天皇の詔を承りて、我國の大和歌を撰ぶ事、瑞垣の久しき昔より始まりて、菅根の永代代に傳はれり。所謂『古今』、『後撰』の二集のみに非ず。公事に準へて集記されたる例、昔と言ひ今と言ひ、其名多聞ゆれど、九重雲上に召されて久方之月に交はれる輩、此事を承行へる跡は猶稀也。白河の畏御世、諺繁き政に臨ませ賜ひて七十餘之御齡保たせ賜ひし始め、『後拾遺』を撰べる一度なむ有ける。
然るに我君、天下御宇してより以來、十年餘の春秋、四方海立つ頻浪も聲靜かに、七道民草葉も靡悅べり。苅菰之亂れしを治め、秋草之衰へしを興させ賜ひき。秋津島又更に賑ひ天日嗣二度昌り也。唯延喜、天曆之昔、時淳に民豐かに悅べりし政を慕ふのみに非ず。又寬喜、貞永之今、世治まり人安樂しき、言葉を知らしめむ為に殊更に集撰ばるる為らし。
定家、濱松年積り川竹世世に仕奉りて、七十齡に過ぎ二品之位を極めて、下事を聞きて上に容れ、上事を受けて下に述ぶる官を賜はれる時に逢ひて、垂乳根之跡を傳へ古歌の殘を拾ふべき仰事を承るに依りて、春夏秋冬折節之辭を始めて、君御世を祝奉り、人國を治行ひ、神を敬ひ、佛に祈り、己妻を戀ひ、身懷を述ぶるに至る迄、部を分ち卷を定めて、濱之真砂の數數に浦之玉藻搔集むる由、貞永元年十月二日茲を奏す。號けて『新勅撰和歌集』とすと云事然り。
藤原定家
底本:國歌大觀『新敕撰和歌集』
參考二十一代集『新敕撰和歌集』