日本書紀 卷十八 安閑紀/宣化紀

【安閑天皇】 【宣化天皇】


廣國押武金日天皇(ひろくにおしたけかなひのすめらみこと) 安閑天皇(あんかんてんわう)

一、安閑帝即位立后

 勾大兄廣國押武金日天皇(まがりのおほえのひろくにおしたけかなひのすめらみこと)男大迹(をほど)天皇長子(えみこ)也。母曰目子媛(めのこひめ)
 是天皇為人(ひととなり)墻宇(うつは)凝峻,不可得窺。桓桓寬大(たけくゆたかにおほき),有人君(すめらみこと)(はかりこと)
 廿五年,春二月辛丑朔丁未()男大迹(繼體)天皇立大兄為天皇。
 即日男大迹(繼體)天皇崩。
 是月,以大伴(おほとも)大連、物部麤鹿火(もののべのあらかひ)大連為大連(おほむらじ),並如(もと)
 元年,春正月,遷都于大倭國勾金橋(やまとのくにまがりのかなはし),因為宮號(みやのな)
 三月癸未朔戊子()有司(つかさ)為天皇納采億計(おけ)天皇女春日山田皇女(かすがのやまだのひめみこ)皇后(きさき)【更名,山田赤見皇女(やまだのあかみのひめみこ)。】
 別立三妃。立許勢男人大臣(こせのをひとのおほきみ)紗手媛(さてひめ)、紗手媛弟香香有媛(かかりひめ)物部木蓮子(もののべいたび)大連女宅媛(やかひめ)【木蓮子,此云いたび(伊施寐)。】


安閑天皇勾金橋宮址 金橋神社


春日山田皇后 古市高屋陵


各后妃及所賜屯倉
二、奉為后妃,設置屯倉

 夏四月癸丑朔()內膳卿膳臣大麻呂(かしはでのつかさのきみかしはでのおみおほまろ)奉敕,遣使求珠伊甚(いじみ)
 伊甚國造(いじみのくにのみやつこ)等,詣京遲晚(おそく),踰時不進。膳巨大麻呂大怒,收縛(とりしばり)國造等,推問所由(ことのよし)。國造稚子直(わくごのあたひ)恐懼(かしこまり),逃匿後宮內寢(きさきのみやのおほとの)春日皇后(かずがのきさき)不知直入,驚駭(おどろき)(たふれる),慚愧無已。稚子直等兼坐闌入罪(みだれがはしくまゐれるつみ),當科重。謹專為皇后,獻伊甚屯倉(いじみのみやけ),請(あかはむ)闌入之罪。因定伊甚屯倉。今分為(こほり),屬上總國(かみつふさのくに)
 五月百濟(くだら)下部脩德嫡德孫(かほうしうとくちゃくとくそん)上部都德己州己婁(しやうほうととくこつこる)等,來貢常調(みつき),別上(ふみ)
 秋七月辛巳朔(),詔曰:「皇后雖體同天子(みかど),而內外(うちと)之名殊隔(ことにへなれり)。亦可以充屯倉之地,式樹椒庭(うちつみや)後代(のちのよ)遺迹。」迺差敕使(みかどのつかひ)簡擇(えらぶ)良田。敕使奉敕,宣於大河內直味張(おほしかふちのあたひあぢはり)【更名黑梭(くろひ)。】曰:「今汝宜奉進膏腴(こえたる)雌雉田(きぎした)。」味張忽然恡惜(をしみ)欺誑(あざむき)敕使曰:「此田者,天旱(ひでり)(みづまかせ)水潦(いさらみづす)(こみ)。費(いたはり)極多,收穫(とりうる)甚少。」敕使依言服命(かへりことまをす),無隱。
 冬十月庚戌朔甲子(十五),天皇敕大伴大連金村(おほとものおほむらじかなむら)日:「朕(めしいれ)四妻,至今無(みつぎ)萬歲(よろづとせ)之後,朕名絕矣。大伴伯父(をぢ),今作何計?每念於茲,憂慮(うれへおもひはかる)何已。」大伴大連金村奏曰:「亦臣所憂也。夫我國家(みかど)之王天下(あめのした)者,不論有嗣無嗣,要須(かならず)因物為名。請為皇后、次妃,建立屯倉之地,使留後代,令顯前迹(さきのあと)。」詔曰:「可矣。宜早安置(おく)。」
 大伴大連金村奏稱:「宜以小墾田屯倉(をはりだのみやけ)與每國田部(たべ)給貺(たまひ)紗手媛。以櫻井屯倉(さくらゐのみやけ)與每國田部,【一本云,加貺茅渟山屯倉(ちぬやまのみやけ)也。】給賜香香有媛。以難波屯倉(なにはのみやけ)與每郡钁丁(くはよほろ),給貺宅媛。以示於後,(もち)觀乎昔。」詔曰:「依奏施行(ほどこしおこなへ)。」

