先 賢 故 實



【三條朝】藤原道長(ふぢはらのみちなが)





 藤原朝臣道長,兼家第五子。性豪爽負氣。
 兼家常歆美從姪公任為人,激勵諸子曰:「兒輩寧得踏公任影哉?」兄道隆、道兼慚赧不敢對,道長獨抗言曰:「兒故不欲踏影,恐終踏其面。」道長公詩歌,兼善射御。敘從五位下,累進陞正二位左大臣。長保二年,其女彰子立為中宮,上東門院是也,生後一條、後朱雀。後一條即位,道長攝政。尋讓攝政其子賴通,敘從一位,拜太政大臣。
 萬壽四年,薨,年六十二。
 所著有蓮府祕抄。道長為外戚,專政柄,高下在其心。帝屢幸其第,錫齍重疊,富於王室。世稱法成寺攝政,又曰御堂公。

 雪降(ゆきふ)れる(あした)、大納言公任の(もと)に遣はしける 【後拾遺 416

    (おな)じくぞ 雪積(ゆきつも)るらむと (おも)へども 君古里(きみふるさと)は ()づぞ()はるる

    『前賢故實』藤原道長



【後一條朝】源顯基(みなもとのあきもと)





 源朝臣顯基,民部卿俊賢長子。
 少小好學,篤志無倦。寬弘八年,敘從五位下。長和中,為侍從、左京亮,遷左近衛少將。後一條帝登極之初,上東門院入宮,嘆曰:「先帝晏駕未發,宮中事事不復似舊。」帝有愧色。會顯基在直著朗吟詩歌。后嘆曰:「念及疇昔者,唯此而已。」帝為懌然。歷任至從三位權中納言,恩遇最隆。然夙有嘉遁之志,常言願得無罪見配所月。帝登遐,顯基悲慕,入拜梓宮。會不供燈,乃潛歎曰:「世情菲薄,一至于此!自古忠臣不事二君,吾不欲復立于朝。」遂祝髮為僧,更名圓昭。人咸惜之。

 長元六年,關白白川にて,子日志侍りけるに 【新敕撰 457

    千歲迄(ちとせまで) (いろ)(まさ)らむ (きみ)(ため) 祝初(いはひそめ)つる (まつ)(みどり)

    『前賢故實』源顯基



【後一條朝】源俊賢(みなもとのとしかた)

 源朝臣俊賢,左大臣高明第三子。
 仕圓融、華山、一條朝,歷左近衛少將,任中宮辨,兼太皇太后宮權亮。時藏人頭有闕,關白道隆一日私謂俊賢曰:「廷臣中有可任其職者,子其告之。」俊賢對曰:「恐無踰於僕者。」道隆遂用之。既而敘從四位下,累官至正二位權大納言。尋上表辭之,為民部卿。
 萬壽四年,薨,年六十。
 俊賢嘗從關白賴通遊北山,路有古寺。眾將入,俊賢曰:「我偶閱書知焉,恐有凶穢之事。」乃使奴入驗視,果見載屍於車置廡下。眾皆嘆服。

 探得富樓那 【本朝麗藻 076

    出從釋氏富樓那 字是滿江意幾多 知慧風高詞卷霧 辯才浪涌口懸河
    慈悲內契應由我 利益外情似忌他 第一名聞三世久 生生展轉在娑婆

    『前賢故實』源俊賢



【後一條朝】藤原行成(ふぢはらのゆきなり)

 藤原朝成行成。右近衛少將義孝子。祖父伊尹養為子。
 累遷正二位權大納言,兼按察使。初行成與藤原實方論事殿上,實方發暴怒,取行成冠,投之中庭。行成不敢抗,顧命主殿司取冠著之。徐曰:「何以至此?」帝偶隔蔀見之,嘉其器度。會藏人頭源俊賢遷參議,帝問曰:「誰可代汝者?」俊賢以行成答,且說其能。帝從焉。翌日,補之。及行成任納言,班在俊賢之上,而深感其恩,無不讓坐。
 萬壽四年,薨。年五十六。
 資稟質直,多綜才藝,翰墨特妙。一條帝朝,奉敕題宮門榜。後世稱其書法謂世尊寺家。子孫世世多善書。

 法性寺入道前攝政家に法花經廿八品の歌詠ませ侍りけるに、序品 【新敕撰 582

    昔見(むかしみ)し (はな)色色(いろいろ) 散交(ちりか)ふは 今日(けふ)のみ(のり)の 例成(ためしな)るらむ

    『前賢故實』藤原行成



【後一條朝】藤原公任(ふぢはらのきんたふ)



 藤原朝臣公任。關白賴忠長子。
 為人聰敏多才,博通典籍,雖曲藝悉能通曉。尤善和歌。累進正二位權夫納言,兼按察使。攝政道長與群卿遊大井川,浮詩、歌、管弦三舩,各選其才乘之。道長謂公任曰:「足下多能,將駕何舩?」公任請乘謌舩。他日語人曰:「使我作詩如歌者,必播名於世。悔當時不駕作文舩。」
 長久二年,薨,壽七十六。世稱四條大納言。所著書數部,皆傳于世。

 嵐山の(もと)(まかり)けるに紅葉の甚散侍(いたくちりはべり)ければ 【古今著聞集、拾遺集 210

    朝未(あさまだ)き 嵐山(あらしのやま)の (さむ)ければ ()紅葉葉(もみぢば)を ()(ひと)()

    『前賢故實』藤原公任



【後一條朝】藤原齊信(ふぢはらのただのぶ)


 藤原朝臣齊信,太政大臣為光第二子。
 天資英敏,練習典故,累官內外,陞正二位大納言。
 長元八年,薨,年六十九。
 齊信,辭藻華蔚,才藝優長,與源俊賢、藤原公任、藤原行成,其名相伯仲,世稱四納言。及薨,朝野咸惜焉。後一條帝脩清暑堂御神樂,公任當擊拍子。時齊信隨班坐,公任以為彼非解音者,必當辭避。乃試讓之。齊信不辭擊之,始終協律。事竣,公任謂齊信曰:「足下何時閑之?」曰:「是亦朝儀一事,不可不知。」

 上東門院入內時の御屏風に松有る家に笛吹遊(ふえふきあそび)したる人在る所を詠侍(よみはべり)ける 【千載集 960

    笛竹(ふえたけ)の 夜深(よふか)(こゑ)ぞ ()こゆなる (みね)松風(まつかぜ) ()きやそふらむ

    『前賢故實』藤原齊信



【後一條朝】藤原保昌(ふぢはらのやすまさ)



 藤原朝臣保昌。大納言元方孫,右馬權頭致忠子。
 為人膽智勇決,膂力過人,精達武事,兼善和歌。至正四位下左馬頭。保昌嘗冬夜獨行弄笛,時有巨盜袴垂著者,多力善走,見保昌欲褫其衣者數次焉。保昌回顧,袴垂不覺心悸,謂非常人也,拔刀欲擊之。保昌輟笛叱之。袴垂惶怖,伏地不能動。保昌聞其名,曲告之。保昌曰:「我亦聞奴名久矣。從吾而來。」復吹笛緩行。既而還家,與之絮衣而誡曰:「乏則復來,勿侮人而受害。」
 長元九年,卒。年七十九。

