久遠の絆外伝 〜慶長編〜


   第三章

   一

 江戸城下の街並みに、夜の帷が降りた。
 大手門の近く、重臣の屋敷が連なるなかに、本多佐渡守の屋敷もある。
 青い月光が作り出す築地の影に、風魔小太郎は身を潜めていた。
「む、封印が動いた」
 突然、後ろに居る土御門影久が声をあげた。
 同時に、一町ほど離れた築地の屋根から何者かが飛び降り、駆けだした。ひとりだ。
「ホ、ホ、ホウッ」
 小太郎が合図する。
 あちこちの闇の中から、配下の風魔忍びが飛び出し、走り去る者を追った。
 それを見届けると、小太郎は振り返り、いやらしく笑った。
「けけけっ、あんたの操り人形どもが失敗して、万事休すかと思ったぜ。
 向こうから飛び出してくるたぁ、ついてるじゃねぇか」
 影久は、ぎりっと歯がみして、小太郎を睨んだ。
 それと気付かれぬような傀儡を仕立てるのは、実際のところ簡単ではない。五人の侍を、ひとりづつ誘き出し詐術にかけるまでに、五日かかっていた。
 それらを全て倒され、あきらめて引き上げるところだった。まったく、ついているとしか言いようがない。
「さて、俺もいくぜ、見失うなよっ」
 言い捨てて、小太郎は月明かりの中を駆けだした。
 逃げる敵を、配下の者どもが囲みながら走り続けている。
 敵の行き先は‥‥
「城だな」
 配下も既に気付いている。前、横から圧力をかけ、逃走方向を曲げさせる。
 小太郎は追撃する配下の後尾に追いついた。
 くないや、斬り込みの攻撃を続けざまに受け、敵はむしろ、城から遠ざかり始めている。しかし、まだ手傷一つ負っていないようだ。
 さらに逃げると見せかけ、突然敵が反転した。地面に刺さったくないを拾い、斬り込んできた忍者に投げる。忍者は、すんでの所でかわすが、くないに続いて飛び込んできた敵の刃はかわせなかった。腹を斬られ、地に転がる。
 敵のその攻撃の型には、見覚えがあった。
「ちぃっ、やってくれるぜ、土蜘蛛の咲っ」
 小太郎は毒づいた。
 敵はまた向きを変え、普請中の武家屋敷に逃げ込む。建物の骨組みに登ったようだ。

   ニ

 咲は後悔していた。
 追っ手は、本多屋敷を出た瞬間から掛かった。待ち伏せと考えていい。
 やはり、あのまま朝を待つべきだったか。
 だが、それももう遅い。城へ行くにも引き返すにも、敵を退けなければ、どうにもならない。ほんの十数町の距離しかないのに、咲はその中間で進退きわまった。
 すでに息が上がっている。
 相手はようやく一人減って、四人。いや、また五人に増えたか。
 敵は尚も襲ってくる。
 ひゅんと風を切る音。くないが飛んでくる。咲の隠れる柱に刺さる。
 だっと梁の上を走る。横合から白刃が迫る。屋根に跳んで身を翻す。
 次の敵が屋根で待つ。鉄の鎖が投げられる。右に走った先にも、敵。
 右脇腹を刃が掠める。
「くっ」
 骨組みを踏み外しそうになり、屋根の先にぶら下がった。くないが来る前に飛び降りる。なにもない庭を駆け抜け、積み上げられた木材の山に隠れた。
 敵は全員で連続攻撃をかけてくる。忍びに正々堂々という言葉はない。
 脇腹から血が滲んだ。
 絶望的な状況。どうする。何か、何か手はないか‥‥

