例言
- 一、茲に皇紀二千六百年を迎へて、神武天皇の聖德を紀念し奉り、その御精神を奉戴して國民精神の作興に資する事は、今日の時局下に於いて特に意義の有る事と信ずる。依つて神武天皇詔敕謹解を刊行して諸賢の必讀を願ふのである。
我國於茲,奉迎皇紀二千六百年,謹紀念神武天皇聖德,奉戴其精神,以資國民精神之作興者,顧於今日時局,信其意義殊具矣。依之,刊行神武天皇詔敕謹解,伏願諸賢必讀。
- 一、本書は國學院大學教授文學博士武田祐吉氏に執筆を委囑した。
本書者,委囑國學院大學教授文學博士武田祐吉氏執筆。
神武天皇詔敕謹解
一、神武天皇の聖業
日本帝國がその國運を賭けて居る聖戰、此處に第三の春を迎へて、東亞の新秩序の建設は、確實にその步みを進めて居る。しかしながら過ぎて來て跡を顧見ると、非常に大きな困難にうち勝つて茲に至つたのであり、同時にこれから先の道も決して容易な物ではないと思はれる。唯天皇陛下の御稜威を仰ぎ、神神の御惠を戴き、國民總て力を協せ心を一にして、初めてこの大業を成し遂げる事が出來るであらう。この際に當つて丁度皇紀二千六百年を迎へたのは、大に意味の有る事である。申すまでもなく、我が國の紀元は、神武天皇が大和の國の畝傍の橿原の宮に御即位の大典を舉げさせられた年を以つて元年とするのである。それから二千六百年を經過して居る今日は、正しく神武天皇の偉大なる御事蹟を紀念し、追憶し奉るべき絕好の機會であると言はなければならない。さうして神武天皇の御精神を奉戴して、以つて今日の國民の進むべき道を定むべきである。
遠く神代に遡つて考ふるに、天照大神、三種の神器を天孫瓊瓊杵尊にお授けになり、豐葦原瑞穗國、即、大日本帝國の君として高千穗の峯にお降しになつてから、永久に光輝のる我が國の歷史は始つて居る。その間、次第次第に國の威力は強大になつて今日に至つたのであるが、特に大きな國威發揚の場合には、やはりそれぞれに大きな困難にうち勝つて居る。古代に在つては、神武天皇の御事蹟の如きも、最光輝あるものとして仰がれる。瓊瓊杵尊が、高千穗峯にお降りになつてから、續いて彥火火出見尊、鸕鶿草葺不合尊の御代までは、日向國に都せられたのであつたが、神武天皇は鸕鶿草葺不合尊の第四皇子として御降誕になり、御歲四十五に及んて、「その地が我が國の西に偏して居つて、國家統治の大業をなされるのに不便である。」と思召されて、東の方大和の國にお移りになり、各地に於ける凶徒を御討伐になつて、遂に御即位の式を舉げさせれられたのである。この神武天皇の御精神を拜すべき資料としては、我が國の最古の歷史書の一なる『日本書紀』に、天皇の詔敕を載せて居るのである。これらは何れも貴いものであるが、そのうち特に今日の時勢に於いて重大なる意義を有する詔敕が三篇あつて、今これを假に御下しになつた年代に依つて、紀元前七年の詔敕、紀元前二年の詔敕、紀元四年の詔敕と申し上げる事とする。次にこれらの詔敕を揭げ奉つて、謹んでその意義を說明しようと思ふ。
日本帝國,賭其國運之聖戰,於茲已迎三載。東亞新秩序之建設,確已入其軌道。然顧過往足跡,實經非常之困難,勝臻於此。同時,思之往後之道,亦決非容易之事。蓋唯仰天皇陛下之稜威,戴眾神之恩惠,國民同心協力,始可成此經綸大業歟。此際,適迎皇紀二千六百年,其意義非凡,想當然爾。無須贅言,我國紀元者,藉神武天皇即位大和畝傍橿原宮舉式之年,以為元年。神武即位至今,凡二千六百年,實應紀念神武天皇偉業,追奉其聖蹟之佳績矣。如斯奉戴神武聖帝之精神,以定今日國民所進之道。
遠考神代,天照大神以三種神器,授天孫瓊瓊杵尊,以為豐葦原瑞穗國,即大日本帝國之君。其降高千穗峰以來,我國永久光輝之史,始肇於此也。其間,國力漸壯,以至今日。特於發揚偉大國威之際,仍須經越種種險阻,勝戰於茲。在於古代,如神武天皇之事蹟,實最光輝矣。瓊瓊杵尊天降高千穗峰以來,經彥火火出見尊,迄鸕鶿草葺不合尊御代,皆都于日向。神武天皇,以不合尊之第四皇子之尊,而遂降誕也。年及卌五,詔曰「顧我國土,此地西偏,若欲恢弘大業、光宅天下,實屬不便。」故移東方大和之國,討伐凶徒於各地,遂舉即位之式矣。當拜此神武天皇之精神,舉我國最古史書之一『日本書紀』所載天皇詔敕,以為圭臬。此等咸貴,其中特鑑今日時勢,舉意義重大之詔敕三篇,今假依所詔年代、便宜申上,作皇紀前七年詔、皇紀前二年詔、皇紀四年詔也。次奉揭彼詔敕,謹欲說明其意義。
二、紀元前七年の詔敕
この詔敕は、天皇御歲四十五歲にましまし、日向の國で皇兄及び皇子達に對して仰せられた物である。此時の御事情は、前にも記したやうに、天孫瓊瓊杵尊が高千穗の峯にお降りになつてから、久しく九州南方の地に宮居せされ、その間隼人族の如き附近の豪族を征服せられた如き事はあり、皇威漸く振つたけれども、地の理を言へば猶西に偏して居つて、大八洲全體を統治せられ、更に威を海外に振はせられるには御不便であつたので、東の方、海を航して、本州の地にお移りにならうようとする御趣旨を述べさせられたものである。次にその詔敕の本文を揭げ奉る。但し原文は漢文であつて、その讀み方にも諸說があるが、今これを比較的平易な讀み方に從つて書き下し文とする。以下の詔敕も同樣である。
