新古今和歌集 卷第一 春歌上
0001 立春之心を詠侍ける
御吉野は 山も翳みて 白雪の 降りにし里に 春は來にけり
攝政太政大臣 藤原良經
0002 春始之歌
仄仄と 春こそ空に 來に蓋し 天香具山 霞棚引く
太上天皇 後鳥羽帝
0003 百首歌奉りし時、春歌
山深み 春とも知らぬ 松戶に 絕絕え掛かる 雪玉水
式子內親王
0004 五十首歌奉りし時
搔暮し 猶古里の 雪中に 跡こそ見えね 春は來にけり
若草宮內卿
0005 入道前關白太政大臣、右大臣に侍ける時、百首歌詠ませ侍けるに、立春之心を
今日と云へば 唐土迄 行春を 都にのみと 思ける哉
皇太后宮大夫 藤原俊成
0006 題知らず
春と云へば 翳みにけりな 昨日迄 波間に見えし 淡路島山
俊惠法師
0007 【○承前。無題。】
岩間閉ぢし 冰も今朝は 解初めて 苔下水 道求むらん
西行法師 佐藤義清
0008 【○承前。無題。萬葉集1836。】
風混ぜに 雪は降りつつ 然すがに 霞棚引き 春は來にけり
交雜東風間 沫雪乍零降紛紛 雖如此為然 煙霞棚引懸霏霺 佐保春日既來矣
佚名
0009 【○承前。無題。萬葉集1439。】
時は今は 春に成りぬと 御雪降る 遠山邊に 霞棚引く
時者今者矣 春日臨來萬象新 御雪所紛降 遙遙彼方遠山邊 春霞棚引報年新
中臣武良自
0010 堀河院御時百首歌奉りけるに、殘雪之心を詠侍ける
春日野の 下萌渡る 草上に 由緣無く見ゆる 春之淡雪
權中納言 源國信
0011 題知らず 【○萬葉集1427。】
明日からは 若菜摘まむと 標野に 昨日も今日も 雪は降りつつ
欲自翌日起 將摘春菜採新綠 遂而標野者 昨日零雪今復降 飄雪紛紛無息時
山邊赤人
0012 天曆御時、屏風歌
春日野の 草は綠に 成りにけり 若菜摘まむと 誰か標けむ
壬生忠見
0013 崇德院に百首歌奉りける時、春歌
若菜摘む 袖とぞ見ゆる 春日野の 飛火野邊の 雪斑消え
前參議 藤原教長
0014 延喜御時屏風に
行きて見ぬ 人も偲べと 春野の 形見に摘める 若菜也けり
紀貫之
0015 述懐百首歌詠侍けるに、若菜
澤に生ふる 若菜為らねど 徒に 年を積むにも 袖は濡れけり
皇太后宮大夫 藤原俊成
0016 日吉社に詠みて奉りける子日歌
細浪や 志賀濱松 古にけり 誰世に引ける 子日為るらん
皇太后宮大夫 藤原俊成
0017 百首歌奉りし時
谷川の 打出る波も 聲立てつ 鶯誘へ 春山風
藤原家隆朝臣
0018 和歌所にて、關路鶯と云ふ事を
鶯の 鳴けども未だ 降雪に 杉葉白き 逢坂山
太上天皇 後鳥羽帝
0019 堀河院に百首歌奉りける時、殘雪之心を詠侍ける
春來ては 花とも見よと 片岡の 松上葉に 淡雪ぞ降る
藤原仲實朝臣
0020 題知らず 【○萬葉集2314。】
卷向の 檜原の未だ 曇らねば 小松原に 淡雪ぞ降る
分明纏向山 檜原之上曇未籠 何以轉瞬間 山麓周邊小松原 已染沫雪降斑駁
中納言 大伴家持
0021 【○承前。無題。萬葉集1835。】
今更に 雪降らめやも 陽炎の 燃ゆる春日と 成りにし物を
時節至今更 天上沫雪豈零哉 陽炎蜻火之 燎火燃兮裊煙起 更新春日已至矣
佚名
0022 【○承前。無題。】
