第二章 一
慶長八年。 徳川家康は征夷大将軍に任ぜられ、根拠地・江戸に幕府を開くことを宣した。 新将軍は、江戸市街の拡張工事に諸大名を動員した。大名の集めた四万もの人足、工事を当て込んだ商工業者、女郎らが集まり、江戸は開闢以来の活気に満ちていた。 しかし、諸国からの流入者で人口が急増する中、治安は著しく悪化していた。 咲が江戸に入ってから、二ヵ月が過ぎた。 咲の夫・間宮一蔵は、伊賀組同心のひとりとして、城下に小さな屋敷を与えられていた。しかし、そこに住んだことはほとんどなく、上方で徳川の間諜として働いている。咲はその主人の留守宅を守る細君という立場で、江戸に留まっていた。 土御門影久の正体と目的について、伊賀組頭に報告した後、上からは何の音沙汰もない。影久を捕らえたという話も、聞かない。 課せられた勤めは果たしたのだから、咲がこれ以上気に留めることではない。 しかし、土御門影久という男に対して、咲は何か心にわだかまりを感じていた。どこかであったような気がしたのは、事実だった。 また、江戸の市中は不穏な空気に満ちていた。盗賊や辻斬りが横行しているという。しかも、何故か神社仏閣が盗賊に荒らされたり、僧侶が斬られるという事件が多発しているという。金欲しさの凶行ばかりとは思えないところが、不気味だった。 見知らぬ土地での暮らしということもあり、咲は落ち着かぬ生活を送っている。その所為であろうか、恐ろしい悪夢を、よく見る。 さらに最近は、腹痛を起こすこともしばしばだった。 「仔を孕んだのではないか」 そんな考えが頭をよぎったこともあったが、咲はすぐにそれを否定した。 くノ一として育てられ、働いてきた咲は、何度も望まぬ妊娠をし、その度に仔を流してきた。病をうつされて、難儀したこともある。いつしか、孕むこともなくなった。最早、子を産める身体ではあるまい。 「思えば、憐れな‥‥」 まるで他人事のように、咲は呟いた。 自らのこととして正面から受け止められるほど、咲の心は、強くない。 これ以上考えてはならない。 「気鬱の病だ」 咲はそう片づけた。早く、優しい夫の顔が見たい。 梅雨空を見上げ、咲はひとつ、ため息を付いた。 二 久しぶりに雨の上がったある日の夕刻、間宮家の門前に一人の若い侍が立った。 「ごめん、ご新造はおられますか」 「はい」 予め、先触れの小者が来ており、咲は準備をして待っていた。家老・本多佐渡守の屋敷からの、迎えの使者だ。 土御門の件だという。また、話の後で屋敷の警護に加わるよう命じられていた。咲の手荷物のなかには、忍び装束が仕舞われている。 迎えの侍は、戸田三郎太と名乗った。 歳はまだ十四、五というところか。元服から間もないに違いない。あどけなさの残る顔立ち。背丈も、咲とさほど変わらない。腰に差した大小は、不釣り合いなほど大きく、しかもかなりの業物のようだ。どこかの旗本の子弟なのであろう。 後に従って行こうとしたが、戸田は咲に歩調を合わせ、並んで歩いた。 ちらちらと、咲の顔を盗み見ている。 「どうなさったの」 「いやっ、そのっ」 咲が声をかけると、戸田は益々落ち着きをなくした。 「私の顔に、何か」 「あのっ、ご妻女は、その‥‥くっ」 「く」 「くっくっくっ」 「何がおかしいんですの」 「いやっ、そのっ」 青くなっている。面白い若者だ。咲はからかってみたくなった。 「くノ一、ですわよ」 「‥‥‥」 「それがなにか」 「‥‥あのぉ」 咲は首をかしげた。 「くノ一とは、やはり、皆このような美女揃いなのでしょうか‥‥」 「まぁっ」 何を言い出すかと思えば。何を吹き込まれてきたのだ、この若者は。 くノ一を浅ましき卑怯者と蔑む者こそあれ、このような見方をされたのは初めてだ。 若者のあまりの世間知らずさに、咲は声を上げて笑い出しそうになった。 「このような大年増に、何を申されますの」 言いながら咲は、わずかに頸を傾け、わずかに柳眉をひそめ、猫のように細めた流し目で戸田の瞳を見上げる。 媚態。 うぶな若侍は一も二もなく、ぼっと火のついたように赤くなった。 くノ一を、娼婦の類とでも勘違いしているのか。 