古今和歌集 卷十三 戀歌 三
0616 彌生朔より、忍びに人に物告言ひて、後に、雨の細降りけるに詠みて遣はしける
起きも為ず 寢も為で夜を 明かしては 春の物とて 長雨暮らしつ
彌生三月朔日之時,與女竊語不為人知。其後細雨紛降,遂詠而遣贈之
相會與君後 不起不眠徹終夜 夜明日曉時 春日長雨降紛紛 眺此雨景度終日
在原業平朝臣 616
0617 業平朝臣家に侍りける女の許に、詠みて遣はしける
徒然の 長雨に增さる 淚河 袖のみ濡れて 逢ふ由も無し
詠歌遣贈侍業平朝臣家之女
徒然令人憂 長雨紛降不止息 淚河水益增 唯令青杉沾袖濕 未得逢由無所晤
藤原敏行朝臣 617
0618 彼女に代りて返しに詠める
淺こそ 袖は漬らめ 淚河 身さへ流ると 聞かば賴まむ
代彼女返歌而詠
淚川水兮淺 唯得漬袖沾襟濕 其河若深邃 而聞或可流君身 豈不賴之寄慕情
在原業平朝臣 618
0619 題知らず
寄る邊無み 身をこそ遠く 隔てつれ 心は君が 影と成りにき
題不知
身無依歸處 兩兩相離在天邊 雖隔千里遠 此心欲作君身影 膠漆不離伴身邊
佚名 619
0620 題知らず
徒に 行きては來ぬる 物故に 見まく欲さに 誘なはれつつ
題不知
徒然無所益 既知今往必空歸 然以慕情故 雖知徒然不得禁 一心欲逢誘己出
佚名 620
0621 題知らず
逢はぬ夜の 降る白雪と 積もりなば 我さへ共に 消ぬべき物を
題不知
今夜不得逢 寂寞白雪紛零落 徒然積幾許 我願與雪共消融 不堪憂情欲輕生
佚名 621
此歌は、或人の曰く:「柿本人麿が歌也。」
此歌者,或人曰:「柿本人麻呂之歌也。」
0622 題知らず
秋野に 笹別けし朝の 袖よりも 逢はで來し夜ぞ 漬增さりける
題不知
後朝惜離情 秋野越笹露沾襟 比之袖雖濡 未若今別不得逢 終夜落淚袖更濕
在原業平朝臣 622
0623 題知らず
見る目無き 我が身を憂らと 知らねばや 離れなで海人の 足怠く來る
題不知
浦無海松生 我身不欲相見逢 漁師不知之 日日臨浦不辭勞 只憂其來枉徒勞
小野小町 623
0624 題知らず
逢はずして 今宵明け無ば 春日の 長くや人を つらしと思はむ
題不知
雖至不得逢 徒過今宵空迎曉 事既如此者 何若一猶春日長 長念汝君無情人
源宗于朝臣 624
0625 題知らず 【○百人一首0030。】
有明けの 由緣無く見えし 別より 曉許り 憂き物は無し
題不知
晨曦有明月 徒留空中迎朝曉 伊人甚無情 相別不予再相會 以故憂莫勝曉許
壬生忠岑 625
0626 題知らず
逢ふ事の 無ぎさに強寄る 浪為れば 怨みてのみぞ 立歸りける
題不知
吾猶空虛浪 雖強寄岸不至浦 既然不得逢 唯有徒留憂怨在 驀然立歸空惆悵
在原元方 626
0627 題知らず
豫てより 風に先立つ 浪為れや 逢ふ事無きに まだき立つらむ
題不知
可是先浪乎 狂風未吹浪先至 吾豈非彼浪 至今尚未得逢晤 聲聞既立人言傳
佚名 627
0628 題知らず
陸奧に 有りと云ふなる 名取河 無き名取りては 苦しかりけり
題不知
道奧陸奧國 人言名取川在此 吾亦猶此川 無實之名徒為立 心苦子虛烏有言
壬生忠岑 628
0629 題知らず
文無くて まだき無き名の 龍田河 渡らで止まむ 物なら無くに
題不知
理不盡無由 事實無根浮名立 一猶龍田川 未渡先諦屈浮名 吾戀不遂徒空虛
御春有助 629
0630 題知らず
人は去來 我は無き名の 惜しければ 昔も今も 知らずとを言はむ
題不知
汝今作何想 我惜無實名徒立 願汝助一言 還述無論昔與今 不曾相識未相聞