孰をか 花とは分かむ 故鄉の 春日原に 未消えぬ雪
凡河內躬恒
0023 家百首歌合に、餘寒之心を
空は猶 翳みも遣らず 風冴えて 雪氣に曇る 春夜月
攝政太政大臣 藤原良經
0024 和歌所にて、春山月と云ふ心を詠める
山深み 猶影寒し 春月 空搔曇り 雪は降りつつ
越前
0025 詩を作らせて歌に和せ侍しに、水鄉春望と云ふ事を
三島江や 霜も未干ぬ 蘆葉に 萌芽む程の 春風ぞ吹く
左衛門督 源通光
0026 【○承前。作詩侍歌合時,詠水鄉春望。】
夕月夜 潮滿來らし 難波江の 蘆若葉に 越ゆる白浪
藤原秀能
0027 春歌とて
降積し 高嶺御雪 解けにけり 清瀧川の 水白浪
西行法師 佐藤義清
0028 【○承前。詠春歌。】
梅枝に 物憂程散る雪を 花とも言はじ 春名立に
源重之
0029 【○承前。詠春歌。萬葉集1829。】
梓弓 春山近く 家居して 絕えず聞きつる 鶯聲
梓弓引弩張 春山之畔山麓邊 家居駐於此 每每聞之不絕耳 黃鶯報暖啼囀聲
山邊赤人
0030 【○承前。詠春歌。萬葉集1840。】
梅枝に 鳴きて移ふ 鶯の 羽白妙に 淡雪ぞ降る
春寒花未放 穿梭移徙梅枝間 鳴囀黃鶯者 餝妝其翼作斑白 淡雪紛降添淨絹
佚名
0031 百首歌奉りし時
鶯の 淚冰柱 打解けて 古巢ながらや 春を知るらむ
惟明親王
0032 題知らず 【○萬葉集1418、和漢朗詠0014。】
岩灌く 垂水上の 早蕨の 萌出る春に 成りにける哉
注岩灌急流 飛瀧蘊勁垂水邊 所生早蕨者 已然萌出發新綠 不覺春日既臨哉
志貴皇子
0033 百首歌奉りし時
天原 富士煙の 春色の 霞に靡く 曙空
前大僧正慈圓
0034 崇德院に百首歌奉りける時
朝霞 深く見ゆるや 煙立つ 室八島の 渡りなるらむ
藤原清輔朝臣
0035 晩霞と云ふ事を詠める
奈吳海の 霞間より 眺むれば 入日を洗ふ 瀛白浪
後德大寺左大臣 藤原實定
0036 殿上人詩を作りて歌に合せ侍しに、水鄉春望と云ふことを
見渡せば 山本翳む 水無瀨川 夕は秋と 何思けむ
太上天皇 後鳥羽帝
0037 攝政太政大臣家百首歌合に、春曙と云ふ心を詠侍ける
霞立つ 末之松山 仄仄と 浪に離るる 橫雲空
藤原家隆朝臣
0038 守覺法親王、五十首歌詠ませ侍けるに
春夜の 夢浮橋 途絕えして 峰に別るる 橫雲空
藤原定家朝臣
0039 如月迄梅花咲侍らざりける年、詠侍ける
知るらめや 霞空を 眺めつつ 花も匂はぬ 春を嘆くと
中務
0040 守覺法親王家五十首歌に
大空は 梅匂ひに 霞つつ 曇りも果てぬ 春夜月
藤原定家朝臣
0041 題知らず
折られけり 紅匂ふ 梅花 今朝白妙に 雪は降れれど
宇治前關白太政大臣 藤原賴通
0042 垣根梅を詠侍ける
主をば 誰とも判かず 春は唯 垣根梅を 尋ねてぞ見る
藤原敦家朝臣
0043 梅花遠薰と言へる心を詠侍ける
心有らば 問はまし物を 梅香に 誰が里よりか 匂來つらむ
源俊賴朝臣
0044 百首歌奉りし時
梅花 匂ひを移す 袖上に 軒漏月の 影ぞ爭ふ
藤原定家朝臣
0045 【○承前。奉百首歌時。】
梅香に 昔を問へば 春月 答へぬ影ぞ 袖に移れる
藤原家隆朝臣
0046 千五百番歌合に
