日本書紀 卷十五 清寧紀/顯宗紀/仁賢紀

【清寧天皇】【顯宗天皇】【仁賢天皇】


白髮武廣國押稚日本根子天皇(しらかのたけひろくにおしわかやまとねこのすめらみこと) 清寧天皇(せいねいてんわう)

一、星川皇子謀反

 白髮武廣國押稚日本根子天皇(しらかのたけひろくにおしわかやまとねこのすめらみこと)大泊瀨幼武(おほはつせわかたける)天皇第三子也。母曰葛城韓媛(かづらきのからひめ)
 天皇生而白髮(しらか),長而愛民。大泊瀨天皇於諸子中,特所靈異(くしびにあやしび)
 二十二年,立為皇太子(ひつぎのみこ)
 二十三年,八月大泊瀨(雄略)天皇(かむあがり)
 吉備稚媛(きびのわかひめ)陰謂幼子星川皇子(ほしかはのみこ)曰:「欲登天下之位,先取大藏之官(おほくらのつかさ)。」長子磐城皇子(いはきのみこ)聞母夫人教其幼子之語,曰:「皇太子雖是我弟,(いづく)可欺乎?不可為也!」星川皇子不聽,輙隨母夫人(ははのおほとじ)之意,遂取大藏官,鏁閉(さしとぢ)外門,式備于(わざはひ)權勢自由(いきほひほしきまま),費用官物(おほやけのもの)
 於是大伴室屋大連(おほとものむろやのおほむらじ)言於東漢掬直(やまとのあやのつかのあたひ)曰:「大泊瀨(雄略)天皇之遺詔(のこしたまへるみことのり),今將至矣。宜從遺詔,奉皇太子。」乃發軍士(いくさ)圍繞(かくみ)大藏。自外拒閉,縱火燔殺(やきころす)。是時,吉備稚媛、磐城皇子異父兄兄君(えきみ)城丘前來目(きのをかさきのくめ)【闕名。蓋『雄略紀』所云紀岡前來目連(きのをかさきのくめのむらじ)乎。隨星川王子而被燔殺焉。
 惟河內三野縣主小根(かふちのみののあがたぬしをね),慄然振怖,避火逃出,抱草香部吉士漢彥(くさかべのきしあやひこ)腳,因使祈生於大伴室屋大連曰:「奴縣主小根事星川皇子者,(まこと)。而無有背於皇太子。乞降洪恩(おほきなるめぐみ),救賜他命。」漢彥乃具為啟於大伴大連,不入刑類(ころすつみのつら)。小根仍使漢彥啟於大連曰:「大伴大連,我君,降大慈愍(めぐみ)促短之命(せまれるいのち),既續延長,獲觀日色(ひのひかり)。」輙以難波來目邑大井戶(なにはのくめのむらのおほゐのへ)田十町,送於大連。又以田地(たどころ)與于漢彥,以報其恩。
 是月吉備上道臣(きびのかみつみちのおみ)等,聞朝作亂,思救其腹所生星川皇子,率師船四十艘,來浮於海。既而聞被燔殺,自海而歸。天皇即遣使,嘖讓(せめ)於上道臣等,而奪其所領山部(やまべ)
 冬十月己巳朔壬申(),大伴室屋大連率(おみ)(むらじ)等,奉(みしるし)於皇太子。


前賢故實 大伴大連室屋


峯ヶ塚古墳 傳星川皇子墓
星川皇子覬覦社稷,取大藏官,遂為大伴室屋所領官軍燔殺。


御廚子神社
傳清寧帝磐余甕栗宮跡
二、天皇即位

 元年,春正月戊戌朔壬子(十五),命有司(つかさ),設壇場(たかみくら)磐余甕栗(いはれのみかくり)陟天皇位(あまつひつぎしろしめす)。遂定宮焉。
 尊葛城韓媛為皇太夫人(おほきさき)。以大伴室屋大連為大連(おほむらじ)平群真鳥大臣(へぐりのまとりのおほおみ)大臣(おほおみ),並如故。臣、連、伴造(とものみやつこ)等,各依職位(つかさくらゐ)焉。
 冬十月癸巳朔辛丑(),葬大泊瀨(雄略)天皇于丹比高鷲原陵(たぢひのたかわしはらのみささぎ)
 于時,隼人(はやと)晝夜哀號(おらび)陵側,與食不喫(くらはず),七日而死。有司造墓陵北,以(ゐや)葬之。是年也,太歲庚申

