先 賢 故 實



【宇多朝】菅原道真(すがはらのみちざね)





 菅原朝臣道真。從三位參議是善第三子。
 幼而穎悟絕倫,博通墳典,文藻鴻麗。
 貞觀中,對策高第,累遷式部少輔、文章博士,歷任權大納言、右近衛大將,遂陞台鼎。
 延喜中,為藤原時平所搆,左降太宰權帥。尋薨,年五十九。
 後京師屢有災異,世謂:「貶公之故。」乃詔追復本官,贈正二位,謚大富天神。村上帝朝,建祠于平安北野以祀之。一條帝更贈太政大臣正一位。
 道真出儒家,位極將相,達練治體,裁決如流,名蓋一時,蓋古今罕匹云。

 月夜見梅花 時年甫十一。 【菅家文草 001
    月耀如晴雪 梅花似照星 可憐金鏡轉 庭上玉房馨

『前賢故實』菅原道真



【宇多朝】藤原保則(ふぢはらのやすのり)

 菅原朝臣保則。右大臣繼繩曾孫也。敘從五位下備中權介。
 先是,亢旱飢饉,群盜公行,郡民或劫掠相殺。且前守苛酷,人民逃散,囚徒滿獄。保則到任,即施以寬政,宥小過,存大禮,仁恩篤摯。於是百姓襁負,來付如歸。門不夜扃,戶口殷阜,賦稅倍入。以勞敘從五位上。後歷備中守,轉備前權守,政績一如在備中。風化大行,吏民敬愛,謂為父母。備前、備中界,有吉備津彥神,神甚靈。嘗見形語保則曰:「感公德化,冀助公為治。」時安藝盜憑險,劫奪備後調絹,既去道歷備前,問逆旅主人曰:「國守政績何如?」對曰:「府君德化,浹洽一國,無不廉潔者。恩信感孚神明,儻有奸濫,吉備津彥神立降大罰。」且具述其治積。盜愕然變色,終夜歎息,至曉奔詣府,叩頭自首。保則曰:「是己向善,非惡人也。」即與來糧,封贓絹,付盜移備後。群下皆以謂奸人不可信。保則固保之,果如其命,遂送備後。守小野喬查,受絹放盜,自詣備前拜謝。其德化皆此類也。
 後出羽夷叛亂。用保則為出羽權守,鎮守將軍小野春風、陸奧介坂上好蔭等,皆受其節度,威惠并行。凡自津輕至海島雜夷,前代未通者,悉信服為內屬。進從四位上。
 寬平七年,卒。年七十一。保則嘗守播磨、讚岐,又為太宰大貳,所在治績為天下最。性廉潔退靜,趨善如飢渴。又有人倫鑒識。

『前賢故實』藤原保則



【宇多朝】源融(みなもとのとほる)


 源朝臣融。嵯峨天皇子也。
 歷事四朝,官爵貴顯,而有烟霞之癖。營六條河原院,園中鑿池,令人運海潮於攝津,注之池,造竈池畔。燒鹽起煙,以模陸奧海濱之景趣。又建栖霞觀於嵯峨,優游以自樂。世稱河原左大臣。
 寬平七年,薨。年七十四。

 五節朝(ごせちのあした)簪玉(かむざしのたま)()ちたりけるを()て、()がならむと(とぶら)ひて()める 【古今集 873

    (ぬし)(たれ) ()へど白玉(しらたま) ()()くに ()らば()べてや (あは)れと(おも)はむ

『前賢故實』源融



【宇多朝】島田忠臣(しまだのただおみ)

 島田朝臣忠臣。
 貞觀初,為越前權少掾。渤海聘使來,副使周元伯頗閑文辭,以忠臣能文,擢為加賀權大掾,與之唱和。既而任少外記,進從五位上。
 元慶中,為美濃介,權行玄蕃頭事。與式部少輔菅原道真,迎接渤海聘使裴頲。
 寬平元年,大學博士善淵愛成,奉授周易于帝。忠臣為都講。講竟賜宴,忠臣賦詩作序。
 及卒,菅原道真作詩哭約:「自是春風秋月夜,詩人名在實應無。」紀長谷雄嘗稱忠臣,為當代之詩匠。

 惜櫻花 時年甫十一。 【田氏家集 054
    宿昔猶桔木 迎晨一半紅 國香知有異 凡樹見無同
    折欲妨人鏁 含應禁鳥籠 此花嫌早落 爭奈賂春風

『前賢故實』島田忠臣



【宇多朝】大藏善行(おほくらのよしゆき)

 大藏朝臣善行。以文學著稱。
 貞觀十七年,敕侍藏人所,校定御書,又講顏氏家訓,教授左右年少輩於禁中。明年,講竟。賜宴於藏人所,召文章生等賦詩。
 元慶七年,為存問渤海客使。臨發陛見,賜御衣、袴各一襲。
 寬平中,敘從五位上,為勘解由次官,兼參河權介,大外記如故。先是,與左大臣藤原時平,奉敕修三代實錄。
 延喜元年,善行年方七十。時平會一時英俊於城南水石亭,以賀其壽。會者一十六人,其詩皆傳于世。時平躬執弟子之禮。時人榮之。

惜秋翫殘菊 時年甫十一。 【雜言奉和 008
    黃星星與白皚皚 野種竦根禁掖栽 增暎應同殘月助 孤奢不被曉霜摧
    多憐晚色寒初綻 難見鮮花歲盡開 此艷那逢秋後發 雞人莫報漏頻催

『前賢故實』大藏善行



【醍醐朝】紀友則(きのとものり)

 紀朝臣友則。父曰有友,宮內權少輔。友則善和歌,與從兄貫之齊名。
 寬平中,禁內歌合。友則與在左列,詠新鴈。講師方唱首句,右列者笑其誤氣節。及唱全章,笑者乃默然慚沮。
 延喜初,任大內記,授六位。

 其歌(そのうた) 【古今集 210

    春霞(はるがすみ) (かすみ)()にし (かり)()は (いま)()くなる 秋霧(あきぎり)(うへ)

『前賢故實』紀友則



【醍醐朝】紀貫之(きのつらゆき)

 紀朝臣貫之。中納言長谷雄孫,望行子也。
 妙作歌,進從四位下,行木工頭。天慶九年,卒。
 延喜中,與從弟友則等,奉敕撰古今和歌集,貫之作序。
 嘗赴紀伊,夜過和泉,所騎馬伏地不進。人告之曰:「此地有蟻通神祠,今過不下,神怒之乎。」貫之大驚,下馬盥漱吟歌,馬即得進。

 紀國に下りて歸上りし道にて、俄に馬の死ぬべく病ふ所に、道行く人人立留りて云ふ:「是は、此處に坐する神のし給ふらん。年頃社も無く、兆も見えねど、うたてある神也。さきざきかかるには命をなん申す。」と言うに、御幣も無ければ、何わざもせで、手洗いて:「神おはしげもなしや。(そもそも)何の神とか聞えん。」と問へば「蟻通の神」と言ふを聞きて、詠みて奉りける。馬の心地やみにけり  【貫之集 卷十、謠曲蟻通

    雨雲(あまくも)の 立重(たちかさ)なれる 夜半(よは)なれば 蟻通(ありとほし)をば (おも)ふべしやは

『前賢故實』紀貫之



【醍醐朝】凡河內躬恒(おほしかふちのみつね)

 凡河內宿禰躬恒。家本寒微。善和歌,醍醐帝召候御書所。
 延喜中,侯御廚子所,遷和泉權掾,授六位。後為甲斐介。帝一日召之於階下,問曰:「古人以月比弓弦。汝用其意,作歌以答。」躬恒及唱曰:
    照月(てるつき)を 弓張(ゆみはり)としも 言事(いふこと)は 山邊(やまべ)()して ()ればなりけり 【大和物語大鏡
 帝甚讚賞,賜御衣。
 其家園有櫻樹,花時賓客填門。花既謝,無復至者。躬恒感而作歌:
    ()屋戶(やど)の 花見(はなみ)がてらに 來人(くるひと)は ()りなむ(のち)ぞ (こひ)しかるべき  【古今集 067
 延喜四年,死。年四十九。
 世傳躬恒在甲斐,開山決澤,有功于民。至今國往往存其祠云。

