ぬ物に對する心の力である。此心の力の動きは即ち宗教的感情其物であらねば成らぬ。而して古代人は、人は各一つの靈魂を有し、其靈魂は或は身體と共に存し、
ヴント
(
Wundt
)
は此れを一般的
身體魂
(
アルケツスイネ・ケルベルビール
)
と云つてゐる。)
又は一時的に身體から去り、離れた所に現れると信じられ、此思想を擴大して行つて、土地や、動物や、植物迄、靈魂を有すると考へ、更に死に依つて、靈魂と身體とが永久的に分離する所に、精靈が生ずるのであると信じた。或は此れを價值批判の立場から、精靈の崇高なる物は、土地や、山海や、河川の精靈であつて、其最も簡單なる物は、人間や、動物の精靈であつて、元の肉體から分離した物であると考へた。精靈は外の生物の中に入つて住む事が出來るが、其肉體に屬する物として入つてゐるのでは無い。實際、靈魂は體と分離し得るとしても、其は生きてゐる內は、睡眠中に於ける夢の如く一時的の物か、其で無ければ死んだ場合に限られるとしてゐた。斯うした思想から導かれて、我國古代人の世界觀は、無數の靈魂と精靈──即ち體を離れた靈魂に依つて滿たされてゐる物と信じていたのである。
然るに我我の遠い祖先である日本人は、
魔
(
デーモン
)
を發見する以前──若しくは同時に、一種の神聖觀念である神秘的の力の信念とも云ふべき物を有してゐた。そして此れを「
いつ
(
稜威、嚴
)
」と云ふ語で現はしてゐた。而して此「
稜威
(
イツ
)
」の觀念は、我國原始時代の神聖觀念の源泉であり、基調であつて、神を發見する以前に在つては、專ら此觀念が活いた物で、最近の宗教學、民俗學、乃至社會學者の間に於いて、深甚の研究と、多大の興味を維がれてゐる彼のメラネシヤ民俗の有する
マナ
(
mana
)
又はイロクオア人
(アメリカ・インディアンの一部族。)
の有する
オレンダ
(
Orenda
)
、又は支那の「
精
(
Tsing
)
」
(精は
氣
(
Khi
)
の中に示現して、生物を發生せしめる意。)
と同じ樣な物を有してゐた
〔
七
〕
。
而して此「
稜威
(
イツ
)
」の我國の用法及び觀念は、漢書の註に、「神靈之威曰稜。」と同じく
〔
八
〕
、語源は倭訓栞に、「いつ、神代紀に稜威を訓み、皇代紀に嚴を訓めり、
氣出
(
イツ
)
の義なるべし。」とある如く、此れが
神秘力
(
ミスティック・パワー
)
と成つて、稻の精靈を
嚴稻魂女
(
イツノウカノメ
)
と云ひ、呪詛する事を
巖呪詛
(
イツノカジリ
)
と云ひ、呪力を有する武器を
稜威之高鞆
(
イツノタカトモ
)
と云ひ、天皇の御大言を
嚴敕
(
イツノクシキミコトノリ
)
と云ひ、國家の大典を
憲法
(
イツクシキノリ
)
と云ひ。更に祭具を
嚴瓮
(
イツベ
)
と云ひ、齋主を
嚴媛
(
イツヒメ
)
と云ひ、此れより轉じて齋きと成り、
嚴忌
(
イチハヤシ
)
と成る等、我國古代の、神聖とか、神秘とか、靈驗とか、威嚴とか云ふべき思想は、悉く此「
稜威
(
イツ
)
」の語に依つて表現されてゐるのである。從つて、我國上代の生命の本質は、實に此「
稜威
(
イツ
)
」の觀念に存してゐたのである。而して此神聖觀念は、精靈觀念と或は併行し、或は抱合して、遂に神なる物を發見する迄に進んだのである。
我が日本人が、始めて神を發見した時の神力は、守護神靈とも云うべき程の物であつて、個人的の精靈よりは一步進めたが、未だ社會的の神とは成ら無かつた。謂はば其中間に在る部族を守護する神靈
(後の氏神。)
に過ぎ無かつたのである。『
日本書紀
』の一書、諾尊が冊尊と
絕妻誓
(
コトドワタ
)
しの條に、
盟之曰:「
族離
(
ウカラハナ
)
。」又曰:「不
負於族
(
ウカラマケ
)
。」乃所
唾
(
ツバ
)
之神,
號
(
ミナ
)
曰速玉之男。次掃之神,號泉津事解之男。凡二神矣。及與妹
(中山曰、冊尊也。)
相鬥於泉平阪也,伊奘諾尊曰:「始為
族
(
ウカラ
)
悲及
思哀
(
シノ
)
者,是吾之
怯
(
ツタナキ
)
矣。」時泉守道者白云:「有言矣。
(中山曰、冊尊の意を取次ぐ物。)
曰:『吾與汝已生國矣,奈何更求生乎?吾則當留此國,不可共去。』」是時菊理媛
(中山曰、此神は巫女である。後に
稍
(
やや
)
詳述する。)
亦有白事,伊奘諾尊聞而
善
(
ホ
)
之,乃
散去
(
アラケ
)
矣。
と有る「族離れ」「族負けじ」及び「族の為に悲しむ」の意は、從來の所謂國學者に解釋させたら、種種なる異説も有る事と思ふが、神の進化過程から言へば、其は諾尊が冊尊と絕妻した為に部族を離れる事であつて、冊尊が:「吾則當留此國。」と有るのは、即ち冊尊が黃泉の神と成られた事を示してゐるのである。而して此解釋から、當然導き出される事は、當時我國の社會組織は、一種「呪術集團」を以て單位としてゐたと云ふ點である。當時、未だ神と云ふ觀念が固定せぬので、單なる神聖觀念を基調として、專ら同じ呪術を信ずる部族が相集つて社會を成し、此れが紐帶は同じ祭儀を營み、同じ墳墓を有し、同じ言語と、同じ習慣を有する者のみで組織されてゐたのである。而して此精靈から部族の神へ、更に部族の神から社會の神へと聖化し、發展したに就いては、此神德を稱へ廣めた巫覡の運動が與つて力が有つたのである。
