日本巫女史 第三篇:退化咒法時代
第三章、巫女の社會的地位と其生活
第一節 歌謠の傳統者としての巫女
先年、慶應義塾大學で開かれた「地人會」の例會で、其年に壹岐の民俗採集に赴かれた、折口信夫氏の採集談を承つた事が有る。席上には、柳田國男先生、金田一京助氏、小澤愛圀氏の外に、數十名の學生がゐた。私も席末を污して拜聽した。
折口氏の講演が終つてから、苦茗を
啜
(
スス
)
りながら、氏の講演に關しての、批評やら、質問やらが續けられた、
何時
(
イツ
)
も斯うした場合に、話の中心者と成るのは柳田先生であつて、私等は折口氏の講演が高遠であつて了解せぬ
所
(
トコロ
)
の多いのを、柳田先生のお話により會得する事が出來ると云ふ有樣であつた。其時、折口氏の話に、壹岐のう
命婦女
(
イチジョウ
)
と稱する市子は、神降ろしの祭文として、
百合
(
ユリ
)
若說經を語るのを常とし、然も其を語る時は、
百合
(
ユリ
)
と稱する
曲物
(
マゲモノ
)
を弓に載せるとの一節が有つた。
(此事の詳細は
既述
した。)
私は此話を聽いて、我國の百合若傳說の名は
之
(
コレ
)
から起り
〔
一
〕
、然も巫女が說經を語る事が、同じ九州にゐる盲僧が、琵琶に合せて地神經を讀み、祈禱が濟んでから、望まれれば
崩
(
クヅ
)
れを語る風を起した物であらうと言うた所
〔
二
〕
、柳田先生は即座に、「其は近頃の發見だ。」と言はれた事が有る。
現在、壹岐の
命婦女
(
イチジョウ
)
が語る
百合
(
ユリ
)
若說經には、新古の二種有つて、共に其內容は
ユリセス
(
Ulixes
)
の影響を受けて、全くの英雄物語と成つてゐると云ふが、其遠い昔の說經が單なる英雄譚で無かつた事は想像される。折口氏から借用したノートブックには左の如く記されてある。
壹岐には、百合若說經を書いた書物が、尠くとも二本有る。一本は、
命婦女
(
イチジョウ
)
の話では、箱崎渚津の或る家に有ると云うたが、諸吉南觸
(中山曰、地名。)
の松永熊雄氏の家の八十老翁は、八幡の馬場氏が持つてゐると言うた。今一本は、後藤正足氏の家に有る本である。此方は借覧したが、
命婦女
(
イチジョウ
)
から聞き取つた筋とは、幾分違ふ
樣
(
ヤウ
)
である。
此說經は、宇佐・由須原兩八幡の本地物である。
萬能
(
マンノウ
)
長者と朝日長者との、
寶比
(
タカラクラ
)
べの段から始まつて、寶多くて子の無い萬能長者は、貧窮で子十人も持つた朝日長者に、「百の倉より子が寶。」と負けて
了
(
シマ
)
ふ。
其
(
ソレ
)
から申し子の段に成る。
其
(
ソノ
)
次が
鞍馬段
(
クラマンダン
)
、
(原註、鞍馬の段か。)
忍びの段と成つて、王樣のお姬樣を盗んだ咎で、百合若は嶋流しに成る。其後が鬼攻めの段で、
惡路王
(
アクドコオ
)
(原註、惡路王か。)
と云ふ鬼の目に、百合若の姿が見え無いで、退治られると云ふ話。最後が末段である。綠丸
其
(
ソノ
)
他の件は、此段に出て來るのである。トドの詰りは、百合若の妻たる王の姬は、豐後の宇佐八幡、百合若は由須原八幡に成るのである。外の段は遣る事も遣らぬ事も有るらしいが、「寶比べの段」は大事故、
命婦女
(
イチジョウ
)
のお勤めには、必ず唱へる事に成つてゐる。說經の間は、例の竹で弓を叩いてゐるのである。
云云
〔
三
〕
。
此折口氏のノートに
據
(
ヨ
)
つて、誰にでも知られる
樣
(
ヤウ
)
に、市子が唱へた古い說經の筋は、萬能長者と朝日長者との交涉を語つてゐた物である。そして、百合若が嶋流しに成る以下は、ユリセスの影響を受けた物である事が明確に認められる。即ち此說經は、折口氏が言はれた
樣
(
ヤウ
)
に本地物であつて、古く巫女が歌謠者であつた事を證示してゐる物である。
本地物は、室町期の中頃から、巫女に
依
(
ヨ
)
つて隆んに謠はれる
樣
(
ヤウ
)
に成つた。
(其起原は、古く平安朝
迄
(
マデ
)
遡り得ると思ふが。)
そして故荻野由之氏に依つて蒐集された『御伽草子』に載せて有る物だけでも、信州諏訪明神の本地である物臭太郎、嚴島本地等を始めとして、決して少い物では無い。伴信友翁が、「此書はすべて漫語を記せる物。」として斥けた『安居院神道集』には、殆んど各神社の本地物を集成したのでは無いかと思はれる
迄
(
マデ
)
に、
夥
(
オビタダ
)
しく採集して有る。
而して、此本地物を謠つて、各地を步いた者が、巫女である事は、勿論である。同じ諏訪本地でありながら、物臭太郎よりは、更に一段と古い物と思はれる甲賀三郎傳說が、殆んど全國的に行き亘つてゐる等は、諏訪を守り神とした巫女の、漂泊の結果に
外成
(
ホカナ
)
らぬのである。單に
是
(
コレ
)
だけの事を論據として、此上の推測を逞うするのは慎しむべき事ではあるが、私をして真に思ふ所を言はしむれば、室町期の初葉に於いて、關東で發達した『曾我物語』等も、古くは箱根權現の本地物を、巫女が謠ひ步いたのに端を發してゐると思ふ。而して
之
(
コレ
)
が、好事家に依つて、文字に寫される時に、大成されたのでは無いかと言ひたいのである。柳田先生が、其高著『雪國の春』で說かれた、奥州文學の發生に、巫女の偉大なる力が潛んでゐた
樣
(
ヤウ
)
に、歌謠者としての巫女の面影は、微かながらも當代の初期
迄
(
マデ
)
は殘つてゐたのである。
然るに三味線が渡來してからは、
之
(
コレ
)
の發達が專ら男子の手に依つて
為
(
ナ
)
され、且つ諸種の謠ひ物が三絃を伴奏樂とする事を條件としたので、巫女は古き傳統者でありながら、遂に謠ひ物を棄て無ければ成らぬ