三、尋獲億計、弘計二皇子

 二年,春二月,天皇恨無子。乃遣大伴室屋大連於諸國,置白髮部舍人(しらかべのとねり)白髮部膳夫(しらかべのかしはで)白髮部靫負(しらかべのゆけひ)。冀垂遺跡(のこりのあと),令觀於(のちのよ)
 冬十一月,依大嘗(おほにへ)供奉之料,遣於播磨國(はりまのくに)司,山部連(やまべのむらじ)先祖伊與來目部小楯(いよのくめべのをだて),於赤石郡縮見屯倉首(あかしのこほりのしじみのみやけのおびと) 忍海部造細目(おしぬみべのみやつこほそめ)新室,見市邊押磐皇子(いちのへのおしはのみこ)億計(おけ)弘計(をけ)畏敬兼抱(ゐやまひあはせうだき),思奉為君,奉養甚謹,以私供給。便起柴宮(しばのみや),權奉安置,乘驛(はゆま)馳奏。
 天皇愕然驚歎,良以愴懷(いたみおもほし)曰:「懿哉(うるはしきかも)悅哉(よろこばしきかも)!天垂溥愛(おほきなるめぐみ),賜以兩兒!」
 是月,使小楯持(しるし)將左右舍人,至赤石奉迎。語在
弘計天皇紀
 三年,春正月丙辰朔(),小楯等奉億計、弘計,到攝津國(つのくに)。使臣、連,持節以王青蓋車(きみのあをきぬがさのみくるま)迎入宮中。
 夏四月己酉朔辛卯(),以億計王為皇太子,以弘計王為皇子。

細目室跡 木幡若宮神社
清寧帝無嗣,恐絕天津日繼。幸得小楯於縮見屯倉首細目新室,尋獲億計、弘計,故子養之。


忍海角刺宮跡 鏡池
飯豐皇女於角刺宮與夫初交,遂終不願交於男。其後臨朝秉政,自稱忍海飯豐青尊。


清寧天皇 河內坂門原陵
天皇御年,『神皇正統記』作卅九歲崩,『皇代記』作卌二歲崩。
四、巡省風俗與海表使者

 秋七月飯豐皇女(いひどよのひめみこ)角刺宮(つのさしのみや),與夫初(まぐはひ)。謂人曰:「一知女道(をみなのみち),又安可異。終不願交於男。【此曰有夫,未詳也(つばひらかならず)。】
 九月壬子朔癸丑(),遣臣、連,巡省風俗(くにぶり)
 冬十月壬午朔乙酉(),詔:「犬、馬、器翫(もてあそびもの),不得獻上。」
 十一月辛亥朔戊辰(十八),宴臣、連於大庭(おほには),賜綿(わた)(きぬ)。皆任其自取,盡力而出。
 是月海表諸蕃(わたのほかのくにぐに),並遣使進調(みつきたてまつる)
 四年,春正月庚戌朔丙辰()(とよのあかり)海表諸蕃使者於朝堂(みかど),賜物各有差。
 (うるふ)五月大酺(おほきにさけたまふ)五日。
 秋八月丁未朔癸丑(),天皇親錄囚徒(とらへびと)
 是日蝦夷(えみし)、隼人並內附(まゐしたがふ)
 九月丙子朔(),天皇御射殿(ゆみばどの),詔百寮(もものつかさ)及海表使者射。賜物各有差。
 五年,春正月甲戌朔己丑(十六),天皇崩于宮。時年若干(そくばく)
 冬十一月庚午朔戊寅(),葬于河內坂門原陵(かふちのさかとのはらのみささぎ)


弘計天皇(をけのすめらみこと) 顯宗天皇(けんぞうてんわう)

