田 村 草 子

田村草子上卷
田村草子下卷


 田村草子 上

 日本我朝始まりて、天神七代、地神五代は扨をきぬ、人皇の御代と成て、度度の將軍家を繼がせ給ふ中にも、俊重將軍の御子に、俊祐(としすけ)と申奉るは、春は花の元にて日を暮らし、秋は月の前にて夜を明かし。しいかくはんけんに心をかけ、色を好み、酒宴(しゆゑん)らつぶを(むね)として()はしける。され共、御心に叶ふみたい所ましまさすして、十六の御年より、五十に及はせ給ふ迄、四百六十四人そをくり給ふ、されは御子一人もましまさず、俊祐思召けるは、五十にかたふき、假令(たとひ)七十代の(よはひ)をたもつ共、今二十餘年の春秋(いく)程かあらん、過にし方を思へは、唯夢の如し、我一人の子亡くして、如何にも成なん後、跡に留まり、一度の香花をも供へて、俊祐か菩提(ぼだひ)を誰か吊ひ申べき、かかる田舍の住まゐなれはこそ、心に叶ふふさいもなけれ、都じぇ上り尋ばやと思召、急ぎ上洛し給ひて、五條あたりに住ませ給ふ、御門此よしゑいぶん、あしあして、都をしゆごせんための上洛そやと(ぎよ)かんななめならす。
 かくて秋も暮れ行くに、嵯峨野(さがの)の方へ御遊覽に出給へば、野山の色もまさり、草の蔭も、侘しき蟲の(こゑ)、折知り顏ぞ哀れなる、掛かりける所に、いつくより來るとも知らず、(いと)美しき女の、十六(いさよふ)月(望月の翌日。)に打むかひ、詠む言の葉そ哀れなる。
  《草叢に、鳴く蟲の音を、聞くからに、愛ど思ひの、まさりこそすれ。》
 と連ねて、うちしほれたる有樣、絵に描くとも筆も及び難く、柳の糸の春風に靡き、芙蓉の(くれなゐ)の雨を帶びたるも、輝夜(かくや)と思ひけるに、付從ふ人も無く、唯一人惚れ惚れと立給ふ、こは如何に、天魔鬼神の我をたばからんとはからふらんと、心強く立さるへくとは思へ共、色に光るる心なれば、行くべき方を白雲の、立ち迷ひ給ひけるか、よし如何なるまゑの變化にても、かたらひゆかばやと(おほ)しめし、斯く読み給ふ。
  《哀れ也、我も人待つ、蟲の聲、同じ思ひか、いさ較べなん。》
 と打なかめつつ、(たもと)(すが)り給へは、岩木ならぬ(さま)てに、おなしくるまにて歸り給ひ、ひよくの契りをなし給ふに、程無くくはいにんし給ふ、俊祐大きに悅び給ひて、我既に五十になるまて、子と言ふ物無かりつるに、懸かる事こそう嬉しけれとて、いよいよかしつき給ふ、斯くて月日重なるままに、御さんの用意有けれは、女房仰られけるは、今た十つきにてはあるべからす、三年といはん正月に、嘆じ樣なるべし、產屋の高さは三十六丈、百八十本の柱を立て、百八十人のばんじやうをもつて、二年か內に作り出すべしとの給ひけれは、仰の如く、三十六丈の樓門をそくみかげける、さる程に、產屋に入給ふ時、殿に向かひ、われ產屋に入て七日より內に、人か呼ぶべからす、八日にならは、必ず參るべしとて、樓門の內へ入給ふ、將軍今一日またん事、千年をふる心地しけれは、待ちかねて、七日目に立ち覗き給へは、內には、大木の松三本、榊七本おひ出たり、光明かくやくとして、日月の如し。如何なる事やらんと、恠しく思ひて見給ふに、百尋余の大じやなるが、二つの角の間に、三歲計なる、美しき子を乘せて、紅の舌を出して、ねふりあひしてこそ遊びけれ、日月と見えつるはまなこなり、俊祐思召(おほしめ)しけるは、懸かる恐ろしき事こそおほえね、如何樣天魔の入かりたるらん、其儀なら早きうちにさんなと思召わ辛ひ給ふに、八日と申に、ありし姿にて、(いつ)奇しき若君をいたき參らせて、樓門より降り給ひて仰けるは、七日をすぐして御覽さふらはは、日本のあるしとなし奉るへしと思ひつれ共、我ほんたいを御覽したる間叶はす、され共天下の大將軍となし奉り候へし、此若君をは、日龍丸(にちりうまる)と申へし。若君三歲の年、俊祐しし給ふへし。七歲の年、御門より大事の宣旨をかうふるへし、我は益田ヶ池の大蛇也、諸天せんしの仰にしたかひ、假に夫婦(いもせ)(妹背)のかたらひをなしつる也。いとま申てさらばとて、かきけす樣にせにけり。