   三

 土御門影久は走っていた。
 立派な体躯を持つとはいえ、公家崩れの影久には、風魔忍者たちの疾走に到底追いつけない。
 風魔小太郎が心配した通り、影久は彼らを見失っていた。
「おのれ、わしを捨て置きおって‥‥」
 箱根での合流以来、風魔の連中は影久をずっと見下していた。
 直接の雇い主ではないとはいえ、その態度は我慢がならぬ。
 安倍晴明の末裔たる土御門家嫡子の自分が、地下人の乱波ずれに馬鹿にされていいはずがあろうか。
 それもこれも、あの女狐の所為だ。あれに騙されたことを知った風魔どもは、途端に傲慢な口を利き始めた。皆、あの女が悪い。
 切れ長の眼をしたあの女が、影久を嘲笑っている顔が目に浮かんだ。
 しかし、闇雲に走り回っても、風魔の忍びたちを見つけることはできない。
 影久は意を決し、懐から紙の人形(ひとがた)を何枚か取り出した。
 印を組み、呪(しゅ)を唱える。
「南斗北斗三台玉女左青龍避万兵右白虎避不祥前朱雀避口舌後玄武避万鬼前後輔翼急急如律令‥‥行けっ」
 影久が空中に放った人形は、はらはらと舞い落ちるうちに姿を変え、黒い固まりとなって四方に飛び去った。
 月明かりの空を飛ぶ黒い固まり、それは手足の生えた鴉の形をしている。
 その中の一体が、かすかな閃光を見た。撃剣の光だ。
「あそこか」
 影久は、ようやく見つけた闘いの場へ向かって駆けだした。

   四

 咲はさらに追いつめられていた。
 すでに何カ所も傷を負わされている。
 とりわけ、左肘の骨を削られるほど斬られた傷は酷い。出血が止まらない。
「‥‥あぁ‥‥」
 咲は流れ出る己の血を見つめた。意識が浮遊しかける。
「‥‥血が‥‥助けて‥‥たか‥‥ひさ‥‥」
 たかひさ、誰だそれは。
 すでに咲はふらついていた。なのに、敵はとどめを刺そうとしない。
 時間を稼いでいるのか、生きて捕らえるつもりなのか。
 その時、思いも寄らぬ方向から攻撃された。真上だ。
 空から小さな影が襲いかかる。
 咄嗟に斬りつけると、小さな影は紙人形に姿を変え、はらはらと舞い落ちた。
「式神っ」
 その言葉を知っている自分に、驚く暇もない。
 周囲を見回す。
 柱だけの門の前、月光に照らされた土御門影久の姿が目に入る。
 何故と考えるより早く、咲は駆けだしていた。
 左右から投げられるくないをかわし、影久の背後へ跳ぶ。
 これ以上怪しげな術を使われる前に取り押さえ、人質に取って忍者たちの動きも封じる、起死回生の手だった。
 影久の片手を後ろにひねり上げ、頸に刀を突きつける。
「うごくなっ」
 しかし、正面から迫り来る小太郎は、止まらない。
「くっ」
 咲は瞬時にあきらめ、影久の喉をかき切った。
 だが次の瞬間、影久は紙人形に姿を変え、はらはらと舞い落ちた。
「はっ」
 一瞬呆然とした咲の鳩尾に、小太郎の拳がめり込んだ。
「‥‥‥」
 咲は意識を失った。

   五

 ああ、夢、夢。これは夢。
 見てはいけない。見てはいけない。
 こわい、こわい夢。
 暗い、さびしいところ。
 わたしは、ひとりぼっち。
 血が流れている。私の手から。
 ああ、血だ。
 血がほしい。血をすすりたい。
 あたたかい、たかひさの血を‥‥
 血を吸えば、呼べるのに。
 蜘蛛を呼べるのに。
 血が流れている。
 血に染まった比叡の御山。
 こわい、こわい。
 大きな馬に乗った人が、わたしを見てる。
 金色の眼で、わたしを見てる。
 あれは魔王。土蜘蛛の王。
 こわい。
 蜘蛛を呼ばなきゃ、殺される。
 絡新婦を呼ばなきゃ。
 絡新婦‥‥