樣
(
ヤウ
)
に成り、漸く呪法一つで世に處す事と成つたのである。熊野比丘尼が歌を謠ひ、
瞽女
(
ゴゼ
)
と稱する者が生れたのも、共に在りし昔の巫女の一端を偲ばせる物である。
〔
註第一
〕百合若傳說に就いては、曾て坪內雄藏氏が『早稻田文學』に於いて、
希臘
(
ギリシャ
)
のユリセスの傳說が輸入された物であると考證されてから、此考證が殆んど定說の如く成つてゐるが、私は遂に首肯する事が出來ぬ。百合若の文獻に現はれた初見は、『言繼鄉記』であるが、京都の公家である山科言繼の日記に書かれる以前に、更に幾十年か幾百年か民間に行はれてゐたと思はれるので、日歐交通の始期がズッと引き上げられぬ限りは、ユリセス說は成立せぬと考へてゐる。私は九州の巫女が古く
百合
(
ユリ
)
(
百合
(
ユリ
)
と稱する物を叩きながらやるので此名有りと思ふ。)
の說經を固有してゐる所へ、後にユリセスの傳說が附會した物だと考へてゐる。
〔
註第二
〕九州の盲僧が、地神經を琵琶に合せて讀む事は、『平家音樂史』、『三國名勝圖會』等に
據
(
ヨ
)
ると、頗る古い事の
樣
(
ヤウ
)
に記して有るが、
其
(
ソノ
)
新古は姑らく別とするも、
之
(
コレ
)
を巫女の故智に學んだ事は、疑ひ無い
樣
(
ヤウ
)
である。そして後世の薩摩琵琶とか、筑前琵琶とか云ふ物が、此盲僧の琵琶から發達した事も疑ひ無い
樣
(
ヤウ
)
である。
〔
註第三
〕折口氏が秘藏のノートブックをお貸し
下
(
クダ
)
さつた事を厚くお禮申上げる。
第二節 日陰者としての巫女の生活
儒教の七去三從が、婦人道德の基調と成れば、巫女の身上にも動搖を來たさぬ理由は無い筈である。神社に附屬してゐた
神子
(
ミコ
)
に在つても、神神に仕へる者は女子に限られた制度は、疾くの昔に泯びて
了
(
シマ
)
つて、男子の神職の下に、有るか無きかの日陰者と成らざるを得無かつた。
更に、神社を離れて町村に土著した口寄せ市子に在つては、賤民として、帳外者として、社會の落伍者として、輕視された者である。當時の神子の地位や收入が、如何に貧弱な物であつたかを證明すべき記錄は、諸書に散見してゐるが、
此處
(
ココ
)
には煩を避け、一臠以て全鼎を推すとして、大和國
大神
(
オホミワ
)
神社に關する物から抄出する『三輪社諸事記帳』の一節に、左の如き物が有る。
神樂錢之儀
ニ
付出入之覺
一、寶永二年酉
ノ
五月十五日
ニ
、戎重織田內匠殿より拾貳貫文之神樂御願被成候所
ニ
、神樂錢之配當
ニ
付、八乙女方よりとや
斯
(
カ
)
く申
ニ
付。出入
(中山曰、訴訟の意。)ニ
罷成、南都御番所妻木彥右衛門樣御奉行之時對決御座候。彥右衛門樣被仰候は、一貫貳百
迄
(
マデ
)
は右之通、八乙女方へ遣し、夫より以上
ハ
壹錢
(
ママ
)
ニ
而社中不殘配分致申候樣
ニ
被出仰候而、同極月二十三日相濟候、其
濟高
(
ママ
)
宮
ニ
有之候、但
シ
此出入は十八年跡之通
ニ
被仰付候。十八年以前之對決も、此度の對決も、同事
ニ
相濟申候。尤此儀、神主了簡
ニ
而一貫貳百文より以上
ハ
貳
ツ
割
ニ
致
シ
半分は惣社中へ配分、半分は八乙女へ配分也。
(三輪叢書本、以下同じ。)
之
(
コレ
)
に
由
(
ヨ
)
れば、大神神社にて奏する神樂料は一百二百文を定めとし、此分配方に就いて、神主側と神子側との間に紛議を生じ、遂に奈良奉行の採決を受ける事と成り、定めの壹貫二百文
迄
(
マデ
)
は、全部神子側の收入とし、
其
(
ソレ
)
以上の神樂料を得た場合に限り、
其
(
ソノ
)
過剩の分は折半して、神主と神子とに分配する事と成つて、落著を告げたのであるが、然も此記錄に徵すれば、寶永二年に先立つ十八年前──即ち元祿元年にも、此種の訴訟を見た事が有ると云ふから、神樂錢の配當問題は、長い宿題と成つてゐた事が推察されるのである。大神神社は大和の大社であるから、信徒の奉納する神樂も尠く無かつた事と思はれるが、壹貫二百文の料金は、他の物價に比して輕い物であつたと共に、
之
(
コレ
)
が八乙女
(必ずしも八人では無かつた。
其
(
ソノ
)
人員が六人であつた事は、次の記錄でも知れる。)
の收入の總てであつたとすれば、決して多いとは云へぬのである。
然
(
サ
)
れば
此
(
コノ
)
少き收入を更に神主側に引き去られたのであるから、生活を維持する點から、對決騷ぎをしたのも道理である。更に正德三年七月十八日付の「御朱印替ノ覺」の一節に、
泉州踞尾村北村六右衛門方より、神酒五升一樽、並
かます
(
・・・
)
少少、神樂料銀十二匁被申上候。右之神樂料八乙女方へ渡し申候。又神酒一升斗八乙女へ遣し申候。是は此方了簡
ニ而
遣し申候、重
而
例
ニ
は無之候。
と高宮神主越宮內昌綱の名で記して有るのを見ると、常に神子が神主に經濟的にも壓迫されてゐた事が判然する。換言すれば、神子は神主の手盛に對して、異議を唱へるだけの權限すら與へられてゐ無かつたのである。而して更に左記の記錄に徵する時、神子の收入如何に些少であつたかが知られると同時に、社領の分米に就いても、如何に神主に重くして、神子に輕かつたかが併せ窺へるのである。
享保八年四月十參日太神樂次第事
一、新銀三百目 神樂料
此錢、二十三貫七十二文。
云云。(中略。)
〆銀七匁四分、此錢五百八十二文、七十六文かへ、三貫五百六十文、二口〆四貫百四十六文
引殘
テ
社八乙女一人
ニ
付、七百四十九文
ヅツ
、其外配分頭割
ニテ
濟。
