日本巫女史 第二篇:習和呪法時代
第四章 巫女の漂泊生活と其足跡
第一節 熊野信仰の隆替と巫道への影響
紀州の熊野神社は、古代に出雲の熊野から移住した民族が遷宮奉祀した物であるが、平安期に至り、朝野を通じて、熾烈なる信仰を集める樣に成つた。宇多帝より龜山帝に臻る九帝の行幸は、實に九十八回の多きに達し、皇后王妃の行啟も
亦
(
マタ
)
決して少く無かつた。就中、鳥羽帝は二十一回、後白河帝は三十四回、後鳥羽帝は二十八回迄、共に御一代の內に幸詣されてゐる。上の好む所下此れより甚だしきのは無しの譬に漏れず、皇室の尊崇が既に斯くの如くであるから、權門勢家より農民商估に至る迄、總ての階級を通じて、殆んど神詣でと云へば、熊野詣りが信仰の中心と成つてゐた。俚諺に蟻群の集り走るを今に「熊野參り」と云ふのは、當時、四方より雲集する熊野道者を形容した事から出た物で、更に後世の子守歌に熊野道中の悲劇を題材とした物が多いのは、又た當時の傳承である事が知られるのである
〔
一
〕
。
私は此處に熊野信仰の由來や發達を記す事は、多岐に涉るので省筆するが
〔
二
〕
、既に
平安朝
には本地垂跡の說が大成され、神佛一如の思想も普及され、殊に熊野の地は伊弉冊尊が、
有馬の花窟
に葬られたと云ふ傳說から導かれて古代から同地は死に由緣の深い場所とせられてゐた。中古、本宮を現世の極樂淨土と觀じた樣子は『源平盛衰記』等にも載せ、現今でも、妙法山を近郡の死人の靈が、枕飯の出來る間に必ず一度は詣るべき所とする等、佛法渡來以前から死靈に大關係有る地として、一般に信仰されてゐたのである
〔
三
〕
。加之、觀音信仰の隆盛に成つた平安朝の中頃から、熊野浦は補陀洛渡海
(生身の觀音を拜むとて舟に乘り、浪の隨に自ら水葬する方法である。)
の解纜地として俗信を博してゐた
〔
四
〕
。
斯うした事象だけでも、熊野神は、民間信仰を集めるのに、總ての要素を具へてゐた上に、更に有力なる一事象を加へてゐたのである。其は他事でも無く、熊野神への參詣は、伊勢の內宮・外宮と同じである──否否、熊野の祭神は、伊勢皇大神の親神であるから、此れへ參詣する事は、伊勢へ參詣するよりも、御利益が多いと世間が考へてゐた事である。勿論、世間が斯う考へるに至つた理由は、伊勢神宮は國家の宗廟として、皇室の祖神として、古くから「私幣禁斷」の制が嚴かに施かれ、貴姓臣僚と云へども濫りに奉幣する事は許されず
〔
五
〕
、況んや農商漁樵輩に至つては、神官に近付く事すら警められてゐたのである。殊に斯うした關係から、伊勢神宮の分祠は絕對に禁ぜられ、神宮に由緒有る各地の御厨でさへ、漸く神明宮の名で祭る事を、黙許されてゐたと云ふ有樣であつた。斯くて伊勢神宮に對する民間信仰は、熊野神に移る樣に成り、後には熊野明神と稱して崇拜される事と成つた。
熊野の祭神は既記の如く、諾尊の
唾液の神格化
である速玉之男・事解之男の兩神であつて、之に冊尊を加へて所謂熊野三所權現と稱した
〔
六
〕
。更に此外に九柱の神を加へて、熊野十二所權現とも云つてゐた。而して熊野の主神である速玉・事解の二柱は、前にも述べた樣に、「占ひの神」であるから、古くから巫女に親しみ有る物として、彼等の特殊の崇敬を受けてゐた事が推察される。殊に冊尊が併せ祭られる樣に成つてからは
〔
七
〕
、前に言うた如く、死靈に關係深き神として、一段と巫女に信仰される密度を加へたのである。然れば、物の本には見えてゐぬが、熊野に巫女の居つた事は、殆んど古代からであると云ふも大過無き物と考へられる。其が平安期に於いて、熊野信仰が全國的に成り、本宮、新宮、那智の三山が繁昌する樣に成つてからは、熊野は巫女の本山の如き有樣を呈するに至つた。『古事談』第三に、
法性寺入道殿
(
藤原忠通
)
發心地、少將阿闍梨房覺奉祈落之貶。
【○原註略。 】
僧伽の句云:「南無熊野三所權現五體王子。
云云。
」後日、件事申出之人有りければ、被仰云:「如然之僧伽の句は、近來の
御子
(
ミコ
)
驗者とて劣る事也。」
と有るのを見ると
〔
八
〕
、當時、熊野に巫女が居り、然も其が佛教と融合してゐた事が知られるのである。
稍
(
ヤヤ
)
後世の記事ではあるが、『宴曲抄』卷上の熊野參詣の一節に、「印南、斑鳩、切目の山、惠みも
繁
(
シゲ
)
き梛の葉、王子王子の馴子舞
〔
九
〕
、
巫女
(
キネ
)
が鼓も打鳴し、賴みをかくる
木綿繦
(
ユフタスキ
)
。」と有るのでも、當時の隆盛が想像される。
然るに、鎌倉期に入るに及び、さしもに旺盛を極めた熊野信仰も漸く衰へ始め、蟻の如く集つた道者も、次第に影を潛めるに至り、更に同期の末葉に入ると、全く寂寥を感ずる樣に成つて了つた。天野信景翁は此理由を討ねて、「元弘、建武之後,
帝
(
後醍醐
)
遷南山,道路不通。此後熊野參詣絕跡。」と論じてゐる
〔
十
〕
。斯く熊野信仰が衰滅したと成ると、此處に當然湧起した問題は、如何にして三山の祠堂を經營し、併せて社僧神人等の生活を維持すべきかと云ふ事であつた。然るに是より先に、同じ紀州の高野山に屬する
非事吏
(
ヒジリ
)
と稱する徒が
〔
十一
〕
、前述の如く護摩灰なる者を頒布して諸國を勸進した故智を學び、三山の巫女達は、或は口寄せの呪術を以て、或は地獄極樂の繪解き比丘尼として、更に牛王及び醋貝を配つて金錢を獲る為に、己がじし日本國中に向つて漂泊の旅に出た。其は恰も後世の伊勢の御師の如く、現今の越後の毒消し賣りの如く、田舍
度會
(
ワタラ
)
ひに、日を重ね月を送つたのである。而して是等の巫女又は比丘尼が女性の弱さから淪落の淵に墮ちて賣色比丘尼と化したのであるが、然も其收入は極めて多かつた物と見え、『倭訓栞』に、
熊野比丘尼と云ふは、紀州那智に住で山伏を夫とし、諸國を修業為しが、何時しか歌曲を業とし、
拍枕
(
ビンザサラ
)
を為して謠ふ事を歌比丘尼と云ひ、遊女と伍を為すの徒多く出來れるを
統
(
ス
)
べて、其歲供を受けて一山富めり、此淫を賣るの比丘尼は一種にして、縣神子と
等
(
ヒトシ
)
きもおかし。
と有る如く、熊野は尼形賣女の大本山として、是等多數
(廣文庫所引の『青栗園隨筆』には數千人と有る。)
の比丘尼を統括して收入を計り、為めに一山富む程の繁昌を致したのであるが
〔
十二
〕
、然も此色比丘尼なる者は、江戶期の中葉迄、猖んに情海に出沒した物である。