   六

「うぞり」
 咲の中のどこかで、何か巨大なものが蠢いた。
 咲は薄目を開けた。
 彼女は後ろ手に縛られ、地に転がされている。
 背後で、土御門影久と風魔小太郎が話していた。
「こんなところで壊して、俺達は大丈夫なんだろうな」
「ああ」
「じゃぁ、さっさとやろうぜ」
「待て。いくら叩いても、封印は壊せぬ」
「じゃぁ、どうするんでぃ」
 小太郎と話しながら、影久は地面に何やら紋様を描いていた。
「‥‥そこに置け」
 紋様の中心とおぼしき所に置かれた茶入れ。
 影久は、腰から朱の布筒を抜き、中から剣を取り出した。
 鞘に納められた細身の剣。
 鞘の色は銅がね色、表面には精緻な彫刻が施されている。
 影久はその剣を鞘のまま掲げ、茶入れの方に向けた。
 低く、ゆっくりと呪を唱える。
「ナウマク サンマンダ バザラダン‥‥」
(あまねく金剛部諸尊に帰命す)
 地面に描かれた文様が、幽かな光を帯びて浮かび上がる。
 だがそのとき、あたかもその呪に合わせるように、別のところから別の呪を唱える声が響いた。
「ナウマク マケイジムバラヤ オンシマチュウシキャヤ ビナヤキャ エイケイキ ソワカ ウムパッタ‥‥」
 突然、周囲に突風が巻き起こる。足元の砂が、渦を巻きながら風魔忍者達の顔を叩いた。
「なっ、なんだっ」
 小太郎は大きな眼を庇った。眼を開けていられない。
 呪文を唱えているのは、咲だった。
 腕を縛られたまま立ち上がり、後ろ手に印を結んでいる。
 動揺しながらも、影久は呪を続けた。
「センダ マカロシャダ ソワタヤ ウン タラタ カン マン‥‥」
(暴悪なる大忿怒尊よ。破砕し賜え。忿怒し賜え。害障を破砕し賜え)
 影久の握る剣が、幽かに甲高い音を発した。
 咲の呪が高らかに響く。
「マケイジムバラヤ オンシマチュウシキャヤ アビシャロキャ オンシマチュウシ‥‥」
 影久と封印の間の空間が、ゆらりと陽炎のように揺らいだ。その中に、小さな赤い光点が八つ浮かび上がる。
「‥‥ウムパッタッ」(破砕せよ)
「‥‥ウムパッタッ」(破砕せよ)
 二人の声が重なり、同時に呪を完成させた。
 影久の掲げる剣から封印に向かって、霊気が塊となって放たれる。
 と同時に、封印の前の陽炎から、身のたけ十丈に及ぶ巨大な蜘蛛が実体化した。
 ゴウッ
 影久の放った気は、大蜘蛛の体毛の一部を吹き飛ばした。いや、大蜘蛛が楯となって、封印を護った。
「キシャァァッ」
 猛獣のような叫び声が、夜の静寂を切り裂く。
 大蜘蛛は怒りにまかせ、周囲に大量の糸を吐き出した。
「っ」
 声を上げる間もなく、影久は糸に絡め取られた。
 周りを囲んでいた忍者達にも、次々と糸が絡みつく。
「ぎゃあっ」
 首を絡められた忍者が、糸に頸を切り裂かれ、血しぶきを上げた。
 大蜘蛛は、その巨体からは想像もつかない素早さで走り、忍者たちを血祭りに上げる。絡められ動けない忍者たちは、ある者は頭を噛み砕かれ、ある者は剣のような脚に貫かれ、次々と朱に染まった。
 蜘蛛の糸を切って逃れられたのは、小太郎ひとりだった。
 果敢に大蜘蛛に斬りつける。だが小太郎の刀は、蜘蛛の剛毛に跳ね返された。
「畜生っ」
 小太郎は慌てて高所へ逃げた。
「馬鹿なっ、あの話は本当だったのか‥‥」
 咲の逸話である。駆け出しの頃、敵の重臣の屋敷に潜入した咲は、見破られて拷問にかけられた。だが命を絶たれる寸前、大蜘蛛が現れて救ったという。ともに潜入した者のその噺を、信じる者はなかったものの、それ以来、「土蜘蛛の咲」と呼ばれるようになった。
 小太郎の眼前に、その大蜘蛛が禍々しい姿を現していた。
 四人の忍者を喰らいつくし、もぞもぞと土御門影久に近づく。
 影久の眼前で、蜘蛛の牙がぎちぎちと鳴った。
 周囲には、血の池が出来ている。
 そのおぞましい光景、強烈な血の匂い。
 影久の意識は、一瞬にして遙かな過去へと跳んだ。

