日本巫女史 結語


  • 日本巫女史 結語

       私は、第一篇の「固有呪法時代」に於いて、我が民族國家の宗教である、原始神道に於ける巫女の位置を、闡明にしたいと企てた。換言すれば、巫女教である原始神道を基調として、民族國家の成立を說明しようと試みたのである。然るに、此企てたるや、單なる私の空想に終つて(シマ)つて、其結果は、殆んど予期せる(トコロ)を裏切つて(シマ)つたのである。
       例へば、祝詞に現はれた、「八百萬神等()、神集集賜()、神議議賜()。」と有る内容が、北方民族の間に行はれた聚會(クリルタイ)と交涉が有るか否か、更に(ソレ)が、古く琉球に行はれたユーウテーや、(國家の大事件を謠うの義。)オホサスニカタヅケルーと、(多數決の義。)同じ性質の物か否かさへ、確然する事が出來ず、隨つて、是等の事象の中心人物と成つてゐた巫女に關しては、全く論及する事すら意に任せ無かつたのである。極言すれば、是等の事は記述せねば成らぬと承知してゐながら、猶ほ(ソレ)に觸れる事が出來無かつたのである。
       勿論、(コレ)は私の不文の罪に歸する事ではあるが、強ひて言へば、我國の學問の現狀は、決して是等の事象を、放膽に論議し得る(マデ)に進んでゐ無いのである。神道の研究に在つても、或る種の目的の(タメ)、意識的に、(ソノ)發生的方面は、特に閑卻されて、專ら發達的方面ばかり高調されてゐる時代に在つては、原始神道と巫女との交涉や、巫女教と國家成立の關係(ナド)に就いては、論旨の明快は慎しまねば成らず、且つ筆路の自由は警めねば成らぬ。天津神や、國津神の考覈が、無條件で許されぬ以上は、此記述は或る程度の窘束は餘儀無い事として忍ぶより外に致し方が無い。
       久米邦武翁が「神道は祭天の古俗」を公にして、筆禍を買ったことは、既に歴史に属している程の、古い事件である。更に白鳥庫吉氏が「神代史の新しい研究」に序文を書いた為めに、多大の迷惑を蒙ったことも、昔話になるほどの古い事実である。併しながら、歴史はややもすると同じようなことを繰り返すものである。私としては、これを繰返して、その渦中には投じたくないと考えて、記述を運んだ。
       (ソノ)代り、許された範圍で、出來るだけ大膽に、且つ露骨に管見を發表するに躊躇する者では無かつた。而して、此立場から、原始神道は、巫道(シャーマニズム)の文化圏内に有る事を斷じ、併せて、原始神道は、巫女教である事も明かに論じ、古代於おける巫女の位置を說き盡したと信じてゐる。
       私は、第二篇の「習合呪法時代」に於いて、道教及び佛教の輸入が、我が神道に習合した結果、巫女の呪術、及び(ソノ)作法に、甚大なる影響を與へた顛末に就いて記述を試み、殊に修驗道と巫道との交涉に關しては、管管しき(マデ)に多言を費した。而して道教の巫蠱の呪術や、佛教の荼吉呢の邪法等に教へられて、我國の巫術が深刻に成り、慘酷と成り、其結果は、遂に巫女自身の墮落を致し、併せて社會に害毒を流して、官憲の(タメ)に、屢屢禁斷さるるに至つたが、猶も執拗に民心を支配した事を略述した。就中、現に社會の一部に存してゐる「憑物(ツキモノ)」と稱する迷信と、巫女との關係は、出來るだけ詳細に記した考へである。
       私は、第三篇の「退化呪法時代」に於いて、巫道が佛教や修驗道の(タメ)に壓倒され、征服されて(シマ)つて、此道に攜つた巫女の徒が、社會の落伍者として、窮迫せる生活に墮せる過程に就いて、大體を盡し、更に明治期に於いて、剿絶されたにも拘らず、今に所在して餘喘を保ちつつ有る事を記述した。
       而して、巫女史の教へる所を通觀して、知り得た事は、我國の巫女の出現は、民族國家の紐帶であつた古神道に發してゐて、其始(ソノハジメ)は、決して迷信を說かず、蠱術を行は無かつたのであるが、(ソレ)が社會の暢達から置き去りにされ、鈴振り神道であつた原始神道は、神社神道と成り、更に國體神道と(マデ)發達向上したにも拘らず、獨り巫女だけが、古き信仰と、古き作法とを固持してゐた為に、遂に日陰者たらざるを得無かつたのである。
       巫女が政治に參與し、軍事に參加し、更に文學に、音樂に、醫療に、農業に、航海等に對して、多大の發言權を有してゐた事は明確であるが、(ソレ)が落伍者と(マデ)成り下つたのは、全く時代と步みを同じくする事が出來無かつたからである。
       併しながら、私は信じてゐる。人類に、靈魂不滅說の存する限り、人力以上の或る種の力が、宇宙に在ると考へられてゐる限り、巫女なる者は、決して消滅せぬと云ふ事を。(コレ)を以て結語とする。