云云。
享保中大神社覺書
六十石
(中山曰、全社領百七十五石。)
八乙女
高一斗六升 惣ノ一
同斷 左ノ一
同 右ノ一
同 豐ノ一
同 富ノ一
同 梅ノ一
三石六斗
社家
越 內膳
越氏は大神社の首席神主であつたとは云へ、神子の約二十三人分の配當を受けてゐる事に成る。分米に於いて、既に斯くの如くであるから、神樂料は寶永の裁許に
依
(
ヨ
)
り、規定の額だけは神子に渡したのであらうが、其他の參拜者の賽錢とか、信徒の奉納金とか云ふ物は、
是等
(
コレラ
)
の神主以下の者に壟斷され、神子の收入とは成ら無かつたのであらう。從つて神子の生活たるや、實に慘憺たる物であつて、漸く下級の神人を夫とし、或は農民を入聟として迎へ、纔に內職として神社に奉仕するの餘儀無き事情に置かれたのである。享保六年中に書き上げた『系譜』中に、左の如き記錄が載せて有る。
八乙女
○田中氏云云
やど 神前勤候 出生不知 夫 甚五郎
名不知 不勤 大福村出生 夫 八兵衛
同斷 同斷 當村八右衛門娘 夫 長五郎
おさわ (中略) 夫 清五郎
同高宮氏被官○北村氏ニ改
名不知 當村出世 夫 仁兵衛
おかめ 神前勤候云云 夫 彌八郎
女郎 おかめ婿源八娘也云云 夫 彌八郎
次男。
辰くつた 女郎妹也
同 ○森氏ニ改
名不知 夫 次郎兵衛
右ノ一 おさつ 神前勤申候 夫 久右兵衛
前夫善九郎ハ粟殿より入聟、此久右兵衛門黑崎村之出生。
同 ○森本氏ニ改
名不知 馬場村出世 夫 清介
同斷 山城之出生 夫 五郎兵衛
おかち 藥師堂生神前ヲ勤 夫 半十郎
五郎兵衛弟也。
妻ハおかち娘 夫 宇兵衛
宮一ひさ おかち孫也 夫 又兵衛
茅原村より養子也。
同 高宮氏被官也 ○藤本氏ニ改
名不知 穴師村出生 夫 與右兵衛
惣ノ一 小まん 神前ヲ勤初瀨出世 夫 清兵衛
右近 おかね 小まん孫也 夫 與平次
同 ○倉橋氏ニ改
名不知 慈恩寺村出世 夫 助右兵衛
おたま 神前ヲ勤申候藏橋村生 夫 次右兵衛
權ノ一 おみや (中略) 夫 勘三郎
同 ○松村氏ニ改
おなで 神前を勤當村生 夫 又三郎
同所入聟。
おつま 夫 與八郎同斷
右ノ一おつや 神前ヲ勤云云 夫 清八郎
同斷與八郎甥也。
延喜式內に於ける名神大社の大神神社に在つてすら、神子の位置は以上の如く哀れにも氣の毒な境遇に甘んじ無ければ成ら無かつたのである
〔
一
〕
。
然
(
サ
)
れば、朱印地を有さぬ程の小社に屬した神子に在つては、近江國栗太郡大寶村
大字
靈仙寺の神子が、十四五箇村の村村へ傭れて往つたと有る
樣
(
ヤウ
)
に
〔
二
〕
、
其
(
ソレ
)
は恰も現在の村社や、無格社に仕へてゐる神職が、十社も十五社も兼帶せねば衣食に窮するのと同じ
樣
(
ヤウ
)
であつたに相違無い
〔
三
〕
。
之
(
コレ
)
では神子が神の目を偷んで不倫を働くのも、又た是非も無い
成行
(
ナリユキ
)
であつた。
其
(
ソレ
)
では、町村に土著した口寄せ市子の社會的地位、及び其生活はどうであつたか。
是
(
コレ
)
こそ、神子に比較する時、更に一段と劣等視され、全く賤民として取扱はれて來たのである。三馬の『浮世床』や一九の『東海道膝栗毛』に描かれた市子は、共に作者の為に興味本位に書き
歪
(
ユガ
)
められ、且つ甚だしく誇張されてはゐるが、
其
(
ソレ
)
でも社會の落伍者として、日陰者として、一般からは通婚
迄
(
マデ
)
忌まれ、殆んど乞胸・物吉・願人・鉦打・茶筅・事觸・夷舞等の帳外者と少しも擇む無き生活を營んでゐたのである。
『祠曹雜識』卷七十二に載せた左の記錄は、市子が獨立の生活を維持する事が困難なる
為
(
タメ
)
に、同氣相求むると云ふか、同病相憐むと云ふか、兔に角に類似した境遇から修驗の妻と成り、然も惠まれぬ日常を說明する物が有ると考へるので、本間に必要有る點だけを抄出する。
一、明和
五
(
子
)
年八月、寺社御奉行土井大炊頭殿役人小宮久右衛門殿
神子之儀支配之譯相尋ニ付、今八月十日書上、左之通。
當山派修驗
添合
(
・・
)
ニ
而巫女勤來候譯、並相改候趣。
一、當山派修驗之內
ニ
而、添合之神子古來
ヨリ
家
ニ
附連綿仕相勤候者、並
注連弟子
(
・・・・
)
等外江嫁娵、當山派修驗神子
ヨリ
注連
ヲ
請神子勤候者、縱社家之妻或者百姓之妻
ニテモ
、都而當山派
ヨリ
前前相改候、並社家
ヨリ
注連請候神子
ニ
而茂、當山派之添合
ニ
御座候得者、一同當山派
ヨリ
相改申候。
右相改候趣者、延寶二年之頃、當山派修驗年寄共有之。寺社御奉行所江改之儀申上置。其後元祿
拾貳
(
卯
)
年三月、拙寺先先住、未
タ
鳳閣寺住職不破仰付前
ニ
而、吉藏院
卜
號候節。寺社御奉行井上大和守殿
江
伺書差上。當山派修驗添合神子注連弟子多
ク
有之、不法之儀
モ
相聞候
ニ
付。吟味之上不届仕候者
ハ
神職停止。當山添合分之者一派切
ニ
相改、國國
ニ
而不埒無之樣可申付旨申上。相改候用脚
トシテ
、當山派修驗添合神子並注連下之神子共
ヨリ
、青銅拾匹宛差出可為申哉之段、相伺候處。同四月十一日、松平志摩守殿
ヨリ
、於御內寄合井上大和守殿、伺之通被仰渡候以來、今以連綿仕、當山派
ヨリ
相改申候。
右之趣
ヲ
以國國當山派觸頭共
江
申付置、相改
サセ
申候儀
ニ
御座候以上
〔
四
〕
。
八月 鳳閣寺
之
(
コレ
)
に由れば、(一)當山派の修驗の妻で市子を營んだ者が相當に多かつた事、(二)是等の市子は注連下と稱する弟子巫女を有してゐた事、(三)修驗の添合である市子、及び其弟子は、江戶淺草の當山派觸頭鳳閣寺の支配を受けた事、(四)改め料——即ち役錢として青銅十匹づつを鳳閣寺に納めた事が判然する。