此詔,天皇歲值卌五,于日向國,詔于皇兄、皇子等之者也。此時情狀,誠猶前述,天孫瓊瓊杵尊天降高千穗峰,久居九州南方之地,以為宮室。其間,征服附近豪族諸如隼人族等之事有之。此雖得以漸振皇威,仍礙地處西偏,欲治大八洲,抑令稜威遠振海外,則嫌不便。故述欲航海東方,移本州之地之趣旨。其次,奉揭詔敕本文。然以原詔既為漢文,其訓讀又有諸說,故今取其平易之訓,為書下之文。以降詔敕傚此。
昔我が天神、高皇產靈尊、大日孁尊、此豐葦原瑞穗國を舉げて、我が天祖、彥火瓊瓊杵尊に授け給ひき。ここに彥火瓊瓊杵尊、天の關を闢き、雲路を披きて仙蹕を駈せて戾りましき。是時に、運は鴻荒に屬ひ、時は草昧に鍾れりき。故、蒙くして正しきを養ひ、此の西偏を治らしめしき。皇祖皇考、神にしてまた聖にましまし、慶を積み、暉を重ね、多に年序を歷たり。而はあれど、遼邈なる地、猶いまだ玉澤に霑はず、遂に邑に君あり村に長あり、各自疆をわかち、用ちて相凌き礫らしむ。抑又、鹽土の老翁に聞けるに、東に美き地あり、青き山四に周れり。其の中に亦、天の磐船に乘りて飛び降る者ありとまをしき。余謂ふに、彼の地は必天業を恢弘くし、天の下に光宅なるに足りぬべし。蓋し六合の中心か。厥の飛び降りし者は、謂ふに饒速日か。何ぞ就きて都せざらめや。
昔我天神,高皇產靈尊、大日霎尊,舉此豐葦原瑞穗國而授我祖彥火瓊瓊杵尊。於是火瓊瓊杵尊,闢天關,披雲路,驅仙蹕,以戾止。是時運屬鴻荒,時鍾草昧。故,蒙以養正,治此西偏。皇祖皇考,乃神乃聖,積慶重暉,多歷年所。自天祖降跡以逮,于今一百七十九萬二千四百七十餘歲。而遼遙之地,猶未霑於王澤。遂使邑有君,村有長,各自分疆,用相凌躒。抑又,聞於鹽土老翁曰:「東有美地。青山四周,其中亦有乘天磐船而飛降者。」余謂,彼地必當足以恢弘大業,光宅天下,蓋六合之中心乎。厥飛降者,謂是饒速日歟。何不就而都之乎?
この詔敕は、始めに天孫降臨の御事蹟に就いて仰せられて居る。「昔我が天つ神」から「此の西の偏を治らしめしき」までがそれで、今假に第一節とする。次に天孫降臨以後の御事蹟、及び當時の實情に及ばれて居る。「皇祖皇考」より「用ちて相凌ぎ礫らしむ」までがそれで、今これを第二節とする。次に鹽土の老翁の言を舉げさせられ、東方に善き國の有る事を仰せられて、その地に都すべき事に及ばれて居る。「抑又」から「何ぞ就きて都せざらめや」までがそれで、今これを第三節とする。斯くの如く便宜三節に分つてその御旨趣を謹解しょうと思ふ。
第一節、大意、昔我が天つ神にまします高皇產靈尊と大日孁尊(天照大神の御事。)とが、この豐葦原の瑞穗の國を舉げて、我が祖先にまします彥火瓊瓊杵尊にお授けになつた。そこで彥火瓊瓊杵尊が天の戶をお開きになり、雲の八重立つ道を押し分けて、先驅の者を先立ててお降りになつた。この時に、世は未開化の狀態であつたので、これに應じて正しい道を養ひ給ひ、この西の方面を御統治に相成つた。
高皇產靈尊は、天地の初に御出現になつた御方で、萬物の出現を司る尊き神である。天照大神の御子なる天忍穗耳尊が、この高皇產靈尊の御女栲幡千千姬尊をお妃として、御子瓊瓊杵尊を產まれたのである。この御緣故で、この神は天孫を非常に御寵愛あらせられて居る。それでこの敕語の中にもこの御方の名が舉がられて居るのである。又萬物を產み出すこの神の御德は、天照大神の御德の一面を現したものとも考へられるのであつて、瓊瓊杵尊が高千穗の峰に御降臨になつた事は、即、この國に御出現になつた事になるから、この神の御威德の現れたものであるとも見られるのである。大日孁尊は天照大神の御事である。天の關を闢きとは、高天原からの御通路に當る門戶をお開きになる事である。雲路を披きてとは、高千穗の峯に御降臨になるのに、すべて天からお降りになるといふ形で神話が說かれて居るので、雲の道を押し分けてといふ意味に仰せられて居る。仙蹕を駈せて戾りますとは、仙蹕とは、御行列の前を聲を掛けて拂ふ事で、先驅の者を差し立ててお降りになつたといふ事である。運は鴻荒に屬ひ時は草昧に鍾るといふのは、對句で現されて居るが、古代の時未だ文化に浴せず、萬事草創の際で、何事もまだ發達するに至らなかつた狀態を言ふ。蒙くして正しきを養ふとは、支那の易經にある句であるが、蒙は次に出る紀元二年の詔敕にある屯蒙と同じで、未開の時代である事を云ひ、その時に當つてその正しい道を御養成になる事を言ふ。意は聖賢の道をお立てになつたといふ事である。
第二節、大意、彥火火出見尊並びに鸕鶿草葺不合尊の二代は、續いて猶日向にましまし、甚も尊き君でおいでになり、慶福を積み、光輝を重ねて多くの年代を經た。しかしながらその地より猶遠方の土地は、未だ皇室の御恩惠に浴せず、遂に地方地方にこれを領する者が出來で、それぞれ境界を分ち、互に爭鬥するに至つた。
皇祖皇考は、神武天皇の御祖父の君なる彥火火出見尊と、御父君にまします鸕鶿草葺不合尊とを指し奉る。この二代は、日向にましまして、將來發展の準備をなされた時代であつた。神にしてまた聖にましますとは、至つて御賢明であつて仰ぎ貴むべき御方であつた事を言ふ。慶を積み暉を重ねは、君としての御德をお積み遊ばされ、自然に慶賀すべき事の多かつた事を言ふ。遼邈なる地は、九州南方より指して申されるので、主としてそれより東北方に當る本州及びその他の諸國をいふ。邑に君あり村に長あり云云は、王化の未だ十分に至らざるに乘じて、小勢力が各地方を占據して居た實狀をお述べになつて居る。當時九州南方は、彥火火出見尊の御征討の御事蹟に依り、全く王化に服したのであつたが、自然遠方の地にまでは及ばなかつたのである。この一節は、やがて次の更に東方本州の地にお移りにならうとする御趣旨の據りどころとなつて居る。