斯く多數の熊野の巫女が、全國の津津浦浦迄足跡を殘す樣に成れば、
(此考察は次節に述べる。)
兔に角に曾て存した熊野信仰の餘勢を背景とし、其が一般の巫女の呪術、及び風俗等に影響せずして終るべき筈が無いのである。果して近古に於ける巫女と其呪術とは、此れが為めに大なる衝動を受け、教育され、感化される所が多かつた樣である。唯私の寡聞なると、近古以降の巫道が極端に墮落して、何も彼も混淆雜糅したので、其中から、熊野系統の呪法なり、呪具なりを識別する事が、至難に成つて了た事である。然るに、此れに就いて、折口信夫氏は、奧州の巫女が持つ
大白
(
オシラ
)
神を中心として、此神は熊野巫女の持ち運んだのであるとて、大要左の如き考證を發表されてゐる。
おひら樣と熊野神明の巫女
人形を神靈として運ぶ箱の話では、更にもう一つの物について述べて置きたい。
(中略。)
其は奧州の
大白
(
オシラ
)
神である。金田一京助先生の論文で拜見すると、
大白
(
オシラ
)
は
おひら
と言ふのが正しい。
大白
(
オシラ
)
と言ふのは、方言を其まま寫したのと說かれて有る。此所謂
おひら
樣は、何時奧州へ行つた物か、此は恐らく誰にも斷言の出來る事では無いと思ふが、少くとも、此だけの事は言へさうだ。元來、東國に斯う言ふ形式の物が有つたか、其とも古い時代に上方地方から舊信仰が止まつたか、或は其二つが融合した物か、結局此だけに落つく樣である。
私は、其考のどれにでも多少の返答を持つてゐる。先、誰にでも這入り易いと思ふ事から言うて見ると、
おひら
樣と言ふ物は、熊野神明の巫女が持つて步いた一種の神體であつたらうと思ふ。熊野神明と言ふのは、伊勢皇大神宮で無い、紀州に於ける一種の日神である。即、宣傳者が、神明以外に他の眷屬を持つて步ゐた。
(中略。)
おひら
樣なる物も、熊野神明其ものでは無く、神明の一つの眷屬で、神明信仰を宣傳して步く巫女に直接關係を持つた精靈──神明側から言うて──であつたと思はれる。神明の外に、神明の
使令
(
ツカハシメ
)
とも言うべき物があつた、其が
おひら
神であつたのだ。
(中略。)
ニコライ・ネフスキー
(
Nikolai Aleksandrovich Nevskii
)
氏が磐城平で採集して來られた
おひら
樣の祭文と稱する物を見ると、此は或時代に、上方地方で
稍
(
ヤヤ
)
完全な形に成立した簡單な戲曲が、人形の遊びの條件として行はれてゐた事が察せられる。即、
おひら
樣の前世の物語で、本地物語とも言ふべき物が隨伴して居つた譯である。
云云。(『民俗藝術』第二卷第四號並に『古代研究』民俗學篇第二。)
私は折口氏とは多少所見を異にする者であつて、
大白
(
オシラ
)
神は神明の形代と考へてゐるので、從つて此れに反する神明の眷屬とか、又は
使令
(
ツカハシメ
)
とか言ふ事には左袒せぬが、
(猶ほ
大白
(
オシラ
)
神に就いては後に述べる。)
其他に於いては、大體同氏の說を認めて差支あるまいと信じてゐる。前揭の『源平盛衰記』に、熊野で巫女を
板
(
イタ
)
と稱したと有るのは、奧州で今に巫女を
巫女
(
イタコ
)
と言うてゐるのと、或は關係が有るかも知れず、更に東北地で同じ巫女を
若
(
ワカ
)
と云ふのは、熊野九十九王子の若宮信仰と交涉を有し、又巫女の一名を
傀儡子
(
クグツ
)
と呼んでゐるのも、木偶舞しの
傀儡
(
クグツ
)
から出た物で、其が熊野比丘尼から學んだ物であるかも知れぬ。奧羽六郡の太守であつた
藤原秀衡
が夫人を攜へて熊野へ參詣し、其歸る際に夫人が分娩したので、子持櫻の故事を殘したとか、誰でも日高川の物語で知つてゐる清姬の情人安珍も、又奧州の若き修驗者である。奧州と熊野との交通は案外頻繁なる物が有つた。
而して殊に注意し無ければ成らぬ點は、古く關東から奧州へ掛けて、熊野神の社領が、多く存してゐた事である。此れに就いては、故八代國治氏から詳しい話を聽いた事も有るが、東京に近い箱根も王子も、共に熊野の社領が有つたので、此處に三所權現を勸請したのである。斯うした例證は、奧州に於いても、隨所に發見せらるる事なのである。斯く熊野社領の多かつた事は、元より熾烈を極めた熊野信仰に負う所の有るのは言ふ迄も無いが、更に一段と思ひを潛めて、斯く迄關東や奧州へ熊野信仰を宣傳し移植した者は、是等多くの巫女──即ち熊野神明を持ち步いた彼等の活動に依る事を考へ無ければ成らぬ。古き俚謠に、「熊野道者の手に持つたも梛葉、笠に插したも梛葉。」と有るのは、此木が熊野神の神木であつて、傳說に據れば、冊尊の神靈を出雲から紀伊へ遷す時に梛木に憑け、其を奉持したのに由來すると云ふが
〔
十三
〕
、此俚謠が殆ど全國の人口に膾炙されたのも、熊野信仰を普及させた彼等の宣傳の力である。後世に伊豆の走湯權現を熊野に比し、「
今度
(
コンド
)
來る時持て來て
賴
(
タモ
)
れ、伊豆の御山の梛葉。」と歌はせる迄に至つたのである。當代に於ける熊野巫女の活動は、實に驚くべき物が有つたのである。
〔
註第一
〕『南方隨筆』の紀州俗傳に見えてゐる。
〔
註第二
〕熊野神社研究に就いては、宮地直一氏著の『神社の研究』に收めて有る物が、詳細であり、正確であり、且つ尤も權威有る物である。敢て參照を望む。
〔
註第三
〕前揭の『南方隨筆』の「牛王の名義と烏の俗信」に載せて有る。
〔
註第四
〕補陀洛渡海に就いては、『台記』、『吾妻鏡』、『中外經緯傳』等に見えてゐるが、纏つた物では、未見の學友なる橋川正氏の『日本佛教文化史』に收めて有る。此れも一讀を薦む。
〔
註第五
〕『
延喜式
』
伊勢太神宮條
に、「凡王臣以下,不得輙供太神宮幣帛。其三后、皇太子,若有應供者,臨時奏聞。」と。斯くて私幣禁斷の制は永く續いてゐたのである。
〔
註第六
〕熊野三神に就いては、速玉、事解の二神の外に、菊理媛神を加へる說が『類聚名物考』に『玉籤拾遺』を引用して載せて有る。而して此說は、古代の熊野巫女の出自と、由來とを考覈する上に、多くの暗示を與へてゐるのであるが、其を言出すと長文に成るので省略し、今は通說に從ふ事とした。
〔
註第七
〕熊野三神の內に冊尊を配した年代に就き、林道春の『本朝神社考』中の三に『古今皇代圖』と云ふ書物を引用して、
崇神朝の六十五年