咲は戸田との距離を、すっと縮めた。袖を軽く引きながら、艶のある声で囁く。 「くノ一のからだを、試されたいのですか」 「いやっ、そっそのっ」 声が裏返っている。耳まで赤い。 咲は声を低めて、とどめを刺した。 「その後で、寝首を掻きますわよ‥‥」 戸田は再び青くなった。 三 徳川家の重臣・本多佐渡守の屋敷は、伊賀組屋敷とは城を挟んで反対側にある。城を突っ切れば早いのだが、そういうわけにもいかぬ。咲は戸田に案内され、城北の街を廻って歩いた。 五月晴れの澄んだ空気の中、西日に照らされ、遠くに神田山の作事場が見える。大勢の人夫が土を掘り、列をなしてもっこで運びだしていた。 戸田の話では、あの山は全て切り崩され、海の埋め立てに使われるのだという。なんとも大がかりな工事だ。 町屋の角をまがったとき、前方に人集りが見えた。 「なんだろう」 戸田が軽快に駆け寄っていき、また駆け戻ってきた。その仕草は少年そのままだ。 「辻斬りです」 「まぁ」 咲と戸田は人集りに割って入り、死体を見た。 みすぼらしい墨染めの衣を着た死体だった。 「お坊様ですわ」 「またですね。むぅ、金を持ってるようには見えないんだけどなぁ」 その時、遠巻きに見ている野次馬の輪の間から、小さな人影が歩み出た。 破れ目を繕いもせぬぼろを引きずり、穴からはみ出す四肢も頸も、枯れ枝のように細く、白い。まるで血の通わぬ、白い紙でできているかのような、小さな躰の老婆だった。 よろよろと坊主の遺体にすがりつき、ぶつぶつと経を唱え始める。 「ご係累の方でしょうか」 憐れみの目で、咲は老婆を見やった。 「ああ、あれは違いますよ」 戸田は訳知り顔で話す。 「この辺じゃ、念仏婆って呼ばれてます。辻斬りの死体だろうが、土左衛門だろうが、果ては斬られた盗賊の死体にでも、ああやって念仏を唱えるんです」 「ご奇特なお婆さんですのね」 「そうなんですけどね。時々、仏さんの親類縁者に出くわすこともあって、中には、有り難がって銭を渡す者もいるんですよ。まぁ、乞食の類ですね」 いろいろな生き方があるものだ。咲は感心した。 戸田は、再び坊主の死体を観察しながら、嘆息した。 「ううむ、あれは侍の手ですね」 ばっさりと一撃で屠ったその斬り口は、戸田の言う通り、武士のそれだ。 武士が坊主を斬って、何の得があるのだろうか。 「最近、何か変なんですよ。坊主の辻斬りだの、墓泥棒だの、どうにも訳の分からぬ 事件が多い。先日は神社の火付け、なんてのもありました。 奉行の青山様、内藤様も、頭を抱えておられるそうです」 嫌な、予感がする。 咲はそれらの事件が、自分に何らかの関わりがあるような気がした。 四 屋敷に着くと、咲は庭ではなく、奥座敷に通された。 あくまで、表向きは御家人の妻女という扱いである。 戸田は幾人かの侍とともに、廊下に控えている。他にも数人が周囲を固めていた。妙に物々しい警護だ。 上座に二人の男。どちらもかなりの高齢だ。 ひとりは、如何にも身分の高い武士という雰囲気だ。顔中に刻まれた深い皺の間から、差すように鋭い眼光が覗いている。 もうひとりは禿頭で、きらびやかな朱の法衣を纏っていた。名のある宗門の高僧か。 しかしその眼光は、隣に座す老武士よりも鋭い。 「佐渡守じゃ」 老武士が名乗った。 咲は平伏する。 「ご尊顔を拝し奉り、恐悦至極に存知ます。伊賀組同心・間宮一蔵が妻、咲と申します」 「‥‥なに‥‥」 咲の声を聞いた高僧が、突然うめいた。 「どうなされた、南光坊殿」 佐渡守が尋ねた。 「‥‥いや‥‥」 南光坊と呼ばれた僧は、咲の方をじっと見ているらしい。額の辺りに、ちりちりと視線を感じた。どこかで、あったことがあるのだろうか。 「ああ、さっそくじゃが‥‥」 佐渡守から尋ねられたのは、土御門影久が持っていた剣のことだった。 先日、組頭に報告した通りのことを繰り返す。 朱の布筒に収められた細身の剣。長さは三尺余り。柄元は、丸い輪のような形をしていたように思う。 「鞘から抜けぬ、と申したのだな」 「はい。数百年、刀身を見たものはおらぬと」 佐渡守は南光坊に向かって、小声で何か話している。