此結果として
前揭
の神事舞太夫頭の取締を受ける市子は舞太夫の妻と娘と、外に修驗に屬せざる特種の市子だけに限られた事が釋然とした。但し當山派以外の本山派の修驗の妻にも市子が有つたか、
若
(
モ
)
し有つたとすれば、何者が
其
(
ソレ
)
を支配したかは、此記錄では何事も知られぬのである。而して此乏しき資料から推すも、江戶期に於ける市子の所屬や管轄は、かなり複雜した物である事が察しられるのである。
釜拂と稱する下級の女子神職が、山伏
(修驗。)
と同棲し、日陰者として生活してゐる所へ、仰向笠
(笠の置き方で賣笑を營む事を暗示した物で、
其
(
ソノ
)
由來は
次節
に述べる。)
と稱する市子が來て大喧嘩を
為
(
ナ
)
し、互いに身の上の秘密と非行とを摘發し合うた事件が、寶曆四年に出版された一應亭染子著の『「教訓不辨舌』卷一に、「
巫女
(
イチコ
)
釜拂身の上諍」の條に、極めて露骨に描かれてゐる。勿論、著者の誇張が加はり、事實
其
(
ソ
)
のままとは考へられぬけれども、克明に兩者の社會的地位と生活の內容と、併せて當時の社會が如何なる態度で、
是等
(
コレラ
)
の者を待遇したかが窺はれるので、長文の中から
之
(
コレ
)
を證示する物だけを抄錄する。
(上略。)
實
(
サ
)
にや渡世とて、相模三河の邊より女の身にて、お江戶見ながらとの、思ひ付かは知らねども、
少
(
スコ
)
し龜の甲
形
(
ナリ
)
の笠を
披
(
カブ
)
り、姿りりしく腰帶しやんとしめて、木綿裝束にて、何の商賣とも
知
(
シ
)
れず、
唯
(
タダ
)
ぶらぶらと表を步く者有り、此名を
巫女
(
イチコ
)
と呼べり。
又
(
マタ
)
神
諫
(
イサメ
)
と名付、宮祠の
女巫
(
ミコ
)
を
真似
(
マネ
)
、
大麻
(
ヌサ
)
鶴龜の模樣の付たる白染衣を著、鈴扇を持て、人の門門を鹽からき聲、又はさも
嚴
(
イツク
)
しき聲にて、時時の祝ひ詞に
節
(
フシ
)
を付て言ふもの、是を釜拂と云ふ。
(中略。)
或
(
アル
)
時、一ツの家に巫女を呼入、
何
(
ナニ
)
か知らぬが箸を持、茶碗に水を入れて、梓弓とやらむ、豆右衛門が二百石の時、用ひたると見てし弓を前に置、箸に水を付けて
索
(
ナメ
)
、何やらん
他愛無
(
タワイナ
)
き事を云へば、
(中略。)
今
迄
(
マデ
)
功者に口を
利
(
キイ
)
た婆婆が、
(中山曰、市子を呼入た婆さん也。)
俄に淚を流して
繰
(
クリ
)
返し
繰
(
クリ
)
返し淚を
拂
(
ハラ
)
ひながら、水を
向
(
ム
)
け、
仕迴
(
シマイ
)
には錢十二銅米等を
(中山曰、
之
(
コレ
)
が普通一回の口寄料であらう。)
泣きながら出せば、
何
(
ナニ
)
が長屋中の婆婆嚊、聞き傳へ、寄
集
(
アツマ
)
つて、皆皆水を
市女
(
イチコ
)
に掛けて錢出して泣て歸る。
(中略。)
偖
(
サテ
)
も
其
(
ソレ
)
程に泣たい物かと、隣に住みし、斯の釜拂の女房が、亭主の山伏と咄しする所を、
市子
(
イチコ
)
聞付、
(中山曰、釜拂が商賣敵の市子の毒口を云ふのを市子が聞き、押掛けて大口論と成り、其結果、先づ釜拂が市子を罵つて。)
そち達が行ゥが有ると云ふが何の行ゥが有るぞ、大かただましよい所は、十二銅を取つて、
騙
(
ダマ
)
して
有
(
ア
)
るき、若い眾の居る所で呼べば、笠を
仰向
(
アヲムケ
)
にして這入、百錢程づつも取つて有るくであらう、
(中山曰、今度は市子が釜拂を賤めて。)
さう云ふ、そちたちが、世間を
步行
(
アルイ
)
て、若眾が呼んで、鈴は
鳴
(
ナ
)
りますかと問へば、アイと云ふて、小宿へ這入り、錢を取り馴染を
重
(
カサ
)
ねては、櫛笄
或
(
アル
)
ひは鈴扇
迄
(
マデ
)
買ふて貰ふたであらう、
(中山曰、兩方の口論が嵩じて、
其果
(
ソノハテ
)
は、先づ市子が釜拂の前身を占ひて。)
我は是、元釜拂
是
(
ナ
)
れども、鈴なりの土手組なり
〔
五
〕
。
(中山曰、更に次には、市子自身の前身を神
憑
(
ガカ
)
りの體にて。)
我も元は仰向笠の同類
也
(
ナリ
)
。
云云。(中山曰、すつかり己の不倫を自白して
了
(
シマ
)
ひ、此騷ぎを見聞した長屋の人人は、怒つて市子を追ひ、釜拂も亭主に前身を知られて離別される事に成るのである。)
此記事を勿論
其
(
ソ
)
のままに信用する事は危險であるが、當時此種巫女や釜拂が多く市井を徘徊し、斯うした醜態を演ずる事も決して稀有では無かつたであらう。巫女の末路も又哀れにも淚多き物であつた。
〔
註第一
〕此『系譜』を見て注意を惹くのは、入聟の多い事である。
之
(
コレ
)
に由ると、神子は後世に至るも、古い女系相續の面影を殘してゐた
樣
(
ヤウ
)
である。
猶、此系譜に載せた巫女の職名に「惣ノ一」又は「梅ノ一」等ある一は、
市子
(
イチコ
)
の意なるべく、更に又別に「右近」と有るのは、古き小町や式部の事が想ひ出される。而して最近に、福島縣石城郡草野村
大字
北神谷の高木誠一氏を訪うた所、同氏所藏の『元祿九年子二月朔日禰宜神子書上』と題せる古文書の北神谷村の條に、「神子市兵衛後家竹女、市兵衛娘とら女、大藏後家
北ノ宮
(
・・・
)
、彥左衛門後家
三ノ宮
(
・・・
)
、彥十郎女房まん女。」の名が見えてゐる。片田舎の
守子
(
モリコ
)
