日本書紀 卷第七 景行紀/成務紀

【景行天皇】【成務天皇】


大足彥忍代別天皇(おほたらしひこおしろわけのすめらみこと) 景行天皇(けいかうてんわう)

一、即位與立后

 大足彥忍代別天皇(おほたらしひこおしろわけのすめらみこと)活目入彥五十狹茅天皇(いくめいりびこいさちのすめらみこと)第三子也。母皇后曰日葉洲媛命(ひばすひめのみこと)丹波道主王(たにはのみちぬしのきみ)之女也。
 活目入彥五十狹茅(垂仁)天皇三十七年,立為皇太子。【時年廿一。】
 九十九年,春二月活目入彥五十狹茅(垂仁)天皇崩。
 元年,秋七月己巳朔己卯(十一),太子即天皇位。因以改元,是年也,太歲辛未
 二年,春三月丙寅朔戊辰(),立播磨稻日大郎姬(はりまのいなびのおほいらつめ)為皇后。【一云,稻日稚郎姬(いなびのわきいらつめ)。郎姬,此云いらつめ(異羅菟咩)。】后生二男。
  第一曰,大碓皇子(おほうすのみこ)
  第二曰,小碓尊(をうすのみこと)【一書云,皇后生三男。其第三曰,稚倭根子皇子(わかやまとねこのみこ)。】其大碓皇子、小碓尊,一日同胞(おなじえ)而雙生。天皇異之,則誥於(うす)。故因號其二王曰大碓、小碓也。是小碓尊,亦名日本童男(やまとをぐな)【童男,此云をぐな(鳥具奈)。】亦曰日本武尊(やまとたけるのみこと)。幼有雄略之氣。及壯,容貌魁偉,身長一丈,力能扛(かなへ)焉。
 三年,春二月庚寅朔(),卜幸于紀伊國(きのくに),將祭祀群神祇,而不吉。乃車駕(みゆき)止之。遣屋主忍男武雄心命(やぬしおしをたけをこころのみこと)【一云,武豬心(たけゐこころ)。】令祭。
 爰屋主忍男武雄心命,詣之居于阿備柏原(あびのかしははら),而祭祀神祇。仍住九年,則娶紀直(きのあたひ)遠祖菟道彥(うぢひこ)之女影媛(かげひめ)
  生,武內宿禰(たけうちのすくね)


小碓命 伊吹山 日本武尊像
大碓、小碓二皇子,同胞雙生,天皇碓誥,故名之。小碓尊亦名日本童男,即日本武尊。


紀伊國
紀伊國,今和歌山縣全境及三重縣南部一代。亦名紀國、紀州。


美濃國
美濃國當今岐阜縣中南


鯉魚浮池
天皇居泳宮,鯉魚浮池。弟媛欲見鯉而臨者,天皇遂留而通之矣。


稻荷山古墳 金錯銘鐵劍
銘文云獲居【わけ】者即別矣。按乎獲居、弖已加利獲居、多加披次獲居、多沙鬼獲居,即知方時地方豪族,多以別字為名。


猿投神社
主祭神大碓命,相殿神景行、垂仁二帝。社傳,景行帝五十二年,大碓命遭蛇吻於猿頭山而薨,享年卌二歲。即葬此山。陵墓在該社西宮後方。唯此說異于『古事記』。『古事記』云,小碓命【倭健命、日本武尊】恚兄大碓命密通兄姬、弟姬而不復命,遂殺之。
二、諸妃及八十皇子女