に在る樣に記して有るが、元より信用すべき限りで無い。本當は判然せぬと云ふのが穩當である。
〔
註第八
〕『古事談』は『史籍集覧』本に據つた。
〔
註第九
〕此處に『馴子舞』とは、巫女が賣笑した事を意味してゐるのである。
〔
註第十
〕『鹽尻』卷四十六
(帝國書院の百卷本。)
〔
註十一
〕高野山には學侶、行人、非事吏の三者が居て、各各其勢力を爭つた物である。詳細は『紀伊續風土記』の高野山部に載せて有るが、非事吏の社會的地位とか、其仕事とかに關した物では、柳田國男先生の『鄉土研究』第二卷第六號所載の「聖と云ふ部落」が卓見に富んでゐる。
〔
註十二
〕『熊野鄉土讀本』に據ると、江戶期に紀州德川家の財政を救濟する為の一策として、熊野宮の祠官に資金を與へ、其を他の大名旗本農商へ高利で貸付け、幕末には利殖の額十餘萬兩に達し、明治維新の際に、紀州藩が江戶を無事に引拂へたのは、此金が有つた為だと載せて有る。紀州の高野金は、他の座頭金、エタ金と共に、江戶期庶民の金融機關の一つであつたが、熊野社人が別に斯うした事を遣つたとは、餘り世に知られてゐぬので、敢て附記した。
〔
註十三
〕鈴木重胤翁の『日本書紀傳』卷十二に見へてゐる。此神木の奉持者を玉木氏と云ひ、更に分れて鈴木氏、穂積氏と成つたと云ふ事である。
第二節 笈傳說に隱れた巫女の漂泊と土著
我國には古くから、笈に納めて背負うて來た神體、又は佛像が遽に重量を加へ、人力を以て動かす事が出來ぬままに、遂に其土地に祀つたと云ふ傳說が、各地に亘り、殆んど更僕にも堪えぬ程夥しく殘つてゐる。然も此事たるや、明治中葉迄は、其信仰が儼として生きてゐたのである。下總國匝瑳郡野田村
大字
野手には、法華宗六老僧の一なる日朗の出生地とて、朗生寺と云ふ巨刹が有る。明治十五年中に、備中國後月郡高屋町の矢吹伊三郎なる者惡疾を病み、迴國の為、佐渡身延等を經て房州に往かんとて、同寺に參詣せしに、背にせる笈急に重く成りて動かず、奈何ともする事が出來ぬので、止むを得ず、此地に足を留め、朗尊の靈に奉仕せんと決心し、日夜心身を盡して佛を念じ、病者の為に祈禱を續けたと有る
〔
一
〕
。此話等も故日下部四郎太氏に聽かせたら、直ちに得意の力學を以て縱橫に論じて、「信仰に非ず、詐謀也。」とでも言うたかも知れぬが
〔
二
〕
、兔に角に斯うした信仰が、大昔から民間に存してゐて、神も咎めず、佛も怒らず、又た人も怪しま無かつた事だけは事實である。私は此處に神體や佛像が動かぬままに、此れを奉持した者が、笈と共に其地に土著し、又は奉祀したと云ふ類例を舉げ、此笈傳說に隱れた巫女漂泊の故鄉遠き旅の姿と、荒蕪の地を開拓して部落を作つた經過を記述して見たいと思ふ。
唯前以て一言お斷りして置かねば成らぬ事は、時勢の降るに連れて、巫女と修驗者とが餘りに接近し、餘りに親密と成つた為に、記錄の上に於いても、兩者が全く雜糅されてゐて、巫女の事を修驗者として誤り傳へたと思ふ物や、此れに反して修驗者の事を巫女として民俗に殘したと思ふ物が有り、更に其持物等にあつても、笈は修驗者の背に負ふ物、巫女は外法箱を肩に
(中古の繪卷物等見ると笈を背負うた女子も多く存してゐた。)
する物と、記錄の書かれた後世の事相から見て、古へも斯うであつたと推定した物さへ有り、かなり混雜してゐて今からは其を明確に判別する事は出來ぬのである。殊に其頃は、民間信仰の上からは、神と佛との境界線が殆んど撤せられてゐた所へ、修驗は神佛道の三つを一つ物としてゐたし、巫女も此影響を受けて、神も佛も無差別と云ふ有樣なのであるから、神とあるも佛の事やら、佛とあるも神の事やら、此れも極端に混淆してゐて、到底其一一を截然と識別する事が出來ぬのである。其で止む無く、玉石同架と云はうか、巫覡一體と云はうか、兔に角に、私が巫女に關係有る物と考へた物を、雜然として列舉した點である。現在の私の學問の程度では、此れ以上は企て及ばぬ事故、取捨は讀者にお任せするとして、豫め賢諒を乞ふ次第である。
神體又は佛像が重く成つた為に、其場所に奉祀したと云ふ傳說は、餘りに夥しく存してゐるので、此處に其總てを盡す事は思ひも寄らぬので、
稍
(
ヤヤ
)
代表的の物だけを、奧羽、關東、中國、四國、九州に掛けて抽出する。一は同じ樣な事の陳列を控へるのは、讀者を倦怠から救ふ事であるし、二はさらぬだに物識りぶると思はれるのを避ける為であり、三は例證は數の多きよりも質の良いのが尊いと考へたからである。
羽後國河邊郡豐崎村
大字
戶嶋の戶嶋神社
(祭神素尊。)
は、昔京都鞍馬山の林正坊なる者不動尊を笈に入れ、諸國遍歷の途次此地に休息すると、俄に笈が重く成つて動かず、遂に此地に留まつて祠を建てて祀つたが、明治に成つてから神社と改めた
〔
三
〕
。岩代國耶摩郡月輪村
大字
中小松の鄉社菅原神社は、俚傳に神良種と云ふ者が、此像
(高さ五寸七分の鑄物。)
を京都に得て、迴國の折に、此地へ來た所、急に重く成つて動かぬので、鎮座した物である
〔
四
〕
。常陸國多賀郡松岡村
大字
赤濱の妙法寺の境內に、僧日辨
(日蓮の俗弟と云ふ。)
の墓が有る。法難の為、弟子達が日辨の棺を負ひ此處迄來ると、急に重く成つたので、止む無く此處に祭り寺を建てた
〔
五
〕
。千葉市の千葉神社は、古く妙見社と稱してゐたが、領主千葉成胤の弟胤忠が家督を奪はんとして、神像を負ひ、往く事數百步にして、遽かに重く成つて棄てたので、此處に社を建てて祀つた
〔
六
〕
。武藏國北埼玉郡下忍村
大字
下忍の藥師堂の本尊は、昔
藤原秀衡
の守護佛で、奧州信夫の鄉に安置して在つたのを、夢想により、相州鎌倉へ遷さんと同所迄來たりしに厨子重く成りて動かず、佛意なるべしとて一宇を建てた
〔
七
〕
。上野國邑樂郡羽附村
大字
野木前の楠木神社は、俚傳に
延元二年
七月四日楠氏の遺臣、小林、田部井、石井、半田、江守等が、
正成
の首級を笈に納め、此地を過ぎり野中の大樹の下に到りしに、笈重くして負ふ事能はず、由つて此地に留り、首級を大樹の下に埋め、祠を建て野木明神と稱し、遺臣も此處に土著し開村したと有る
〔
八
〕
。此話等は、下總國古河町に賴政神社を祀つた緣起と、全く同巧異曲の物である
〔
九
〕
。併しながら、摘錄するつもりでも、斯う書き列べて國盡しをするのでは、其こそ富士山の張りぬきを拵へる程原稿紙を要するので、此邊から筆を飛ばす事とする。
越後國北蒲原郡加治村
大字
金津新村
(?)