 大中臣輔長袴著(はかまき)侍りけるに內外戚の祖父(おほぢ)にて輔親公資侍りけるを見て詠める 【後拾遺 448

    方方(かたかた)の (おや)(おや)どち (いは)ふめり ()()千代(ちよ)を (おも)ひこそ()

    『前賢故實』藤原保昌



【後一條朝】大中臣輔親(おほなかとみのすけちか)


 大中臣朝臣輔親。能宣子也。
 長元七年,使于伊勢神宮。時寶殿松實間有光輝。輔親探得碧珠,還而獻之。帝特賞授從三位。大中臣氏諸魚以後,無陞三位者,世以為榮。九年,敘正三位。
 長曆二年,薨于伊勢。年八十五。
 平生上和歌,其家泉石奇勝,以象天橋立,特高其屋檐,以便觀月焉。世稱其雅致。有女曰伊勢大輔,亦能和歌。

 題知(だいし)らず 【拾遺集 1076

    足引(あしびき)の 山郭公(やまほととぎす) 里慣(さとな)れて 黃昏時(たそがれどき)に 名告(なの)りすらしも

    『前賢故實』大中臣輔親



【後一條朝】藤原範永(ふぢはらののりなが)



 藤原朝臣範永。尾張守仲清子也。
 以和歌顯名,與平棟仲、藤原經衡、源兼長、源賴家、源賴寶,號曰和歌六黨。範永為之魁。嘗會遍照寺,詠山家秋月。藤原公任見而大賞之。即批其稿曰:「範永何為者也,能得和歌體。」範永聞而大悅,以其稿盛錦囊,而寶重之。累官補藏人,敘正四位下。

 廣澤の月を見て詠める 【後拾遺 258

    棲人(すむひと)も ()山里(やまざと)の 秋夜(あきのよ)は 月光(つきのひかり)も (さび)しかりけり

    『前賢故實』藤原範永



【後一條朝】藤原政則(ふぢはらのまさのり)

 藤原朝臣政則,關白道隆孫,隆家子也。
 生於但馬。父隆家為太宰權帥,及其赴府,賜宴于晝御坐,敘正二位。政則從赴,有政績,士民歸嚮。
 寬仁三年,刀伊賊寇對馬、壹岐,攻殺壹岐守理忠,進入筑前。政則及郡人文室忠光等拒之。頗有殺穫。賊又至那珂郡。隆家再遣大藏種村搤險要。賊舩奄至,欲燒衛所。府兵奮戰破之。賊退于能古島,又寇志摩郡舩越津。隆家、政則,豫遣兵邀擊。賊又逃去。隆家遣政則、平致行、種村等,發舩三十餘艘,追擊走之。政則後住太宰府,任對馬守。後一條帝賞其功,賜錦旗並御製歌。
 後三條帝延久二年,賜肥後菊池郡。其子則隆姑移其地以菊池為氏。子孫繼續,為西陲著姓。

 後一條帝御製 【出典待攷】

    筑紫(つくし)なる 八方岳(やほうがたけ)の (ふもと)には (たけ)(をとこ)の (あり)とこそ()

    『前賢故實』藤原政則



【後朱雀朝】大江舉周(おほえのたかちか)


 大洋朝巨舉周,匡衡子。
 夙對策及第。一條帝嘗召文人賦詩,舉周作序。帝褒之,擢藏人。其母赤染氏作和歌,贈藤原道長妻,述為舉周求外官意。詞甚切至,道長愍焉,遂得任和泉守。在任罹篤疾,赤染氏患之,作歌禱住吉神,丐以身代。舉周病尋瘳,後聞之,驚懼曰:「苟活我身,不利于母,豈人子之心哉!」乃往住吉禱之。母亦無恙。
 長和四年,為東宮學士,累遷大學頭、式部權大輔。永承元年,卒。

 題不知 【本朝文粹 詩號待攷】

    撫白首而嗜文,照芸縑於北窗之雪。率青衿而勸學,編柳絮於東峰之煙。

    『前賢故實』大江舉周



【後朱雀朝】和邇部用枝(わにべのもちえ)



 和邇部用技。伶官也。特善篳篥。
 志賀僧正明尊,月夜泛管絃、和歌、唄物之三舩于湖為宴遊。時群伶相謂曰:「僧正惡聽篳篥,用枝不可以乘。」用枝曰:「我亦知之。只欲為打物耳。」強乘舩出。更深興酣,用枝竊出篳篥浸水,諸人咎之。用枝曰:「濯手已。」少焉,卒然吹之。其音瀏亮,殊盡祕曲。眾人失色。僧正感泣曰:「我平生誤厭其聲。正教云:『篳篥學伽陵頻迦之聲。』今夜始知其音妙矣!」纏頭歸用枝一人云。後僧正每語此事,亦泫然矣。

『前賢故實』和邇部用枝



【後朱雀朝】藤原實資(ふぢはらのさねすけ)


 藤原朝臣實資,清慎公孫。
 博識好詩賦。當時權臣擅威福,舉朝阿附。實資獨守正,挺然無所屈撓。帝亦陰倚賴之。世稱後小野宮賢右府。歷任九朝,其所日錄百餘卷,名小右記。後朱雀帝見庶官衣柚漸闊不悅,與實資謀。實資曰:「請臣先受罪,以懲其餘。」停朝杜門數日,爾後朝衣無敢踰矩者。又有人在省中暴死,實資令吏曰:「出屍應從東陳。」諸人欲觀其屍,盡聚東。然後更命從西陳出。乃迎尸者在外,輿而去,竟無一人見醜狀者。藤原隆家破力伊也,以敕符未到而發兵。朝議欲不加賞焉。實資駁之,折公任、行成等言。賞遂行。
 後冷泉帝永承元年,薨。年九十。

 前中納言隆家、雲林院の花見に(まかり)て、(なが)しかりける枝を折りて見せに遣したりければ 【續古今 1534

    折節(をりふし)の 行方(ゆくへ)(いま)は ()らぬ()に (はる)こそ(かか)る (はな)()えしか

    『前賢故實』藤原實資



【後朱雀朝】源賴信(みなもとのよりのぶ)




 源朝臣賴信。
 為人剛果明決,練達兵法,與兄賴光並稱。事四朝,歷諸國守,為上野、常陸介,至從四位上。其在上野,右兵衛尉藤原親孝縛盜于家,盜脫械遁出,劫質親孝兒,據壺屋,擬刃其胸。親孝驚悲,不知所為。走見賴信,泣訴之。賴信笑曰:「勇士臨事,不顧妻子。汝何怯懦,徒為兒女態乎。」即往視之。盜屏息不仰視,捉兒益急。賴信叱曰:「汝欲殺兒乎?」盜曰:「我豈敢。茍為活命地耳。」賴信曰:「然則速舍之,我不汝殺。若不從吾言,則並殺之爾。」盜懾伏從之。親孝請斬之,賴信不許曰:「彼窮為盜,貪生劫兒。不忍深罪也。且我己與彼約,豈可食言哉。」乃與之衣糧而去。平忠常之亂,朝廷遣將討之,久而無功。命賴信代將,一戰破降之。
 永承三年,卒。年八十一。

