後撰和歌集 卷十五 雜歌一
1075 仁和帝、嵯峨御時の例にて芹川に行幸賜ひける日
嵯峨山 御幸絶にし 芹川の 千世古道 跡は有けり
在原行平朝臣
1076 同日、鷹飼にて、狩衣袂に鶴形を縫ひて、書付けたりける
翁古 人莫咎めそ 狩衣 今日許とぞ 鶴も鳴くなる
行幸の又日なむ致仕表奉りける。
在原行平朝臣
1077 紀友則未だ官賜はらざりける時、事序侍て、「年は幾許にか成りぬる?」と問侍ければ、「四十餘になむ成りぬる。」と申しければ
今迄に 何どかは花の 咲かずして 四十年餘り 年切りはする
贈太政大臣 藤原時平
1078 返し
遙遙の 數は忘れず 在ながら 花咲かぬ木を 何に植ゑけむ
紀友則
1079 外吏に屢屢罷在來て、殿上下りて侍ける時、兼輔朝臣許に遣はしける
世と共に 峯へ麓へ 降登り 行雲身は 我にぞ有ける
平中興
1080 未だ后に成賜はざりける時、傍女御達妬給ふ氣色成りける時、御門御曹司に忍びて立寄給へりけるに、御對面は無くて、奉給ひける
言繁し 暫は立てれ 宵間に 置けらむ露は 出て拂はむ
嵯峨后 橘嘉智子
1081 家に行平朝臣詣來りけるに、月面白かりけるに、酒等食べて、罷立たむとしける程に
照月を 正木綱に 撚掛けて 飽かず別るる 人を繋がむ
河原左大臣 源融
1082 返し
限無き 思綱の 無くばこそ 正木蔓 撚りも惱まめ
在原行平朝臣
1083 世中を思憂じて侍ける頃
住侘びぬ 今は限りと 山里に 薪樵るべき 宿求めてむ
在原業平朝臣
1084 「我を知顏に、莫言ひそ。」と女の言侍ける返事に
足引の 山に生ひたる 白樫の 知らじな人を 朽木也とも
凡河內躬恒
1085 姿恠と人笑ひければ
伊勢海の 釣浮けなる 樣為れど 深心は 底に沈めり
凡河內躬恒
1086 太政大臣白川家に罷渡りて侍けるに、人の曹司に籠侍て
白川の 瀧甚見ま 欲けれど 妄に人を 寄せじ物とや
中務
1087 返し
白川の 瀧絲無み 亂れつつ 撚るをぞ人は 待つと云ふなる
太政大臣 藤原忠平
1088 蓮蔤を取りて
蓮葉の 蔤にぞ人は 思ふらむ 世には戀路の 中に生ひつつ
佚名
1089 逢坂關に庵室を造りて住侍けるに、行交ふ人を見て 【○百人一首0010。】
玆や此 行くも歸るも 別れつつ 知るも知らぬも 逢坂關
蟬丸
1090 定めたる男も無くて物思侍ける頃
天住む 浦漕舟の 舵を無み 世を海渡る 我ぞ悲しき
小野小町
1091 相知りて侍ける女、心にも入れぬ樣に侍ければ、異人の志有るに付侍にけるを、猶しも非ず、「物言はむ。」と申遣はしたりけれど、返事も為ず侍ければ
濱千鳥 甲斐無かりけり 由緣も無き 人邊は 鳴渡れども
佚名
1092 法皇寺巡りし給ひける道にて楓枝を折りて
此御幸 千年變でも 見てし哉 斯る山伏 時に逢ふべく
素性法師
1093 西院后、御髮落させ給ひて、行なはせ給ひける時、彼院の中島松を削りて書付侍ける
音に聞く 松が浦島 今日ぞ見る 宜もこころある 海人は住みけり
素性法師
1094 齋院禊の垣下に殿上人人罷りて曉に歸りて、馬が許に遣はしける
我のみは 立も歸らぬ 曉に 別きても置ける 袖露哉
右衛門
1095 鹽無き年、蓼水合へてと侍ければ
鹽と言へば 無くても辛き 世中に 如何に合へたる 蓼水成るらむ
壬生忠見
1096 直垂乞ひに遣はしたるに、「裏なむ無き、其は著じとや、如何?」と言ひたれば
住吉の 岸とも言はじ 沖浪 猶打掛けよ 浦は無くとも
藤原元輔
1097 法皇始めて御髮落賜ひて、山踏みし賜ふ間、后を初め奉りて、女御・更衣、猶つ院に侍給ひける、三年と云ふになむ、帝歸坐したりける。昔如、同所にて御落賜うける序でに
言葉に 絕えせぬ露は 置くらむや 昔覺ゆる 圓居したれば
七條后 藤原溫子
1098 御返し
海とのみ 圓居中は 成ぬめり 其ながら有らぬ 影見ゆれば
伊勢
1099 志賀唐崎にて、祓へしける人の下仕へに、海松と云侍けり。大伴黑主其處に詣來て、彼海松に心を付けて言戲れけり。祓果て、車より黑主に物被けける。其裳の腰に書付けて、海松に送侍ける
何為むに 邊海松を 思ひけむ 沖玉藻を 潛く身にして
大伴黑主
1100 月面白かりけるを見て 【○古今集0001。】
晝為れや 見ぞ紛へつる 月影を 今日とや言はむ 昨日とや言はむ
殆誤為日晝 光明輝耀月影矣 非宜稱昨日 亦復豈合稱今日 徬惶不知謂何日