 四年,春二月甲寅朔甲子(十一),天皇幸美濃(みの)。左右奏言之:「茲國有佳人,曰弟媛(おとひめ)。容姿端正(きらぎら)八坂入彥皇子(やさかのいりびこのみこ)之女也。」天皇欲得為妃,幸弟媛之家。弟媛聞乘輿車駕(すめらみことみゆき),則隱竹林(たかはら)。於是天皇權令弟媛至,而居于泳宮(くくりのみや)之。【泳宮,此云くくりのみや(區玖利能彌揶)。】鯉魚(こひ)浮池,朝夕臨視而戲遊。時弟媛欲見其鯉魚遊,而密來臨池。天皇則留而通之(めす)
 爰弟媛以為:「夫婦(をふとめ)之道,古今達則(かよへるのり)也。然於吾而不便。」則請天皇曰:「妾(ひととなり)不欲交接(とつぎ)之道。今不勝皇命之威(おほみことのかしこき),暫納帷幕之中。然意所不快(よろこびざる),亦形姿穢陋(きたなし),久之不堪陪於掖庭。唯有(やつこ)姊,名曰八坂入媛(やさかのいりびめ),容姿麗美,志亦貞潔,宜納後宮(きざきのみや)。」
 天皇(ゆるし)之,仍喚八坂入媛為妃,生七男六女。
  第一曰,稚足彥天皇(わかたらしひこのすめらみこと)
  第二曰,五百城入彥皇子(いほきいりびこのみこ)
  第三曰,忍之別皇子(おしのわけのみこ)
  第四曰,稚倭根子皇子(わかやまとねこのみこ)
  第五曰,大酢別皇子(おほすわけのみこ)
  第六曰,渟熨斗皇女(ぬのしのひめみこ)
  第七曰,渟名城皇女(ぬなきのひめみこ)
  第八曰,五百城入姬皇女(いほきいりびめのひめみこ)
  第九曰,麛依姬皇女(かごよりひめのひめみこ)
  第十曰,五十狹城入彥皇子(いさきいりびこのみこ)
  第十一曰,吉備兄彥皇子(きびのえひこのみこ)
  第十二曰,高城入姬皇女(たかきいりびめのひめみこ)
  第十三曰,弟姬皇女(おとひめのひめみこ)
 又妃,三尾氏磐城別(みをのうぢのいはきわけ)之妹水齒郎媛(みづはのいらつめ)
  生,五百野皇女(いほののひめみこ)
 次妃,五十河媛(いかはひめ)
  生,神櫛皇子(かむくしのみこ)稻背入彥皇子(いなせいりびこのみこ)。其兄神櫛皇子,是讚岐國造(さぬきのくにのみやつこ)之始祖也。弟稻背入彥皇子,是播磨別(はりまのわけ)之始祖也。
 次妃,阿倍氏木事(あへのうぢのこごと)之女高田媛(たかたひめ)
  生,武國凝別皇子(たけくにこりわけのみこ)。是伊豫國御村別(いよのくにのみむらのわけ)之始祖也。
 次妃,日向髮長大田根(ひむかのかみながおほたね)
  生,日向襲津彥皇子(ひむかのそつびこのみこ)。是阿牟君(あむのきみ)之始祖也。
 次妃,襲武媛(そのたけひめ)
  生,國乳別皇子(くにちわけのみこ)國背別皇子(くにそわけのみこ)【一云,宮道別皇子(みやぢわけのみこ)。】豐戶別皇子(とよとわけのみこ)。其()國乳別皇子,是水沼別(みぬまのわけ)之始祖也。(おと)豐戶別皇子,是火國別(ひのくにのわけ)之始祖也。
 夫天皇之男女(ひこみこひめみこ),前後并八十子。然除日本武尊、稚足彥天皇、五百城入彥皇子之外,七十餘子,皆封國郡(くにほこり),各如其國。故當今時,謂諸國之別者,即其別王(わけみこ)苗裔(みあなすゑ)焉。
 是月,天皇聞美濃國造(みののくにのみやつこ)神骨(かむほね)之女,兄名兄遠子(えとほこ),弟名弟遠子(おととほこ),並有國色(かほよし)。則遣大碓命(おほうすのみこと),使察其婦女之容姿。時大碓命,便密(たはけ)而不復命。由是,恨大碓命。
 冬十一月庚辰朔(),乘輿自美濃還。則更都於纏向(まきむく),是謂日代宮(ひしろのみや)

三、天皇西征及神夏磯媛奏言

 十二年,秋七月熊襲(くまそ)反之,不朝貢。
 八月乙未朔己酉(十五),幸筑紫(つくし)
 九月甲子朔戊辰(),到周芳娑麼(すはのさば)。時天皇南望之,詔群卿曰:「於南方烟氣多起,必(あた)將在。」則留之。先遣多臣(おほのおみ)武諸木(たけもろき)國前臣(くにさきのおみ)菟名手(うなて)物部君(もののべのきみ)夏花(なつはな),令察其狀。
 爰有女人,曰神夏磯媛(かむなつそひめ)。其徒眾甚多,一國之魁帥(ひとごのかみ)也。聆天皇之使者至,則拔磯津山(しつのやま)賢木(さかき),以上枝挂八握劍(やつかつるぎ),中枝挂八咫鏡(やたかがみ),下枝挂八尺瓊(やさかに),亦素幡(しらはた)樹于船舳(ふなのへ),參向而啟之曰:「願無下兵。我之屬類,必不有違者。今將歸德(まつろひ)矣。唯有殘賊者。一曰鼻垂(はなたり),妄假名號,山谷響聚,屯結於菟狹川上(うさのかはかみ)。二曰耳垂(みみたり),殘賊貪婪,屢略人民(おほみたから),是居於御木(みけ)川上。【木,此云()。】三曰麻剝(あさはぎ),潛聚徒黨,居於高羽(たかは)川上。四曰土折豬折(つちをりゐをり)(こもり)住於綠野(みどりの)川上,獨恃山川之(さがし),以多掠人民。是四人也,其所據並要害(ぬみ)之地。故各領眷屬(やから),為一處之(をさ)也。皆曰:『不從皇命(おほみこと)。』願急擊(すむやけくうち)之,勿失。」
 於是,武諸木等,先誘麻剝之徒。仍賜赤衣(あかききぬ)(はかま)及種種奇物(めづらしきもの),兼令(めし)不服之三人。乃率己眾而參來。悉捕誅之(ころす)
 天皇遂幸筑紫,到豐前國長峽縣(とよのみちのくちのくにのながをのあがた),興行宮(かりみや)而居。故號其處曰(みやこ)也。