 斯樣に恐ろしき大蛇と走り給へとも、三年か間なれし名殘のおしき事、喩へん方もなくて、唯涙に咽び立給ふ、余の懷かしさに、生まれ給ふ若君に、汝が母は、いつくへ行ぬるぞとの給へば、天に向ふて、あれあれとばかりそ言ひける。斯くて年月を過行程に、日龍殿三歲と申せし時、俊祐はかなくならせ給ひけり、元よりごしたる事なれ共、差当りたる別れの悲しさ申計なし、日龍殿も嘆きながら、日數を送りける程に、七歲と申に宣旨(くだ)り、近江國見馴(みなれ)川と言ふ所に、倉光(くらみつ)喰介(くらへのすけ)とて、二つの大蛇有り。昔より、西へ通る者を取り喰らふ間、人跡絶えて、通ひ路なし、急ぎ彼を滅ぼして參らせよとの宣旨也。日龍涙を流しの給ひけるは、うらめしかりける浮き世哉、生れて十日に経ちて母に別れ、三歲と申に父にをくれ、又七歲にて、かやうの戰士を蒙事よそ仰られけれは、御目のと申けるは、君の御父は、五歲にて越前國(けい)津にて、長さ六丈のしやをいたかせ給ひぬ、されは万民下をふりけるとこそ承はれ、君は既に七歲になり給へば、何の仔細の候へき、是は先祖の御体とて、角突(つののつき)弓に、しんづうの鏑矢とりそへて奉る。日龍殿、弓をしはり引給ふに、少もさはるかたなし、五百よきの軍兵を揃へて、見馴川へぞくだられける、斯の所へつき給ひて、淵の当たりを御覽sければ、れうちきんしう類ひ、多くなけれリ、日龍仰けるは、是見給へ人人、われをたは絡むため、斯樣の謀り事也。構へて皆皆に目をかくべからすとて、淵の畑へ立より、大音揚げて、如何に此所の大蛇、確かに聞け、我は御裳川の流れ、天津彦根の御末、十全の君の仰にしたかひ、日龍是まてむかふたり、いそき出てたいめん仕へしとの給へは、川浪高く立上り、風凄まじく吹けれは、五百善きの軍兵、水の泡の消ゆる如くに、一度にはらりと死したりけり、目に見えぬ敵なれば、如何にして滅ぼさん共わきまへすして、日龍一人、川の水際を驅巡りて年月を送りける程に、七歲より十三の年迄心を尽くしけるが、余の事に佛神に祈りけるは、日本の主、十全の君の宣旨にて候、願はくは、此の川の水上を止め水を干し、大蛇の形を見せ給へと、感嘆を砕きて念じけれは、誠に佛神の惠みを垂れ給ふにや、水上より横切りて、三里か間白乾らと成りて、百尋ばかりなる大蛇二つ現れて、日龍に申けるは、汝知らずや、我は汝片目(かため)には叔父也。汝が母益田ヶ池の大蛇は、我ためには妹也。我この川に棲む事二千五百年、汝僅か十三にて、我に敵を成さん事及び難し、いでいで微塵に成さんとて、口より火ゑんを噴出しけれは、山も川も、一度にねつてつの海とぞなりける。され共日龍少も騒がず、角突(つののつき)弓、神通の鏑矢にて、さんさんに射給へは、忽ち大蛇お滅びけり、やがて首を貫ぎ、雲に乘りて都へ上り給ふ、御門ゑいらんましまして、將軍の宣旨を受け、俊仁(としひと)將軍とぞ申ける。斯くて俊仁十七の御時、或る夕暮れのつれつれに、霞の內に、狩の一つら行くを見給ひて思召けるは、空を翔ける翼まて、夫婦の(かた)らひ(男女の契り。)を成す、我 十七まで妻と言ふ者の無きこそか無しけれ、良し有人もがな、言ひよりて体ふべしと思召けるに、其比天下に時めき給ふ、堀河の中納言高遠(たかとを)の姫君、照日御前と申て、天下一の美人なるを、風の便りに聞きそめ給ひて、沸くる片泣き御物思ひの朝からざりしを、めのと左近助(さこんのすけ)、諌め參らせけれは、愛恥かしき事ながら、斯くて思ひ鎮まんも、罪深くこそとて、有のままに語り給へは、左近助よりかけ(人名か?)承、其れかし、堀河殿に言ひよるべきつてこそ(はんへ)れ、先御文を遣はして御覽さふらへと申けれは
  《傳へ聞く、風の便りの、忘すられて、思ひ消えなん、殊そ哀しき。》
 と遊ばして、遣わされければ、少將の(つぼね)とて、姫君の乳母(めのと)有けるに言ひより、將軍の御文參されければ、(いはけな)き御心にて、手にも取給はで、顏打赤めて()わしけるに、少將の局御(すすり)もて參り、天下の大將軍の御文なるに、兎も角も一筆の御返事無くては、適ふまじとて、せめ奉れ共、引がつき御(いら)へも無し、乳母心憂く思ひ、、母上に此よし、云云申ければ、誠に(おさあ)ひ心こそ怨めしければ、余所に聞く事ならば、如何(いか)はかり羨むべき事そや、急急ご返事と責め、給へば、力無く、起直(おきなを)り給ひて、(かたわ)らに打む書ひて、紅葉重ねの薄樣(うすやう)に。
  《如何にして、人の言葉を、頼むべき、逢ひ見て後は、變わる並ひに。》
 と書きて、引き結びをき給ふ、少將とりて、左近助が元へ遣はしければ、よりかげ(人名か?)悅び、やがて將軍へ、御返事とて參らせければ、俊仁、嬉しくも恋ひの闇路の、し案內(るべ)せし物かなとて、左近の用言にそなされける、さて此後度度御文重なり、忍び偲びの御契り淺からざりしに、御門此よしきこしめ御歌合に言寄せて召上げられ、其れより返し給はずして、俊仁をは伊豆の國へ流させ給ふ、俊仁口惜しく思ひながら、力無く、遠流(をんる)の道におき向き給ふ、心の程こそ哀れなる、去る程に、近江の國瀨田の橋を渡るとて、橋桁(はしげた)(あら)踏鳴(ふみな)らし、俊仁こそ只今流人と成りて、東國へ降るなれば、見馴川にて殺せし大蛇共の困惑(こんわく)あらば、都に上り心のままにせよと言ひ捨てて下り給ふ、去る程に其比、都の当たりにて、人多く()せて、行かたしらす成にけり、日のくるれは門戸を閉ぢて、聲を立る事も無し、晝は行かふ道堪えて淺茅河原(あさぢかはら)とそ成にける、天文博士(てんもんはかせ)に仰て、考へ給ふに、俊仁將軍を召し返し給はすは、しつまるましきよし、相聞(そうもん)申ければ、やがて赦免(しやめん)綸旨(りんし)下り、二度上洛し給ひて、又瀨田の橋を通るとて、俊仁こそ、赦免の綸旨を給はりて、只今上るなれ、大蛇共都当たりに敵ふましとて、其日都も著き給ふ、洛中静かに成り、萬民悅びの色を成す、御門御(かん)ましまして、やがて照日の前を下されて、比翼の契りを成し給ひ。