、蒲原神社の境內五社明神の社殿に、比丘・比丘尼の二木像が有る。昔秩父六郎重保夫婦が、
源義經
を慕うて此國へ來て剃髮し、死後居宅を寺と為し、白蓮寺と稱した。後年寺は亡びたが、住僧は夫婦の木像を持つて出羽に赴かんと、偶偶此地に來たりしに、木像忽然として重き事金石の如く、止む無く此れを五社の拜殿に置いたと云ふ
〔
十
〕
。能登國鳳至郡浦上村
大字
西圓山の地藏尊は、始め同郡鵠巣村
大字
西大野に在つたが、或る年西圓山の村民が此地を通ると、路傍に聲有つて、「共に往く。」と云ふので、此地藏尊を擔ひて歸りしに、今迄輕かつた像が、忽ち重く成つて動かぬので、此處に安置した
〔
十一
〕
。越前國坂井郡棗村
大字
深坂に百姓半助と云ふが有り、家に
源賴光
が大江山入りの時用ゐたと稱する、古き笈を所藏してゐる。此笈の緣起二卷有るが、由來は、以前福井藩の仕士であつた太田安房が、祖先の
源三位賴政
から傳へた此笈と、獅子王の劍と傳へて來たのを同藩中の柳田所左衛門に讓つた。所左衛門後に此村に退いたが、半助は其玄孫である
〔
十二
〕
。是等は、賴政が
憑坐
(
ヨリマシ
)
の訛語である事を知れば、賴光大江山の物で無くして、憑り祈禱を遣つた修驗の物である事が直ちに釋然する。
土佐國香美郡德王子村の若一王子神社も、永源上人と云ふ者が、紀州熊野から神體を得て厨子に入れ背負うて來たと有る〔一三
〔
十一
〕
。周防國玖珂郡餘田村
字
北迫に流惠美酒社が有る。土地の傳へに、五六百年も前に、廣嶋から流れ著いた物で、「
惠比壽
(
ヱビス
)
樣は廣い廣嶋に緣が無くて、狹い田布施の田の中に。」と云ふ俗謠が有る
〔
十四
〕
。肥後國球摩郡上村の谷水藥師は日本七藥師の一と稱されてゐるが、此本尊は、元奧州金華山に在りしを、或る六部が背負うて迴國の途すがら、此處で像が重く成つたので、祀堂を建てた
〔
十五
〕
。大隅國姶良郡牧園村
大字
巣窪田の熊野權現社は、大永三年の社記に據ると、昔異人が有つて、熊野三所神を笈に入れて負ひ來たり、岩上に安じて一夜を明し、翌朝に笈を舉げんとせしに重き事磐石の如く、故に此地に祀つたと有る
〔
十六
〕
。
さて以上書き列ねて來た此種の笈傳說は、一面から見れば、巫覡の徒が漂泊に勞れて、其土地に居著かうとする方便として利用したのかも知れぬが、斯うして神や佛を背にして、國國を遍歷した彼等の心情を察する時、必ずしも利用とばかり見るのは酷で、或は現今でも行はれてゐる「おもかるさん」の樣な信仰が伴つてゐた物と信ずべきである。
以上は雜然と笈傳說を並べただけであつて、此中のどれだけが、巫女に限られた物であるかさへ、判然せぬ程であるが、今度は
稍
(
ヤヤ
)
明確に巫女に、關した物を檢出するとする。然るに、此れに就いては、夙に柳田國男先生が『鄉土研究』第一卷第八號で、卓見を發表せられてゐるので、左に此れが要點を轉載する。
巫女の旅行用具として、最重要なる物は其手箱である。此箱中は極秘であつて、見た人が無いから色色の臆說が有るが、
(中略。)
兔に角口寄の靈驗は其力の源を、此箱から發してゐると見て宜しい。
(中略。)
此箱の形が古今東西を通じて同じであるか否か、自分は未だ深く調べて見たのでは無いが、
(中略。)
箱ならば其引出しや入れ底に少少の雜品を藏つて置いても、さして不體裁でも無いから、結局、此れ一つで天下を橫行する事が出來たのであらう。此點から見れば、男の修驗者が背に負う所の笈も、巫女の手箱も目的は一つで、一所不在の傳道者が本尊を同行する方法としては、箱が一番好都合であつた事は想像に難く無い。
今一つ箱類の方が便利であつたかと思ふ點は、行先先任意に樹の陰石の上等に安置して、自分も拜み人に信心させるのに手輕であつた事である。
(中略。)
稍
(
ヤヤ
)
大膽な假想說ながら、諸國の雜神の名目に、
天白
(
テバク
)
、
山白
(
サンバク
)
、
野白
(
ノバク
)
等と云ふのが多いのも、事に依ると
白神
(
シラカミ
)
の思想に影響せられた、箱神であつたかも知れぬ。中山共古翁の說に、遠州中泉の西南に野筥と云ふ部落が有つて、白拍子千壽の本尊佛を安置したと云ふ千手堂及び千壽の墓又は朝顏の墓等と云ふ怪しい古跡も有る。又野筥と云ふ地名は、昔能面を埋めたのに基くと云つてゐる。
(見附次第。)
巫女の口碑が、何時の間にか、
小野小町
、
和泉式部
、俊寬僧都の娘、さては大磯の虎等と云ふ古名媛の傳記に附會せられてゐる事は、極めて普通の現象である。斯の
曾我兄弟
の靈を思ひ掛け無い土地に祀つてゐるのも、大磯の虎を中に置いて考へぬと分ら無い。美作苫田郡上田邑の箱王谷では、俚民箱王の像を刻ませて之を祀つて居た。『作陽志』には箱王は如何なる人か知らず、此邊に金丸烏帽子町等の地名が有つて、何か由來が有るらしいと有る。此も多分は大磯の虎の故事にこじつけられて居るだらう。『曾我物語』に五郎時致の童名を箱王と有るが、其動機は何であつたか。箱根に成長したから箱王だと云つても良いが、其も亦小說であつたなら、どうして其趣向が浮んだかを尋ねたい。白王權現と云ふ祠は土佐に甚だ多い。
(南路志。)
此神の王の字は王子の王で古人の幼名に何王何若の多いのが、何れも元は神の
御子
(
ミコ
)
に擬して、其保護を仰いだのと同じく、神託を仲介すべき人の稱號から移つた名であらうと思ふ。
云云。(中山曰、誌上には川村杳樹の匿名に成つてゐる。)
柳田先生の研究に從ふと、筑前箱崎八幡宮の箱松の由來や
〔
十七
〕
、若狹國の筥明神や、更に各地に在る箱清水の中からも、巫女關係の物を見出す事も出來る樣に思はれるが、今は其にも及ぶまいと考へたので省略する。
漂泊の旅を續けた巫女の成る果は、好運の者でも、名も無き堂守りか、非運の者は並木の肥料となるのが落ちの樣にも考へられるが、其中には神社を興す者も有り、稀には一村落を開拓して、永く草分け芝起しの土產神と仰がるる者も有つた。筑前國早艮郡脇山村字子谷に十二社神社
