久遠の絆外伝 〜慶長編〜


   第一章

   一

 ああ、夢、夢。これは夢。
 見てはいけない。見てはいけない。
 こわい、こわい夢。
 暗い、さびしいところ。
 わたしは、ひとりぼっち。
 胸のつぶれそうなさびしさが、とつぜん大勢の足音にかき消される。
 でもそれは、恐ろしい姿の人たち。
 手には血にぬれた大きななたと、殺した人の体の一部。
 こわい、こわい。
 でも、さびしいのは、もっとこわい。
 わたしは泣きながら、獲物から血を抜き、湯をたぎらせた鍋に入れる。
 鍋をあぶる炎が揺れる。
 炎、ほのお。
 燃えている。燃えている。
 炎を上げる羅城門。
 ちがう、あれは、比叡の御山。
 こわい、こわい。
 大きな馬に乗った人が、わたしを見てる。
 おかしな形のよろい。おかしな形の羽織り。
 金色の眼で、わたしを見てる。
 こわい、助けて、誰か。
 助けて、たか、ひさ‥‥

   ニ

 ああ、夢、夢だ。これは夢だ。
 見てはならぬ。見てはならぬ。
 怖い、怖い夢だ。
 嫌だ、死にたくない。
 孤独なまま、死にたくない。
 誰も私を認めてはくれぬ。
 皆、私を見下ろし、嘲笑する。
 皆、私から奪っていく。
 嫌だ。嫌だ。
 死にたくない。死にたくない。
 この身をあぶる炎が揺れる。
 炎、ほのお。
 燃えている。燃えている。
 炎を上げる羅城門。
 巨大な蜘蛛の脚が何本も私の躰を絡め、締め上げている。
 痛い、殺される。
 やめろ、や、す、こ‥‥
 大きな馬に乗った男が、私を見ている。
 恐ろしい声で、私に命じる。
「天海を殺せ」
 てんかい、天海とは、誰だ。
「御剣を持て」
 みつるぎ、それは‥‥
 金色の眼で、私を見ている。
 嫌だ、殺され、る。
 助けてくれ、とう、こ‥‥

   三

「うわああぁっ」
 喉を引きつらせ、悲鳴を上げる。
 重く湿った夜具を鷲掴みながら、飛び起きた。
 どく、どく、どく、どく‥‥
 心の臓の脈動音が、早鐘の如く鼓膜に響く。
「ごほっ、ごほっ」
 肺の臓が、悲鳴を上げて咽せ返る。
 しばしの苦悶の後、どうにか普通に息をつけるようになり、ようやく周囲の様子に気を配る余裕ができた。
 暗がりの中、微かに見える真新しい夜具。真新しい床。木の香が鼻腔をくすぐる。
 自分の居る場所が、建てられて間もない旅籠の一室であることを、ようやく思い出した。
「う‥‥うぅ‥‥うう‥‥」
 すぐ傍らから、苦悶する声が聞こえる。女の声だ。
 目を凝らして女を観る。
 艶やかな黒髪。ひそめられた柳の葉のような眉。ややつり上がった切れ長の目。
 薄く開いた花の蕾の如き唇から、苦悶のうめきが漏れる。
 夜具を跳ね上げられたため、柔らかく隆起した双丘から、くびれた腰に至るまで、闇夜に白く裸体が浮かび上がっている。
 寒さに震えているのか、これは可哀想なことを‥‥
 しかし、手に触れたその柔肌は、汗でじっとりと濡れていた。
 どうやら、この女もうなされているらしい。
 なんとしたことか。一つ夜具の中、二人揃ってうなされるとは。
 久しく悪夢など見なかったというに、女の悪夢に引かれたか。あるいは、その逆か。
 女の名を呼び、揺り起こす。
「咲どの、さきどの‥‥」