『前賢故實』凡河內躬恒



【醍醐朝】壬生忠見(みぶのただみ)

 壬生公忠見。  幼名名多,初居攝津。身雖貧寠,蚤以和歌鳴于時。醍醐帝召之,候藏人所,賜御製和歌曰:
     ()しかども (なに)とも()らず 難波潟(なにはかた) (なに)(よる)にて (かへ)りにしかば 【袋草子、家集】
 忠見上答歌:
     住吉(すみよし)の (まつ)朦朧(ほのか)に ()きしかば 滿來(みちこ)(しほ)や 寄歸(よりかへ)りけむ 【袋草子、家集】
 帝又將使忠見候御廚子所,而意欲其自乞。因上歌曰:
     櫻花(さくらばな) 高梢(たかきこずゑ)の (なび)かずば (かへ)りやしなむ 折侘(おりわ)びぬ() 【袋草子、家集】
 御返:
     折詫(おりわび)て (かへ)らむ(もの)か 岸影(きしかげ)の 山櫻(やまのさくら)は 雲居(くもゐ)なりとも 【袋草子、家集】
 乃詔候御廚子所,授六位。有集傳于世。

『前賢故實』壬生忠見



【醍醐朝】藤原利仁(ふぢはらのとしひと)





 藤原朝臣利仁。左大臣魚名六世之孫。
 沉勇多智,矯捷絕倫,通曉兵機。
 延喜十二年,下野國高坐山賊藏宗、藏安薺等,聚黨千餘人,侵郡邑,掠貢調。命利仁討之。至則命士卒作橇。時方盛夏,眾不解其意。一夜大雪,乃襲賊營,斬獲殆盡。由是威名大振,拜鎮守府將軍。

『前賢故實』藤原利仁



【醍醐朝】白女(しろめ)




 白女。遊女也。
 亭子院(宇多)上皇,乘春幸鳥養院,遊女多集。中有稱丹後守玉淵女白女者,容色絕姝,唱謌尤佳。院召戲曰:「汝云玉淵女,未可信。朕文玉淵嗜詩歌。今汝速詠鳥養二字,則朕以為真耳。」白女即吟曰:
    (ふかみどり) 甲斐(かひあ)(はる)に 逢時(あふとき)は (かすみ)ならねど 立昇(たちのぼり)けり 【十訓抄
 院殊賞嘆焉。

『前賢故實』白女



【醍醐朝】菅原淳茂(すがはらのあつしげ)

 菅原朝臣淳茂,贈太政大臣道真子也。
 博學穎敏,富文才,殆有父風。大江匡房謂:「名儒能傳家聲者,唯都在中及菅淳茂耳。」淳茂舉秀才,對策及第,為文章博士,歷大學頭、右中辨,任式部權大輔,敘正五位下。
 宇多法皇,中秋召文人於亭子院,賦詩。淳茂作序,揮筆立成,文甚新美。法皇且誦且嘆曰:「恨不使故右相見之!」
 渤海貢使裴璆來朝,淳茂為掌客使。初璆父頲來,與道真唱和。至是淳茂亦數與璆酬酢,言及先人時事,璆讀而感泣。異域二代,兩家邂逅,世以為奇會。

初逢渤海裴大使有感吟 【扶桑集 064
    思古感今友道親 鴻臚館裏□餘塵 裴文籍後聞君久 菅禮部孤児我新
    年齒再推同甲子 風情三賞舊佳辰 兩家交態皆人賀 自愧才名甚不倫
     【往年賢父裴公以文籍少監奉使入朝,予先君時為禮部侍郎,迎接慇勤。非唯先父之會友,兼有同年之好。紀公重朝,自說我家有千里駒,蓋謂大焉。今予與使公,春秋偶合,賓館相逢,又三般禮同在仲夏,故云。】

『前賢故實』菅原淳茂



【醍醐朝】紀長谷雄(きのはせお)

 紀朝臣長谷雄。父曰貞範。貞範嘗禱於長谷寺生之。
 生而穎敏,成童志學,善屬文。未知名,一日諸生群飲,同賦詩。大藏善行,特賞長谷雄作曰:「甚得風骨。」自是才名日著。菅原道真,亦屢相唱和。宇多帝欲遣使於唐,道真為大使,長谷雄為副使,會聞唐亂而止。
 延喜中,進從三位中納言。十二年,薨,年六十八。
 長谷雄文藻膽麗,詔敕表牋,多出其手。及道真執政,每有文事,輒屬長谷雄起草,嘗侍內宴賦詩,道真執其手曰:「元白雖再生,何以加焉。」島田忠臣,亦極稱其文。

山無隱 【扶桑集 021
    幽人歸德遂難逋 抽卻簪蒿別艸廬 虛澗有聲寒溜咽 故山無主晚雲孤
    青郊不顧烟花富 絳闕初生羽翼扶 巢許若能逢此日 何因終作穎陽夫

『前賢故實』紀長谷雄



【醍醐朝】宗岡秋津(むねをかのあきつ)




 宗岡朝臣秋津。
 延喜十七年十一月,慮;試登第。上恤其頹齡,特詔褒之。
 秋津拜恩舞踏,猶不任感戴,退自殿行且歌。不覺到建禮門前,忽得句朗吟曰:「今宵奉詔歡無極,建禮門前舞踏人。」高唱不輟,衛士呵之。應曰:「新進士某。」侍士乃罵曰:「痴老學,何敢作狂此禁門也!」秋津初驚悟遁走。上聞愈憐之,官遂至參議左大辨。

『前賢故實』宗岡秋津



【醍醐朝】三善清行(みよしのきよゆき)



 三善朝臣清行。
 歷任文章博士、參議、宮內卿。博通經史百家,強記洽聞,為一時之宗。
 醍醐帝初即位,左大臣時平、大納言源光等,嫉右大臣道真,齒德并高,思遇日渥,搆成其罪,貶為太宰權帥。先是清行贈書右府,勸避權寵,書中有:「離朱之眼,不見睫上之塵;仲尼之才,難知匱中之物。公雖明哲,宜慮無妄。」之語。
 延喜十四年,清行上書言十二事,言皆剴切,文亦富瞻。天皇嘉納焉。嘗有凶宅,人不敢居。清行買而移居,妖亦隨熄。

 秋日陪左丞相城南水石亭祝藏外史大夫七旬之秋,應敎 【雜言奉和 026、本朝一人一首192
    鳴桐半燼遇知音 七十還悲雪髯侵 計老自栽松百丈 校高平對嶺千尋
    紫芝未變南山想 丹露猶凝北闕心 暮齒豈忘疎傅志 應縻相府篤恩深

『前賢故實』三善清行



【醍醐朝】巨勢金岡(こせのかなをか)





 巨勢朝臣金岡。
 貞觀中,為神泉苑監。善書畫,為當時冠了。
 元慶四年,釋奠,圖先聖先師像,歷世用之。宇多帝使源直方、藤原興基等,選弘仁以候諸儒工詩者,命金岡列畫東西障子。又畫紫宸殿賢聖障子。最長畫馬。
 有三子,相覽、公望、公忠。公望之子深江。深江子弘高。奕世善畫,不墬家聲。嘗有鬻畫者,深江購得之,弘高未奇之。深江約:「汝能此原野乎?」曰:「不能。」「能此巖溪乎?」曰:「不能。」深江徐而謂曰:「是家叔公忠之筆也。叔必署名於紙背。」試視之,果然。後世言繪事者,以巨勢氏為宗。