『前賢故實』源賴信



【後冷泉朝】安倍則任妻(あべののりたうがつま)





 安倍則仕妻。不詳姓氏。  康平中,源賴義討安倍氏,則仕妻見軍敗,告其夫曰:「夫子亦將不免,妾義不獨生。請致死于君前!」乃抱其兒,躍投深淵而死。眾軍為流涕焉。

『前賢故實』安倍則任妻



【後冷泉朝】清原武則(きよはらのたけのり)


 清原真人武則。出羽北山人。
 源賴義討安倍貞任,徵兵武則及其兄光賴。康平五年,武則率子弟一萬餘人,會賴義于陸奧。武則誓師曰:「其志在立節,不顧殺身。若不致死力者,神明殛之。」將士感激,臨戰屢逮策敗貞任。及官軍進至鳥海柵。賴義謂武則曰:「得入此柵,實卿之力也。卿卒子姪先諸軍,被堅執銳,自當矢石。蹈陣拔城之功,可謂大矣。」武則拜謝。既而賴義合兵圍廚川柵,官軍不利。武則急令解其一面,縱出之。賊大潰。官軍逆擊之,無得脫者。遂滅貞任。
 六年,朝廷賞其功,授從五位下,拜鎮守府將軍。

『前賢故實』清原武則



【後冷泉朝】安倍宗任(あべのむねたう)




 安倍宗任。貞任之弟。武力絕人。
 康平五年,貞任伏誅,宗任降。義家愛其勇悍,乞官以為從兵。宗任畏服,事無二。一夜義家至或女家,宗任獨從,留在中門。其夜雨暗雷鳴,有盜數十人,踰矩窺門。犬吠自中門出。宗任試以蟇目小箭射之,二發皆中。犬吠且走。義家在妻戶內,問:「誰?」應曰:「宗任。」義家曰:「何注矢之輕噪?」盜聞驚愕曰:「八幡公與宗任在!」跼蹐去。

『前賢故實』安倍宗任



【後冷泉朝】源經成(みなもとのつねなり)



 源朝臣經成,代明親工曾孫。為參議、檢非違使別當。
 一日,將戮盜濱人丸,僧惟尊為說報應。經成辨而排之,為尊語塞而退。左獄火,吏請縱囚徒。經成曰:「是皆犯禁被繫留者,今罹天刑,固其所也。」既而火熾,囚徒叫號焚死。
 康平中,中納言闕,經成冀望之,禱石清水神。謂祠官曰:「我理刑獄,多殺人。願以此報,得為納言。」祠官曰:「神惡殺,以殺人之多祈福,恐不可。」經成曰:「為國除惡,未嘗枉法徇私,豈謂好殺乎。儻所為而有冤枉,神其不受。」果為納言。後又進正二位。薨年五十八。

『前賢故實』源經成



【後三條朝】藤原正家(ふぢはらのまさいへ)



 藤原朝臣正家,博覽多識,與大江匡衡齊名。
 後三條帝即位初,宮中火,帝倉卒出南殿。正家走出內侍所御寶,又引出右近陳輿迎帝。帝見其才幹過人,未知為誰,問其名。正家跪曰:「左少辨正家。」帝曰:「汝是辨官,宜侍左右。」時人稱其機警。

 承歷二年內裏歌合に詠める 【千載集 306

    夕慕(ゆふく)れば 小野萩原(をののおぎはら) 吹風(ふくかぜ)に (さび)しくもあるか 鹿(しか)()くなる

    『前賢故實』藤原正家



【後三條朝】源隆國(みなもとのたかくに)

 源朝臣隆國,權大納言俊賢之子,顯基弟也。
 累官至權大納言。性甚畏暑,晚年買別野於宇治。每夏月休暇,往居焉。不論往來人識與不識,皆招之壄,自隔障而坐,聽其談話至方俗閭巷小事,必錄之。積而成表,曰今昔物語,又曰宇治拾遺。
 承曆元年,薨。世稱宇治大納言。三子隆俊、隆綱、俊明,皆名于世。

 後冷泉院御時、皇后宮歌合に詠侍(よみはべり)ける 【千載集 006

    山里(やまさと)の 垣根(かきね)(はる)や ()るからむ (かす)まぬ(さき)に (うぐひす)()

    『前賢故實』源隆國



【後三條朝】源隆俊(みなもとのたかとし)

 源朝臣隆俊,大納言隆國長子。累官至權中納言。
 父嘗在後冷泉帝時,恃寵頗倨。後三條帝在儲位,常啣之。及即位,欲逞怒于其子。當隆俊入直,帝竊窺之,視其正笏端坐行事于陣營,恪勤有才幹。帝嘉嘆曰:「是未易得才也。棄而不用可乎!」進正二位。
 承保二年,薨。年五十一。

 蟬鳴宮樹深 【殿上詩合 017

    聞蟬盡日足相驚 宮樹深間幾許鳴 御柳滋時吟未止 禁松暗處韻彌清
    哥幽翡翠簾中曲 琴咽綺羅帳底聲 嘶露響高應賞翫 仙圍今得動皇情

    『前賢故實』源隆俊



【後三條朝】源隆綱(みなもとのたかつな)


 源朝臣隆綱。隆國仲子也。任參議兼右近衛權中將。
 初後三條帝以父故憎之,以謂:「彼年少居清要,唯因關白賴通偏愛耳。」後籐原仲季射白狐於齋宮,庭臣議其罪。或曰:「狐已死。」或曰:「未也。」隆綱抽筆書囐曰:「曾有飲羽之號,未見首丘之實。」帝讀之曰:「」才藻如彼,其榮進非僥倖也。遂得親任。
 承保元年,薨,年四十二。

 御冷泉院御時、殿上人旅歌詠侍(うへのをのこどもたびのうたよみはべり)けるに 【新古今 922

    葦葉(あしのは)を 刈葺(かりすく)倭文(しづ)の 山里(やまさと)に 衣難(ころもかた)しき 旅寢(たびね)をぞする

    『前賢故實』源隆綱



【後三條朝】源俊明(みなもとのとしあき)

 源朝臣俊明。隆國季子。
 任侍從,兼左近衛少將。延久中,禁內火,帝倉皇出避,眾救火闌內。殿陛擾亂,乘輿不得前。俊明排眾直入,手弓矢護衛,驅逐眾令退。。帝大嘆賞曰:「微俊明,朕幾被辱。」於是宿怒悉霽,眷遇無比。
 白河帝朝,中宮藤原氏崩,帝悲哀過甚。俊明入諫,言甚剴切。帝脫屣,仍與聞機務,抽俊明為院別當。執政大臣,莫不憚之。承德中,任正二位權大納言。永久二年,薨,年七十一。
 俊明諳悉朝章,每有大禮,或偶忘攜儀注,則臨時以意推行,毫無違失。