姫君二人意的(いてき)給ひて、斎傅(いつきかしづ)き給ふに、或る時、俊仁、參內おはしけるに、折ふし內裏には、管弦(くはんげん)の御(ゆふ)有けるを、聴聞(ちやうもん)して(おは)しける間に、(つぢ)風荒く吹落ちて、照日の前を天に吹き上げたり、此由將軍へ申上ければ、急ぎ我家に歸り、こは如何なる事やらんと、嘆き給へとも甲斐もなし、余の悲しさに、せめては夢になりとも今一度、見參らせばやとて、少し微睡(まどろみ)給へば、年の程十二三ばかりなる(はらは)三人、連れて行けるか、先なる童の言ひけるは、其れ日本は粟散邊地(そくさんへんち)の小國也と言へ共、神國たる(ゆへ)に、人の心素直(すなを)にして長久也。然共萬人の心有れば、天魔(てんま)の業はひありと言ひ傳へけるこそ、誠に不思議なれ、俊仁將軍は、弓矢の譽れ世に優れ、鬼神も(をそ)れしたがふ程の人なるに、此程寵愛(てうあひ)の妻を辻風に取られて、嘆き悲しむと也。あれ程の武將として、()ひ甲斐無き事よと笑ひければ、中なる(わらは)も、誠に海山を探しても取り返さずしては、生ける甲斐無き事よと言へば、跡なる物の云、其れは去事なれ共行衛を知らすは如何せん。去りながら俊仁程の者が、天狗共を捕らへてとふならば、恐れて有所云べき物をとて笑ひける。
 其の聲に夢醒めて、當たりを見れば人もなし、扨は佛神の御告げそと有難(ありがた)く思ひ、八(まん)菩薩(ぼさつ)つにきせひ申、先愛宕山に登り、恐惶坊(きやうくはうはう)は內に御座(おは)しますか、天下の大將軍俊仁是まで參りたりと仰ければ、剎那か間に、宮殿(くうでん)樓閣(ろうかく)、玉の(うてな)(いた)り、ややありて、八十余りなる老僧、弟子(でし)共に手を引かれて、蹣跚(よろぼ)ひ出て、何の御用にて御出候とて、膝の上まで懸かりたる(まぶた)を、弟子に引あけさせけるを、俊仁是まで參る事、世の儀に非ず、(それかし)女にて候ものを、此程失ひて候、定てしろしめさるべし、御弟子の中にも候ならば返し度候へ、何樣行く末を御存候べし、教へて給はれと仰ければ、恐惶坊聞きて、是は思ひも寄らぬ事を承候、弟子共の中にも候はず、東山の三郎坊か方にも候はず、但是より御歸返ずる道に、伏木の有べし、是そ教へ申べし、詳しく御尋あれと言ひ捨てて、掻き消す樣に()せければ、急ぎ歸り見給ふに、申つることく谷川に打渡して、大なる伏木の橋在り、立より、(あら)けなく踏鳴らし、如何に汝に物とはんと仰ければ、暫くあつて、此木動くかと見えて頭いでき、首を三間はかり持ち上げて、人にものとふとて去事やある、教へしと思へとも、汝が母は我為には妹なれは(をし)ゆるそ、わ殿(との)は女を失ひて尋るよな、其れは此邊には有べからず、陸奧(むつ)國高山の惡路王(あくるわう)と言ふ鬼か取たるなり、凡夫(ぼんぶ)の身にては敵ひ難し、鞍馬(くらま)の大毗沙門天(ひたもんでん)の、御力を頼み奉りて、斯の鬼神(きじん)を從へ、しよ人の(うれ)へを、御身か母、益田ヶ池の主也しが、假に人界に生まれる(えん)に引かれて成佛せり、我は今だ強引(ごういん)深くして、邪神(じゃしん)の思ひ付きせず、我為に善根を無し、邪道(じゃだう)の苦しひを助け給へと、言ふ言葉は殘り、形は消えて失せたりけえい。俊仁哀れに思召、一萬部の法華經を讀み、千石千貫を千人の僧に引給へば、其功力(くりき)にて、やかて成佛して、不思議の事共大かりけり、斯くて、俊仁は鞍馬へ參り、三七日篭り給ひて、(まん)ずるとらの一天に、甲冑(かつちう)を對して、几帳(きちやう)を打上げ、汝如何に遅きそと諌め給ふに、打驚きて見れば、枕に劍を立て有けり、さてはしよくはん成就(じゃうじゆ)、有難く思ひて、急き陸奧國へ(ぞく)たり給ふ、其の比妻子を失ふ人數を知らず、中にも二條大將殿御姫君、三條中納言北の御方、美濃の泉司(せんじ)、河內判官、斯くの如くの人人は、假令(たとひ)千尋の底までなりとも、有かと(だに)もきかば尋んと、思召(おほしめ)す折伏なれば、或るひは浦堂(うらどう)(くだ)し、又は自ら下る人も有り、思ひ思ひの出立(はな)やかにこそ見えたりけれ、去程に日()すつもりて、陸奧國初瀨の郡田村の郷に著き給ふ、頃は七月下旬(じゆん)の事なるに、賤女(しつのめ)(わさ)田にかくるなるこなは、惹かるる心浅からて、一夜の情けを掛け給ひて、もし忘れ形見も有ならば、是を(しるし)に尋ね来よとて、上()しの鏑矢一給はりて立給ふ。