終章 一
本多佐渡守は苛立っていた。 扇を一段だけ開いては閉じ、ぱちんと打ち鳴らす音が、何度も響く。 全くもって、伊賀組頭・服部半蔵の報告は、要領を得ぬ。 「土御門影久とやらの死骸に相違無いのだな」 「相違無い様でございます」 『様』とはどういうことか。本当に調べたのか。 「捕縛したという乱波は」 「はっ、怪異な人相から見て、昨今江戸市中を騒がしおる盗賊・風魔小太郎めに相違無い様でございます。気狂いとなっておりましたが‥‥」 「何ぞ、恐ろしい物の怪でも見たか」 「はて」 慶長八年、相州乱波の頭目・風魔小太郎は江戸で捕らえられ、盗賊として処刑された。しかし、江戸に流入した乱波の盗賊化はなおも続く。新たに『風魔小太郎』を名乗る者もいた。 「件の茶入れは、もう一度探したのか」 「はっ、やはりあの破片がそうだったかと」 九十九茄子髪。本能寺の変で焼失したとされる大名物の茶入れ。 そこに一体、何が封印されていたのか、佐渡守は知らぬ。 「破られしとき、必ずや徳川家に祟り為す」 生前の天海からそう聞かされたものの、今のところ、これと言う怪異は聞かぬ。 「‥‥天海‥‥」 彼の人が何を考え、何を怖れたか、死んだ今となっては知る由もない。 彼の人の素性を知る佐渡守には、感慨深いものがある。一度は天下に手を掛けた武将の、孤独な末路。 だが、感傷に囚われている暇はない。 佐渡守にとっての難問は、「南光坊天海」をどうするかだ。 このような表沙汰にできぬ事件での死。しかも、この本多屋敷でだ。 病死を装うことはできる。しかし、新生幕府が日本の宗教界をも統制して行こうとする矢先に、「天海」という駒をなくすのは手痛い失策だ。御屋形様に、何とお詫びすればよいのか。 「間宮の妻ですが‥‥」 佐渡守の思考は、半蔵の声に中断させられた。 思案の最中と、見てわからんのか。 佐渡守は皺に埋もれた細い眼で、じろりと睨め付けた。 半蔵は怯みながらも続ける。 「一町ほど離れたところで、息絶えておりました」 それは一昨日の報告で聞いたではないか。 「それより、件の神剣とやらについて聞いておらぬが」 「こ、これにっ」 我が意を得たり、とばかりに破顔しながら、半蔵は背中に隠すようにして持っていた三尺余りの細長い包みを差し出した。 佐渡守は、目の前の若造に三たび、不快感を覚えた。 『鬼の半蔵』の異名をとり、徳川忍軍を一手に率いた先代の半蔵正成と、この息子は似ても似つかぬ。狭量に過ぎる。このまま伊賀組を預け置けば、いずれ大事を招くやも知れぬ。 二代目半蔵は布を解き、中から一振りの細身の剣を取り出した。 鈍い光を放つ刀身は、むき出しのままだ。 「居合わせた乞食の老婆が持ち去っていたのですが、取り上げて参りました」 佐渡守は内心、嗤った。誇るようなことか。 相変わらず若造は、佐渡守の表情を気にも留めぬ。 「それにしても、土御門家に代々伝わる宝剣と申す割には、粗末な代物ですな。なまくらですし、柄のこしらえも‥‥。まぁ、儀式用の剣とは、こういうものかも知れませんな。土台、直刀などという物は、合戦においては数百年の昔より‥‥」 すっかり饒舌になった小人の言葉など、佐渡守の耳を通過するばかりだった。 扇をもてあそびながら、雨に濡れる庭の樹木を眺める。水の匂いがした。 意識を庭に向けたまま、億劫そうに命じる。 「‥‥鋳潰してしまえ」 「は」 「調伏に使われし剣など、禍々しいだけじゃ。鋳潰してしまえ」 「は、ははっ」 佐渡守はぼんやりと、半蔵の手にある剣を見やった。 確かに、粗末なものだ。 よく見ると刀身には、刃が引かれていない。 まるで‥‥ そう、まるで、仏像か何かが握っていそうな‥‥ ニ うら寂しい伽藍を、雨音だけが包んでいた。 江戸の市街から外れた小高い丘の上に、その寺はひっそりと建つ。 寺の名は、浄関寺といった。 境内の隅に、今にも朽ち果てそうな、小さなお堂がある。 その暗がりの中、小さな小さな影が、埃を被った不動明王像の前に額ずき、経文を唱えていた。 破れ目を繕いもせぬぼろを引きずり、穴からはみ出す四肢も頸も、枯れ枝のように細く、白い。まるで血の通わぬ、白い紙でできているかのような、小さな躰。 明王像の前には、ぼろきれに束ねられた、髪が二房。 土御門影久と、間宮咲の遺髪だった。 だが、老婆はどちらの名も知らない。知っているのは、別の名。 読経を終え、老婆は明王像を見上げた。 薄くなった白髪の隙間から、白く濁った瞳が覗いた。 明王像の手には、剣が握られている。 「鷹久兄様の‥‥剣‥‥」 老婆の頬を、涙が伝った。 数十年のあいだ涸れ果てていた涙は、あの夜から止めどなく流れていた。 老婆の視線が、二つの遺髪に落ちた。 「光栄兄様‥‥泰子様‥‥」 やっとめぐり会った二人は、どちらも臨終の際だった。 泰子は、鷹久の剣をかき抱いて亡くなった。鷹久の名を呟きながら。 その姿に、老婆は自分の前世を重ね合わせていた。 『とうこの‥‥すきな‥‥たかひさ‥‥にいさまに‥‥‥この‥‥けんを‥‥ごめんな‥‥さい‥‥て‥‥‥』 伝わったのだろうか。あの時の言葉は、鷹久兄様に伝わったのだろうか。 老婆はお堂の床に空いた小さな穴に身を沈ませ、床下から軒下へと這い出た。 大粒の雨が落ちてくる灰色の空を見上げた。 「会いたい‥‥鷹久兄様に‥‥お会いしたい‥‥」 もはや、老いた身に余命は幾ばくもあるまい。 このまま兄様の剣を護って朽ち果てるか、兄様を探して再び旅立ち、路傍で朽ち果てるか。結果は、どちらでも同じことだろう。 五十年、地獄のような世界を彷徨い歩いて、めぐり会えなかったのだから。 しゃがれた低い声で、老婆は呟いた。 「とうこは、桐子は‥‥鷹久にいさまの‥‥笑顔がいちばん、すき‥‥‥」 (完) |