南光坊は頷きながら、深い溜息をついた。 「重ねて尋ねる」 「はい」 「土御門と申す者、そちが会うたときは、ひとりだったのだな」 「はい」 確かに独りだった。咲が目を離すまでは。その後は‥‥ はっと顔を上げた。南光坊という高僧と、思わず目が合う。 「し、失礼を‥‥」 慌てて平伏した。 「何か心当たりがあるのか」 「は、はい‥‥」 咲は、その直後に出会った風魔の残党について語った。 偶然かも知れぬ。しかし咲には、なんとなく関わりがあるような気がした。 「なるほど、繋がったな」 佐渡守が呟いた。 おそらく、辻斬りや火付け、盗賊のことであろう。土御門影久が単独であるならば、そのような事件は起こせない。逆に、ばらばらに見える怪事件の数々は、調伏という目的で、一本の糸に繋がる。 「あいわかった」 佐渡守は扇をひとつ、打ち鳴らした。 「間宮咲。その方は以後、当屋敷に奥女中として入り、警護にあたれ。きゃつらは、必ずここへ現れる」 「‥‥恐れながら‥‥」 咲は疑問を差し挟んだ。 「きゃつらの目的は、ここにあるのじゃ」 何があるというのだろう。咲には判らなかった。 と、その時。 佐渡守と咲のやりとりを聞きながら、じっと咲の顔に見入っていた南光坊が、つと、立ち上がった。そのまま、ずかずかと咲に歩み寄り、咲の顔に手をかけて、のぞき込んだ。 「な、なにを‥‥」 咄嗟のことに、身が固まる。 南光坊は真剣な眼差しで、咲に問いかけた。 「‥‥や、泰子様‥‥か‥‥」 咲は、南光坊の眼を見たまま、さらに固まった。 誰だそれは。私は、間宮咲だ。泰子などという名前は、聞いたことも‥‥ 聞いたことが‥‥あるかも、知れない。 咲は奇妙な感覚にとらわれた。 五 南光坊の突然の奇行に驚いたのは、咲ばかりではなかった。 佐渡守も呆気にとられている。 廊下や隣の間に控えていた警護の侍たちも、狐につままれたような顔をして、固まった。 だが、固まったのは全員ではなかった。 突然、咲は背後に殺気を感じた。 刀の鞘走る音。 反射的に、咲は前方へと跳び出した。跳びざま、南光坊の衿を掴んで引っ張る。 「きええぇぇぇっ」 奇声を発して襲ってきたのは、なんと、廊下に控えていた侍のひとりだ。 「くっ」 しかし咲の体重では、引っ張ったまま跳ぶことはできない。南光坊の体は、取り残される形となった。 「がはっ」 侍の刀が南光坊の躰を刺した。 侍は刀を引き抜き、咲に向かって振りかぶる。 振り下ろされる刀より速く、飛び込んだ咲の肘が侍の腹を突いた。もう一方の手が脇差しに伸び、抜くと同時に鯉口の外に突き刺す。刀の柄を握ったまま畳を蹴り、咲は走り抜けた。 前からもう一人、斬りかかってくる。 胴を払いに来た刀の上を跳び、敵の喉笛を斬った。さらに反転し、咲が握る脇差しの主に、とどめを刺す。 振り返った咲の眼に、頸から鮮血を吹き出している男の顔が映った。 「‥‥戸田どの‥‥」 戸田は白目を剥き、糸の切れた人形のように崩れ落ちた。 隣の間でも、斬り合いの音がしていた。 「ぎゃああっ」 断末魔の叫び声が聞こえた。 襖が勢いよく開け放たれる。返り血を浴びた侍が三人。 その貌は、尋常ではなかった。目は焦点を結ばず、口から涎を垂らしている。 正体が、ない。 狂った侍たちが刀を向けてくる。 後ろでは、佐渡守が腰を抜かしている。南光坊は傷を負っている。 三対一、分が悪い。咲の背を冷たい汗が流れた。 そのとき、足元で南光坊が唸り声を上げた。掌を妙な形に組み、何か呪文のようなものを唱えている。 「‥‥謹請天神地祇八百万神等降臨此座無上霊宝神道加持六甲六丁天門自成弋六天門自開六甲盤垣天門近在‥‥」 きり、きりきり‥‥ この座敷がなにか、見えないもので閉ざされていくのを感じた。 途端に、薄気味悪い目の侍たちが動揺した。 「‥‥あ‥‥あう‥‥」 大口を開けて、盛大に涎を流している。 咲はその隙を逃さなかった。 脇差しごと左端の侍に体当たりし、新たに脇差しを奪った。 続けざまに、残る二人の首を薙ぎ払う。 座敷は、文字通り血の海になった。 六 咲が斬った五人以外に、廊下にひとり、控えの間にふたりの侍が倒れていた。