第三節、大意、斯くの如くにして今鹽土老翁に聞いた事である。これより東方に善き國があつて、青青とした山が四方に周つて居る。その中に天の磐船に乘つて飛び降りた神があると言つて居つた。そこで思召されるには、その國は必天皇統治の大業を廣大にし、天下に威風を示すに足りるであらう。思ふにそれは國土の中心であらうか。その飛び降りた神は饒速日命であらう。その地に赴いてこれを帝都と為すべきである。
鹽土老翁とは、鹽は海水、土は尊稱で、いかづち、かぐつちと同じである。海水を尊稱して言ふ。海水は全世界到る處の海濱にうち寄せる物であつて、自然世界の事情、殊にその地理的知識に通達して居る者として、これを人格化して言ふのである。曾つて彥火火出見尊が海濱に徘徊せられた時にも、この神が海神の宮へと御案內申したと傳へて居る。この老翁の言に聞くにと仰せられてゐるのは、天皇が、例へば漁夫の者などから御知識を得させられて居るのを、有識者といふ意味に代表的な者の名を舉げさせられたのである。東に美しき地ありといふのは、本州の事であるが、主としてその中の大和の國をお指しになつて居る。天磐船に乘つて飛び降る者があるとは、後の文に「謂ふに饒速日か。」とあるやうに、饒速日命の事である。この神は、系譜は未詳であるが、忍穗耳尊の御子とも傳へてゐる。天磐船は堅固な船の意味で、古代の船は多く楠材等で造るから、磐楠船などとも言ふ。船に乘り海を航して到り著いたのを、神話の形で、天から飛び降りたといふ現し方をなされてゐる。饒速日命は、河內國の河上の哮峰にお降りになり、大和國の鳥見の白庭山に移り、長髓彥の妹を娶つて、その主君として仰がれたが、後に長髓彥の皇軍に敵對するのを憎まれ、これを誅して歸順せられた。その子孫は物部氏である。元來この方が、大和國に降られたのは、神武天皇の御出現をお慕ひ申し上げて、先づその國に降つたのだと傳へられて居る。天業を恢弘するとは、天業は天神のお授けになつた大業の意で、天下御統治の聖業をいふ。恢弘は何れも廣くする意味の語で、天皇としての聖業は雄大に擴張せられる義である。天下に光宅するとは、光は大、宅は居で、堂堂としてまします義である。六合は、天地及び東西南北の四方で、六合の中心とは、天下の中心といふが如き意である。以上は大和國は天下の中心であり、且美しき國土であることを述べさせられ、そこにお移になつて、天下統治の大業を完成させられようとする御趣旨をお示しになつたものである。
この詔敕は、將に日向を發して御東征の途にお上りにならうとして發せられた所であつて、天つ神が天孫にこの國を授けになつた事より說き起され、その天孫降臨の御精神を實地に當つて行はうとする御趣旨に拜せられる。神武天皇御一代の大業は、全くこの詔敕の御趣旨を實行せられたものと拜察し奉るのである。『古事記』『日本書紀』の如き最古の歷史書に於いては、神武天皇の御事を「天つ神のみこ」と申し上げてゐる。その御方が此の國に御出現になり、天皇としての大業を行はせられるのは、高天原から天つ神の御命をお受けになつて御出現になつたものであり、或る意味に於いては、天孫降臨の御事蹟を再び此處に實現せられたものと申し奉る事が出來るのである。今、神武天皇御即位の年を記念し、その御事蹟を仰ぎ奉るに當つて、玆に先づその大方針とも申すべき詔敕を拜誦し奉るのは非常に大きな意味がある事である。
此詔敕者,先述天孫降臨之事蹟。自「昔我天神」迄「治此西偏」是也,權稱第一節。次天孫降臨以後之事,及當時實情。自「皇祖皇考」迄「用相凌躒」是也,權稱第二節。次舉鹽土老翁之言,詔述東有善國之事,及宜都其地之是。自「抑又」迄「何不就而都之乎」是也,權作第三節。如斯,姑分聖帝詔敕,作此三節,以謹解其旨。
第一節,大意如下。昔我天神高皇產靈尊、大日孁尊(天照大神。),舉此豐葦原瑞穗國,授我皇祖彥火瓊瓊杵尊。于茲,彥火瓊瓊杵尊開天關天戶,闢八重雲路,為先驅者,先立天降。此時世未開化,應蒙教化,令養正道,遂治西偏。
高皇產靈尊者,天地初判之際,所現神矣,司萬物出現之尊也。天照大神子天忍穗耳尊,以此高皇產靈尊女栲幡千千姬尊為妃,生瓊瓊杵尊。故高皇產靈尊,特鍾憐愛,以崇養焉。故此敕語,舉此尊神之名。又此神御德,在產出萬物,蓋天照大神御德之瞥見。瓊瓊杵尊降臨高千穗峰,是即現出此國之事,視諸此神威德體現而可矣。大日孁尊者,天照大神也。闢天關者,開高天原門戶,以步天降大道之意也。披雲路者,按神話之說,降高千穗峰者,閑由天降,故為闢雲路之意。驅仙蹕以戾止,仙蹕者,遣先驅之人于行列之前,發聲拂祓以為降臨之事也。運屬鴻荒,時鍾草昧者,係為對句。古代之時,未浴文化,萬事草創,莫有發達之謂也。蒙以養正者,震旦,『易經』之詞矣。蒙者,時代未開爾,意與皇紀二年詔之屯蒙同。所謂當在其時,養成正道矣。欲立聖賢之道之意也。
