千載和歌集 假名序
大和御言歌は,千早振る神代より始まりて,楢葉名に負ふ宮に廣まれり。玉敷き平京にして,延喜聖御世には古今集を撰ばれ,天曆賢御時には後撰集を集賜ひき,白河御世には後拾遺を敕せしめ,堀河先帝は百千歌を奉らしめ賜へり。
大凡,此事業,我が世の風俗として,玆を木實弄べば名を世世に殘し,是を學携はらざるは面を垣にして立てらむが如し,掛かりければ,此世に生れと生れ,我が國に來りと來る人は,高きも下れるも,此歌を詠まざるは少なし。聖德太子は片岡山御言を述べ,傳教大師は我が立杣言葉を殘せり。因りて世世御帝も此道をば捨賜はざるをや。但し又,集を撰賜ふ後は猶稀になむ有ける。
我君,世を治して,保始賜ふと名負けし年より,百敷の古跡をば,紫庭玉臺,千歲久しかるべき砌と磨置賜ひ,藐姑射山の靜かなる住處をば,青谷菊水,萬代住むべき堺と標定賜ふ。彼此押合せて三十三返りの春秋に成む成にける。遍き大德み秋津島外迄及び,廣大惠み春園花よりも香ばし。近成れ仕奉り,遠聞傳ふる類迄,事に觸折に望みて虛しく過ぐさず情多し。春花之朝,秋月之夕,思を延べ,心を動かさずと云ふ事無し。或時には絲竹聲調を整へ,或時には大和唐土歌辭を爭ふ。敷島之道も盛りに興りて,辭泉古よりも深く,辭林昔よりも繁し。
此處に今世之道を好む輩の言葉をも聞召し,昔時折に付けたる人心をも見行はさむ事に因りて,彼後拾遺集に撰殘されたる歌,上正曆頃ほひよりしも文治の今に至る迄の和歌を撰奉るべき仰せ言なむ有ける。彼御時より以來,年は二百二及び,世は十七繼世に成む成にける。過ぎにける方も年久しく,今行く先も遙かに留まらむ為,此集を號けて千載和歌集と云ふ。彼後拾遺集後,同じく敕撰に準へて撰べる所,金葉,詞華の二集有。然れども部類廣からず歌數少なくして,殘れる歌多し。其他今世迄の歌を取撰べるならし。
抑抑此歌道を學ぶる事を云ふに,唐國、日本の廣文道をも學びず,鹿園、鷲峰の深御法を悟るにしも非ず。唯卌七文字之中を出ずして,心に思事を言葉に任せて言貫ぬる習ひなるが故に,卅一文字をだに詠貫ねつる物は,出雲八雲の其處を凌ぎ,敷島大和御言堺に入過ぎにたりとのみ思へるなるべし。然は有れども,誠には鑽れば愈堅く,仰げば彌高き物は,此和歌之道になむ有ける。春林之花、秋山木葉,錦色色に玉聲聲成りとのみ思へれど,山中古木尙枯らざる事多く,難波江蘆を苅しき節有る事は難くなむ有けれど,且は好む志を憐び,且は道を絕やさざらむ為に,瓦窗、柴庵の言葉をも,見るに宜しく聞くに榮へざるをば漏す事無し。勒して千二百餘歌,廿卷と為り。
古より,敕を承りて集を撰ぶ事,或いは其位高く,或いは其品下れるも,久しく此道を學び,深く其心を悟れる輩は勤來れる中に,松樞に遁れ,苔袂に萎れたる者,茲を撰べる跡なむ無かりけれど,宇治山僧喜撰と謂ひけるなむ,皇詔を承りて和歌式を造れりける。式を造り,集を撰ぶ事,彼昔跡により今此擬有るが上に,和歌浦之道に携ひては七十潮にも過ぎ,我が法皇に仕奉りては,六十になむ餘りにければ,家家言葉,浦浦藻鹽草搔集奉るべき詔をも承はれるならし。
此集,如是此度記置かれぬれば,住吉松風久しく傳はり,玉津島浪長く靜かにして,千千春秋を送り,世世星霜を累ねざらめや。文治三年秋,長月中旬に,撰奉りぬるになむ有ける。
藤原俊成
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