梅花 誰が袖觸れし 匂ひぞと 春や昔の 月に問はばや
右衛門督 源通具
0047 【○承前。於千五百番歌合。】
梅花 飽かぬ色香も 昔にて 同形見の 春夜月
皇太后宮大夫藤原俊成女
0048 梅花に添へて大貳三位に遣はしける
見ぬ人に 寄へて見つる 梅花 散りなむ後の 慰めぞ無き
權中納言 藤原定賴
0049 返し
春每に 心惜しむる 花枝に 誰が等閑の 袖か觸れつる
大貳三位 藤原賢子
0050 「二月雪落衣」と云ふ事を詠侍ける
梅散らす 風も越えてや 吹きつらむ 薰れる雪の 袖に亂るる
康資王母
0051 題知らず
尋來かし 梅盛りなる 我が宿を 疎きも人は 折にこそ因れ
西行法師 佐藤義清
0052 百首歌奉りしに、春歌
眺めつる 今日は昔に 成りぬとも 軒端梅は 我を忘る莫
式子內親王
0053 土御門內大臣家に、梅香留袖と云ふ事を詠侍けるに
散りぬれば 匂許を 梅花 有とや袖に 春風吹く
藤原有家朝臣
0054 題知らず
一人のみ 眺めて散りぬ 梅花 知る許なる 人は訪來で
八條院高倉
0055 『文集』嘉陵春夜詩、「不明不暗朧朧月」と言へる事を、詠侍ける
照もせず 曇も果てぬ 春夜の 朧月夜に 及く物ぞ無き
大江千里
0056 祐子內親王、藤壺に住侍けるに、女房、上人等、然るべき限り、物語して、「春秋之哀、孰にか心引く?」等、爭侍けるに、人人多く秋に心を寄せ侍ければ
淺綠 花も一つに 翳みつつ 朧に見ゆる 春夜月
菅原孝標女
0057 百首歌奉りし時
難波潟 翳まぬ波も 翳みけり 映るも曇る 朧月夜に
源具親
0058 攝政太政大臣家百首歌合に
今はとて 田面雁も 打侘びぬ 朧月夜の 曙空
寂蓮法師 藤原定長
0059 刑部卿賴輔、歌合し侍けるに、詠みて遣はしける
聞く人ぞ 淚は墮つる 歸る雁 鳴きて行くなる 曙空
皇太后宮大夫 藤原俊成
0060 題知らず
故鄉に 歸雁音 小夜更けて 雲路に迷ふ 聲聞こゆ也
佚名
0061 歸雁を
忘る莫よ 田面澤を 立雁も 稻葉風の 秋夕暮
攝政太政大臣 藤原良經
0062 百首歌奉りし時
歸雁 今はの心 有明に 月と花との 名こそ惜しけれ
攝政太政大臣 藤原良經
0063 守覺法親王家五十首歌に
霜迷ふ 空に萎れし 雁音の 歸翼に 春雨ぞ降る
藤原藤原定家朝臣
0064 閑中春雨と云ふ事を
熟と 春長羽の 寂しきは 忍に傳ふ 軒玉水
大僧正行慶
0065 寬平御時、后宮歌合歌
水面に 綾織亂る 春雨や 山綠を 並べて染むらむ
伊勢
0066 百首歌奉りし時
常磐為る 山岩根に 生す苔の 染めぬ綠に 春雨ぞ降る
攝政太政大臣 藤原良經
0067 清輔朝臣許にて、雨中苗代と云ふ事を詠める
雨降れば 小田壯士 暇有れや 苗代水を 空に任せて
勝命法師
0068 延喜御時、屏風に
春雨の 降始めしより 青柳の 絲翠ぞ 色增さりける
凡河內躬恒
0069 題知らず
打靡き 春は來にけり 青柳の 蔭踏む道に 人休らふ
太宰大貳 藤原高遠
0070 【○承前。無題。】
御吉野の 大川邊の 古柳 蔭こそ見えね 春め來にけり
輔仁親王
0071 百首歌中に
嵐吹く 岸柳の 稻筵 織敷く浪に 任せてぞ見る
崇德院御歌
0072 建仁元年三月歌合に、霞隔遠樹と云ふ事を