三、大河內味張贖罪

 閏十二月己卯朔壬午()行幸(いでます)三嶋(みしま)。大伴大連金村從焉。天皇使大伴大連,問良田(よきた)縣主飯粒(あがたぬしいひぼ)。縣主飯粒,慶悅無限。謹敬盡誠,仍奉獻上御野(かみのみの)下御野(しものみの)上桑原(かみのくははら)下桑原(しものくははら),并竹村(たかふ)之地,凡合肆拾町。
 大伴大連,奉敕宣曰:「率土之下(あめのした),莫匪王封(きみのところ)普天之上(くにのうち),莫匪王域。故先天皇(さきのすめらみこと),建顯號(いちしろきみな),垂鴻名(ひろきみな)廣大(ひろくおほきなること)配乎乾坤(あめつち)光華(ひかりうるはしきこと)象乎日月(ひつき)。長(ゆく)遠撫,橫逸(こえいでる)乎都外,瑩鏡(みがきてらす)區域,充塞乎無垠(かぎりなき)。上冠九垓(ここのつのみち),旁濟八表(やも)。制(のり)以告成功,作(うたまひ)以彰治定(まつりごとのさだめる)。福應(まこと)致,祥慶(よきよろこび)符合於往歲(むかしのとし)矣。今汝味張,率土幽微百姓(くにのうちのかすかないやしなるおほみたから)忽爾(たちまち)奉惜王地(きみのところ),輕背使乎宣旨。味張,自今以後(のち),勿預郡司(こほりのつかさ)。」於是,縣主飯粒,喜懼交懷(こころにみてり)。迺以其子鳥樹(とりき)獻大連,為僮豎(しとびわらは)焉。
 於是,大河內直味張,恐畏求悔,伏地汗流(あつかふ)。啟大連曰:「愚蒙(おろかにくらき)百姓,罪當萬死。伏願,每郡以钁丁,春時(はる)五百丁,秋時(あき)五百丁,奉獻天皇,子孫(いやつづき)不絕。籍此祈生,永為鑑戒(いましめ)。」別以狹井田(さゐのた)六町,(まひなふ)大伴大連。蓋三嶋竹村屯倉(みしまのたかふのみやけ)者,以河內縣部曲(かふちのあがたのかきべ)田部(たべ)之元,於是乎起。
 是月廬城部連枳莒喻(いほきべのむらじきこゆ)幡媛(はたひめ)偷取(ぬすみとり)物部大連尾輿瓔珞(くびたま),獻春日皇后。事至發覺,枳莒喻以女幡媛獻采女丁(うねめのよほろ)【是春日部采女(かすがべのうねめ)也。】并獻安藝國過戶廬城部屯倉(あぎのくにのあまるべのいほきべのみやけ),以贖女罪。物部大連尾輿(もののべのおほむらじをこし),恐事由己,不得自安。乃獻十市部(とをちべ)伊勢國(いせのくに)來狹狹、登伊贄土師部(にへのはじべ)來狹狹(くささ)登伊(とい),二(さと)名也。】筑紫國膽狹山部(つくしのくにのいさやまべ)也。