不意を突かれ、ほとんど為すすべもなく斬られたようだ。 警護の侍のうち、実に半分以上が、狂ったように襲ってきたことになる。 「‥‥くぐつ‥‥だ‥‥」 南光坊が呻いている。 咲は南光坊の傷を調べた。 「薬師を‥‥」 呆然としている佐渡守に言う。 我に返った佐渡守は、大声で人を呼びながら座敷を出ていった。 しかし、南光坊が助かるとは思えない。右の肺を貫通されている。 「ごっ、ごほっ、ごほっ」 咽せながら、南光坊は血に濡れた手で、咲の頬に触れた。咲の顔も、返り血に染まっている。 「‥‥泰子‥‥様‥‥」 「‥‥‥」 「‥‥覚えておられぬか‥‥私は‥‥晴明です‥‥あ、あべの‥‥せい‥‥めい‥‥」 ばかな。安倍晴明とは、土御門影久の遠い先祖の名前ではないか。 「‥‥我が裔(すえ)の不始末‥‥ゆ、許され‥‥よ‥‥」 ばかな。そんなばかな。咲は混乱した。 「お、思い出して‥‥下さい‥‥これを守り通せるのは‥‥泰子さま‥‥しか‥‥」 南光坊は懐から、握り拳大の包みを取り出した。錦の小袋。袋の口は組み紐で厳重に縛られている。中は硬い物だ。陶器か何かか。 「‥‥これを‥‥狙って‥‥」 「しゃべってはなりませぬ」 咲は噛んで含めるように言った。 それでも南光坊は、咳き込みながら語り続けた。 その内容は、咲の理解を遙かに超えていた。 七 二十一年前、南光坊天海は強大な悪魔を退治し、その魂を封じ込めたという。 自らを「第六天魔王」と名乗る悪魔だ。 またの名を、織田信長といった。 神懸かった武運、革新的な先見性。それらを武器に濃尾を手中に収め、天下布武に乗り出した当初は、まだ人の心を持っていたようだ。 南光坊天海もまた、信長の幕下に加わり、天下統一に力を貸した。 しかし、いつしか信長は前世の記憶を取り戻したらしい。太古、人外の悪鬼どもを率いた、土蜘蛛一族の首領としての記憶を。 以後、信長は魔王となった。一切の神仏を否定し、比叡山を焼き払い、長島や越前で数万人の一向宗門徒を虐殺した。そして、日本の半ばまでを征服するに至った。 天海も信長の手先として、先頭に立って虐殺を指揮したという。 やがて、安倍晴明としての記憶を取り戻した彼は、本能寺にて信長を滅ぼした。 当時の名は、明智光秀という。 彼は、二度と転生できないよう、魔王の魂を、結界を張った器に閉じ込めた。それが、今ここにあるものだ。 唐焼きの、茄子の形をした茶入れ。銘を「九十九茄子髪」という。 「私は魔王の下で、大勢のひとを殺した。悔やんでも悔やみきれぬ」 天海は涙を流した。 「転生したのは私独りなのか、ずっと悩んでおりました。泰子様‥‥」 つまり、咲の前世は、安倍晴明と関わりがあったということか。 「もしかしたら、私が殺した中に、鷹久や螢どのの転生がいたかも知れないと思うと、私は‥‥わたしは‥‥」 たかひさ、ほたる。それも関わりがあった人の名前か。そういえば、鷹久という名は、なんとなく聞き覚えがあった。 「何と、恐ろしい時代に生まれてしまったのか。平和な御代に生まれたかった‥‥」 天海の声が、どんどん弱々しくなっていく。 「‥‥それが叶わずとも、せめて、次に生まれるときは‥‥‥‥前世のことなど‥‥思い出さぬまま‥‥一生を終えたい‥‥」 やがて南光坊天海は、咲の膝の上で息を引き取った。 八 咲は、血を吸って重く張り付いた着物を脱ぎ捨てた。結い上げた髪も解く。代わりに忍び装束を身につけ、髪を後ろに束ねた。 丈夫そうな脇差しを見つくろい、腰の後ろに差す。 鞘の下に、天海から託された茶入れの包みを下げた。 さて、これからどうするか。何処へ逃げるか。 考えた末に、咲は城の大手門に向かうことに決めた。さほど遠くなく、間違いなく警護の兵がいる。 だが、そこまでは独りで行くしかない。この屋敷にいる者は、誰も頼りにできない。咲は操られていた侍を、事前に見分けられなかったのだから。 咲は、首から血を流して絶命している若い侍の顔を見下ろした。 まさか、この少年が斬りかかってくるとは。 咲は屈み込んで手を伸ばし、戸田のまぶたを下ろしてやった。 「可哀想な子‥‥立ったまま寝てるからよ‥‥」 |