一、弘計、億計皇子流離

 弘計天皇(をけのすめらみこと)【更名,來目稚子(くめのわくご)。】大兄去來穗別(おほえのいざほわけ)天皇孫也,市邊押磐皇子子也。母曰荑媛(はえひめ)【荑,此云はえ(波曳)譜第(かばねついでのふみ)曰:「市邊押磐皇子娶蟻臣(ありのおみ)女荑媛,遂生三男二女。其一曰居夏姬(ゐなつひめ)。其二曰億計王(おけのみこ),更名嶋稚子(しまのわくご),更名大石尊(おほしのみこと)。其三曰弘計王(をけのみこ),更名來目稚子。其四曰飯豐女王(いひどよのひめみこ),亦名忍海部女王(おしぬみべのひめみこ)。其五曰橘王(たちばなのみこ)。」一本(あるふみ),以飯豐女王列敘(つぎ)於億計王之上。蟻臣者,葦田宿禰(あしたのすくね)子也。】
 天皇久居邊裔(ほとり),悉知百姓憂苦,恒見枉屈(まげくじく),若納四體溝隍(みぞ)。布德施惠,政令流行(まつりごとしきおこなはれ)(めぐみ)貧養孀,天下親附(むつびしたがふ)
 穴穗(安康)天皇三年,十月,天皇父市邊押磐皇子及帳內(とねり)佐伯部仲子(さへきべのなかちこ),於蚊屋野(かやの)大泊瀨(雄略)天皇見殺。因埋同穴。於是,天皇與億計王,聞父見射,恐懼皆逃亡自匿。帳內日下部連使主(くさかべのむらじおみ)【使主,日下部連之名也。使主,此云おみ(於瀰)。】與其子吾田彥(あたひこ)【吾田彥,使主之子也。】竊奉天皇與億計王,避難於丹波國餘社郡(たにはのくにのよざのこほり)。使主遂改名字(),曰田疾來(たとく)。尚恐見誅,從茲遁入播磨國縮見山石室(しじみのやまのいはや),而自經死(わなきしぬ)
 天皇尚不識使主所之。勸兄億計王,向播磨國赤石郡,俱改字曰丹波小子(たにはのわらは),就仕於縮見屯倉首。【縮見屯倉首,忍海部造細目也。】吾田彥至此不離,固執臣禮(やつこのゐや)


縮見山石室 志染石室

市邊押磐皇子胤蔭圖


億計、弘計二皇子歌舞述志

弘計王顯宗歌:「稻蓆寢筵兮 川邊沿岸楊柳生 彼楊雖順水 靡薄起揚蕩飄泊 然其根兮未嘗失


石上市邊宮跡


赤石郡 明石市明石城
二、二皇子闡明身世

 白髮(清寧)天皇二年 ,冬十一月,播磨國(みこともち)山部連先祖伊與來目部小楯,於赤石郡親辦新嘗供物(にひなへのそなへもの)【一云,巡行郡縣(こほりあがた),收斂田租(たちから)也。】適會縮見屯倉首縱賞新室(にひむろあそび),以夜繼晝。
 爾乃天皇(顯宗)謂兄億計王(仁賢)曰:「避亂於斯,年踰數紀(あまた)。顯名著貴,方屬今宵。」億計王惻然(いたみ)歎曰:「其自噵揚(ことあげ)見害,孰與全身免(たしなみ)也歟?」天皇曰:「吾是去來穗別(履中)天皇之孫。而困事(たしなみつかへ)於人,飼牧牛馬,豈若顯名被害也歟?」遂與億計王相抱涕泣(あひうだきなき),不能自禁。億計王曰:「然則非弟,誰能激揚大節(ことわり),可以顯著(あらはす)!」天皇固辭曰:「僕不才(みつなし)。豈敢宣揚德業(おほきなるむね)。」億計王曰:「弟英才賢德(かしこくにさかしき)(ここ)無以過。」如是相讓再三(ふたたびみたび),而果使天皇自許稱述,俱就室外,居于下風(くらしり)。屯倉首命居竈傍(かまわき),左右秉燭。
 夜深酒酣(さけたけなは),次第儛訖。屯倉首謂小楯曰:「僕見此秉燭者(ひともしひと),貴人而賤己,先人而後己。恭敬(つつしみゐやまふ)撙節,退讓以明禮。(おもぶく),猶(おもぶく)也,相從(あひしたがふ)也,(とどまる)也。】可謂君子(うまひとのこ)。」於是小楯撫(こと),命秉燭者曰:「起儛!」於是,兄弟相讓(あひゆずり),久而不起。小楯嘖之曰:「何為太遲?速起儛之!」億計王起儛既了。天皇次起,自整衣帶(みそみおび),為室壽(むろほき)曰:

 壽畢,乃赴(ことのふし)歌曰:

 小楯謂之曰:「可怜(おもしろし)。願復聞之!」天皇遂作殊儛(たつづのまひ)【殊儛,古謂之立出儛(たつづのまひ)。立出,此云たつづ(陀豆豆)儛狀(まふかたち)者,乍起(あるいはたち)()而儛之。】(たけび)之曰:

 小楯由是深奇異(あやしび)焉,更使唱之。天皇誥之曰:

 小楯,大驚離(しきゐ)悵然(いたみ)再拜,承事供給(つかへまつりをさめたてまつり),率屬欽伏(つつしみつかへまつる)。於是,悉發郡民(こほりのたみ)造宮。不日(ひもへず)權奉安置。乃詣京都(みやこ),求迎二王。白髮(清寧)天皇聞,憙咨歎(よろこびなげき)曰:「朕無子也。可以為(ひつぎ)。」與大臣、大連,定策禁中(みやのうち)。仍使播磨國司來目部小楯,持節()左右舍人,至赤石奉迎。