〔
註第一
〕『
古事記
』の國譯は岩波文庫本に據つた。訓み方に多少の疑ひも有るが、今は姑らく此れに從ふ。以下總て此れに同じである。
〔
註第二
〕『
日本書紀
』の國譯も、同じく岩波文庫本に據つた。唯私が本書を執筆した際には、『神代巻』だけしか發行され無かつたので、其以下は國史大系本の原文に據るとした。記事の統一を缺く憾みが有るも致し方が無い。
〔
註第三
〕本居翁『古事記傳』の該條に、詳しく病魔の事が載せて有る。猶、此機會に言うて置くが、『
古事記
』に、諾冊二尊が蛭子を儲けた折に、「請天神之命。
云云。
」と有るより推して、病魔や死魔以前に、既に神の存した事を説く學者が多いのであるが、私は、此神は、神話が永く傳承される間に構成された物だと考へてゐる。
〔
註第四
〕我が古代では蛇と雷は一體であると信じてゐた。詳細は『郷土趣味』特別號の雷神研究號の拙稿に盡した考へである。
〔
註第五
〕我國では、火神より、水神に對する信仰の方が、古くから在つた樣に思ふ。火の無い時代は考へられるが、水の無い時代は想像されぬ。此れに就いても『郊外』誌上に拙稿を載せた事が有る。
〔
註第六
〕斯う云ふと、如何にも我國には宗教に先つて呪術が在つた──所謂呪術先行説の樣に解せられるのであるが、私の知る限りでは、我國に呪術先行を積極的に證示すべき手掛りは、無い樣に思はれる。勿論、私は斯かる問題に對しては門外漢であるが、思付いたままを記すとする。
〔
註第七
〕赤松智城氏『輓近宗教學説の研究』所収下編の「神聖觀念論」「宗教と呪法」「マナの觀念」等の各篇に據つた。
〔
註第八
〕同上。猶此機會に一言するが、我が古代の靈魂觀には、身分の高き者は、其身分に相應した高き靈魂を有してゐる者と考へてゐた。即ち
稜威
(
イツ
)
の活き有る者は、其靈魂迄稜威を有してゐると信じてゐたのである。
第二節 我國に於ける巫女の發生
我國の原始時代に於いて、神神に對する信仰が先づ生まれ、呪術が此れより後れて生れたかと云ふ問題は、一般宗教學又は社會學に於ける、宗教先在説と呪術先行論との論議の如く、遽に決定されぬ難問であると同時に、私の樣な一知半解の者には、到底、企て及ばざる所である。併しながら、我國古代に於ける神の發生、及び發達の過程に就いて、私の考へた所、及び知得た所から言へば、縱し其が、宗教的意識とか、神道的感情とか言へぬ迄も、既述の如く、精靈を信じ、「
稜威
(
イツ
)
」を考へてゐたのであるから、是等の信仰が先づ存して、後に呪術が起つたと見られるのである。換言すれば、我國の古代人は、微弱ながらも、自分より以上の或る神力の在る事を信じ、此神力を呪術に依つて利用する事が出來る物と考へてゐたのである。而して此呪術を行ふ者を巫女
(其頃には別段に巫女と定まつた名の無い事は言ふ迄も無い。)
と云うたのである。
我國最初の巫女は『
日本書紀
』に在る菊理媛神であると言はれてゐる。尤も此神に就いては、本居・平田の兩翁も深く説かず、橘守部翁の饒舌を以てしても、猶且つ態度を明かに為る物が無いのに、獨り鈴木重胤翁は、此神が黃泉に在る冊尊の言を諾尊に白した有る事に重點を置き、此れは巫女であると言うてゐる
〔
一
〕
。
此考証は、我國の巫女史にとつては、かなり重大なる示唆を與へてゐるのである。即ち第一は、巫女の初見の記事が、恰も後世の口寄の如く、死靈の意を通じてゐる事。第二は、此菊理媛神の鎮座せる加賀の
白山
(
シラヤマ
)
神社を中心とせる巫女が、一流を為して永く世に存した事である。
(此れに就いては後段に述べる機會が有る。)
第三は、「白す」と云ふ言葉の意味であるが、今に各國の各地で祭の事を「申す」と云ふのは此の名殘りであつて、然も此言葉の底には、祭の有る毎に託宣の有つた事を思はせ、其託宣が泯びて了つてからは、神から人に白す事が、反對に人から──即ち祠官から神に申す樣に變つて了つたのである。而して此立場から言へば、菊理媛神より前に、冊尊の言を諾尊に白した泉津道守
(重胤翁の考證にては、道守は關守で、男性であらうと云うてゐる。)
は、覡男であつたと考へられぬでも無いが、今は其處迄言ふ必要も無いと思うので差控へる。我國の巫女は其最初から、幽冥の境に在る靈魂の言を、顯世の人に傳へる
靈媒者
(
ミディアム
)
として考へられてゐた樣であるが、併し此れは巫女の行うた呪術の一面であつて、此れ以外にも巫女の仕事は夥しき迄に存してゐた事は言ふ迄も無い。
我國には古く「
於成
(
ヲナリ
)
神」の信仰と云ふが有つた。此信仰は、餘りに原始的であつた為に、內地に於いては夙に痕跡を殘さぬ迄に泯びて了つたが、其でも克明に社名や地名を詮索すると、各地に於成神社亦は母成峠等が今に存してゐるし、更に「
於成戶
(
ヲナリド
)
傳説」なる物が、
(此れに就いては後段に詳述する參照を乞ふ。)
此れ亦各地に殘つてゐるので、古く其信仰が殆ど全國に涉つて行はれた事が知られるのである。而して此「
於成
(
ヲナリ
)
神」なる者は、內地の古俗を化石させて、其まま保存して來た琉球の其を基準として考へると、同胞の中、姊なり妹なりの女性は、
(姊妹の無き者は從姊妹。)
兄なり弟なり、男性の守護神となると云ふ信仰で、此「
於成
(
ヲナリ
)