『前賢故實』巨勢金岡



【醍醐朝】伊勢(いせ)

 伊勢。藤原繼蔭女也。容色婉美,妙于和歌。
 始為七條后宮女,宇多帝殊龍之。後為御息所,生行明親王。帝遜位歸佛,伊勢退在五條私亭。
 延喜中,皇子著袴。作色紙形屏風,皆有四季畫,使當時眾人作歌。歌成而命小野道風書之。道風臨書,見一紙有山櫻花下立女車圖無其歌,因奏焉。帝曰:「到今無如之何?但速辨之者,其唯伊勢乎。」藤原伊衡被擇其使,以容儀閑麗也。
 伊衡即至伊勢里亭,立寢殿南面廊。有一女乞入內,客次三間立朽木形凡帳,敷重錦茵,蘭麝香洽。而看簾中,三四仕女。伊衝進隔簾演詔旨,而還坐矣。有女童二人,各著紅衫,持銚盞,又用硯匣蓋敷紅紙盛雜菓出。而女童更進酒。伊衝己醉。無幾,書歌紫薄樣紙,結之裹以同紙,副婦女裝束一具,出自簾下。伊衡取之,直參內復命。道風猶採筆待座。帝見歌,賞歎焉。左右皆駭其敏妙。所作有伊勢物語。
 其歌曰:

 齋院屏風に山道()く人()る所 【拾遺和歌集 049

    ()()らず ()かまほしきを 古里(ふるさと)の 花見(はなみ)(かへ)る (ひと)()はなむ

『前賢故實』伊勢



【朱雀朝】小野好古(をののよしふる)



 小野朝臣好古,太宰大貳葛經之子。
 天慶中,前伊藤掾純友反,招集海賊,劫掠南海、山陽二道,好古為征南海使。源經基以下諸將屬焉。好古分兵二道,與藤原慶幸、大藏春實等,海陸迫賊連捷。純友航海而走。急追之,擲炬焚其艦。艦燃眾潰。純友僅以身免,棄還伊豫。警固使橘遠保諸之,函其首送京詩。誅其子重太丸及餘黨。西海悉乎,蓋好古之力也。

 筑紫(つくし)(まか)るとて、清子命婦(きよいこのみやうぶ)(おくり)ける 【後撰和歌集 1332

    (とし)()て 逢見(あひみ)(ひと)の (わか)れには ()しき(もの)こそ 命也(いのちなり)けれ

『前賢故實』小野好古



【朱雀朝】檜垣子(ひがきこ)




 檜垣子,肥後國之遊女也。融姿閑麗,善作和歌,見者無不愛焉。
 天慶中,純友反,燒民家奪其資財,檜垣亦因此落魄。太宰大貳小野好古,奉敕討純友,過肥後白河。
謂從者曰:「我聞檜垣之名久矣。今幸來于茲,欲一見之。」時有老嫗,弊衣跣足汲水者。從者指曰:「彼即檜垣也。」好古驚其老貧,親欲問其故。檜垣恥而不到,作歌謝焉。好古哀憐,脫所著袙一襲贈之云。

 其歌(そのうた) 【大和物語、袋草子、家集】

    烏羽玉(ぬばたま)の ()黑髮(くろかみ)は 白川(しらかは)の (みづ)()(まで) ()りにける(かな)

『前賢故實』檜垣子



【朱雀朝】藤原忠文(ふぢはらのただぶみ)






 藤原朝臣忠文。參議和良之子也。
 累進正四位下,任參議,後兼民部卿。
 天慶忠,平將門反坂東,命忠文為征東將軍。方食,即頭箸而起。朝受節刀,不歸家而徑發。
 忠文嘗為近衛司,恪勤不懈,每直宿徹夜不寐,必取御廄馬置立枕畔曰:「終夕聽馬齕物嚼嚼然,乃警我眠。」其豪爽如是。

『前賢故實』藤原忠文



【朱雀朝】源經基(みなもとのつねもと)

 源朝臣經基。貞純親王長子。賜姓源氏。
 有武幹,便弓馬,又善和歌,以親王為清和帝第六子,人呼經基曰六孫王。
 天慶中,為武藏介,從藤原忠文討將門,又從小野好古討純友。敘正四位上,任鎮守府將軍。
 卒年四十五。子孫世為武臣,蕃衍無比。世所謂清和源氏,皆其裔也。

 題不知(だいしらず) 【拾遺和歌集 686

    (あはれ)とも (きみ)だに()はゞ 戀侘(こひわび)て ()なむ(いのち)も ()しから()くに

『前賢故實』源經基



【朱雀朝】紀淑人(きのよしひと)

 紀朝臣淑人。長谷雄子也。長于和歌,仕醍醐、朱雀、村上三朝。
 延長六年,任左衛門權佐,至從四位下。
 承平六年,藤原純友反於伊豫,兇勢鴟張。敕以淑人為伊豫守。賊徒素聞其寬裕,望風歸款。魁帥小野氏彥、紀邱茂、津時成等三十餘人,率眾二千五百人來降。淑人給之衣食優厚,就耕農,海表廓清。累官至式部少輔。
 天厝中,卒。

 題不知(だいしらず) 【古今集 1034

    秋野(あきのの)に 妻無(つまな)鹿(しか)の (とし)()て ()()(こひ)の 甲斐(かひ)よとぞ()

『前賢故實』紀淑人



【朱雀朝】紀貫之女(きのつらゆきがむすめ)

 紀朝臣貫之女。善和歌,入宮內為內侍。
 村上帝朝,清涼殿前梅樹枯,帝欲移植貫之園梅以代之。內侍時在家,作歌述其情。帝感賞而止。世因名其樹曰鶯宿梅。
 嘗著紀家六帖。

 鶯宿梅(おうしゅくばい) 【大鏡、十訓抄、拾遺和歌集 531

    (ちょく)なれば (いと)(かしこ)し (うぐひす)の 宿(やど)はと()はゞ 如何答(いかゞこた)へむ

『前賢故實』紀貫之女



【朱雀朝】藤原忠平(ふぢはらのただひら)

 藤原朝臣忠平。
 童齓聰慧穎敏,累進為左大臣。兄時平撰延喜格式,未及成,薨。忠平踵成之。朱雀帝即位,詔忠平攝行萬機,敘從一位,聽牛車出入上東門門。尋拜太政大臣。天慶二年,准三后,聽葷車。四年,改攝政,為關白。
 天厝三年八月,薨,年七十。詔贈正一位,追封信濃公,謚貞信。忠平寬厚慈愛,及薨朝野莫不嘆惜。宅邊有宗像神社,忠平往來必下車。一夕,夢神曰:「位卑矣,而辱公禮敬,實所不堪。」忠平為奏陞正一位。初道真為其兄時平所陷,忠平稚與道真善,及其貶,問遺不絕。其坦懷如此。

 今上帥皇子(そちのみこ)と聞えし時、太政大臣の家に渡坐(わたりおはしまし)(かへ)らせ(たま)御贈物(みおくりもの)に御本奉るとて 【後撰集 1379

    (きみ)(ため) (いは)(こころ)の (ふか)ければ (ひじり)御代(みよ)の 蹟習(あとなら)へとぞ

『前賢故實』藤原忠平



【村上朝】橘直幹(たちばなのなおもと)

 橘朝臣直幹。長門守長盛子。為文章博士。
 故事博士皆兼他官,直幹乃作申文,倩小野道風書而進之。其略曰:「拜除之思惟一,榮枯之分不同。依人異事,雖似偏頗,代天授官,誡懸運命。」(村上)初覽之不悅,至後云:「簞瓢屢空,草滋顏淵之巷;藜藋深鎖,雨濕原憲之樞者。」帝歎曰:「一世文士也,窮乃至此。是朕過矣。」即任民部大輔。直幹文,道風書,時稱二絕。

