日本巫女史 第一篇:固有咒法時代
一、巫女於原始神道之位置
我國神之產生與巫女
神之原始像實為惡魔。從病魔到死魔。諾尊之神業與咒術。咒物所示之古代食料。從惡魔到精神體之過程。就神聖觀念論我國稜威。由個人性之精靈發達為社會性之神。其間部族之守護神。古代社會為咒術集團單位。
我國巫女之產生
我國之咒術先行論與宗教先在說。宗教意識較咒術更早存在。巫女之始為菊理媛命。家族巫女與職業巫女。於成(オナリ)為家族巫女。古代女性幾乎皆過著巫女之生活。留存於琉球之於成神信仰。
作為巫女教之原始神道
原始神道與巫道教。山路愛山氏之卓見。且原始神道並非僅只是巫道教。展現於古神道之國民性。祖先崇拜與神之御杖代。
原始神道與古代社會與巫女間之關係
魏志倭人傳所載之卑彌呼。卑彌呼為倭媛或是神功皇后,或更早以前之女酋。倭人國之主權者與巫女之關係。祭政一致之表本。
古人死後之生活觀與巫女之靈魂觀
靈魂不滅為自古而來之信仰。靈肉二元觀。荒魂、和魂、幸魂、奇魂,對其之先覺研究與私見。巫女之生口與荒魂、死口與和魂,巫女之神口與幸、奇二魂。
二、巫女咒術之目的與憑神
巫女施行咒術之目的與種類
巫女之咒術目的。第一、制禦或支配自然。第二、善用、惡用亦或征服神或精靈。第三、鎮或和靈魂。第四、洞察未來招福除災。為遂行此目的之諸種咒術。
巫女所擁有之憑神
憑神為咒術之原動力。民俗學所見我國眾神之發達。自氏神至國神。殘於壹岐之籔佐(ヤボサ)信仰。籔佐是為墓地。墓土為咒力泉源。尾先狐與犬神皆元為巫女之憑神。
第三章、巫女の用ゐし呪文と呪言
古代の巫女が、呪術を行ふに際して用ゐたる物に、呪言と呪文との區別の有つた事は、極めて朧げながらも、看取する事が出來る樣である。私は此の標準を、呪文は巫女が神に對して用ゐし物、呪言は人に對した物として區別したいと思ふ。勿論、此區別は、國語を有してゐても、國字を有してゐ無かつた古代の分類法としては、全く無意味であつて、呪文と云ひ、呪言と云ふも、共に言語を以て現はされてゐるのであるから、廣義に見れば、二つの間に區別を立てる事は困難なのである。併しながら、巫女の有してゐた言語感情──獨り巫女ばかりで無く、當時の社會が一般に有してゐた言語感情から云ふと、一種の歌謠體を借りて、三・四句又は五・六句の辭を續け聯ねて言ふ物は呪文であつて、後世の祝詞は此れより生まれたと考へたい。此れに反して、一語か二語で獨立してゐる物は呪言であつて、後世の「
呪
のろ
ひ」又は「
詛
とご
ひ」等云ふ物は、是れに屬する物と考へられぬでも無い。
以上は、呪文と呪言とを形式上から見た分類であるが、更に內容上から分類すると、概して呪文は善惡の兩方に用ゐらるるも、呪言は惡い方に多く用ゐらるる傾きを有してゐる。私は、不充分ながらも、斯うした態度で、巫女の用ゐた呪文と呪言との考覈を進めたいと思うてゐる。唯、實際問題として、困惑を感ずる事は、私の寡聞から、古代の徵證が男覡に多くして、巫女に尠いと云ふ點である。が、此れは我國の文獻なる物が、母權時代を迥かに過ぎた父權時代に製作された為に、巫女に薄くして覡男に厚いのは、何とも致し方の無い事と考へるのである。
第一節 古代人の言靈信仰と其過程
言語が人類の間に發達して行くに連れ、人は此れに對して一種の威力を感ずるに至つた。而して此言語感情は、言語を善用するに依つて幸福を齎し、此れを惡用するに依つて災禍を受ける物と考へさせる樣に成つた。茲に言語の善惡が生じ、
禁忌
タブー
が起り、善言は祝言亦は壽辭と成り、惡語は忌詞と成り、詛言と成り、遂に言語には靈在る物と信ずる所謂
言靈
コトダマ
信仰を生む樣に成つたのである。
我が古代人が如何に言語に對して神經過敏であつたか、其れを證據立てる史料は夥しき迄に存してゐる。伊勢皇大神宮に於ける忌詞や
〔
一
〕
、國造でありながら、用ゆべからざる言語を用ゐた為に、極刑に行はれんとした事件等は
〔
二
〕
、共に其の一証として舉げる事が出來る。殊に、民間に於いては、此忌詞の
禁忌
タブー
は、嚴重に守られてゐた物と見えて、旅行の留守に遣つて成らぬ忌詞とか、狩獵する折に用ゐるを避ける去り詞等が存し、殊に男女關係に在つては離れるとか切れるとか云ふ語を特に嫌つた物である。『
萬葉集
』卷十三に、「菅根の、
慇懃
ネモコロゴロ
に、吾が思へる、妹によりては、
言
コト
の
禁
カミ
も、無くありこそと、齋瓮を、齋ひ掘据ゑ、竹珠を、間無く貫垂り、天地の
神祇
カミ
をぞ、吾が
祈
ノ
む、
甚
イト
も
術無
スベナ
み。
(3284)
」と有るのは、即ち其れである。
言靈に關しては古くから說を立てた者が頗る多く、遂に原始神道を此方面から說かうとする言靈學とも云ふべき物の一派を出す樣に成つたが、所詮は言語に靈が在る物とする信仰に外成らぬのである
〔
三
〕
。而して此言靈が文獻に現はれた物では『
萬葉集
』
卷五
の
山上憶良
の
好去好來の長歌
の一節に「神代より、
言傳
イヒツ
て來らく、
虛空見
ソラミ
つ、大和國は、皇神の、
嚴
イツク
しき國、言靈の、幸ふ國と、語繼ぎ、言繼がひけり。
(0894)
」と有るのや、同集卷十三に
柿本人麿
の長歌の反歌に「敷島の、大和國は、言靈の、たすくる國そ、まさきくありこそ。
(3254)
」と有るのが、其れである。併しながら、是等は一般的に、且つ消極的に、言靈の存在を信仰した迄であつて、未だ此言靈を呪術に利用すると云ふ積極的の思想は現はれてい無いが、前に載せた
同集第十一
の「言靈の、八十衢に、夕占問ふ、占正に
告
ノ
れ、妹に逢はんよし。
(2506)
」と有るのは、此れを呪術に用ゐた一例である事は既記の如くである。而して斯く言靈信仰から導かれた當然の結果として、祝言と呪言との區別を生じ、前者は吉事に用ゐられ、後者は凶事に用ゐられる樣に成つたのである。
〔
註第一
〕 延曆の『皇大神宮儀式帳』は、仔細に內容を檢討する時、延曆よりは時代の降つた頃の編纂と考へられるが、其の詮索は本問に關係が少いので姑らく措くとするも、神宮の忌詞にあつては、『
延喜式
』にも載せて有る事故、先づ正しい物と見て差支無い樣である。而して其忌詞は、「
齋宮式
」に據れば:「內七言,佛稱
中子
ナカコ
、經稱染紙、塔稱
阿良良岐
アララキ
、寺稱瓦葺、僧稱
髮長
カミナガ
、尼稱女髮長、齋稱
片膳
カタシキ
。外七言,死稱
治
奈保留
、病稱
休
夜須美
、哭稱
鹽垂
シホタレ
、血稱
汗
阿世
、打稱撫、宍稱菌、墓稱壤。又別忌詞,堂稱香燃、優婆塞稱角筈。」と有る。
〔
註第二
〕『
允恭紀
』
二年春二月條
に、闘雞國造が皇后忍坂大中姬命が未だ入內せぬ以前に、
蠛
マクナキ
の一語を發した為に、昔日の罪を數へて死刑に行はれんとし、國造の陳謝に依り、死を許し、姓を貶して、稻置とした事が載せて有る。
〔
註第三
〕言靈語學の發生や、沿革に就いて、茲に言うてゐる餘裕を有たぬが、雜誌『藝文』第十二年第三號に載せた佐藤鶴吉氏の「言靈考」は、其等に及んでゐるので參照を望む。
第二節 祝詞の呪術的分子と呪言の種類
我國の祝詞
(『
延喜式
』に載せた物及び『台記』の別記に在る壽辭を含めて。)
なる物が、其本質的に呪文としての思想が多分に盛られてゐる事は、深い說明の要はあるまいと思ふ。一二を言へば、新年祭に、御年神に、「白き馬、白き豬、白き雞」を備へた事は、即ち古き呪術が祝詞に殘つた物である。朝廷で、白き豬の捕れぬままに、祈年祭を延期した例は幾度も有る。後には白き豬が如何にするも捕れぬので、普通の豬を白く染めて祭儀を舉げた事すら有る
〔
一
〕
。是等は呪術の一種であるが、其れを稱へる事は直ちに呪文と云ふ事が出來るのである。
出雲國造神賀詞
に、
白鵠
しらとり
の生御調の玩物と、倭文の大御心も術むに、
彼方
をち
の古川岸、此方の古川岸に生立てる、若水沼の間彌若叡に御若え叡坐し、濯ぎ振りさく淀みの水の、彌
變若
ヲチ
に御
變若
ヲチ
まし。
と有るのも其れであつて、即ち
變若水
ヲチミヅ
を飲んで、永久に
御彌若
イヤワカ
えにませとの呪文である
〔
二
〕
。更に中臣壽詞に有る、
天玉櫛を
事依
コトヨザ
し奉りて、此玉櫛を刺立て、夕日より朝日の照るに至る迄、天津詔詞の
太詔詞言
フトノリトゴト
(中山曰、此事は次節に述べる。)
を以て告れ、斯く
告
ノ
らば、兆は弱蒜に由都五百篁生出でむ、其れより下天の八井出でむ、ここを持ちて、天つ水と聞し食せと事依し奉りき。
の一節の如きは、呪文其のままとも云へるのである
〔
三
〕
。
併しながら私は、決して、祝詞は呪文から發生した物だと、斷定する者では無い。成程、呪文本位の立場から祝詞を見れば、呪文の本質に、
祝言
ホガヒ
の衣服を著せた物が、祝詞であると云へる樣でも有るし。更に祝詞本位の立場から呪文を見れば、祝詞の中から、呪文の分子を取除いた物が、祝詞であるとも云へる樣であるから、古代に溯る程、兩者の關係が頗る密接なる物であつて、殆ど嚴格には區別する事が出來ぬ程に成つてゐる樣である。而して兩者が斯くの如き關係に置かれて有るのは、恐らく巫女の呪術を母胎として生れた兄弟が、用途と時勢との影響を受けて、一方は呪文として發達し、一方は祝言として發達し、遂に別別な物と成つたのであらうと考へてゐる。
一、祝言から祝詞へ
祝言
ホガヒ
の古い物は、「新室
祝言
ホガヒ
」とて、新築の家屋を祝ひ、併せて其家の主人の幸福を祝する物で、次には「酒祝言」とて、新しく釀せる酒を祝ひ、併せて此酒を飲む者の榮光を祝する物である。而して前者に在つては『
古事記
』
卷上
に、出雲の多藝志の小濱に、天
御舍
ミアラカ
を造りし時、櫛八玉神が神火を鑽りて
言祝
コトホギ
し、
此吾が
燧
キ
れる火は、高天原には、神產巢日御祖命のとだる天の新巢の
凝煙
スス
の、八掌垂る迄燒舉げ、地下は、底津石根に燒凝して、栲繩の千尋繩打延へ、釣らせる海人が大口の尾翼鱸、澤澤に控きよせ
騰
ア
げて、
折坼
サキタケ
の十撓十撓に、天の真魚咋獻らむ。
と有るのが初見である。そして『
顯宗紀
』に、
天皇が潛龍の折
に、播磨國縮見屯倉の新室を
壽
ホ
ぎて、
築立稚室
葛
ツナ
根,築立柱者,此
家長
キミ
御心之鎮也。取舉
棟樑
ムネウツバリ
者,此家長御心之林也。取舉
椽橑
ハヘキ
者,此家長御心之
齊
トトノホフ
也。取置
蘆萑
エツリ
者,此家長御心之
平
タヒラナル
也。取結
繩葛
ツナネ
者,此家長
御壽
ミイノチ
之堅也。取葺草葉者,此家長御富之餘也。出雲者
新墾
ニヒハリ
,新墾之十握稻之穗,於
淺甕釀
サラケカ
酒,
美飲喫
ウマラヲヤラフル
哉。吾
子
ヒトコト
等,腳日木此
傍山
カタヤマ
,牡鹿之角,舉而吾儛者,
旨
ウマ
酒,餌香市不以
值
アタヒ
賣。
手掌憀亮
タナソコモヤララ
,
拍
ウチ
上賜,吾
常世
トコヨ
等。
と有るのは、最も有名であるだけに、又良く古代の
室壽
ムロホギ
の信仰を具現してゐるのである。而して後者に在つては『
神功記
』に、
此
御酒
ミキ
は、我が御酒是らず、
奇
クシ
の
首長
カミ
、
常世
トコヨ
に坐す、石立たす、少名御神の、
神壽
カムホギ
、
壽
ホギ
もとほし、
豐壽
トヨホギ
、
壽
ホギ
もとほし、
獻
マツ
り來し、御酒ぞ、
涸
ア
さず
飲
ヲ
せ、ささ。
と酒祝ひして、應神帝に獻りし時、武內宿禰が帝の御為に答へ奉りし歌に、
此御酒を、釀みけむ人は、其鼓、臼に立てて、歌ひつつ、釀みけれかも、舞ひつつ、釀みけれかも、此御酒の、御酒の、
妙
アヤ
に、
轉樂
ウタタヌ
し、ささ。
と有るので、其事が良く知られるのである。
斯うした祝言は、吉を好み、凶を嫌ふ人情と共に發達して、後には此祝言を言ひ立てて渡世する「
祝言人
ホガヒビト
」なる者を生む様に成つた。『
萬葉集
』卷十六に載せてある長歌二首は、是等の徒が謠うた物である
〔
四
〕
。而して此祝言は、神道が固定すると共に
祝詞
ノリト
に取り入れられて、遂に祝詞の中心思想を為すに至つたのである。
大殿祭
の一節に、
皇御孫之命の天之
御翳
ミカゲ
、日之御翳と,造奉仕れる瑞之
御殿
ミアラカ
。汝屋船命に天津奇護言を以て,
言
コトホ
壽鎮白さん。此れの敷坐大宮地は,底津磐根の極み,下津綱根這ふ蟲の禍無く。高天原は青雲の
靄
タナビ
く極み。天の血垂飛鳥の禍無く,堀堅たる柱桁梁戶牖の
錯
キカ
ひ,動鳴事無く。引結べる
葛目
ツナメ
の緩ひ,取葺ける草の噪ぎ無く,御床邊の喧ぎ,夜女のいすずき,いづつきし事無く,平けく安らけく奉
護
マツ
る。
と有るのや、
廣瀨大忌祭
の一節に、
如此奉宇豆の
幣帛
ミテグラ
を安幣帛の足幣帛 と,皇神御心平けく安けく聞食て,皇御孫命の
長御膳
ナガミケ
の遠御膳と,赤丹の穗に聞食さむ。皇神の
御刀代
ミトシロ
を始て,親王等、王等、臣等、天下
公民
オホミタカラ
の,取作奧つ御歲者,手肱に水沫畫垂り,向股に
泥
ヒヂ
畫寄て,取將作奧つ御歲を,八束穗に 皇神の成幸賜者,初穗者汁にも
穎
カヒ
にも,千稻八十稻に引据ゑて,如橫山打積置て。秋祭に奉らむ。
と有る等、
祝詞
ノリト
は
祝言
ホカヒ
の連續とも言ふべき迄に修正されてしまつたのである。
二、呪文より呪言へ
呪言と云ふも、呪文と云ふも、其れは文字上の差別で、其內容に在つて殆ど共通してゐるのであるが、私は便宜上此れを二つに分けて、言句の短き物を呪言とし、やや長き物を呪文として見たのであるが、其れが極めて非學問的である事は、私も認めてゐる。取捨は元より讀者の自由である。而して此れには、種種たる固有名詞が有るので、其れに從つて左に舉げるとした。