神」に姊妹の生身魂の義が有ると云はれてゐる。此れに就き、同地出身の伊波普猷氏は、其著『琉球聖典
歌草子
(
オモロサウシ
)
選釋』に於いて、左の如き考證を發表されてゐる。
鈴鳴
(
スズナリ
)
が
船行
(
フナヤ
)
れの
節
(
フシ
)
我
(
ア
)
が
姊妹
(
オナリ
)
、
生御魂
(
ミナミ
)
の
守
(
マブ
)
ら、
取
(
デ
)
て、
來坐
(
オワチヤ
)
む、
やれ、ゑけ
妹
(
オト
)
、
姊妹
(
オナリ
)
、
御神
(
ミカミ
)
の
綾
(
アヤ
)
、
蝶
(
ハベル
)
、
成賜
(
ナリヨワチ
)
へ
奇
(
クセ
)
、
蝶
(
ハベル
)
、
成賜
(
ナリヨワチ
)
へ
於成
(
ヲナリ
)
神を詠つた
歌
(
オモロ
)
。此れは「船ゑとの
歌草子
(
オモロサウシ
)
」の中の物で、表題の「
鈴鳴
(
スズナリ
)
が
船行
(
フナヤ
)
れの
節
(
フシ
)
」には、
鈴鳴
(
スズナリ
)
丸
(船名。)
航行の歌と云ふ程の意味が有る。
(釋)
一
、
あが
は我が。
二
、
おなりみかみ
は姊妹の生ける靈の義。五の巻
(中山曰、
歌草子
(
オモロサウシ
)
。)
の六十七章尚真王を詠つた
歌
(
オモロ
)
に、「
於成君拜
(
ヲナリギミタカ
)
べ
(中山曰、
たかべ
は拜むの意。)
」と云ふ句が有る。
於成
(
ヲナリ
)
神を拜む風習は、今尚沖縄諸島全體に遺つてゐる。琉球の上古では、女子の地位はさう低くは無かつた。
(中略。)
又氏神は、男神・女神の二柱に成つてゐるが、女神が男神の上に位してゐる。そして女神に仕へる
女神
(
オミナリ
)
(中山曰、女神の意。)
託女
(
オコデ
)
(中山曰、託女の意。)
でも、男子に仕へる
女神
(
オミケリ
)
(中山曰、女神の意。)
託女
(
オコデ
)
(中山曰、同上。)
の上に位してゐる。此等は何れも母權時代の面影を留めてゐる物ではあるまいか。久高島の結婚式の時に合唱する、「
男子產
(
ヰケガミグワナ
)
さば、首里が
為
(
ナ
)
し
宮出入
(
ミヤダイリ
)
、
女子產
(
イナゴミグワナ
)
さば、君の
宮出入
(
ミヤダイリ
)
。」原註、男子を生んだら、首里王の御奉公をさせよう。女子を生んだら、聞得大君
(中山曰、內地の齋宮・齋院と同じ意味の者で、琉球王の王姊又は王姪が任ぜられ、古くは其位置は王の皇后より高かつた。)
の御奉公をさせよう、と云ふ謠の通り、祭政一致時代には、男子は政治に
攜
(
タヅサワ
)
り、女子は祭事に
攜
(
タヅサワ
)
る樣に成つてゐたが、特に女子は、神に依つて神聖な力を附與された者として尊敬されてゐた。久高島では、十二年に一回
皈內祭
(
イザイホー
)
と云ふ女子の成年試驗が行はれてゐるが、
(中山曰、內地にも此種の民俗が行はれたが、其は
後段
に詳述する。)
此れに及第した者は聞得大君に仕へる資格が有るとされてゐる。男子が海外に出る場合には、
於成
(
ヲナリ
)
神
(原註、姊妹の
御筋
(
オスジ
)
。)
が終始付纏つて、彼を守護すると云ふ信仰は、今尚沖縄諸島全體に遺つてゐる。そして彼等が
於成
(
ヲナリ
)
神の頂の髮を乞ふて、守袋に入れて旅立つ風習は首里那覇邊にさえ、遂此頃迄遺つてゐた。
三
、
まぶ
らは守らむ。
四
、
でて
はとて。
五
、
おわちやむ
は來ませり。
六
、
やれ
、
ゑけ
は舟を
行
(
ヤ
)
る時の掛聲。
七
、
おとおなり
は妹。
八
、
あやはべる
は綾蝶、即ち美しい蝴蝶。
九
、
くせはべる
は其對語、奇しき蝴蝶の意。
(中略。)
十
、
なりわちへ
は成給ひて。
我が
同胞
(
ハラカラ
)
なる
女神
(
メガミ
)
、我を守らんとて、來坐せり。
(エンヤラヤー。)
妹の生ける
靈
(
ミタマ
)
、美しき蝴蝶に成りて、奇しき蝴蝶と成りての意。「やれ、ゑけ」と云ふ船を
行
(
ヤ
)
る時の掛聲等が或所から見ると、此
歌
(
オモロ
)
を航海中に唄つた事が判る。沖縄では今日でも蝴蝶はあの世の使者と云はれてゐるが、
歌
(
オモロ
)
時代には生ける「
於成
(
ヲナリ
)
神」
(原註、即ち
顯
(
アキ
)
つ神、姊妹。)
の象徵とされた事が判る。
云云。
此
歌
(
オモロ
)
を熟讀し味讀した後に、曾て內地に存した「
於成
(
ヲナリ
)
神」の信仰を思合せ、而して更に、古代の原始神道と、社會制度との關係を考へ、併せて此れを巫女史の觀點から眺める時、實に左の如き事象を認識する事が出來るのである。
第一、古代女性は、其悉くが巫女的生活を營んで居り、且つ巫女と成り得る資格を有してゐた事。
第二、姊妹が直ちに兄弟の守護神と成り得た事は、女子に多くの神性を認めた事であつて、其神性の基調は、女子が巫女たる可能性に富んでゐた事を證する事。
第三、更に姊妹が直ちに兄弟の守護神と成り得た事は、當時の巫女が、
家族的巫女
(
Family Witch
)
であつて、未だ
職業的巫女
(
Professional Witch
)
が發生し無かつた事。
第四、後世、我國で妻女を「山神」と稱し、宅內の祭祀に服した事は、遠く源流を「
於成
(
ヲナリ
)
神」の信仰に發し、家族的巫女の面影を殘した物である事。
