天地開始めしより、葦原代代に殘らず、世を治め民を撫て志を言ひ心を慰さむる媒として、我國に在とし在る人普翫び盛に弘まれるは、唯此歌之道為らし。茲によりて楢葉之名に負ふ帝御時より正中の畏かりし御世に至る迄、撰集めらるる跡、十七度になむ為れりける。其間家家に集置ける類、亦其數を知らざるべじ。
然有るを元弘之初、秋津島中浪音靜為らず、春日野畔烽影屢見えしかど、程無く亂れたるを治めて正しきに歸されし後は、雲上之政更に舊跡に歸り、天下之民重ねて普き御惠を樂みて、惡しきを平反くを討つ、道迄一つに統行はれしかど、一度は治まり、一度は亂るる世理為ればにや、遂に又昔唐土に江を渡りけむ世例にさへ成りにたれど、千早振神代より國を傳ふる璽と成れる三種神寶をも承傳坐し、大和唐土に付けて諸道をも興行はせ給ふ大御政成りければ、伊勢海之玉も光異に、淺香山之辭も色深きなむ多積りにたれど、徒らに集撰ばるる事も無かりけるぞ。縫物を著て寄行く類になむ有ける。
此處に吳竹の其人數に列りても三代之帝に仕へ、和歌浦之道に攜ひては七十路之潮にも滿ちぬる上、勝事を千里之外に定めし、昔は野邊草葉繁きにも紛れき。心を三種衣色に染めぬる今は葦間之舟の障るべき節も無ければ、且に老心をも慰め、且は末世迄も殘さむ為のみ。元弘之始めよりしも弘和之今に至る迄、世は三繼、年は五十歲之間、假宮に隨仕奉りて、折に觸れ、時に付けつつ言顯はせる辭どもを、玉臺金殿より瓦窗繩樞之內に至る迄、人を以ちて言を棄てず、撰定むる所、千四百餘首廿卷、號けて『新葉和歌集』と曰へり。
花を尋ね、郭公を待ち、月を眺め、雪を翫ぶより始めて、花都に別を惜み、草枕に故鄉を戀ひ、五十鈴川石清水之流を汲みては、光を和げて塵に交はる誓を尊び、鶴林鹿苑之跡を尋ねては迷を除きて悟を開く懷を希ふ。或は片絲逢見ぬ戀に思亂れ、或は吳竹憂節繁世を歎きても恨を唧ち思を述べ、閻浮之境の無常之理を悲しみ。又百敷之内にしては雨露之惠を施し八洲之外迄も浪風音靜にして、席田鶴齡に爭ひ住吉之松の千年を保たせ給ふべき天皇御光を祝奉るに至る迄、心中に動き、辭外に顯れて六種之姿に適ひ、一節の取るべき有るをば茲を捨つる事無しと言へども、四方海浪之騷ぎも小餘綾の五十歲に及べれば、家家之辭風に散り、浦浦藻鹽草搔漏らせる類も又無きに在らざるべし。
抑抑如是撰集むる事も、唯園內の僅かなる諺為れば、天下廣翫之物と成らむ事に思寄るべきに非ぬを測らざるに、今、敕撰に準ふべき由の詔を被りて、老幸、望に超え、喜淚袂に餘れり。茲に因りて所所改直して、弘和元年十二月三日之を奏す。大凡此道に攜はらむ人は愈愈難波津之深心を悟り、此時に逢へらむ輩は普く、磯城島之道在る御代に誇りて、春花の榮樂みを、四時に極め、秋夜の長名を萬年に留めつつ、露往霜來て濱千鳥跡絕ゆる事無く、天長地久して、神代之風遙かに仰がさらめ哉。
宗良親王
底本:國歌大觀『新葉和歌集』
參考:有朋堂文庫『新葉和歌集』、やまとうた『新葉集秀歌選』