前賢故實 大伴金村


石見國一宮 物部神社


武藏國郡部圖
笠原使主、小杵,相爭武藏國造


安閑天皇 舊市高屋丘陵
四、武藏國造紛爭,天皇崩御

 武藏國造笠原直使主(むざしのくにのみやつこかさはらのあたひおみ)同族(おなじうがら)小杵,相爭國造,【使主、小杵(をき),皆名也。】經年難決也。
 小杵(ひととなり)阻有逆,心高無順。密就求援於上毛野君小熊(かみつけののきみをくま),而謀殺使主。使主(さとり)走出(にげいで),詣京言(あるかたち)朝廷(みかど)臨斷,以使主為國造,而誅小杵。國造使主,悚憙(かしこまりよろこび)交懷,不能默已。謹為國家,奉置橫渟(よこぬ)橘花(たちばな)多冰(おほひ)倉樔(くらす),四處屯倉。是年也,太歲甲寅
 二年,春正月戊申朔壬子(),詔曰:「間者(このころ)連年登穀(たなつものとしえる),接境無虞。元元蒼生(おほみたから),樂於稼穡(なりはひ)。業業黔首(おほみたから),免於飢謹。仁風(めぐみののり)鬯乎宇宙(くにのうち)美聲(よきな)塞乎乾巛(あめつち)。內外清通,國家殷富(ひぎはひとむ)。朕甚欣焉。可大酺(さけのみす)五日,為天下之(よろこび)。」
 夏四月丁丑朔(),置勾舍人部(まがりのとねりべ)勾靫部(まがりのゆきべ)
 五月丙午朔甲寅(),置筑紫穗波(ほなみ)屯倉、(かま)屯倉,豐國腠碕屯倉(とよのくにのみさきのみやけ)桑原(くははら)屯倉、肝等屯倉(かとのみやけ)【取音讀。】大拔(おほぬく)屯倉、我鹿(あか)屯倉,【我鹿,此云あか(阿柯)。】火國春日部屯倉(ひのくにのかすがべのみやけ)播磨國越部屯倉(はりまのくにのこしべのみやけ)牛鹿(うしか)屯倉,備後國後城屯倉(きびのみちのしりのくにのしつきのみやけ)多禰(たね)屯倉、來履(くくつ)屯倉、葉稚(はわか)屯倉、河音(かはと)屯倉,婀娜國膽殖屯倉(あなのくにのいにゑのみやけ)膽年部(いとしべ)屯倉,阿波國(あはのくに)春日部屯倉,紀國(きのくに)經湍屯倉(ふせのみやけ)【經湍,此云ふせ(俯世)。】河邊(かはへ)屯倉,丹波國蘇斯岐屯倉(たにはのくにのそしきのみやけ)【皆取音。】近江國葦浦屯倉(あふみのくにのあしうらのみやけ)尾張國間敷屯倉(をはりのくにのましきのみやけ)入鹿(いるか)屯倉,上毛野國綠野屯倉(かみつけのくにのみどののみやけ)駿河國稚贄屯倉(するがのくにのわかにへのみやけ)
 秋八月乙亥朔(),詔置國國犬養部(いぬかひべ)
 九月甲辰朔丙午(),詔櫻井田部連(さくらゐのたべのむらじ)縣犬養連(あがたのいぬかひのむらじ)難波吉士(なにはのきし)等,主掌屯倉之(たちから)
 丙辰(十三),別敕大連云:「宜放牛於難波大隅嶋(おほすみのしま)媛嶋松原(ひめしまのまつばら)。冀垂名於後。」
 冬十二月癸酉朔己丑(十七),天皇崩于勾金橋宮(まがりのかなはしのみや),時年七十。
 是月,葬天皇于河內舊市高屋丘陵(ふるいちのたかやのをかのみさざき)。以皇后春日山田皇女及天皇妹神前皇女(かむさきのひめみこ),合葬于是陵。


武小廣國押盾天皇(たけをひろくにおしたてのすめらみこと) 宣化天皇(せんくわてんわう)

一、宣化帝即位立后

 武小廣國押盾天皇(たけをひろくにおしたてのすめらみこと)男大迹(繼體)天皇第二子也。勾大兄廣國押武金日(安閑)天皇之同母弟(いろど)也。
 二年,十二月勾大兄廣國押武金日(安閑)天皇崩,無嗣。
 群臣(まへつきみたち)奏上(みはかし)(みかがみ)武小廣國押盾尊(宣化),使即天皇之位焉。
 是天皇為人,器宇清通(うつはものきよくとほり)神襟朗邁(みこころあきらかにすぎたまへり)。不以才地(みつとかど)(ほこり)為王(おほきみおもへりす)君子(うまひとのこ)所服。
 元年,春正月,遷都于檜隈廬入野(ひのくまのいほりの),因為宮號也。
 二月壬申朔(),以大伴金村大連為大連,物部麤鹿火大連為大連,並如故(もとのごとし)。又以蘇我稻目宿禰(そがのいなめのすくね)為大臣。阿倍大麻呂臣(あへのおほまろのおみ)大夫(まへつきみ)
 三月壬寅朔(),有司請立皇后。
 己酉(),詔曰:「立前正妃(さきのむかひめ)億計(仁賢)天皇女橘仲皇女(たちばなのなかつひめみこ)為皇后。」是生一男三女。
  長曰,石姬皇女(いしひめのひめみこ)
  次曰,小石姬皇女(をいしひめのひめみこ)
  次曰,倉稚綾姬皇女(くらのわかやひめのひめみこ)
  次曰,上殖葉皇子(かみゑはのみこ)。亦名椀子(まろこ)。是丹比公(たぢひのきみ)偉那公(ゐなのきみ),凡二姓之先也。
 前庶妃大河內稚子媛(おほしかふちのわくごひめ),生一男。
  是曰,火焰皇子(ほのほのみこ)。是椎田君(しひたのきみ)(おや)也。


