日本巫女史 第二篇:習和呪法時代


  • 第二章、修驗道の發達と巫道との關係

     明治四年に、全國の修驗道に屬する修驗者(俗に山伏と云つた。)を廢止した時の第一の理由は、修驗は神社と異り、一定の氏子を有せず、更に寺院と違ひ、一定の檀徒を持たぬ為であつたと聞いてゐる。維新の際の宗教行政には、今から考へて見ると、多少の無理も伴つてゐた樣であるが、此れは萬事に改革を急いだ當時としては止むを得ぬ事と思はれる。而して此修驗道なる物は、獨り一定の氏子や檀徒を有してゐ無いばかりで無く、其教義に於いても、儀軌に於いても、(コレ)がと云ふ獨自の特色が有るでは無く、古神道と、道教と、佛教との三者の(ウチ)から、民間信仰に交涉有る物だけを拾集め、其へ不完全な體系を加へた物であつて、一言にして云へば、無特色が特色で、俗に謂ふ八宗兼學的の「何でも御座れ」を表看板にしてゐたのである。換言すれば、神道と、道教と、佛教の三つから、都合の宜い所を少しずつ摘んで來て、(コレ)を山岳崇拜と云ふ修驗道の基調とした鎔爐(ルツボ)の中へ入れて煮上げた物にしか過ぎぬのである。更に極言すれば、修驗道は、我國の宗教界に於ける寄生蟲であつたとも評する事が出來るのである。併しながら山岳信仰を高調してゐただけに、好んで深山高嶽に出入して、人跡未到の地を開拓した功績は認め無ければ成らぬ。其に年久しく民間信仰に喰込んでいただけに、其勢力は實に驚くばかりの物であつて、
    明治に廢止された折には、先達と稱する頭目だけでも、約十七萬人の多きに及び、此他に小先達とか脇先達とか云ふ者を加へたら、無慮幾十萬と云ふ夥しき數であつたらうと云ふ事である。斯うした勢力を有してゐた修驗道と巫女との關係はどうであつたか、私は其兩者の交涉を例の速斷で簡單に記述したいと思ふ。

  • [久遠の絆] [再臨ノ詔]