 蘭氣入輕風 【天徳闘詩行事略記 959】
    香蘭眾艸種相分 況入輕風氣不群 臨水襲來魚底浪 滿皐吹染鶴間雲
    回驚楚容秋絃馥 夢斷兼姬曉枕薰 移植若逢新雨路 毎秋猶欲播清芬

『前賢故實』橘直幹



【村上朝】藤原高光(ふぢはらのたかみつ)

 藤原朝臣高光。右大臣師輔子。才慧善歌。
 村上帝朝,至從四位下右近衛少將。帝嘗御飛春舍,召讀文選。高光諳誦之。帝大感賞。
 高光志操高潔,不慕榮貴。將避世,乃作和歌,薙髮隱橫川。帝深惜之。後移居多武峰,世稱多武峰少將。

 法師に()らむと思立侍(おもひたちはべり)りける(ころ)(つき)を見侍りて 【拾遺和歌集 435

    如此許(かくばかり) 經難(へがた)()ゆる 世中(よのなか)に (うらや)しくも ()める月哉(つきかな)

『前賢故實』藤原高光



【村上朝】小野道風(をののみちかぜ)

 小野朝臣道風。天性善書,筆勢猶勁,名譽冠絕古今。
 歷事醍醐、朱雀、村上三朝,至正四位下內藏權頭。殿壁題字,宮門扁榜,所書甚多。晚患中風而手顫,所書彌奇逸有態。
 嘗為橘直幹,書奏疏。村上帝寶愛之,常置坐側。會禁闕火,帝顧左右曰:「直幹之疏存否?」不復問他。凡其一行隻字,人競求之。為甚所貴重如此。

 請殊蒙天恩被遷山城守兼任近江權守狀 菅原文時 【本朝文粹卷六
    紫宸殿之皇居,七迴書賢聖之障子。
    大嘗會之寶祚,兩度黷畫圖之屏風。

『前賢故實』小野道風



【村上朝】大江朝綱(おほえのあさつな)

 大江朝臣朝綱。音人之孫,玉淵子也。
 博學多識,詞藻宏麗。夙舉文章生,對策登科。奉村上帝敕,撰新國史四十四卷。
 嘗餞渤海使裴璆,詩序曰:「前途程遠,馳思於雁山之暮雲。後會期遙,霑櫻於鴻臚之曉淚。」璆大感嘆之。後渤海人問我國人曰:「朝綱既昇三公歟?」答曰:「未。」曰:「上邦何不重才乎?其名播異域如此,又善書,人疑與小野道風優劣。」村上帝聞之曰:「朝綱書法不及道風,道風文詞不及朝綱。」歷右中、大辦,任參議。
 天德元年,卒。年七十二。世稱音人曰江相公,朝綱曰後江相公。

 余近賀菅秀才登科,不勝助喜,敢綴老爛。酬和之詞,韻高調奇。情感難抑,重以吟贈 【扶桑集 098
    東西雖異本同門 累代通家道尚存 八斗才多稱器量 九升情動惱夢魂
    窗螢役了辭應退 梁燕惟新賀自喧 我已晚齢君始壯 忘年共契報朝恩

『前賢故實』大江朝綱



【村上朝】藤原師輔(ふぢはらのもろすけ)

 藤原朝臣師輔,性寬裕愛眾,為右大臣正二位。
 天慶之亂,命征東將軍藤原忠文和之。未及接戰而賊伏誅。朝廷議其賞,眾謂:「忠文亦宜在褒典。」時師輔兄實賴為關白,曰:「忠文無功勞,不可賞。」師輔曰:「經云:『賞疑惟重。』彼既銜命出京師,不可謂無勞。宜賞。」實賴固執不可。時論以師輔為長者之言。
 薨年五十三。世稱九條殿。作遺誡一篇,以訓子孫,行于世。

 題不知 【後撰和歌集 292

    (つゆ)ならぬ 我身(わがみ)(おも)へど 秋夜(あきのよ)を (かく)こそ()せ 起居(おきゐ)ながらに

『前賢故實』藤原師輔



【村上朝】大江維時(おほえのこれとき)

 大江朝臣維時。千古第三子。夙舉文章生,策試擢秀才。
 天厝中,任參議。
 天德四年,進中納言。為人博聞強記,淹貫經史。又遷都以來,第宅變遷、人物死亡,年月皆能諳記之。初醍醐帝敕錄上國中花卉名,維時用國字書之,人嗤其不識漢名。維時曰:「我恐人難解故也。」帝命改用漢字,維時立書獻之,人果不能解。朱雀、村上、冷泉、圓融四帝御諱,皆其所撰進,人以為榮。
 應和三年,薨。年七十六。

 唳雲胡鷹遠 【天徳闘詩行事略記】
    唳雲胡鷹向衡陽 浙滅遙天不辨行 遮月色濃嘶杳杳 破風膚薄叫蒼蒼
    聲寒思婦閨中淚 聽暗征人隴外腸 寥廓路開銀漢遠 高翔何必獨鴦鳳

『前賢故實』大江維時



【村上朝】平維茂(たいらのこれもち)



 平朝臣維茂,鎮守府將軍繁盛子也。少小有勇略,伯父貞盛奇愛之,養為子。
 嘗從貞盛居陸奧,時豪族藤原諸任與維茂爭田,遂集兵相攻。既而諸仕避奔常陸,維茂傲不設備。諸任急還襲焉。維茂族僅二十人,力戰及曉。自火其宅,潛匿萑葦間。諸任謂維茂既死,悅而去。時士卒聞變,至者數十人。維茂曰:「疇昔之事,我甚恥之。冒恥苟生,不如一死之為快。且被狃一勝,必弛警備。」急擊斬之,自是威名大著。遂拜鎮守府將軍,卒年八十。


 貞盛多養子,維茂行在十五,故世稱曰餘五將軍。

『前賢故實』平維茂



【村上朝】壬生忠岑(みぶのただみね)

 壬生公忠岑。從五位下安綱子。善和歌。
 初為藤原定國隨身。定國嘗乘醉,深夜過左大臣藤原師尹。師尹訝問之,忠岑踞階下,以歌答之。師尹感悅,置酒歡宴達明。
 延喜中,禁中歌合。忠岑作歌,帝深感之。即擢躍隨身,遂聽昇殿,候御書所,授六位。
 康保二牟,死。年九十八。有集傳于世。後鳥羽帝問侍臣:「古今集之歌,孰為壓卷?」定家、家隆共稱:「忠岑有安計之歌。」

 題知(だいし)らず 【古今集 625

    有明(ありあ)けの 由緣無(つれな)()えし (わかれ)より 曉許(あかつきばか)り ()(もの)()

『前賢故實』壬生忠岑



【村上朝】菅原輔正(すがはらのすけまさ)

 菅原朝臣輔正。正五位下淳茂孫,從四位上在躬子也。
 天曆四年,舉秀才,歷大學頭、東宮學士、文章博士,以文藻播譽。為圓融、華山二帝侍讀。長德二年,任參議,尋兼式部大輔,至正三位。
 寬弘五年,薨,年八十五。嘗至筑紫安樂寺,創立多寶塔。乃安佛像經卷,名曰東塔。撰寺務法規三卷,藏諸寺庫。後人建祠于道真祠側,稱北野宰相殿。
 元曆元年,贈正二位。

 一昨日藤亞相於東山別業,時開尚齒會。七叟之外,儒士故人,預參宴筵,共述風情,各言春樂。予有由故,獨不追從。恨心南抑,欲罷不能。偷綴荒詞,呈前茂才 【栗田左府尚齒會詩 019
    風聞尚齒會重成 獨凌春遊有恨情 西漢樂天寒浪外 東山勝地暮雲程
    嵐行不醉消憂酒 霞步無逢喚客鶯 忘老落花心底色 助歌流水夢聞聲
    辭華吏部塵相累 句麗和州玉自瑩 七叟交中思二孝 古今猶顯我家名