 應德元年三月、中殿にで花契多春と云ふとを読せられけるに 【續後撰 1541

    (きみ)()の (はる)(ちぎ)れる 花是(はなな)れは 又行末(またゆくすゑ)の 限無(かぎりな)(かな)

    『前賢故實』源俊明



【白河朝】源賴義(みなもとのよりよし)

 源朝臣賴義。賴信子,小名三代丸。
 性沉毅勇決,好愛士,有將帥之器,拜鎮守府將軍。少時從于父,討平忠常有功。阪東將士多屬意焉。其為相模守,恩威並行。剽勇之士,皆歸之。
 永承中,征安倍賴時及其子貞任。攻戰九年,陸奧悉平。
 永保二年,卒。年八十八。世稱伊豫入道。
 性又工畫,幼時戲畫不動像於中門廓壁。有識畫者,視之大驚異曰:「是謂天骨,非人所及!」

 題不知 【神明鏡】

    (みやこ)には (はな)餘波(なごり)を 留置(とめお)きて 今日下柴(けふしたしば)に (つた)白雪(しらゆき)

    『前賢故實』源賴義



【白河朝】僧良秀(そうよしひで)






 僧良秀,繪佛師也。人稱曰近世妙手。
 一夜比降失火,時風猛焰熾,煙覆良秀家,良秀不為搬出貨物,凝立戶外,獨抗聲曰:「得意!得意!」偶訪此災者,來見駭然曰:「是非驚悸而發狂者乎?」良秀曰:「何為其然也?我常畫不動尊後焰,有位滿意者。今始得其肯燦矣。得意!得意!」不顧家之灰燼,大笑而去。

『前賢故實』僧良秀



【白河朝】源師房(みなもとのもろふさ)



 源朝臣師房,初名資定,具平親王長子也。
 甫二歲,王奇之曰:「稚兒不凡,有將軍相。後必為大將。」及長,才識博恰,善屬文,兼工和歌。關白賴通,約為父子,以其妹妻之。或有竊言其醜者,師房曰:「夫婦者,暫時偶合。美惡悉足以累新哉。」
 寬仁四年,賜姓源朝臣。歷左右近衛大將,累遷陞從一位太政大臣。薨年七十。

 山に(むか)ひて月を待つと()へる(こと)()める 【金鏡、金葉集 208

    有明(ありあけ)の 月待程(つきまつほど)の 轉寢(うたたね)は 山端(やまのは)のみぞ (いめ)()えける

    『前賢故實』源師房



【白河朝】藤原俊家(ふぢはらのとしいへ)



 藤原朝臣俊家,家號大宮。堀河右大臣賴宗子。
 至正二位右大臣。嘗方春時宿直,早晨未整裝束,偶出南殿觀櫻花。曉月半沉,北山煙橫,不勝其幽趣,憑御階高欄,拍扇為曲度,謠櫻人之曲者數闋。時伶官多政方在陣直,聞之直來花下,舞地久之破。舞訖,將入陣,俊家轉謠蓑山,政方即旋回,折櫻花一枝再舞地久之急。一時無人不稱二人風流者。俊家,永保二年薨,年六十四。

 後冷泉院の御時、九月十三夜月の宴侍りけるに詠侍(よみはべり)ける 【千載集 336

    澄水(すむみづ)に 清影(さやけきかげ)の (うつ)ればや 今宵(こよひ)(つき)の ()(なが)るらむ

    『前賢故實』藤原俊家



【白河朝】丹波雅忠(たんばのまさただ)



 丹波宿禰雅忠,阿知使主裔也。
 世居丹波,曾祖康賴賜丹波宿禰,以醫術著,任又兵衛門佐,兼針醫博士,著醫心方三十卷上之。祖重明,父忠明,後先皆為典藥頭。
 雅忠蚤年有名,亦為典藥頭,任右衛門佐。永承中,帝不豫。雅忠進藥有效,褒授從四位下。承曆中,高麗王寢疾。王附商舶牒太宰府,以厚幣求雅忠。朝廷不許。自是聲名益著。

『前賢故實』丹波雅忠



【堀河朝】鎌倉景政(かまくらのかげまさ)


 鎌倉景政。平氏,稱權五郎。
 寬治五年,從鎮守府將軍義家,攻仙北金澤城。景政年甫十六,先登稻陣,賊矢貫目,即逐自射殺其賊。
而後使三浦為次(平太郎)拔其矢,為次腳及其面。景政勃然將自下剌之。為次駭退咨其故。景政曰:「勇士縱到于死,安忍使人踏面乎!」為次畏服,跪而拔去。為次亦以勇武鳴于時者。

『前賢故實』鎌倉景政



【堀河朝】豐原時元(とよはらのときもと)



 豐原時元,時光之子。世為伶官矣。
 堀河帝寬治五年,源義光潛行赴于奧,將助其兄義家討賊焉。先是,義光學笙時光,時光臨沒,時元尚幼,未堪授祕曲,乃授之義光。至是,時元馳至驛路,請與俱。義光謝去之。不肯。行及足柄山,辭喻再三,猶未肯。義光忽悟其意,山中布楯二板分坐,乃空穗中出時光所書祕曲譜示之。時元出笙,悉傳其曲,告別拜謝而去。

『前賢故實』豐原時元



【堀河朝】僧某(そんなにがし)

 僧某。不詳名字。
 事母至孝。家甚貧,其母嗜生魚。無則不能下箸。僧常買而羞焉。時白河上皇嚴禁屠殺,不能得魚。母頗絕食,疲憊幾死。僧不堪悲惋,自往桂河捕魚。巡吏執之,并魚送于官。法司鞠問,僧悲泣曰:「法之所禁,誰不遵守。況身在釋門,破戒之罪不可逭。但母老且病,非肉不食。故至于是。今雖放此魚,不可復生。幸餽母所,閒一下箸。則雖身萬段,非所憾。」辭意懇切,吏卒皆感動。上皇聞之,賜金帛赦還。

『前賢故實』僧某



【堀河朝】源經信(みなもとのつねのぶ)

 源朝臣經信,民部卿道方第六子。博識多藝,尤妙歌。
 永保初,為民部卿,尋轉權大納言,兼皇后宮大夫。寬治中,敘正二位。嘉保元年,為太宰權帥。二年,赴府。路宿筑前筵田驛,會中秋,亭傍有親樹,遮蔽月輝。經信命伐之,通宵彈琵琶朗吟。其風致率如此。
 承德元年,薨于府,年八十二。其野在桂里,故世稱桂大納言。
 嘗有韋有人射狐于祠頭,庭議將罰之。經信從容謂曰:「白龍魚服掛豫且之密網。」由是其人得免焉。承保三年,白河帝大井河三絃舩御遊,乘管絃舩,又獻詩歌,尤膾炙人口。