(即ち熊野十二所權現である。)
と云ふが有る。土地の口碑に、昔比丘尼某が紀州熊野神の分靈を奉じて此處に土著し、谷口、內野、原田、上原、寺地の六部落を開拓したので、今に六部五十餘戶の產土神と成つてゐる。此比丘尼の墓は谷口に殘つてゐるが、貞觀年中に椎原の下日堰
(轡堤とも云ふ。)
を築き水路を通じ、脇山地內八町步、內野地內十六町步の田に灌漑して農利に便じたと云ふ事である
〔
十八
〕
。阿波郡美馬郡祖谷村は山深い片田舍であるが、俚傳に此村は、昔
惠伊羅御子
(
エイラミコ
)
と稱す巫女が來て、耕耘機織の道を教へたので、今に其を祀つた祠堂が存してゐる
〔
十九
〕
。讚岐國小豆郡坂手村も、大昔にセセ御前と土人が云ふ巫女が來て、開拓したのが村の始まりだと云はれてゐる
〔
二十
〕
。飛驒の牛蒡種と稱する憑物の本場である雙六谷の部落等も、又斯かる人物が土著開拓した物と思ふが、既に此事は管見を發表した事があるので割愛する
〔
廿一
〕
。村村の開發とか產業
(殊に製紙事業。)
の發達とか云ふ點と、巫女の關係を究める事も興味の多い問題ではあるが、今は此程度に留めるとする。
本節を終るに際し、開村の序に一言すべき事が有る。其は、大昔の農民が他村に移住し、又は居屋敷を潰して社地とする際に、信託を受ける信仰の存した事である。安藝國安藝郡倉橋嶋の農民が、
享保十五年
正月に鹿老渡へ移住を企て、有志三十六人相談して里正に訴へ、里正吉凶を神意に問はんとて、同二月一同打揃つて八幡神社に詣で、神官藤村大和は、神社の舞台に於いて、白刃を持つて舞ふ事久しく、
(此れを御託の舞と云ふ。猶ほ刃戟を持つて舞ふ事の起源は、巫女の呪術と交涉が有るのだが、其を言ふと長く成るので省略する。)
やがて神の告げ、「吉也。」とて眾議一決して移住した
〔
廿二
〕
。越後國蒲原郡芹田村に、昔吉見御所と云ふ貴人が暫らく居住した。後に此御所跡を神慮に任せんとて、氏神熊野神社の神主式部太夫朝日御子と云ふ者に命じ、阿氣淵と云ふ所にて神託を乞はしめ、其神告に依り、高出村に移住し、居地には若宮を祀つた
〔
廿三
〕
。巫女が民間信仰に深い交涉を有してゐた事は、此一言を以ても容易に知られるのである。
〔
註第一
〕『千葉盛衰記』。
〔
註第二
〕故日下部氏は、御輿荒れを力學から說いた遍痴奇論者であつた。其顛末と日下部氏の謬見であつた事とは『祭禮と世間』
(爐邊叢書本)
に詳しく載つてゐる。
〔
註第三
〕『河邊郡誌』。
〔
註第四
〕『福島縣耶摩郡誌』。
〔
註第五
〕『多賀郡誌』。
〔
註第六
〕『新撰佐倉風土記』。
〔
註第七
〕『新編武藏風土記稿』卷二一六。
〔
註第八
〕『群馬縣邑樂郡誌』。
〔
註第九
〕『許我志』に載せて有る。此れには渡邊競が賴政の首級を負うて來たと有る。
〔
註第十
〕『越後野志』卷九。
〔
註十一
〕『鳳至郡誌』。
〔
註十二
〕『越前國名蹟考』卷一〇。
〔
註十三
〕『諸神社錄』。
〔
註十四
〕『鄉土研究』第三卷第十一號。
〔
註十五
〕『球磨郡鄉土誌』。
〔
註十六
〕『三國名所圖繪』卷四十。
〔
註十七
〕『筑前續風土記』卷十八參照。
〔
註十八
〕『早良郡誌』。
〔
註十九
〕『美馬郡鄉土誌』。
〔
註二十
〕『讚岐史』初篇。
〔
註廿一
〕拙著『日本民俗志』所收の「牛蒡種という憑き物の研究」參照。
〔
註廿二
〕『倉橋島志』。
〔
註廿三
〕舊會津藩領の事を書いた『新編會津風土記』卷一〇二。
第三節 漂泊巫女の代表的人物八百比丘尼
若狹國の八百比丘尼──苟くも我國の民間傳承に興味を有つた者で、更に巫女の考察に趣味を有つた者で、恐らく此名を知らぬ者は無からうと思はれる程の有名な人物であるが、さて其正體はと云ふと、恐らく誰でも突き留めた者は無いと云程の厄介な人物なのである。此れに關しては、古く山崎美成翁も記述を殘し、近くは西川玉壺翁も考證を試みたが
〔
一
〕
、前者は斷片的で報告に留まり、後者は言筌に落ちて、失敗に終つた。私は此怪談に包まれた八百比丘尼こそ、漂泊巫女の代表的人物と考へてゐるので、茲に
稍
(
ヤヤ
)
詳しく短見を述べるとする。
八百比丘尼の傳說は、室町期に大成された物であるが、其出自が、怪奇を極めてゐる上に、此傳說を運搬した物が、漂泊を續けた巫女だけに、殆んど全國に分布されてゐる。加之、運搬の際に、幾らづつか語り
歪
(
ユガ
)
めた物も見え、時に依り、處に依り、話の筋に多少の出入が有つて、頗る複雜な物と成つて了つた。然ればと言うて、其傳說を一一舉げて、此れが異同を究めるのは、容易な事では無いし、又其迄に廣く探す必要も有るまいと信ずるので、先づ傳說の本筋とも見るべき物を示し、此れを基調として、二三の異說を對照して、次に私見を述べるとする。
林道春の『本朝神社考』卷六都良香條に、
余先考嘗語曰:「傳聞,若狹國有號白比丘尼者。其父一旦入山遇異人,與倶到一處,殆一天地,而別世界也。其人與一物曰:『是人魚也。食之延年不老。』父攜歸家,其女子,迎歡而取衣帶,因得人魚于袖裏,乃食之。
【蓋肉芝之類歟。】
女子壽四百餘歲,所謂白比丘尼是也。」余幼齢,嘗聞此事而不忘。
云云
〔
二
〕
。
と有るのが、先づ傳說の本筋である。若者道春が幼齢で此事を聞くと有るのは、室町期の末葉天正十五六年の交と思はれるので、此頃は既に立派に傳說は完成されてゐたのであらう。尤も八百比丘尼が京都へ來て俗信を集めた事は、信用すべき史料なる『康富紀』及び『臥雲日件錄』の文安六年五月から七月迄の記事に見えてゐるので、此比丘尼の出沒は、天正頃よりは更に百五六十年も前の事であるのは疑ひ無いが、其傳說が稍纏つて物の本に記されたのは、『神社考』が最古の樣に考へたので、先づ此れを典據として說を試みる次第なのである。而して此れに由ると、(一)若狹國の生れであつて、(二)白比丘尼と稱した事、(三)人魚を食うて長壽を保ち、(四)四百歲を生存した事が知られるのであるが、然るに是等に就ては、其一一に異說が有るので、其を揭げて見ようと思ふ。元元、巫女が持步いた傳說に過ぎぬ物を、力瘤を入れて詮議するのも心無い事の樣に考へる者も有るかも知れぬが、巫女の漂泊者が、極めて小さな意味の文化ではあるが、傳說や歌謠や物語等を、足跡の留まる所に植えつけて往つた事を知る上に、相當の意義が潛んでゐると信ずるので、敢て此態度を執るとした。