在原元方 630
0631 題知らず
懲ず間に 又も無き名は 立ちぬべし 人憎からぬ 世にし住まへば
題不知
傳聞無所懲 無實之名蓋復立 生在此世間 吾心無以憎伊人 不覺慕情油然起
佚名 631
0632 東の五條渡りに、人を知り置きて罷り通ひけり。忍びなる所也ければ、門よりしもえ入らで、垣の崩れより通ひけるを、度重なりければ、主聞きつけて、彼道に夜每に人を伏せて守らすれば、行きけれどえ逢はでのみ歸りきて、詠みて遣りける
人知れぬ 我が通路の 關守は 宵宵每に うちも寢ななむ
東京五條渡,有親親之女棲之。吾遂懇情通之。然以彼戀隱忍不為人知,故不得由門而入,每自垣崩之處以通之。再三而後,主人聽聞此事,命人每夜伏守彼道。以故,雖往而不得見佳人,徒然空歸矣。故詠此歌,遣以贈之。
無人所知悉 吾之秘竊通路上 關守番人矣 還願每宵稍作歇 居眠令吾會佳人
在原業平朝臣 632
0633 題知らず
忍ぶれど 戀しき時は 足引の 山より月の 出でてこそくれ
題不知
隱忍堰思慕 不堪戀情油然生 時猶足引山 頂上明月越山出 吾亦出欲逢伊人
紀貫之 633
0634 題知らず
戀戀て 稀れに今宵ぞ 逢坂の 木棉付け鳥は 鳴かずもあらなむ
題不知
戀慕復戀慕 時至今宵方得晤 逢坂關神鳥 木棉付雞聽我訴 切勿鳴啼擾春宵
佚名 634
0635 題知らず
秋夜も 名のみなりけり 逢ふと云へば 事ぞとも無く 明けぬる物を
題不知
人稱秋夜長 此蓋空為徒虛名 雖得逢伊人 未滿思慕天已明 唯留心怨夜苦短
小野小町 635
0636 題知らず
長しとも 思ひぞ果てぬ 昔より 逢ふ人からの 秋夜成れば
題不知
人雖言夜長 不當真以此為是 自古昔以來 秋夜本無其長短 唯依逢人亂情矣
凡河內躬恒 636
0637 題知らず
東雲の 朗朗と 明け行けば 己が著ぬ著ぬ 成るぞ悲しき
題不知
東雲篠目晴 蒼穹朗朗露晨曦 時至天明時 倆倆衣裳別衣著 各相分離心悲戚
佚名 637
0638 題知らず
明ぬとて 今はの心 付くからに 何ど言ひ知らぬ 思ひ添ふらむ
題不知
時至天曉明 心知是時當分別 然離情依依 雖知當別悲離情 情理兩相交矛盾
藤原國經朝臣 638
0639 寬平御時后宮の歌合の歌
明けぬとて 歸る道には 幾許たれて 雨も淚も 降り袖濡ちつつ
寬平御時后宮歌合時歌
只因夜已明 只得起身踏歸道 朝雨淚俱下 幾許零兮沾袖濕 一身漬濡淚與雨
藤原敏行朝臣 639
0640 題知らず
東雲の 別れ惜しみ 我ぞ先づ 鳥より先に 鳴き始つる
題不知
東雲篠目明 當踏歸途迎後朝 惜別憂傷神 雄雞今雖未報曉 我先啼泣哭斷腸
寵 640
0641 題知らず
郭公 夢か現か 朝露の 置きて別れし 曉の聲
題不知
郭公不如歸 此聲是夢抑是幻 朝露置天明 無奈起身將別離 後朝聞聲儚飄渺
佚名 641
0642 題知らず
玉匣 開けば君が名 立ちぬべみ 夜深く來しを 人見けむかも
題不知
玉匣開天明 若吾歸在天曉後 汝浮名將立 是以吾歸在夜深 蓋是有人窺見乎
佚名 642
0643 題知らず
今朝は霜 置きけむ方も 知らざりつ 思出づるぞ 消えて悲しき
題不知
今朝寒霜降 不知其何以降置 亦不知何起 止是每思日出時 憂霜將消心悲逝
大江千里 643
0644 人に逢ひて、朝に詠みて遣はしける
寢ぬる夜の 夢を儚み 微睡めば 彌儚にも 成り增さる哉
與人相逢,翌朝詠歌贈呈
纏綿共相枕 其夜若夢甚飄渺 離別歸返後 微睡顧思更迷茫 昨夜彌似幻夢間
在原業平朝臣 644