 松月夜涼生 【殿上詩合 014

    月照青松夜漸深 自生涼氣望沉沉 五更雪冷鏁煙色 百尺霜寒學雨音
    穿蓋清光宜展簟 透枝素影好開襟 今逢靈樹迎晴夕 永契仙庭遊宴心

    『前賢故實』源經信



【堀河朝】藤原通俊(ふぢはらのみちとし)


 藤原朝臣通俊。太宰大貳經平次子。
 學兼和漢,深達政術。白河帝最重其才,常曰:「若通俊、匡房,雖古名臣不能遠過焉。」通俊以長和歌自負,與源經信、大江匡房等屢相論難。後奏請撰後拾遺和歌集,又作續新撰和歌集。進至權中納言從二位。
 承德三年,薨。年五十三。

 郁芳門院の歌合に菊を詠める 【金葉集 241

    (さかり)なる 籬菊(まかきのきく)を けさみ(今朝見)れば ()(そら)さえぬ (ゆき)(ふり)ける

    『前賢故實』藤原通俊



【堀河朝】藤原師通(ふぢはらのもろみち)

 藤原朝臣師通。
 稟性豁達,勤學不倦。博通百家,兼工篆隸。從大江匡房受經史,又學琵琶于經信,有藍冰之譽。累遷任內大臣,為關白,敘從一位。師通好賢愛士,每進文學之士,黜勢利之徒。嘉保、永長間,天下肅然。
 康和元年,瘡發而薨。年三十八。世舉惜焉,稱二條關白。

 暮夏(くれのなつ)、有明の月を詠める 【後拾遺 230

    夏夜(なつのよ)の 有明月(ありあけのつき)を ()(ほど)に (あき)をも(また)で (かぜ)(すず)しき

    『前賢故實』藤原師通



【堀河朝】源義家(みなもとのよしいへ)

 源朝臣義家,賴義長子也。小名源太。
 敘正四位下,任鎮守府將軍、左馬權頭。初賴義夢八幡大神賜劍,既而妻有身,生義家。賴義悅曰:「此兒必大興我家!」年甫七歲,加首服於石清水神宮,號八幡太郎。勇武明決,騎射如神。嘉保三年,上病瘧,詔義家夜直寢殿,手鳴工絃者三,上病立癒。義家從父在陸奧軍,清原武則蹲堅甲三領為的,請試其弓力。義家一發洞冠三甲。武則益畏憚之。又一日,詣藤原賴宗家圍棊,從僕唯一人。會有狂人,拔刀趨庭。聞義家在,棄刀就縛。義家從士數十人,忽來擁之而出。其有武備常如此。奧羽前後戰,其功最多。
 長治二年,卒,年六十七。

 陸奧國(みちのくに)(まかり)ける時勿來關(なこそのせき)にて花の(ちり)ければ()める  【千載集 103

    吹風(ふくかぜ)を 勿來關(なこそのせき)と (おも)へども (みち)()()る 山櫻哉(やまさくらかな)

    『前賢故實』源義家



【堀河朝】大江匡房(おほえのまさふさ)

 大江朝臣匡房,為正二位權中納言。大父舉周、父成滿,世稱名儒。
 匡房自幼穎悟。四歲始讀書,八歲通史漢。十一歲,源師房命賦雲裡春松貞詩,匡房援筆立成。師房奇之,進呈後冷泉帝。帝感賞,賜學料。關白賴通創平等院于宇治,與師房往而歸度大門。賴通問師房:「寺門向北,古亦有諸?」曰:「不知。」匡房尚幼,從在後,曰:「天竺那蘭陀寺、震旦西明寺、本邦六波羅蜜寺,皆向北。」賴通歎賞之。而文辭不及父祖。至于才學優長,博覽談通,則獨步當時。最留意國家典章,旁通兵學。後三條帝為太子時,導以修德治國之要。即位,荐革弊政,天下大治。白河帝赤特擢用之。
 天永二年,薨。年七十一。

 對月獨詠 【本朝無題詩 149

    三五秋天乗月興 心情彌動感方同 金環多落黃輿上 玉鏡高瑩玄蓋中
    萬嶺降霜光遠至 一家散雪色遙通 桂華蓂草開生後 皓皓蒼蒼昇碧空

    『前賢故實』大江匡房



【鳥羽朝】源俊賴(みなもとのとしより)



 源朝臣俊賴,大納言經信第三子。
 仕堀河、鳥羽、崇德三朝,任右近衛少將,進從四位上。為人溫厚多才,尤善和歌,刻意精練,一時推尚焉。藤原實行嘗與藤原長實,論躬恒、貫之和歌優劣。往復數次,不能決。遂質之俊賴。俊賴點頭曰:「躬恒不可輕視。」長實曰:「然則貫之劣乎?」俊賴復曰:「躬恒不可輕視。」

 百首の歌の中に述懷の心を詠める 【金葉集 585

    世中(よのなか)は 憂身(うきみ)()へる 影是(かげな)れや 思捨(おもひす)つれど (はな)れざりけり

    『前賢故實』源俊賴



【鳥羽朝】源雅實(みなもとのまさざね)

 源朝臣雅實,右大臣顯房之子。
 少歷清貫。白河天皇即位,任參議。永保二年,權中納言。應德三年,轉權大納言。康和、長治間,拜內大臣,兼左近衛大將、皇太子傅。鳥羽天皇即位,敘從一位,遷右大臣。保安三年,拜太政大臣。特敕在關白上。源氏有是拜,始于此。
 天治元年,辭官。二年,薨。年六十九。稱九我。雅實撲直敢言,白河帝憚之。父顯房亦每省視,為改容。最為一時所重。

 (ゆき)御幸(みゆき)(おそ)(まゐり)ければ志きりに(おそ)(よし)、御使を(たま)はりて仕奉(つかうまつ)れる 【金葉集 290

    朝每(あさごと)の (かがみ)(かげ)に (おも)なれて 雪見(ゆきみ)むとしも (いそ)がれぬ(かな)

    『前賢故實』源雅實



【鳥羽朝】藤原為隆(ふぢはらのためたか)



 藤原朝臣為隆。參議為房子也。
 資性倜儻,才器軼人。白河帝朝,補藏人。嘗奏事,端緒頗多。帝有倦色,起欲入內。為隆佯為不知,特奏申請天裁事。帝遽復御座,因得盡其奏。任參議,轉左大辨,敘從三位。堀河帝時,使于伊勢,還奏事。帝方吹笛弗顧,為隆退奏上皇曰:「上似有不豫。請禱之。」上皇驚召內侍問之,曰:「不知。」乃詰為隆。對曰:「臣嚮奏大神宮事,上吹笛不顧。苟非沴邪為祟,豈宜如此?」帝聞大愧。
 大治五年,薨。年六十八。稱坊城。

『前賢故實』藤原為隆



【崇德朝】平忠盛(たいらのただもり)