第五、女子に多くの神性を認めた結果として、我國の古代には神神に仕へる者を女性に限つた最大の理由である事。
猶ほ、此外にも二三舉ぐべき事も有るが、茲には態と省略に從ふが、さて、此等の全體を盡すには、我が國古代の、社會制度と、原始神道との關係を説かぬと、獨り合點に陷るのであるが、此れに就いては、追追と記述したいと思つてゐる。
〔
註第一
〕『
日本書紀
』巻第一參照。
第三節 巫女教としての原始神道
我國の原始神道が巫女教であつた事は、神道發達史から見るも、古代社會史から見るも、更に巫女史から見るも、民俗史から見るも、疑うべからざる事實である。私は此事に就いて記述したいと思ふ。
我國の原始神道を説く者で、少しく我國と周圍民族との交涉を知る者は、殆ど言ひ合せた樣に、亞細亞の北方民族の間に發生し暢達した
巫女
(
シャーマン
)
教との關係を言はぬ者は無い。併し、我國の原始神道と
巫女
(
シャーマン
)
教との關係を學問的に考察して、此れを早く我が學界に紹介したのは、故山路愛山氏であつた
〔
一
〕
。此れに就いて、愛山氏は實に左の如く述べてゐる。
巫女
(
シャマン
)
と云ふのは、滿洲の昔、即ち女真の時代に、女の
巫
(
ミコ
)
の事を云つたのであります。今の滿洲語でも同じです。其から言葉の意味が移つて、今の滿洲では神を代表させる杆を矢張り
巫女
(
シャマン
)
と云ひます。
(中略。)
斯う云ふ次第で、
巫女
(
シャマン
)
教と云ふ物は
女巫
(
ミコ
)
の教へであつて、神杆を立てて神を祭る事が特色である。然るに日本の昔でも其宗教は矢張り女巫の宗教でありました。さうして多少の變化は有ますけれども、矢張り滿洲の樣に神杆を用ゐたと思はれる形跡が無いではありませぬ。
今先づ日本の教へが
巫道
(
シャマニズム
)
と同じ樣に、女巫の教であつたと云ふ事を申上げます。日本では、昔は神主は多く女でありまして、男は少なう御座いました。其故に齋主を齋姬とも云ひます。中頃に成つて、支那の文明を採用し、日本の文明が段段支那流に成つて來ましたが、其でも女巫の宗教であつた時代の遺風として、其時代にも
御巫
(
ミカンナギ
)
と云ふのは女でありまして、娘で神を祭る事が出來る資格の者を採つたのであります。
祝
(
ハフリ
)
と云ふのは神主の樣な者であるけれども、此れも中世迄は女が多く、祝と
禰宜
(
ネギ
)
とを一つの社に並べて置いた時も、祝も禰宜も女の方が男よりも多う御座いました。中古でさへ此位であつたから、其昔に於いて女が多く宗教に
攜
(
タヅサ
)
はつた事は勿論の事であります。故に大昔には猿女君等と云つて、女を以て神に事へる事を職とした種族も有つた。天朝でも、天照大御神を祭り、大國魂神を祭るのは、
皇女
(
ヒメミコ
)
の御役であつた。胸肩神と云ふのが九州に在ますが、
采女
(
ウネメ
)
を遣つて其祭を助けさせた事が、古い書物に書いてあります。神に事へる女を
巫
(
カンナギ
)
と云ひ、男性で神に事へるのを
男巫
(
ヲカンナギ
)
と云ひ、始めは神に事へる者は巫と云へば女性であると云ふ事が分り、男で神に事へる者の方は後に成つて出來た故に、男と云ふ字を附けて男巫と云ふ樣にして、男女を分つたと云ふ事を考へると、言葉の上から言つても、日本は始めは女巫の宗教の國であつたと云ふ事が明白ではありませぬか。斯様に女性が宗教を掌るのは日本ばかりでは無い。
(中略。)
地理の上から言ふと、日本、朝鮮、滿洲、蒙古と、地續きで何れも女巫の世界でありました。私は此事實に據つても、斯う云ふ國は何れも女巫の宗教を信ずる國であつたと云ふ事を斷定するに足りると思う。
云云。
更に山路氏は論旨を進めて、(一)
巫女
(
シャマン
)
の祭儀
(神杆を樹て、鈴を用ゐる事等。)
と、我國神道の祭儀との共通を説き、(二)
巫女
(
シャマン
)
の宇宙觀が、天・地・下界と立體的の三層にある事が、同じく我が神道の高天原・顯國・黃泉國と三界に言ふのと一致するを明にし、(三)三神を一組にして崇拜する事が日・韓・滿共に同源から出た事等を舉げて、
巫女
(
シャーマン
)
教と原始神道との關係、及び原始神道が巫女教であつた事を詳細に論じしてゐる。
山路氏は生前、野史國士を以て自ら任じ、他も許した人だけに、此種の文化現象を專門に研究してゐる者から見ると、論旨が大まかで觀察も多少藪睨みの所が有るのは免れぬが、其にしても、當時にあつて、專門外の同氏が早く此點に著眼した事は、氏が凡庸の史家で無かつた事を證據立てると同時に、永く此研究の權輿者たる光榮を荷ふ物である。私が長長と氏の講演を引用したのも、生前に知遇を受けてゐたばかりで無く、全く此微意に外成らぬのである。而して最近に成つては鳥居龍藏氏を始め、上田萬年氏・白鳥庫吉氏を重なる者とし
〔
二
〕
、此外にも多くの研究者を出してゐる。
原始神道が巫女教であつた事は、山路氏の研究で其要領は盡きてゐるのであるが、併し私は此研究の總てを無條件で受け容れる者では無い。成程、我國の原始神道は、山路氏の言はれた如く、(一)地理的に見て
巫道
(
シャマニズム
)
の圏內に入る物であらうし、(二)教理的に見て共通の點が多く有し、(三)祭儀的に見て類似の形式が尠く無い事だけは異存も無いが、此れより一步進めて、「原始神道は直ちに