詛
トゴヒ
古く「詛」をトゴヒと訓ませてゐるので之に從ふが、其意は己れの憎しと思ふ者を
凶言
マガゴト
して、
禍
マガ
あらしむる樣行ふ術である。『
日本書紀
』
神代卷
に、天稚彥が天津神の使なる雉を射殺せし矢が天津神の所に至りし時、
時天神見其矢曰:「此昔我賜天稚彥之矢也,今何故來?」乃取矢而
呪
トゴ
之曰:「若以惡心射者,則天稚彥必當
遭害
マジラ
。若以平心射者,則當無恙。」因還投之。即其矢落下,中于天稚彥之高胸,因以立死。
と有り、更に『
古事記
』には、此事を敘して、天神が、「或有邪心者,天若日子於此矢
禍
マガレ
云。」云云とある。即ち此「
禍
マガ
れ」と
宣
ノ
られた事が、
詛
トゴヒ
なのである。同じ。『
日本書紀
』
神代卷
に、天孫瓊瓊杵尊が、大山祇命の姊女磐長媛を斥けて、妹女木花開耶媛を召されし時、
故磐長姬大
慙
ハヂ
而
詛
トゴヒ
之曰:「假使天孫不斥妾而
御
メ
者,生
兒
ミコ
永
壽
イノチ
,有如
磐石
トキハ
之
長存
カキハ
。今既不然,唯
弟
イロト
獨見
御
メ
,故其生兒必如木花之移落。」
と有るのも、又其れである。更に同じ
神代卷の一書
に、火火出見尊が、兄火酢芹尊と、海幸・山幸とを易へて
鉤
ハリ
を失ひ、海宮に至りて其鉤を獲た時、海神尊に教えて、
以鉤與汝兄時,則可
詛
トゴヒ
言:「
貧窮
マチ
之
本
モト
、
飢饉
ウヱ
之始、困苦之根。」而後與之。
と有るのも、良く呪言の本質を說明してゐる。其れから『
雄略紀
』冬十月條に、御馬皇子が三輪磐井の側で站つて捉はれ、刑に臨んで、
指井而
詛
トゴヒテ
曰:「此水者,百姓唯得飲焉。王者獨不能飲矣!」
と有るのや、『
武烈紀
』冬十一月條に、
真鳥大臣恨事不濟,知身難免,計窮望絕,廣指鹽詛,遂被殺戮,及其子弟。詛時,唯忘角鹿海鹽,不以為詛。由是角鹿之鹽,為天皇所食。餘海之鹽,為天皇所忌。
と有る等
〔
五
〕
、
咸
み
な
詛
トゴヒ
の例として見るべき物である。
呪
ノロヒ
伴信友翁は、
呪
ノロヒ
に定義を下して、「
呪
ノロヒ
とは怨み有る人に禍を負ふせむと、深く一向に
念
オモ
ひつめて物する所為と聞こゆ。」と為し、更に
詛
トゴヒ
と
呪
ノロヒ
の區別を說いて、「
詛
トゴヒ
は言靈に依りてする術、
呪
ノロヒ
は言に云はず、念ひつめて物する也」としてゐる
〔
六
〕
。良く我が古代の呪術の本質を盡してゐる物と思ふ。而して
呪
ノロヒ
の方法に就いては、『
日本書紀
』
神代卷の一書
に、
及至
イタ
日神當新嘗之時,素戔嗚尊則於新宮御席之下,陰自
送糞
クソマ
。日神不知,
徑
タダ
坐席上。由是日神舉體
不平
ヤクサ
。
と有るのに對し、『釋日本紀』卷七に
公望の私記
を引いて、
凡欲詛人之時,必有送糞其坐。若染其糞者,必有憂病。故日神染糞有病,若是古代之遺法也。今代人之欲詛人者,亦有放失者,倣此耳。
と有るのが、其の徵證であるが
〔
七
〕
、如何にも原始的の呪法として納得されるのである。『
神功紀
』
四十七年夏四月條
に、百濟使久氏等が、我國に來る途中にて、新羅に捕はれし事を記して、
新羅人捕臣等,禁囹圄,經三月而欲殺。時久氐等向天而
呪詛
ノロヒトコフ
之。新羅人怖其呪詛而不殺。
と有る。此れは、言ふ迄も無く、百濟の
呪
ノロヒ
の事を記した物であるが、其方法なり、內容なりに於いては、古く我國と共通した物が有つたので、斯く載せた物と考へられるのである。
咒詛
カジリ
咒詛
カジリ
と、
詛
トゴヒ
とは、殆んど同義の物であつて、僅に其呪術の程度に依つて、差別する程の物である。而して兩者を形式の上より區分すれば、
咒詛
カジリ
の場合は、何か
物實
モノザネ
を置き、其へ呪力を憑依せしめる物であるのに反して、
詛
トゴヒ
は既述の如く、專ら言靈の活用により呪術を行ひ、必ずしも物實を要さぬ點が兩者の相違である。
『
神武紀
』
戌午年秋九月條
に、
天皇惡之。是夜,自祈而寢。夢有天神訓之曰:「宜取天香山社中土,以造天平瓮八十枚,并造嚴瓮而敬祭天神地祇,亦為嚴
呪詛
イツノカシリ
。如此則虜自平伏。」
(中略)
祭天神地祇,則於彼菟田川之朝原,譬如水沫而有所
咒著
カジリツケ
也。
と有るのは、良く其事象を現はしてゐる。而して
咒詛
カジリ
に就いて、伴信友翁は、
武藏の或る田舍人、山伏の
憑術行
ヨリワザシ
て、口寄せと云ふ事を為る由を話せる詞に、
憑
ヨリ
に立たる人に、生靈を「
咒詛憑
カジリツ
けて」云云。其の「
咒詛憑
カジリツ
かれたる」人は云云と言へり。又其が平常の詞に、人に對ひて只管に念ひ入たる事を言ふとて、
咒詛憑
カジリツ
きて云云すべいと云ひ、又た硬き物喰ふを「カジル」とも「カジリツク」とも云ひて、同詞の遣ひ樣に言へり。思ひ合せて言の意を知るべし。
と說かれたのは、極めて要領を得た物である
〔
八
〕
。其れから、『
欽明紀
』
二十三年六月條
に、
是月,或有譖馬飼首歌依。
(中略)
即收廷尉,鞫問極切。馬飼首歌依乃揚言誓曰:「虛也,非實。若是實者,必被天災。」遂因苦問,伏地而死。死未經時,即灾於殿。廷尉收縛其子守石與名瀨冰,將投火中,
呪
カジリ
曰:「非吾手投,以祝手投。」
呪
カジリ
訖,欲投火。守石之母祈請曰:「投兒火裏,天灾果臻。請付祝人使作神奴。」
と見えてゐる。此記事には、文字の脫落が二ヶ所程在つて、事由を解するに苦しむ所が有るも、茲には歌依が
咒詛
カジリ
をしたと云ふ事だけが確實であれば、其他は姑らく措くとするも差支無いと考へたので、敢て抄錄した次第である。
誓
ウケヒ
谷川士清翁は、
誓
ウケヒ
の意義に就いて、
『日本紀』に誓約字、誓字、祈字等を
訓
ヨ
めり、又盟をうかうと讀むも同じ。請言の義いのりちかふ事を云へり。『源氏物語』の
弘徽
こき
殿等のうけはしげにの給ふと云ひ、『伊勢物語』に罪無き人をうけへはと云へるは
詛
ノラ
ふ方に云へり。依て真名本に呪詛と填たり。『古事記』にも
宇氣比死
ウケヒコロス
と見えたり。
(浦木按、『古事記』にで、該當記事を見つかれず。)
と言うてゐるが
〔
九
〕
、此れで
誓
ウケヒ
の本質を知る事が出來る。而して
誓
ウケヒ
の事例にあつては、『
崇神紀
』十年七月の武埴安彥が、
謀反の條
に、
天皇姑倭跡跡日百襲姬命,聰明叡智,能識未然。乃知其歌怪,言于天皇:「是武埴安彥將謀反之表者也。吾聞,武埴安彥之妻吾田媛密來之,取倭香山土,裹
領巾
ヒレ
頭而
祈曰
ウケヒテ
:『是倭國之
物實
モノシロ
。』則反之。是以知有事焉。非早圖,必後之。」
と有る。此外にも、記・紀に載する所尠く無い。『冠辭考』に『
萬葉集
』
卷四
、
大伴家持
の歌に「都路を、遠みや妹が、此頃は、
誓約
ウケ
ひて寢れど、夢に見え來ぬ
(0767)
」と有り、更に
誓
ウケ
ひ狩、又は誓ひ釣とて、神意を占ふ為に或は獸を狩り、或は魚を釣る事等も行はれた
〔
十
〕
。殊に
神功皇后が征韓に際し
伊覩縣に到りし時、「適當皇后之開胎,皇后則取石插腰而祈之曰:『事竟還日,產於茲土。』」と有るのは、
誓
ウケヒ
が一種の呪術として用ゐられた例證である。
諷歌倒語
オヨヅレゴト
〔
註第一
〕『明月記』に其事が詳記してある。カードを探したが見當らぬので、記憶の
儘
ママ
で記した。
〔
註第二
〕白鵠は『
垂仁記
』に有る曙立王の故事であつて、其れが呪術的である事は、言ふ迄も無い。更に「
變若
ヲチ
水」とは、天上の靈水を飲めば、精神も肉体も更新すると云ふ信仰から來た物で、典據は『
舊事本紀
』に載せてある。
(浦木按、『舊事本紀』にで、該當記事を見つかれず。)
現行の正月の若水は、此信仰の名殘りを留めた物で、折口信夫著の『古代研究』民俗篇第一冊「若水の話」に詳述してある。參照を望む。
〔
註第三
〕兆とは太占のマチの事で、五百篁生出でむとは、既述した諾尊が精靈を逐ふ時に櫛を投じたら筍に成つたと云ふ故事を寓した物である。此祝詞が呪術的意味を多大に含んでゐる事は、此一事でも知れるのである。
〔
註第四
〕折口信夫氏の研究に據れば、元來「祝言」なる物は、神神が民人を祝福した事に始まる物で、從つて後世の「
祝言人
ホガヒヒト
」なる者は、神神の代理として民人に蒞んだ者だと云ふ事である。後世の千秋萬歲、大黑舞等を始め、民間行事の奧州のカワハギ、山陰のホトホト等は、悉く此信仰を殘している物である。
〔
註第五
〕此紀の詛を、一般にはノロフと訓んでゐるが、私は伴信友翁の『方術源論』に從ひ、トゴヒと訓む事とした。
〔
註第六
〕伴信友翁の『方術源論』に在る。猶ほ此機會に言うて置くが、私の此一節は專ら伴翁の『方術源論』に據り說を試みた物である。茲に其事を記して、伴翁の學恩を深く感謝する次第である。
〔
註第七
〕誠に比倫を失ふ事ではあるが、今に盜賊が家に忍び込む時糞まるのは、此呪術の一片を傳へた物と想はれる。民俗の源流の遠き、學問に志す者の注意すべき事である。
〔
註第八
〕同上の『方術源論』。
〔
註第九
〕『增補語林倭訓栞』其條。
〔
註第十
〕「
祈
ウケヒ
狩」も「
祈
ウケヒ
釣」も、共に『
神功紀
』に載せてある。此れに就いては、後章「巫女と狩獵」の項に全文を引用する機會があらうと思ふので、今は省略に從ふにした。
〔
註十一
〕伴信友翁の『比古婆衣』を始め、各書に見えてゐるが、茲には煩を厭うて一一の書名は預るとした。
〔
註十二
〕飯田武鄉翁の『日本書紀通釋』の其條。
祝詞之本質為咒文。自祝言至祝詞。由咒言至咒文。言詛(トゴヒ)。念詛(ノロヒ)。誓。諷歌倒語。
第三節 言靈の神格化と巫女の位置
我國に於ける一般的の呪術から言ふと、
太卜
フトマニ
は最も古き方法であつて、然も最も重き物である。文獻の示す處に據れば、諾・冊二尊も此れを行ひ、天照神の磐戶隠れにも此れを行ひ、天兒屋根命が神事の宗源を司ると云ふのも詮ずるに此の事が重大なる務めであつた。人世と成り、鹿卜が龜卜に變り、兒屋根命が卜部氏と成つても、太卜の呪術的重要さは、依然として少しも渝る處が無かつた。從つて歷聖も大事の有る每に此れを行ひ、民間でも稀には此れを行ふ事すら有つた
〔
一
〕
。然るに此れ程重要なる太卜の呪術に、巫女が深い關係は有してゐぬのは抑抑如何なる理由であらうが。
一、太卜が文獻に記される樣に成つた頃は、覡男の勢力に巫女が壓倒された為であるか。
二、其れとも、太卜と云ふが如き最高の呪術には、當初から巫女は交涉を
有
も
たぬのであらうか。
此れに對する私の答へは、極めて簡單明瞭である。即ち巫女は初め太卜に關係し、然も此れが中心と成つてゐたのであるが、世を代へ時を經る內に、神道が固定し、呪術が洗練されて神事と成り、覡男が巫女を排斥した結果として、遂に斯かる文獻を殘したに過ぎぬと言ふのである。而して私の此の答へは、太卜の主神である
卜庭之神
ウラニハノカミ
──即ち
太詔戶命
フトノリトノミコト
と、此れに仕した巫女の龜津比女命との考覈を試みれば、其れで明白に成り且つ確實になる物と信じてゐる。
太卜を行ふには、卜庭二神の太詔戶命と
櫛真知命
クシマチノミコト
とを祭る事が、儀禮と成つてゐた
〔
二
〕
。太詔戶命に就いては『釋日本紀』卷五
(述義一)
の太卜の條に左の如く載せてある。
太占
私記曰,問:何是占哉?答:是卜之謂也。上古之時,未用龜甲,卜以鹿肩骨而用也。謂之フトマニ。
(中略)
『龜兆傳』曰:「凡述龜誓,皇親神魯岐、神魯美命,荒振神者掃掃平,石木草葉斷其語。詔群神:『吾皇御孫命者,豐葦原水穗國安平知食。天降事寄之時,誰神皇御孫尊朝之御食、夕之御食、長之御食、遠之御食之間,可仕奉?』神問問賜之時,徑天香山白真名鹿
【一說云,白真男鹿。】
:『吾將仕奉。我之肩骨內拔拔出,火成卜以問之。』問給之時,已致火為。太詔戶命進啟
【又按,持神女住天香山也,龜津比女命。今稱天津詔戶太詔戶命也。】
:『白真鹿者,可知上國之事。何知地下之事?吾能知上國地下天神地祇,況復人情憤悒。但手足容貌不同群神。』故皇御孫命放天石座別八重雲天降坐,立御前下來也云云。」
此の記事を讀んで、當然、導出される問題は、(一)太詔戶命とは如何なる神か、(二)太詔戶命と龜津比女との關係を如何に見るか、及び此の兩神と太卜との交涉は如何なる物かと云ふ二點である。私は此れに就いて簡見を述べて見たいと思ふ。
一、太詔戶命は言靈の神格化
私の父は大變な平田篤胤翁の崇拜家であつただけに、草深い片田舍の半農半商の親爺としては、一寸、珍しい程の古典通であつた
〔
三
〕
。其の父が生前に書き殘して置いた物の中に、『六月晦大祓』の祝詞の一節に「天つ
菅麻
スガソ
を、本刈斷ち末打切りて、天津祝詞の太祝詞事を宣れ、斯く宣らば天つ神は。」云云と有る『太祝詞』とは何の事か知るに由が無いと云ふ意味が記してあつた。私は深く此事を記憶してゐて、爾來、本居・平田兩翁の古典の研究を始め、伴信友・橘守部・鈴木重胤等の各先覺の著書を讀む折には、必ず特に『太詔詞』の一句に注意を拂つて來たのであるけれども、私の不敏の為か、今に此の一句の正體を突き留める事が出來ぬのである。其れでは、代代の先覺者には、此事が充分に解釋されてゐたかと云ふに、どうも左樣では無くして、多分こんな事だらう位の推し當ての詮索ばかりで、手短く言へば、私の父の考察に少し毛が生えた位の物に過ぎぬのである。斯く碩學宏聞の大家にあつても、正體を知る事の出來無かつた太詔詞の一句、田舍親爺の父等に知れべき筈の無いのは、寧ろ當然と云ふべきである。然らば、其の太詔詞とは如何なる物であるか、先づ二三の用例を舉げるとする。