 平朝臣忠盛,貞盛六世孫也。
 歷事鳥羽、崇德、近衛三朝。敘從四位上。大治中,山陽、南海二道海賊起,忠盛奉敕捕之有功。天承元年,鳥羽上皇創得長壽院,忠盛掌其事,擢刑部卿,聽昇殿。上皇殊寵之,群僚忌嫉,將以豐明節陰圖焉。忠盛聞之曰:「家門雖衰,世為武臣。儻受辱,則隕家聲。避而不朝,則得怯儒之議。」乃製木刀塗銀。既昇殿,暗中抽之,揮攉再三,光芒如冰。群僚駭懼,謀遂不行。及退朝,解刀授主殿司而歸。既而群僚奏言。忠盛擅帶劍上殿,請處罪。上皇驚,召忠盛問之。忠盛稽首謝曰:「臣所佩者,即附主殿司,請按揄之。」於是取刀視之,乃木刀也。上皇歎曰:「良將用意,固當如此。勿以為罪。」
 仁平三年,卒。

 白河院七月七日(かく)れさせ給ひにければ詠侍(よみはべり)ける 【玉葉集 2397

    (また)()む (あき)()つべき 七夕(たなばた)の (わか)るるだにも 如何悲(いかがかな)しき

    『前賢故實』平忠盛



【崇德朝】平家貞(たいらのいへさだ)




 平朝臣家貞。貞盛之裔,子孫世屬宗家。
 家貞任筑後守,方豐明節會,群僚將辱忠盛。家貞衷甲橫刀,進候于階下。藏人頭源師俊呵卻之。家貞不肯曰:「臣是忠盛之從士,有所聞而來,以備非常。」瞋目仰視,銳氣勃勃。眾意大沮,不敢發。忠盛亦用詭計,竟得免焉。平治中,清盛如熊野,路聞信賴之亂,倉卒憂乏器仗。家貞出其所齍長櫃五十具,鎧冑弓箭皆具。人服其用意周密。

『前賢故實』平家貞



【崇德朝】源師賴(みなもとのもろより)

 源朝臣師賴。左大臣俊房子也。
 俊房練達政事,自祖具平親王,三世相繼有文才。兼能書,殿門扁榜,多其所書。師賴亦博識強記,有和漢才,受業大江匡房。堀河帝朝,進任參議,兼右兵衛督。源基綱、藤原宗忠等,以後進超為中納言,師賴不平,家居數年。崇德帝以天變敕諸博士言所以禳之,皆言:「宜起才能之士。」於是,用師賴任中納言。就職後行釋奠禮。藤原成通勞曰:「公久家居,不從公務。宜臨事恐防失誤。」師賴顧曰:「入太廟每事問耳,無復他語。」成通愧悔焉。亡何,至正二位大納言。保延五年夏,旱。使師賴祈雨丹生貴布禰祠。是日,大內記有故不會。少內記文屋相永攝事不能;作宣命。師賴代書,退曰:「吾宣命必應得神感。」果雨降三日。
 是年,薨。稱小野宮。

 百首の歌の中に五月雨(さみだれ)()める 【金葉集 197

    五月雨(さみだれ)に (ぬま)岩垣(いはがき) 水越(みづこ)えて 真菰刈(まこもか)るべき (かた)()られず

    『前賢故實』源師賴



【近衛朝】小大進(こだいしん)

 小大進。鳥羽宮侍女。
 性至孝,有姿色。有人譖之曰:「竊待賢門院御衣。」小大進不能自明,乃詣北野菅神祠,作祭文及和歌,禱雪其冤。此夜,法皇夢神人曰:「臣是北野右近馬場之翁也。有一奇事,賜御使,乃顯然矣。」既醒,賜御馬于北面士,馳使赴北野。士至祠頭,見小大進悲泣俯伏,側有紅薄樣紙書詠歌者。士乃取還而上焉。時南殿前庭有狂女,被所失御衣作獅子舞,是雜仕敷島也。盜已發覺,即直召小大進。復曰:「雖一時誣衊,賤妾深愧之。」遂不再入宮,閑居仁和寺。

 其歌(そのうた) 【十訓抄】

    思出哉(おもひいづや) ()名立(なた)()は ()かりきと 現人神(あらひとがみ)に (なり)(むかし)

    『前賢故實』小大進



【近衛朝】藤原敦光(ふぢはらのあつみつ)

 藤原朝臣敦光。式部大輔明衡子也。
 少年對策及第,仕堀河、鳥羽、崇德三朝,歷式部亟、大內記,兼文章博士,遷大學頭,轉式部大輔。保延元年,屢有災異。詔諸儒言得失。敦光乃上疏,援引弘博,言亦切至。蓋其學談內外,靡所不窺。故當時文章,必使敦光起草。
 天養元年,卒。

 修理大夫顯季行供影事 【古今著聞集 178

    風吹(かぜふ)けば (なみ)とや(あき)の (たた)ぬらむ 汀涼(みぎはすず)しき (なつ)夕暮(ゆふぐれ)

    『前賢故實』藤原敦光



【近衛朝】藤原公教(ふぢはらのきみのり)


 藤原朝臣公教。太政大臣實行子也。
 資性勤儉,淡于榮利。至正二位內大臣薨。嘗與客相對,會有飛碟撲窗格。客驚愕。公教顧問家人曰:「何人所為?」對曰:「鄰家少將。」公教笑曰:「此危地,不可居。」乃移坐。礫復至,公教徐曰:「可怖哉。」談笑自若,毫無慍色。初為少將時,每夕候鳥羽上皇及待賢門院,晷刻有常。故宮女以日暮,為少將時。

 由緣無(つれな)かりける人の(もと)逢由(あふよし)の夢を見て(つか)はしける 【金葉集 417

    轉寢(うたたね)に (あふ)()つるは (うつつ)にて (つら)きを(いめ)と (おも)はましかば

    『前賢故實』藤原公教



【近衛朝】源賴政(みなもとのよりまさ)

 源朝臣賴政。攝津守賴光五世孫,兵庫頭仲政子。
 累進至從三位,有將略,便弓馬,又工和歌。
 仁平三年四月,上不豫,有怪焉。每夜鳴寢殿屋上。賴政奉敕,暗中一矢斃之。其形猿面狸背虎足虵尾,甚可惡。上病乃癒。感賞賜御劍及宮女。先是,賴政微見宮女菖蒲,眷懷經年,上亦聞之。是時,欲賜之。便試飾美色宮女三人,雜菖蒲其中,召賴政令自擇焉。賴政恐其誤認,即作歌陳意。上深感其敏妙,乃以菖蒲賜之。

 宇治左大臣 【平家物語

    郭公(ほととぎす) ()をも雲井(くもゐ)に ()ぐる(かな) 弓張月(ゆみはりつき)の ()るに(まか)せて

    『前賢故實』源賴政



【近衛朝】藤原清輔(ふぢはらのきよすけ)