巫道
(
シャマニズム
)
也。」と言ふに至つては、私としては如何にするにも承認する事が出來ぬのである。專門外の研究ではあるが、現存の學者中にも原始神道即ち
巫道
(
シャマニズム
)
と考へてゐる者も少く無い樣であるから、此機會を利用して私の考へてゐる所を述べるとする。
私が
巫女
(
シャーマン
)
教に就いて有してゐる知識は、誠に恥しい程稀薄の物ではあるが、其稀薄なる聞見から言ふも、第一は我國の巫女は教義の基調を祖先崇拜に置いてゐるのに、
巫女
(
シャーマン
)
教の巫女は、全く祖先崇拜と交涉を有してゐ無い點である。我國の巫女を通じて託宣する神の多くは祖先神
(始めは氏神であつたのが、後に社會組織の推移に連れて
產土
(
ウブスナ
)
神と成つた。此れに就いて後段に記述する。)
であるが、
巫女
(
シャーマン
)
教の巫女に憑く物は、祖先神で無くして、遊離してゐる一種の精靈にしか過ぎぬ樣である。第二は我が原始神道に於ける巫女の多くは、直ちに神として崇拜され
(又巫女自身も斯く信じてゐた。)
てゐたのであるが、
巫女
(
シャーマン
)
教の巫女は、何處迄も精靈と人間との間に介在する者であつて、決して神として崇拜されてゐない。第三は巫女となる形式上の手續きに於いて、兩者の間に相違が有る。家の娘が母の後を承けて巫女と成るに就いては、彼我共に共通の相續を以てした樣であるが、實際の娘以外の女性
(親族、又は弟子。)
が巫女に成つて跡を繼ぐには、彼にあつては山中に在る鏡を拾得る事を條件とするに反し、我にあつては、多く發熱して、神懸り狀態の症狀となる事が要件に成つてゐる。
以上三點は、其重なる物に過ぎぬが、更に此理由から派生した物として、巫女の神祇觀に於いて、巫女が行ふ呪術の方法に於いて、更に巫女の性的方面の作法に於いて、彼我の間に相違する物が相當に存してゐるのである。而して最近の研究に據れば、
巫女
(
シャーマン
)
と云ふ語義、及び
巫女
(
シャーマン
)
の有せる宇宙觀の如きも、果して彼獨特の物か否かさへ判然せず
〔
三
〕
、從つて我が原始神道の世界觀の如きも、
巫道
(
シャーマニズム
)
よりも、寧ろ佛教の教理に負ふのでは無いかと云ふ説有るに於いては、猶ほ今後の研究を俟つべき物が多いのである。私は原始神道が
巫女
(
シャーマン
)
教に良く似てゐると云ふのならば異議は無いが、此れより進んで全く同じだと云ふに對しては、到底左袒する事が出來ぬのである。
併し斯く言ふものの、私として決して我が原始神道を巫女教に非ずと主張する者では無い。其點に就いては、山路氏よりは更に幾倍して、巫女教であつた事を高調する者である。畏き事ながら、天照神の高きを以てしても、
新嘗
を為されたのは、御女性で
現
(
アラ
)
せられた為である
〔
四
〕
。更に溯つて言へば、我國の最高神である日神が女性であるのは、女子が神の極位を占むべき國柄であつた為である
〔
五
〕
。賀茂建角身命の
女
(
ムスメ
)
が
玉依媛
と稱して、賀茂別雷命を生んだのは、即ち玉依媛は
魂憑
(
タマヨリ
)
姬であつて
〔
六
〕
、一般の女性が巫女としての神人生活を送られてゐた事を暗示してゐるのである。
神武帝
の御母后が同じく玉依姬と稱された事も、亦此事を考へさせる物がある。
而して崇神帝が皇女
豐鍬入姬命
を以て、伊勢皇大神宮の
御杖代
(
ミツヱシロ
)
と為し給うて
齋宮の制を立て
、爾來、歷聖が御即位と共に皇親の女性を以て齋宮と為し、
七十餘代
に及んだのも、更に
嵯峨帝
が皇女
有智子內親王
を以て賀茂齋院と為して範を垂れ、同じく三十餘代を續けたのも
〔
六
〕
、共に神に仕へるは女性に限られた古代の聖規を傳へた物である。
神武朝
に道臣命に敕して神を祭らせし折に、特に
嚴媛
(
イカシヒメ
)
の名を賜つたのも此れが為で
〔
七
〕
、今に神社亦は民間に於ける祭事に、男性が女裝して勤めるのも
〔
八
〕
、亦古き教䡄を殘した物である。
神功皇后
が、畏くも國母の身を以て、躬から神の
憑代
(
ヨリシロ
)
と成られたのも、勿論皇后が女性で現せられた為である。
山路氏も言はれた如く、女祝・女禰宜こそ、我國の聖職であつて、男子が此れに代つたのは、寧ろ變則であつた。前揭の『梁塵秘抄』に、「
東
(
アヅマ
)
には女は無きか
男巫
(
ヲトコミコ
)
、然ればや神も男には
憑
(
ツ
)
く。」と有るのは、其變則を詠じた物である。而して此女性が即ち巫女であつたのであるから、我國古代は女性が祭祀の中心であり、其神道が巫女教であつた事は明確なる事實である。
〔
註第一
〕山路氏が主宰した『獨立評論』に連載した物を、後に『山路愛山講演集』第二に収めた。今は講演集に據つた。
〔
註第二
〕鳥居氏は多くの著書に於いて、上田氏は神道談話會、白鳥氏は東洋文庫講演會に於いて、共に高見を發表されてゐる。茲に一一其を記述する事は出來ぬけれども、何れも大家の説とて傾聽すべき物である。
〔
註第三
〕白鳥庫吉氏の講演で、此事を聽いた。猶ほ雜誌『民族』に揭載された、圀下大慧氏の
巫女
(
シャーマン
)
に關する論文中には、此問題に觸れた所が多い。
〔
註第四
〕此事は『
