後拾遺和歌抄 假名序
我君の天下治ろしめしてより以來、四海浪聲聞えず、九國貢物絕ゆる事無し。
大凡、日中に萬諺多かる中に、花春、月秋、折に付け、事に臨みて、空しく過ぐし難くなむ坐します。玆に由りて、近侍ひ、遠聞く人、月に嘲り、風に欺ける事絕えず、花を弄び、鳥を憐ればずと云ふ事無し。
遂に御遊之餘に、磯城島和歌集めさせ賜ふ事有り。拾遺集に入らざる中頃のをかしき言葉、藻鹽草集搔集むべき由をなむ有ける。
仰せを承はれる我等、朝に詔を承はり、夕邊に述給ぶ事、誠に繁し。此仰せ、心に懸りて思ひながら、年を送る事、九歸春秋に成にけり。
去ぬる應德元年夏、水無月二十日餘頃ほひ、八座官に備はりて、五日暇も妨げ無し。其上の仰せを、老曾森に思給へて、散散なる言葉書出る中に、石上古にたる事は、古今、後撰、拾遺集に載せて一つも殘らず。其他の歌、秋蟲のさせる節無く、蘆間舟の障多かれど、中頃より以來、今に至る迄の歌中に、取弄ぶべきも有り。
天曆末より今日に至る迄、世は十繼餘一繼、年は百年餘卅になむ過ぎにける。住吉松久しく、新玉の年も過ぎて、濱真砂數知らぬ迄、家家言葉多積りにけり。
言を撰ぶ道、皇の畏き仕業とて漏さらず。譽を取る時、山賤の賤しき事とても捨つる事無し。姿秋月の朗かに、詞春花の匂有るをば、歌千二百十八つを撰びて廿卷と為り。名付けて後拾遺和歌集と云ふ。
大凡、古今、後撰二集に歌入りたる輩の家集をば、世も上がり、人も畏くて、難波江の惡善定めむ事も憚有れば、之に除きたり。
昔、梨壺五人と云ひて、歌に巧なる者有り。所謂大中臣能宣、清原元輔、源順、紀時文、坂上望城等是也。先に歌心を得て、吳竹世世に、池水言觸るされたる人也。此等人の歌を先として、今世の事を好む輩に至る迄、目に付き、心に適ふをば入れたり。世に在る人、聞事を賢しとし、見事を卑しとする諺に因りて、近世の歌に心を留めむ事難くなむ在るべき。然は有れど、後見む為に、吉野川善と言流さむ人に、近江不知也川些かに此集を撰べり。
此事、今日に始まれる事に非ず。奈良帝は萬葉集廿卷を撰びて、常翫物とし賜へり。斯集の心は、易事を隱して、難事を現はせり。其上の事、今世に叶はずして、惑へる者多し。
延喜聖帝は、萬葉集の外の歌廿卷を撰びて、世に傳賜へり。所謂今の古今和歌集是也。村上の畏御代には、又古今和歌集に入らざる歌廿卷を撰出て、後撰集と名付け。又、花山法皇は先の二集に入らざる歌を取拾ひて、拾遺集と名付賜へり。斯四集は、言葉繡物の如くにて、心、海よりも深し。
此外、大納言公任朝臣三十六つの歌人を拔出て、彼が妙なる歌、百五十を書出し、又十五番歌を合せて、世に傳へたり。然のみに非ず。和漢のをかしきこと二卷撰びて、物に付け、事に寄へて、人心を懷さしむ。又、九品の和歌を撰びて、人に諭し、我が心に叶へる歌一卷を集めて、深窗秘集と云へり。今も古も、優れたる中に優れたる歌を書出して、金玉集となむ名付けたる。其言葉名に現れて、其歌情け多し。大凡此六種集は、賢きも賤しきも、知れるも知らざるも、玉櫛笥開暮の心を遣る媒と為ずと云ふ事無し。又、近く能因法師と云ふ者有り。心、花山の跡を願ひて、言葉、人に知られたり。我が世に逢とし逢たる人の歌を撰びて、玄玄集と名付けたり。玆等集に入りたる歌は、海士栲繩繰返し、同事を抜出べきにも有らざれば、此集に載する事無し。