の身で、北ノ宮の、三ノ宮のと、宮號を用ゐる等は、怪しからぬ事であるが、巫女が神ノ子であると云ふ、古い俗信の一片と見る時、其價值の多い事が知られるのである。
〔
註第二
〕『栗太志』。
〔
註第三
〕先年、櫪木縣神職會足利支部の講演會に出席した際、來會の神職から、同縣には一人で十八社を兼務してゐる神職が有ると聞いた。斯うせねば、生活が出來ぬとは氣の毒であると、痛感した物である。
〔
註第四
〕『祠曹雜識』は柳田國男先生の所藏本に據る。
〔
註第五
〕土手組の事は、私には良く判然せぬが、賣笑を內職とした釜拂の徒が集つてゐた所を、斯う謂うた物と考へて大過無いと思つてゐる。
第三節 性的職業婦と化した巫女の末路
巫女が賣笑した事は、決して當代に始まつた物では無く、
既記
の如く、國初期より傳統的に、當代に
迄
(
マデ
)
及んだのである。
唯
(
タダ
)
古代と當代との相違を云へば、前者は動機に於いて、宗教的であるのに反して、後者は全く物質的であつた。そして結果に就いて言へば、前者は生活の手段としてでは無かつたが、後者は全く世渡りの方法として利用した點である。
而して
是
(
コレ
)
にも又、
神和系
(
カンナギケイ
)
の神子と、
口寄系
(
クチヨセケイ
)
の市子とは、其境遇が異る如く、其態度にも多少の相違が有つた
樣
(
ヤウ
)
である。即ち前者は、常に能働的であるだけに受身であり、漸く隱れ忍んで行ふに
止
(
トド
)
まり、後者は衝働的であつて絕えず働き掛け、かなり大ぴらに營んだ物である。從つて資料に在つても前者に尠く、後者に多いのは當然の事である。
一、
神和系
(
カンナギケイ
)
の
神子
(
ミコ
)
の賣笑
熊野から出た勸進比丘尼の流れを汲んだ歌比丘尼は、當代に入つてから一段の飛躍を
為
(
ナ
)
し、賣り比丘尼として都鄙を橫行し、猖んに風紀を紊した物である。勿論、熊野比丘尼と云ふも、賣笑婦と同視される
樣
(
ヤウ
)
に成つては、既に神社を離れた者と見るべきであり、更に此故智を學んだ賣り比丘尼に在つては、
唯其
(
タダソノ
)
形容と方法とに、熊野比丘尼の面影を殘しただけで、實質的には、純然たる土娼と成つて
了
(
シマ
)
つたのであるが、
其
(
ソレ
)
でも雀百
迄
(
マデ
)
踊りを忘れず、「脇挾みし文匣に卷物入れて、地獄の繪說きし血池の穢れをいませ、
不產女
(
ウマズメ
)
の哀れを泣かする業をし、年籠りの戾りに
烏牛王
(
カラスゴワウ
)
配りて、熊野權現の事觸れめきた。」事を忘れず
〔
一
〕
、且つ既記の如く、熊野一山は是等比丘尼の歲供を受けて富めりと有るのから推すと、當代の初期に在つては、全然、神社から離れたとも思はれぬので、姑らく
此處
(
ココ
)
に併せ記すとした。
寬文年中の刊行と傳へられる、淺井了意の『東海道名所記』に見えた比丘尼の記事は、當代では古い物であり、且つ三箇津を離れて田舎
在
(
ア
)
るきの比丘尼とて、彼等の足跡と、生活とが窺はれるので、左に摘錄する。同書卷二、沼津の旅宿の條に、
酒
等
(
ナド
)
少しづつ飲みける處に、比丘尼
共
(
ドモ
)
一二人いで來て歌を
唄
(
ウタ
)
ふ、頌歌は聞きも
分
(
ワ
)
けられず、丹前とか云ふ曲節
也
(
ナリ
)
とて、
唯
(
タダ
)
ああああと長たらしく引きづりたるばかり也。次に柴垣とやらん、元は山の手の奴共の踊り歌なるを、比丘
尼簓
(
ササラ
)
に
乘
(
ノ
)
せて歌ふ。其外色色の歌を
唄
(
ウタ
)
ひけり。
(中略。)
何時
(
イツ
)
の頃から比丘尼の伊勢熊野に詣でて
行
(
ギャウ
)
を勤めしに、其弟子
皆
(
ミナ
)
伊勢熊野に參る。此故に熊野比丘尼と名
付
(
ヅ
)
く。其中に聲良く歌を
唄
(
ウタ
)
ひける尼のありて、歌ふて勸進しけり、其弟子
亦
(
マタ
)
歌を
唄
(
ウタ
)
ひけり。又熊野の繪と名
付
(
ヅ
)
けて地獄極樂
全
(
スベ
)
て六道の有樣を繪に
描
(
カ
)
きて、繪解きを
致
(
イタ
)
す。
(中略。)
何時
(
イツ
)
の間にか稱へを失ふて、熊野・伊勢へ參れども行もせず戒を破り、繪解きを知らず歌を肝要とす。殘りの眉細く薄化粧、齒は雪よりも白く、手足に
臙脂
(
ベニ
)
を
差
(
サ
)
し、紋をこそ付けねど
丹殼
(
タンガラ
)
染
(中略。)
黑茶染に白裏
拭
(
フ
)
かせ、黑き帶を腰に掛け裾けたれて長く、黑き帽子にて頭をあぢに包みたれば、此行狀はお山風
也
(
ナリ
)
。
只管
(
ヒタスラ
)
傾城白拍子に成りたり。
云云(溫知叢書本。)
此記事に由れば、熊野比丘尼も、伊勢比丘尼も、同じ業態を營んだ
樣
(
ヤウ
)
に見えるが、
之
(
コレ
)
は私が改めて言ふ
迄
(
マデ
)
も無く、筆者了意の誤解であり、速斷である
樣
(
ヤウ
)
に思はれる。熊野は時代に於いて、伊勢よりも古く、更に六道の繪解きは熊野に限られてゐて、伊勢は
之
(
コレ
)
を攜へてゐ無かつた。伊勢上人と云はれた慶光院中心の伊勢比丘尼にも、
何
(
イヅ
)
れは女性の事ではあり、殊に時代が時代とて、多少とも風紀を紊す
樣
(
ヤウ
)
な者も有つたかは知らぬが、
其
(
ソレ
)
は到底熊野比丘尼の公然たる賣笑には比較すべくも無い。
井原西鶴の『織留』卷四に、伊勢に徘徊せる賣り比丘尼の事を記して、
錢掛松の
陲
(
ホトリ
)
に三十四五年
此
(
コノ
)
方、道者に取付きて世を渡りたる歌比丘尼二人有りける。所の人異名を付けて取付蟲の壽林、古る狸の清春と
云
(
イ
)