第一の生地に就いては、若狹と云ふのが通說と成てゐるが、併し『若狹郡縣志』にも『向若錄』
(同國の地誌。)
にも、八百比丘尼は遠敷郡の後瀨山麓の空印寺に在る洞窟に隱栖したとは記して有るが、決して同國で生れたとは載せて無い。『勢陽五鈴遺響』鈴鹿郡平野村八百比丘尼塚條に、
白比丘尼俗に八百比丘尼と稱す、若狹に神に祭りて八百姬神明と崇めたり。和漢三才圖會引若狹國風土記云、「昔此國有男女,為夫婦,共長壽,人不知其年齢。容貌若如少年。後為神,今一宮是也。因稱若狹國。」
云云。
と載せて有るが、流布本の『三才圖會』には斯かる記載無く、且つ若狹風土記等云ふ書物は寡見に入らぬ。良し又、此れが記載して有つたとしても、單に此れだけでは、若狹生れの證據とは成らぬ。
然るに此れに反して、若狹以外の生地に就いては、段段と各地に資料が殘されてゐる。奧州會津地方の俗傳に據れば、秦勝道なる者、
元明朝
の
和銅元年
に岩代國耶摩郡金川村に來て、里長の娘と相馴れて、
養老二年
元朝に一女を儲けた。勝道豫て庚申を崇信し、村の父老を集めて庚申講を營むと、或日、駒形岩の邊りなる鶴淵から龍神が出て、大眾を饗應した。其中に九穴貝有り、人怪んで食はず、道に棄てたのを、勝道拾つて歸宅し、女其を食して
(中山曰、人魚で無い事に注意されたい。)
長壽を保ち、八百比丘尼と成つた
〔
三
〕
。美濃國益田郡馬瀨村
大字
中切に治郎兵衛と云ふ酒屋が有つた。龍宮に至り「キキミミ」と稱する蟲鳥獸の物言ふ事を聽き分ける物を貰つて來た所、其娘が此れを開き、中に在つた人魚の肉を食ひ、八百年の長壽を得て、諸國を遍歷した。死ぬる時に、黃金の綱三把を埋め、杉を折つて墓標とし、「漆千杯、朱千杯、朝日輝き夕日
映
(
ウツ
)
らふ其木下に、黃金の綱三把有り。」と記して死んだ。杉木は枯れたが、根は今に殘つてゐる
〔
四
〕
。此の末節の謎の樣な歌は、墓所の地相を詠んだ物で
〔
五
〕
、後から比丘尼に附會した話である。同國稻葉郡蘇原村
字
三柿野に、昔アサキと云ふ長者が有り、娘一人を殘して死んだ。娘は麻木の箸で食事を為し、其箸に付いた飯粒を池魚に施した功德で、八百歲の永生きをした。後に各務村に住み、古跡今尚六字の名號の碑を存してゐる
〔
六
〕
。此話も箸信仰に關する物を
〔
七
〕
、後人が繼ぎ合せた物で、前の話と共に、八百比丘尼の傳說としては價值の少い物である。飛驒國吉城郡阿曾布村
大字
麻生野
字
森之下で、八百比丘尼は生れた物で、本名は道春と云うた。同郡上寶村
大字
在家の桂本神社に在る七本杉は、比丘尼が鎌倉から持ち來つて栽ゑた物である。根は一本で、六尺ばかりの所で七本に分れ、根の圍り十抱へある大杉で二本有る
〔
八
〕
。
其から越後國三嶋郡寺泊町
大字
野積
字
岩脇の漁家納屋事高津某に一女が有つた。妖色仙姿にして、年を經るも齢傾かず、常に十六七歲の處女に等しく、三十九度他家へ嫁し、
(中山曰、婚數が諸書必ずしも一致し無い點に、傳說の成長と云ふ事が考へられる。)
後に剃髮して諸國を巡り、若狹小濱の空印寺境內に草庵を結んで止住した。既に八百年を生存するも、處女の如かりし故に、八百比丘尼と稱した。諸方の候伯に召されて、往事を語るに確然たり、世に八百比丘尼物語と云ふ書物が有る。尼は天然に死ぬ事が出來ぬと悟り、
元文
年中境內に入定し遺品が有る。尼の生家は、高津金五郎と稱し現存し、遺物とて越後の古繪圖一枚有る
〔
九
〕
。此傳說は、八百比丘尼が名の如く八百年生きた者と信じて書いた所に、古人の質朴さが窺はれ、且つ尼の生家が殘つてゐる等は、益益以て面白い事である。傳說と歷史との相違を判然と知ら無かつた著者には、無理も無い事であるが、其にしても元文と云へば僅に百五十年前ばかりの頃であるのに、此不思議な尼が生きてゐたと信ずるとは罪の無い事である。殊に尼が天然に死す能はずと悟つて入定したとは、愈愈以て傳說の世人を迷はす事の大なるを感じた。播州神埼郡寺前村
大字
比延に、八百比丘尼が投身した場所が有ると傳へてゐるが
〔
十
〕
、是等も餘り長く生きるのに呆れて飛び込んだ所かも知れぬ。
能登國には、何故か不思議に、八百比丘尼に關する遺跡や、傳說が多いので、茲に其總てを舉げる事は出來ぬが、一つだけ揭げると、『能州名跡志』卷一に、
羽咋郡富來より二里の間八百比丘尼の植し椿原と云ふ有り。按ずるに若狹の白比丘尼の舊跡は所所に在り。是は伊勢國白子の產故に、白比丘尼とも、又八百比丘尼とも云ふ。又越中黑部の庄玉椿の產とも云へり。
(中略。)
迴國して若狹の白椿山に在りしとて今に繪像有り。手に椿枝を持てり。
(中山曰、椿枝を持つ事が、尼の巫女であつた一證である。注意せられたい。)云云。
土地の傳に、昔越中黑部川港に玉椿の里とて幽なる所有り、以前は玉椿千軒とて繁昌なる土地也しが、此處の里長友と共に上洛の途中武士と道連れと成れり。此武士は越後國妙高山の麓に住む三越左衛門と云ふ千年經たる狐也。馳走すべしとて長を伴往き、人魚の料理を出す、長は食はず、長の友は懷中して歸宅し、其女土產と思ひて食し八百比丘尼と成る。
(中略。)
又能登國鳳至郡繩又村の產れとも云ふ。
と有る。人魚を食はせた物を、非類の狐にするとは、傳說を合理化しさうとした、昔の人の苦心する所である。佐渡國佐渡郡羽茂村
大字
大石
字
田屋に、八百比丘尼誕生の屋敷跡と云ふが有る。昔庚申待の折に、田屋の爺さんが、人魚の肉を持歸り、家の少女に食はせたのであると傳へてゐる
〔
十一
〕
。因幡國岩美郡には八百比丘尼の生地を二箇所傳へてゐる。前者は稻葉村