又、麗花集と云ひ、足引山伏が仕業と名付け、樹下集と云集めて、言葉卑しく、姿訛たる物有り。此等類は誰が仕業とも知らず。又、歌出所も詳ならず。例へば山川之流を見て水上懷しく、霧中の梢を望みて孰れの植木と知らざるが如し。然れば、此等集に載せたる歌は必しも避らず。土中にも金を取り、石中にも玉交はれる事有れば、然も有ぬべき歌は所所載せたり。
此中に、自らの拙言葉も、度度仰反難くして、憚關の憚りながら、所所載せたる事有り。此集以て俏すとなむ有べき。
大凡、此外歌、三熊野浦の濱木綿世を重ねて、白浪打聞く事、鴫羽根搔書集めたる色好みの家家有れど、埋木隱れて見る事難し。今撰べる心は、其然には非ず。身は隱れぬれど、名は朽ちせぬ物為れば、古も今も、情有る心馳せをば、行末にも傳へむ事を思ひて撰べるならし。然らずば、妙なる言葉も、風前に散果て、光有る玉の言葉も、露と共に消失せなむ事に由りて、菅根の長秋夜、筑波嶺の繼繼と、白絲の思亂れつつ、三年に成ぬれば、同じき三つの年暮の秋十六夜頃ほひ、撰終りぬる事になむ有けると云へり。
藤原通俊
後拾遺和歌抄目錄 序
承保之比,予為侍中。季秋之天,夜閑風涼矣。于時艾漏漸轉,松容日奏,事及和語。須臾命曰:「和歌者我國習俗,世治則興。平城天子,修萬葉集。花山法皇,撰拾遺抄。編次之道,永永而存。汝舉篇目於數家之嘉什,備叡覽於萬機之餘假。」事出敕言,莫不服膺。將就撰集,僶俛從事,思而涉稔,涼燠屢煖。應德初年,適昇八座台。省假景,懸情於緩木杜之詞。休閑天,沈思於難波津之詠。及清凉之短晷,逢天下之忌禱,以辟玉去趙魏,毀翬罩霍以還啟令永止。愁雲掩玉輅之飾,縑緗不披,詞華秘金谷之匂。洎乎二年,漸以網羅。
僕從春至秋,久竄漳濱,徒携砭藥,不尋筆硯。明年之春,卷軸甫就,然猶品藻猶予,居諸代謝而已。所以獨案之家,因物偏見也。未及切瑳,通在人口。草藁紛紜,錯謬非一。撰在素懷,乖戾罔極。遂遇知己,辯論執議。一加一減,章句無改。吟詠之舊書,乃削題目偏任,沿革之新情,暨於其善者,從其迂去,略不避之至尊,無嫌之疋夫。蓋是古人之格言,前事之不忘也。孟冬仲旬,始經奏覽,重以删定,出入相半。以前流布之書,豈中諷詠之用。是以欲聞神襟之褒貶,俄逢聖主之遜讓。貯良玉於箱中,憚披露於世上。繕寫失功,遺恨在旃。
今春仲,有敕召見。射山春遊,翫詞峰於篇上。汾水秋興,斟言泉於卷中。著述之輩,假註之趣,不論階級之高下,唯任時代之遠近。注載在別,副之帙外。聖主諸侯、三公九卿、椒房蘭陵、緇素貴賤,都盧三百二十九人之譜系,擊向後之童蒙。架物群情、風雲草 木、戀慕怨曠、慶賀哀傷,殺青千二百十八首之篇號,鑑前代之賢慮。古人不云乎:「語彝倫者,必求宗於九疇。談陰陽者,亦研機於六位。」綜緝之效,其在茲乎。敕成二 卷,名『後拾遺和歌抄目錄』,收容待時。雖得握翫於青陽之天,製作達先,猶定甄錄於玄律之日。于時,寬治元年秋八月。重以記之。
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