岡太神社 奧院
傳安閑、宣化二帝降誕之地。


宣化天皇檜隈廬入野宮跡


濱玉町 鏡山
傳狹手彥往鎮任那之途,曾滯松浦里,與佐用姬相戀。佐用姬偲夫,躬登鏡山,恒望船影,終化為石。肥前風土記逸文:「昔宣化天皇世,遣大伴狹手彥鎮任那、救百濟。過此村,娉篠原邑第四姬乙等比賣,有國色。臨別與鏡,婦哀別,渡栗川,遂云鏡渡。狹手彥船出之際,登此峰而望,舉褶帔招之,故名袖振峰云云。」


宣化天皇 身狹桃花鳥坂上陵
二、於筑紫那津整飭官家

 夏五月辛丑朔(),詔曰:「(くひもの)者,天下之本也。黃金萬貫(こがねよろづはかり),不可療(いひうゑ)白玉千箱(しらたまちはこ),何能救(こい)。夫筑紫國者,遐邇(とほくちかく)之所朝屆(まゐでいたる)去來(ゆきき)之所關門(せきと)。是以海表(わたのほか)之國,侯海水(しほ)以來賓,望天雲(あまくも)而奉貢。自胎中之帝(應神)(いたる)于朕身,收藏穀稼(もみいね),蓄積儲糧(まいけのかて)。遙設凶年(いひうゑのとし),厚饗良客(たかきまらうと)。安國之方,更無過此。故朕遺阿蘇仍君(あそのきみ)【未詳也。】加運河內國茨田郡(かふちのくにのまむたのこほり)屯倉之穀。蘇我大臣稻目宿禰,宜遣尾張連(をほりもむらじ),運尾張國屯倉之穀。物部大連麤鹿火,宜遣新家連(にひのみのむらじ),運新家屯倉(にひのみのみやけ)之穀。阿倍臣(あへのおみ),宜遣伊賀臣(いがのおみ),運伊賀國屯倉(いがのくにのみやけ)之穀。修造官家(みやけ)那津之口。又其筑紫、()、豐,三國屯倉,散在懸隔(とほきところ)運輸遙阻(はこびいたさむことはるかにへだたれり)儻如(もし)須要,難以備(にはかに)。亦宜課諸郡分移,聚建那津之口(なのつのほとり),以備非常(おもひのほか),永為民命(たみのいのち)。早下郡縣(こほりあがた),令知朕心。」
 秋七月,物部麤鹿火大連,(みうせぬ)是年也,太歲丙辰
 二年,冬十月壬辰朔(),天皇以新羅(しらき)寇於任那(みまな),詔大伴金村大連,遣其子(いは)狹手彥(さでひこ),以助任那。是時,磐留筑紫,執其國政(くにのまつりごと),以備三韓(みつのからくに)。狹手彥往鎮任那,加救百濟。
 四年,春二月乙酉朔甲午(),天皇崩于檜隈廬入野宮(ひのくまのいほりののみや)。時年七十三。
 冬十一月庚戌朔丙寅(十七),葬天皇于大倭國身狹桃花鳥坂上陵(むさのつきさかのへのみさざき)。以皇后橘皇女(たちばなのひめみこ)及其孺子(わくご)合葬(あはせはぶり)于是陵。【皇后(かむあがり)年,傳記(つたへふみ)無載。孺子者,蓋未成人(ひととならず)而薨歟。】

日本書紀卷十八 終

【久遠の絆】【卷十七】【卷十九】【再臨詔】