太詔詞の初見は『
日本書紀
』
神代卷の一書
に、「使天兒屋命掌其解除之
太諄詞
フトノリトゴト
而宣之。」の其れで、祝詞では前揭の大祓の外にも散見してゐるが、重なる物を舉ければ「鎮火祭」には二箇所有つて、前は「天下依し奉りし時に、事依し奉りし天津詞太詞事を以て申さん。」と有り、後は、「和稻、荒稻に至る迄に、橫山の如置きたらはして、天津祝詞の太祝詞事以て、稱辭竟へ奉らんと申す。」と有る。「道饗祭」には、「神官、天津祝詞の太祝詞を以て、稱辭竟へ奉ると申す。』と有り、「豐受宮神嘗祭」には「天照し坐す皇大神の大前に申し
進
タテマツ
る、天津祝詞の太祝詞を、神主部・物忌等
諸
モロモロ
聞食せと宣る。」と有り、此れも前に引用した『中臣壽詞』には「此玉櫛を刺立て、夕日より朝日の照る迄、天津祝詞の
太詔詞言
フトノリトゴト
を持て宣れ。」と有り、更に『
萬葉集
』卷十七には、「中臣の太祝詞言ひ祓ひ、贖ふ命も誰が為に汝。」と載せてある。
而して是等の用例に現はれたる太詔詞に對する諸先覺の考證を檢討せんに、先づ賀茂真淵翁の說を略記すると、「或人
(中略)
、されば茲に天津祝詞と有るは、別に神代より傳はれる言あるならん、と云へるはひが事也。」とて
〔
四
〕
、大祓の外に別に太詔詞有る事を云はず、且つ太詔詞其のものに就いては、少しも觸れてゐぬのである。本居宣長翁は「太祝詞事は、即ち大祓に、中臣の宣此詞を指せる也。」として
〔
五
〕
、賀茂說を承認し、且つ太詔詞に就いては何事も言うてゐぬ。然るに、平田篤胤翁に至つては、例の翁一流の臆斷を以て、異說を試みてゐる。
茲に其の梗概を記すと、
太祝詞を天津神・國津神の聞食せは、祓戶神等の受納給ひて罪穢を卻ひ失ひ給ふ。斯在ば其太祝詞は別に在けむを、式には載漏されたる事著明し、若し然らずとせば、太祝詞事
を
乎
宣
れ
禮
とは何を宣る事とかせむ。
と言はれた迄は卓見であるが、更に一步を進めて、太祝詞の正體は、
太詔詞は、皇祖天神の大御口自に御傳へ坐るにて、祓戶神等に祈白す事なるを、神事の多在る中に、禊祓の神事許り重きは無ければ、天津祝詞の中に此太祝詞計り重きは無く、天上にて天兒屋命の宣給へる辭も、其なるべく所思ゆ。
とて
〔
六
〕
、遂に禊祓を太祝詞と斷定したのである。鈴木重胤は平田說に示唆されて一段と發展し、伯家に傳りし大祓式に三種ノ祝詞有るを論據として、遂に太詔詞は、
吐普加身衣身多女
トホカミエミタメ
とて、此は占方に用ふる詞なるが、
吐普
遠
は
遠大
トホ
にて天地の
底際
ソコヒ
の內を悉く取統て云也、
加身
神
は
神
カミ
にて天上地下に至る迄感通らせる神を申せり、
依身
惠
は
能看
エミ
、
多女
賜
は
可給
タメ
と云ふ事にて。
(中略)
簡古にして能く六合を
網羅
トリスベ
たる神呪にて、中中に人為の能く及ぶ所にあらざりけり。
(中略)
此三種ノ祝詞を諄返し唱ふる事必ず上世の遺風なる物也、そは大祓の大祝詞に用ゐららるに祓給
へ
幣
清給
へ
幣
の語を添て申すを以て
曉
さと
る可き也云云。
と主張してゐる
〔
七
〕
。鈴木翁が太詔詞を神呪と見た警眼には服するが、此れを
吐普加身
遠神
云云を以て充當しようと企てられたのは、恰も平田翁が此れを皇祖天神の口授とし、禊祓を擬せんとしたのと全く同じ事で、共に出典を缺いた臆說と見るべき外は無いのである。
然らば太詔詞の正體はと云へば、此れは永久に判然せぬ物であると答へるのが尤も聰明な樣である。恐らく此の神呪は此れを主掌してゐる中臣家の口傳であつたに相違無い故、其れが忘られた以上は永久に知る事の出來ぬ物である。然るに、茲に想起される事は、『類聚神祇本源』卷十五
(此書に就いては第一篇第二章に略述した。)
神道玄義篇の左の一節である。
問:開天磐戶之時、有呪文歟如何?答:呪文非一、秘訓唯多。
(中略)
又云而
布瑠部由良由良止布瑠部
文、此外呪文依為秘說、不及悉勒。謂天神壽詞天津宮事者、皆天上神呪也。
問:何故以解除詞稱中臣祓哉?天神太祝詞者、祓之外可有別文歟如何?答:以解除詞稱中臣祓者、中臣氏行幸每度奉獻御麻之間有中臣祓之號云云。此外猶在秘說歟。凡謂濫觴,天兒屋命掌神事之宗源云云。奉天神壽詞、天村雲命者捧賢蒼懸木綿、抽精誠祈志地、就中天孫御降臨之時、天祖太神授秘呪於天兒屋命、天兒屋命貽神術於奉仕累葉。
(中略)
次座
に
仁
面受秘訓、莫傳外人。由緣異他相承嚴明也。復次天祝太祝詞、是又有多說。此故聖德太子奉詔撰定伊弉諾尊小戶橘之檍原解除、天兒屋命解素戔鳴惡事神呪、皇孫尊降臨驛呪文、倭姬皇女下樋小河大祓、彼此明明也、共可以尋歟。
(續續群書類從「神祇部」本。)
此記事に據れば、太詔詞は全く呪文であつて、然も其の呪文の幾種類かが悉く太詔詞の名に依つて傳へられてゐる事が知られるのである。勿論、私とても僧侶の手に依つて著作された此種の文獻を、決して無條件で受容れる者では無いが、兔に角に祝詞の本質が古く呪文であつた事、及び此書の作られた南北朝頃には、未だ太詔詞なる物 が存してゐた事等を知るには、極めて重要なる暗示を與へる物と考へたので、斯くは長長と引用した次第である。殊に注意し無ければ成らぬ事は、此記事に據れば、天兒屋命は純然たる公的呪術師であつて
〔
八
〕
、神事の宗源とは即ち呪術である事が明確に認識される點である。未だ太詔詞に就いては、記したい事が相當に殘つてゐるのであるが、其れでは餘りに本書の疇外に出るので省略し、更に太詔戶命の正體に就いて筆路を進めるとする。
伴信友翁は「太詔戶命と申すは、兒屋命を稱へたる一名なるべし。
(中略)
名に負ふ中臣の祖神に坐し、果た卜事行ふにも、神に向ひて、其の占問ふ狀を祝詞する例なるに合はせて、卜庭に祭る時は、太詔戶命と稱へ申せるにぞあるべき。」と考證されてゐるが
〔
九
〕
、私に言はせると、是れは伴翁の千慮の一失であつて、太詔戶命とは即ち太詔詞の言靈を神格化した物と信じたいのである。畏友武田祐吉氏の研究に據れば、
言靈信仰は、自づから言語を人格神として取扱ふに至るべき事を想像せしめる。其例として、辭代主神・一言主神の如き、言靈神では無いかと思はれる。辭代主の屢ば託宣するは史傳に見ゆる處であり。一言主も亦『鄉土研究』に據れば
〔
十
〕
、良く託宣した事が見えてゐる。善言も一言、
惡
まが
言も一言と神德を傳へた其の神が、言靈の神であるべき事は想像せられ易い。
と有るのは至言であつて
〔
十一
〕
、私は是等の辭代主・一言主に、更に太詔戶命を加へたいと思ふのである。伴翁は太詔戶命と共に卜庭の神である櫛真知命は波波加木の神格化であると迄論究されてゐながら
〔
十二
〕
、何故に太詔戶命の太祝詞の神格化に言及せられ無かつたのであるか、私には其れが合點されぬのである所謂、智者の一失とは此の事であらう。前に引いた『龜兆傳』の太詔戶命の細註にも「持神女,住天香山也,龜津比女命。今稱天津詔戶太詔戶命也。」となりと明記し、兒屋命と別神である事を立證してゐる
〔
十三
〕
。太詔戶命は言靈の神格化として考ふべきである。
二、太詔戶命と龜津比女命との關係
龜津比女命なる神名は、獨り『龜兆傳』の細註に現れただけで、其他の神典古史には全く見えぬ神なる故、其の正體を突き止めるに誠に手掛りが尠いのであるが、此の細註に神を持つ少女、天ノ香山に住む、龜津比女命、今は太詔戶命と稱すると有る意味は、既に言靈の太詔詞が神格化されて太詔戶命と成り、此れに奉仕してゐた巫女を龜津比女命と稱したのが、更に附會混糅されて龜津比女命は即ち太詔戶命であると考へられる樣に成つた物と信ずるのである。而てし斯かる例證は原始神道の信仰に於いては屢屢逢著する處であつて、少しも不思議とするに足らぬのである。
旁證として茲に一・二舉げんに、原始神道の立場から云へば、畏くも天照神に奉仕されて最高の女性であつて、消して日神その者では無かつたのである。其れが神道が固定し、古典が整理され、天照神の御神德が彌が上に向上されて來た結果は、天照神即日神と云ふ信仰と成つてしまつたのである。更に豐受神にした處が、『
丹後國風土記
』の逸文を徵證として稽へれば、豐受神は穀神に奉仕した女性であつて、此れも決して榖神その物では無かつたのである。其れが伊勢の度會に遷座し、天照神の御饌神として神德を張る樣に成つたので、遂に豐受神即穀神と迄到達したのである。而して茲に併せ記す事は、頗る比倫を失ふ嫌ひは有るが、古く宮中の酒殿に酒神として祭られた酒見郎子・酒見郎女の二神も、
仁德朝
の掌酒であつて、酒神その者では無かつたのが、後には酒神の如く信仰されたのは、天照神や豐受神と同じ理由──其間に大小と高下との差違は勿論有るが、兔に角に斯うした信仰の推移は宗教心理的にも民族心理的にも、良く發見される事なのである。龜津比女と太詔戶命との關係も又其れであつて、始めは龜津比女は神を持て女として太詔戶命に仕へてゐたのが、後には太詔戶命その者と成つたのである。斯う解釋してこそ兩者の關係が會得されるのである。
龜津比女が巫女であつた事は、改めて言ふ迄も無いが、唯問題として殘されてゐる事は、龜津比女の名が總てを語つてゐる樣に、此の巫女は鹿卜が龜卜に變つてから太詔戶命に仕へた者か、其れとも鹿卜の太古から仕へた者かと云ふ點である。巫女が鹿卜に與つたと云ふ事は、他の文獻には見えてゐぬので、此れを考證するに困難を感ずる事ではあるが、姑らく『龜兆傳』の記す處に據れば、前揭の如く、「天香山白真名鹿:『吾將仕奉。我之肩骨內拔拔出,火成卜以問之。』」有るので、巫女は鹿卜時代から此れに交涉を有してゐた者と見て差支無い樣である。後世の記錄ではあるが、『
續日本紀
』
寶龜三年十二月
の壹岐國の卜部氏の事を記せる條に「壹岐郡人直玉主賣」と有るのは、女性の樣に思はれるので參考すべきである。
〔
註第一
〕『
萬葉集
』卷十四に、「武藏野に、占部肩灼き、
真實
マサデ
にも、告らぬ君が名、占に出にけり。
(3374)
」と有り。同卷に、「
大楉
オフシモト
、此本山の、
真終極
マシバ
にも、告らぬ妹が名、
卜兆
カタ
に出でむかも。
(3488)
」と有り、同卷十五雲連宅滿の挽歌の一節にも、「壹岐海人の、
名手
ホツテ
の
卜筮
ウラベ
を、肩灼きて、行かむとするに。
(3694)
」云云と有る。是等は太卜の民間に行はれた事を證明してゐる物である。
〔
註第二
〕『本朝月令』に引ける『弘仁神祇式』に、「卜御體・卜庭神祭二座。」云云と見え、『
延喜
』
四時祭式
にも「卜御體・卜庭神祭二座。御卜始終日祭之。」と載せてある。而して此の二神は太詔戶命と櫛真知命である事は、本居翁の『古事記傳』及び伴翁の『卜正考』等に考證されてゐる。
〔
註第三
〕私の父は平田翁を崇拜の餘り、控へ屋敷へ平田翁・外二翁を併せ祭つた靈三柱神社と云ふ大きな社を建てて、朝夕奉仕した。從つて神典古史も可なり讀んでゐて、郡中の神職連等は父の弟子分と云ふ程であつた。私も此父の庭訓で八・九歲頃から祝詞を讀ませられた者である。拙著『日本民俗志』に收めた「男は御產の真似をする話」に載せた記事の一半は、私の體驗と父の庭訓振りを書いた物である。
〔
註第四
〕「祝詞考」
(賀茂真淵全集本)
。
〔
註第五
〕『大祓後釋』卷下
(本居宣長全集本)
。
〔
註第六
〕『天津祝詞考』及び『古史傳』に據つた。但し行文は專ら鈴木重胤翁の『祝詞講義』に要約した物に從うたのである。
〔
註第七
〕鈴木重胤の『延喜式祝詞講義』卷十。
〔
註第八
〕天兒屋命が我國最高の公的呪術師である事を考へさせる記錄は決して尠く無いが、此の『類聚神祇本源』の記事は最も明確に其れを示してゐる。勿論、僧侶の述作ではあるが、古傳說として見る時は、其處に他の記錄の企て及ばざる物がある。唯本書は一般の日本呪術史では無し、更に日本巫覡史でも無いので、此處には深く其れ等に論及せぬ事とした。
〔
註第九
〕「正卜考」
(伴信友全集本)
。
〔
註第十
〕鄉土研究
(第四卷第一號)
にある柳田國男先生
(誌上には川村杳樹の匿名と成つてゐる。)
の『一言主考』を指したのである。
〔
註十一
〕武田祐吉氏著の『神と神を祭る者との文學』から抄錄した。猶ほ此の機會に於いて、私は此書を讀んで種種有益なる高示に接した。謹んで武田氏に敬意を表す。
〔
註十二
〕『正卜考』の中に收めた『波波加考』に據る。
〔
註十三
〕伴翁は『龜兆傳』は後作であらうとの意を『正卜考』の中で述べてゐる。或は後作であるかも知れぬが、此處には其の詮索は姑らく預り、釋紀の作られた頃には此種の信仰が事實として考へられてゐたのであるとして眺めたのである。
第四節 宣託と祝詞と巫女の關係
現代人は祝詞と云へば、其れは概して人が神へ請祈る為に、意の有る處を申上げる物とばかり考へてゐる樣である。實際、現行の祝詞なる物は、此用意の下に作られ、人が神へ祈願するだけの目的しか有つてゐぬのである。併しながら、斯かる祝詞觀は、其の發生的方面を全く沒卻した物であつて、祝詞の最初の使命は、此れと反對に、專ら神が意の有る處を人に告知らせる為に發生したのである。即ち
祝詞
ノリト
の原意は
詔事
ノリコト