去程に、斯の惡路王かじあうくはく近付きければ、駒掛(こまかけ)寄せ見給へば、赤金(あかかね)築地(つゐぢ)を著き回し、(くろがね)の門を四方に立て、(ばん)を嚴しく固めたり、東(おもて)の門前に、忍ひよりて見れば、年の程十五六ばかりなる女童の、打(しほ)れて涙に(むせ)び、門外に(たたず)みたるを、己は何者ぞ問ひ給へば、是は美濃の泉司が娘にて(さふらふ)か、十三にて此所に囚はれ、 三年が間、門守りの女と定められて候とて、さめざめとなく、俊仁聞き給ひて、泉司も來りたるぞ、都へ()して行くべしとて、先みだい所の御事を問ひ給ふに、暫しく走り(さふら)はず、但し二三日以前までは、御聲の聞こへたると申、俊仁心元無く思召、鬼は內に有りかと問ひ給ふ、此比越前の方へ參りたると申、扨此の門の內へは何として入と仰せければ、あれに龍駒(りうのこま)乘りて內へ入、門を開きて、眷族(けんぞく)共を場(ばい)れ候と申ければ。
 斯の(りう)に乘りらむとし給へとも、門の內じぇ入らずして、北の方へ(ゆき)、俊仁劍を抜き、汝命惜しくは內へ入るべし。さなくは、(たちま)ち命を(とど)むべしとの給へば、恐れて內へそ入にける、扨斯の門を開かんとすれば、大磐石(ばんじゃく)共を重ねたる如くにて、少しも揺るがず、其時鞍馬の方を伏拝(すしおがみ)、願はくは御力を添へて度給へと、念じ給へば開きけり、やかて內へ入見給ふに、女の聲(あま)たして鳴きける、立より見給ふに、三條殿の北の方と、俊仁の御代(みだい)()わしまさず、如何に成り行き給ふぞと、御(たつ)ね有ければ、中納言殿北の方、二三日先に鬼の餌食(ゑじき)と成給ひぬとて、首ばかり取い出しければ、是は夢かや、三(とせ)(ほと)さへ(なか)()て、今日(けふ)此の頃(むな)しくなり給ふ事の哀しさよとて、輾轉(ふしまろび)泣き給ふ、俊仁いよいよ心元泣く(おぼ)し召し、(たつ)ねられければ、昨日(きのふ)まで、是より御國(おくに)(きやう)の聲聞こえつるか、何と()らせ給ふやらん、知らずと言ふ。覚付かなくて、大くの戸を開け見給へば、微かなる所に押込(をしこ)められて、()わしけるか、御目を見合て(あき)れはて、如何に如何にとばかりなり、やや有て(おほせ)けるは、何として是までは御入侯そや、先つ今生にて見みえぬる事こそ嬉しけれ、我明日は鬼の餌食と成るべし、一筋(ひとすぢ)に後世菩提(ぼたひ)を頼み奉るべし、鬼の歸らぬ先に、とくとく御歸りあれとて、涙に(むせ)ひ給ふ、俊仁、是まで尋ねけるも、同じ道にとこそ重ひつるに、如何で歸り候べき、扨鬼共歸る時に、(しるし)は如何と問ひ給へば、隈無き空も掻き曇り、震動雷電(しんどうらいでん)()多多(たた)しく、酒竹(しゃちく)の雨降りて、里の內より鬼の聲聞え候とその給ひける、さて何時に歸り候判ずる、明日の(むま)(こく)に歸らんと申つると仰られければ、其間に鬼共の住家(すみか)見んとて、殘りの人人語らひ、此処(かしこ)御覽すれば、大なる(おけ)共多く並べをきたり、見れば数多の人を取て、(すし)にして()きける、又傍らを見れば、十四五の行童喝食(ちごかつしき)にしてあり、又尼法師(あまほうし)の首を二三百数珠の如くに繋ぎ、軒の下に掛け並べたり、斯れを見、此れを見るに、恐ろしとも中中申は(をろ)かなリ、斯くて時刻も()れば、(には)かに空()き曇り、雷震動して、光もの飛違(とびちが)ひ、鬼の聲山を崩す如し、殘の人人は唯息たる心地(こころち)無し、俊仁は鬼の歸るを待給ふ、惡路王我宿近くなれば、門守りの女は無きか、我留守に何者なれば來るぞ、(たた)()()けそ、睨み殺せとて、千八百の(まなこ)の光、火焔(くわゑん)の飛ぶ如く也、去れ共俊仁の(かうべ)の上には、日月天降り給ひて、俊仁の眼となりて、睨み給へば、鬼共睨み負けて、血の涙を流しける、その時たもんでんより給はりたる劍を()げ給へば、鬼の首皆(ことごと)く落ちたりけり、この時人人力付、俊仁を伏拝給ふ、扨捕られらたる男女、思い思いの古里へ送り返されける。萬民の喜ぶ事限りなし、中にも三條中納言殿御嘆き、思ひやられて哀れなり、斯くて將軍は、思ひの侭に鬼神を從へ給ひて、都に上り、年月を送り給ふ程に。