 藤原朝臣清輔。
 顯輔奉任四朝,至參議正三位。和歌之工,為一時翹楚。奉敕撰詞花集。清輔最善和歌,論者以為師表。至四位下太皇太后官大進,兼長門守。用心歌學,日夜鑽研,未嘗倦焉。承安二年,設尚齒會於寶莊嚴院。會者七人,藤原敦賴年八十三,神祇伯顯廣王七十一,前石見介祝部成仲七十四,式部大輔藤原永範七十一,右京權太夫源賴政,及清輔六十九,散位大江維光六十三,皆當時有名之人。各詠和歌,清輔自作序,世傳為盛事。先是,奉二條帝敕,撰續詞花集。所著有奧儀抄、初學抄、一字抄、牧笛抄、袋草子、和歌題林等。
 治承元年,卒。

 尚齒會の(とき)(うた) 【暮春白河尚齒會和歌

    散華(ちるはな)は (のち)(はる)とも ()たれけり (また)もくましき 若盛(わかさか)りかも

    『前賢故實』藤原清輔



【近衛朝】藤原成通(ふぢはらのなりみち)

 藤原朝臣成通,權大納言宗通第四子。至正二位權大納言。
 性酷號蹴鞠,疾則在臥蹴之,雨則入大極殿竊蹴之。或使七八人並坐,踰肩踏頭而蹴之。人不覺靴之觸,皆曰:「如鷹在臂,如笠在頭也。」或蹴之臺盤上,不復聞靴音。或蹴之清水寺舞台檻上,視者危懼失色,成通徐步,若履坦途。又試揚鞠,如有颷風助勢,飛騰入雲,不見其所墬。天性甚輕捷,能走牆腹。嘗蹴鞠庭上,鞠忽迸入簾內。成通隨入,會父宗通在座。成通恐踏席,受鞠蹴上,翻身躍而出。其輕捷如此。
 平治元年,薨,年六十三。

 侍從大納言成通以今樣治靈病事 【古今著聞集 266

    (いづ)れの(ほとけ)の (ねか)ひより 千手(せんじゅ)(ちかひ)ぞ (たの)もしき
    (かれ)たる草木(くさき)も (たちまち)に 花咲(はなさ)實生(みな)ると ()きたれは

    『前賢故實』藤原成通



【後白河朝】源為朝(みなもとのためとも)




 源朝臣為朝,世稱鎮西八郎。為義之第八子。
 身長七尺,志氣豪雄,膽力過人。右手偏長四寸,射藝絕倫,強弓長箭,世所不及。年十三,居豐後,與婦阿曾三郎平忠國謀,西侵州郡。大小二十餘戰,拔城十五,遂霸九洲。朝廷使為義召之,不來。為義坐之解官。為朝慨然曰:「陷父於罪辟,不孝莫大焉。」輙自詣闕待罪。朝廷壯其志赦之。保元亂,為朝隨父屬上皇,臨戰無虛發,或一矢斃二三人。敵皆畏縮焉。亂平後,斷手筋,放之伊豆大島。治療五十餘日,疪愈膂力不減,注矢長於舊。居數歲,復起侵略諸島。嘉應二年,狩野介茂光奏討之。舳艫相銜而來,為朝以巨箭射一舩,透貫舩腹,舩即沉沒。眾懼不敢進,為朝一笑而去,不知所終。或傳自殺于島中。為朝所至諸島,立祠至于今祭之。

『前賢故實』源為朝



【後白河朝】藤原宗輔(ふぢはらのむねすけ)

 藤原朝臣宗輔,從一位太政大臣。
 性好飼蜂,蜂亦隨意指。一日在鳥羽殿,蜂巢遽落于廊廡,群蜂飛近于御床。宗輔徐採盤中枇杷,以琴爪剝其皮,手擎之。蜂皆集之,不敢亂飛。乃使人徹之。眾人歎服,法皇亦大感焉。又一日,朝退還家,月朗風清,車中取笛吹陵王亂序,至近衛萬里小路。時有一少人,著陵王之服,采舞車前,迴旋尤奇絕。宗輔駐車倚榻盡一曲。曲畢少人入東隅神祠而不見。時人稱:「宗輔笛使神感動。」
 應保二年,薨。年八十六。

 (いま)だ位(あさ)かりける(ほど)に雲居寺の程を過られけるに、膽西上人の家を()きけるを() 【今物語 021

    (ひじり)()をば 目隱(めかく)しに()

          上人
        天下(あめのした)に ()りて()こゆる(こと)()

    『前賢故實』藤原宗輔



【二條朝】平賀義信(ひらがのよしのぶ)




 平賀義信,一稱大內四郎。刑部亟義光孫,盛義子也。
 平治之亂,義信屬源義朝,攻六波羅不利,平軍尾擊甚急。義信挺身反鬭,義朝嘉歎其勇壯。既而與義朝謀,分路而去。臨別問其所之,義朝曰:「余欲適尾張依長田。」義信曰:「忠致趨時規利,恐不能庇公。」義朝不用,遂為忠致所戕。賴朝之興,首錄義信舊勳,拜武藏守,至從五位上。義信在州有政績,深得民心。去職之後,民庶無不思慕。

『前賢故實』平賀義信



【二條朝】源義平(みなもとのよしひら)

 源朝臣義平。義朝長子也。
 世稱惡源太,驍勇絕倫。及平治亂起,義平從鎌倉馳赴京師。信賴欲授官,義平辭,且曰:「願假我少兵,擊青盛于安部野,必鏖盡之。」信賴不許。清盛己到討信賴,重盛攻入待賢門。信賴惶怖,不能排陣。義朝怒,令義平當之。義平僅從十六騎,與重盛大戰大庭掠樹下。戰七八合,重盛不能支,引退大宮,再率生兵五百攻。義平又討破之。遂出港大衝擊之。重盛落馬,兜鍪墬地。鎌田政家迫之,與三左衛門景安死之。重盛得退。己而義朝敗績,義平將自殺。亦以為:「深讎未復,丈夫豈徒死乎。」匿居三條烏丸,覬覦平族。清盛知之,遣難波經房,率其兵三百圖之。義平拔刀躍出,立斬數人,跳登屋上,忽爾不見。經房空歸。義平草次露宿,覘平氏,備嘗艱苦。覔故舊于東近江,途過逢坂,困臥山中。會經房至,以兵五十圍之,義平起應之。經房射中其臀。兵眾垜堆,遂虜之。清盛面之曰:「卿嚮被圍于烏丸,能破三百騎而出。今為五十兵見虜,何哉?」義平笑曰:「是命也。卿亦運衰,遂至于此。速斲矣!」臨刑,顧經房曰:「汝善斬。否則我為雷殺汝。」未幾,經房果震死。

『前賢故實』源義平



【二條朝】夜叉(やしゃ)






 夜叉。左馬頭義朝女也。
 義朝嘗每朝京師,宿美濃青墓驛長大炊家,嬖其女延壽,生一女,及夜叉也。
 及義朝敗走,異母兄賴朝來青墓,舉家喜迎,厚遇之。既而賴朝被執于平氏,夜叉啼哭曰:「我雖女子,亦先君之胤也!他日或受辱。不如今與兄同死!」乃將走出。眾百萬諭止之。後卒竊赴水而死,時年十二。