であるから、其の語意より見るも、此事は會得されるのである。『龍田風神祭』の祝詞の一節に、
天下公民の作れる物を、草の片葉に至る迄成賜はぬ事、一年・二年に非ず、歲間無く備へる故に、百の
物知
り人等の卜事に出でむ
〔
一
〕
。神の御心は、此神と白せと仰賜ひき。此を物知り人等の卜事を以て卜へども、出づる神の御心も無しと白すと聞食して、皇御孫命詔賜はく、神等をば、天社・國社と忘るる事無く遺つる事無く、稱辭竟奉ると思ほしめすを、誰ぞの神ぞ、天下公民の作りと作る物を成賜はず、
傷
ソコナ
へる神等は、我御心ぞと、
悟
サト
し奉れと
誓賜
ウケヒタマ
ひき。是を以て、皇御孫命の大御夢に悟し奉らん、天下公民の作りと作る物を、惡しき風荒き水に遭はせつつ成賜はず傷へるは、我御名は、天御柱命・國御柱命と御名は悟し奉りて云云。
と有るのは、良く祝詞の發生的事象を盡してゐるのである。
更に詳言すれば、祝詞なる物は、神が人に對して、積極的に、此れ此れの事をして祭れとか、又は消極的に、此れ此れの事はする勿と誨へた事が、此れの起源と成つてゐるのである。而して此の意義を理解し易い樣、祝詞の中から例證を覔めて具體的に言へば、前者の例としては『遷卻崇神祭』の祝詞に、
進る幣帛は、明妙・照妙・和妙・荒妙に備奉りて、見明むる物と鏡、翫ぶ物と玉、射放つ物と弓矢、打斷る物と太刀、馳せ出づる物と御馬。
其他種種の幣帛を橫出の如く置き足らはして祭つたのが其れであつて、後者の例としては『道饗祭』の祝詞に、
根國底國より麤び疎び來む物に、相率り相口會する事無くて、下行かば下を守り、上往かば上を守り、夜の守り・日の守りに、守り奉り齋ひ奉れ。
と有るのが其れである。從つて祝詞は、古い物に成る程宣命體と成つてゐるが、然も其の宣命の一段と古い處に溯ると、託宣と成つてゐるのである。而して其の託宣は概して神の
憑代
ヨリシロ
である巫女の口を藉りて發せられるのである。
古代人は神意を伺ふ方法を幾種類が發明し工夫して所持してゐたが、其の中で祝詞に最も關係の深い物を舉げれば、託宣である。勿論、此託宣の中には、既記の如く、呪言も呪文も、更に呪術的分子も、多量に含まれてゐるが、託宣は直ちに神聲であり、神語である。『
欽明紀
』
十六年春二月條
に「天皇命神祇伯,敬受策於神祇。祝者迺託神語報曰。」云云と有るのは、祝者──即ち巫女
(祝はハフリと訓むとは後章に述べる。)
が神語を託宣した者である。『
萬葉集
』卷十九に「注江に、
齋
イツ
く
祝
ハフリ
が、
神語
カムコト
と、行くとも來とも、船は早けむ。
(4243)
」と有るのや、同集
卷四の長歌の一節
は「天地の、神辭寄せて、敷妙の、衣手交へて、自妻と、賴める今宵。
(0546)
」等を始として、書紀、萬葉に多く散見する處である。
而して、此の神語なる物は、如何なる形式で表現されるかと云ふに、
憑神
カカルカミ
に依つて、或は散文的の普通の言語を以てし、或は歌謠的に律語を以てする物と有るが、概して言へば、太古に溯る程素朴で單純であるのに反し、時代の降る程枕辭を冠し、對句を用ゐる等、頗る典雅な物となる。『
肥前國風土記
』
佐嘉郡條
に、
郡西有川,名曰佐嘉川。
(中略。)
山川上有荒神,往來之人,半生半殺。於茲,縣主等祖大荒田,占問。于時,有土蜘蛛大山田女、狹山田女,
(中山曰、巫女也。)
二女子云:「取下田村之土,作人形、馬形,祭祝此神,必在應和。」大荒田,即隨其辭祭此神,神
敵
ウチテ
此祭,遂應和之。
(云云。)
と有るのは、神語の最も簡古な物で、前者の例と見るべく、『
播磨國風土記
』逸文に、
息長帶日女命,
【○神功皇后。】
欲平新羅國,下坐之時,禱於眾神。爾時,國堅大神之子爾保都比賣命,
著
カカリ
國造石坂比賣命,教曰:「
(中略。)
比比良木八尋桙根底不附國
ヒヒラギノヤヒロノホコネソコツカヌクニ
、
越賣眉引國
ヲトメノマヨヒキノクニ
、
玉匣賀賀益國
タマクシゲカガヤククニ
、
苦尻有寶白衾新羅國
コモマクラタカラアルタフサマシラギノクニ
矣,以丹浪而將平賜伏。」如此教賜。
(云云。)
と有るのは、やや技巧の加つた物で、後者の例として見る事が出來る。更に『神功紀』に載せてある
神后の託宣
に至つては、
(中山曰、此の全文は後章に引用する、參照を望む。)
對句と疊句を用ゐ、高雅にして典麗を極め、全く歌謠體の律語を以て表現されてゐる。
斯くて祝詞の基調と成つた託宣も、時勢の降ると共に、漸く常識化され、倫理化されて來て、祝詞が固定する樣に成れば、字句は洗練され、構想は醇化されて、呪文の分子と、託宣の內容は減卻される事と成り、且つ神が人に宣る祝詞が、正反對に人が神に申す祝詞と解釋される樣に成つて來ては、祝詞と巫女との關係は全く世人から忘られてしまつたのである。
併しながら、民俗は永遠性を帶びてゐるだけに、祝詞の解釋が故實を失ふ樣に成つても、猶ほ其の古き面影を留める為に工夫された物が、「返し祝詞」の一事である。「返し祝詞」とは、人が神に申した祝詞に對して、神が其の事を納受した證據として返答する事なのである。洛北賀茂神社の「返し祝詞」は、最も有名な物であつて
〔
二
〕
、北野天神社、石清水八幡宮にも此事が存してゐた。『梁塵秘抄』に「稻荷山みつの玉垣打ち叩き、吾が祈ぎ事ぞ神も答へよ。」と有るのも、蓋し此思想を詠んだ物であらう。
〔
註第一
〕物知りとは、現代では博識家と云ふ意味に用ゐられてゐるが、古く物とは靈の意味であつて、物知りとは即ち靈に通ずる人と云ふ事なので、即ち巫覡を指した物である。琉球では、今に此意味に、物知りの語を用ゐてゐる。從つて大物主神の意味も、此れで釋然するのである。
〔
註第二
〕賀茂社では、今に「返し祝詞」を用ゐてゐると、宮內省掌典星野輝興氏から承つた事がある。記錄では『玉海』承安二年四月十二日條に「於寶前,申祝歟不聞,次祝歸出自中門於砌上申還祝,其音太高。」と見えてゐる。更に北野社は『北野誌』に、石清水八幡宮は『大日本古文書』石清水書卷一に載せてある。
第四章、巫女の呪術に用ゐし材料
巫女の呪術に種種なる方法が有つた樣に、其呪術に用ゐた材料にも、亦種種なる物が在つたのである。私は此處に是等の材料に就いて述べる考へであるが、其の以前に於いて一言すべき事がある。其れは、茲に巫女の用ゐた呪術の材料と云ふものの、文獻上からは必ずも巫女とは限られてゐずして、卻つて覡男と共通、若しくは覡男に限られた物が相當多く加はつてゐる事である。從つて、私の此記述には、巫女史の範疇を越えて、或は一般の巫術史に涉る樣な嫌ひが有るけれども、我國の文獻は屢記の如く、巫女が覡男に征服された後に記述した物である為に、巫女に關する物は至つて僅かしか傳へられてゐ無いのである。其れで止む無く、斯うした態度を執る樣に成つたのであるが、併し見方に依つては、覡男の用ゐた物は巫女も用ゐ、其の間殆ど共通してゐたとも想はれるので、敢て此方法に出た次第なのである。
第一節 呪術の材料としての飲食物
諾尊が黃泉國に冊尊を訪れて歸るさに、黃泉醜女に追はれた際、桃・筍・
葡萄
エビカツラ
の三つを以て擊退した事は既記を經たので再說せぬが、唯茲に考へて見無ければ成らぬ問題は、此の三つは物其れ自體は一種の呪力を有してゐたと云ふ事であつて、呪術に用ゐられたので呪力が發生したのとは違ふ點である。全體、呪術に用ゐられた材料は、概して言へば、咸な此種の物に屬するのであるが、稀には呪術に用ゐられた為に呪力が發生する物も有るので附記するとした。而して古代の呪術に用ゐられた飲食物は大略左の如き物である。
一、米
豐葦原瑞穗國と云はれた我國にも、古くは一粒の米も無かつた。天照神が熊大人をして稻種を覔められたと云ふ神話は
〔
一
〕
、米が外來の物である事を良く說明してゐる。然るに米を獲て蒼生の生きて食ふべき物と成るや、其の稻は忽ち神格化されて、屋船豐受姬命
(俗に宇賀能美多麻と云ふ。)
と成り
〔
二
〕
、精靈を拂ふ呪力有る物として信仰される樣に成つた。『
日向國風土記
』逸文に、
臼杵郡內智舖鄉。天津彥彥火瓊瓊杵尊,離天磐座,排天八重雲,稜威之道別道別而,天降於日向之高千穗二上峰。時天暗冥,晝夜不別,人物失道,物色難別。於玆,有土蜘蛛,名曰大鉗・小鉗二人,奏言皇孫尊:「以尊御手拔稻千穗為籾,投散四方,必得開晴。」」于時,如大鉗等所奏,搓千穗稻,為籾投散,即天開晴,日月照光。
と有るのは、米を呪術に用ゐた初見の記事であつて、古代人の米に對する信仰が窺はれるのである。
『
持統紀
』
二年冬十一月條
、天武帝の殯宮に、「奉
奠
クマ
,奏楯節舞。」と記した奠は、古く米を「
奠稻
クマシネ
」と云つたのから推すと、米を靈前に奉る事は、此れに呪力を信じたからであり。尚『和名類聚抄』祭祀具部に「『離騷經』注云、糈,
【和名,
くましね
久萬之禰
。】
精米所以享神也。」と有るのも同じ意である。「大殿祭」の祝詞の細註に、「今世產屋,以辟木束稻,置於戶邊,乃以來米,散屋中之類也。」と載せたも又其れである。『
古語拾遺
』肱巫の細註に、「今世竈輪及米占也。」も米を用ゐた呪術に外成らぬ。而して此の信仰は後世の散米
(打
蒔
マキ
・花
稻
シネ
・
御奠
ミクマ
・手向米等とも云ふ。)
と成り、種種なる傳說や俗言を生む樣に成つたのである
〔
三
〕
。猶ほ後世に成ると、大豆や小豆を呪力有る物として用ゐてゐるが
〔
四
〕
、古代に於いては寡見に入らぬので何とも言ふ事が出來ぬ。
二、水
人類の生活に火の無い時代は有つたかも知れぬが、水の無かつた時代は想像する事も出來ぬ。我國に於いても火神の信仰よりは、水神の信仰の方が古くから存してゐた樣である。從つて水に呪力を認め、此れを呪術に用ゐた例は、少しく誇張して言へば、枚舉に遑が無い程多く存してゐる。誰でも知つてゐる
諾尊が日向の檍原で御禊せられた
のは、海水の呪力を信じて、黃泉の穢れを拂うた物である。「
變若
をち
水」を飲めば、心身共に更新すると考へた思想も神代から存し、然も其れは現代に迄若水として名殘りを留めてゐる。『
萬葉集
』卷十三に、「天橋も、長くもかも、高山も、高くもかも、月讀みの、持たる變若水、い取來て、君に奉りて、越えむ年はも。
(3245)
」と有るのや、同集
卷七
に「生命をし、幸く良けむと、石走る、垂水の水を、掬びて飲みつ。
(1142)
」と有るのは、共に此信仰に因る物である。而して此信仰は水を神とし、更に水の湧く井を神と崇める迄に發展し、生井・榮井・綱長井と神格化する樣に進んでたのである
〔
五
〕
。我國に
觀水系呪術
ウォーターのゲージング
(次章參照。)
が發明されたのも、決して偶然では無かつたのである。猶、後世に於ける水の呪術に就いては、各時代下に記す機會が有るので、今は省略する。
三、鹽
我國では鹽の呪力を認めた信仰は、遠く諾尊の檍原の海水の御禊に出發してゐる事は言ふ迄も無いが、此れが呪術の材料として用ゐられたのは、『
應神記
』に、伊豆志乙女を爭ひし兄弟の母が、其の兄の不信を憤りて「乃取其伊豆志河之河嶋一節竹而作八目之荒籠。取其河石,合鹽而裹其竹葉,令
詛言
トゴヒ
:『
(中略。)
如此鹽之盈乾而盈乾。』」と有るのが
(此の全文は既載した。)
、古い樣である。『
丹後風土記
』逸文に、天女が老夫婦に苦しめられた折に、「思老夫老婦之意,我心無異荒鹽者。」と言うたのは、鹽の呪術に
詛
トゴヒ
されて患ふるに同じとの意味であらう。禍津神を驅除すべき祓戶四柱の中なる速開津姬が、荒鹽の鹽の八百道の八鹽道の、鹽の八百會に
座
ヰワ
した事は、良く鹽の呪力を語る物である。而して『貞觀儀式』平野祭の條に「皇太子於神院東門外下馬,神祇官中臣、迎供神麻,灌鹽水訖。
(中略。)
至神院東門,曳神麻灌鹽水。」云云と有るのや、『
古語拾遺
』に御歲神の怒りを和めんとて、「以
薏子
ツス
、
蜀椒
ハジカミ
、
吳桃
クルミ
葉及鹽,班置其畔。」と有るのも、共に鹽の呪術的方面を記した物である。
四、川菜
「鎮火祭」の祝詞に、火神が荒び疏びた折には、「水神、
匏
ヒサゴ
、植山姬、
(中山曰、土の精靈。)
川菜。」の四種を以て鎮めよと載せて有る。川菜が呪術の材料として用ゐられた事は、私の寡聞なる此外には知る處も無いが、古く此れが巫女に用ゐられた事は、此の一事からも推測されるのである。
猶、此外に、酒や、飴や、蒜や、蓬等を呪術の材料として用ゐた例證も有るが、是等は私が改めて說く迄も無いと考へたので省略した。
〔
註第一
〕稻の原產地は南支那と云ふが、此稻が我國に輸入された稻筋に就いては、南方說と北方說との兩說が有る。私は我國の稻は朝鮮を經て舶載された物と考へる物で、其事は『土俗 傳說』第一卷三號に「穗落神」と題して管見を發表した事が有る。
〔
註第二
〕「大殿祭」の祝詞の細註に在る。保食神は原始神道上からも、更に民俗學上からも、研究すべき幾多の材料が殘されてゐるのであるが、所詮は稻の精靈であると云ふに歸著するのである。
〔
註第三
〕『
日向國風土記
』の逸文から導かれて、高千穗峰に原生の稻が有つたと云ふ傳說は、『三國名勝圖繪』や『薩隅日地理纂考』等を始として、各書に記載されても居るし、又諸先覺の間にも此事が論議されてゐるが、私には贊意を表する事が出來ぬ。稻の野生が我國に無く外來の物である事は疑ふべき餘地は無い。
〔
註第四
〕追儺に大豆を撒き、祝事に小豆飯を炊く等を重なる物として、此の二つは呪術的には相當廣く用ゐられてゐるが、古代に在つては、其の事實が寡見に入らぬ。琉球の傳說を集成した『遺老說傳』に據ると、大豆と小豆とは、後に外來した物だと載せて有るが、內地に有つても何か斯うした事實が有つたのでは無からうか。