第二節,大意如下。彥火火出見尊並鸕鶿草葺不合尊二代,猶居日向,甚尊之君也。積慶福,重光輝,歷世久矣。然而遼遙之地,未浴皇澤,故邑有君、村有長,各自分疆,相互爭鬥。
皇祖皇考者,神武天皇祖父彥火火出見尊,及父君鸕鶿草葺不合尊也。此二代,御宇日向,待備發展之際矣た。乃神乃聖,賢明而貴者也。積慶重暉,積名君之德也,宜慶賀自然之事猶多之謂也。遼邈之地者,自九州南方為言,主陳東北本州併其他諸國矣。邑有君村有長云云者,述其土酋,乘王化未達,各據勢力,盤據地方之狀。當時九州南方,依彥火火出見尊征討,而全服王化。然遼遠之地,自然未及。此節,遂將更移東方,建都本州之根據也。
第三節,大意如下。如斯,今聞鹽土老翁述:「東有美地,青山四周。其中,亦有乘天磐船而飛降之神。」。詔曰,彼地必當足以恢弘大業,光宅天下而足矣。蓋國土之中心乎。厥飛降之神,當是饒速日命歟。盍不赴其地,以為帝都乎。
鹽土老翁者,鹽乃海水,「土」即「チ」,尊稱也。武甕槌雷神作「イカヅチ」,軻遇突智火神作「カグツチ」,與之同。尊稱海水之謂也。海水者,廣佈天下,盈溢世中海濱之物。故以為通達自然世界之事,殊諳地理知識者之人格化云爾。據傳,曩昔彥火火出見尊徘徊海濱之時,依此神嚮導,而入海神之宮。聞此老翁之言者,譬諸天皇聞訪漁夫,而得其知識,以有識者之代表,故舉此名。所謂東有美地者,本州之事也,其中更以大和國為主。有乘天磐船飛降者者,如後文「謂是饒速日歟」,饒速日命之事也。此神系譜未詳,傳為忍穗耳尊之子。天磐船者,堅固之船也。古多以楠材造船,故亦云磐楠船。乘船航海到著之事,轉以神話之形,示作自天飛降之表也。饒速日命降臨河內國河上哮峰,移大和國鳥見白庭山,娶長髓彥妹,為其主君。其後憎長髓彥逆皇軍,誅之歸順。其子孫者,物部氏也。據傳此神元降大和國者,乃其仰慕神武帝之出現,遂先降該國矣。天業恢弘者,天業即天神所授大業,統治天下之聖業也。恢弘者,廣大遼遠之意,述指擴展天皇聖業,佈德四方。光宅天下者,光即大,宅即居,堂堂之意也。六合者,天、地,並東、西、南北四方矣。六合之中心者,如天下中心之意也。以上,述大和國為天下之中心,且美哉國土,示欲移該地,完成統治天下之大業也。
此詔,將發日向,御赴東征之途時所發。說述天神授國天孫之事。明示今於實地,當行天孫降臨之精神。拜察,神武天皇御一代之大業者,皆此詔敕之實行也。參諸如『古事記』、『日本書紀』等古史,稱神武天皇,作「天神御子」。該尊現出此國,顯為天皇,行恢弘大業者,乃受高天原天神之命,而出現是也。就其意味,吾人可言,天孫降臨之事蹟,或可再度實現於此。今記念神武天皇即位之年,奉仰其事蹟。於玆,先申其樞要方針之詔敕,拜誦奉讀,乃意義非凡之事矣。
三、紀元前二年の詔敕
神武天皇が上揭し奉つた詔敕をお降しになつたのは、甲寅の年であつて、實に紀元前七年の事であつた。その年直に、諸皇子及び舟師を率ゐて御東征の途にお上りになつた。十月に御出船になり、速吹の門を經て筑紫の菟狹にお著きになつた。速吹の門は今日の豐後水道で、菟狹は大分縣宇佐である。十一月筑紫の崗の水門に到り、十二月には安藝國の埃宮においでになつた。翌年三月には吉備國に入り、高嶋宮にましました。これは今日岡山縣に屬して居る。そこで更に準備を整へられ、紀元前三年の二月に難波崎に到り、三月河內國の白肩津に御船が到著した。この間詳細な記事の傳はつてゐるのは無いが、やはり處處の土民を心服せしめられたものと拜察される。
當時の大阪灣附近は、今日の淀川と大和川とが河內國に於いて合流して居つたものと傳へられ、これを溯つて御船は直に草香山の麓に御到著になつたのである。當時の大和國の事情は、上揭の詔敕にも見えるやうに、小勢力分立を為し、各各相爭つて居たものである。今當時の重なものを舉げて見ると、鳥見(生駒郡)の地に長髓彥があり、宇陀の地に兄猾・弟猾があり、磯城の地に兄磯城・弟磯城があり、その外八十梟帥等、各地に賊徒が割據して居つた。天皇が山を越えて大和國に入らうとなされると、長髓彥が軍を出してこれを防ぎ奉た。そこで四月に孔舍衛坂の戰があり、皇兄五瀨命は賊の流矢に當つて傷かれた。天皇は天照大神の御子にましまして、今東の方、日に面して戰ふ事良からずとされ、更に南の方に迂迴せられて、紀伊國を經て大和國に入らうとせられた。その途中、紀伊國の雄水門に於いて五瀨命は遂に薨去せられた。斯くて熊野の地を經て大和國に入り、各地の賊徒を順次御討伐になつた。
斯くて紀元前二年三月に至つてほぼ國內平定の事が成つたので、玆に詔敕を降して、更に天下統治の御精神を宣揚せられた。その文中、八紘を掩ひて宇と為すの句があるので、八紘一宇の詔敕と稱し奉ることもある。今その詔敕を次に記し奉る。
神武天皇發述上揭詔敕之際,時方甲寅年,實皇紀前七年事也。其年,即率諸皇子及舟師,步邁東征之途。十月,出船,經速吸門,著筑紫菟狹。速吸門者,今日豐後水道。菟狹,位大分縣宇佐。十一月,到筑紫崗水門。十二月,至安藝國埃宮。翌年三月,入吉備國,坐高嶋宮。此今屬岡山縣。於此,更整準備,皇紀前三年二月,到難波崎。三月,御船著河內國白肩津。此間詳細,雖無紀錄,察之,蓋令處處土民心服,使浴皇化。