 陸奧(むつ)の國にで、一夜の情けを掛け給ふ、賤女(しづのめ)(はら)に、男子一人出来けり、名を臥殿(ふせりどの)と申、此子九歲の年より、邊りの山寺にで学問せさせけるに、一を十とさとりけるか、十歲の年つくつくと案じけるは、人間のみならず鳥類(てうるい)畜類(ちくるい)までも父母有り、我が父は(いつく)に有そ母にとひければ、母涙を流し、汝が父こそは、當國の鬼神を從へ給ひつる俊仁將軍なれと、有りのまま語り、(くだん)の鏑矢取り出し見せければ、其儀ならば都に上り、父に對面せんとて、廿日余りの道なれとも、夜を日に次ぎ、三日に都に著き、將軍の御門の前に(やす)らう、折伏俊仁鞠を遊ばしけるか、篝の外へ著れけるを、伏殿さらりと流し、想ひのまま蹴廻りて、元の如くけこまれたり、俊仁御覽じて、何者外問ひ給へとも答へず、如何樣鞠は優れたりと思召、如何なる者やと仰けれ共、返事にも及ばず、腰よりも鏑矢を抜き出し、將軍の御前に置かれたり、俊仁是を御覽じて、さては我子也と嬉しく思召、樣樣の御持成(もてな)しにて、先御名を改めて田村丸とぞ申ける、斬り樣事がら人に優れ、御力は如何程有るとも限りなし、やがて御元服(げんぶく)ありて、稲瀨(いなせ)の五郎坂上俊宗と申ける。去程に俊仁五十五の御時、つくつく思召(おほしめ)しけるは、其れ日本僅かの國也、唐土(たうど)に渡りてきり從へ、末代まで名を殘さばやと思ひ、時の關白光隆(みつたか)してそうもん申さければ、真に思ひ立ちたる事、止むるに及ばずと仰出されける、俊仁悅び、三千艘の舟に五十萬騎打乘、神通の物の具對して二月の末に打立給ふが、それかし程の物か渡らんに、徴なくては叶うまじとて、神通の鏑矢一つ射給へば、其の矢明洲の津に止まり、七日七夜響き(わた)れば、人皆驚きさはぎ、禮門(れいもん)を引かせらるるに、()かせ考へて曰く、日本の將軍此の國を從へんとて來るなり、日本はそくさんの小國なれども、人の智惠(ちゑ)ふかふして、心が唸り、其上神國として、弓矢の謀り事を得たり、如何(いか)てか凡夫(ぼんぶ)の力にて伏せくべし、佛力ならて頼み方無し、惠果(けいくわ)和尚、千百萬の不動明王、矜迦羅(こんがら)制吒迦(せいたか)引きぐして、明州の津にて防ぎ給ふ、俊仁御覽じて、如何にや汝何者ぞ、我矢先には取ても敵うまじ、速やかに引き退くべしと仰ける、不動(ふどう)の給うやう、汝小國の臣として大國を從へん事思ひも寄らず、急ぎ本朝に歸るべしとて、降魔利劍(ごうまのりけん)の光を放つて振り給ふ俊仁も神通の劍を抜き、戰ひ給ふが、不動の利劍戰敗けて、次第次第に退きけり、不動敵はじと思ひ、 金剛童子(こんがうとうじ)を日本へ遣はして、鞍馬の毘沙門(びしやもん)へ申さけるは、俊仁、唐土を從へんとてよせ候、大方は防ぎ候へとも、敵ひ難く候、願はくは、この度の合戰(かつせん)に、俊仁入來(いりき)を落とし、我に力を添へて度給へば、たもん仰らけるは、如何でか日本の大將に不覚を計かせ候べき、とくとく歸り給へと仰せければ、俊仁御力はいよいよ勝り、劍の光輝きけり、不動敵はじとで、剎那か間に、又自ら鞍馬へ御輿成て仰せけるは全く此國を堅きと思ふには非ず、此度俊仁に負けぬものならば、佛力廢りて、信ずる者薄くなり、いよいよ邪道鬼神(じゃたうきんち)力を得て、眾生三途に歸らん事(うたか)ひ有べからず、願はくは俊仁がいりきを、落として度給へと仰ければ、たもんでんの御返事に、此國は佛法盛んして、佛神力を添へ給ふ、然るを日本の賢臣で(いわう)真堀(まほり)をば、如何でかうしなひ候べきやと仰せければ、不動(かさ)ねてのたまわく、假令俊仁が如く王法をも守り、佛法繁盛(はんじゃう)の國と成すばしとの給ひければ、其時毘沙門、俊仁と(かか)わりに、日本の守護(しゅご)して、眾生を助け給はんとの仰せこそ嬉しけれ、其儀ならば急ぎ御歸ありて、俊仁打給ふべしと有しかば、不動大に悅び、歸り給ひて、又戰ひ給ふ程に、俊仁の劍の光劣り、不動の利劍に戰ひ負けて、三つに折れて、靈山(りゃうぜん)へこそ、參上(まひあが)りけれ、其時俊仁、無念に思ひ、不動の舟に乘り移り、引組(ひつくん)で、上を下い返し給ふ程に、利劍落ち掛かり、俊仁の首を打落とせば、不動首を取て、矜迦羅、制吒迦も打徒然(つれつれ)、唐土へ歸り給ふ、三千艘の舟共は、浪に揺られ、風に放されれ、(いつく)ともなく、揺られて行こそ哀しけれ。