     四

 名を呼ぶ声がした。咲、それは誰のこと‥‥
 身体を揺り動かされる。
 深い淵から、急速に意識が浮上してくる。
『それは、私のことだ』
 かっと目を見開く。
 目の前に、男の顔がある。これは誰だ。
 角張った縦長の顔、彫りが深い。眉は薄く、その下に二重瞼の大きな瞳が覗いている。やや眉間に眉を寄せ、端を片側だけ吊り上げた口元。
「‥‥み‥つ‥‥‥かげひさ、さま‥‥」
 その名が浮かぶまでに、たっぷり三呼吸の間が空いた。それでもなお、混乱が収まらない。
「むむ、誰の名を呼びかけた。亡き御夫君かな」
 誰だろう。思い出せない。
「なんだ、思い出せぬのか」
 頷く変わりに男の、影久の胸に額をよせる。
 久しく見なかった悪夢。その情景は思い出そうとすると、かえってするりと心の指の間をすり抜けていく。
「‥‥怖ろしい夢を‥‥それしか、覚えておりませぬ」
「夢とは、そういうものよな。わしも先ほどまで、うなされていた。
 それなのに、どんな夢だったのか、覚えておらぬ」
「まぁ」
「はは、まこと、仲良く悪い夢をみたものよな」
「ふふ、よほど気が合いますわね。
 ひょっとしたら、この逢瀬は前世からの宿縁かも知れませぬ」
 おどけながら、咲は何か心に引っかかるものを感じていた。
「‥‥咲どの、どこかで会うたことはないか」
 咲を抱き寄せて横たわり、その頭を左腕に載せながら、影久は訊いた。
「わたしも、そのような気がしておりました」
 出会ったばかりだというのに、ずっと昔から知っていたような、本当にそんな気がするのだ。
 ここまでの咲の言葉に、嘘は何一つ無かった。
 ようやく夢と現のあいだを浮遊していた心が定まり、咲は己のなすべきことを確認する。
 それは、嘘を吐くこと。

     五

 咲は影久の厚い胸の上に、しなやかな指を滑らせながら問い質した。
「影久さま」
「ん」
「本当の御名は、なんと仰るの‥‥」
「‥‥偽ってはおらぬぞ」
「でも、京の吉田神社の神官というのは、偽りですわね」
「‥‥」
 影久は片方の眉だけを吊り上げた。口元が苦々しげに笑っている。
「昔、お会いした貴方は、そんな生い立ちの方ではなかったような気がしますの」
 咲の唇は、影久の耳朶を吸いながら、甘い声で囁く。吸い付くような肌をたたえた膝が、影久の足に絡まる。
 影久は、甘い香りに酔いながら手を伸ばし、絡みつく太股に触れた。柔らかな感触に、今宵何度めかの高まりを覚える。
「わしの名は‥‥」
 咲の熟れたからだを引き寄せながら、影久は熱に冒されたように言葉を漏らす。
「土御門影久と申す」
「ああ‥‥つちみかど‥‥さま‥‥」
 聞いたことのある姓だ。公家だったか。
「何故に、吾妻へ下られるのですか‥‥」  影久の背に手を回しながら、感極まった声で訊く。冷徹な思考を、その下に隠しながら。
「それはな‥‥」
 影久は咲の乳房に、引き寄せられるように吸いついた。
 途端に、背中に回された咲の腕に力が籠もり、白い頸を大きくそらす。
「あ‥‥あ‥‥そ、それは‥‥」
 粘りつく液で股を濡らしながらも、影久の口を滑らす誘いは、止まらない。
 咲を組み敷き、貫きながら、影久は何もかも白状させられていた。