相傳當時,於大阪灣附近,今之淀川、大和川合流於河內國,御船溯之,即著草香山麓。當時大和國之事,一如上揭詔敕,諸諸勢力,散落分立,各各相爭。今舉當時重鎮,則於鳥見(生駒郡)有長髓彥,宇陀有兄猾・弟猾,磯城有兄磯城・弟磯城。此外諸如八十梟帥等,各地賊徒割據,未服恩澤。天皇越山,欲入大和時,長髓彥出兵防阻。於是,四月,戰孔舍衛坂,皇兄五瀨命中賊流矢而傷。以天皇者,日神之子,今朝東方,向日征虜而戰,事不良矣。更迴南方,經紀伊入大和。途中,五瀨命遂於紀伊國雄水門薨去。如斯,經熊野而入大和。各地賊徒,順次討伐,伏誅、歸順者相繼。
如斯,至皇紀前二年三月,國內蓋平。玆降詔敕,更宣揚統治天下之精神也。文中有「掩八紘而為宇」之句,人稱八紘一宇之詔敕。今,奉記該詔于次。
我東を征ちしより茲に六年なり。皇天の威を賴りて、凶徒就戮さえき。邊の土未だ清まらず、餘の妖尚梗しといへども、中洲の地に復風塵無し。誠に皇都を恢廓めて、大壯を規り摹るべし。今運此の屯蒙に屬ひ民の心朴素なり。巢に棲み穴に住む、習俗惟常となれり。夫大人の制を立つるは、義必時に隨ふ。茍も民に利きこと有らば、何ぞ聖の造に違はむ。且山林を披き拂ひ、宮室を經營りて恭みて寶位に臨みて元元を鎮むべし。上は天靈の國を授け給し德に答へ、下は皇孫の正しきを養ひ給し心を弘めむ。然して後に六合を兼ねて都を開き、八紘を掩ひて宇と為さむこと、亦可からずや。夫の畝傍山の東南の橿原の地を觀れば、蓋し國の墺區か。治らすべし。
自我東征於茲六年矣。賴以皇天之威,凶徒就戮。雖邊土未清,餘妖尚梗,而中洲之地無復風塵。誠宜恢廓皇都,規摹大壯。而今運屬此屯蒙,民心朴素,巢棲穴住,習俗惟常。夫大人立制,義必隨時。茍有利民,何妨聖造。且當披拂山林,經營宮室而恭臨寶位,以鎮元元。上則答乾靈授國之德,下則弘皇孫養正之心。然後兼六合以開都,掩八紘而為宇,不亦可乎!觀夫畝傍山東南橿原地者,蓋國之墺區乎!可治之!
この詔敕は、九州の地を發して以來の事を述べさせられ、又、當時の民情を詳にせられて、ここに帝位に即いて統治せらるべき御趣旨を述べさせられて居る。今便宜三節に分つて、その御趣旨を述べよう。初から「大壯を規り摹るべし。」までが第一節で、九州御出發以來、天つ神の御威德に依つて兇徒を討伐し、中央の地方を御平定になつたことを述べられ、當に都を定め宮殿を建造すべしとの御趣旨を述べさせられて居る。次に「今運此の屯蒙に屬ひ。」から「正しきを養ひ給ひし心を弘めむ。」まで第二節で、時代のまだ早しくて民心が醇樸である事を述べられ、帝皇として制を立てるのは時機に從ふべし、民を利する事があらば、これを行ふべしとし、帝位にお即きになつて天つ神の國を授けになつた御德にお答へ申し上げ、更に天孫の正しき道を養ひになつた御心を廣めようとの御趣旨を述べさせられて居る。次に「然して後に」以下第三節で、更に進んでは國土を併せて都を開き、天下を掩うて家となすもよからずやとし、畝傍山の東南の橿原の地を以つて國の中心として、此處に都せらるべき御趣旨を述べさせられて居る。今更に各節に亘つてこの詔敕の意義を明にしよう。
第一節、大意、日向國を發して東に向つてから茲に六年である。天つ神の御威德に依つて兇徒が誅伐せられた。片田舍は未だ鎮まらず、殘つて居る賊が猶強猛であるけれども、中央の國には騷亂が無くなつた。誠に帝都を雄大にし、宮殿を建設すべきである。
この詔敕を降された紀元前二年は、己未年であるから、日向を御出發になつた甲寅年から六年になる。斯くして大和を中心とする地方が既に平靜に歸したので、茲に帝都を定め宮城を御造營になるべきであるといふ意味をお述べになつて居る。餘の妖尚梗しとは、兇徒にして未だ皇軍の征討を蒙らざる者の殘つて居る事をお仰せられて居る。梗は勇猛にして荒き事を言ふ。恢廓は恢弘と同じく、雄大にする事である。大壯は易經にある語で、宮殿の壯大なるものを言ふ。斯くの如く帝都を定め宮殿を營まれるのは、天下統治の基礎としてその中心をお定めになる御義である。
第二節、大意、今、時世は未開醇樸の時代であり、民の心は素朴である。巢に棲む者もあり、穴に住む者もある。かやうな風俗を常としてゐる。それ聖賢の制度を立てるのは、その道理は必時勢に隨ふのである。假にも民にとつて益する事があるならば、かやうな聖賢の業に違はないやうにすべきである。茲に山林を開發し宮殿を經營して、嚴として帝位に即き人民を鎮撫すべきである。斯くして上は天つ神が國をお授けになつた御德にお答へ申し、下は天孫の正しき道をお養ひになつた大御心を弘めようと思ふのである。