『前賢故實』菅原輔正



【村上朝】藤原實賴(ふぢはらのざねより)

 藤原朝臣實賴。太政大臣忠平長子也。
 天資溫雅謹厚。初任阿波權守,累官至左大臣,兼皇太子傅,敘正二位。
 康保四年,村上帝晏駕,皇太子當登祚,罹病不能御大極殿。實賴建議:「行即位禮於紫宸殿。」是為冷泉帝。時人稱其卓識。帝寵禮之,聽輦車出入宮門。節會日不就班而直昇殿。拜太政大臣,敘從一位。
 安和二年,圓融帝右沖登極,實賴攝政。
 天祿元年,薨,年七十一。貴賤踵門,舉哀慟哭。贈正一位,追峰尾張公,謚清慎。世稱小野公。實賴練達朝章,為世儀範。

 朱雀院の子日に(おはしま)しけるに、觸事侍(さはることあはべり)りて得使奉(えつかうまつら)て、延光朝臣に(つか)はしける  【後撰和歌集 005

    (まつ)()き 若菜(わかな)()まず (なり)ぬるを 早晚櫻(いつしかさくら) (はや)()かなむ

『前賢故實』藤原實賴



【村上朝】藤原在衡(ふぢはらのありひら)

 藤原朝臣在衡。中納言山蔭之孫,但馬守有賴之子。
 以學術進,前識過人。每有帝所問,占對明詳。未嘗有窮。每朝車中行,且披覽一書。及入承顧問,必其書中事也。又以恪勤見稱。一日風雨甚,衛士相謂:「雖在衝,恐不得朝。」言未畢,雨衣滲瀝以朝。
 初源高明遭讒貶竄,在衡嘆惜之。家臣云:「大臣有闕,公且代之,是可慶也。」在衡大怒,逐其臣,累官至左大臣從二位。天祿元年,薨,年七十九。贈從一位。號曰粟田公。

 得雄朝津間稚子宿禰天皇 【竟宴和歌 074

    萬賀宇智遠 久可倍溫須惠傳 和玖能美箇 王多濃當摩讚部 安羅波禮仁計驪
    紛氏(まがふうぢ)を 探湯瓮(くかべ)()ゑて ()くのみが (わた)真珠(たま)さへ (あらは)れにけり

『前賢故實』藤原在衡



【冷泉朝】源博雅(みなもとのひろまさ)

 源朝臣博雅。 醍醐天皇皇孫,堯明親王子也。
 性好音樂。琴笛琵琶,皆極其妙。嘗月夜吹笛過朱雀門,時亦有吹笛者,音響瀏亮。博雅就而語,自後相會者數,竟不知其為誰。久之博雅知彼笛為良材,相易吹之,不復還焉。彼亦無所言。聞者謂是鬼。
 一日盜入博雅家,博雅避匿床下,盜悉室中物出。博雅亳無憂色,距床吹篳篥。盜感嘆,返所掠去。
 官至皇太后宮權大夫從三位。天元三年,薨。年六十三。

 題不知 【續後拾遺集 卷四

    何時(いつ)()く (はな)とは()れど 白露(しらつゆ)の ()きて甲斐有(かひあ)る 今日(けふ)にも有哉(あるかな)

『前賢故實』源博雅



【冷泉朝】源延光(みなもとののぶみつ)

 源朝臣廷光。人稱之枇杷大納言。
 初村上帝時,為藏人頭,眷注殊渥,有水魚之遇。嘗忽覺上有殊外之色。數日未知其謂,懼不敢朝。俄而召見,上曰:「有一學生雅材者,嫺於文章,何以不薦舉?任卿何事。」延光大駭,遽奏雅材為郎。
 帝又嘗謂延光曰:「相得如是。朕百歲之後,卿儻有憶邪?」延光曰:「天恩罔極,不能斯湏忘也。」帝曰:「時或應思爾。豈常不忘哉。」延光曰:「千秋萬歲之後,臣願終身服喪,以為刻心之符。」晏駕後遂服終身。
 冷泉帝時,或不得己,猶素服從事。帝見之垂淚。

 夢村上帝 【古今著聞集、本朝一人一首 447
    再拜聖顏一寢程 恩言芳處奉中情 夢中如覺夢中事 雖盡一生豈空驚

『前賢故實』源延光



【圓融朝】橘正通(たちばなのまさみち)

 橘朝臣正通。右大臣氏公六世之孫,實利子也。
 少小志學,師事順源,與藤原在衡同入大學,情好款密。而在衡累進為公卿,正通僅得宮內少亟,居常鞅鞅。一日在具平親王座,作詩序曰:「齡亞顏駟,過三代而猶潛。恨同伯鸞,歌五噫而將去。」源為憲讀而評之曰:「卿豈得無他意乎。」正通慨然垂淚。後果遁跡,不知所終。
 具平親王提其遺篇曰:「文華留作荊山玉,風骨消為蒿里塵。未會茫茫天道理,滿朝朱紫彼何人。」

 酒從花裡酌 【善秀才宅詩和】
    花間酌酒幾催巡 酣暢難堪欲暮春 傳盞開穿晴雪色 攜樽漫入曉霞句
    濃粧自讓含紅面 脆影猶薰舉白脣 折得爲籌枝漸見 啼鶯定恨醉遊人

『前賢故實』橘正通



【圓融朝】菅原文時(すがはらのふみとき)

 菅原朝臣文時。贈太政大臣道真之孫。右大辨高視之子也。世稱菅三品。
 村上天皇天厝三年,奉詔與博士大江朝綱、橘直幹、大江維時等,選古今詩,命小野道風書之屏風,巨勢公忠畫其像。後帝又使朝綱、文時,各擇白居易壓卷詩一首,別封上,則同釆送蕭處士遊黔南之作。帝嘆曰:「卿等鑒識相符,何以如此。」
 天德元年春,內宴召文人賦詩,以宮鶯囀曉光為題。御製先成云:「露濃緩語園花底,月落高歌御柳陰。]帝意自負。及文時作出云:「西樓月落花間曲,中殿燈殘竹裡音。」帝命文時評御製。文時曰:「聖作神妙。」帝又問:「朕作與卿,優劣何如?不直則道不見,勿有所隱。」文時曰:「聖製固優。」帝不應,顧左右 曰:「若所不盡言者,異日勿受其所奏。」文時曰:「寶可稱持。」帝強令詛誓,文時曰:「臣詩實犯帝座而升一等。乃逃。」帝愈感賞。是歲,文時上封事,禁奢侈、停賣官、不廢鴻臚館、懷遠人、勵文士。其文麗,人稱鴻儒。
 天元四年,薨。年八十四。

 仲秋釋奠聽講古文孝經 【扶桑集 078
    一千八百有餘文 名是孝經忠不分 聽盡為臣為子道 秋風吹拂意中雲

『前賢故實』菅原文時



【圓融朝】源順(みなもとのしたがふ)

 源朝臣順。大納言定曾孫,左馬允舉子也。博聞談識,工妙歌詩,而官不達,憂鬱間見文辭。
 應和、夭元間,歷民部大亟、下總權守、和泉守,為能登守。
 先是天曆五年,奉敕撰和歌後撰集。所謂梨壺五人,其一也。所著和名類聚抄二十卷,行于世。
 永觀元年,卒。年七十三。

 秋光變山水 【天德三年闘詩】
    秋光變變望中尋 山水蒼蒼景氣深 煙暗半殘鑪岫黛 月明斜入鏡湖心
    隨嵐落葉含蕭瑟 濺石飛泉弄雅琴 欲愛風流新趣去 君恩未報不抽簪

『前賢故實』源順



【圓融朝】慶滋保胤(よししげのやすたね)