三、互禪皇位

  白髮(清寧)天皇三年,春正月天皇(顯宗)億計王(仁賢)到攝津國,使臣、連,持節以王青蓋車,迎入宮中。
 夏四月,立億計王(仁賢)為皇太子,立天皇(顯宗)為皇子。
 五年,春正月白髮(清寧)天皇崩。
 是月,皇太子億計王與天皇讓位,久而不處。由是天皇姊飯豐青皇女(いひどよのあをのひめみこ)忍海角刺宮(おしぬみのつのさしのみや)臨朝秉政(みかどまつりごとし),自稱忍海飯豐青尊(おしぬみのひどよのあをのみこと)當世詞人(ときのうたよみひと)歌曰:

 冬十一月,飯豐青尊崩。葬葛城埴口丘陵(かづらきのはにくちのをかのみさざき)
 十二月百官(ももつかさ)大會。皇太子億計,取天皇之璽,置之天皇之(みまし),再拜從諸君之位曰:「此天皇之位,有功者(いさをしひと)可以處之。著貴蒙迎,皆弟之謀也。」以天下讓天皇。天皇顧讓:「以弟,莫敢即位。又奉白髮(清寧)天皇先欲傳兄,立皇太子。」前後固辭(かたくいなび)曰:「日月出矣,而爝火(ともしび)不息,其於光也,不亦難乎?時雨降矣,而猶浸灌(そそく),不亦勞乎?所貴為人弟者,奉兄,謀逃脫離,照德(いきほひ)解紛,而無處也。即有處者,非弟恭之義。弘計,不忍處也。兄友弟(ゐやまふ)不易之典(つねののり)。聞諸古老(ふるおきな),安自獨輕?」
 皇太子億計曰:「白髮(清寧)天皇以吾兄之故,舉天下之事,而先屬我。我其羞之。惟大王首建利遁(たくみのがる),聞之者歎息。彰顯(あらはす)帝孫,見之者殞涕。憫憫搢紳(うれへたるうまひとのこ)(よろこび)荷戴天之慶,哀哀黔首(かなしびたるおほみたから),悅逢履地之恩。是以,克固四維(よも),永隆萬葉(よろづよ),功鄰造物,清猷(きよきみち)映世哉。(とほきかも)(はるけき)矣。(ここ)無得而稱。雖是曰兄,豈先處乎?非功而據,咎悔(とがくい)必至。吾聞:『天皇不可以久(むなし),天命不可以謙拒(さりふせく)。』大王以社稷(くにいへ)為計,以百姓為心!」發言慷慨(はげむ),至于流涕(かなしぶる)
 天皇於是知終不處,不逆兄意,乃聽。而不即御坐(みまし)。世嘉其能以實讓曰:「宜哉!兄弟怡怡(よろこびやはらぐ),天下歸德。(むつぶる)親族(うがらやから),則民興(うつくしびのこころ)。」


飯豐皇女 忍海角刺宮跡
忍海角刺神社。境內鏡池,傳飯豐尊執政角刺宮,日夜以為鏡而稱。

詞人稱飯豐青尊歌:「繼峰經倭邊 蒼生所欲見之物 葛城忍海處 巍峨聳立此高城 飯豐忍海角刺宮


飯豐天皇 葛城埴口丘陵

百官大會,『藝文類聚』人部讓云:「周書曰,湯放桀而歸於亳。 三千諸侯大會, 湯取天子之璽,置之於天子之座左。復而再拜,從諸侯之位。湯曰:『此天子之位,有道者可以處之矣。』」又云:「堯讓天下於許由曰:『日月出矣而爝火不息。其於光也,不亦難乎。時雨降矣而猶浸灌,其於澤也不亦勞乎。』」


近飛鳥八釣宮址 弘計皇子神社
四、弘計王允諾即位

 元年,春正月己巳朔(),大臣、大連等奏言:「皇太子億計,聖德明茂(ひじりのいきほひさかり),奉讓天下。陛下正統(まさしきついで),當奉鴻緒(あまつひつぎ),為郊廟(あめのした)主,承續(うけつぐ)祖無窮之列,上(あたり)天心,下(かなふ)民望。而不肯踐祚(あまつひつぎしろしめす)。遂令金銀蕃國(こがねしろかねのとなりのくに),群僚遠近,莫不失望。天命(あめのよさし)有屬。皇太子推讓。聖德彌盛,福祚孔章(みさいはひはなはだあきらかなり)在孺(いときなきとき)而勤,謙恭慈順。宜奉兄命(いろねのみことのり),承統大業(あまつひつぎ)!」(みことのり)曰:「可。」乃召公卿(まへつきみたち)、百寮於近飛鳥八釣宮(ちかつあすかのやつりのみや),即天皇位。百官陪位者(はべるひとども)皆忻忻焉。【或本云,弘計天皇之宮,有二所焉。一宮於少郊(をの),二宮於池野(いけの)。又或本云,宮於甕栗(みかくり)。】
 是月,立皇后難波小野王(なにはのをののみこ),赦天下。【難波小野王,雄朝津間稚子宿禰(をあさづまわくごのすくね)天皇曾孫,磐城王(いはきのみこ)孫,丘稚子王(いはきのみこ)之女也。】