古事記
』に見えてゐる。新嘗を為されると云ふ事は、即ち神神を祭られる儀式である事は言ふ迄も無い。我國の至上神が猶ほ神を祭ると有るのは、至上神が御女性であつた為である。
〔
註第五
〕天照神は男性で坐しますと云ふ説は、江戶期の一部の學者に依つて唱へられ、明治期には津田左右吉氏は『神代の新しき研究』に於いて、此説を發表された事がある。併し此説には、私は如何にするも同意する事が出來ぬ。巫女教であつた我國の最高至上神は、女性で無ければ成らぬ事は、多言を要せぬ事である。
〔
註第六
〕賀茂社に齋院を置かれた事は、單なる信仰上の問題では無くして、多少とも政治的意味が加つてゐる樣に考へられるが、埓外に出るので今は其迄は言はぬ事とする。
〔
註第七
〕『
神武紀
』に載せて有る有名な記事である。
〔
註第八
〕拙著『日本民俗志』に各地の類例を集めて説いた事が有る。
第四節 原始神道及び古代社會と巫女との關係
我國の事を
稍
(
ヤヤ
)
詳しく記錄した外國最初の文献は『魏志』の
倭人傳
である。而して其一節に左の如き記事が有る。
(上略。)
倭國亂,相攻伐歷年,乃共立一女子為王,名曰卑彌呼。事鬼道,能惑眾。年已長大,無夫婿,有男弟佐治國。自為王以來,少有見者。以婢千人自侍。唯有男子一人,給飲食傳辭出入居處。
(中略。)
卑彌呼以死,大作冢,經百餘步,殉葬者奴婢百餘人。更立男王,國中不服,更相誅殺。當時殺千餘人。復立卑彌呼宗女壹與,年十三為王,國中遂定。
(下略。)
此記事は有名であるだけに、我國の古代史を研究する程の者ならば、誰でも知らぬ者は無いのであるが、然らば此卑彌呼なる者は何であるかと云ふ事に成ると、誰にでも判らぬ程の難問なのである
〔
一
〕
。私は卑彌呼の研究が目的で無いから、此れ以上には觸れぬ事とするが、更に此記事を巫女史の立場から考覈する時、左の如き事象を認識する事が出來るのである。
第一、
卑彌呼
(
ヒミコ
)
は即ち
日女子
(
ヒメコ
)
であつて男子の
日子
(
ヒコ
)
と對立して、我が古代女性を云ひ現はす最高の名である事。
第二、卑彌呼が鬼神に事へ、能く眾を惑すとは、即ち巫女であつた事を意味してゐる事。
第三、卑彌呼が、年已に長ずるも夫婿の無きは、巫女は夫を有たぬ
(其實は夫を有してゐても。)
のを、原則にした事。
第四、卑彌呼に男弟が有つて、佐けて國を治めたと有るのは、曾て琉球に行はれた、神託を聞く女君が酋長であつたのが、進んで姊
(又は妹。)
なる女君の託言に依つて、弟
(又は兄。)
なる酋長が政治を行うた時代を想はせる物である事。而して此れに類似した制度が、內地にも古く存したと想はれる事。
第五、卑彌呼死後に宗女を王に立てたとは、巫女の相續は女系で傳へた物である事。
女王卑彌呼の治めた倭國なる物が、現在我國の何處に該當するかに就いては、此れ又學界に異説が有つて、今に定説を見ぬのであるが
〔
二
〕
、其詮議は茲には姑らく措くとして、直ちに私の考へた所だけを述べると、以上に例舉した五項は、古く我國全體に行はれた巫女の作法と見て差支無いと信じてゐる。
第一の、卑彌呼が
比賣
(
ヒメ
)
子──即ち
日女
(
ヒメ
)
子である事は言ふ迄も無い。古く日女子を
比美
(
ヒメ
)
子と云ふ例証は、天壽國曼荼羅にも見えてゐる。而して此名を負ふ者が、古代に在つては、女性の社會的階級の高位に居る者に限つて用ゐられた事は疑ひ無い。後世に成ると、
姬
(
ヒメ
)
の名が下級の者に迄濫用される樣に成つたが、日女は即ち日神の裔と云ふ意であるから、古代に在つては、神聖にして濫りに用ゐる事が出來無かつた筈である。而して
卑彌呼
(
ヒミコ
)
が、此名で呼ばれてゐる所を見ると、彼女は當時の社會階級の高位に居た事が知られると同時に、原始神道の最高神である日神の裔であると信用され、崇拜されてゐた事が、併せ知られるのである。
第二の、鬼神に事へ、眾を惑すは、改めて言ふを要せぬ程明確に、彼女が巫女であつた事を語つてゐるのであるが、
唯
(
タダ
)
茲に慎重に考ふべき事は、最高の巫女が最高の治者であつたと云ふ點である。而して此事は、一方社會學的に見れば、我國古代には、母權社會が行はれてゐた事を想はせる有力なる手掛りと成り、更に一方神道發達史から見ると、神に事へる最高の神職は女性であつて、神職の最高者なるが故に、一國の治者と成り得るのであると云ふ、所謂、祭政一致時代の最も古き相を稽へさせる重要なる傍證と成るのである。寔に比倫を失ふ事ではあるが、此例を神代に覓めれば、即ち天照神が其であると申す事が出來るのである。前にも記した如く、天照神が新嘗をされたと云ふ事は、神に事へられた事であつて、其時だけは神官としては最高に位し、併せて高天原の統治者であらせられたからである。
第三の、卑彌呼が年長ずるも夫婿が無かつたと云ふ事も、又我國の古俗を示してゐる物である。巫女は、原則として、神と結婚すべき約束の下に置かれてゐたのである。
(
是等
(
コレラ
)
の實例は後段に詳述する。)
國中の女性が巫女として神人生活を營んでゐた時代に在つては、夫婿を定めるには、悉く神判成婚の形式に由ら無ければなら無かつたのである。而して初夜の權利は神が占めべき物と定められてゐた
〔
三
〕
。『
萬葉集
』
巻二
に、「
玉葛