『前賢故實』夜叉



【二條朝】源重成(みなもとのしげなり)澀谷金王(しぶやのこんおう)鷲栖源光(わしすのげんこう)

 源重成、澀谷金王、鷲栖源光。
 源義朝戰敗,赴東國,比至美濃,兵皆潰散。式部亟重成、鎌田政家、澀谷金王等纔從焉。問關卒楚,匿青墓驛富媼大炊家。邑人聞之,群起圍之。重成曰:「我當死於此。」單騎衝突,射殺十餘人,遂入林中,詐稱義朝,自剺其面,刳腹而死。繇是義朝得脫,欲往野間內海。然道路梗塞,不得進。大炊有兄平三真遠,剃髮稱鷲栖源光,素以俠聞。遣政家、金王相謀,源光諾之,具舟載義朝、政家等,積柴覆之。自株瀨川過折戶,津吏疑止之,發矢如雨。源光回舩抵岸,吏入舩搜索。源光意欲令義朝自裁,故謂曰:「義朝雖棄敗,亦從者不下二三十騎,何以竄伏柴舩中。縱在,不為卿等獲,必自殺耳。」吏去。明日,達內海,長田中致待之厚。忠致,政家之婦翁也。而其子景致勸父謀殺義朝、政家。及三日夕,為具湯沐。伏壯士三人於浴室刺之。時金王操兵侍浴,以故不敢發。義朝求浴衣不得,金王自往取之。壯士得間而入,義朝赤手搏仆一人。二人自左右刺殺之。金王走還,立斬三人,與源光覔忠致父子不獲,乃殺傷數十人而去。政家亦遇害。

『前賢故實』源重成、澀谷金王、鷲栖源光



【二條朝】鎌田政家妻(かまたのまさいへがつま)





鎌田政家妻。長田莊司平忠致女也。平治元年,源義朝兵敗,將走關東,抵尾張投忠致家。忠致殺義朝併婿政家。政家妻聞變,至夫死處,哀慕悲慟,遂伏政家之刃而死。

『前賢故實』鎌田政家妻



【二條朝】藤原伊通(ふぢはらのこれみち)


 藤原朝臣伊通。右大臣俊家孫也。
 永曆中,拜太政大臣。當時紀綱陵夷,憲張弛廢。伊通深憂焉,作異見一篇上之。 其略曰:「聖主不棄人,各取其所長。猶良工選材,曲者輪之,直者轅之。夫如是。故世無有遺才。」其言頗切時務。性亦好諧謔,藤原信賴起亂,圍三條殿,宮人多赴井而死者。事平,武士以功任官。伊通笑曰:「殺人者皆拜官,三條殿井亦與賞典。」其滑稽率如此。  永萬元年,薨,年七十三。稱大宮大相國。

 落花隨風と()ふ心を()める 【金葉集 093

    (うら)やまし 如何(いか)()けばか 春風(はるかぜ)の (はな)(こころ)に (まか)(そめ)けむ

    『前賢故實』藤原伊通



【二條朝】鴨長明(かものちょうめい)

 鴨長明,稱菊太夫。賀茂神祠祠官。
 通管絃,善和歌。應保中,敘從五位下,後鳥羽上皇招為和歌所祭人。後剃髮為僧,改名蓮胤,入大原山。時四十。創意作室,方一丈,高不過七尺,柱楹屋廂,皆用鉤鎖,令可開闔。或不適意,移以他住。可載以兩車,遂入日野外山居焉。所有,佛像及書數軸、箏、琵琶,餘無所貯蓄。登山臨水,採擷自給。所著方丈記、瑩玉集、無名抄、發心集、四季物語,行于世。

 隔海路戀と()へる心を()める 【千載集 936

    思餘(おもひあま)り うち()(よひ)の (まぼろし)も 浪路(なみぢ)()けて 行通(ゆきかよ)ひけり

    『前賢故實』鴨長明



【二條朝】源雅定(みなもとのまささだ)

 源朝臣雅定,雅實之二子也。
 生甫九歲,會鳥羽宮有童舞,雅定舞胡飲酒,娟秀閑麗,見者謂為天童。堀河帝脫御衣賜焉。
 保延六年,為權大納言,兼右近衛大將。敕以淳和、獎學兩院別當,永屬雅定家。
 久安五年,拜內大臣。有人往而致賀,門庭闐寂,無他營設。雅定倉卒出見曰:「凡拜大臣者,有大饗等儀,事頗繁瑣。子何必賀之為?」其雅量如此。六年,轉右大臣。常與妻子同居,內行不亂。朝章大典,精練詳悉。
 應保二年,薨,年六十九。世稱中院右大臣。

 修理大夫經盛贈和歌於大納言實國事 【古今著聞集 210

    夕間暮(ゆふまぐれ) 難波堀江(なにはほりえ)に 風吹(かぜふ)けば 葦下葉(あしのしたば)も (なみ)()らるる

    『前賢故實』源雅定



【二條朝】藤原實行(ふぢはらのさねゆき)

 藤原朝臣實行,權大納言公實第二子也。
 天承元年,進正二位。久安六年,拜太政大臣。特許節會,不就班直上殿。後請致仕,薙髮。應保二年,薨。春秋八十三。號八條太政大臣,又號三條。
 才學優長,事親至孝。親有疾,衣不解帶,晨昏侍養。遭父喪,哀毀過禮。藤原基俊來弔,繫和歌于梅樹曰:

 繫和歌于梅樹曰 【今鏡】

    昔見(むかしみ)し 主顏(あるじかほ)にて 梅枝(うめがえ)の (はな)だに(われ)に 物語(ものがたり)せよ
 實行感傷して

    ()(かへ)る 花姿(はなのすがた)の (こひ)しくは 直木許(たゞこのもと)を 形見(かたみ)とは()

    『前賢故實』藤原實行



【二條朝】藤原忠通(ふぢはらのただみち)

 藤原朝臣忠通,忠實子也。
 資質敦厚,善詩歌。保安二年,內覽太政官文書,為闢白。初忠實為關白,白河法皇以事怒之,密求可代之者,無如忠通。乃召諭曰:「公代父為執政。」忠通曰:「臣家世幸恭袞職,故朝廷命相之日,父亦在家命之。今忠實得罪,屏居隔絕,不得父子相見以成其禮。夫父廢黜。而子登庸,在人子所不能忍。」法皇感動其言聽之。家近皇居,每朝參輙先諸卿。召對所奏,皆有條理。最老典故。
 長寬二年,薨。年六十八。世稱法性寺關白。

 春裏花尤貴 【法性寺關白御集 009

    春裡元來令眼驚 非斯外事貴花情 羽林榮曜迷霞色 宮腋警巡代鳥聲
    魏相論粧風暖後 楊妃假艷日遲程 行人稅駕無空過 一樹猶傳万石名

    『前賢故實』藤原忠通





[久遠の絆]  [再臨ノ詔]