〔
註第五
〕井の信仰に就いては私見の一端を、『鄉土研究』第三卷第六號所載の「井神考」で述べた事が有る。敢て參照を望む。
第二節 呪術の為に發達した器具
呪術の為に發生した物と、此れに反して、發生の理由は他に在るも、呪術に用ゐられた為に一段の發達をした物と有るが、茲には是等を押し包めて記すとする。唯恐れるのは、本節に於ける私の考覈は、從來の研究と異る處が有るので、異說を立てるに急なる者の樣に誤解されぬかと云ふ點である。併し私としては決して然る野心の毫も有せぬ事を言明する次第である。
一、玉
我國に古く重玉の思想の在つた事は言ふ迄も無い。
否否、思想と云ふよりは、信仰と云ふ方が適當に想はれる迄に、玉を重んじてゐた。而して其の玉は概して
勾玉
マガタマ
の名を以て呼ばれてゐたのである。神代に於ける饒速日命の傳へた
十種神寶
は、悉く呪具である事は改めて說くを要せぬが、此內、生玉・足玉・死反玉・道反玉と、四つ迄玉が占めてゐた事は、重玉の信仰の容易ならぬ事を證明してゐる物である。『垂仁紀』
八十七年春二月條
に、
昔丹波國桑田村有人,名曰
甕襲
ミカソ
。則甕襲家有犬,名曰
足往
アユキ
。是犬咋山獸名
牟士那
ムジナ
,而殺之。則獸腹有八尺瓊勾玉,因以獻之。是玉今在石上神宮。
と有るのは、山獸の腹に勾玉の在つたと云ふ事が、當時の民族心理からは、一つの神恠として見られたのであるが、併し其の勾玉が石上神宮に納められたのは、玉を重く信仰した結果に外成らぬのである。
全體、我國の勾玉に就いては、考古學的にも民俗學的にも研究されるべき餘地が少からず殘されてゐるのである。就中、私の興味を唆る物は、勾玉の形狀は何を
象徵
シンボライズ
してゐるのであるかと云ふ事である。從來の學者の說く處に據ると、勾玉の形狀は、遠い祖先達が狩獵を營んでゐた際に、猛獸又は食獸を獲た場合に、一は其れを記念する為に、一は其の齒牙に呪力有る物と信じて、胸に懸けたのに始まると言はれてゐて、此說は殆ど學界の定說と成つてゐるのである
〔
一
〕
。
併しながら、私に言はせると、此考察は餘り常識的であつて、我國の古い民俗に適應せぬ物が有る樣に想はれる。私は茲に勾玉を研究するのが目的で無いから、結論だけを簡單に記すとするが、私の信ずる處では、勾玉は腎臟の
象徵
シンボル
であると斷定する物である。
由來、我國では心の枕辭に村肝の二字を冠してゐて、此の村肝とは「肝は七葉
群
ムラガ
りてあれば、群肝と云ひ、さて、肝向・心乎痛共呼みたるが如く、心と肝とは相離れぬ物なれば、然續けたりとすべし。」と、賀茂真淵翁は說かれてゐるが
〔
二
〕
、併し此れとても、私に言はせると「
むら
群
」の字義に捉はれた說で腑に落ちぬ物がある。私は固く信じてゐる。我が古代の遠い祖先達は、狩獵に出て、鹿や豬等を獲た時には、是等の食獸を與へてくれた山神に對して、獸を支解し、其の心臟を供物として捧げた習禮の有つた事から推して
〔
三
〕
、獸類の解剖には
(巫女は人間の屍體を截斷する職務を有してゐた事は後章に詳述する。)
相當熟練してゐた事と、且つ遠い祖先達が神秘な物不思議な物として、多大の興味を
維
ナツ
いでゐた性器の
活
ハタラ
きの根元を知らうとした事である。此結果として、性器の活きの根源は腎臟に在る事は、夙に知られてゐた筈である。
然るに、此腎臟の色は紫であつて、其れが
乾固
カハキカタ
まると、恰も勾玉の如き形狀と成る。赤き心に對して紫の
腎
キモ
、此れは支那で發達した陰陽五行の說を醫術に採用し、心・腎・肺・脾・肝の五臟に、赤・青・黃・白・黑の五色を箝當した醫書を見ぬ以前に於いて、確かに、此の赤心紫腎だけの事實は、
遠い先祖達の知つてゐた所である。私は此の乾し固めた腎臟を胸に懸けたのが勾玉の古い
相
スガタ
であつて、然も
紫
むら
肝の枕辭を為した所以だと考へてゐる
〔
四
〕
。而して斯く腎臟を胸に懸けたのは、(一)山神に捧げた心臟に對して、自分等が此れを所持する事は、神の加護を受ける物として、(二)性器崇拜の結果は此れに呪力の存在する物として、(三)原始時代の勇者の徽章又は裝身具として用ゐた物と信ずるのである。
猶ほ此機會に於いて併せ考ふべき事は、古代人は勾玉を靈魂の宿る物
〔
五
〕
、若しくは靈魂の形と思つてゐたと云ふ點である。此れも理由を述べると長く成るので結論だけ言ふが、我國で、魂と玉を、同じ
語
コトバ
の「タマ」で呼んでゐたのは、此事を裏付ける物と見て差支無い樣である。玉を呪術に用ゐた事は周知の事である上に、勾玉の解說が餘りに長く成つたので他は省略する。
二、鏡
鏡の起りは「鑑」であつて、其用途は、陽燧に在つたと云はれてゐるが、我國に渡來する樣に成つてからは、專ら呪術の具として用ゐられてゐた。『
景行紀
』
十二年秋九月の條
に、神夏礒媛
(巫女にして魁帥を兼ねた者。)
が參向する際に、
則拔磯津山賢木,以上枝挂八握劍,中枝挂八咫鏡,下枝挂八尺瓊,亦素幡樹于船舳。
と有るのは、當時、呪具として最高位の鏡・劍・玉を用ゐた物であつて、此れと全く同一なる記事が『
仲哀紀
』にも載せてある所を見ると
〔
六
〕
、かなり廣く行はれてゐた事が知られるのである。而して鏡が照魔の具として用ゐられた事、及び巫女に限つて鏡を所持した事等は、共に鏡が呪具として重きを為してゐた事が想像される。『
萬葉集
』卷十四の「山鳥の、尾ろの
秀津尾
ハツヲ
に、鏡懸け、唱ふべみこそ、汝に寄そりけめ。
(3468)
」と有るのは、蒙古に行はれる
聖なる幡
ハタック
(此事は次章に云ふ。)
と共通の物の樣に想はれるが、兔に角に山鳥は古くから靈鳥として信仰され、且つ十三の
斑
フ
を有する尾は呪物として崇拜された物であつて
〔
七
〕
、然も其の山鳥の秀尾へ鏡を懸けるとは、言ふ迄も無く、立派な呪具であつたのである。其れ故に下句の「唱ふべみこそ、汝に寄そりけめ。」とは、即ち魂を引寄せるだけの力が有る物と考へられてゐたのである。猶、鏡に就いては、第五章第四節「憑るべの水」の條にも記すので、其れを參照せられん事を希望して、茲には概略に留めるとする。
三、劍
諾尊が黃泉醜女に追はれた
折に
「拔所御佩之十拳劍而,於後手
振きつつ
布伎都都
逃來。」と有るのは、劍に呪力の有つた事を物語る最古の記事である。『
神武記
』に帝が紀州熊野村に到りし時荒振神に逢ひ、
爾神倭伊波禮毘古命儵忽為
遠延
をゑ
、
(中山曰、毒氣に中る事。)
及御軍皆遠延而伏。此時、
熊野之高倉下
【此者人名。】
齎一横刀、到於天神御子之伏地而獻之時、天神御子即寤起、詔:「長寢乎。」故受取其横刀之時、其熊野山之荒神自皆爲切仆、爾其惑伏御軍悉寤起之。
と記せるも、亦た劍に呪力の有つた事を證明してゐる物である。而して斯くの如き記事は、我國の一名を「細戈千足國」と云うただけ有つて、僂指に堪えぬ程夥しく殘されてゐる後世の巫覡の徒が惡靈退治の呪術を行ふ時、劍を揮つて空中を斬るのは、此の信仰に由來する物であつて、更に「劍の舞」なる物が彼等の手に殘されてゐたのも、又た之に基因してゐるのである。
四、比禮
大己貴命が素尊の許に往き、蛇室に寢る時須勢理媛より蛇比禮を與へられ、且つ「其蛇將咋,以此比禮三擧打撥。」と
教へられ
、次で
蜈蚣
ムカデ
比禮・蜂比禮を與へられて難を逭れた事は有名な神話である
〔
八
〕
。亦天神より授けられた十種神寶の中にも、蛇比禮・蜂比禮及び
品物比禮
クサクサノヒレ
の三種が舉げてある。更に『
應神記
』に新羅から投化した
天日矛の將來した寶物
の中にも、振浪比禮と切浪比禮の二つが有つたと載せてゐる。而して是等の比禮が、呪術用の物である事だけは、明白に知られてゐるのであるが、其れでは其の比禮なる物は何かと云ふと、此れに就いては、古くから異說が多いのである。
本居宣長翁は「比禮とは、
(中略。)
何もまれ打振る物を云ふ、されば魚の鰭も水中を行とて振物、服の
領巾
ヒレ
も本は振らむ料にて、
(原註略。)
皆本は一つ意にて名けたる物ぞ。然れば蛇比禮とは、蛇を撥ふとて振物の名也。」と判つた樣で判らぬ事を言うてゐる
〔
九
〕
。谷川士清翁は、記・紀・萬葉集等から多くの例を舉げた後に、「比禮は、元衣服の事なるべし。」と輕く說明してゐる
〔
十
〕
。鈴木重胤翁は賀茂真淵の『冠辭考』に『
萬葉集
』
卷三
の「栲領巾の、懸けまく欲しき、妹が名を。
(云云。)(0285)
」と有るのを引用して、然る後に曰く、「栲は白き物なれば、實に栲領巾は白き領巾なりし也。今も京邊りの下樣の女等、表立たる禮式に額帽子とて、生𥿻を以て製たる物を夏冬共に必ず
帽
カム
るは、領巾の遺制なるべし。予今年下野國足利郡の方へ物せしに、其宿れる家に入來る女、何れも新しき手拭を頂に卷く事京の額帽子の如し。
(中略。)
こは上古の領巾の遺意の
存
ノコ
れる也。」と
〔
十一
〕
、飛んでも無い籔睨みをしてゐる。更に飯田武鄉翁は、『大神宮儀式帳』・『外宮儀式帳』・『和名抄』等の事例を比較した後に、「比禮は古き女の服具にて、白き帛類をもて、
頂上
ウナジ
より肩へ懸けて、左右の前へ垂せる物と聞えたり。」と考證してゐる
〔
十二
〕
。
私は茲に服飾史の上から比禮の研究を試みる事は措くが、是等の諸說の中、飯田翁の考證に左袒する物である。而して此服具を、或は蛇比禮と云ひ、或は蜂比禮と云うたのは、呪具としての用途に依つて名付けた物と考へてゐる。巫女の比禮に對して、覡男の
手繦
タスキ
も又一種の呪具であるが、此れに就いては省略する。
五、櫛
素尊が八岐大蛇を退治して、奇稻田媛を救う事を、『
古事記
』には「速須佐之男命,乃於湯津爪櫛取成其童女,而刺
御角髮
美豆良
。」と載せ、『
日本書紀
』には、「素戔嗚尊立化奇稻田姬,為湯津爪櫛,而插於御髻。」と記してゐる。而して此の兩記事に在つては、素尊が稻田姬を櫛と成して御髻に插した樣に解せられるので、昔の神道學者──殊に法華神道の似非學者達は、種種なる神恠を說いてゐるのであるが、民俗學の立場から言へば、女子が櫛を插す事は男子に占められた事。──即ち良人を有つたと云ふ標識に過ぎぬのである
〔
十三
〕
。此れは後章に詳しく言ふ考へであるが、伊勢齋宮に成られた皇女が、野宮を出て愈愈皇太神宮へ群行せらるる折に參內すると、天皇が躬から「別れの櫛」を齋宮の
御髮
ミグシ
に插されるのは、齋宮は神に占められる事を意味してゐるのである。
然るに、
櫛
クシ
は
奇
クシ
と通じ、更に
串
クシ
とも通ずるので、古く齋串を齋櫛の意に用ゐ、櫛に一種の呪力有りとする信仰を養ふに至つた。從つて櫛を神體として祭つた神社さへ尠く無いのである。諾尊が櫛を投じて醜女を攘うた故事から、櫛を拾ふと他人と成ると云ふ俗信は、現在に於いても行はれてゐる。『
萬葉集
』卷十九に、「櫛も見じ、
屋中
ヤヌチ
も掃かじ、草枕、旅行く君を、齋ふと思ひて。
(4263)
」と有るのは、良人の留守に、櫛で髮梳り、箒を用ゐる事は、羈旅に在る良人に禍を負はせる物と考へた為である。後世の巫女が櫛占をしたのも、又此信仰から導かれてゐるのである。
猶ほ此種に屬する呪具の中に、幡・幟・幣等を數へる事が出來るのであるが、是等は後に記述する機會も有らうと思ふので、今は觸れぬ事とした。
〔
註第一
〕故坪井正五郎氏を始め、多くの人類學者や、考古學者は、皆此の獸牙說を採つてゐて、幾多の著書や雜誌に、此事が載せてある。從つて天下周知の事と思ふので、書名や、誌名は、煩を避けて省略した。猶勾玉に就いては、谷川士清翁の『勾玉考』が、良く史料を集めて、古代の重玉信仰を說いてゐる。參照せられたい。
〔
註第二
〕『冠辭考』卷下。其條。
〔
註第三
〕柳田國男先生の著『後の狩詞記』及び『民族』第三卷第一號所載の早川孝太郎氏の『參遠山村手記』及び同氏著『豬・鹿・狸』
(第二叢書本)
を參照せられたい。
因みに言ふが、柳田先生の『後の狩詞記』は稀覯書であるので、茲に其の一節を摘錄すると「コウザキ。豬の心臟を云ふ。解剖し了りたる時は、紙に豬の血液を塗りて之を旗とし、コウザキの尖端を切り共に山神に獻ず。」と有る。
〔
註第四
〕先年雜誌『太陽』へ拙稿「枕辭の新研究」と題して揭載した事が有る。誌上には匿名に成つてゐる。號數は失念したが、大正六・七年頃の發行である。
〔
註第五
〕瓢が魂の入れ物であると云ふ古代人の信仰に就いては、柳田國男先生が『土俗と傳說』の第二號から連載された「杓子と俗信」の中に述べられてゐるし、更に近刊の『民俗藝術』第二卷第四號所載の「人形と
大白
オシラ
神」の中にも記してある。而して、我國の古代に於いて、墳墓を瓢型に築いたのも、亦此信仰に由來してゐるのである。人魂の形は、杓子に似てゐるとは、今も言ふ處であるが、古代人は、勾玉の形を人魂の形に聯想してゐた事も、考慮の內に加ふべきである。
〔
註第六
〕『
仲哀紀
』
八年春正月條
に「筑紫伊覩縣主祖五十跡手,聞天皇之行,拔取五百枝賢木,立于船之舳艫,上枝掛八尺瓊,中枝掛白銅鏡,下枝掛十握劍,參迎于穴門引嶋而獻之。」と載せてある。
〔
註第七
〕山鳥尾の呪力に就いては、曾て『土俗と傳說』第三號に「一つ物」と題して拙稿を載せた事が有る。
〔
註第八
〕『
古事記
』
神代卷
。
〔
註第九
〕『古事記傳』卷十
(本居宣長全集本)
。
〔
註第十