ひて、通し馬の馬士駕籠
迄
(
マデ
)
も見知らぬは
無
(
ナ
)
し。
と有るが、
之
(
コレ
)
も地方を流れ步いた熊野比丘尼であつて
〔
二
〕
、伊勢比丘尼で無かつた事は、其文意からも知る事が出來る
〔
三
〕
。名古屋市東區伊勢町の緣起と成つた「花守」と云ふ巫女に就いて、「尾張志」に伊勢町の繁昌院
(修驗。)
は、伊勢の巫女なりし
十七夜
(
ツキモリ
)
と云へるが伊勢を退去し、尾州鳴海に來て八幡宮の神子と成つてゐたが、後に名を花守と改めた。繁昌院は此花守の許へ聟養子として入り込んだ物で、同市で古く神子の通稱を花守と云ひ、住める所を伊勢町と稱したのは、
之
(
コレ
)
に基くと載せて有るが、
之
(
コレ
)
は純然たる伊勢比丘尼では無いが、尾州地方にも神子が修驗の妻と成る習俗の有つた事を示す物として筆の序に記すとした。
江戶期に成つてから、近畿地方の巨刹が、靈佛秘寶を繁華の土地に運んで、出開帳なる物を盛んに興行する
樣
(
ヤウ
)
に成つた。當時、神社の經營に困難してゐた神主は
之
(
コレ
)
を學んで、同じ
樣
(
ヤウ
)
に神體
又
(
マタ
)
は神寶を各地に遷して、出開帳を試みて相當の收入を舉げてゐたが、後には開帳屋とも云ふべき一種の營業者さへ出す
樣
(
ヤウ
)
に成つた。而して此出開帳の場合には、必ず神體に扈從して神樂を奏する神子に、特に美人を擇む事が、お賽錢なり、初穗料なりの收入に、重大な關係が有つたのである。太田南畝翁の『半日閑話』卷十二に、
明和六年三月四日より、本鄉湯嶋天神社內に於いて、泉州石津神社
惠比壽
(
ヱビス
)
開帳有り、群眾多し、神樂堂にて二人の乙女神樂を奏す名をお浪お初と云ふ。振袖の上に千早を著たり。容貌麗しくして參詣の人心を動かす。凡そ開帳每に、神樂巫女の美を擇ぶ事是なん俑を作りけらし、此二人の巫女錦繪に出たり。
(新百家說林本。摘要)
先學山中共古翁より承りし話に
依
(
ヨ
)
ると、江戶期に於ける神佛の出開帳は頗る盛んであつて、殆んど每年市內に幾箇所と云ふ程興行され、寺院では、京都嵯峨清涼寺の釋迦、同清水の觀音、信州の善光寺如來を始めとして、神社では奥州の鹽釜社、伏見の稻荷社等澤山有つた。勿論、是等の
中
(
ウチ
)
には、本寺なり本社なりは全く關知せず、所謂、開帳屋なる營業者が無斷にて計畫し、寶物の如きも出鱈目の物を偽造し、
只只
(
タダ
)
賽錢を集め、御影を賣るのが目的であつて、
其
(
ソレ
)
が段段と墮落して來て、後には開帳用の寶物を損料で貸すと云ふ、不思議な商賣
迄
(
マデ
)
起つて來た。從つて名神巨刹の靈佛秘寶だけでは、間に合はぬ
樣
(
ヤウ
)
に成り、少しでも世間に知られてゐる物ならば、何でも探し出して來て開帳する騷ぎであつた。
斯かる次第とて、隨分馬鹿馬鹿しい話柄を殘してゐるが、中にも大磯の鴫立庵の、西行法師の木像が出開帳した折に、同所に在る虎ヶ石を陳列したが、
(遊女虎御前が化した石と云ふ。)
此開帳が大失敗に終り、虎ヶ石を質入れして尻拭ひをしたものの、
其
(
ソレ
)
を受け出す事が出來無くて、數年間質藏の中に入れられたと云ふ事である。而して是等の開帳の人氣の中心──
其
(
ソレ
)
が神社に關する場合に在つては、錦繪に
迄
(
マデ
)
賣り出された神子である事は勿論であつて、然も
其
(
ソノ
)
神子の內職が何であつたかは、私が改めて言ふを要せぬ所である。
當代の『川柳點』に現はれた物で、神子の內職を暗示してゐる物に左の如きが有る。
神樂堂迯げた
翌日
(
アシタ
)
は母が出る
(柳樽一編。)
神樂堂目に
掛
(
カカ
)
る迄
押
(
オ
)
して出る
(同上十六編。)
見物も悅びの有る鈴を振り
(同上十編。)
神樂堂
仕舞
(
シマヒ
)
に
氣障
(
キザ
)
な目を
塞
(
フサ
)
ぎ
(同上十六編。)
尻目
等遣
(
ナドツカ
)
ひ神樂を奏す
也
(
ナリ
)
(同上十一編。)
神樂過き
可美
(
ウマ
)
し乙女へ大一座
(同上十七編。)
神さびる筈
此
(
コノ
)
頃は婆婆ァ舞ひ
(同上十三編。)
諸諸
(
モロモロ
)
の鼻毛
集
(
アツ
)
める神樂の顏
(書名不明。)
二、
口寄系
(
クチヨセケイ
)
の
市子
(
イチコ
)
の售春
口寄系の市子に在つては、奥州の
巫女
(
イタコ
)
(
是
(
コレ
)
は盲女であつた事と、信仰に活きた為である。)
を除いた他の多くは、全く性的職業婦を兼業としてゐたと云つても、過言と思はれぬ
迄
(
マデ
)
に墮落してゐた。新井白蛾翁の『闇の曙』卷上に、「江戶にて三月
頃
(
コロ
)
、笋笠を著て町町を過る女は口寄
巫女
(
ミコ
)
也。
其
(
ソレ
)
故、江戶の女子に、笋笠を著る
者
(
モノ
)
、一人も無し。」と有る
〔
四
〕
。而して此笋笠の由來に就いては、『俚諺集覧』に、「
靈姑
(
イチコ
)
、市中を步くに竹ノ子笠の蒲鉾なりを被りたるを其印とす、此笠は甲斐の信玄より下されし
物
(
モノ
)
と云ふ。」と載せて有る。
此記事は、即ち
前揭
の信州
禰津
(
ネツ
)
の巫女頭である千代女と信玄の關係を言つてゐるのであらうが、真偽は元より知る事は出來ぬ。
唯
(
タダ
)
此二つの記事に
依
(
ヨ
)
つて知り得た事は、江戶市內を步き迴つた巫女の多くが、信州巫女の
其
(
ソレ
)
であつて、然も笋笠を被る事が、彼等の標識と成つてゐたと云ふ點である。而して是等の徒が賣笑をした事を明白にする資料は相當に殘つてゐるが、先づ京都の大原神子から大阪の釜拂ひを述べ、後に江戶の市子を記し更に地方へ及ぼすとする。