0645 業平朝臣の伊勢國に罷りたりける時、齋宮なりける人に甚竊に逢ひて、又の朝に、人遣る術無くて思ひをりける間に、女の元より贈せたりける
君や來し 我や行きけむ 思ほえず 夢か現か 寢てか覺めてか
在原業平朝臣罷伊勢國時,竊與齋宮秘會。翌朝,欲遣使送後朝之文,卻不得其方之間,女方贈歌而來
昨夜是君臨 或是妾行相逢瀨 記憶幾迷濛 是夢或現難分辨 是寢或覺不自知
佚名 645
0646 返し
騷暗す 心の闇に 迷ひにき 夢現とは 世人定めよ
返歌
騷暗不能辨 迷惘心中闇徬徨 是夢或是現 方寸既亂無以識 還願聽聞尋世人
在原業平朝臣 646
0647 題知らず
烏玉の 闇の現は 定かなる 夢に幾らも 增さらざりけり
題不知
烏干玉夜黑 逢瀨纏綿真闇夜 雖現實無定 夜夢雖幻感更確 闇逢飄渺勝夢中
佚名 647
0648 題知らず
小夜更けて 天門渡る 月影に 飽かずも君を 逢ひ見つる哉
題不知
夜更天將明 月影渡空畫天門 雖云苦夜短 須臾一時能相見 相依相偎月舟下
佚名 648
0649 題知らず
君が名も 我が名も立てじ 難波なる 御津とも云ふ勿 綱引とも云はじ
題不知
君名亦吾名 莫令噂立傳聲評 勿言欲見吾 君非是難波御津 吾亦不述逢綱引
佚名 649
0650 題知らず
名取河 瀨瀨の埋れ木 あらはれば 如何に為むとか 逢ひ見始めけむ
題不知
名取川瀨瀨 處處淺賴現埋木 猶此木露現 雖懼二人浮名立 不堪思慕仍逢見
佚名 650
0651 題知らず
吉野河 水の心は 速くとも 瀧の音には 立てじとそ思ふ
題不知
吉野川湍急 吾心雖猶彼水速 浮名卻猶瀧 激瀧吵雜浮名立 一掩水聲蓋吾心
佚名 651
0652 題知らず
戀しくは 下にを思へ 紫の 根摺りの衣 色に出づ莫ゆめ
題不知
君若心戀吾 還願念吾在心中 莫若鮮紫服 紫草根摺染衣艷 炯炯出色引人目
佚名 652
0653 題知らず
花芒 穗に出でて戀ひば 名を惜しみ 下結ふ紐の 結ぼほれつつ
題不知
花芒秀穗出 結實穗赤人人知 今惜此戀名 心結下紐不得解 不堪慕情心憂鬱
小野春風 653
0654 橘清樹が忍びに逢ひ知れりける女の許より贈せたりける
思ふどち 一人一人が 戀死なば 誰に裝へて 藤衣著む
自橘清樹所竊逢之女許所贈來之歌
相思不堪慕 你我之一將戀死 若誰憂死之 身內誰著藤喪杉 只哀竊戀不得與
佚名 654
0655 返し
泣き戀ふる 淚に袖の 袖濡ちなば 脫ぎ替へがてら 夜こそは著め
返歌
思慕落淚下 悲從中來懷故人 杉袖沾淚濡 卻下濕衣替他杉 竊在夜中著喪服
橘清樹 655
0656 題知らず
現には さもこそあらめ 夢にさへ 人目を避くと 見るが詫しさ
題不知
身在現世間 不得會之有以也 然在夜夢中 亦避人目不相見 吾每思之悲斷腸
小野小町 656
0657 題知らず
限無き 思ひのままに 夜もこむ 夢路をさへに 人は咎めじ
題不知
無窮無止盡 戀慕伊人引前行 夜中欲相晤 步踏夢路求相會 蓋無人能咎責乎
小野小町 657
0658 題知らず
夢路には 足も休めず 通へども 現に一目 見し如は非ず
題不知
夢中不辭勞 不休行腳往相逢 慕情深至此 然雖夢見千百度 不若現實會一面
小野小町 658
0659 題知らず
思へども 人目堤の 高ければ 河と見ながら えこそ渡らね
題不知
思慕欲相逢 人目嚴密若高堤 堤堰高且聳 雖見斯川者伊人 高堰斷河難相逢
佚名 659
0660 題知らず
激瀨の 速き心を 何しかも 人目堤の 堰き止むらむ
題不知
急流荒激瀨 我心動悸將狂亂 謹慎敝人目 何以此提為口實 堰止斷腸相見情
佚名 660