   七

 燃えさかる羅城門。
 巨大な蜘蛛の脚が何本も絡み、躰を締め上げている。
 痛い、殺される‥‥
「ぐおおぉぉぉっ、や、泰子ぉ、貴様はぁ、まさか裏切るのかぁっ」
「彼を殺すことは、私が許しません」
「ふざけるなぁ、泰子ぉ。鷹久は道綱殿が処分を決定されたのだぞ!この、この、ぅぅおおお、はなせえぇっ」
「無駄ですよ、光栄(みつよし)様。私の『絡新婦』の爪は、鎌よりも堅く鋭いのです。貴方様の力では、振りほどけますまい」
「ぐぅおおおぉぉぉぉぉ‥‥‥」
 腕の骨が、肋骨が、ばきばきと音を立てて折れた。
 光栄の隣に、憐れみの表情を浮かべた女が立っている。
 蜘蛛の脚がもぞりと伸び、女の腕の戒めを切った。
 いつのまにか、大蜘蛛は女の後ろに居た。影久を締め上げているのは、脚ではなく蜘蛛の糸だった。骨は折れていない。炎も何処かへと消えていた。
 影久は憎しみの籠もった目で、女を睨み付けた。
「や‥‥泰子か‥‥」
「お久しぶりですね、光栄様。‥‥思い出されたのですか」
 咲は影久の手から、剣を取り上げた。
 そのこしらえをまじまじと見る。
「やはり、これは鷹久殿の神剣。貴方がお持ちとは‥‥」
「‥‥何という皮肉か‥‥」
 影久はがっくりとうなだれた。
 賀茂光栄が、憎んでも憎み切れぬ安倍晴明の子孫として転生するとは。
 何度生まれ変わっても殺すと誓った、安倍鷹久の剣を護っていたとは。
 しかも、賀茂家がすでに断絶して久しいことを、影久は知っている。
 何という皮肉か。
 そしてまたも、泰子の転生と絡新婦に絡め取られ、生命を握られている。
「また、その蜘蛛で私を殺すかっ」
 影久は吐き捨てるように言った。
「貴方次第です。影久さまは、まだ徳川家に仇なすおつもりか」
「泰子こそ何とする。あれに封印されおるは、土蜘蛛の眷属に相違あるまいぞ」
「‥‥あの封印を護ると、さる方と約定しました‥‥」
「おのれ、またしても一族を裏切るのだな‥‥」
「‥‥‥」
 同胞への背信を責められ、咲は怯んだ。
 突然、影久は咲の背後に向かって叫ぶ。
「小太郎っ、この女を殺せば蜘蛛は消ゆるぞぉっ」
 咲が振り返るよりも早く、背後から幾本ものくないが飛来した。
 絡新婦が脚でかばい、くないを跳ね返す。
 しかし、脚の間をすり抜けた一本が、咲の右肩に深々と突き刺さった。
「ぐっ」
「ゴオォォォォォッ」
 絡新婦が怒りの咆哮をあげ、小太郎を追う。
 影久は、鴉天狗の式神に糸を払いのけさせ、駆けだした。
 小太郎を追い回す大蜘蛛めがけて、印を切り呪を唱える。
「オンッ アウンラケン バンダ バンダ ディバ ヤクシャム‥‥」
(四天王に帰命す。鬼神を縛せよ、縛せよ)
 影久の身体が、光ならぬ、闇を発する。
 左手の小指に右手の小指を絡め、人差し指に人差し指を絡めて引く、緊縛の印。
 土蜘蛛一族の持つ強大な霊力を注ぎこまれたその呪は、これまでの影久の呪とは比べものにならぬ効力を持っていた。
 絡新婦の動きが停まり、身もだえする。
「ジャク ウン バン コク ジョロウグモ ソワカッ」
(絡新婦を鉤にかけ索で引き鎖で編み鈴で喜ばせよ。成就あれ)
 ようやく肩からくないを抜き、立ち上がった咲の眼に、再び動き出した絡新婦の姿が映った。おずおずと封印の方へ向かっている。
 咲の制御を受け付けない。
「しまった」
 なおも小太郎が襲ってくる。
 神剣で小太郎の刀をはじきつつ、影久に飛びかかった。
 渾身の力を込めてくないを突き刺す。
「ぐぼあぁっ」
 くないは影久の腹を貫き、咲の右手ごと背中から飛び出した。
 だが、影久が崩れ落ちるよりも一瞬早く、地に置かれた唐焼きの茶入れは、絡新婦の巨体に押し潰された。