      日本巫女史 終






  • 日本巫女史 解說

       『日本巫女史』は昭和五年に初版が刊行された物で、數()る中山翁の著作中一番の大著であるが、資料搜查等で多少の手傳いをしたので私にとっては最も懷かしい本である。巫女の問題については著者は早くより興味を抱いておられたが、柳田國男先生が大正二年に創刊された雜誌『鄉土研究』誌上に連載された「巫女考」と云う論考に觸發された事は否め無いと思う。本書が刊行された時、柳田先生は大阪朝日新聞紙上に紹介の筆を執られた。其は先生の『退讀書歷』に採用されている。日本の民間信仰に於ける婦女の活動と其經路を語る材料は中山君しか持合せてい無いと述べられた。(シカ)し缺點を舉げるとすれば、史料が雜駁であり、急いで體系を立てようとした事であると指摘された。けれども此事は著者も十分に承知しておられたに違い無い。其は本書の卷頭に著者は史料は嚴重に批判して用いねば成ら無いと云われている事でも判る。けれども巫女に關する事は口外を禁じ秘密にしている物がおおい事が研究を困難にしていたと云う事情も有るが、然し何んと云っても昭和初期に在つては民俗學研究の草創期であった事が如何ともし(ガタ)かったと云わねば成ら無い。
       巫女の研究は今日、巫道(シャマニズム)の名下に人類諸科學の間に盛んに取上げられている。巫道(シャマニズム)と云うのは西比利亞(シベリヤ)地方の原住民族の原始信仰の事であり、之についてはチアプリ(Maria Czaplicka)女史の『アボジナル・オブ・サイベリヤ(Aboriginal Siberia)』が著名である。シャマニズムと日本の巫道との關係について今日迄多くの人によって說かれている。中山翁は明治から大正初期に掛け史論の筆を執された山路愛山の日本古代神道と巫道(シャマニズム)の關係を說いた論考を紹介されている。(コレ)は今日では知らない人が多いと思う。私等が巫覡(シャマン)の事を知ったのは鳥居龍藏著『日本周圍民族の原始宗教』であり、其後雜誌『民族』に圀下大慧氏が連載された巫覡(シャマン)と言う語の原義、巫女(シャマン)教の創世神話、巫女(シャマン)の服裝と持物等の論考に依って教示を受けた。巫覡(シャマン)の事が紹介されると同時に國內の巫女の研究も行われ出した。北は東北地方の巫女(イタコ)、南は沖繩の祝女(ノロ)巫女(ユタ)等について注意が向けられて來た。
       巫女(イタコ)大白(オシラ)神について述べて置きたいのは中山翁の友人であった(ロシア)ネフスキイ (Не́вский )氏の事である。氏は柳田先生に師事し巫女(イタコ)の事を熱心に研究調查した。本書にも其見解が述べてあるが、柳田先生の「大白神考」には先生宛ての手紙が載せて有る。巫女(イタコ)についての調查報告がしてあり、大白樣(オシラサマ)巫道(シャマニズム)に關係しているに相違有りませんと有る。大白樣(オシラサマ)は多く桑木で作るようであるが、樺太アイヌでは男女二體の人形であり接骨木(ニワトコ)の木で作るとネフスキイ氏は言っている。
       今日は中山翁の時代に比べると巫女について現地調查が格段と綿密に行われるように成った。本書には巫女に關する問題として落ちる所無く言及されているようであるが、最近の研究者が注意している事で本書で餘り取上げてない事を舉げると入巫の儀式の如きの物が有る。之については沖繩・庵美大島の巫女についての實地調查が櫻井德太郎・山下新一兩氏に依って報告されている。其と反對に本書に取上げられている事で最近の研究では其程(ソレホド)注意を拂われてい無い物も有る。其は巫女の使用する呪具其他(ソノホカ)の持物等であり、水占いの事等である。私の興味を抱いている一つに最角(イラタカ)の數珠が有る。(コレ)には錢・無患子(ムクロジ)の玉・菱の實等が連ねて有るが、狼骨・豬牙・鹿角等が用いられている。此動物の骨について最近小閑恒雄氏が『人類學雜誌』に動物の骨が實際何んの骨かを檢查された結果を發表されている。其に據ると、熊・狐・鹿・犬等の顎骨・犬齒・爪が多い。面白いのは狼と言われていたのは犬であると言う。  尚本書には憑物の事にも言吉して有るが(コレ)は巫女以外からも見ねば成らぬ問題である。其より巫女の呪言の事は今後の研究に於いて取上げねば成らない重要な問題と思う。著者は本書の卷頭で不出來な本であるが是迄(コレマデ)の著述の中で一番努力を盡した物であり、一番想出(オモイデ)の深い執筆であると言われている。之は全く其の通りで今後の巫女研究は是非とも一讀して貰いたい高著である事は疑いない。

        昭和五十八年十一月

      大藤時彥






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