京都の大神子は、
其
(
ソノ
)
始め彼等が奉仕した大原神社が、有名な雜魚寢の本場として、風紀を紊した物であるだけに、神子の賣笑も又有名な物であつた。『嬉遊笑覧』卷十二に引用した、江嶋共磧作の『賢女心化粧』の一節に、「亭主の手ばかり
守
(
マモ
)
つて居ずとも、大原
殿
(
ドノ
)
の神子に化けて
成
(
ナ
)
りとも、面面が稼がれよ。」と有る如く、かなり公然と醜業を敢てした
樣
(
ヤウ
)
である。
貞享版の『好色貝合』大原神社條に、
千早掛けて菅笠、家家に入つて鈴を振り、幾度も袖を
翻
(
ヒルガヘ
)
して舞ひぬる。太鼓
打
(
ウ
)
ちは一荷の櫃を
擔
(
カタ
)
げながら、しやらしやらの拍子に
合
(
アハ
)
せて、でんづでんづと、そそけずに一拍子
具
(
ソナ
)
はつて大原殿の神樂
也
(
ナリ
)
。神子は暖簾の內に入れば、
(中略。)
如何様
(
イカヤウ
)
の
遣り繰り
(
・・・・
)
も成る事也。
然
(
シカ
)
のみならず、
少
(
スコ
)
し手占を賴みたいと云へば、二階へも奥の間へも呼ぶ所へ來る。何なりと占はせて、世の咄にするに、
それしや
(
・・・・
)
の女、
味
(
アヂ
)
には氣が遠く成り、あののもののと濡れ掛ける。
云云。(宮武外骨氏著『賣春婦異名集』所載。)
大阪の釜拂ひは、井原西鶴翁の『男色大鑑』卷二に、「竃拂ひの巫女、男ばかりの家を心がくる。」と有る如く、
是
(
コレ
)
も大ッぴらに押し賣りした
樣
(
ヤウ
)
であるが、更に同翁作『好色一代男』卷三「口舌の事
觸
(
フ
)
れ」の筆端に、左の如く記して有る。
あら面白の
竃神
(
カマカミ
)
や、お竃の前に松植ゑてと、
清
(
スズ
)
しめの鈴を鳴らして、
縣御子
(
アガタミコ
)
來れり。下には
松皮色
(
ヒワタ
)
の襟を重ね、薄衣に月日の影を
映
(
ウツ
)
し、千早懸帶結下げ、薄化粧して、黛濃く、髮は自から撫下げて、其有樣尋常なるは、中中お初穗の分にて成るまじ、不思議と人に尋ねければ、
良
(
ヨ
)
き所へ心の通ふ事ぞ、あれも品こそ替れ、望めば遊女の如く成れる
物也
(
モノナリ
)
。
其
(
ソレ
)
呼び返して、男住居の宿に入れて、
其
(
ソノ
)
神姿取
置
(
オ
)
かして、新たに女體に
現
(
アラハ
)
れたり。勝手より御神酒出せば、次第に醉心、
忝
(
カタジケナ
)
き御託宣、ありつる告をまたんとて、
(中略。)
……名殘の神樂錢、袖の下より通はせて、見る
程
(
ホド
)
美しく、淡嶋樣の、もしも妹か思はれて、お年はと問へば、嘘
無
(
ナ
)
しに今年二十一社、茂りたる森は思ひ葉と成り。
云云。
而して、是等の巫女や、釜拂ひが、江戶に於いても、猖んに賣笑した事は言ふ
迄
(
マデ
)
も無いが、
此處
(
ココ
)
には飯嶋花月氏より高示せられたる『川柳點』と、
(
其
)
ソノ
解說とを舉げて、
之
(
コレ
)
に代辨させる事とする。
竹笠を
披
(
カブ
)
り××こを寄せる
也
(
ナリ
)
(續川傍柳。)
笠の置き
樣
(
ヤウ
)
で男の口も寄せ
(同三十六編。)
寄せ申候と竹笠
轉
(
コロ
)
ばせる
(柳樽十五編。)
竹笠をうつ向けられて萎える
也
(
ナリ
)
(末摘花三編。)
是等の句に依つて考ふるに、口寄を表看板として竹笠を被り、淫を鬻ぎ步けるを詠める者なるべし。即ち竹笠を仰向けに置くは應諾の
印
(
シルシ
)
、俯伏せるは拒絕の
印
(
シルシ
)
と見るべき
也
(
ナリ
)
。
云云。
地方を漂泊した巫女に、不純の行為の多かつた事は、一九の『東海道膝栗毛』日坂宿條に詳記して有るが、
之
(
コレ
)
は餘りに周知の事と思ふので、
態
(
ワザ
)
と省略する。而して更に
之
(
コレ
)
が例證を他の方面に覓めると、少しく極端の嫌ひは有るが、『民族』第三卷第一號に、
越後山寺では、神降ししてゐた
モリ
(
市子
)
が、「どうしても神樣がのらッしやらぬ、どうしたがかや。」と獨言を云つて嘆ずると、「貴樣に俺がのらう道理が無い、俺は今日はのらんわい、今朝夜明
迄
(
マデ
)
、若い眾が入替り立替り、のりッ通して居たぢや無いか?」と不謹慎に混ぜ返した者が有つた。
と載せて有る。是等は元より、一場の戲談にしか過ぎぬとは思ふけれども、
又
(
マタ
)
斯うした醜行の多かつた事は否定されぬのである。
猶ほ此場合に、併せ考へて見無ければ
成
(
ナ
)
らぬ事は、民間に於いて、市子と關係するのを、幸福を增し、
利益
(
リヤク
)
を加へる物と迷信した土俗の存した事である。信州の松本市附近の村落では、昔は此迷信が強く行はれてゐて、旅を掛けた市子が來ると、其宿を若者が競うて襲うた物だと云ふ事である
〔
五
〕
。斯かる迷信が何に依つて發生したか、更に此迷信が
何時頃
(
イツゴロ
)
から、何れの地方に
迄
(
マデ
)
行はれたか、他に類例を知らぬ私には、全く見當の付かぬ問題ではあるけれども、田舎
渡會
(
ワタラヒ
)
の巫女の性的半面に、斯うした迷信の伴うてゐる事は、注意すべき點だと考へたので、附記して後考を俟つとする。
紀州の田邊町では、信州から來る巫女を「白湯文字」と稱した事は
既述
した。而して江戶期に成ると、京都・大阪・筑前・伊勢・能登等の各地で、私娼の一名を「白湯文字」と呼んだのは、恐らく此信濃巫女が傳播した不倫に原因してゐるのではあるまいか
〔
六
〕
。私の生れた南下野では、信州から來る「
步
(
アル