景行天皇纏向日代宮跡碑
景行帝更都纏向,是謂日代宮。


周芳娑麼
『和名抄』云:「周防國佐波郡佐波」,乃瀨戶內海以至九州之交通要衝,今山口縣防府市佐波。


碩田國
豐後國大分郡,『和名抄』云:「大分,於保伊多。【おほいた】


速見邑
按『豐後風土記』速見郡條,該地以土蜘蛛征伐之事,遂名速津媛國,後改速見郡。


城原
四、碩田土蜘蛛征伐

 冬十月,到碩田國(おほきたのくに)。其地形廣大亦麗,因名碩田也。【碩田,此云おほきた(於保岐陀)。】
 到速見邑(はやみのむら),有女人,曰速津媛(はやつひめ),為一處之長。其聞天皇車駕(いでませり),而自奉迎之(まをし)言:「茲山有大石窟(いはや)。曰鼠石窟(ねずみのいはや)。有二土蜘蛛(つちぐも),住其石窟。一曰(あを),二曰(しろ)。又於直入縣(なほりのあがた)禰疑野,有三土蜘蛛。一曰打猨(うちさる),二曰八田(やた),三曰國摩侶(くにまろ)。是五人,並其為人強力(ちからこはく),亦眾類多之。皆曰:『不從皇命。』若(あながち)喚者,興兵距焉。」
 天皇(にくみ)之不得進行(いでます),即留于來田見邑(くたみのむら),權興宮室(みや)而居之。仍與群臣議之曰:「今多動兵眾(いくさども),以討土蜘蛛。若其畏我兵勢,將隱山野(やまの),必為後愁。」則採海石榴樹(つばきのき)(つち),為(つはもの)。因(えらひ)猛卒,授兵椎(つはもののつち),以穿山排草,襲石室(いはや)之土蜘蛛,而破于稻葉(いなば)川上,悉殺其黨。血流至(つぶなぎ)。故時人其作海石榴椎之處,曰海石榴市(つばきち)。亦血流之處曰血田(ちた)也。復將討打猨,徑度禰疑山(ねぎやま)
 時賊虜之矢,橫自山射之。流於官軍(みいくさ)前如雨。天皇更返城原(きはら),而卜於水上。便(ととのへ)兵,先擊八田於禰疑野(ねぎの)而破。爰打猨謂不可勝,而請服。然不聽矣。皆自投澗谷(たに)而死之。
 天皇初將討賊,(やどり)柏峽大野(かしはをのおほの)。其野有石,長六尺,廣三尺,厚一尺五寸。天皇祈之曰:「朕得(ほろぼす)土蜘蛛者,將(くゑ)茲石,如柏葉(かしはのは)而舉焉。」因蹶之。則如柏上於大虛(おほぞら)。故號其石曰蹈石(くゑし)也。是時禱神,則志我神(しがのかみ)直入物部神(なほりのもののべのかみ)直入中臣神(なほりのなかとみのかみ)三神矣。
十一月,到日向國(ひむかのくに),起行宮以居之。是謂高屋宮(たかやのみや)

五、熊襲平定、九州巡幸

 十二月 癸巳朔丁酉(),議討熊襲。於是天皇詔群卿曰:「朕聞之:『襲國(そのくに)厚鹿文(あつかや)迮鹿文(さかや)者,是兩人熊襲之渠帥(かみ)者也。眾類甚多(にへさ),是謂熊襲八十梟帥(やそたける)。其鋒不可當焉。』少興(いくさ),則不堪滅賊。多動(いくさ),是百姓之害。何不假鋒刃之威,坐平其國。」時有一臣,進曰:「熊襲梟帥(くまそたける)有二女。兄曰市乾鹿文(いちふかや)【乾,此云()。】弟曰市鹿文(いちかや)。容既端正,心且雄武(ををし)。宜示重幣(おもきまひ),以撝納(めしいれ)麾下。因以伺其消息(あるかたち),犯不意(おもひのほか)之處,則曾不血(やきは),賊必自敗。」天皇(のたまはく):「可也。」
 於是,示(まひ)欺其二女,而納幕下。天皇則通市乾鹿文而陽寵(いつはりめぐみ)。時市乾鹿文奏于天皇曰:「無愁熊襲之不服。妾有良謀(よきはかりこと)。即令從一二兵於己。」而返家以多設醇酒,令飲己父。乃()寐之(いぬ)。市乾鹿文,密斷父(ゆづる)。爰從兵一人,進殺熊襲梟帥。天皇則(にくみ)其不孝之甚,而誅市乾鹿文。仍以弟市鹿文,賜於火國造(ひのくにのみやつこ)
 十三年,夏五月,悉(ことむけ)襲國。因以居於高屋宮,已六年也。
 於是,其國有佳人,曰御刀媛(みはかしびめ)【御刀,此云みはかし(彌波迦志)。】則召為妃。
  生,豐國別皇子(とよくにわけのみこ)。是日向國造(ひむかのくにのみやつこ)之始祖也。
 十七年,春三月戊戌朔己酉(十二),幸子湯縣(こゆのあがた),遊于丹裳小野(にものをの)。時東望之,謂左右曰:「是國也,直向於日出(ひいづる)方。」故號其國曰日向(ひむか)也。
 是日(のぼり)野中大石,憶京都(みやこ)而歌之曰:

 是謂,思邦歌(くにしのひうた)也。
 十八年,春三月,天皇將向京,以巡狩筑紫國(つくしのくに)
 始到夷守(ひなもり)。是時,於石瀨河(いはせのかは)邊,人眾聚集(つどへり)。於是,天皇遙望之,詔左右曰:「其集者何人也,若(あた)乎?」乃遣兄夷守(えひなもり)弟夷守(おとひなもり)二人令覩。乃弟夷守還來而諮之曰:「諸縣君泉媛(もろがたのきみいづみひめ),依獻大御食(おほみあへ),而其族會之。」
 夏四月壬戌朔甲子(),到熊縣(くまのあがた)。其處有熊津彥(くまつひこ)者兄弟二人。天皇先使徵兄熊(えくま),則從使詣之。因徵弟熊(おとくま),而不來(まゐこず)。故遣兵誅之。
 壬申(十一),自海路(うみつぢ)泊於葦北(あしきた)小嶋而進食。時召山部阿弭古(やまべのあびこ)之祖小左(をひだり),令進冷水(さむきみもひ)。適是時,嶋中無水,不知所為。則仰之祈于天神地祇,忽寒泉從崖傍涌出(わきいづ),乃酌以獻焉。故號其嶋曰水嶋(みづしま)也。其泉猶今在水嶋崖也。
 五月壬辰朔(),從葦北發船到火國(ひのくに)。於是,日沒也(ひくれぬ)夜冥(よるくら)不知著岸。遙視火光,天皇詔挾杪者(かぢとり)曰:「直指火(もと)。」因指火往之,即得著岸。
 天皇問其火光處曰:「何謂邑也?」國人對曰:「是八代縣豐村(やつしろのあがたのとよのむら)。」亦尋其火:「是誰人之火也?」然不得(ぬし)。茲知,非人火。故名其國曰火國。
 六月辛酉朔癸亥(),自高來縣(たかくのあがた),渡玉杵名邑(たまきなのむら)。時殺其處之土蜘蛛津頰(つつら)焉。
 丙子(十六),到阿蘇國(あそのくに)。其國也,郊原曠遠,不見人居。天皇曰:「是國有人乎?」時有二神,曰阿蘇都彥(あそつひこ)阿蘇都媛(あそつひめ)。忽化人以遊詣(まゐき)之曰:「吾二人在,何無人耶。」故號其國曰阿蘇(あそ)
 秋七月辛卯朔甲午(),到筑紫後國御木(つくしのみちのしりのくにのみけ),居於高田行宮(たかたのかりみや)
 時有僵樹(たふれたるき),長九百七十丈焉。百寮(ももつかさ)蹈其樹而往來。時人歌曰:

 爰天皇問之曰:「是何樹也?」有一老夫曰:「是樹者歷木(くぬぎ)也。嘗未僵之先,當朝日暉,則隱杵嶋山(きしまのやま)。當夕日暉,亦覆阿蘇山(あそのやま)也。」天皇曰:「是樹者神木(くすしきき)。故是國宜號御木國(みけのくに)。」
 丁酉(),到八女縣(やめのあがた)。則越藤山(ふぢやま),以南望粟岬(あはのさき)。詔之曰:「其山峰岫重疊(みねくきかさなり),且美麗之甚。若神有其山乎?」時水沼縣主猿大海(みぬまのあがたぬしさるおほみ)奏言:「有女神(ひめかみ)。名曰八女津媛(やめつひめ)。常居山中。」故八女國(やめのくに)之名,由此而起也。
 八月,到的邑(いくはのむら)進食(みをし)。是日,膳夫(かしはで)等遺盞。故時人號其忘(うき)處曰浮羽(うきは)。今謂(いくは)者,(よこなまれる)也。昔筑紫(くにひと)號盞曰浮羽。
 十九年,秋九月甲申朔癸卯(廿),天皇至自日向。
 二十年,春二月辛巳朔甲申(),遣五百野皇女,令祭天照大神(あまてらすおほみかみ)
 二十五年,秋七月庚辰朔壬午(),遣武內宿禰,令察北陸(くぬがのみち)及東方諸國之地形,且百姓(おほみたから)之消息也。
 廿七年,春二月辛丑朔壬子(十二),武內宿禰自東國(あづまのくに)還之,奏言:「東夷(あづまのひな)之中,有日高見國(ひだかみのくに)。其國人,男女(をとこめ)並椎結文身,為人勇悍。是總曰蝦夷(えみし)。亦土地(くに)沃壤而曠之,擊可取也。」
 秋八月,熊襲亦反之,侵邊境(めぐり)不止。

景行天皇九州巡幸圖

思邦歌 其一:「愛也思念茲 吾家之方故鄉處 雲層湧兮飄來矣
思邦歌 其二:「大和倭國者 國之真秀可怜國 層層疊重矣 青山猶青垣 青垣圍繞籠國兮 大和美兮不勝收
思邦歌 其三:「稚命發活力 生氣盛兮青年矣 層層疊薦兮 平群山上白橿枝 取彼橿枝為髻華 插頭嬉遊矣 稚兮青年者