(
タマカヅラ
)
、
實成
(
ミナ
)
らぬ
木
(
キ
)
には、
千早振
(
チハヤブ
)
る、
神
(
カミ
)
そ
憑
(
ツ
)
くと
云
(
イ
)
ふ、
成
(
ナ
)
らぬ
木如
(
キゴト
)
に。
(
0101
)
」と有るのは、此思想を詠じた物で、更に
同集巻三
に、「
千早振
(
チハヤブ
)
る、
神
(
カミ
)
の
社
(
ヤシロ
)
し、
無
(
ナ
)
かりせば、
春日
(
カスガ
)
の
野邊
(
ノヘ
)
に、
粟蒔
(
アハマ
)
かましを。
(
0404
)
」と有るのも、亦此思想を言外に寓してゐるのである。而して『源氏物語』の若菜巻を讀むと、上代貴族婦人は結婚せぬのを習ひとしてゐた事が釋然する。此れは何時でも神に占められる事の出來る樣にとの必要から來てゐたのである。內地の古俗を克明に保存した琉球でも、先五代の王女は結婚し無かつたと有る
〔
四
〕
。卑彌呼に夫婿が無かつたのは、彼女が巫女であつたからである。
第四の、曾ては、神託を聞く女君が統治者であつたのが、後には、女君の兄弟が治者と成り、女君の託言に據つて、政治を行うたと有る一事は、我が古代國家の發達を知る上に於いて、極めて重要なる意義を有してゐると思ふのであるが、併し現在の學問の程度では、此れ以上を言ふ事は、或は官憲の欲せざる所と思ふから、
態
(
ワザ
)
と省略に從ふ事とする。
第五の、卑彌呼の宗女が其後を繼いだと有るのは、巫女の相續は女系を以てし、且つ其が、我が國に母權時代の在つた事の傍証と成る物で、我國では後世に至る迄、此遺風が存し、巫女は女系相續を以て規範としてゐたのである。
以上の考察より見るも、『魏志』の記事は、我が古代社會制度と、原始神道と、巫女との關係を、明確に記述した物である事が知られるのである。倭國の所在地が九州であつたか、畿內であつたかは姑らく措くも、更に卑彌呼が、倭姬命であるか、神功皇后であるかは、同じく別問題とするも、此記事が、我國全般の巫女に關する物である事は、疑ふ餘地は無いのである。
本居宣長翁が『
駁戎慨言
』巻上に於いて、『後漢書』の卑彌呼が鬼神に事へ、以妖惑眾と有るのに對して、「
唐人
(
カラビト
)
、大御國の
神道
(
カムナガラノミチ
)
を
知
(
シ
)
らざるが故に、
斯
(
カ
)
かる
妄言
(
ミダリゴト
)
はする
也
(
ナリ
)
。」と評し、更に『魏志』の、「自為王以來,少有見者。」以下に就いて、「
己實
(
オノレマコト
)
には男にて、女王に
非
(
アラ
)
ざるが故に、
斯
(
カ
)
の魏の
使
(
ツカヒ
)
に、
徒
(
タダ
)
にはえ
會
(
ア
)
はで、帳
等垂
(
ナドタ
)
れて、
物越
(
モノゴ
)
しにぞ
會
(
ア
)
へりけん。」云云と言つてゐるが、此れこそ卻つて、本居翁が我が古代の實相を見誤つた智者の一失である。
〔
註第一
〕本居翁は、卑彌呼を神功皇后に擬し、內藤虎次郎氏は倭姬命に擬せられてゐるが、私は其よりは更に一段と古い時代の女酋であると考へてゐる。
〔
註第二
〕卑彌呼の治めた國に就いても、九州説と畿內説とが有るが、私は後者の説に從ふ物である。管見は『考古學雜誌』に發表した。
〔
註第三
〕是等に關して拙著『日本婚姻史』に詳記した。參照を願ひたい。
〔
註第四
〕折口信夫氏の談。
第五節 古代人の死後生活觀と巫女の靈魂觀
我が古代人は、靈の不滅を信じ、肉の敗滅を事實として信じてゐた。前に引用した記・紀の諾冊二尊の場合に徵するも、冊尊は火神を生んだ為めに死を意味する神避りを為し、其尊骸は「
蛆集蘯
(
宇士多加禮許呂呂岐
)
」たる敗滅の狀態であつたが、然も其靈魂は諾尊と問答し、又は諾尊を追ひ走る等、生前と少しも變らぬ活動を示されてゐる。而して此思想は、神で無い人間の上にも當然及ぼされて、人は死すると肉體は滅するも靈魂は滅せぬと、全く神の如く考へられてゐた。其では、此靈魂なる物は、何時でも再び人間界に戻つて來て、生前と同じ樣に人格を有して活動する事が出來るかと云ふに、其は決して出來ぬ物であると考へてゐた。何と成れば、人は一度死ぬと、黃泉國へ往き、此處で黃泉國の者となるべき儀式の「
黃泉戶喫
(
ヨモツヘグヒ
)
」をするからでる
〔
一
〕
。即ち一度此儀式を濟したからは、不滅の靈魂も再び人格を備へる事は出來ぬ物と信じてゐたのである
〔
二
〕
。換言すれば、肉體が滅びた以上は、再び人間に成る事は出來ぬと信じてゐたのである。
我が古代人が、靈と肉とを二元的に考へた例證は、相當に多く殘されてゐる。天照神が皇孫を
葦原中津國に降臨せしめる
折に、
是時,天照大神手持寶鏡,授天忍穗耳尊而祝之曰:「吾兒,視此寶鏡,當猶視吾。可
與
(
トモ
)
同床共殿,以為齋鏡。」
と告げられたのは、即ち肉體を離れて靈魂の存在を認識した思想の現はれと見るべきである。他語を以て言へば、天照神の御魂は、常に此齋鏡に宿つてゐて、寶祚の隆んなる事、天壤と窮無き樣守護するとの意味なのである。然れば、記・紀其他の文献に徵するも、國家大事に際しては、常に神託を請うて嚮ふべき所を仰ぎ、天照神の御魂も亦屢屢現はれて、其採るべき方法を啟示されてゐるのである。此れ以外にも、靈肉の別と、靈魂の不滅を證する事實が多く存してゐるが、他は省略に從ふとする。