屯蒙は、紀元前七年の詔敕に「蒙くして正しきを養ひ」とあつた蒙に同じである。屯は物の始めて生ずるを言ひ、蒙は物の稚きを言ふ。全て創始時代に在つて、未だ整はざる狀態にあるのを言ふ。運は時世で、當時未だ諸事の發生したままで、整頓しなかつた事を仰せられて居る。巢に棲み穴に住むとは、古代人民の生活の原始的であつたのを云ふ。巢に棲みとは樹上に巢を懸けて住むのを言ひ、穴に住むとは地上に穴を堀つてこれに住むことである。大人は賢人聖者で、茲には人民を指導する者を指して仰せられて居る。制を立つ云云は、聖賢は人民の從ふべき道を定めるのは、その道理が時勢に叶ふやうにすると云ふ意味である。聖の造は大人の道であつて、上の大人の制を立つるは云云を受けさせられて居る。山林を披き拂ひ宮室を經營するは、第一節の皇都を恢廓し大壯を規摹するの句を受けさせられて、更に之を實行に移さるべき御趣旨を述べさせられて居る。恭は身を謹む貌。天つ神の御授けになつた天皇の御位にお登りになるのであるから、恭しくなされる意味である。寶位は天皇の御位。元元は萬民を言ふ。天靈は天つ神の御靈であり、紀元前七年の詔敕に見えた高皇產靈尊、大日孁尊を指し奉る。皇孫は瓊瓊杵尊以下三代の君を指し奉る。正を養ひし心は、前の詔敕にあつた蒙くして正を養ひの句を受けて居られる。以上第二節は當時の狀勢をお述べになり、君たる者はこの時世に應じて道を立てるべき事を記され、神意を以つて人民を統治し、以つて天つ神の御德に答へ奉り、天孫の道を更に廣大にせむとする御趣旨を述べささせられて居る。
第三節、大意、斯くの如くにして後に、天地四方を併せて都を開き、八方を掩うて家となさむ事も良い事ではないか。斯の畝傍山の東南の橿原の地を見れば、蓋し國土の中央であらうか。此處に於いて天下を統治すべきである。
六合を兼ねは、天地四方を併せて帝都とせられる意義で、雄大なる御規模を述べさせられて居る。八紘は列子にある語で、八方に同じで紘は天地に綱を張る義である。八方を掩うて我が家とせんとする雄大なる御精神をお述べになつて居る。誠に日本帝國の進むべき道をお示しになつた句として、其の雄大なる御精神を仰ぐべきである。畝傍山は大和の國にある山名で、其の東南の地の橿原は、今日の橿原神宮の地である。元橿の樹木が多くあつたので起つた地名であらう。墺區は深き處の義で、中央と云ふに同じ。
以上此詔敕は、帝都の御建設と宮殿の御造營とを計劃せられ、茲に帝位にお即きになつて、人民を統治すべきであるとなされる御趣旨をお述べになつて居る。其の順序として、日向の國御出發以來の事、並びに當時の天下の狀勢をお述べになつて居る。又斯くの如くにして、天つ神及び天孫の御心にお答へ申し上げる事が出來ようとの御趣旨である。さうして之に依つて、進んでは六合を兼ねて都を開き、八紘を掩うて家と為すも亦可とすべきではないかと云ふ、雄大無比の御精神を御示しになつてゐる。斯くして此月に臣下に命じて宮殿御造營をお始めになつた。其の翌翌年の正月元日に、天皇が橿原の宮で帝位にお即きになつた。此年が天皇の元年であつて、即、紀元元年である。
此詔敕は、神武天皇の帝位にお即きになる御精神を發揚せられた物で、我が國に於ける紀元の意義は茲に仰ぐべき物と考へられる。天皇御即位の意義は、人民の上をお思ひになつて御統治せられるにあり、之を推し廣めて、天下を家とする御規模が含まれて居るのである。其の意味に於いて此詔敕の御趣旨を拜誦すべきである。
此詔敕者、述發九州以來種種之事。又詳述當時民情,說明於此即帝位,治天下之趣旨。今依便宜,權分三節,各述其旨。初以「規摹大壯。」為止,作第一節。述及九州御出發以來,依天神威德討伐兇徒,平定中央地方之事,宜當定都造宮御之旨。次以「今運屬此屯蒙。」至「弘皇孫養正之心。」為止,作第二節。其述時代尚早,民心醇樸,帝皇立制,宜從時機。茍有利民之事,宜當行之。既即帝位,應報天神授國之德。更述當養天孫正道,弘其御心。次以「然後」以下,為第三節。進而論述,併國土,開都邑,掩天下而為一家,不亦可乎。以畝傍山東南橿原之地,為國中心,宜都此處之旨。今更亙以下各節,明此詔敕意義。
第一節,大意如此。自日向國東征於茲,凡六年矣。依天神威德,誅伐兇徒。雖說未鎮田舍稍有,且殘賊猶強,但中央之國,已無騷亂。實應雄大帝都,建設宮殿。
降此詔者,皇紀前二年,己未年也。自甲寅年發自日向,已經六年。如斯大和鄰比,既歸平靜,故欲於茲定都,造營宮城。所謂餘妖尚梗,仍有兇徒,未伏皇化之意也。梗者勇猛荒亂之謂矣。恢廓者,意同恢弘,雄大之意也。大壯,典出『易經』,壯大宮殿之謂矣。如斯。定帝都、營宮殿,以為中心,作治天下之礎之意也。
第二節,大意如此。今,時世未開,世屬醇樸,民心素朴。巢棲穴居者有之。如此風俗,是以為常。其立聖賢制度,道理必隨時勢。假有益民之事,豈違聖賢之業哉。當於茲開發山林,經營宮殿,嚴即帝位以鎮撫人民。如此上報天神授國之德,下弘養天孫正道之心。
屯蒙者,皇紀前七年詔云:「蒙以養正。」與之同矣。屯者,物之始生之云爾。蒙者,物謂之稚也。所表時在草創,未整以暇之態。運者時世,當時諸象未發,不及整頓。巢棲穴住者,古代蒼生,原始生活之意。巢棲者,樹上懸巢而住之謂;穴住者,地下堀穴而住之云爾。大人,賢人聖者之意,茲指指導人民者。立制云云者,聖賢定民服膺之道,以其之理,叶於時勢。聖造者,君子之道也。所謂上位君子,立制定規,則風行草偃也。披拂山林,經營宮室者,所述第一節恢廓皇都壯大規摹之流,更加實行之旨也。恭者,謹身之貌。天皇將登天位,時天神授受,故當恭謹。寶位者,天皇帝位也。元元者,萬民之謂也。天靈者,天神御靈,所指者即皇紀前七年詔所見高皇產靈尊、大日孁尊二尊矣。皇孫者,瓊瓊杵尊以下三代君王。養正之心者,前詔所錄,蒙以養正之流。以上第二節者,敘述當時狀勢,為人君者,當應時世,立道治民,奉神意,率蒼生,以答天神之德,更展天孫之道也。
第三節,大意如斯。如此之後,併天地四方,開都創基,掩八方而為家,豈非善哉。見畝傍山東南橿原之地,蓋國土之中央歟。於此處治天下而可也。