高瀨指す 六田淀の 柳原 翠も深く 翳む春哉
權中納言 藤原公經
0073 百首歌詠侍ける時、春歌とて詠める
春風の 霞吹解く 絕間より 亂れて靡く 青柳絲
殷富門院大輔
0074 千五百番歌合に、春歌
白雲の 絕間に靡く 青柳の 葛城山に 春風ぞ吹く
藤原雅經
0075 【○承前。於千五百番歌合,詠春歌。】
青柳の 絲に玉貫く 白露の 知らず幾世の 春か經ぬらむ
藤原有家朝臣
0076 【○承前。於千五百番歌合,詠春歌。】
薄く濃き 野邊綠の 若草に 跡迄見ゆる 雪斑消え
若草宮內卿
0077 題知らず
荒小田の 去年古跡の 古蓬 今は春邊と 蘖にけり
曾禰好忠
0078 【○承前。無題。和漢朗詠0438。】
燒かずとも 草は萌えなむ 春日野を 唯春日に 任せたらなむ
壬生忠見
0079 【○承前。無題。】
吉野山 櫻枝に 雪散りて 花遲げなる 年にも有哉
西行法師 佐藤義清
0080 白河院、鳥羽に御座しましける時、人人、山家待花と言へる心を詠侍けるに
櫻花 咲かば先見むと 思ふ間に 日數經にけり 春山里
藤原隆時朝臣
0081 亭子院歌合歌
我心 春山邊に 在所離れて 長長し日を 今日も暮しつ
紀貫之
0082 攝政太政大臣家百首歌合に、野遊之心を
思共 其處とも知らず 行暮ぬ 花宿貸せ 野邊鶯
藤原家隆朝臣
0083 百首歌奉りしに
今櫻 咲きぬと見えて 薄曇り 春に翳める 世景色哉
式子內親王
0084 題知らず
臥して思ひ 起きて眺むる 春雨に 花下紐 如何に解くらむ
佚名
0085 【○承前。無題。】
行かむ人 來む人偲べ 春霞 龍田山の 初櫻花
中納言 大伴家持
0086 花歌とて詠侍ける
吉野山 去年枝折の 道變て 未見ぬ方の 花を尋ねむ
西行法師 佐藤義清
0087 和歌所にて歌仕奉しに、春歌とて詠める
葛城や 高間櫻 咲きにけり 龍田奧に 懸かる白雲
寂蓮法師 藤原定長
0088 題知らず 【○和漢朗詠0525。】
石上 古都を 來て見れば 昔髻首し 花咲きにけり
佚名
0089 【○承前。無題。】
春にのみ 年は有らなむ 荒小田を 返返も 花を見るべく
源公忠朝臣
0090 八重櫻を折りて、人の遣はして侍ければ
白雲の 龍田山の 八重櫻 孰を花と 分きて折りけむ
道命法師
0091 百首歌奉りし時
白雲の 春は重ねて 龍田山 小倉峰に 花匂ふらし
藤原定家朝臣
0092 題知らず
吉野山 花や盛に 匂ふらむ 故鄉去らぬ 峰白雪
藤原家衡朝臣
0093 和歌所歌合に、羇旅花と云ふ事を
岩根踏み 重なる山を 別捨て 花も幾重の 跡白雲
藤原雅經
0094 五十首歌奉りし時
尋來て 花に暮せる 木間より 待つとしも無き 山端月
藤原雅經
0095 故鄉花と言へる心を
散り散らず 人も尋ねぬ 故鄉の 露けき花に 春風ぞ吹く
前大僧正慈圓
0096 千五百番歌合に
石上 布留野櫻 誰植ゑて 春は忘れぬ 行見為るらむ
右衛門督 源通具
0097 【○承前。於千五百番歌合。】
花ぞ見る 道芝草 踏分けて 吉野宮の 春曙
正三位 藤原季能
0098 【○承前。於千五百番歌合。】
朝日影 匂へる山の 櫻花 由緣無く消えぬ 雪かとぞ見る
藤原有家朝臣