     六

 土御門は、陰陽道の宗家である。
 朝廷や貴族のために吉兆を占い、穢れや禍事を祓うことを生業とする。
 しかし、公家全体の没落とともに力を失い、暮らしぶりは目を覆わんばかりだ。
 影久は、そんな家に生まれた。
 父とは桁違いの霊力を持って生まれ、若くして秘伝書の全てを会得し、「式神を遣い、鬼神をも操る」と云われた家祖・安倍晴明の再来と自負している。
 それなのに、父は影久を忌み嫌った。
「人を呪う力は、我が家をも滅ぼす」と。
 影久は、家を飛び出した。
 土御門家を再興し、父や、自分を蔑む者たちを見返す。そう心に誓った。
 影久が売り込んだ先は、豊臣家だった。
 先年の関ヶ原での戦以来、その権威は衰えている。だが、ここで挽回するきっかけを作れば、大きな恩を売ることができる。
 影久には策があった。江戸の街は大拡張工事の最中であり、京と違って霊的な守りが薄い。江戸に潜入して僅かな結界を絶てば、徳川家の調伏は思いのままだ。
「しかも、な」
 ぐったりと脱力した咲を躰の上に乗せたまま、影久は続けた。
「江戸には、恐ろしい悪霊が封印されておるらしい。それを探して、解き放つ」
 咲は影久の顔を見つめ、涙を流した。
「‥‥我が夫の‥‥仇を‥‥」
 石田治部少輔の家臣の妻。亡夫は関ヶ原で討ち死。それが、咲が影久に告げた偽りの身上だった。
 影久は、露ほども疑っていない。咲の瞳を見つめ、力強く頷いた。
 ゆっくり身を起こしつつ、いかにも初めて気に留めたような顔で、咲は尋ねた。
「あれは、なんですの」
 咲の視線は、枕元の刀掛けに掛かる剣に注がれていた。
 朱色の布筒に収められ、どんな剣かは判らない。長さは三尺余り、かなり小振りと言える。
 昼間、影久がいかにも大切そうにしていたものだ。
「あれはな、我が家に古くから伝わる剣だ。
 もっとも、本当に剣なのかどうか判らん。何せ、抜けないのでな」
「抜けない剣‥‥ですか‥‥」
「数百年、刀身を見た者はおらぬそうだ」
 咲は、布筒の中身を確かめたわけでもないのに、その剣を見たことがあるような気がした。
 咲は再び、影久の腕を枕にまどろんだ。
 しかし翌朝、影久が目覚めたとき、咲の姿はどこにも無かった。

   七

 箱根の深緑に、ようやく薄明が差した。
 朝靄を纏った木々のあいだを、鳥や獣が渡りはじめる。
 それらの動物を尻目に、巨木の枝に身を沈ませ、街道を監視する影があった。
 滑稽なほどに丸い眼。しかしその眼には、肉食獣のような凶暴な光をたたえている。
そして、顔の両側には、耳がない。耳朶が削ぎ落とされている。枝に留まったその男の姿は、さながら梟のようだ。
 男は、その名も「梟」という。異相から付けられた呼び名だ。
 しかし今は、「小太郎」と名乗っている。
 彼は数人の配下と交代で、数日前から客人を待っていた。
 街道を西から進んでくる人影がひとつ。待ち人ではない。
「お、女だ」
 珍しい、というよりは狂気の沙汰だ。徳川家に整備された東海道とはいえ、まだまだ女の一人旅が出来るような御時世ではない。現に、ここに盗賊が潜んでいる。
 暇つぶしにはちょうどいい。
「ホウ」
 小太郎は鳥を真似て、近くに潜んでいる配下の者に合図した。
 女の後ろを、配下が押さえた。小太郎が女の前に出る。
「おやぁ」
 思わず素っ頓狂な声をあげてしまった。女の顔には、見覚えがある。
「‥‥ふくろう‥‥」
 女が小太郎の別名を呼んだ。
「けけけっ、咲じゃねぇか、ひっさしぶりだなぁ」
 十数年ぶりか、二度と会うことはないと思っていた。
「あんた、生きてたの」
 それは、咲も同じらしい。
「ごあいさつだな。てめぇに言われたかぁねぇぜ」
 丸い目をさらに見開き、軽く殺気を込めてみる。
 咲は言葉に詰まった。怯えてはおるまいが、さすがに後ろめたいのか。
「‥‥梟、あたしは‥‥」
「おう、小太郎って呼べよ」
「‥‥小太郎‥‥あんたが‥‥」
 小太郎、それは風魔の頭領の名だ。
 相州乱波・風魔党。かつては、この箱根山中を根城とし、北条家の関東制覇を影で支える、忍者の一大勢力だった。しかし、十三年前の小田原合戦で北条氏は滅亡し、風魔も徹底的に掃討された。当時の頭領・小太郎も、闇に葬られた。
 梟は、何人かの生き残りのまとめ役に過ぎない。残党は他にもいくつかあり、そこにも、小太郎を名乗る者がいる。
「で、おめぇは今更、こんなところでなにやってんだ。まだ、忍び働きをやってるのかい」
 小太郎は、かつての同族に問い質した。
「もうこの歳よ。足を洗ったわよ。江戸で‥‥亭主と暮らすことになったの。ねぇ、ふ‥‥小太郎、昔のことは悪いと思ってる。お願いだから、もう許して」
 咲は、申し訳なさそうな顔で答える。だが、この女の表情を、真に受けてはいけない。
「勝手なこと抜かすな。風魔を滅ぼした野郎の女に収まって、のうのうと暮らしやがって」
「‥‥‥」
 咲は唇をふるわせながら、潤んだ瞳で小太郎を見つめている。
 しかし、この顔はこの女の武器なのだ。
「けっ」
 三白眼で見下ろすと、咲の顔は一瞬にして、能面のような無表情に戻る。通じないと判ったらしい。
「‥‥‥」
「‥‥‥」
 そのまま睨み合いが続く。
 その時、小太郎の配下の一人が近寄り、耳骨のない耳に囁きかけて来た。
 待っていた客が来たらしい。
 しょうがない。裏切り者を見逃すのは腹立たしいが、闘えばこちらも、ただでは済まない。大仕事を前にして、怪我はしたくない。
「まぁ、いいか。見逃してやるぜ」
 咲は本当にうれしそうな顔をした。
「‥‥またな」
 小太郎は、咲を見送った。