   八

 絡新婦の巨体の下から、真っ黒な障気が立ち昇った。
 月光に照らされていた景色が、急速に色を失う。
 生あたたかい風が、地面から吹き付けた。
 周囲に立ちこめる、圧倒的な妖気。
 咲はその妖気の色を、知っていた。
 障気の中から、ひとの顔が浮かび上がる。
 細長く髭を伸ばした白面。細長く吊り上がった目。
「‥‥ふぅぅぉぉおおおぉぅぅうううぅぅ‥‥」
 薄い唇が耳まで割れ、口からさらに濃密な障気を吐く。
「‥‥我は第六天魔王なり‥‥」
 頭が痛くなるほどの霊気。この気配を、咲は知っている。
「‥‥土御門影久、いや、賀茂光栄よ、大儀であった。
 よくぞ、我が召還に応じた。
 よくぞ、我が怨敵・明智光秀を滅ぼした。
 よくぞ、我が魂の封印を解いた。
 命を捨ててまでの働き、褒めてつかわすぞ‥‥」
 この威圧感。数百年前よりも、さらに強力だ。
「道綱さま‥‥か‥‥」
 障気の中に浮かび上がる細い目が、咲を見下ろした。
「‥‥久しいな、泰子‥‥」
 足がすくむ。膝が震える。
「‥‥我が復活を妨げし罪は問うまい。
 土蜘蛛の記憶なかりせば、是非もなし。
 その御剣を差し出し、我に帰順せよ‥‥」
「そ、それは‥‥」
 咲は神剣を抱き、後ずさった。
「‥‥まだ逆らうか‥‥くく‥‥くくく‥‥」
 魔王が笑みを浮かべた。その面相は余計に凶悪だ。
「‥‥さて、風魔小太郎。そちも大儀であった‥‥」
「ひ、ひぃっ」
 咲のすぐ後ろから悲鳴が聞こえた。
 今まで気付かなかったが、小太郎は咲の背後に迫っていたらしい。
 特別な霊力を持たぬ彼は、障気にあてられ金縛りにあっていた。
「‥‥苦労ついでに頼む。
 余は見ての通り、体を持たぬ不自由な身である。
 ちと、貸してはくれぬか‥‥」
 小太郎の顔が、恐怖に引きつった。
「ひ、は、はぁっ、ひぃっ」
 その顔の周囲に、魔王の貌をまとった障気が絡みついた。
 怯えていた小太郎の貌が、凶悪で不敵な笑みを浮かべた魔王のそれに変わる。丸い大きな目が、魔性の者の持つ金色の光を帯びた。
「くくくくく、さぁて、渡してもらおうか」
 魔王が小太郎の声で言い、刃を向けた。
 咲は震えている。一対一とはいえ、これまでで最も勝ち目のない相手だ。
 土蜘蛛の力では、泰子は道綱に到底かなわない。絡新婦も通じない。
 かといって忍びの力でも、傷だらけで消耗しきった咲は、未だ無傷の小太郎には勝てない。
 もしも、もしも勝てるとすれば‥‥