 其中に將軍の屍骸の有る舟は、人に知らせん為にや、八重の潮道(しほぢ)を分けて、博多の家に著きける。俊宗は、此(よし)(きこ)()し、急ぎ降り給ひて、斯の御屍骸を取收め、樣樣の御訪(おんとふらひ)ありて、なくなく都へ上がり給ひて、年月を送り給ふに、大和國奈良坂山にかなつぶをうつ、靈山といふ沙門(しやうのもの)出きて、都へ參る見付き物を、道にで奪ひ取、多くの人の命を絶つ事天下の嘆きならずや、急ぎ年胸に向ふて、從へよとの宣旨下りければ、俊宗承はり、五百よきの軍兵を引具(ひきぐ)して、奈良坂山へ向はれけるか、謀り事に色よき小袖余た、古津(こつ)川にで濡らしたる躰にして、木木の枝に掛け並べて置き、靈山を今や今やと待ち給ふ。暫くありて、丈二丈余りの法師の、(まかぶら)高く、(ほうぼね)怒り、真に恐ろしき有樣にて、高き所に駈け上がりて、荒布(あらめ)辛しや、此山を通るとて、かやうなる物を(かさ)りて見せたるは、此の奉仕を(たば)からんためか、よしよし其儀ならば、手並みの程を見すべし、(なを)も良き物の有らば、殘さず致すべしとて、躍り上がり笑ひける。俊宗駒掛け寄せての給ふやう、是は御門へ參る御物也、我命の有らん限りは、取らるる事有ましそと仰せられければ。義強(ぎこは)なるくはじやめかな、悉しくは思へとも、余りくはじやめが言葉のにくければ、かなつぶてを持つて、唯一つの菖蒲(しやうぶ)にせん、三郎(つぶ)ててとなづけて、金目は三百兩、角の數は百八十三、受けて見よと言ふままに、(ひぢ)を開け、一振り振つて打ければ、天地響きなる神の如し、去れ共俊宗騒がすして、(あふき)にて打落とし給へば、又次郎潰て取出し打ちけるをも、同じ勝手に打落とし給へば、靈山興覚顏(けうさめがほ)にて立けるが、さりとも太郎潰てに置きて、山を楯につく共、微塵になさん物をとて、金は六百兩、角は數を知らず、(もろこし)に五百年、かうらい高麗(かうらい)國に五百年、日本の地に棲む事八十年、此山に只三歲也、萬の寶を取事も、皆此潰ての(いと)くなり。あたら小賢(こざか)(わらは)を殺さんも無惨(むさん)なれ共、口のさがなき故に、只今(いとま)()らするぞ、念佛申せと言ふままに、()ての足を強く踏み、ゑいやと打ければ、百千の(いかつち)の一度に()つるかと覚えて、著も(たましゐ)も身に()はず、五百よきの(つはもの)は、皆平伏(ひれふ)して、(をと)もせず、唯暗闇にこそなりたりけれ、去れ共俊宗少も騒がず、馬立直し、一違ひ違ふて、響き渡るかな(つぶ)ては、三つながら內落とされ、今は力を失ひ、言い少したる口を抱へて、元の山に立しの(ばん)と、足速に歩みける、俊宗駒駈け寄せ、如何に御坊の潰て程こそ無く共、三代相傳して持たる鏑矢一筋、減算(げんざん)に入れば有るべきとて、神通の鏑にて射給(いたま)ふに、靈山坊が耳の()、三寸のきてなり渡り、元より飛行自在(ひぎやうじざい)の物なれば、七日七夜海山駈けて逃げけれ共、更に離るる事無し、俊宗は春日山に(ぢん)()を取り、靈山坊を待ち給ふ。七日目に盼り、俊宗の御前に參り、手を合申けるは、如何なる精兵(せいびゃう)と申とも、五町十地樣に、巖石(がんぜき)までつへ(きは)とを(すな)と承て候へ、今日まで七日ヶ間、海に入はう海に入り、山に登れば山に登り、耳の根には慣れす候、如何なる御弓ぞや、今日よりして惡路を總べからず、命を助け候はは、御郎等(らうどう)と成申さんと、なくなく申ければ、俊宗聞し召し、繪入(ゑい)りよはかりがたし、先戒(いまし)めて參るべしとて、鐵の鎖繩(くさりなは)にて(くく)り、五百よきか中に取り込め、都に歸り給へば、御門ゑいらんましまして御(かん)は申計りなし、靈山は、船岡(ふなをか)山にてきり、首を八十人して()き、獄門の前に掛けて、行き来の者に見せ給ふ、やがて俊宗は、十七にで將軍司を給り、陸奧の國初瀨(はつせ)(こほり)に、越前(ゑちぜん)を添へて下され、栄花(ゑいぐわ)に郡給ひけり。

『田村草子』上卷、迄
頁首


 田村草子 下

 係りける所に、年二年ありて、伊勢の國鈴鹿山に、大嶽丸とて鬼神出き、行き交ふ人を悩まし、見付き物も絶え絶えなり。御門此れよし聞し召し、俊宗に仰付、急ぎ滅ぼすべしとの宣旨也。將軍(かしこ)まって、宣旨承り、軍兵を召し寄せ、三萬餘きにて討つたら、鈴鹿山へ押寄(をしよ)する。大嶽丸は飛行自在の者なれば、此よしを聞て、峰の黒雲に立ち紛れ、火の雨を降らせ、雷電暇も無く、風凄まじく吹て、責よるべ樣も無くして、年月を送り給ふ。又、此山蔭に天女天降りで坐します、名をば鈴鹿御前と申ける。大嶽丸、鈴鹿御前に心を悩まし、有時は美しき童子と為り、又有時は公卿殿上人(てんじゃうひと)に返事で樣樣の謀り事を巡らし、一夜の契りをこめばやと、心を砕き空く枯れけれども、鈴鹿通力(つうりき)にてしり給ふ故、更に(なび)き給はず、斯くて俊宗は如何にもして、(かたき)の有所を慥に知て責入、勝負を著けせばやと思ひ、諸天に祈りを掛け給へば。
 有夜の曉、夢ともなく、現共なく、老人來り給ひて、此山の鬼を從へんと思はば、此邊に鈴鹿御前とて、天女の御座(おわ)しますを頼むべし、此の謀り事ならでは、大嶽丸を討つ事成難し教へて、立さり給ふと御覽じて、夢は醒めたりけり、俊宗有難く思し召し、先三萬よきの(つはもの)をは、都へ返し給ひて、唯一人鈴鹿山に立し伸ばせ給ふか、夕暮れの月末明に注し(うつ)り、草葉(くさば)()露もをき(まど)ひ、蟲の聲聲哀れを()へ、(づる)の秋を思ひ出し、草の枕に打形吹(かたふき)給ふに、年の程二八ばかりなる女、玉の簪に金銀の瓔珞(やうらく)掛け、唐錦(からにしき)の水干に、(くれなゐ)の袴ふみしたきて、忽然(こつぜん)()たり給ふ、俊宗是は斯の鬼の謀りて我心を引き見るにこそと思ひ、劍を膝の下に隱し、()らぬ躰にて見給へば、