兼六合者,併天地四方,以為帝都,述以雄大之規模。八紘者,典出『列子』,意同八方。紘者,張維天地之意。雄辯掩八方而為宇之雄大精神。誠為明示日本帝國所應進之道。應仰其雄大之精神也。畝傍山者,大和國之山名。其東南之橿原者,今日橿原神宮之地矣。蓋以其處,量來多生橿樹,故名之乎。墺區者,深處之義也,與中央同。
以上此詔敕者,稱述計劃帝都建設及宮殿造營,併即帝位於茲,而率化人民之旨。就其順序,述自日向出發以來,並當時天下狀勢。又云如斯而可報天神、天孫之心。如是依之,進兼六合、開都邑,掩八紘而為宇,不亦可乎。此雄大無比精神之御示矣。遂於此月,命臣下始造宮殿。其翌翌年正月元日,天皇踐祚橿原宮。此年乃係天皇元年,亦即皇紀元年是也。
此詔所陳,發揚神武帝踐祚時之精神也。吾以為,我國紀元之意義,即在於茲。天皇御即位之意,在於心思人民,而遂統治。推廣此旨,含涉天下為家之規模,四海兄弟之性情。吾人當察其意義,而拜誦此詔。
四、紀元四年の詔敕
紀元二年には、御東征に際して事に從つた者の功を論じ、それぞれに賞を行はせられた。四年二月に、又次の詔敕をお下しになつて、神祇を崇敬すべき御趣旨を述べになつてゐる。今その詔敕を揭げ奉る。 皇紀二年,照會東征往事,論功行賞。四年二月,又下次詔,仰述崇敬神祇之旨趣。今奉揭其詔於此。
我が皇祖の靈、天より降り鑒りて朕が躬を光らし助け給へり。今諸の虜已に平け、海內に事無し。天神を郊祀りて大孝を申ぶべし。
我皇祖之靈也,自天降鑑,光助朕躬。今,諸虜已平,海內無事。可以郊祀天神,用申大孝者也!
此詔敕は、始に皇祖の神靈に依つて兇賊を討伐し、天下の平定を得たことをお述べになり、之に依つて、天つ神を祭つて、孝道を明にせらるべき意味をお述べになつてゐる。皇祖の靈が天より降つてとある皇祖は、前出の高皇產靈尊、大日孁尊を指し奉る。降り鑒りとは、時に臨んでその御威光を現されたことを言ふ。熊野の地に於いて惡い神の毒氣をお受けになつた時に、天がら神劍が降つて助けられた事、吉野山中で八咫烏が降つて案內し奉つた事、長髓彥をお討ちになつた時に金色の鵄が降つて御弓に止つた事等はその例である。その外、陰に陽に常に天皇の大業を助けられて居る事を指されて居る。郊祀は、天を祭る事を云ふ。支那で祖先を南郊に祭るので郊祀の文字を使ふのである。大孝は皇祖、皇考の御德に報じ奉る事を云ふ。
この詔敕の御趣旨は,日向御出發以來多年に亘つて多くの困難はあつたけれども、遂に賊徒を討伐して天下統治の大業を成されたのは、全く天つ神の威德に依るのであるから、此處に報本反始の道をお盡しにならうとする意味である。斯くて靈峙を鳥見の山中にお立てになつて、皇祖の天神をお祀りになつた。此處に云ふ鳥見は長髓彥の居つた鳥見とは別の地で、宇陀郡の萩原の地と云ふ。靈峙は齋場であつて、祭祀を行ふ處である。時は神靈の止まる處を云ふ。神武天皇敬神の御事蹟は、既に賊徒御討伐の間にも現れて居る。殊に紀元前三年九月、賊徒の軍の兇暴なるを討伐せんとして、人を天香具山に遣して、その山の土を取つて八十平瓫等の祭器を造つて、親しく天神地祇を祭られ、其後兵を出して八十梟帥を御討伐になつた事がある。今此處に大業の成るに及んで、更に天つ神を祭つて崇敬の大御心を明にせられたのは、誠に仰ぐべき、尊むべき大御心に出たのである。我が國は天照大神の神敕に依つて創められた國であり、すべて神代に神神の行はせられた跡を道として進んで行く國である。神武天皇は、正しくこの意味に於いてその範を示されたものと申すべきである。國民として深く思を此處に致すべきである。さうして之を大にしては、天つ神の國家をお開きになつた始を仰ぎ、又、國民自ら夫夫の祖先を祭つて各自の孝道を明にすべき所である。
此詔敕者,始述依皇祖神靈,討伐兇賊,遂得平定天下,故宜祭天神,以明孝道。皇祖之靈自天降鑑之皇祖者,前出高皇產靈尊、大日孁尊之謂也。降鑒者,臨時現其威光云爾。於熊野之地,受惡神毒氣之時,天降神劍,遂得神助之事。八咫烏降吉野山中,以為嚮導之事。又討長髓彥時,金鵄降來,止御弓上事等,皆其例也。此外,亦指皇祖神靈,于明于暗,常助天皇大業事。郊祀者,祭天之謂也。震旦祭祖南郊,故曰郊祀。大孝者,報皇祖、皇考之御德是也。
此詔敕趣旨,在日向出發以來,已亘多年,雖困難多有,遂能討伐賊徒,平治天下,而成靖國大業。其因無他,全由天神威德所致。故於此處,應盡報本反始之道。如斯,立靈峙于鳥見山中,以祀皇祖天神。此處所云鳥見者,與長髓彥所居鳥見不同,係宇陀郡萩原之地也。靈峙者,齋場也,所行祭祀之處也。時稱神靈所止之處云爾。神武天皇敬神之事蹟,既現于討伐賊徒之間。殊以皇紀前三年九月,欲討伐賊徒軍之兇暴,而遣使天香具山,取其土造八十平瓫等祭器,親祀天神地祇,其後出兵,討伐八十梟帥。今于此處,既成大業,更祭天神を,明崇神敬祖之大御心。此大御心,誠是可仰可尊。我國者,實依天照大神神敕,所創之國矣。咸循神代眾神之行跡,而步道行進之國也。神武天皇者,於此意義,可謂示其模範者也。身作國民,宜深思此事。進而,仰天神開國之始,又國民各自,皆宜祭其祖先,明其孝道之所矣。
五、結び