熊縣
今熊本縣球磨郡、人吉市一帶。

時人詠御木歌:「晨霜朝覆兮 御木所成彼小橋 群臣百寮者 蹈其樹兮以為渡 御木僵樹小橋矣


八女郡矢部村 八女津媛像

八女津媛神社 神窟


的邑
以忘盞之故名浮羽,後訛為的。


熊襲之穴
熊襲之穴位於今鹿兒島縣國分市準人町,據傳該穴是為日本武尊征討熊襲國擊殺川上梟師之地。


石見神樂─熊襲
日本武尊抽劍,刺川上梟帥之胸。未及之死,川上梟帥啟曰:「號皇子應稱-日本武皇子!」言訖,通胸殺之。
六、日本武尊征討熊襲

 冬十月丁酉朔己酉(十三),遣日本武尊,令擊熊襲。時年十六。
 於是,日本武尊曰:「吾得善射者(よくゆみいむひと)欲與行。其何處有善射者焉?」或者啟之曰:「美濃國有善射者,曰弟彥公(おとひこのきみ)。」於是,日本武尊遣葛城人宮戶彥(かづらきのひとみやとひこ),喚弟彥公。故弟彥公便率石占橫立(いしうらのよこたち)尾張田子之稻置(をはりのたごのいなき)乳近之稻置(ちちかのいなき)而來,則從日本武尊而行之。
 十二月,到於熊襲國(くまそのくに)。因以伺其消息及地形之嶮易。
 時熊襲有魁帥者,名取石鹿文(とろしかや),亦曰川上梟帥(かはかみたける),悉集親族(うがら)而欲宴。於是日本武尊解髮作童女(をとめ)姿,以密伺川上梟帥之宴時,仍佩劍裀裏(みそのうち),入於川上梟帥之宴室,居女人之中。川上梟帥感其童女之容姿,則攜手同席,舉(さかづき)令飲而戲弄。于時也,更深人闌(よふけひとうすらぎぬ),川上梟帥且被酒(さけにゑ)。於是,日本武尊抽裀中之劍,刺川上梟帥之胸。未及之死,川上梟帥叩頭(のみ)曰:「且待之。吾有所言!」時日本武尊留劍待之。川上梟帥啟之曰:「汝尊誰人也?」對曰:「吾是大足彥(景行)天皇之子也,名曰日本童男也。」川上梟帥亦啟之曰:「吾是國中之強力者(ちからひと)也。是以當時(いまのよ)諸人,不勝我之威力(ちから),而無不從者。吾多遇武力(たけきひと)矣,未有若皇子者。是以賤賊陋口(いやしきくち)以奉尊號(たふときな)。若聽乎?」曰:「聽之。」即啟曰:「自今以後,號皇子應稱日本武皇子(やまとたけるのみこ)!」言訖,乃通胸而殺之。故至于今,稱曰日本武尊,是其(えに)也。然後,遣弟彥等,悉斬其黨類,無餘噍。
 既而從海路還倭,到吉備(きび)以渡穴海(あなのうみ)。其處有惡神,則殺之。亦比至難波(なには),殺柏濟(かしはのわたり)之惡神。【濟,此云わたり(和多利)。】
 廿八年,春二月乙丑朔(),日本武尊奏平熊襲之狀曰:「臣賴天皇之神靈(みたまのふゆ),以兵一舉,(ひたぶる)誅熊襲之魁帥者,悉平其國。是以西洲既(しづまり),百姓無事。唯吉備穴濟神(あなのわたりのかみ)及難波柏濟神(かしはのわたりのかみ),皆有害心(そこなふこころ),以放毒氣(あしきけ),令苦路人(みちゆきひと),並為禍害之藪(わざはひのくら)。故悉殺其惡神,並開水陸之徑(みづくがのみち)。」天皇於是(ほめ)日本武之(いさをし)而異愛。
 四十年,夏六月,東夷多叛,邊境騷動(ほとりさわきとよむ)

七、日本武尊東征與弟橘媛投海

 秋七月癸未朔戊戌(十六),天皇詔群卿(まへつきみたち)曰:「今東國不安,暴神(あらぶるかみ)多起。亦蝦夷悉叛,屢略人民。遣誰人以平其亂?」群臣皆不知誰遣也。日本武尊奏言:「臣則先(いたつき)西征,是(えだち)必大碓皇子之事矣。」時大碓皇子愕然之(おどろき),逃隱草中。
 則遣使者召來。爰天皇責曰:「汝不欲矣,(あに)強遣耶。何未對賊,以豫懼甚焉?」因此遂封美濃,仍如封地。是身毛津君(むげつのきみ)守君(もりのきみ)凡二族之始祖也。
 於是日本武尊雄誥(をたけび)之曰:「熊襲既平,未經幾年,今更東夷叛之,何日逮于大平(たひらぐる)矣。臣雖勞之(いたはし),頓平其亂。」則天皇持斧鉞,以授日本武尊曰:「朕聞:『其東夷也,識性暴強(こはく),凌犯為(むね)(ふれ)之無長,邑之勿首,各貪封堺(さかひ),並相盜略(かすむ)。亦山有邪神(あしきかみ)()姦鬼(かだましきもの),遮(ちまた)塞徑,多令苦人。其東夷之中,蝦夷是尤強焉。男女交居(まじりゐ),父子無別(わきためなし)。冬則宿穴,夏則住樔,衣毛飲血,昆弟相疑(えおとあひうたがふ)。登山如飛禽(とぶとり),行草如走獸(はしるしし)。承(めぐみ)則忘,見(あた)(むくゆ)。是以箭藏頭髻(たきふさ),刀佩衣中,或聚黨類而犯邊界(ほとり),或伺農桑以略人民。擊則隱草,追則入山。故往古以來(このかた),未染王化(みおもむけ)。』今朕察汝為人(ひととなり)也,身體長大,容姿端正,力能扛鼎,猛如雷電(いなびかり),所向無前(かたきなく),所攻必勝。既知之,形則我子,實則神人(かみ)。是寔天(あはれ)不叡(をさなく)且國不平,令經綸天業(あまつひつぎををさめ)不絕宗廟(くにいへ)乎。亦是天下則汝天下也,是位則汝位也。願深謀遠慮,探(かだましき)(そむ),示之以威,懷之以德,不煩兵甲(つはもの),自令臣順(まゐしたがふ)。即巧言而調(ととのへ)暴神,振武以壤姦鬼。」
 於是日本武尊乃受斧鉞,以再拜奏之曰:「嘗西征之年,賴皇靈之威(みたまのふゆ),提三尺劍(みさかのつるぎ),擊熊襲國,未經浹辰,賊首伏罪。今亦賴神祇之靈(あまつかみくにつかみのみたまふゆ),借天皇之威,往臨其(ほとり),示以德教。猶有不服,即舉兵擊。」仍重再拜(をろがみ)之。
 天皇則命吉備武彥(きびのたけひと)大伴武日連(おほとものたけひのむらじ),令從日本武尊。亦以七掬脛(ななつかはぎ)為膳夫。
 冬十月壬子朔癸丑(),日本武尊發路(みちたち)之。
 戊午(),枉道拜伊勢神宮(いせのかむみや)。仍(いとままをし)倭姬命(やまとひめのみこと)曰:「今被天皇之(おほみこと),而東征將誅(つみなはむ)諸叛者。故辭之。」於是,倭姬命取草薙劍(くさなぎのつるぎ),授日本武尊曰:「慎之(つつしみ)莫怠也(なおこたりそ)。」
 是歲,日本武尊初至駿河(するが)。其處賊陽從之欺曰:「是野也,麋鹿(おほしか)甚多。氣如朝霧(あさぎり),足如茂林(もきはやし)。臨而應狩。」日本武尊信其言,入野中而覓獸(かり)。賊有殺(みこ)之情,【王,謂日本武尊也。】放火燒其野。王知被欺,則以(ひうち)出火之,向燒(むかひびつけ)而得免。【一云,王所佩劍藂雲(むらくも)自抽之,薙攘(なぎはらふ)王之傍草,因是得免。故號其劍曰草薙也。藂雲,此云むらくも(茂羅玖毛)。】王曰:「殆被欺。」則悉焚其賊眾(あたども)而滅之。故號其處曰燒津(やきつ)
 亦進相模(さかむ),欲往上總(かみつふさ)。望海高言(ことあげ)曰:「是小海(ちひさきうみ)耳,可立跳(たちはしり)渡。」乃至于海中(わたなか)暴風(あからしまかぜ)忽起,王船漂蕩(ただよひ)而不可渡。時有從王之(をみな),曰弟橘媛(おとたちばなひめ)穗積氏忍山宿禰(ほづみのうぢのおしやまのすくね)之女也。】啟王曰:「今風起浪泌(なみはや),王船欲沒,是必海神(わたつみ)心也。願以賤妾之身,(かへ)王之命而入海。」言(をはり)乃披(なみ)入之,暴風即止,船得著岸。故時人號其海曰馳水(はしりみづ)也。
 爰日本武尊則從上總轉入陸奧國(みちのくのくに)。時大鏡懸於王船,從海路迴於葦浦(あしのうら)。橫渡玉浦(たまのうら),至蝦夷(さかひ)。蝦夷賊首(あたのかみ)嶋津神(しまつかみ)國津神(くにつかみ)等,屯於竹水門(たかのみなと)而欲距。然遙視王船,豫怖其威勢(いきほひ),而心裏知之不可勝,悉捨弓矢,望拜之曰:「仰視君(みかほ),秀於人倫(ひと),若神之乎。欲知姓名(みな)。」王對之曰:「吾是現人神(あらひとがみ)之子也。」於是蝦夷等悉慄,則(かかげ)(わけ)浪,自(たすけ)王船而著岸。仍面縛服罪。故免其罪。因以(とりこ)首帥(かみ),而令從身(みともづかへ)也。
 蝦夷既平,自日高見國還之,西南歷常陸(ひたち),至甲斐國(かひのくに),居于酒折宮(さかをりのみや)。時舉燭(ひともし)而進食。
 是夜,以歌之問侍者(さぶらひひと)曰:

 諸侍者不能答言。時有秉燭者(ひともしひと),續王歌之末而歌曰:

 即美秉燭人之聰而敦賞。則居是宮,以靫部(ゆけひのとものを)大伴連(おほとものむらじ)之遠祖武日也。
 於是,日本武尊曰:「蝦夷凶首咸伏其(つみ)。唯信濃國(しなののくに)越國(こしのくに),頗未從化。」則自甲斐北轉,歷武藏(むざし)上野(かみつけの),西逮于碓日坂(うすひのさか)。時日本武尊每有顧弟橘媛之情。故登碓日嶺(うすひのみね),而東南望之三歎曰:「吾嬬者耶(あづまはや)!」【嬬,此云つま(菟摩)。】故因號山東諸國曰吾嬬國(あづまのくに)也。
 於是分道,遣吉備武彥於越國,令監察其地形(くにかた)嶮易及人民順不,則日本武尊進入信濃。是國也,山高谷幽,翠嶺萬重,人倚杖而難升。巖嶮磴紆(いはほさがしくかけはしめぐり),長峰數千,馬頓(たづな)而不進。然日本武尊披烟凌霧,遙徑大山。既逮于峰,而飢之,食於山中。山神令苦王,以化白鹿(しろきか)立於王前。王異之,以一箇(ひる)彈白鹿,則中眼而殺之。爰王忽失道,不知所出。時白狗(しろきいぬ)自來,有導王之狀。隨狗而行之,得出美濃。吉備武彥自越出而遇之。先是,度信濃坂(しなののさか)者,多得神氣以(をえ)臥。但從殺白鹿之後,踰是山者,嚼蒜而塗人及牛馬,自不中神氣也。