  《目に見えぬ、鬼の棲家を、知るべしは、若ある方に、暫し止まれ。》
 と打ながめて、掻き消す如く失せにけり、俊宗こは有難き御告げぞと思ひ、太神宮を始め奉り、神神を伏拝給ふ、去れ共其の行方を知らず、されは尋ぬべき方もなくて、唯茫然として、大嶽丸が事は打忘れ、現に見えつる人の面影身に添ひて、時の間も忘られて、戀路の闇に迷ひ給ふが、せめて端端(はしはし)、夢の頼りもかなと(まとろみ)(うは)の空なる物思ひに、(しづ)みはて何事も、唯是鬼の謀らふらんに、思ひ切らんと、又神神を伏拝、願はくは此惡念(あくねん)を忘れて、鬼神を從へさせ度給へ、諸天諸佛の中にも大じ大ひの御近ひこそ有難けれど、感嘆(かんたん)を砕き祈りて、露の命も、頼み少なき有樣にて、斯く口(ずさ)み給ふ。
  《垣間見し、面影こそは、忘られね、目に見ぬ鬼は、さも荒は荒れ。》
 と打(なが)めて、唯茫然として居給ふに、有し人の來り、とくとく我(かた)へ御入候べしと、語らひ行て、比翼の契り淺からず、來たるともなく月日を送りけるが、或る夜の睦言に、吾は此山に假に來りて三歲也。御身此山の鬼神を從へ給はむとて、來り給ふとも敵ひ難し、我力を添へ奉らむ為に、假に此界に降る也。斯の大嶽丸、我に契りを込めんとて、樣樣言ひ寄る也。我謀り事にて、容易く討たせ申べし、御心易く思ひ、一向(ひたすら)に頼み給へ、更は我後をしたひ給へと有しかば。
 山山峰峰を辿り越えて見給へば、大き成岩穴在り、見給へば、漫漫たる(かすみ)の內に、黃金(こがね)(いらか)有、水鶏 (こんごんるり) の砂をしき、鐵の門を過ぎ行けば、白金の門在り、尚し過行けば、金銀の反橋(そりはし)を掛けたり、誠に極樂世界(ごくらくせかい)と言ふ共、是には如何でまさるべき、庭に四基の躰を(あらは)し、先ひんがしは春の景色にて、出る日蔭物どかなり、谷の戸明くる(うぐひす)の、聲も高嶺の雪溶けて、垣根の(むめ)のかつ散れば、櫻は遅しと咲き續く、岸の山吹色深く、藤波寄よする松枝の、碧の空に立續き、南面(みなみおもて)は夏の夜の、明方近き杜鵑(ほとどぎす)、鳴き行く山走しげり逢ひ、岩が()けつる(たき)津瀨に、浪も涼しき夕暮れに、飛び交ふ螢微かにて、天の戸叩く金銀瑠璃 (くゐなとり)も、(あけぼの)(やな)()しむらむ、扨又にしは、秋風の、末葉の露の散る影に、所所の簇紅葉の色、野邊の蟲の(をゑ)しらるる、蓬生(よもぎふ)の露にみだるる糸萩(いとはぎ)の、花紫の藤袴、桔梗(ききやう)苅萱(かるかや)女郎花(をみなへし) 、今を盛りと見えたりけり、北は冬の景色にて、尾上(をのへ)の松の梢までも、降りうづみたる雪の日に、隅やくけ降り末明(ほのか)にて、池の郡の僻に、番はぬをしの立ちさはく、羽風も寒き(あかつき)は、一人寢る身樣かるらん、又巽方(たつみのかた)を見れば、色色の鳥の羽にて、吹き分けたるやかた、百ばかり並びたり、其の內を見れば、玉の床に、錦の褥を敷き、室方の格子の內には、玉の(かんざし)掛けたる女、余たなみゐて、琵琶言調べ、或ひは、ごすご六に心を寄せたるもあり、其れより奧を見るに、大嶽丸か住ける所と思しくて、黄金の扉に、白金の柱にて、一段高く作り、(こほり)の如く劔戟(けんほこ)をば、隙間も無く立並べ、鐵の弓矢なくゐは數を知らず、俊宗思召けるは、只今よき折伏し也、鏑矢一つ射ばやと思召けるが、先鈴鹿御前に問ひ給へば、暫く待給ふべし、只今事のいで來るならば、検束(けんそく)共に取込められ、御命有まし、其れを如何にと申に、此鬼は、大通連(だいとうれん)小通連(しょうとうれん)釼明連(けみゃうれん)とて、三つの劍有、此劍共をたいする內には、日本か寄てせむる共、討たるる事が有まし、さあらばしやうじいれ、(むつ)ましけにも手無し、三つの劍を預かりて取るべし、其後來らん時、易々と討ち給へ、先只今は歸り給べしとて、打つれ()ちて歸り給ふ。案の如く、日暮れければ、大嶽丸、美しき童子と成り、鈴鹿御前の御枕に立寄りて。
  《岩ならず、枕成りとも、口やせん、夜夜の涙の、露の積もれは。》
 と詠み、(たもと)(かほ)にをし当てて泣きける、鈴鹿御前は、兼ねて巧みし事なれば、返し。
  《口はてん、枕は垂れに、おとらめや、人こそしらね、堪えぬ涙を。》