以上は、日本書紀に依つて傳へられた神武天皇の詔敕三篇を舉げて、その御旨趣を謹解し奉つたのである。此三篇は、夫夫お降しになつた場合に依つて其の內容は變つて居る。然し其御精神は嚴として一貫して居る物が有るのである。
紀元前七年の詔敕に在つては、天孫降臨の御精神を基礎として、中央の地を平定して、天下統治の大業を成されんとする御計劃を述べさせられて居る。次に紀元前二年の詔敕に在つては、第一の詔敕に現れた御計劃はほぼ完成し、更に國家としての形態を整備して、天下に示さんとする御精神を發揚せられ、しかも將來八紘を掩うて家と為さんとする大理想をお示しになつてゐる。紀元四年の詔敕に在つては、既に天下を平定して帝位にお即きになり、その始を顧みて天神を祭り、茲に大孝の道を明にせられてゐる。斯くの如く神武天皇の大業は、全く天孫降臨の御精神を實行の上に移された物と申し上ぐべきである。然れば其の御即位の年を紀元元年とし、之を記念する事は、天孫降臨の御精神を實行さられた事を記念する意味であり、其處に示された八紘一宇の御理想を深く肝に銘して味ふべきである。
そもそも天孫降臨の事實は、我が國古代に在つて人人未だ信服すべき所を知らず、自らの勢力に誇つて相互に爭鬪を事として居つたのを、軍神經津主命、武甕槌命をして之を平定せしめ、茲に天孫瓊瓊杵尊の御降臨になつたもので、我が日本帝國の基礎は茲に定まつた物と申すべきである。然しながら實際の問題としては、皇威の及ぶ所、猶未だ西の國に限られて居たのであるが、神武天皇は更に東方、即大八洲の中心地方を御平定になつて、茲に嚴然たる日本帝國の組織を完成せられたのである。而して神武天皇の大業が天孫降臨の御精神の發揚であり、しかも其精神は、更に日本帝國の前途に一層大なる發揚を約束せられて居るのであるから、日本國民たる者はこの御精神を拜して、協力一心、日本帝國の完成に努力すべきである。此意味に於いて神武天皇の詔敕は日本帝國の進むべき道をお示しになつた物として仰がれるのである。神武天皇の御事蹟に依つて大和を中心とする日本帝國は其姿を現した。崇神天皇は四道將軍を派して、更に北陸、東海、西道、丹波等の各方面に王化を擴張せられた。其後の日本歷史の經過は今此處に說く迄も無いであらう。近くは明治天皇の御事蹟を拜しても、皇威は愈愈四海に輝く大事實を仰ぎ見るのである。今や日本帝國の版圖は愈愈廣く、北は樺太から南は臺灣に及び、其威風の及ぶ處は、更に之に幾多の地方を加へ、又實に數十倍を越えんとする地方にも及んで居る。此實に神武天皇の大業の繼續であつて、天皇詔敕の御精神の意義は、今日に於いて正に明にせられたといふべきである。今皇紀二千六百年を迎へて、神武天皇の大業に思を馳せ、其意義を明確にするのも亦、國民として為さねばならなぬ務であると信ずる。日本國民は、須らく神武天皇の詔敕を、日夜に拜誦して、其御精神の發揚に全力を傾注すべきである。
以上,依『日本書紀』所傳,舉神武天皇詔敕三篇,謹解其旨趣。此三篇內容,各依其降詔場合,各有其異。然觀其精神,則儼然一貫。
於皇紀前七年詔,以天孫降臨之精神為基礎,論述平定中央之地,成就統一下大業之計劃。次為皇紀前二年詔,現於第一詔之計劃,近幾完成,遂更發揚,整制國家形態,以示天下。加之,明示將來掩八紘而為宇之大理想。皇紀元四年詔,天下既平,遂即帝位。顧其肇始,敬祭天神,於茲明大孝之道。如斯,神武天皇之大業,實為天孫降臨精神之實現也。遂以即位之年,定為皇紀元年,以玆記念,其意義,在於實行天孫降臨精神之記念。其處所示八紘一宇之理想,必當銘記方寸,深加吟味。
顧視天孫降臨之事實者,我國古代,眾人未知信服,誇己勢力,相互爭鬪。以軍神經津主命、武甕槌命,平定邪神荒鬼。於此,天孫瓊瓊杵尊降臨,我日本帝國之基礎,於茲砥定。然究實際,皇威所及,猶限西國而已。神武天皇遂更東征,平定大八洲之中心。於茲,日本帝國之組織,儼然完成。而神武天皇之大業,實天孫降臨精神之發揚。且其精神者,更示日本帝國之前途,當有殊更之發揚歟。故日本國民,宜拜此精神,協力一心,奉為日本帝國之完成,竭心努力矣。就此意義,明示日本帝國所進之道者,實神武天皇詔敕是也。依神武帝事蹟,以大和為中心之日本帝國,必為其姿之體現矣。崇神天皇,遣四道將軍,更於北陸、東海、西道、丹波等面,擴張王化。其後日本歷史之經過,想必無須贅述。奉拜近頃明治天皇之事蹟,亦可仰見皇威愈彰,彌輝四海之大事實。今日,日本帝國之版圖,愈愈廣闊。北起樺太,南迄臺灣,於茲,其威風所及,更加幾多地方,又恩澤所及,已數十倍。此實神武天皇大業之繼續也。而天皇詔敕之精神意義,當於今日,闡明於斯。今迎皇紀二千六百年,吾有所信,馳思神武天皇之大業,明確其意義者,亦國民之務矣。日本國民者,奉此神武帝詔,實須日夜拜誦,全力傾注,以期其精神之發揚也。
昭和十五年二月八日 印刷
昭和十五年二月十一日 發行 (非賣品)
昭和十五年三月一日 三版
東京市江澀谷區若木町十一番地
編輯兼發行人 財團法人 國學院大學院院友會
右代表者 鳥野幸夫
東京市芝區田村町五丁目番地三
印刷所 金星社印刷所
東京市江澀谷區若木町十一番地
發行所 國學院大學院院友會
電話青山 二三一九
振替東京 一一二○八
著述:武田祐吉
翻譯:浦木裕
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