日本武尊東征經路


草薙劍【天叢雲劍】
佩劍藂雲自抽之,薙攘王之傍草,因是得免。故號其劍曰草薙也。


走水神社藏 弟橘媛像


連歌發祥之地 甲斐國 酒折宮

武尊詢日曲:「吾等經新治 復過筑波去有程 幾夜宿兮寢幾夜

秉燭者答歌:「日日並計者 夜者所度已九夜 日者十日既已逝


信濃坂
自古渡信濃坂者,多中神氣。而武尊殺白鹿後,凡嚼蒜而塗人及牛馬,自不復中矣。


尾津神社
昔日本武尊停尾津濱進食,解劍置松下而忘去。今至此而猶存。

武尊讚一本松歌:「其往尾張國 直面正向一本松 如此一本松者矣 筆直一本松 汝若有命為人者 願為著衣且戴冠 願為配劍繫太刀


能褒野神社
社境設有日本武尊能褒野御墓。


日本武尊 能褒野白鳥陵

日本武尊 琴彈原白鳥陵

日本武尊 舊市邑白鳥陵
日本武尊病歿能褒野,幻化白鳥而止於倭琴彈原、舊市邑,遂於彼三處造陵,時人稱曰白鳥陵。

熱田神宮
奉草薙劍為神體,伺日本武尊。


上野國略圖


景行天皇趾高穴穗宮趾
八、日本武尊病歿與白鳥陵

 日本武尊更還於尾張,即娶尾張氏(をはりのうぢ)之女宮簀媛(みやずひめ),而淹留踰月。於是,聞近江膽吹山(いぶきのやま)荒神(あらぶるかみ),即解劍置於宮簀媛家,而(むなで)行之。
 至膽吹山,山神化大蛇(おほへみ)當道。爰日本武尊不知主神(かむざね)化蛇之謂:「是大蛇,必荒神之使也。既得殺主神,其使者豈足求乎。」因跨蛇猶行。時山神之興雲零冰。峰霧谷(くらく),無復可行之路,乃棲遑(しじまひ)不知其所跋涉(ふみわたる)。然凌霧強行,方僅得出。猶失意(こころまとひ)如醉,因居山下之(いづみ)側,乃飲其水而醒之。故號其泉曰居醒泉(ゐさめがゐ)也。
 日本武尊於是始有痛身(なやみ)。然稍起之,還於尾張。爰不入宮簀媛之家,便移伊勢而到尾津(をつ)。昔日本武尊向東之歲,停尾津濱(をつのはま)而進食。是時解一劍置於松下,遂忘而去。今至於此,劍猶存。故歌曰:

 逮于能褒野(のぼの),而痛甚之。則以所俘蝦夷等,獻於神宮(かむみや)。因遣吉備武彥,奏之於天皇曰:「臣受命天朝(みかど),遠征東夷。則被神恩,賴皇威,而叛者伏罪,荒神自調(にきびぬ)。是以卷甲(をさめ)戈,愷悌還之。冀(いづれ)日曷時,復命天朝。然天命忽至,隙駟難停。是以獨臥曠野(あらの),無誰語之。豈惜身亡,唯愁不面!」既而崩于能褒野,時年三十。
 天皇聞之,寢不安席,食不甘味,晝夜喉咽(むせひ),泣悲摽擗(みむねうち)。因以大歎之曰:「我子小碓王(をうすのみこ),昔熊襲叛之日,未及總角(あげまき),久煩征伐,既而恒在左右,補朕不及。然東夷騷動,勿使討者。忍愛以入賊境,一日之無不顧。是以,朝夕進退(おこなひ)(たたず)待還日。何禍兮?何罪兮?不意之間(ゆくりもなく),倐亡我子!自今以後,與誰人之經綸鴻業(あまつひつぎ)耶!」即詔群卿命百寮,仍葬於伊勢國能褒野陵(いせのくにののぼののみさざき)
 時日本武尊化白鳥(しろとり),從陵出之,指倭國(やまとのくに)而飛之。群臣等因以開其棺櫬(みひつき)而視之。明衣空留,而屍骨(みかばね)無之。
 於是,遣使者追尋白鳥。則停於倭琴彈原(やまとのことひきはら)。仍於其處造陵焉。
 白鳥更飛至河內(かふち),留舊市邑(ふるいちのむら)。亦其處作陵。故時人號是三陵曰白鳥陵(しろとりのみさざき)
 然遂高翔上天,徒葬衣冠(みそみかがふり)。因欲錄功名(いさをしきみな),即定武部(たけるべ)也。是歲也,天皇踐祚(あまつひつぎしろしめし)四十三年焉
 五十一年,春正月壬午朔戊子(),招群卿而(とよのあかり)數日矣。時皇子稚足彥尊(わかたらしひこのみこと)、武內宿禰不參赴于宴庭(とよのあかりのには)。天皇召之問其故。因以奏之曰:「其宴樂(とよのあかり)之日,群卿、百寮,必情在戲遊(あそび),不存國家。若有狂生(くるへるひと),而伺墻閤之隙乎?故侍門下,備非常。」時天皇謂之曰:「灼然(いやちこ)!」【灼然,此云いやちこ(以耶知舉)。】則異寵焉。
 秋八月己酉朔壬子(),立稚足彥尊為皇太子(ひつぎのみこ)
 是日,命武內宿禰為棟梁之臣(むねはりのまへつきみ)
 初日本武尊所佩草薙橫刀(くさなぎのたち),是今在尾張國年魚市郡熱田社(をはりのくにのあゆちのこほりのあつたのみやしろ)也。於是所獻神宮蝦夷等,晝夜喧譁(なりとよき),出入無禮。時倭姬命曰:「是蝦夷等,不可近就(ちかつくべからず)於神宮。」則進上於朝庭(みかど)。仍令安置御諸山(みもろのやま)傍。未經幾時,悉伐神山(かむやま)樹,叫呼鄰里(さと),而脅人民。天皇聞之,詔群卿曰:「其置神山傍之蝦夷,是本有獸心(あらきこころ),難住中國(うちつくに)。故隨其情願(ながひ),令班邦畿之外(とつくに)。」是今播磨(はりま)讚岐(さぬき)、伊勢、安藝(あぎ)阿波(あは),凡五國佐伯部(さへきべ)之祖也。
 初日本武尊娶兩道入姬皇女(ふたぢいりびめのひめみこ)為妃。
  生,稻依別王(いなよりわけのみこ)
  次,足仲彥天皇(たらしなかつひこのすめらみこと)
  次,布忍入姬命(ぬのしいりびめのみこと)
  次,稚武王(わかたけるのみこ)。其兄稻依別王,是犬上君(いぬかみのきみ)武部君(たけるべのきみ),凡二族之始祖也。
 又妃,吉備武彥之女吉備穴戶武媛(きびのあなとたけひめ)
  生,武卵王(たけかひごのみこ)十城別王(とをきわけのみこ)。其兄武卵王,是讚岐綾君(さぬきのあやのきみ)之始祖也。弟十城別王,是伊豫別君(いよのわけのきみ)之始祖也。
 次妃,穗積氏忍山宿禰之(むすめ)弟橘媛。
  生,稚武彥王(わかたけるひこのみこ)
 五十二年,夏五月甲辰朔丁未(),皇后播磨太郎姬(はりまのおほいらつめ)薨。
 秋七月癸卯朔己酉(),立八坂入媛命(やさかのいりびめのみこと)為皇后。
 五十三年,秋八月丁卯朔(),天皇詔群卿曰:「朕顧愛子(かなしご),何日止乎。冀欲巡狩(めぐりみ)小碓王所平之國。」
 是月,乘輿幸伊勢,轉入東海(うみつみち)
 冬十月,至上總國(かみつふさのくに),從海路渡淡水門(あはのみなと)。是時聞覺賀鳥(かくがのとり)之聲,欲見其鳥形,尋而出海中。仍得白蛤(うむぎ)。於是膳臣(かしはでのおみ)遠祖名盤鹿六鴈(いはかむつかり),以(かま)手繦(たすき),白蛤為(なます)而進之。故美六鴈臣(むつかりのおみ)之功,而賜膳大伴部(かしはてのおほともべ)
 十二月,從東國還之,居伊勢也。是謂,綺宮(かにはたのみや)
 五十四年,秋九月辛卯朔己酉(十九),自伊勢還於倭,居纏向宮(まきむくのみや)
 五十五年,春二月戊子朔壬辰(),以彥狹嶋王(ひこさしまのみこ)東山道(やまのみち)十五國都督(かみ),是豐城命(とよきのみこと)之孫也。然到春日穴咋邑(かすがのあなくひのむら),臥病而薨之。是時,東國百姓悲其王不至,竊盜王尸,葬於上野國(かみつけののくに)
 五十六年,秋八月,詔御諸別王(みもろわけのみこ)曰:「汝父彥狹嶋王不得向任所而早薨,故汝(もはら)領東國。」是以御諸別王承天皇命,且欲成父業,則行治之,早得善政(よきまつりごと)
 時蝦夷騷動,即舉兵而擊焉。時蝦夷首帥足振邊(あしふりべ)大羽振邊(おほはふりべ)遠津闇男邊(とほつくらをべ)等,叩頭而來之。頓首(をろがみ)受罪,盡獻其地。因以免降者,而(つみなふ)不服。是以(ひむがしのかた)久之無事焉。由是其子孫於今有東國。
 五十七年,秋九月,造坂手池(さかてのいけ)。即竹蒔其(つつみ)上。
 冬十月,令諸國興田部(たべ)屯倉(みやけ)
 五十八年,春二月辛丑朔辛亥(十一),幸近江國(あふみのくに),居志賀(しが)三歲。是謂,高穴穗宮(たかあなほのみや)
 六十年,冬十一月乙酉朔辛卯(),天皇崩於高穴穗宮。時年一百六歲。