〕『增補語林倭訓栞』其條。
〔
註十一
〕『延喜式祝詞講義』卷九の細註。下野國足利郡は、私の故鄉である。從つて、此地方の民俗には、失禮ながら鈴木翁よりは通じてゐると云つても差支無いと信ずるが、私の知つてゐる限りでは、此地方で、婦女が手拭を冠つて他人の前へ出るのは、髮の亂れを隱す為であつて、領巾の遺風等とは考へられぬ。此れは鈴木翁の思ひ過ごしであらねば成らぬ。其れに、冠る物では無くして。垂れる物である。
〔
註十二
〕『日本書紀通釋』卷二十六。
〔
註十三
〕女子の有夫の標識には、種種なる民俗が有る。眉を拂ふのも、齒を染めるのも、更に櫛を插すのも皆其れである。詳細は拙著『日本婚姻史』に諸國の例を集めて載せて置いた。宮城縣の磐瀨郡では、昔は未婚者と既婚者の區別は、櫛を插すと插さぬとに在つたが、近年では、誰も彼も櫛を插すので區別に苦しむと、同郡誌に記してある。
第三節 呪術に用ゐし排泄物
血液與唾液。尿與糞。今日亦相信此類之物具備咒力。思考民俗之永遠性。
第四節 呪術用の有機物と無機物
笹葉與賢木。櫸木與葦。宍(しし)與鵐。鵜與蟹。石與土。灰亦具有咒力。
五、巫女之作法與咒術之種類
巫女之咒術作法
種種作法不傳今世。針對其作法反察。僅有其跳躍之事明白可知。
顯神明之憑談之咒術
鈿女命於天磐戶前之動作。最古之巫女記錄。何謂神遊。天照神磐戶坐之真相。見死者面之遊部民俗。阿那(あな)面白之語意即此。
現於鎮魂祭之咒術
對生魂之鎮魂祭。對死靈之鎮魂祭。猿女君之傳統與比自岐和氣之傳統。鎮魂與招魂之區別。即便以文字區別,實則。鎮魂與復之關係。唱於鎮魂祭之咒文。平田翁之宮比神傳記與翁一流之解釋。
憑水系之咒術
有水之神秘。久延毘古神與觀水咒術。日鳥庫吉氏之卓見。何謂憑水。神功皇后之觀水咒術。自觀水咒術至水晶咒術。南宮神社之劍珠與神功皇后。水鏡天神之由來。小野小町之姿見池與和泉式部之化粧水之考證。熱田神宮之楊貴妃之實體。菖蒲前亦為巫女。殘存九州之巫女水占。
利用性器之咒術
我國性器崇拜肇自神代。天鈿女先示其例。古語拾遺所載男莖形(ヲバセガタ)。祭式舞踊所示之性器崇拜俗信。長陰毛神與作為生命指標之毛髮。
六、巫女の性格變換と其生活
古代の巫女に關しては、未だ記述すべき幾多の問題が殘されてゐるが、其れで無くとも第一篇が餘りに長く成り過ぎる嫌ひが有るので、大體の輪廓だけでも全速力で書いてしまひたいと思ふ。全體、私が本書を起稿するに際して少しく憂へたのは、記述が第一篇の古代に繁く、此れに反して第二篇の中古及び近古に粗く、更に第三篇の近世及び現代に多くして、恰も瓢の如く首尾が太くして中括りの小なる物に終りはせぬかと云ふ事であつた。此れは何人が何の歷史を書くにも共通してゐる惱みなのである。即ち古代の史料と近古現代の史料は、夥しき迄に存するにも關らず、平安朝の末葉から鎌倉・室町の兩期は頗る史料が缺けて居り、更に江戶期に成ると、是れ亦史料の多きに苦しむのが、当然と成つてゐるのである。巫女史にあつても、又此の支配から脫する事が出來ず、遂に憂ひは事實と成つて現はれ、到到、瓢の如く首尾が太く中部は細い物と成つてしまつた。其れで茲には出來るだけ簡明に記述を運んで第一篇を終るとする。
第一節 神人生活と性格の變換
原始時代の巫女は、神その者であつた。從つて俗人の如く結婚する事は、神性を污す物として、自ら戒めてゐた。卑彌呼が年長ずるも夫婿の無かつた理由である。次に巫女が神の憑代として、神の代理者と成る樣に成つても、同じく神性の尊嚴を保つ必要から、神と結婚する以外に、普通の男子を良人とする事は、許され無かつた。斯うした習禮は、傳統的に、巫女は獨身たるべき者、神以外には通婚せぬ者と約束付けられる樣に成り、此れに加ふるに、永い年月間の獨身生活は、巫女の性格を男子に近付ける變換が行はれる樣に成つたのである。
伊勢の皇太神宮に奉仕した
御子良
オコラ
、及び
母等
モラ
の神人生活に就いて、明治の終り頃に神宮司廳で記錄に留めて置きたいと企て、是等の生活を送つた生殘りの人人に對して、其の狀態を調べようとしたが、「神宮內の事は申上げられぬ。」との事で、遂に其の計劃は目的を達する事が出來無かつたと傳聞してゐる。此れ程嚴祕されてゐる神人の生活、其の詳細を知る事は、思ひも寄らぬ事であるが、鎌倉期に書かれた『坂上佛大神宮參詣記』に據ると
當宮には巫女無し。
(中山曰、齋宮を御杖代とした為めである。)
子良とて幼稚の
未通女
の未だ夫婦の業も知らぬが、御膳を備ふる器用にて召仕はるるばかり也。神慮に叶ひ貫れば二・三十
(歲)
迄も月事無し、冥鑒に背きぬれば十一・二より觸る、觸れば則ち職を辭す。
と有る。此の二・三十歲に及ぶも通經が無いと云ふ事は、即ち巫女の性格の變換を指してゐるのである。而して斯かる類例は、他の神社に仕へた巫女の上にも、發見する事の出來る事態なのである。『
延喜式
』
臨時祭の條
に、「凡座摩巫,取都下國造氏童女七歲已上者充之。若及嫁時,申辨官充替。」と有るのも、此の一例である。更に、『觀惠交話』卷上に、
常陸鹿嶋の社人從五位上東長門守胤長物語に、當社には長門守の家より代代齋宮の如く女を神に仕へしむ、此れを御物忌と謂ふ。三百石を領す。一家中より二人を選び、百日の神事にて社家ども殘らず著座して、神前にて龜二つを灼く。生龜の甲に二人の女の名を書附け、火を活活と起して灼くに、其任に備るはべき女の名は少しも灼けず。其れを證據にして備ふる也。備はりて後は長門守より外の人には一生逢はず。其者の使ふ女も皆少女・老女の經水無き者也。一年三百六十日の內神事にて、平日は神殿の中に居り、社へ行くに我齋屋より輿にて祝詞の屋迄行き、社內の事社人の為ぬ事をも勤む。皆長壽にして百歲より百二十歲に至る。
(摘要。)
と記し、更に『鹿島志』の卷下には、物忌なる者は、其職に在る內は、幾歲 に成るも通經せぬと記したのは、性格的變換する事を證示してゐる
〔
一
〕
。筑前國の宗像神社にても、祭神三柱の中、湍津姬神に仕へる巫女は、其職を務むる間は月水無く、今にさうであると傳へてゐる
〔
二
〕
。
而して、斯かる記事が、如何なる點迄信じられる物であるかは別問題として、兔に角に古代に於いては、巫女に通經無しと考へられてゐた事だけは確かである。丹後國竹野郡竹野村大字竹野の竹野神社は舊社であるが、此れに奉仕する祠官は鄰接せる同國熊野郡市場村に住んでゐる。昔は祠官の家に女子が生まれると、飛箭來し屋上に立つ。さうすると、其子四・五歲の頃から竹野社に奉り、此れを齋女と云ふ。同社は高山深谷の中に在つて、齋女は獨り禽獸と交居るも、決して危害を加へられる事が無い。斯くて天癸を見る頃に成ると、何處からとも無く大蛇が出て來て、眼を瞋らして、齋女を見る。此れを機會に宮を致して生家に歸る事と成つてゐた
〔
三
〕
。かうした類例も詮索したら未だ澤山有る事と思ふが省略する。
さて、是等の記事は、性格變換と言つても、月水の未通だけで、事事しく取立てて言ふ程の物では無いが、唯此の裏面に潛む事象を考へる時、更に後世の巫女の事を思ふ時、其れは記錄にこそ殘つてゐぬが、殆ど男性化した巫女の多かつた事が偲ばれるのである。天鈿女命の勇氣に就いて『
古事記
』に、「汝者雖手弱女人,射向神與面勝神也。」と有るのは、此女神の男性化を示唆してゐる物と信じたい。
〔
註第一
〕『鹽尻』卷四五に、「伊勢の子良、鹿島の齋は月の觸り知らぬ少女也。嚴島の內侍は年老迄も仕へ侍るにや。」と、同じく巫女は通經無きを原則とする記事を載せてゐる。
〔
註第二
〕貝原益軒著の『筑前續風土記』卷一六。
〔
註第三
〕『丹後國竹野郡誌』に『神社啟蒙』を引用して記してある。
第二節 人身御供と成った巫女
為何人身御供限於女性。人身御供可藉考古學證明。巫女成為人身御供之理由與其例證。機織池傳說之由來與巫女。筬女(ヲサメ)為巫女之名。
第三節 巫女の私生活は判然せぬ
古代巫女之修行、師承關係、收錄等一切不明。當然這亦是著者寡聞所至。附屬於神社之神子與土著之市子。詳細之研究待俟後賢。
七、精神文化上之巫女職務
作為神本身之巫女
巫女源自於成(ヲナリ)神。於成是即為神。針對天照神之民俗研究不可毫無條件。琉球久高島之祝女(のろ)神與其生活。經折口信夫之記事再次吟味卑彌呼。民族國家成立與巫女之關係。古代家族相婚與同胞之位置。稱妻為吾妹子之理由。
作為私祭者之巫女
眾神之提昇與巫女之退化。巫女變得僅在神託之時為神。墓前祭與巫女之職務。稱巫祝為祝〔ハフリ〕之原義。屠屍為巫女之職。祝即是屠。內地之肢解分葬實例與愛奴族之燃剖(ウフイ)。藉夢所知之靈魂所在。瓢型墳由來自俗信將瓢視為魂之容器。發展為靈魂神之巫女。人家七世與生神之事。行於土佐之楯(タテ)喰神事。我國紋章起源與愛奴之神標。了解神成為人之民俗。存於琉球之靈魂脫體(マブイワカシ)與內地之口寄儀式。社前祭與巫女之職務。輕視巫女重用覡男之過程。
作為靈媒者之巫女
召降神祇之法。記載於日本紀中神功皇后之御事蹟。為征韓而求問神意之作法。神主之古義。神主為其後之神實。信州諏訪社之大祝。出雲大社之國造。琴鈴之音與神聲。神依板為琴之代用品。審神與後世巫女之問口。我國最古之神降咒歌。託宣以韻文之律語表現。
作為預言者之巫女
預言為巫女之重要職務。狹義而言為藉神憑預言。廣義包括見聞他人歌謠、行動以預言。崇神紀中百襲姬命之御事蹟。
作為文學母胎之巫女
紀貫之雖斷言和歌在天始於下照姬。此下照姬是為巫女。我國文學以巫女為始祖。神歌為古歌謠體,其例證多在。古敘事詩唯一人稱之由,乃因其為神之託宣。愛奴之話語與琉球之神歌亦是如此。 琉球の其れに就いて、伊波普猷氏は、其の著『
歌草子
おもろさうし
選釋』の前文に於いて、大略左の如く論じ、歌謠の巫女に依つて發生した事を言外に寓されてゐる。
歌草子
おもろさうし
は、
(中略。)
作為民俗藝術者之巫女
作為舞踊者之巫女。俳優始於鈿女命。俳優於神事上之意義。作為木偶使之巫女。見於肥前風土記之人形。密於巫女外法箱之人形。作為黥面紋身施術者之巫女。藉由神名所行之民俗
八、物質文化に於ける巫女の職務
巫女は職務として、人間を詛ふ方面と、事象を占ふ方面との兩面を有してゐた事は屢述した。此の立場に起つて巫女の職務を分類する方が、精神文化の物質文化のと分類するよりは妥當であると一度は氣が付いたのであるけれども、更に巫女の職務を仔細に考覈すると、啻に此の兩面ばかりでは無くして、他に刀自として造酒を掌り、收稅者として幣帛を取扱ひ、交通の保護者として、航海に從事する等の職務が有つて、かなり複雜してゐるので、不本意ながら此分類を企てたのである。勿論、是等の事は、巫女の本質的の職務では無くして、單に巫女が社會的に利用されたに過ぎぬのであるとも言へるのであるが、さうなると、詛ふとか、占ふとか云ふ事も、又た社會的に利用された物とも言へるので、愈愈其の分類が困難に成るのである。其處で不充分ではあるが、姑らく此分類に從つて記述する事とした。
第一節 戰爭に於ける巫女
平安朝に於ける宮廷歌人の一頭目とも見るべき藤原為家の歌に、「胡沙吹かば、曇りもぞする、陸奧の、蝦夷には見せじ、秋夜月。
(夫木和歌集)
」と云ふのが有る。從來、此短歌は蝦夷人の用ゐる樂器
(胡沙笛)
であつて、此れを吹奏すると悲調は秋夜の明月すら曇らせると云ふ意味に解釋されて來たのである
〔
一
〕
。勿論、居ながらにして名所を知る程の宮廷歌人、胡沙の事も、蝦夷の事も、全くの耳學問であつて、異鄉の風物の珍らしさに作歌した迄であるから、事實と遠差つてゐるのは無理も無い事ではあるが、其れにしても隨分と思ひ切つた間違ひを詠じて得意がつてゐた物である。然らば其の胡沙なる物の正體は何かと云ふに、金田一京助氏の研究に據ると、蝦夷と言はれたアイヌ族の間には、胡沙と名付ける樂器も無く、從つて此れを吹奏すれば、明月も曇ると云ふ樣な傳說も無い。然るに、アイヌ族の民俗として、男子が他部落の男子と戰爭する際には、各部落の女子は後陣に出立ち並び、一種の呪術として口口から吐息して敵陣に吹き掛ける。そしてアイヌ語で息の事を
プサ
HUSA
と云つてゐるが、恐らく為家は此のプサを聽き違ひ、支那に胡笳と稱する角笛の有る事を想ひ合せて、斯かる作歌を試みたのであらうと考證されてゐる
〔
二
〕
。而して更に、金田一氏は『諏訪大明神繪詞』を引用して、此のアイヌの女子が戰陣に臨む事に就いて、左の如く言はれてゐる。
(上略。)
此中に公超霧を為す術を傳へ、公遠隱形の道を得たる類し有り。
(金田一氏曰、此れ中古以來の傳說にて、所謂胡沙吹くと云ふ事の修辭的發想。)
戰場に臨む時は、丈夫は甲冑弓矢を帶して前陣に進み、婦人は後塵に隨て木を削て幣帛の如くにして、
(同氏曰、アイヌの所謂
イナウ
是也。)
天に向て誦呪の體也云云
〔
註
〕
。
註:アイヌの戰陣の法、男子は弓矢を帶して前陣に進めば、女子は後塵に隨て何か手に
手草
タクサ
を取りて、HUSA!HUSA!誦呪の體成る事、アイヌの生活を通して、見るが如くに想像し得る事である。大軍の
戰
いくさ
では無いが、蝦夷島奇觀の畫圖の中にウラカと云ふ決闘の繪が有るが、やはり女子が手草を取りて背後にHUSA!HUSA!を遣つてゐる所が畫いてある。アイヌの敘事詩の中にもさう云ふ狀景が常に出て來る。
(以上、『アイヌの研究』に據る。)
金田一氏は、此の所作をするアイヌの女子が、巫女であるか否かに就いては說明されてゐぬが、私の考へる所では、其の古い所に溯れば、必ずや巫女
(アイヌではツスと云ふ。)