大字
卯垣の古城主が、河狩の時竹ヶ淵で人魚を獲て食し歿したが、其後落城の折に男子は悉く討死し、女子一人殘りて長壽を保つたと云ひ、後者は面影村
大字
正蓮寺の老婦が、人魚の馳走を持歸り、娘が食つて八百比丘尼と成つたと云うてゐる
〔
十二
〕
。父が食つて娘が長生したと云ふ話も可笑しいが、更に此事を記した著者が、「惣じて比丘尼屋敷又は比丘尼城等云ふは、國中所所に在り、皆毛無山の俗稱也。」と論じてゐるのも、比丘尼と稱する者が漂泊し土著した事を閑卻した說である。
紀伊國那賀郡丸栖村
大字
丸栖の村老相傳へて、八百比丘尼は、此村の產と云うてゐる。今其證據となるべきは何も無いが、此事は若狹でも信じてゐると云ふ
〔
十三
〕
。土佐國高岡郡須崎村多之鄉の鴨神社の華表の傍に、八百比丘尼の塔と云ふが有る。
白鳳年間
の事であるが、漁人が大坊海で人魚を獲て娘が食ひ、長壽を享け、諸國を遍歷し、若狹に留りしが、後に歸鄉して死んだ
〔
十四
〕
。筑後國山門郡東山村
字
本吉の俚傳に、奈良朝頃に唐人竹本翁と云ふが住み、其娘が同郡舞鶴城主牡丹長者に仕へた。或る時、肥後の桑原長者から稀有の螺貝の肉を贈つたのを、娘盜み食つて長壽を保ち、一良人に二三十年。又は六七十年仕へしも、合計二十餘人の多きに達したと云ふ
〔
十五
〕
。此話は「仙女物語」の骨子と成つてゐるのであるが、其を言出すと長くなるので割愛する。猶ほ筑前遠賀郡芦屋町庄浦にも、長壽貝を食つた八百比丘尼系の傳說を載せてゐるが
〔
十六
〕
、此れも埒外に出るので省略した。
第二の白比丘尼と稱した事は、既載の
中
(
ウチ
)
伊勢、若狹、能登の記事にも見えてゐるが、未だ此外にも存してゐる。相模國足柄下郡元箱根塞河原に白比丘尼の墓が有る。文字數十字を鐫れど漫滅して讀めぬ。武藏國足立郡植田谷領にも白比丘尼の舊蹟が殘つてゐるさうだ
〔
十七
〕
。伊勢國鈴鹿郡關町の地藏堂に、白比丘尼が寶藏寺と自筆した額が什物として殘つてゐる
〔
十八
〕
。詮索したら、猶ほ幾らでも出て來ると思ふが、此事は八百比丘尼の一名を白比丘尼と稱したと云ふ點が明確に成りさへすれば、宜しいのであるから、今は詮索の手を餘り延さぬ事とする。
第三の人魚を食つたと云ふ點であるが、此れは既記の如く、多數は此れに一致し、僅に九穴貝と螺貝を食つたと云ふのが一二有るだけ故、此れも深い詮索は差控へるとする。殊に傳說の本筋から言へば、人魚でも長壽貝でも、更に林道春の考へた如く肉芝であつても差支は無く、要するに、長命を合理化させん為に、異物を食した事に假托した迄の事である。
第四は尼の長壽の年數であるが、『神社考』には四百歲と云ひ、他は概して八百歲と云ひ、然も八百比丘尼の名の起りは、此年壽に由る物だと稱してゐる。此問題も、武內宿禰の三百六十歲や、浦嶋の年數と同じく、四百歲と云ふも、八百歲と云ふも、傳說の事故どうでも宜しいのであるが、更に考へて見無ければ成らぬ事は、八百比丘尼の名の由來が、果して年壽から負うた物か否かと云ふ點である。曾て南方熊楠氏は、此れに就いて、
八百比丘尼と云ふ事、劉宋天竺三藏求那跋陀羅譯『菩薩方便境界神通變化經』中卷に、「世尊說是經時、八百比丘尼脫優多羅僧衣以奉上佛。
云云。
」文字麁なる時代には、こんな事を說解して、八百人を八百歲と合點し傳說出來しかとも覺ゆ。「
標芽原
(
シメジヶハラ
)
の
指燃草
(
サシモグサ
)
は眾生の事なるを。」
(中山曰、此歌は新古今集に清水觀音の詠として有る。)
標芽原
(
シメジヶハラ
)
の
艾
(
モグサ
)
は名產と心得、例の瀉を
波
(
ナミ
)
から片男波も名所と成り、蜀山人の書きし物に、松年と云ふ女郎に
聞
(
キ
)
かばやと云ふ舞妓も出來し由の類か
〔
十九
〕
。
南方氏一流の考察を試みられてゐるが、私は別に稚見を有してゐるので、後で纏めて述べる事とする。
而して尼の在世時代に就いては、諸說全く區區としてゐる。遠く奈良朝の
白鳳
年間と云ふのが有るかと思へば、或は近く江戶期の
元文
年中と云ふのも有り、更に越後柏崎町の十字街路に在る石佛には、「
大同二年
八百比丘尼建之」と彫刻して、今に文字鮮明也、と云つてゐる
〔
二十
〕
。殊に馬鹿げた物には、尼が若狹に居る時、
源義經
主從が山伏姿と成つて、奧州へ落ちて行くのを、目撃したと云ふ話の傳へられてゐる事であるが
〔
廿一
〕
、是等は共に、傳說が持ち運ぶ人に依り、移し植ゑられた所により、如何
樣
(
ヤウ
)
にも變化し、成長する物であると云ふ事を示唆する以外には、學問上、差して價值の有る問題では無い。要するに此傳說は、室町期に於いて大成された物と思へば、間違ひ無いのである。
私案を記す前に、猶ほ八百比丘尼の足跡が、如何に廣汎に印されてゐるかに就いて、極めて大略だけを
(前載の地方と重複する物は省筆して。)
述べて置きたい。此れは中古の巫女が、漂泊生活を送つた旁證として、多少の參考と成る物と信ずるからである。武藏國には、此尼の由緣の地が數十箇所程有るが、殊に有名なのは、北豐嶋郡瀧野川町
大字
中里に庚申碑三基有るが、其中央に建てるは、尼の建てし古碑と稱し、高さ四尺程ある。又
之
(
コレ
)
より東北十丁餘の田の中に、雜木の茂れる森が有るが、俗に比丘尼山と云ひ、八百比丘尼の屋敷跡と傳へてゐる
〔
廿二
〕
。北足立郡新鄉村
大字
峰の八幡宮境內に、銀杏の老樹が有る。尼の手植ゑと云ひ、更に尼は同郡貝塚村の人とも云うてゐる
〔
廿三
〕
。猶ほ此外に、尼の守護佛であつた壽地藏を祀つた土地も有るが省略する。下總國海上郡椎柴村
大字
猿田に、比丘杉とて樹齢一千年以上を經た老木が有る。八百比丘尼が植ゑた物と傳へてゐたが、明治三十八年六月に伐採された
〔
廿四
〕
。駿河國沼津市に八百姬明神と云ふが有る。來由未詳だが、一說には尼と關係有るとも云ふ
〔
廿五
〕
。隱岐國には尼の手植ゑの杉が三本有つたが、其中一本大風に吹き折られ、其木だけで一宮の本社拜殿の普請が出來たと云はれてゐる