五、置目老嫗

 二月戊戌朔壬寅(),詔曰:「先王遭離多難(わざはひ)殞命(をはり)荒郊。朕在幼年(いとけなきとき),亡逃自匿,(みだり)遇求迎,升纂(のぼりつげり)大業。廣求御骨(みかばね),莫能知者。」詔畢,與皇太子億計,泣哭憤惋(いたみ),不能自勝。
 是月,召聚耆宿(ふるおきな),天皇親歷問(ことごとくにとひ)。有一老嫗(おみな),進曰:「置目(おきめ)知御骨埋處。請以奉示。【置目,老嫗名也。近江國(あふみのくに)狹狹城山君祖倭帒宿禰(やまとふくろのすくね)之妹,名曰置目。見下文。】」於是天皇與皇太子億計,將老嫗婦,幸于近江國來田綿(くたわた)蚊屋野(かやの)中,掘出而見,果如婦語。
 臨穴哀號,言深(ことねもころ)(なげき)。自古以來,莫如斯酷(かかるいたみ)。仲子之尸,交橫御骨,莫能別者。爰有磐坂皇子(いはさかのみこ)乳母(めのと),奏曰:「仲子者上齒(うへのは)墮落,以斯可別。」於是雖由乳母,相別髑髏(みかしらのほね),而竟難別四肢(みてあし)諸骨(もろもろのみかばね)。由是仍於蚊屋野中,造起雙陵(ならびのみさざき),相似如一,葬儀(みはぶりのよそほひ)無異。詔老嫗置目,居于宮傍近處,優崇賜䘏(あがめめぐみ),使無乏少(ともしき)
 是月,詔曰:「老嫗伶俜羸弱(さすらひあつしれる),不便行步。宜張繩引絙(ひきわたし),扶而出入。繩端懸(ぬりて),無勞謁者(ものまをしひと),入則鳴之。朕知汝到。」於是老嫗奉詔,鳴鐸而進。天皇遙聞鐸(おと),歌曰:

 三月上巳(),幸後苑(みその)曲水宴(めぐりみずのとよのあかり)
 夏四月丁酉朔丁未(十一),詔曰:「凡人主(みかど)之所以勸民者,惟授官(つかさたまふ)也。國之所以興者,惟賞功也。夫前播磨國司來目部小楯,【更名磐楯(いはだて)。】求迎舉朕,厥功茂焉。所志願(ねがはし)勿難言。」小楯謝曰:「山官(やまのつかさ)宿(もと)所願。」乃拜山官,改賜(かばね)山部連(うぢ),以吉備臣(きびのおみ)(そひつかさ),以山守部(やまもりべ)(かきべ)。褒善顯功,酬恩答厚,寵愛殊絕(ことにすぐれ),富莫能(ならぶ)
 五月狹狹城山君韓帒宿禰(ささきやまのきみからふくろのすくね),事連謨殺(はかりころし)皇子押磐。臨誅叩頭(のみ),言詞極哀。天皇不忍加戮(ころさしむる),充陵戶(みさざきへ),兼守山,削除籍帳(へのふみた),隸山部連。惟倭帒宿禰因妹置目之功,仍賜本姓狹狹城山君氏。
 六月,幸避暑殿(すずみのとの)奏樂(うたまひ)。會群臣(まへつきみたち),設以酒食(さけいひ)是年也,太歲乙丑


市邊押磐皇子墓

佐伯部仲子墓
仲子或書賣輪,為押磐皇子帳內,共為雄略帝所害,因埋同穴。

顯宗帝遙聞鐸聲歌:「荒蔓淺茅原 小确瘠地亦過兮 百傳驛鈴遠 鐸聲鏗鏘遙可聞 置目來歟吾心欣


曲水宴
三月上巳【三日】,曲水流觴。


雄略天皇 丹比高鷲原陵
顯宗帝恨雄略帝以父讎,且父君尸骨與仲子相參難分,猶若未獲。【『禮記』:「父母之仇不共戴天,兄弟之仇不釋兵刃,郊遊之仇不與同住。」】故命億計王毀雄略陵。億計王諫以不可,遂罷。【『顯宗記』云,億計王奉敕行,僅掘陵域一坨土而復命,并諫顯宗。】