が其の任に當つた事と信じたい。從つて『諏訪大明神繪詞』に現はれた頃に成れば、巫女の仕事で無くして、普通の女子の遣る事に成つてゐたのであらうが、其れにしても誦呪する時だけは、全く巫女の心持に成つて、一方には敵兵を詛ひ、一方には味方を勵ました物と見て差支無い樣である。而して戰爭に巫女が從つた事は、琉球に於いては、明確に茲を傳へてゐる。伊波普猷氏は『
歌草子
おもろさうし
選釋』二九、「
聞得大君
きこへおほぎみ
がさやはだけおれわちへが
節
ふし
」の末節に於いて、左の如く述べてゐる。
尚真王の時、八重山征伐の有つた事は、百浦添欄干之銘にも見えてゐるが、『女官御雙紙』に、此時久米島の
君南風
キミハエ
(中山曰、同地
祝女
ノロ
の名で、內地の巫女と同じ。)
が從軍して功を立てた事が書いてある。
琉球より申方に當りて御ちさ樣の島在り、島名をば八重山島と云ふ。本は帝王
(中山曰、琉球王。)
に從ひけるが、心變りつるに因りて、弘治十三庚申の年討手を御遣給ふ。其時首里の御神託言はせ給ひけるは:「久米島の君南風渡給はば、彼島の神も靡きなん。神なびきなば、人は自ずから降參すべし。」との賜ふ。君南風承りて、彼島に渡給へば、數多の人、戰の支度をして出向ふに依りて、陸へ寄るべき樣も無かりけり。其時筏を浮べ、其上に炬を多く
抓
つ
む。
(中略。)
彼島の
君真物
キムマモノ
、
(原註、島の守護神。)
君南風へ迎ひ靡き給ふに依りて、人は自ら降參す云云。
當時の人は此時戰爭に勝つたのは、君南風の祈禱が與つて力が有ると信じてゐた。
實際船艦中の大
頃
ころ
等、
守合子
もりやゑこ
等は此の女傑の
御崇
オタカ
ベ
(原註、祝詞。)
に鼓舞されたのであらう云云。
猶ほ伊波氏は、同書一二「
煽
あお
り
奴
やつ
が
節
ふし
」の條に於いて、「
尚巴志
セダカマモン
は武力を以て鳴つた名稱であるけれども、當時は
魔術
マヂック
が武力に劣ら無い物であると信ぜられてゐたから、當時の習慣に從ひ、
物知人
モノシリビト
(中山曰、巫覡の意。)
を戰魁として、惡靈を拂はせながら、進軍したのであらう。琉球俚諺に『
女や戰魁
ヰナゴヤイクササチバイ
』と云ふのが有る。
(中略。)
祭政一致時代には、何處の國でも、女子は神に依つて一種不可思議な力を附與されて、豫言する力や魔術を行ふ力を持つてゐると考へられてゐた。」云云と述べられてゐる。
斯く我國の南北兩端の民族は、戰爭に巫女の從ふ事を傳へてゐるが、さて中央なる內地に在つては、果してどうであつたか。私の記述は愈愈此れから本問に入るのである。而して我國に於ける戰爭と巫女の關係は、相當に複雜を極めてゐるので、理解を容易ならしむる為に、數項に分けて記述する事とした。
一、物部氏と巫女の關係
武士の事を「もののふ」と稱したのは、此れ等の者が物部氏に從屬してゐた為で、「もののふ」は物部の轉訛である事は明白である。『倭訓栞』に「もののふ、物部と書けり、もののべとも云ふ。
(中略。)
神武帝東征
し給ひし時、饒速日命を以て、內物部を率ゐて武威を示させ給ひしより物部氏の任と成れるを以て、後世に至つても武士を專ら物のふと云へる也。」と有るのは、極めて穩健な考證であつて、然も物部氏と武士との關係を簡明に說示した物である。
然らば、問題は更に溯つて、(一)何故に物部氏が斯く武士を統率したのであるか、其れと同時に、(二)物部とは抑抑何事を意味してゐるのであるかに就いて、解說を試みねば成らぬ。而して(一)の物部氏が武士の棟樑と仰がるるに至りし事情に關しては『
舊事本紀
』
卷五天孫本紀
の弟
宇摩志麻治命
の條に、大略左の如く記されてゐる。
弟宇摩志麻治命。
【亦云味間見命,亦云可美真手命。】
(上略。)
磐余彥尊,
【○神武帝。】
欲馭天下,興師東征。往往逆命者,蜂起未伏。中州豪雄長髓彥,本推饒速日尊兒宇摩志麻治命為君奉焉。至此乃曰:「天神之子豈有兩種乎?吾不知有他!」遂勒兵距之。天孫軍連戰不能戡也。于時宇摩志麻治命不從舅
【○長髓彥。】
謀,誅殺佷戾,率眾歸順之。時天孫詔宇摩志麻治命曰:「長髓彥為性狂迷,兵勢猛銳。至於敵戰,誰敢堪勝。而不據舅計,率軍歸順,遂欽官軍。朕嘉其忠節!」特加褒寵,授以神劍,答其大勳。
(中略。)
復宇摩志麻治命率天物部,而翦夷荒逆。亦率軍平定海內而奏也。
(中略。)
天皇定功行賞,詔宇摩志麻治命曰:「汝之勳功矣,念惟大功也。公之忠節焉,思惟至忠矣。是以先授神靈之劍,崇報不世之勵。今配股肱之職,永傳不貳之美。自今已後,生生世世子子孫孫八十聯綿,必胤此職,永為龜鏡矣!」云云。
此れに由つて、物部氏の發祥と、同氏が武士を統率するに至つた理由は、略ぼ會得された事と思ふが、更に(二)の物部と稱する語原の解釋にあつては、一代の碩學と言はれた本居宣長翁すら『古事記傳』卷十九に於いて、「
もののふ
母能能布
と云は、名義は未だ考へ得ず。」と兜を脫いだ程の難問題であつたが、平田篤胤翁が其の著『玉手繦』に於いて、「物とは神也。」と云ふ、彼として誠に珍らしい卓見を唱へ、更に鈴木重胤翁に據つて、此說が大成されるに至つたのである。鈴木翁は『延喜式祝詞講義』卷七龍田風神祭の「百能物知人」の條に於いて、概略左の如き記述を為してゐる。
百能物知人。
(中略。)
師說
【○篤胤翁。】
に「物知人とは、太兆の卜事を行ふ人と云稱なる事明か也。凡て物と云稱は萬に泛く亘る中に、神祇を指て云事常に多し、其は御門祭詞に、四方四角
より
與利
疏
び
備
荒
び
備
來
む
武
天
の
能
禍
麻我都
ひと
比登
云神
の
乃
云云。自上往
は
波
上
を
乎
護
り
利
、自下往
は
波
下
を
乎
護
り
利
と有る此同事を、祈年詞
【御門祭詞。】
に疏
ふる
夫留
物
の
能
自下往
は
者
下
を
乎
守、自上往
は
者
上
を
乎
守と、
(中略。)
云へるを對思ふ可し。○
(原註。)
御門祭詞には神と云へるを、祈年祭及び道饗祭詞には物と云る者をや。又『
神代卷
』に葦原中國之邪鬼と有る邪鬼を、
私記
には
あしきもの
安知岐毛乃
と訓み、中昔に物氣等云ふ。又物忌、物狂、物の所為、憑物の為なる等云ふ物も是にて、此は神と云に同じく泛く云る語也。今云、大物主神と申す御名の物も、
(中略。)
八十萬神を領給ふ故に大物主神と申せる也。又『
萬葉集
』中に鬼字を
母能
もの
の假字を用ゐたる所數多有り。○知とは深く遠く思慮の智有て、神の所為の幽りて
著明
シル
からぬを知辨る由にて、
(中略。)
俗に物知とは今現に見たる小事を辨たる程の人をも云へど、其は事知とこそ云ふべけれ
豈
イカデ
か物知とは云はむ。」と云れたるは然る言也。
(原註。)
但、太兆の卜事を行ふ人を云と云はれたるは當らず、神祇の情狀を古傳に徵し、古說に合せて悟り得る偉人を云ふ也。卜事は其思慮の至り及ばざるに當て、物
為
ス
る成れば卻て未也云云。
(以上、皇學館本。但し句讀點は私に加へたのである。)
我が古代に於ける「物」とは、即ち神亦は靈と云ふ事であつて、物部とは是等の神亦は靈に通ずる
モノノフ
母能能布
の
部曲
カキベ
を指し、物部氏とは此部曲の宗家、亦は
氏上
ウヂノカミ
と云ふ意味に成るのである
〔
三
〕
。而して此れを基調として古代の戰爭を考へると、古語の
戰
たたか
ひは、
敲
たた
き
合
あ
ひの轉訛であるが、更に古語で言ひ爭ふ事を「口
叩
たた
く」と云ふのが有る所から推すと、腕力を以て敲き合ひする以前に、言語を以て口戰ひをするのが、戰ひの式例と成つてゐた事が想はれる。此れは恰も、後世の戰場に於いて、先づ甲乙の兩陣から、代表的の勇者が出て、一騎打ちの勝負をしてから、合戰が開かれたのと同じ樣に、
言靈
コトダマ
の神の殊寵を蒙り、特に利口辯舌に長じた者
(即ち物知人。)
が現はれて、互ひに「言葉戰ひ」をした後に、愈愈兩方の敲き合ひに入る順序と見られるのである。而して此の「言葉戰ひ」の任務に當る者が即ち巫女であつて、然も其の言語は必ずや呪術的の要素を多分に有してゐた物に相違無い。前に引用した琉球の俚諺に「女は戰魁」と有る如く、我國に在つても、巫女の宗源とも見るべき天鈿女神は、常に陣頭に立つ事を傳へてゐるのである。
而して其れと是れとは、大に趣きを異にしてゐるが、思ひ出すままに記す事は、私の鄉國である下野國河內郡地方の村落では、明治初年迄、婚姻の夜に、新婦の附添ひとして、辯舌に馴れた婦人一名が、嫁の行列の先頭に立つて、新郎の家に赴く。新郎の方でも、同じく口達者の男二名を家前に立たせて新婦を迎へさせるが、其時に先づ聟方の男から、「大勢して一體
何處
ドコ
から
遣
ヤ
つて來た?」と問ひ掛けると、嫁の附添ひ女は直ちに、「若い者に花を遣らうと思つて來た。」と答へるのを序開きとして、茲に猛烈なる言葉戰ひの場面が展開され、聟方の男は有る限りの奇智を絞つて、無理難題の問ひを發し、此れに對して、嫁方の女も精根を盡して巧妙に言ひぬける。若し此の「言葉戰ひ」に、嫁方の女が負ける樣な事が有れば、新婦の一行は實家へ引歸さ無ければ成らぬ村掟と成つてゐるので、附添ひ女の責任の大と、舌力の強さとが思はれる。斯うした一幕が無事に濟むと、今度は婚禮の式に入るのである。
此民俗は、種種なる示唆に富んでゐるが、其れを言ふと本書の埓外に出るので省略するも、兔に角に此の附添ひ女の役目こそ、在りし古代戰爭に於ける巫女の任務を偲ばせる物が有ると信じたので、敢て附記した次第である。
二、戰爭の前途を占ふ巫女
兵は凶器である。此れを用ふるに、日時を選み、方角を選み、敵を知ると共に、味方を知る事は、古代から行はれた戰法であつたに相違無い。殊に、神を信ずる事が篤く、靈を崇める事の深かつた時代に在つては、戰爭の前途を占うて、此れが萬全の策を講ずる事は、將帥たる者の特に注意せねば成らぬ點であつた。前に引用した神武帝が、日神の子孫でありながら、
日に向つて戰ひをするのは
良
フサ
はずとされた事
や、更に
椎根津彥
と
弟猾
とに命じて
天香山の土を採らせて戰勝を占ふ
等、斯うした呪術的の信仰は、必ず戰爭の度每に行はれた事と想はれる。殊に神功皇后の
征韓戰
は、國家の運命を賭する程の大事業であつただけに、此種の神事を幾回と無く繰り返して、一方、神靈の加護の愈愈厚からん事を祈り、他方、從軍の士氣を旺盛に導かれたのである。『
神功紀
』に載せた
左の二條
の如きは、其の徵證として最も妥當の物と考へる。
夏四月壬寅朔甲辰,北到火前國松浦縣,而進食於玉島里小河之側。於是,皇后勾針為鉤,取粒為餌,抽取裳縷為緡,登河中石上,而投鉤祈之曰:「朕西欲求財國。若有成事者,河魚飲鉤!」因以舉竿,乃獲細鱗魚。云云。
皇后還詣橿日浦,解髮臨海曰:「吾被神祇之教,賴皇祖之靈,浮涉滄海,躬欲西征。是以今頭滌海水。若有驗者,髮自分為兩!」即入海洗之,髮自分也。皇后便結分髮而為髻。云云。
前者は即ち
祈狩
ウケヒガリ
の一種であつて、後者は即ち毛髮に依つて、神占を試みた物である。而して共に、戰爭の前途を神判した信仰を傳へてゐるのである。此の場合に於ける神后の所作は、前にも述べた樣に、全く最高位の巫女としての務めであつた。されば陣中には、此種の神事に從ふべき巫女を置いて、事每に或は神祇を祭らせ、或は神意を占はせて常に戰ひを有利に展開させる事に注意を拂つた物と考へられるのである。後世の事ではあるが、
源義家
が
天喜中
に、岩代國耶麻郡慶德村
大字
新宮に熊野神社を勸請し、社前に於いて相撲を試み、戰爭の勝敗を占つたとか
〔
四
〕
、紀州田邊野の闘雞神社の別當湛海が、源平兩氏より味方に加はれと勸誘され、赤雞を平氏と做し、白雞を源氏として、社前に闘はせ、神意を占うて源氏に味方したとか
〔
五
〕
、又は『太平記』卷三十三八幡御託宣事條に、
此勢を散さで、今一合戰可有かと、諸大將の異見區區なりけるを、直冬朝臣許否凡慮の及ぶ處に非ず、八幡の御寶前にして、御神樂を奏し、託宣の言に付て、軍の吉凶を知るべしとて、樣樣の奉幣を奉り、涉蘩を勤め、則神の告をぞ待れける。社人の打つ鼓の聲、
きね
が袖振る鈴の音、深け行く月に神さびて、聞人信心を傾けたり。託宣の神子啟白の句言は、巧みに玉を連ねて、樣樣の事共を申けるが、「
垂乳根
タラチネ
の、親を守りの、神為れば、此の手向をば、受る物かは。」と一首の神歌を、繰り返し繰り返し二三反詠じて、其後御神は上がらせ給ひけり云云。
と有るのや、織田信長が
桶狹間の戰ひの時
、熱田神宮に詣でて、御手洗川に錢を投じて、合戰我に勝利ならば錢面を現はせと占うた事等も
〔
六
〕
、咸は此信仰に基く物であつて、古くは陣中に於ける巫女が專ら此の任に當つた物である。猶ほ戰爭と神託及び戰爭と神官並びに巫女との關係等に就いては、第三篇に記述して、以て此項の足らぬ所を補ふ考へである。
三、敵兵を呪詛する巫女
『魏志』倭人傳の一節に、
倭女王卑彌呼,與狗奴國男王卑彌弓呼素不和,遣倭載斯、烏越等,詣郡
【○帶方郡。】
說相攻擊狀云云。
と有る。之に由ると、 倭國の女王は狗奴國の男王と戰ひを交へてゐた樣であるが、さて此女王の率ゐた軍隊は男軍であつたらうか、其れとも女軍であたらうか。勿論、女王の麾下に屬すからとて、其の悉くを女軍と見るべき理由は少しも無いが、當時、我國に女軍の在つた事を參考すると、必ずしも男軍ばかりだとも想はれぬのである。『
神武紀
』に、
天皇陟彼菟田高倉山之巔,瞻望域中。時國見丘上則有八十梟帥。又於女坂置女軍,男坂置男軍。
と有る樣に、女子を以て編成した女軍の在つた事が明確に記されてゐる