〔
廿六
〕
。未だ各地に殘つてゐるが、概略に留めて、愈愈結論に入るとする。
さて長長と書續けて來た八百比丘尼の正體は、聰明なる讀者は既に氣付かれた事と思ふが、一言にして云へば、
大白
(
オシラ
)
神を呪神とした熊野比丘尼の、漂泊生活の傳說化に
外成
(
ホカナ
)
らぬのである。
大白
(
オシラ
)
神の發生や、分布に就いては、後に述べるが、此尼が古く白比丘尼と稱したと有るのは、即ち
白
(
シラ
)
神を呪力の源泉として捧持したのに所以するのである。其を白の字を充て嵌めた為に、伊勢の白子で生れたとか、更に白ッ子と稱する女性で、何年經つても處女の如しとか云ふ傳說を生む樣に成つたのである。
尼が長壽を保つたと云ふのに就いては、室町期に於いて發生した他の長壽譚を併せ考へて見る必要が有る。此れに關しては、既に柳田國男先生が說かれた如く、常陸坊海尊、殘夢和尚、鬼三太等が、三百年・五百年の長命をしたと云ふ物語が、一般民眾の間に歡迎されてゐた事である
〔
廿七
〕
。然るに、
大白
(
オシラ
)
神を持つて諸國を漂泊した白比丘尼が若狹國の八百姬神社に附會される樣に成つた。『鹽尻』卷五に、
俗間に八百比丘尼の影とて、小兒の守にも入れる物有り、此れ何人ぞ。曰く、八百姬明神の事也。祠若州小濱に有り、姬の歌に、「若狹路や白玉椿八千代へて、
復
(
マタ
)
も越しなむ
矢田坂
(
ママ
)
かは。」其緣起は實に妖妄の事也。
と有る如く、此れに附會されると同時に、一方長壽譚の影響を受けて、此處に八百姬から思付いた八百歲說が唱へられる樣に成り、更に長壽を合理的に考へさせる為に人魚や九穴貝の事が
〔
廿八
〕
、段段と工夫され、追加される樣に成つたのである。 室町期は、暗黑時代と云はれるだけに、民眾は政治的にも、經濟的にも、塗炭の苦杯を續け
樣
(
サマ
)
に滿喫させられた。其だけに迷信が猖んであつて、巫覡の徒は其間隙に乘じて跋扈跳梁した。江戶期から明治期の後半迄民間に行はれてゐた有らゆる迷信は、殆んど室町期に大成された物であつて、我國の迷信史に於いては、平安期と對立して重要なる位置を占め、殊に前者が貴族的であるに反して、後者が民眾的であつただけに、一段と關心すべき內容を有してゐるのである。斯うした世相に於いて、巫覡の徒が、民間信仰に培はれた八百比丘尼を利用し、此れを言ひ立てて、漂泊と收入の便とした事は見易い事である。『康富記』
文安
六年五月條に[若狹白比丘尼上洛、又東國比丘尼於洛中致談議事。]と記し、
(中山曰、目錄のみ本文は缺けてゐる。)
更に『臥雲日件錄』
文安
六年七月二十六日條に、「近時八百歲老尼、若州より洛に入る。洛中の者爭ひ觀んとす。堅く居る所の門戶を閉て、人に容易く看せしめず、斯かれば貴者は百錢を出し、賤者は十錢を出す、然らざれば門に入る事を許さず』と有るのは
〔
廿九
〕
、全く傳說を利用した計畫の圖星に當つたものと云へるのである。
而して此尼が手にした椿こそ、
(又尼が植ゑたと云ふ椿山は既記の能登の外にも各地に有る。)
古き熊野神が諾尊の
唾液
(
ツバキ
)
から化生した事を象徵した物であつて、然も此椿が
(我國のと支那のと同字異木である事は既述した。)
嘉樹瑞木としてよりは、更に我國に於ける生命の木と迄信仰される樣に成つたので、此れを持つ事が、彼女の巫女であつた事を物語つてゐるのである。猶、八百比丘尼と對立して考ふべき物に、七難の
揃毛
(
ソソゲ
)
を有した巫女の在つた事である。此れは
後段
に述べるが、彼之を參照する時、此種の巫女が室町期に出現するのも、決して偶然で無い事が知られるのである。
〔
註第一
〕山崎翁の說は『海錄』に、西川翁の說は『上毛及び上毛人』に連載された。西川翁には、生前二三度御目に掛かつた事も有るが、私の所謂ブルジョア神道の、更に化石した樣な說の持主であつた。
〔
註第二
〕『本朝神社考』は、原本は漢文であるが、此處に『大日本風教叢書』本の譯文を引用した。
(浦木按、本テキストでは原本の漢文に還原す。譯文は
巫研 Docs Wiki
を參照すべし。)
〔
註第三
〕『新編會津風土記』卷五十五。
〔
註第四
〕『岐阜縣益田郡誌』。
〔
註第五
〕朝日夕日の歌が、墓所の地相を詠じた物である事は、故坪井正五郎氏が夙に『東京人類學會雜誌』で論じてゐる。
〔
註第六
〕『美濃國稻葉郡誌』。
〔
註第七
〕青萱の箸、竹の箸、南天の箸等、箸に關する俗信は多く存してゐる。併し今は其を言はぬ事とする。
〔
註第八
〕『飛驒遺乘合府』。
〔
註第九
〕『溫故の栞』第十八篇。
〔
註第十
〕『增補播陽俚翁說』。
〔
註十一
〕『日本傳說叢書』佐渡之卷。
〔
註十二
〕『因幡志』。
〔
註十三
〕『紀伊續風土記』卷三十五。
〔
註十四
〕『土佐古跡巡覧錄』。
〔
註十五
〕『耶馬台探見記』。
〔
註十六
〕『諸家隨筆集』
(鼠璞十種本)
。
〔
註十七
〕『新編相模風土記稿』卷二十七。
〔
註十八
〕『參宮圖繪』卷上。
〔
註十九
〕『南方來書』卷十
(明治四十五年四月十二日附)
。
〔
註二十
〕『笈埃隨筆』卷八
(日本隨筆大成本)
。
〔
註廿一
〕『提醒紀談』卷四
(同上)
。
〔
註廿二
〕『十方庵遊歷雜記』四編下
(江戶叢書本)
。
〔
註廿三
〕『新編武藏風土記稿』卷一三八。
〔
註廿四
〕『千葉縣海上郡誌』。
〔
註廿五
〕『駿河志料』卷六十二。
〔
註廿六
〕『西遊記續篇』卷一
(帝國文庫本)
。
〔
註廿七
〕『雪國の春』の附錄「東北文學の研究」に見えてゐる。
〔
註廿八
〕九穴貝の俗信も古くから有つた。『雲陽秘事記』に據ると、出雲大社の御神體も此れだと有る。元より信用すべき限りで無いが、斯うした俗信の有つたと云ふ證據だけには成る。
〔
註廿九
〕『臥雲日件錄』の分は、カードを藏ひ無くしたので、前載の『提醒紀談』卷八から轉載した。
[久遠の絆]
[再臨ノ詔]