)
き巫女」は、私娼と同じ營みを辭さ無かつたと聞いてゐる。
〔
註第一
〕正德年中に書かれた增穗殘口の『豔道通鑑』卷五。
〔
註第二
〕井原西鶴の『好色一代男』に
據
(
ヨ
)
れば、泉州の酒田で熊野比丘尼に出會つた話が載せて有る。彼等は奥州には傳統的に因緣が深かつたと同時に、其足跡が殆ど全國に印されてゐた事が推測される。
〔
註第三
〕天野信景翁の『鹽尻』卷八十四に、「伊勢の上人、善光寺の上人、熱田の上人と云へるも比丘尼
也
(
ナリ
)
。
(中略。)
是等は共に清尼にして那智の如くに
非
(
アラ
)
ず、其中、善光寺の比丘尼所に集る眾尼、多く不蒙の女刑に
遭
(
ア
)
ふべき身の、此所に走り入は主家其罪を許し侍る故、斯かる者
數多
(
アマタ
)
髮を剃て、心
成
(
ナ
)
らぬ尼のみ成りとかや。鎌倉の比丘尼所
(中山曰、緣切寺とて有名な東慶寺。)
も又
或
(
アル
)
ひy>は斯かる風俗有りてふ故に、まま猥りがはしき事聞え侍る。」と有れば、伊勢比丘尼は先づ操行は正しい物と見るべきか。
〔
註第四
〕『日本隨筆大成本』。猶ほ同書には巫女の記事が一二載せて有る。
〔
註第五
〕在松本市の學友胡桃澤勘內氏の高示に據る。
〔
註第六
〕拙著『賣笑三千年史』の室町期に詳述した。
第四節 明治の巫女禁斷と爾後の消息
明治維新の完成が、復古神道の思想を基礎としてゐただけに、神道及び佛教に關する施設に就いては、頗る峻烈なる態度を以て臨んでゐた
樣
(
ヤウ
)
である。殊に明治四年に發布された神佛分離の法例は、
之
(
コレ
)
を實行するに餘りに勇敢であつた
為
(
タメ
)
に、遂に常識の軌道を脫して、廢佛毀釋の埒內に
迄
(
マデ
)
立ち入つて
了
(
シマ
)
つた。勿論、
是
(
コレ
)
は千年餘を通じて、佛教と僧侶の為に壓迫されてゐた神道及び社人の、反抗的空氣が磅礴した物である事は言ふ迄も無いが、兔に角に
其
(
ソノ
)
猛烈なる運動と、果敢なる實行とには、國內の上下を舉げて張耳飛目せざるを得無かつた物である
〔
一
〕
。斯うして神道方面の改革に注意した明治政府は、當然、口寄神子の上にも及んで來て、明治六年に教部省の名に
依
(
ヨ
)
つて、左の如き巫女禁斷の法令が發せられたのである。
達第二號
府 縣
從來、梓巫・市子、並憑祈禱・狐下
ケ
杯
ト
、相唱・玉占・口寄等
ノ
所業
ヲ
以
テ
、人民
ヲ
眩惑
セシメ
候儀、自今一切禁止候。條於各地官。此旨相心得、取締嚴重可相立候事。
明治六年一月十五日 教部省
當時、教部省の幹部を
為
(
ナ
)
した
者
(
モノ
)
は、殆んど悉くが平田篤胤系の神道學者であつたので、鈴振り神道を嫌ふ
事
(
コト
)
蛇蜴の如かりし
為
(
タメ
)
、市子が禁斷されるのは自明の事であつて、且つ市子自身が社會的に存在の意義を失つてゐたのであるから、此禁令は當然の措置と言は無ければ成らぬ。併しながら、國初以來、國民迷信の對象と成つてゐた神子の呪術は、相當深刻に國民の皮肉に喰ひ込んでゐたので、明治政府の威力を以てしても、中中一回の禁令では剿絕され無かつた物と見え、翌明治七年六月七日には、再び、「禁厭祈禱を以て醫業等差止め、政治の妨害と相成候樣の所業。」を堅く取締るべき法令の發布を見た。斯くて市子の名は永久に消え、
其
(
ソノ
)
實も永久に斷たれた譯であるが、事實は
之
(
コレ
)
を明確に裏切つてゐて、禁令の發布を見た明治六年から、約六十年を經過した現時に於いても、猶ほ依然として、各地に其弊害を流してゐるのである。
市子は、名こそ變つたが、今に各地方に歷然と殘つてゐる。呪術も、方法こそ變つたが、今猶ほ顯然として存してゐる。彼等は、明治の禁斷以來は、宗派神道の教會に屬して、肩書を教師と改め、神降しの呪文の代りに、御禊祓とか、中臣祓とかを唱へてゐるが、其實際の所業は、昔の市子の
其
(
ソ
)
のままを傳へてゐるのである。彼等は、素性の知れぬ依賴者に對しては、官憲の禁止を楯にして、古き呪術は一切行はぬが、顏馴染の者には公然と、
是
(
コレ
)
が依賴に應ずるのである。
殊に民間に於ける彼等の勢力には、實に驚くべき物が有つて、私が昭和四年六月に常陸の潮來島に遊びし時、近村に有名なる巫女の在る事を聞知して訪ねた所、同人は舊正月に家を出たまま、篤信者に
其
(
ソレ
)
から
其
(
ソレ
)
へと招かれて、今に歸宅せぬとの事であつた
〔
二
〕
。更に同年七月陸前の松嶋に遊び、同じく附近の高城町に知名の巫女が居ると聞き、人を派して在否を確かめさせた
所
(
トコロ
)
が、
是
(
コレ
)
も三箇月前から村から村へ稼ぎ步いてゐるとの事であつた。而して私は此二回の失敗に就いて、
之
(
コレ
)
は巫女の方で特に辭を設けて遁げるのでは無いかと疑つて見たが、
之
(
コレ
)
は私の僻見であつて、實際に斯うして例は各地に存してゐる事を耳にした。
是等の事實を目睹した私は、竊に斯う考へてゐる。市子と云ふが如き迷信は、恐らく人類の存する限り、時に消長有るも、永久に存する物では無からうかと、市子の力も
亦
(
マタ
)
偉
也
(
ナリ
)
と言ふべきである。
〔
註第一
〕明治初期の神佛分離、及び廢佛毀釋の運動に就いては、記すべき多くの事件も有り、之と同時に、是等の機運が巫女に波及した事實も若干知つてゐるが、今は大體に
留
(
トド
)
めて省略した。神佛分離に關しては、辻善之助氏等の編纂した大部の書籍が有る。
〔
註第二
〕『旅と傳說』第二年第六號所載の拙稿に詳記して置いた。
[久遠の絆]
[再臨ノ詔]