顯宗帝悲置目還歌:「倭帒置目兮 近江置目老嫗婦 明日過之後 致仕歸隱還深山 不得復見吾心悲
六、盡棄前嫌

 二年,春三月上巳(),幸後苑,曲水宴。是時,喜集公卿大夫(まへつきみたち)、臣、連、國造(くにのみやつこ)、伴造,為宴。群臣(しきり)稱:「萬歲(よろづとせ)!」
 秋八月己未朔(),天皇謂皇太子億計曰:「吾父先王無罪,而大泊瀨(雄略)天皇射殺,棄(かばね)郊野,至今未獲。憤歎盈懷,臥泣(ふすふなき)行號(ゆくゆくおらび),志雪讎恥(あたのはぢ)。吾聞:『父之讎不與共戴天,兄弟之讎不反(つはもの)交遊(ともがき)之讎不同國。』夫匹夫(いやしきひと)之子,居父母之讎,寢(とも)(たて),不與共國,遇諸市朝(いちみやこ),不反兵而便鬪。況吾立為天子(みかど), 二年于今矣。願壞其陵,(くだく)骨投散。今以此報,不亦(おやにしたがふ)乎。」
 皇太子億計,歔欷(なげき)不能答,乃(いさめ)曰:「不可(よくあらず)大泊瀨(雄略)天皇,正統萬機(よろづのまつりごと),臨照天下。華夷(みやこひな)欣仰,天皇之身也。吾父先王雖是天皇之子,遭遇迍邅(なやましき),不登天位(あまつひつぎ)。以此觀之,尊卑(たかきいやしき)惟別。而(しのび)陵墓(みさざき),誰人主(きみ)以奉天之靈?其不可毀一也。又天皇與億計,曾不蒙遇白髮(清寧)天皇厚寵殊恩,豈臨寶位(たかみくら)大泊瀨(雄略)天皇,白髮(清寧)天皇之父也。億計聞諸老賢(としたかきさかしきひと),老賢曰:『言無不詶(むくいず),德無不報(こたへず)。有恩不報,敗俗之深者也。』陛下(うけ)國,德行(いきほひわざ)廣聞於天下。而毀陵,(かへり)見於華裔(みやこひな),億計恐其不可以(のぞみ)國子民也。其不可毀二也。」天皇曰:「善哉。」令罷(えだち)
 九月,置目老困(おいたしなみ),乞還曰:「氣力衰邁(いきちからすぐ)老耄虛羸(おいほれうつけつかれる)要假(たとひ)扶繩,不能進步。願歸桑梓(もとつくに),以送厥終(そのおはり)。」天皇聞惋痛(いたみ),賜物千段,(あらかじめ)岐路(わかれのみち)重感(なげき)(あふ)。改賜歌曰:

 冬十月戊午朔癸亥(),宴群臣。
 是時天下安平,民無徭役(さしつかはること)歲比登稔(とししきりにみのり),百姓殷富(さかりにとむ)稻斛(いねひとさか)銀錢一文,馬(ほどこれり)野。

七、任那、百濟之攻防

 三年,春二月丁巳朔()阿閉臣事代(あへのおみことしろ)銜命,出使于任那(みまな)。於是,月神(かかり)人謂之曰:「我祖高皇產靈(たかみむすひのみこと)有預鎔造(あひいたす)天地之功。宜以民地,奉我月神(つきのかみ)。若依請獻我,當福慶(さいはひよろこび)。」事代由是還京具奏,奉以歌荒樔田(うたあらすだ)【歌荒樔田,在山背國葛野郡(やましろのくにかづののこほり)。】壹伎縣主(いきのあがたぬし)先祖押見宿禰(おしみのすくね)(ほこら)
 三月上巳(),幸後苑,曲水宴。
 夏四月丙辰朔庚申()日神(ひのかみ)著人謂阿閉臣事代曰:「以磐余田(いはれのた)獻我祖高皇產靈。」事代便奏,依神乞獻田四十四町。對馬下縣直(つしまのしもつあがたのあたひ)侍祠。
 戊辰(十三),置福草部(さきくさべ)
 庚辰(廿五),天皇崩于八釣宮。
 是歲紀生磐宿禰(きのおひはのすくね)跨據任那,交通高麗(こま)。將西王三韓,整脩宮府(みやつかさ),自稱神聖(しんせい)。用任那左魯(さる)那奇他甲背(なかだかふはい)等計,殺百濟適莫爾解(ちゃくまくにげ)爾林(にりむ)【爾林,高麗地也。】帶山城(しとろむらのさし),拒守東道(ひむがしのみち),斷運糧津,令軍飢困。
 百濟王(くだらのこにきし)大怒,遣領軍古爾解(こにげ)內頭莫古解(ないづのまくこげ)等,率眾趣于帶山攻。於是,生磐宿禰進軍逆擊。膽氣(いきほひ)益壯,所向皆破,以一當百。俄而兵盡力竭,知事不濟(なるまじき),自任那歸。由是百濟國殺佐魯、那奇他甲背等三百餘人。