〔
七
〕
。更に『
肥前國風土記
』
杵島郡孃子山條
に、
同天皇,
【○景行帝。】
行幸之時,土蜘蛛八十女,又有此山頂,常捍皇命不肯降服。於茲,遣兵掩滅,因曰
孃子山
ハハコヤマ
。
と有るのや、『
萬葉集
』卷十九に、
物部の、八十少女等が、酌み紛ふ、寺井上の、堅香子花。
(4143)
と有るのから推すと、愈愈女軍の在つた事が裏附けられるのである。
然らば、是等の女軍は、男軍と對立して、打物取つて敲き合ひを為し、弓矢を取つて射合せ
(我國の
戰
イクサ
の語原は茲である。)
たかと云ふに、此れは必ずしもさう考ふべき物では無くして、女軍の本來の目的は、他に在つた物と見るべきである。即ち戰勝を神に祈り、神意を問うて軍の行動に便じ、更に敵兵を詛ふ呪術を行ふ事が任務であつたのである。前に引用した『
崇神紀
』の吾田媛が、天香山の土を取つて
祈
ウケ
ひしたのは、此れを呪術に用ゐて以て皇師を調伏せんが為であつた。又此れも前に引用した『
播磨風土記
』逸文に、神功皇后が征韓に際し、赤土を以て天の逆桙、兵船の舳艫及び兵卒の著衣迄塗つたのも、更に『
仲哀記
』に、神后が住吉三神の教へにより、三神の御魂を乘船に齋き、「真木灰納瓠,亦箸及平手
(中山曰、神供を盛る物。)
多作,皆皆散浮大海。」渡海したのも、神意を借りて敵兵を調伏する呪術に外成らぬのである。而して是等の呪術は、軍中に在りし巫女が其の任に服したのである。記錄にこそ傳はつてゐぬが、我國の古代には、アイヌの女子が後陣に在つて、プサを吐きし如く、又は琉球の
祝女
ノロ
が陣中に於いて敵兵を詛うた如き事實が、恐らく戰ひの度每に行はれた物と考へても、決して大なる誤りでは無さうである。
後世の事ではあるが、『
三代實錄
』
卷一三貞觀八年十一月十七日條
に、
敕曰:「迺者恠異頻見,求之蓍龜,新羅賊兵,常窺間隙,灾變之發,唯緣斯事。夫攘灾未兆,遏賊將來。唯是神明之冥助,豈云人力之所為。宜令能登、因幡、伯耆、出雲、石見、隱岐、長門、大宰等國府,班幣於邑境諸神,以祈鎮護之殊效。云云。」
と有るのは、巫女の敵兵調伏の咒術が關西九州の十餘國に亘る大褂りに成つた物であつて、更に
弘安年中
の蒙古襲來の國難には『異賊襲來祈禱注錄』と題する文獻迄纂輯する程の、全國的大規模に此呪術が行はれ
〔
八
〕
、遂に此事が弓矢執る武將の間の信仰と成り、合戰每に崇敬する神社の巫祝をして之を行はせる樣に成つたのである。武田信玄が川中島の戰ひに際し、信州戶隱神社の巫女をして、此祈禱をさせた事は今に著聞せる事實である。
四、士氣を鼓舞する巫女
廣義に言へば、戰爭の前途を占うて勝利に導く事も、神靈に恩賴して敵兵を呪詛する事も、共に軍隊の士氣を鼓舞旺盛ならしめる手段ではあるが、更に是等よりは一層直接に士氣を感奮させる方法が、巫女に依つて行はれたのである。即ち日本武尊が東征に際し、姑の
倭姬命から神劍と火鑽とを與へられた
のも、
倭姬
が最高の巫女であつただけに、全軍の士氣は此れが為に振興したに違ひ無く、
神功皇后が
祈
ウケヒ
釣りを為し、毛髮にて神意を問うた事等
も士氣を緊張させるに、偉大なる力が有つたと考へられるのである。殊に神功皇后が出征に當り、群臣に賜へる
敕語
は、儼として神語を聽くが如き思ひが有る。曰く、
夫興師動眾,國之大事。安危成敗,必在於斯。今有所征伐,以事付群臣。若事不成者,罪在於群臣,是甚傷焉。吾婦女之,加以不肖,然蹔假男貌,強起雄略。上蒙神祇之靈,下藉群臣之助,振兵甲而度嶮浪,整艫船以求財土。若事就者,群臣共有功;事不就者,吾獨有罪。既有此意,其共議之。云云。
千載の後にあつても、此敕語を拜して、誰か奮起せざる者か在る。當時、士氣の揚がれる察すべきである。
更に、少しく後世の出來事ではあるが、戰爭中に神靈が巫祝に憑つて士氣を勵した例證も存してゐる。『
天武紀
』
壬申亂の條
に、
先是軍金綱井之時,高市郡大領高市縣主
許梅
コメ
,
儵忽
ニワカニ
口閉,而不能言也。三日之後,方
著神
カミカカリ
以言:「吾者,高市社所居,名事代主神。又身狹社所居,名生靈神者也。」乃顯之曰:「於神日本磐余彥天皇之陵,奉馬及種種兵器。」便亦言:「吾者,立皇御孫之前後,以送奉于不破而還焉。今且立官軍中,而守護之。」且言:「自西道,軍眾將至之。宜慎也。」言訖則醒矣。故是,以便遣許梅,而祭拜御陵,因以奉馬及兵器。又捧幣,而禮祭高市、身狹之神。然後壹伎史韓國,自大阪來。故時人曰:「二社神所教之辭,適是也。」又村屋神著祝曰:「今自吾社中道,軍眾將至。故宜塞社中道。」故未經幾日,廬井造鯨軍,自中道至。時人曰:「即神所教之辭是也。」
此二つの事件は明白に神教に據つて全軍の動作を敏ならしめ、且つ其士氣を振興させたに違ひ無いのである。而して更に後世の事ではあるが、弘安の蒙古襲來の國難に關する『高野山文書』の一節に、
閏七月
【○弘安四年。】
晦日夜,攝州廣田社巫女詣當社,
【○丹生社。】
而託宣曰:「於今度者住吉
も
毛
八幡
も
毛
屬我力,至討伐。若託巫覡示此事者,世以可成疑,故以汝令告示云云。」又非真言教力,難施降伏靈驗之由,蒙八幡之御告,於當山有一萬座不動供勸進之侶。以之思之,丹生明神之神變勝于諸神,非唯寄一社巫女之口。金剛乘教之教力,超于餘教,誰敢疑八幡正直之告。云云。
と有るのは
〔
九
〕
、高野山の僧侶に依つて書かれただけに、其の鎮守なる丹生神社の靈驗と、真言宗の功德とが誇張されてゐるが、其れでも此國難に際して、巫女の託宣が武士の勇氣を增進させた事だけは、容易に看取されるのである。
五、御陣女﨟としての巫女
我國では、古く總帥、亦は大將は、婦人を陣中に同伴する事が習ひと成つてゐた
〔
十
〕
。畏き事であるが、
日本武尊が東征
に妾橘媛を伴ひ、
仲哀帝が西征
に
神后
を從へさせられたのは、其例證であつて、臣下としては、『
仁德紀
』にある上毛野公竹葉瀨の弟
田道
が、
妻
と共に
蝦夷を征討せん
として戰死した事や、『
欽明紀
』に河邊臣瓊岳が隨婦と、同じく調士
伊企儺
イキナ
が其妻大葉子と、
共に新羅軍に捕虜と成つた
事を載せ、又此外にも此れが類例は相當に多く存してゐる。
其れでは斯く陣中に婦人を伴うた最初の目的は、何であつたかと云へば、其れは他事でも無く、專ら神靈の加護を仰ぐべき巫女としての勤めに從ふ為であつた。反言すれば、古く我國で戰爭に女性を隨行させたのは、其始めは巫女に限られてゐたのであるが、一般の女性──殊に妻女が神に仕へる樣に成つてからは、巫女の代理者として妻女を伴ふに至つたのである。併しながら、總帥とか、棟樑とか謂はれる身分ある者の妻女は、育兒其他の家庭上の關係から、必ずしも良人と軍旅を共にする事も出來ぬ事情も有つたのと、更に一方に於いては、神に仕へるだけの巫女の職務も、時勢の下るに連れて擴大されて來て、遂に御陣女﨟として從軍する樣に變化したのである。
山城國伏見市に鎮座する御香宮
(祭神は神功皇后。)
に附屬してゐた桂女
(古くは桂姬と稱した。)
に關する傳說は、此御陣女﨟の事實を克明に保存してゐるのである。桂女の名の由來に就いては、彼女の一團が京都桂川の邊りなる桂里
(現今の紀伊郡上鳥羽村の一部落。)
に住んでゐたので、地名を負うて斯く稱したと云ふ說と、茲に反して、彼女達は好んで桂
(蔓。)
卷を稱する獨特の髮飾りをしたので、斯く名を得た物との兩說有るが、私としては後說に從ふのが穩當だと信じてゐる。而して彼女達の所傳に據ると、桂女の祖先は岩田姬と稱し
〔
十一
〕
、神功皇后が懷胎の御身を以て征韓の為に渡海せられた折に從軍し、日夜共左右に侍して御懷抱申上げ、皇后凱旋の後に、今の桂里に土著したが、其證として皇后が陣中に召された綿帽子を頂いて家に傳へてゐる。斯かる緣故が有るので、神后を祭つた御香宮に奉仕し、更に男山に石清水八幡宮が祭られる樣に成つてからは、御香宮と御母子の關係が有ると云ふので、石清水にも出仕する樣に成り、同社の大祭である安居頭には、桂女の血筋を承けた女子が、孫夜叉と稱して桂飴を獻上する例と成つてゐた
〔
十二
〕
。而して桂女は巫女と同じく女系相續を原則とし、此れを明治初年迄嚴重に守つて來たのである。
斯く桂女が神后の征旅に從つたと云ふ事は、取りも直さず、其れが御陣女﨟であつた事を物語る物で、初めは巫女として、中頃は巫娼
(巫女にして娼妓を兼ねた者、其詳細は第三章に記述する。)
として、後には神宮助產の事のみ言ひ立てて、產婆とも、子下ろしとも、更に婚禮の介添人とも就かぬ、一種變態な呪術を主とした職業婦人と成つてしまつたのであるが、其れでも御陣女﨟としての昔を忘れず、代代の武將の許に出入し、且つ戰爭の有る每に、陣中に推參して、雜役に服した者である。豐前小倉の舊藩主小笠原家は、武家作法の家元であつただけに、藩中に桂と稱する一家を抱へて、代代女子を以て相續させたと云ふ
〔
十三
〕
。此れは御陣女﨟としての桂女の效用が忘卻されて、全く小笠原流の作法に依る必要の扶持人であつたらうが、更に大隅國囎唹郡上之段村の桂姬城の由來にあつては、必ずしも作法の為とのみ限られぬ樣である。即ち桂女が神后に從ひ、功績が有つて、名を
勝浦
カツラ
姬と賜つた。此れより武家では、勝浦姬を愛慕し、島津家では勝浦姬一人を召され、敷根村へ宅地を給し扶持された事が有る。桂姬城は此舊跡であらうと傳へられてゐる
〔
十四
〕
。茲に據ると、桂が勝浦と國音の相通ずる所から、勝を悅ぶ武家が愛する樣に成つたと解釋されてゐるが、如何に勝つ事を好み、扶持米に豐かであつた島津家にしろ、單に此れだけの所緣で、桂女を召抱へて置くべき理由が無いので、古くは御陣女﨟として軍中に伴うた桂女の子孫が、時勢の變るに連れて、往昔の任務が忘られ、斯かる傳說と成つて殘つた物と見るのが穩當である。
後世の事ではあるが、
木曾義仲
が陣中に伴うた山吹・巴の兩女の如き、德川家康が戰塵の間に從へたお萬の方
(德川義直の生母で、男山八幡宮の祠官竹腰某の女。)
の如き、共に古い御陣女﨟の面影を殘した者であつて、遊女が陣營に出入し、然も敵の首の齒を染め、髮を洗ふ役目を勤めたのも、又之と同じ信仰と理由から來てゐるのである。
〔
註第一
〕此和歌は、『夫木集』に載せて有るが、『和歌藻汐草』には、「角笛の樣な物を吹けば、霧に似た物が出る。」と解釋し、『松屋筆記』や『笈埃隨筆』等にも、此意味の事が記して有る。
〔
註第二
〕金田一京助氏著の『アイヌの研究』及び、同氏より聽き得た談話を綜合して載せたのである。
〔
註第三
〕物部氏が靈に通ずる部曲の棟樑であつて、然も古代の戰爭が、腕力の闘ひでは無くして、呪術の戰ひである事に就いては、學友內藤吉之助氏が『宗教研究』誌上に揭載された事が有る。敢て篤學の士の參照を望む次第である。
〔
註第四
〕『新編會津風土記』卷六七。
〔
註第五
〕『源平盛衰記』に在る有名な話である。
〔
註第六
〕此れも『信長記』に載せて有る有名な話である。
〔
註第七
〕此條の『
日本書紀
』の書き方は、頗る曖昧であつて、一寸見ると、女軍は皇師に屬せずして、敵軍に在つた樣に考へられるのであるが、同じ『
神武紀
』の
一節
に、「椎根津彥計之曰:『今者宜先遣我女軍,云云。』天皇善其策,乃出女軍以臨之。」と有るから推すと、女軍が天皇に隸屬してゐた事が明白に知られるのである。
〔
註第八
〕弘安の蒙古襲來は、全く國難であつて、上は畏くも天皇を始めとして、下は國內の社寺共に、神佛を祈念した物で、塙保己一の編纂した『螢蠅抄』五卷は、殆ど全卷此種の記事である。佛教の渡來と、陰陽道の普及と、修驗道の發達とは、漸く巫女に代つて、此種の事を勤める樣に成つたのであるが、其れでも猶ほ幾分でも、古い名殘を留めてゐるのである。
〔
註第九
〕前記の『螢蠅抄』
(史籍集覽本。)
卷五に據つた。
〔
註第十
〕現存の『養老令』の「軍防令」に據ると、婦女を陣中に伴ふ事は嚴禁されてゐるが、併し實際に於いて、其れがどれだけ實行されてゐたかは疑はしい。且つ『養老令』等の規定されぬ以前にあつては、大將連は公然と婦人を伴うてゐた。
〔
註十一
〕姙婦の腹帶を岩田帶と稱するのは、此れに始まると云ふ俗說が有るも、元より信用する事の出來ぬ附會である。
〔
註十二
〕柳田國男先生が雜誌『女性』第七卷第五號に載せた「桂女由來記」に據る。
〔
註十三
〕同上。
〔
註十四
〕島津家で編纂發行した『三國名勝圖繪』卷三五。
第二節 狩獵に於ける巫女
我國亦曾有狩獵時代。民間信仰山神之實體。存於三河之鯱汝(シャチナンヂ)既是女神亦是獵人之守護神。琉球之海神(ウンジヤミ )祭與巫女。待鹿君是為齋妻。扮演動物之起源。
第三節 農業に於ける巫女
殺害穀神之古代人信仰。豐宇賀能賣命為巫女乎。將人身御供獻予殿神。身為於成(ヲナリ)之奇稻田姬。原始農業與女子之位置。農業神事與婚嫁(トツギ)祭。成為穀神犧牲品之於成。古代人對穀神之態度。於成與殺嫁川之關係。行於田植之懸泥之意義。
第四節 醫術者としての巫女
我國藥之語源與巫女。借助咒術之醫療與使用藥劑之醫療。刺傷身體之醫療咒術。封結物件之醫療咒術。驚壓病魔之醫療咒術。藉神靈之力驅除病魔之咒術。
第五節 收稅者としての巫女
男弓端之調與女手末之調。幣起源於納稅。幣帛亦同。巫女藉與神之禮代之名收稅。荷前制度與收稅之關係。
第六節 航海の守護者としての巫女
持蓑與婦人之關係。燒火明神之由來與巫女。御船神事與巫女。船靈信仰與巫女。於水市神社前賣卜之巫女。
[久遠の絆]
[再臨ノ詔]