   八

 箱根山中、小太郎たちが根城にしている小屋に、客人は案内されていた。
 山伏のような公家のような、奇妙な格好をした男だ。どうやら、神官の旅装束であるらしい。腰に朱の袋に納めた飾り刀を差している。
「土御門影久と申す。よろしく頼む」
 貧乏公家にしては、いい面構えをしている。体格も良い。
「風魔小太郎」
 小太郎は影久の江戸潜入と、以後の活動に手を貸すことになっていた。豊臣方のある小大名の斡旋によるものだ。
 潜入方法や潜伏先について、手短に説明する。ここから先、知己も土地勘もない影久は、まさに客に過ぎなかった。
「‥‥つかぬことを訊くが‥‥」
 仕事の話に一段落がついたとき、ふいに影久が尋ねた。
「街道で、武家の妻女風の女を見かけなかったか」
 武家の女に心当たりはない。小太郎は首を振った。
「おそらく一人歩きだと思うが‥‥」
「おいおい。箱根の山道を、そんなのが一人歩きして無事に済むわけがないだろう。いたら、とっくにこいつらがさらって身ぐるみ剥がし‥‥」
 心当たりが、あった。女の一人歩き。
 小太郎の思考の糸は、その女の正体と目的まで、一気に繋がった。
「‥‥しゃべったのか、あんた」
「なっ、なにが‥‥」
 影久は動揺している。薄々は感づいていたのだろう。
「‥‥くくっ、ははははっ、はぁっはっはっ‥‥」
 小太郎は大笑した。
 あの女狐め、何が足を洗っただ。やっぱり徳川のくノ一じゃねぇか。
「あんた、豊臣方と接触したときから、目ぇつけられてたんだよ。あの女は、あんたの目的を探るために近付いたんだ。今頃は、この先の関所にご注進に及んでるぜ。まぁしょうがねぇか、あの女の色仕掛けは強烈だかんなぁ」
 真っ赤になって歯軋りしながら、影久は物問いたげな眼で小太郎を見た。
「あぁ、知ってるぜぇ。あいつは元風魔なんだよ。『土蜘蛛の咲』っていってな。女ながら、風魔三十六人衆に名を連ねた強者だ。色仕掛けも、くないの腕も風魔一だったぜ。十三年前、風魔が徳川に滅ぼされたとき、あいつは敵の伊賀者に拾われて、女房に収まりやがった。以来、徳川の手先さ」
「おのれ、あの女‥‥呪い殺してくれる‥‥」
「俺は昔、閨房術の稽古の相手をさせられたこともあるんだぜぇ。げっへっへ、どうだった、あの女の具合は」
「貴様も愚弄するかっ」
 影久は血走った眼で、小太郎を睨み付けた。怒り心頭に達した様子だ。
「まぁ、かっかすんなって。寝首掻かれなかっただけ有り難いと思いな」
 言いながら、小太郎は影久の首のうしろを、手刀でとんとんと小突いた。
 その機会は、いくらでもあったはずだ。
 影久にも、それは解ったようだ。顔の赤みが、一気に引く。
「心配すんな。ちぃっと遠回りになるが、俺たちがいれば、関所なんてなんでもねぇ。‥‥さぁ、行こうぜ、江戸へ」
 江戸へ。
 土御門影久と風魔の一党は、江戸へ向かった。

第二章  目次