葛野坐月讀神社
所奉月神歌荒樔田矣。社藏應神天皇月延石。


對馬島下縣郡高御魂神社
所奉磐余地者,目原坐高御魂神社也,【所在未詳。】對馬下縣直遙祭磐余地於對馬。


億計天皇(おけのすめらみこと) 仁賢天皇(にんけんてんわう)


石上廣高宮址 姫丸稻荷神社
石上廣高宮,『帝王編年記』云:「大和國山邊郡石上左大臣家北邊田原。」『大和志』云:「山邊郡嘉幡村。」川村即此處矣。縮見高野者,『播磨國風土記』云:「意奚、袁奚二皇子等,坐於美囊郡志深里高野宮。」


顯宗帝 傍丘磐杯丘陵
一、億計天皇即位

 億計天皇(おけのすめらみこと),諱大腳(おほし)【更名大為(おほす)。自餘諸天皇不言諱字(ただのみな)。而至此天皇,獨自書(ひとりしるせる)者,據舊本(ふるふみ)耳。】嶋郎(しまのいらつこ)弘計(顯宗)天皇同母兄(いろえ)也。幼而聰穎(さとしすぐれ),才敏多識。壯而仁惠(めぐみます)謙恕溫慈(くだりなだめやはらぎうつくしび)。及穴穗(安康)天皇崩,避難於丹波國餘社郡。
 白髮(清寧)天皇元年,冬十一月,播磨國司山部連小楯詣京求迎。白髮(清寧)天皇尋遣小楯,持節將左右舍人,至赤石奉(むかへ)
 二年,夏四月,遂立億計(仁賢)天皇為皇太子。【事,具
弘計(顯宗)天皇紀。】
 五年白髮(清寧)天皇崩。天皇以天下(あめのした)弘計(顯宗)天皇。為皇太子,如故。【事,具弘計(顯宗)天皇紀也。】
 三年(顯宗),夏四月弘計(顯宗)天皇崩。
 元年,春正月辛巳朔乙酉(),皇太子於石上廣高宮(いそのかみのひろたかのみや),即天皇位。【或本云,億計(仁賢)天皇之宮有二所焉。一宮於川村(かはむら),二宮於縮見高野(しじみのたかの)。其殿柱(みあらか)至今未朽。】
 二月辛亥朔壬子(),立前妃春日大娘皇女(かすがのおほいらつめのひめみこ)為皇后,【春日大娘皇女,大泊瀨(雄略)天皇娶和珥臣深目(ふかめ)之女童女君(わらはきみ)所生也。】遂產一(ひこみこ)六女。
  其一曰,高橋大娘皇女(たかはしのおほいらつめのひめみこ)
  其二曰,朝嬬皇女(あさづまのひめみこ)
  其三曰,手白香皇女(たしらかのひめみこ)
  其四曰,樟冰皇女(くすひのひめみこ)
  其五曰,橘皇女(たちばなのひめみこ)
  其六曰,小泊瀨稚鷦鷯天皇(をばつせわかさざきのすめらみこと)。及有天下,都泊瀨列城(はつせのなみき)
  其七曰,真稚皇女(まわかのひめみこ)【一本,以樟冰皇女列于第三,以手白香皇女列于第四,為(こと)焉。】
 次,和珥臣日爪(わにのおみひつめ)糠君娘(ぬかきみのいらつめ),生一女。
  是為,春日山田皇女(かすがのやまだのひめみこ)【一本云,和珥臣日觸(ひふれ)大糠娘(おほぬかのいらつめ),生一女。是為山田大娘皇女(やまだのおほいらつめのひめみこ)。更名赤見皇女(あかみのひめみこ)。文雖(やくやく)異,其(まこと)一也。】
 冬十月丁未朔己酉(),葬弘計(顯宗)天皇于傍丘磐杯丘陵(かたをかのいはつきのをかのみさざき)是歲也,太歲戊辰