凡河內躬恒
1101 五節舞姫にて、もし召留めらるる事や有と思侍けるを、さも有らざりければ
悔しくぞ 天少女と 成にける 雲路尋ぬる 人も無き世に
藤原滋包女
1102 太政大臣の、左大將にて、相撲還宴し侍ける日、中將にて罷りて、事終りて、玆かれ罷離れけるに、止事無き人二三人許留めて、客人・主、酒數多度の後、醉に乘りて、子供の上等申しける序でに
人親の 心は闇に 非ねども 子を思道に 惑ひぬる哉
藤原兼輔朝臣
1103 女友達許に、筑紫より插櫛を心指すとて
難波潟 何にも非ず 澪標 深心の 兆許ぞ
大江玉淵朝臣女
1104 元長親王の住侍ける時、手弄りに、何入れて侍ける箱にか有けむ、下帶して結ひて、又來む時に開けむとて、物上に差置きて、出侍にける後、常明親王に取隱されて、月日久しく侍て、在りし家に歸りて、此箱を元長親王に送るとて
開けてだに 何にかは見む 水江の 浦島子を 思遣りつつ
中務
1105 忠房朝臣、攝津守にて、新司治方が設けに、屏風調じて、彼國の名有る所所繪に書かせて、錆江と云ふ所に掛りける
年を經て 濁だに為ぬ 錆江には 玉も返りて 今ぞ住むべき
壬生忠岑
1106 兼輔朝臣、宰相中將より中納言に成りて、又年、賭弓の還立饗に罷りて、此彼思ひを述ぶる序でに
故鄉の 三笠山は 遠けれど 聲は昔の 疎からぬ哉
藤原兼輔朝臣
1107 あはぢのまつりごと、人任果て上詣來ての頃、兼輔朝臣粟田家にて
引植し 人は宜こそ 老にけれ 松小高く 成にける哉
凡河內躬恒
1108 人女に、源兼材が住侍けるを、女の母聞侍て、忌じう制し侍ければ、忍びたる方にて語らひける間に、母、知らずして、俄に行きければ、兼材が逃げて罷りにければ、遣はしける
小山田の 驚かしにも 來ざりしを 甚頓るに 逃げし君哉
女母
1109 三條右大臣身罷りて翌年春、大臣招有と聞きて、齋宮內親王に遣はしける
爭で彼 年切も為ぬ 種欲得 荒れたる宿に 植て見るべく
娘女御 藤原能子
1110 彼女御、左太政大臣に逢ひにけりと聞きて遣しける
春每に 行きてのみ見む 年切も 為ずと云ふ種は 生ひぬとか聞く
唯有每逢春 方得行往而可翫 聽聞能歷久 所謂長年不衰絕 常世籽種既生哉
齋宮柔子內親王
1111 庶明朝臣中納言に成侍ける時、上衣遣はすとて
思ひきや 君が衣を 脫換て 濃紫の 色を著むとは
右大臣 藤原師輔
1112 返し
古も 契てけりな 打羽振き 飛立ちぬべし 天羽衣
源庶明朝臣
1113 雅正が宿直物を取違へて、大輔が許へ持て來りければ
故里の 奈良京の 始めより 成れにけりとも 見ゆる衣か
大輔
1114 返し
古りぬとて 思ひも捨てじ 唐衣 餘所へて文無 怨みもぞする
藤原雅正
1115 「世中の心に叶はぬ。」等申しければ、「行先賴もしき身にて、斯かる事有るまじ。」と人申侍ければ
流れての 世をも賴まず 水上の 沫に消ぬる 憂身と思へば
大江千里
1116 藤原真興が、藏人より、冠賜はりて、明日殿上罷降りなむとしける夜、酒食べける序でに
烏玉の 今宵許ぞ 緋衣 明けなば人を 餘所にこそ見め
藤原兼輔朝臣
1117 法皇御髮落し賜ひての頃
人渡す 事だに無きを 何然も 長柄橋と 身成ぬらむ
七條后 藤原溫子
1118 御返し
古るる身は 淚中に 見ゆればや 長柄橋に 誤たるらむ
伊勢
1119 京極御息所、尼に成りて戒受けむとて、仁和寺に渡りて侍ければ
獨のみ 眺めて年を 故里の 荒れたる樣を 如何に見るらむ
敦實親王
1120 女の、「徒也。」と言ひければ
忠實為れど 徒名は立ちぬ 戲島 寄る白浪を 濡衣に著て
大江朝綱朝臣
1121 相語らひける人家の松梢の紅葉たりければ
年を經て 賴む甲斐無し 常磐なる 松梢も 色變行く
佚名
1122 男の、女文を隱しけるを見て、元妻の書付侍ける
隔てつる 人心の 浮橋を 危き迄も 踏見つる哉
四條御息所女
1123 小野好古朝臣、西國討手使に罷りて、二年と云ふ年、四位には必罷りなるべかりけるを、さも非ず成りにければ、斯かる事にしも指されにける事の、安からぬ由を愁送りて侍ける文の返事の裏に、書付けて遣はしける
玉櫛笥 二年逢はぬ 君が身を 開けながらやは 有らむと思ひし
源公忠朝臣
1124 返し
開けながら 年老る事は 玉櫛笥 身徒に 成れば成けり
小野好古朝臣