   九

 安倍鷹久の剣。
 神剣・天叢雲剣。
 かつて天女・螢が地上に持たらせし破邪の剣。
 土御門家に伝えられ、数百年のあいだ鞘から放たれるを拒みし剣。
 土蜘蛛の眷属の魂を宿す咲に、その剣を扱えるはずもない。
 しかし、それ以外に勝つ方法は‥‥ない。
 咲は一縷の望みに賭けた。
「バン ウン タラク キリク アク」
(大日如来、阿しゅく如来、宝生如来、阿弥陀如来、不空成就如来)
 神剣に向かって、小さく五芒星の印を切る。
「神剣よ、我が意に下れ。鷹久殿の手に帰りたいのなら。
 道綱様の手に堕ちたくないのなら‥‥」
 咲は神剣の柄に手をかけた。
 その途端、咲の脳裏に不思議な声が聞こえた。
 銀の鈴を転がすような、それは少女の声。
「あなたに力を貸すのは癪だけど、たしかにそれは嫌だから。
 それに、あなたが死んだら、あなたの中にいる、あの人も死んでしまうから」
 突如、頭に響いた声に、咲は戸惑う。何者か。何のことか。
 しかし、考えている暇はない。
 咲は柄を握る手に力を込める。
 しゅらんっ
 驚くほど軽く、剣は鞘から放たれた。
 白銀の眩い光を放ちながら、神剣の刀身が姿を現す。
 刹那、世界は純粋な白一色に染まる。
 小太郎の中の魔王は、驚愕した。
「な、なんだとぉ、なぜ貴様に、その剣が扱えるのだっ」
 咲自身、何故に剣が抜けたのか解っていない。
「道綱さま、御免っ」
 咲が斬りかかる。
 カキィィッ
 黒い障気を帯びた刀と、白い光を放つ剣が撃ち合う。
「うおおおぉぉぉ」
 魔王の斬撃は、人間を遙かに超える速さと力で繰り出される。
 咲は、ではなく咲の握る神剣は、それをも楽々と弾き返す。反動すら感じない。
 ガキィ ギンッ ジャランッ
 ビキィ ガンッ ゴキインッ
 十数合に及ぶ撃ち合いの末、鈍い音をたてて小太郎の刀が折れ飛んだ。
「おのれえぇぇぇ」
 魔王は気を塊にし、次々と指先から放った。
 その黒い塊は全て、神剣に触れた途端に霧散した。祓い浄められるが如く。
「渡しませぬぞ。疾く冥界へ去られよっ」
「‥‥ぬううぅぅぅぅ‥‥」
 小太郎の身体から、黒い障気が抜け出た。
 再び、空中に禍々しい魔王の顔が浮かび上がる。
 怒りに歪んだその顔は、みるみるうちに形を変え、耳まで裂けた口から巨大な二本の牙をのぞかせ、脳天からも二本の角を生やした、醜悪な鬼の形相に変化した。
 魔王の本性、鈴鹿山の鬼神・大獄丸(おおたけまる)。
 障気に映った鬼の顔は、神剣の光を憎らしげに睨んでいる。
「‥‥この怒り、忘れぬぞ‥‥‥‥されど今は‥‥‥‥次の転生に備え、魂を休めん‥‥‥‥さらばじゃ、来世でまみえようぞ‥‥」
 障気は、しばらく恨めしそうに上空を廻っていたものの、やがて西の空へと飛び去った。