 慶滋朝臣保胤。賀茂忠行子。
 潛心文學,遊菅原文時門,才識日進,聲名冠于當時。最工詩。文時嘗賜題賦詩,自謂未工,反覆沉吟。保胤適至,贊曰:「是何等絕唱。盍速獻。」文時從其言,其詩果傳播于世。
 具平親王一日問當世文人,保胤對曰:「大江匡衡,如銳卒數百,擐犀甲,策駿馬,而過淡津濱。其鋒森然,少敢當者。紀齊名,如雪朝坐瑤臺而彈箏。大江以言,如白沙庭上翠松陰畔,奏陵王舞。」親王又問:「足下何如?」曰:「似舊上達部,駕檳榔毛車,時時微吟。」世人謂不第其長短,而評隙允愜。  任大內記,兼近江掾。資性慈仁,篤信佛教。身雖立朝,而志在山林。長德三年,終。

 花鳥尚留春 【善秀才宅詩合】
    鳥啼花落幾分飛 春暮留春契豈違 風靜偏隨歌裛裛 日遲彌任艷菲菲
    若使芳景吟箏語 剩占青湯繞樹輝 惜漏玉聲高亂曲 遮晴錦影脆辭機
    令粧枝上無全盡 有意雞中不早歸 金翅碧葩令計會 伴來兼恐一首稀

『前賢故實』慶滋保胤



【圓融朝】源為憲(みなもとのためのり)

 源朝臣為憲。光孝帝玄孫,筑前守忠幹子也。
 受學於源順。順將沒,以其集屬之。為憲舉文章生。正厝中,為遠江守。民戶素凋弊。為憲至任,撫愛有方。田疇墾闢,戶口亦增。
 長德元年,任滿而歸。以功敘從五位上,而在散位二十年。
 長和三年,歷守美濃、加賀二國。為憲每赴詩筵,必攜一囊,名曰士囊。有感佳製,則入頭囊中,吟賞不已。所著有本朝詞林。

 紅霞間綠樹 【善秀才宅詩合】
    春樹春霞無定粧 霞紅樹綠錦成章 鏁煙細柳橫紅影 籠雨孤松映夕陽
    薜荔巖頭儛雪色 琉璃水上綺緋光 晴前濃淡猶難破 不待鳳櫟梓自弛張

『前賢故實』源為憲



【圓融朝】安倍晴明(あべのせいめい)




 安倍朝臣晴明。
 進敘從四位下,歷天文博士、左京大夫、播磨守。
 初師事賀茂保憲,曆算、占卜、推步之術,無不精究。古今以為師法矣。相國道長一日將往法成寺。一犬囓衣牽之,因招晴明問之。對曰:「有呪詛相公者。堀此地必有異。」如言果得土器,內有朱書一字。晴明曰:「世知此術者,獨道摩法師而已。」乃結紙作鳥形,誦呪投之,化為鷺飛去。人逐其後,果到道摩家。鞠問得實。
 又一夕,經陣座,見藏人某為鳥所穢,誠其人有禍祟,謂曰:「子命逼今夕矣。」其人淨移求救。清明隨至其家,通夜誦呪,及曉有叩門者,問之則致厭禱者,自來吐實暴死。其人卒得免。

『前賢故實』安倍晴明



【華山朝】兼明親王(かねあきらしんのう)

 兼明親王。一品中務卿,世稱中書王。
 天資豪邁,博學多才,能文兼工書,英名冠當時。自罷相後,鬱鬱不樂。卜隱於龜山,作菟裘賦以自遣。一條帝永延元年,薨。年七十四。
 帝問其子中納言源伊陟曰:「卿家有先人遺物邪?」伊陟曰:「有菟裘。」尋常進獻,帝以其語勢,謂兔皮製裘耳。既而進一卷書,即王晚年所作賦也。賦中云:「君昏臣諛,無所于愬。」帝讀之悵然。至云:「扶桑豈無影乎?浮雲掩而乍昏。叢蘭豈不芳乎?秋風吹而先敗。」帝乃知其抑鬱。帝素不滿於道長專權,至此遂深感恨。自書扶桑二句,常藏巾箱。帝崩後,道長人臥內覩而忌之,乃陰裂之。

 憶龜山 【本朝文粹 卷一
    憶龜山 龜山久往還 南溪夜雨花開後 西嶺秋風葉落間 豈不憶龜山
    憶龜山 龜山日月閑 衝山情景機關遠 要路紅塵毀譽斑 豈不憶龜山

『前賢故實』兼明親王



【華山朝】公助(きみすけ)


 公助。
 一條帝朝,攝政兼家之隨身武則子也。右近馬場賭射,公助射不如人,父武則自傍視之。大怒撻公助於眾人中。公助伏而受其杖,武則怒解而去。人曰:「子何不逃?」公助曰:「父老而性急,我走必追。追若有顛躓損傷,是重吾罪也。是以不避。」聞者感動。

『前賢故實』公助



【華山朝】藤原兼家(ふぢはらのかねいへ)

 藤原朝臣兼家,右大臣師輔第三子。
 一條帝即位,攝政,為氏長者,賜左右近衛番長,如忠仁公故事,位在三公上。
 永延二年,兼家年六十,帝設賀於常寧殿,奉幣六十社,宴東三條第,許輦車入宮門。
 是夏,兼家造二條京極第,至九月成。大宴公卿以下,東宮大進源賴光,遺馬三十疋,以頒賓客。召河陽妓佐酒。當時宴集之盛,未嘗有比。賴忠薨,兼家代之拜太政大臣。寢疾,移居東三條,辭攝政及太政大臣,乃為關白。
 正厝元年,薨,年六十二。帝服錫紵。心喪三月。稱法興院關白。

 (これ)が御返し唯稻舟(たゞいなぶね)のと仰せられたりければ又御返し 【拾遺集 575

    如何(いか)()む 我身下(わがみくだ)れる 稻舟(いなぶね)の 暫許(しばしばか)りの 命堪(いのちたへ)ずば

『前賢故實』藤原兼家



【華山朝】藤原佐理(ふぢはらのすけまさ)



 藤原朝臣佐理。清慎公孫。
 不修威儀,人謂醒時尚如泥。而以善書稱,世併兼明親王、藤原行成,號曰三蹟。累官至參議從三位。
 正曆中,出為太宰大貳。在任數年,與宇佐神人爭鬭,祠官訴之朝。因罷大貳歸京,泊伊豫海岸。風濤大起,不得濟。夜夢三島神來請書祠傍。明日書之,即風恬波穩,遂得發舩。
 尋薨,年五十五。有女適懷平,亦善書。

『前賢故實』藤原佐理



【一條朝】平兼盛(たいらのかねもり)

 平朝臣兼盛。是忠親王曾孫,父篤行筑前守。
 兼盛妙於歌,又有文才。少入大學,舉試及第。天厝中,至從五位上駿河守。
 天德中,禁裡歌合。兼盛上和歌甚巧。是日,正衣冠,端坐陳座,聞己歌得勝,不及問其餘,欣然拜舞而退。
 正曆元年,卒。

 天曆御時歌合 【拾遺集 622

    (しの)ぶれど (いろ)(いで)にけり 我戀(わがこひ)は (もの)(おも)ふと (ひと)()(まで)

『前賢故實』平兼盛



【一條朝】大中臣能宣(おほなかとみのよしのぶ)

 大中臣朝臣能宣。祭主賴基子也。
 世善歌,至能宣,最著名。與坂上望城、源順紀、時文、清原元輔,撰後撰和歌集,世稱梨壺五歌仙。進為正四位下神祇大副、祭主。
 正曆二年,卒。年七十一。
 能宣嘗赴敦實親王子日宴作歌,深自負其巧,以告父賴基。賴基吟誦數四,忽作色勵聲曰:「他日若得昇殿,侍至尊子宴,則將何詞頌之!」乃舉枕擲之。能宣走而退。