二、日鷹吉士遣使高麗

 二年,秋九月,難波小野皇后恐宿(もとより)不敬,自死。弘計(顯宗)天皇時,皇太子億計侍宴,取瓜將喫,無刀子(かたな)弘計(顯宗)天皇親執刀子,命其夫人(みめ)小野傳進。夫人就前,立置刀子於瓜盤(うりざら)。 是日,更(くむ)酒,立喚皇太子。緣斯不敬(ゐやなかり),恐誅自死。顯宗帝后。
 三年,春二月已巳朔(),置石上部舍人(いそのかみべのとねり)
 四年,夏五月的臣蚊嶋(いくはのおみかしま)穗瓮君(ほへのきみ)【瓮,此云()。】有罪,皆下(ひとや)死。
 五年,春二月丁亥朔辛卯(),普求國郡散亡(くにこほりにあかれにげたる)佐伯部。以佐伯部仲子之後為佐伯造(さへきのみやつこ)【佐伯部仲子事,見
弘計(顯宗)天皇紀。】
 六年,秋九月己酉朔壬子(),遣日鷹吉士(ひたかのきし),使高麗召巧手(てひと)者。
 是秋,日鷹吉士被遣使後,有女人居于難波御津(なにはのみつ),哭之曰:「於母亦兄(おもにもせ)於吾亦兄(あれにもせ)弱草吾夫𢘟怜矣(わかくさのあがつまはや)!」【言,於母亦兄,於吾亦兄,此云,おもにもせ(於慕尼慕是)あれにもせ(阿例尼慕是)。言,吾夫𢘟怜矣,此云,あがつまはや(阿我圖摩播耶)。言弱草,謂古者(いにしへ)以弱草喻夫婦(をひとめ)。故以弱草為夫。】哭聲甚哀(いとかなしき),令人斷腸(はらわたをたたしむ)
 菱城邑(ひしきのむら)鹿父(かかぞ)【鹿父,人名也。(よのひと)呼父為かそ(柯曾)。】聞而向前曰:「何哭之哀甚,若此(かくのごとき)乎?」女人答曰:「秋蔥(あきき)轉雙納(いやふたごもり)【雙,重也。】可思惟矣(おもふべし)。」鹿父曰:「(せなり)。」即知所言矣。有同伴者(ともがら),不悟其(こころ),問曰:「何以知乎?」答曰:「難波玉作部鯽魚女(なにはのたますりべのふなめ)【言鯽魚女,此云ふなめ(浮儺謎)。】(とつぎ)韓白水郎䎯(からまのはたけ)【言韓白水郎䎯,此云からまのはたけ(柯羅摩能波陀該)。䎯,耕麥(むぎつくる)之田也。】哭女(なくめ)【言哭女,此云なくめ(儺俱謎)。】哭女嫁於住道(すむち)山寸(やまき),生飽田女(あくため)。韓白水郎䎯與其女哭女,曾既俱死。住道人山寸上(をかす)玉作部鯽魚女,生麤寸(あらき),麤寸娶飽田女。於是,麤寸從日鷹吉士,發向高麗。由是其妻飽田女徘徊顧戀(たちもとほりしのぶ)失緒(こころまどひす)傷心,哭聲尤切(いたくけやけす),令人腸斷。

 是歲,日鷹吉士還自高麗,獻工匠須流枳(てひとするき)奴流枳(ぬるきら)等。今倭國山邊郡額田邑熟皮高麗(やまとのくにのやまのへのこほりのぬかたのむらのかはをしのこま),是其後也。
 七年,春正月丁未朔己酉(),立小泊瀨稚鷦鷯尊(武烈)為皇太子。
 八年,冬十月,百姓言:「是時國中無事,吏(かなふ)其官,海內歸(うつくしび),民安其業。」
 是歲五穀登衍(いつつのたなつものおひゆたか)(かひこ)、麥善收,遠近清平,戶口滋殖(おほみたからますますうまはる)焉。
 十一年,秋八月庚戌朔丁巳(),天皇崩于正寢(おほとの)
 冬十月已酉朔癸丑(),葬埴生坂本陵(はにふのさかもとのみさざき)

日本書紀卷十五 終


難波津之圖


飽田女家系圖
鯽魚女與韓白水郎䎯生哭女。哭女與住道人山寸生飽田女。
然住道人山寸上姦鯽魚女生麤寸。麤寸又娶飽田女為妻。
古時兄妹無分大小,稱男為兄,女為妹。夫婦亦相稱兄妹。故於飽田女喚麤寸為兄【夫】,飽田女之母哭女亦喚麤寸為兄【弟】。麤寸隨日鷹吉士發向高麗,故飽田女泣於難波御津。


仁賢天皇 埴生坂本陵

【久遠の絆】【卷十四】【卷十六】【再臨詔】