0661 寬平御時后宮の歌合の歌
紅の 色には出でじ 隱沼の 下に通ひて 戀は死ぬとも
寬平御時后宮歌合時歌
一猶末摘花 紅花隱忍色不出 吾亦不作色 慕情竊通隱沼下 縱因戀死不相惜
紀友則 661
0662 題知らず
冬池に 棲む鳰鳥の 由緣も無く 底に通ふと 人に知らす莫
題不知
鳰鳥棲冬池 孤泳水上貌黯然 吾亦獨隻身 潛水通底會伊人 密逢莫令他人知
凡河內躬恒 662
0663 題知らず
笹葉に 置く初霜の 夜を寒み 凍みは付くとも 色に出でめや
題不知
初霜降笹葉 凍夜寒沁竹葉中 綠葉不改色 寂寥雖染我身心 不作憂色藏心中
凡河內躬恒 663
0664 題知らず
山科の 音羽山の 音にだに 人の知るべき 我が戀ひめかも
題不知
山科音羽山 戀音豈當為人知 慎言亦肅行 我戀不欲傳聞立 竊竊思慕藏心中
佚名 664
此歌、或人、近江の采女のとなむ申す。
此歌,或人申曰:「近江采女所作。」
0665 題知らず
滿潮の 流れ干る間を 逢難み 海松布の浦に 寄るをこそ待て
題不知
滿潮退乾去 晝間難逢苦相待 海布松之浦 夜間浪寄欲相見 枯等天暗逢晤時
清原深養父 665
0666 題知らず
白河の 知らずとも言はじ 底清み 流れて世世に 澄まむと思へば
題不知
雖有白川在 無人不言不識汝 白河底清清 吾心若彼流澄淨 世世不絕住永久
平貞文 666
0667 題知らず
下にのみ 戀ふれば苦し 玉緒の 絕えて亂れむ 人莫咎めそ
題不知
竊忍無人知 獨苦戀慕泣斷腸 玉緒魂絲斷 玉紛我心悲更亂 還望他人莫咎責
紀友則 667
0668 題知らず
我が戀を 忍び兼ねては 足引の 山橘の 色に出でぬべし
題不知
雖不欲人知 吾戀難忍今決堤 足引山高險 山橘實紅引人目 吾亦露色出慕情
紀友則 668
0669 題知らず
大方は 我が名も湊 漕ぎ出でなむ 世を憂みべたに 見る目少なし
題不知
願吾名聲者 蓋若舟漕海出湊 憂逢日之少 猶海松布難以尋 漁人頻出探機時
佚名 669
0670 題知らず
枕より 又知る人も 無き戀を 淚堰き堪へず 漏らしつる哉
題不知
吾戀甚隱忍 除枕無復他人知 悲情不能抑 憂淚決堤堰不堪 涓然啜下露慕情
平貞文 670
0671 題知らず
風吹けば 波擊つ岸の 松是れ哉 音に表はれて 泣きぬべら也
題不知
風吹拂滄海 浪擊岸上拍孤松 吾蓋此松歟 松根露顯為海洗 悲泣音洩為人知
佚名 671
は,或人曰:「柿本人麻呂が也。」
此歌者,或人曰:「柿本人麻呂之所作也。」
0672 題知らず
池に棲む 名を惜し鳥の 水を淺み 隱るとすれど 顯はれにけり
題不知
棲息池水間 鴛鴦雖喚惜名鳥 然此水淺薄 我欲惜名莫能隱 自然露顯為人知
佚名 672
0673 題知らず
逢事は 玉緒ばかり 名の立つは 吉野河の 激瀨の如
題不知
相逢誠苦短 一猶玉緒稍即逝 怎知傳聞出 吾名立若吉野川 川水激流勢急勁
佚名 673
0674 題知らず
群鳥の 立ちにし我が名 今更に 事無しふとも 驗有らめや
題不知
猶群鳥搏翅 吾名飛奔傳千里 事業已至此 汝今故作無事狀 豈仍尚存效驗哉
佚名 674
0675 題知らず
君に因り 我が名は花に 春霞 野にも山にも 立ち滿ちにけり
題不知
全是以君故 吾人傳聞遍滿地 一猶花咲時 春霞漫野瀰山間 無處不知吾噂名
佚名 675
0676 題知らず
知ると云へば 枕だにせで 寢し物を 塵成らぬ名の 空に立つらむ
題不知
恐枕知秘事 捨枕共寢隱情戀 浮名非芥子 何以如塵浮大空 虛名撤天萬人知
伊勢 676
古今和歌集 卷十三 戀歌 三 終