   十

 神剣の光が、ゆっくりと収まっていく。
 月明かりが戻ってくる。
 風魔小太郎は、まさに魂を抜かれたように、立ったまま惚けていた。
 強力な魔王の魂に、本来の魂が押し潰されてしまったらしい。
 神剣の光が消えると、咲の身体には猛烈な疲労感が襲ってきた。
 今まで神剣から力を注がれていたことに気づく。
 左肘からの大量の出血、絡新婦を操るために使った精力。そして神剣を揮っての戦いが、咲の体力を完全に消耗させていた。
 咲はがっくりと膝を落とした。
 だが、咲は敵を退けた。
 道綱の魂は解放されてしまったものの、鷹久の剣がその手に渡るのは阻止した。
「たかひさ‥‥どの‥‥」
 会いたい。剣を護った自分を、鷹久に褒めて欲しかった。
 猛烈な睡魔と戦いつつ、ようやく咲は、神剣を杖代わりにして立ち上がった。
「ぐっ」
 息が詰まる。
 背中が焼ける。
 鳩尾の辺りから、刃が突き出る。
 後ろから、刀で貫かれていた。
 背後から掠れ掠れの、影久の声がした。
「‥‥こたび‥‥は‥‥ひとりでは‥‥しな‥‥‥‥おま‥‥も‥‥みち‥‥づ‥‥」
 影久が再び倒れる。咲を貫いていた刃も、さらに咲の内臓を傷つけながら、引き抜かれる。
「‥‥あ‥‥あ‥‥」
 腹と背中から、溢れるように血が滴った。
 倒れそうになりながらも、咲は踏みとどまった。
 剣を杖に、よろよろと歩き出した。

   十一

 地面に点々と血が落ちる。
 咲は、自分の命火が消えゆくのを感じた。
 脳裏に、今生でめぐり会った夫の顔が浮かんだ。
 風魔と伊賀の戦いの中、瀕死の重傷を負った咲を拾い、庇ってくれた優しい夫。
 次に、泰子であった咲は、懐かしい鷹久の顔を思い出した。その顔が、夫の顔に重なった。顔立ちは似ても似つかぬが、どちらも彼女には優しかった。
「わたしは、ひとりで、死ぬのか‥‥」
 一人で死ぬのが恐いなんて、ただのくノ一の咲であったときには、思ったこともなかった。優しい夫の記憶、そして前世の記憶が、咲を死を恐れる女に変えてしまった。
 頬を涙が伝った。
 杖にしている神剣も、泣いているような気がした。
 再び、少女の声が聞こえる。
「あなたが死んだら、あの人も死んでしまうのに‥‥」
 心の中で、咲は剣に問いかける。
「誰なの、それは‥‥」
「あなたのお腹の中にいる、その人は‥‥」
 力尽き、咲は倒れた。戦いの場所から一町ほどしか歩いていない。
「‥‥そう、そうだったの‥‥ごめん‥‥なさ‥‥‥‥」
 咲は、剣と、腹の中の仔に向かって詫びた。
 涙が止めどなく流れた。
 ふいに、咲の顔にあたっていた月の光が、遮られる。
 すでに意識の朦朧とした咲が目を向けると、小さな人影がのぞき込んでいた。
 月光の影になり、顔は見えない。
 人影は、しゃがれた低い声で、経文を唱え始めた。
「將釋此經略有五意一明往生所依二辨二行勝劣三述經來意四釋經題名五入文解釋也一明往生所依者此經即是往生極樂之所依也夫往生極樂‥‥」
 咲は、念仏婆と呼ばれる乞食の話を思いだした。
「‥‥わた‥‥まだ‥‥しんで‥‥な‥‥」
 読経の声が止まる。
 咲は老婆に向かって震える手を伸ばし、神剣を差し出した。
「‥‥これ‥‥を‥‥どこ‥‥かく‥‥し‥‥て‥‥」
 老婆の白い小枝のような手が伸び、剣を取った。
 咲の意識が、急速に薄れゆく。
 最後に浮かんだのは、懐かしい、やんちゃな男の子の顔。
「‥‥たか‥‥ひさに‥‥あい‥‥たかっ‥‥」
 咲は絶命した。
 その手は、自らの胎に添えられていた。

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