斯く靈魂の不滅を信じた古代人は、更に此靈魂の活用を四つに分けて、
荒魂
(
アラミタマ
)
、
和魂
(
ニギミタマ
)
、
幸魂
(
サチミタマ
)
、
奇魂
(
クシミタマ
)
とした。此四魂の解釋に就いては、先覺の間に種種なる異説も有るが、私としては高田與清翁の説かれた、
荒魂・和魂は、武魂・文魂と云はんが如し、神靈の武く荒びたるを荒魂と云ひ、靜に和ぎたるを和魂と云ふ。
(中略。)
幸魂は幸福の靈を云ひ、奇魂は奇妙の靈を云へる也。
と有る解釋の簡明なるを好む
(但し同意はせぬ。)
物である
〔
三
〕
。併しながら、原始神道の立場から見ると、此高田翁の解釋は、餘りに字義に捉はれて古き信仰を忘れたかの感が有る。反言すれば、後世の知識を以て、古代の思想を忖度した嫌ひが有る。
而して此れに較べると、鈴木重胤翁の、「荒魂は現魂にて、和魂は饒魂也。」と解釋されたのは、一段の進步である。然りと雖も、此鈴木翁の説も、次の如く、
現魂は外に進み現出坐て、其神威を示し、又其強異を摧伏給はむと成るに、其に引替て、和魂は玉體に服て、御壽を守給はむと宣べるは、其玉體を離れず、鎮守御在むと云ふ事にて、所謂和魂の饒魂なる所以也
〔
四
〕
。
と言ふに至つては、此れとても字義に重きを置いて、古代人の思想を閑卻した物として、高田翁の説と五十步百步たる事を免れぬのである。
而して、私は此れに對して、巫女史の觀點から、極めて常識的に考へてゐるのである。其は、荒魂の古意は現魂であつて、即ち現に生きてゐる物の魂であつて、此れに反して和魂とは、死したる物の魂を云つた物であると言ふのである。
現人神
(
アラヒトカミ
)
の
現
(
アラ
)
は、即ち現存の意であつて、荒魂の
荒
(
アラ
)
は、此れと同じ物に違ひ無い。
和
(
ニギ
)
に就いては、誠に徵證が弱いのであるが、「古く『
延喜式
』に消炭を
和炭
(
ニギズミ
)
と稱するより推して、和魂は死魂の意なるべし。」と有る説を採る物である
〔
五
〕
。
全體、荒魂及び和魂の出典は、『
古事記
』では、神功皇后征韓の折に、新羅國に、「即以墨江大神之荒御魂,爲國守神而,祭鎮還渡也。」と有るのみで、和魂は見えず。『
日本書紀
』には、同じ
神后紀
に二箇所有るが、始めのは、「神有誨曰:『和魂服王身而守壽命,荒魂為先鋒而導師船。』」と有り、後のは、「撝荒魂為軍先鋒,請和魂為王船鎮。」と有るのが其である。
而して茲に荒魂を
撝
(
ホキヲキ
)
(古點に斯く訓むと云ふ橘守部翁に從ふ。)
と云ひ、和魂を
請
(
ネキ
)
と云うた事は關心すべき事で、現魂なればこそ
祝招
(
ホキヲキ
)
る必要も有り、死魂なる故に
念
(
ネキ
)
た次第と解すべきだと思ふ。其故に古くは荒御魂は現人の魂、和魂は死人の魂
(魂に此二つの區別をしてゐた事は、
巫女の職務
中の
鎮魂の節
に述べる。)
と解してゐたのを、記・紀が文字に記錄される際に、荒・和の二字を當てたので、種種なる疑義が生じ、遂に高田翁の如く武魂・文魂を以て解説を企てる迄に進んだ事と思ふ。國學者としては創見に富んでゐる橘守部翁が、「荒魂は此時に顯給ひし、現人神なる故に先鋒と成給ふ。」と有るのは
〔
六
〕
、參考すべき説と考へてゐる。而して次の幸魂と奇魂とに就いても私は別に考へる所が有るが、此れは巫女史の立場からは左迄に重要な問題と思はれぬので、姑らく高田翁の説に從ふ事とする。
さて、斯うした靈魂に對する巫女の態度は、荒魂も和魂も、其靈魂が能動的に、人に
憑
(
カカ
)
つて活く場合は、何等の豫告も無く、場所と時間とに關係無く、突如として現れる物とし。此れに反して、靈魂を衝動的に降き招して託宣を聽く事は出來るが、其には或る定まれる祭儀を行ふ事を必要とし、且つ其
憑代
(
ヨリシロ
)
と成り得る資格を有してゐる者は巫女に限られた物と信じてゐたのである。少しく後世の事例を以て古代を類推する嫌ひは有るが、後代の巫女が專ら用ゐた
生口
(
イキクチ
)
──即ち生ける人の魂を遠隔の地に於いて引寄せて語るのは、此荒魂の誨へから出た物で、
死口
(
シニクチ
)
──即ち死せる人の魂を幽界から引出して語るのは、此和魂の法に由る物では無からうか。更に後代の巫女が「
神口
(
カミクチ
)
」と稱して、人間の其年だけの運命を豫言し、凶を吉に返し、禍を福に轉じ、又は與へられた吉なり福なりを、保持し發展する樣に仕向けた一事は、此幸魂と奇魂との信仰に負ふ所が有るのでは無いかと思はれる。其で無いと、我國に於いて特種的に發達した巫女の呪術の起源が不明に歸するからである。
〔
註第一
〕黃泉戶喫の事は、土俗として民間にも今に殘つてゐる。其最も顯著な一例は、結婚の夜に、新郎・新婦が同じ茶碗に盛つた飯を、二人して食ふのが其であらう。同じ鍋の物を食ふと云ふ事は、即ち、彼等が同族に成つた事を意味するのである。
〔
註第二
〕我國には古く轉生の思想は無かつた。此れを言ふ樣に成つたのは佛教渡來後である。
〔
註第三
〕『神祇稱號考』巻二
(大日本風教叢書本)
。
〔
註第四
〕『日本書紀傳』。
〔
註第五
〕『參宮圖絵』巻下附錄。
〔
註第六
〕『稜威之道別』
(橘守部全集本)
。
[久遠の絆]
[再臨ノ詔]