稚足彥天皇(わかたらしひこのすめらみこと) 成務天皇(せいむてんわう)

一、即位與詔勒

 稚足彥天皇(わかたらしひこのすめらみこと)大足彥忍代別天皇(おほたらしひこおしろわけのすめらみこと)第四子也。母皇后曰八坂入姬命(やさかのいりびめのみこと)八坂入彥皇子(やさかのいりびこのみこ)之女也。
 大足彥(景行)天皇四十六年,立為太子,年二十四。
 六十年,冬十一月大足彥(景行)天皇崩。
 元年,春正月甲申朔戊子(),皇太子即位。是年也,太歲辛未
 二年,冬十一月癸酉朔壬午(),葬大足彥(景行)天皇於倭國之山邊道上陵(やまとのくにのやまのべのみちのえのみさざき)。尊皇后(八坂入姬)曰皇太后。
 三年,春正月癸酉朔己卯(),以武內宿禰(たけうちのすくね)大臣(おほおみ)也。初天皇與武內宿禰同日生之,故有異寵焉。
 四年,春二月丙寅朔(),詔之曰:「我先皇大足彥(景行)天皇,聰明神武,膺籙受圖(ろくにあたりとをうける)洽天順人(あめにかなひひとにしたがひ),撥賊反正,德侔覆燾,道協造化。是以普天率土,莫不王臣,稟氣懷靈,何非得處(やすからざらむ)。今朕嗣踐寶祚(あまつひつぎ),夙夜兢惕 。然黎元(おほみたから)蠢爾,不悛(あらためず)野心。是國郡(くにこほり)君長(をさ)縣邑(あがたむら)首渠(かみ)者焉。自今以後國郡立長,縣邑置首。即取當國之幹了者,任其國郡之首長。是為中區(うちつくに)之蕃屏也。」


景行天皇 山邊道上陵
成務天皇二年冬十一月,葬景行天皇於倭國之山邊道上陵。
四年,緬先皇之治,詔令國郡立長,縣邑置首。即取當國幹了者,任其國郡之首長。是為中區蕃屏。


成務天皇倭國狹城盾列陵
成務六十年天皇崩,時年百七歲
二、設置造長、稻置

 五年,秋九月,令諸國,以國郡立造長(みやつこをさ),縣邑置稻置(いなき)。並賜楯矛(たてほこ)以為表。則隔山河而分國縣(くにあがた),隨阡陌以定邑里(むら)。因以東西為日縱(ひのたたさ),南北為日橫(ひのよこさ)山陽(やまのみなみ)影面(かげとも)山陰(やまのきた)背面(そとも)。是以百姓安居,天下無事焉。
 四十八年,春三月庚辰朔(),立甥足仲彥尊(たらしなかつひこのみこと)為皇太子。
 六十年,夏六月己巳朔己卯(十一),天皇崩。時年一百七歲。

日本書紀卷第七 終

【久遠の絆】【卷第六】【卷第八】【再臨詔】