 入道式部卿親王の子日し侍りける所に、其歌(そのうた) 【拾遺集 024

    千年迄(ちとせまで) (かぎ)れる(まつ)も 今日(けふ)よりは (きみ)()かれて 萬代(よろづよ)やへん

『前賢故實』大中臣能宣



【一條朝】源雅信(みなもとのまさのぶ)

 源朝臣雅信。宇多帝皇孫。
 號一條,累進陞從一位左大臣。官務肅整,雖老于政事者,不能過焉。或問其故,雅信曰:「我以不才辱屬籍,世事人情未嘗通曉,恐來尸素之誚。是以自散列時,每班朝位,必先人而入,後人而出。默思慣習,歲月頗久,乃亦得知典故一二耳。」其謙恭如是。
 正厝四年,薨。年七十四。

 圓融院退位(くらゐさり)給て(のち)船岡(ふなをか)に子日し(たまひ)けるに(まいり)て、明日(あした)(たてまつり)ける 【新古今 1438

    哀也(あはれなり) (むかし)(ひと)を (おも)ふには 昨日(きのふ)野邊(のべ)に 御幸(みゆき)せましや

『前賢故實』源雅信



【一條朝】紫式部(むらさきしきぶ)

 紫式部。越後守藤原為時之女。
 性稟敏慧,最能和歌。涉獵諸氏百家,兼通朝章。嫁右衛門權佐藤原宣孝,生賢子。宣孝卒後,不再醮,獨與女居,披閱自娛。
 上東門院好文辭,擇婦人有才藝者,召置左右。后讀白氏文集,式部授之。又著源氏物語五十四帖,雖為寓言,時風可徵。文辭絕妙,架虛行空,往往出人意表。為人婉順淑愜,不自矜誇。其謹慎持身之槩,見于其日記。
 女賢子,亦善和歌。著狹衣若干卷。嫁太宰大貳高階成章,為後一條帝乳母。大貳三位是也。

 題不知 【千載集 1126、紫式部日記】

    (いつ)(とも) ()遣方(やるかた)の ()られねば ()しと()つゝも (なが)らふる(かな)

『前賢故實』紫式部



【一條朝】清少納言(せいせうなごん)

 清少納言。肥後守清原元輔女也。才學與紫式部齊名。
 一條帝時。仕藤原皇后,被眷遇。皇后雪後顧左右曰:「香爐峰雪如何?」左右未解其意,少納言即起褰簾。后意偶懷白居易「香爐峰雪撥簾看」句也。其他敏捷,率如此。皇后嘉其才華,欲奏為內侍,遭伊周流竄,不果。
 老而家居,屋宇甚陋。郎署年少,見其貧寠,憫笑之。少納言自簾中呼曰:「不聞有買駿馬骨者哉?」笑者慚而去。著枕草紙,行于世。

 大納言行成物語等(ものがたりなど)し侍りけるに內の御物忌に(こも)ればとて急歸(いそぎかへり)(つと)めて鳥聲にもよほされてと言起(いひおこ)せて侍りければ、夜深かりける鳥聲は函谷關の(こと)にやと言遣(いひつか)はしたりけるを立歸(たちかへ)り是は逢坂關に侍るとあれば詠侍(よみはべり)ける  【後拾遺 939

    ()()めて (とり)空音(そらね)は (はか)(とも) ()逢坂(あふさか)の (せき)(ゆる)さじ

『前賢故實』清少納言



【一條朝】和泉式部(いづみしきぶ)

 和泉式部。越前守大江雅致女也。
 天性巧和歌。嫁和泉守橘道貞,生小式部。
 道貞歿後,仕上東門院。時僧性空居播磨書寫山,舉世崇信。式部贈歌,世以為精妙。和歌之譽,與紫、清諸女相抗衡云。再醮藤原保昌。

 性空上人の(もと)に、()みて(つか)はしける、其歌(そのうた) 【拾遺集 1342

    (くら)きより (くら)(みち)にぞ (いり)ぬべき (はる)かに()らせ 山端月(やまのはのつき)

『前賢故實』和泉式部



【一條朝】小式部(こしきぶ)

 小式部。橘道貞女也。
 仕上東后。幼善和歌。母和泉式部從藤原保昌赴丹後,會禁中有歌會。初時人或疑:「其和歌,母式部所刪潤。」故中納言藤原定賴靳之曰:「丹後行李還來否?」顧內侍應勞思耳。小式部即起摻定賴袪,口占。定賴驚其敏妙,趨而去。

 和泉式部、保昌に具して丹後國に侍りける頃、都に歌合侍りけるに、小式部內侍歌詠(うたよ)みにとられて侍りけるを、定賴卿、局の(かた)詣來(まうでき)て、「歌は如何(いかが)せさせ給ふ、丹後へ人は(つか)はしてけんや、使詣來(まうでき)ずや、如何(いか)に心本無(もとな)くおぼすらん」(など)、たはぶれて立ちけるを、引留めて()める 【袋草子】

    大枝山(おほえやま) 幾野道(いくののみち)の (とほ)ければ ()(ふみ)()ず 天橋立(あまのはしだて)

『前賢故實』小式部



【一條朝】赤染衛門(あかぞめえもん)

 赤染衛門。大隅守時用女。初仕攝政道長妻倫子,後嫁大將匡衡。
 有才思,善和歌,與和泉式部齊名。藤原公任嘗欲辭亞相,倩齊名、以言諸文學為表。不中意。乃乞匡衡。匡衡諾而歸,頗有憂色。赤染怪問之,匡衡語之故。赤染曰:「此公故多矯飾,諸文學或應不言及門地之華耳。」匡衡欣然從其言具草。公任讀之大喜,遂用其文。

 大江舉周(おほえのたかちか)、和泉の任さりてのち、病おもかりけり。住吉の御祟(みたた)りのよしを聞きて、母赤染衛門、 【古今著聞集 176】

    (かは)らむと (いの)(いのち)は ()しからで ()ても(わか)れむ (こと)(かな)しき

     と詠みで、(みてぐら)に書きて、斯社(かのもり)に奉りたりければ、其夜(そのよ)の夢に、白髮の老翁ありて、此幣を取るのを見て、病癒(やまひいえ)ぬ。

『前賢故實』赤染衛門



【一條朝】伊勢大輔(いせのたいふ)

 伊勢大輔。大中臣輔親女。奉仕上東后。
 其初入后宮,后意其善和歌。后父關白道長來,會有人獻寧樂舊都八重櫻花枝者,乃以花枝示大輔,副以筆紙,滿坐屬目視其所為。少頃,大輔徐徐磨墨,書歌而進。道長視之,文字清楚,歌亦妙。道長以下眾人,感嘆之聲,震宮中。

 一條院御時、奈良の八重櫻(やへさくら)を人の(たてまつり)て侍りけるを、(その)折御前に侍りければ、其花(そのはな)(たま)ひて、歌詠(うたよ)めと(おほ)せられければ、()める 【詞花集 029

    (いにしへ)の 奈良都(ならのみやこ)の 八重櫻(やへさくら) 今日九重(けふここのへ)に (にほ)ひぬる(かな)

『前賢故實』伊勢大輔



【一條朝】巨勢弘高(こせのひろたか)







 巨勢朝臣弘高。深江之子。
 善畫,不墬家聲。其所畫屏障,當時親王執柄家,爭傳寶之。常具平親王謂藤原道隆曰:「如布障子,不可煩弘高也。」其為時所尚如此。
 平生崇佛,一時疾病,祝髮為僧。後稍愈,帝惜其技,敕復畜髮。居近江國守某東山別莊,側有佛宇,弘高為畫地獄變。相觀者竦然。今長樂寺是也。
 晚年又作地獄圖,獄卒以鉾刺罪囚者,勢甚猙獰。歎曰:「我命盡於此乎。」未幾,卒。

『前賢故實』巨勢弘高



【一條朝】紀齊名(きのただな)

 紀朝臣齊名。本姓田口,受業橋正通,以善文聞。
 一條帝,時任大內記,兼越中權守。至式部少輔。卒年三十四。
 大江匡房嘗論以言、齊名曰:「以言文章務出新奇,任意騁才,差無轡策。至其得意者,則非後進所能髣髴。否者,則又不足以為法則焉。如齊名,字字句句,依據古人,綽有風騷之體。而雖非其所意者,尚有可觀。」

 落葉賦 【本朝文粹 卷一
    霜白兮樹頂老 雨晴兮山影酔

『前賢故實』紀齊名



【一條朝】藤原道隆(ふぢはらのみちたか)

 藤原朝臣道隆。兼家長子。
 永祚元年,任內大臣,兼左近衛大將。及兼家以疾罷,代為關白。尋攝政,賜隨身,聽牛車。一條帝以其女定子入掖庭。
 長德元年,薨。年四十三。世稱中關白。弟道兼、道長,相繼攝政,世謂之三道,以比昭宣公有三平。
 道隆風姿端雅,和易能接物。在職頗無闕失。性酷嗜飲,每以藤原濟時、朝光為酒敵。

 中關白通始侍(かよひそめはべり)ける(ころ) 儀同三司母 【新古今 1149

    (わす)れじの 行末迄(ゆくすゑまで)は (かた)ければ 今日(けふ)(かぎり)の (いのち)ともがな

『前賢故實』藤原道隆



【一條朝】源滿仲(みなもとのみつなか)

 源朝臣滿仲。清和帝曾孫,經基長子。
 延喜十二年,生於攝津多田館。仕村上、冷泉、圓融三朝。為人豪爽有武略。自王公以下,皆器重之。朝廷賴以為爪牙。累歷九國守,拜鎮守府將軍,至正四位下。平生喜和歌,晚年好佛。
 通止觀初,滿仲以為,護衛之職,非有利劍,不足以示威。數鳩冶工多作刀,皆不如意。筑前有良工,祈神七日,精練六十餘日,作二刀。滿仲試之死囚斬首,餘勢一截某髯,一斷其膝,因名曰切膝丸。源氏世傳寶之。
 長德三年,卒。年八十六。

 (かへ) 【拾遺集 334

    (きみ)はよし 行末遠(ゆくすゑとほ)し (とま)()の ()程如何(ほどいかゞ) あらむとすらむ

『前賢故實』源滿仲



【一條朝】藤原實方(ふぢはらのさねかた)

 藤原朝臣實方。左大臣師尹孫,定時子。出嗣叔父濟時。
 仕一條帝,至左近衛中將。工和歌,才名甚盛。嘗遊東山雨起,實方避花陰作歌。時以為絕唱。明日,藤原齊信侍帝,盛稱之。藤原行成在傍曰:「其人驕慢。歌雖美,奚足言哉。」實方聞之大怒。適與行成論爭于殿上,實方不勝怒,取行成冠,投之于地。帝逆鱗。乃罷中將,而惜其才學,敕令錄進歌枕,授陸奧守。將赴任,召見於殿上賜酒,進位二級。
 長德四年,卒于任。賀茂橋本,蓋其祠也。後世學和歌者,詣而祈之。

 今日と賴めける(をむな)(つかは)しける 【新敕撰集 783

    大井川(おほゐかは) 井關(ゐせき)(よど)む (みつ)なれや 今日暮難(けふくれがた)き (なげ)きをぞする

『前賢故實』藤原實方



【一條朝】源賴光(みなもとのよりみつ)

 源朝臣賴光。多田滿仲長子。
 為人英武驍勇,射藝冠絕。歷事圓融、華山、一條、三條、後一條五朝,累遷至正四位上行左馬權頭、鎮守府將軍。
 長保中,為東宮大進,侍皇太子。時有狐臥于殿上,皇太子賜賴光御弓及蟇目矢,射之。賴光曰:「臣壯歲或堯射豬鹿,今筋力既衰,廢之久矣。如其不中,則墬家聲。敢辭。」遷延不發,蓋欲其自逸也。皇太子強之,乃一發貫其胸。太子及左右皆感賞之,乃賜御馬。賴光拜謝曰:「此非微臣之功,唯藉祖先神祐之力也。」其不自誇,率如此。
 治安元年,卒。從士,公時、綱、貞道、季武,四人皆以武勇著名。

 女許(をむなのもと)(つか)はしける 【拾遺集 865

    中中(なかなか)に ()ひも(はな)たで 信濃(しなの)なる 木曾路橋(きそぢのはし)の (かけ)たるやなぞ

『前賢故實』源賴光



【一條朝】大江匡衡(おほえのまさひら)

 大江朝臣匡衡。重光子也。為人長身鳶肩。
 七歲始讀書,九歲賦詩。受學祖維時。及長博學洽聞,冠絕當時。略識讖緯,兼能和歌。累遷丹波守,為侍從。
 長和元年,卒。年六十一。有集行于世。
 匡衡位不稱才,仕途掩滯。每歎其轗軻。嘗與朝網泛舟大井河遣悶。
 匡衡作歌曰:

 司召(つかさめし)()れての(とし)(あき)殿上人(をのこども)大井川に(まか)りて(ふね)乘侍(のりはべり)けるに()める 【後拾遺 973

    川舟(かはふね)に (のり)(こころ)の 行時(ゆくとき)は (しづ)める()とも (おも)ほえぬ(かな)

『前賢故實』大江匡衡



【一條朝】具平親王(ともひらしんのう)



 具平親王。村上天皇第七子也。
 康保二年,為親王授三品。自幼穎悟絕倫,善詩歌,工音律,其餘陰陽、醫術,諸技藝,無不通曉。著述甚富,嘗學文慶滋保胤,與紀齊名、大江以言友善。多集賓客,風流照映一時。
 寬弘四年春,帝召文臣於禁中賦詩。親王亦預焉。進二品,為中務卿。
 六年,薨。年四十六。世稱後中書王。

 擣衣 【江談抄】
    年年別思驚秋鴈 夜夜幽聲到曉雞

『前賢故實』具平親王



【一條朝】大江時棟(おほえのときむね)

 時棟。不詳何人子。
 其初攝政道長路見一童子,行且讀書,儀標不凡。心奇之,攜而歸家。穎敏明悟,目有重瞳子。令大江匡衡子養之。才學日進,博通經史。
 長德三年,省試獻詩。大內記紀齊名擿其瑕類,以故下第。故事省試之日,文章博士,與諸儒會式部省判定。而時棟之試,諸儒不與匡衡議。匡衡疏辯:「時棟詩,實無病累。齊名評不當。」帝令齊名辯論。齊名具書上之。匡衡復引古今駁之。時棟遂得及第。奉試凡二,任至國守。時棟又精養生術。

 及第 【本朝文粹卷第七、本朝一人一首 237
    澤猶草木覃 信幾及鱗介 日下識葵傾 空前看草靡

『前賢故實』大江時棟



【一條朝】大江以言(おほえのもちとき)

 大江朝臣以言。千古孫,大隅守仲宣子。
 以言初冒弓削氏,後復大江。在官沉滯頗久,帝欲擢用之,道長沮之。以言慍而作詩,其句曰:「鷹鳩不變三春眼,鹿馬應迷二世情。」其雄文麗句,傳世者多。當時與齊名、大江匡衡等并稱。
 大江匡衡論近世才子曰:「橘在列不及慶滋保胤,保胤不及以言。」累官至文章博士,兼式部大輔,從四位下。
 寬宏七年,卒。年五十六。

 題名待考 【江談抄】
    為深為淺風聲啼 何紫何紅雲影秋

『前賢故實』大江以言





[久遠の絆]  [再臨ノ詔]