 と詠み給へば、大嶽丸是を聞き、怖いかに、ちつかに文の重なるまで、一度の御返事たに無かりつるに、只今の人の言葉の嬉しさよ。誠なるかな、目に見えぬ鬼神をも憐れと思はせ、男女の中をも和らげ、彪武士の、心を慰むは歌也。我歌の道を知らずしては、如何で此君と契りなん、天晴(あつはれ)歌詠みかなと、漫ろに我身を譽たりける。
 さて、鈴鹿の側近く寄り伏し、此れ程盡くせし心の程を、哀れみ給ふにや、只今の言の葉こそ有難けれと、涙を流しければ、鈴鹿御前、我も岩木ならねば、如何ばかり思ひつるそや、構へて見捨て給ふべからすと、打解顏(うちとけがほ)に仰ければ、大嶽丸も何か心を殘すべき、越し方行く末の事共()(かた)らひけるか、明ぼの(つぐる)鳥の聲、おき別れ行きぬきぬの、袖を控えながら、此程俊宗とやらん言ふ者、我に文を通はしけれども手に(もと)らず、御身にかく(なれぬ)ると聞くならば、如何なる憂き目にも哀すべき、心細く思ふ成り、御身の劍を我に預け給へかしと仰ければ、誠に去事有、其俊宗と言ふこくはじやめば、由有る曲者(くせもの)にて、我等をも狙ふと聞え候、去りながら此劍共の有らむ程は、御心安く思召(おほしめし)て、御枕に立て給へとて、大通連・小通連、二つの劍を抜き出して、そもそも此劍と申は、天竺(てんぢく)真方(まかた)國にて、阿修羅王(あしゆらわう)、日本の佛法盛ん也、急ぎまだうに引入よとの御使ひに、某眷族共(それがしけんぞくども)をくして參る時、此三つの劍を給はる事、後代までの面目(めんぼく)られは身を放す事無し、然るを一夜の情けにほだされて、鈴鹿御前に參らせて、御枕が身に立て給へとて、未だ夜を篭めて、立迷ふ黒雲に打乘りて、鬼の住かに歸りける。斯くて俊宗は、此由を聞し召し、たた是佛神の御計らひ也とて、いよいよくはんねんし給ふ、斯くて夜も明ければ、急ぎ御用意有るべしとて、先二つの劍を參らする、一つの釼明連と言ふ劍は大嶽丸が叔父に三面鬼(さんめんき)と申鬼が預かりしか、此程天竺へ參り候そや、又今夜は鬼共に酒を進めて飲ませよ、兵事(へいじ)を送りて侯間、皆眷族共はゑい伏し侯べし、御心安く思し召して討ち給へとて、鈴鹿は雲乘りて立隱れ給ふ、去程に大嶽丸、此をば夢にも知らずとて、連中差して入ければ、俊宗立向かひて、鈴鹿御前と申は何者ぞ、定めて大嶽丸と言ふ曲者か、汝知らずや、我は是、日本の御門に遣へ奉る、田村大將軍俊宗とは我事也。十七にて大和の國奈良坂山に、かなつぶての靈山と言ふ化生(けしやう)の者を從へ、大將軍の司を給はり、御門を守護(しゆこ)し申事、異國までも其の隱れ無し、それになんそ、まの前にて大惡を成す事、たがゆるしけるそとの給へは、大嶽丸は、今まで美しき童子成りしが、見る見る丈十丈ばかりなる鬼神と成、日月の如くなる眼を見出し、俊宗を睨みけるが、天地を響かし大をん舉げて、汝は扶桑(そくさん)國の御門の臣下として何程の事有べきぞ、手並みの程を見せんとて、冰の如くなる劍鉾(けんほこ)を、三百ばかり投げか来る、去れ共俊宗の味方には千手觀音(せんじゅくはんをん)と、鞍馬の大毗沙門天(ひたもんでん)、兩脇に立給ひて、將軍の上に落ち懸る鉾を払ひ給ふ、鬼神は怒りをなし、數千ぎに身を返じ、大山の動く如し、去れ共田村騒ぎ給はず、神通の鏑矢射給へば、或るひは撃たれ、射た手をひ、四方へちりちりになりにけり、去れ共大嶽丸は微塵(みぢん)と成り、磐石と變化、暫く撃たれされば、俊宗劍を投げ給へば、首は忽ち打落とされ、雲霞の如く見えたる眷族も、皆消え消えと成りけり、其後鬼の首共を、ざう車に積み、都に上せ給ふ、御門()いらんましまして、伊賀の國を給はり、いよいよさかへ給ふ、去れ共俊宗は、鈴鹿御前情け深く坐しければ、やかて御下り有て、明しくらし給ふ程に、姫君一人出き給ひて、御名をは聖林(しやうりん)女と申て、何時聞かしつき給ふ、去れ共都遠き所なれば、折伏しは都の事思し召し出して、何時まで掛かる雛の住まひならん、偲ひ都に上らばやと思し召しければ、鈴鹿御前是を打見(うちみ)給ひて、元より我は下界の人間に非ず、何事も御心に思ひ給ふ事を我知らぬ事無し、さしも二世とこそ契りつるに、早くも變はりたる御心かなと、涙に咽び給へば、田村聞し召し、いさとよ心の變はる事はさふらはず、去れ共此の所に斯くてながらへ候へは、君の御惠みも薄く成り、又は郎等共の思はん程も謀り難し、同じく都へ御供申て、住まばやとこそ思ひさふらへと仰られければ、其の御言葉もことはりなれ共、去りながら我は此の山の守護神(しゅごじん)と成り、都を守り申べし、急ぎ御上り候へ、御心こそ謀りたり共、我は聖林(しやうりん)と申姫が候上は、弓矢の守り神となるべし、さあらは此くれには、淡海(あふみ)の國に、惡事(あくし)の高丸出て、世の(さまた)げを成すべし、さあらは田村に、又從へよとの宣旨降るべし、內內御心に掛け、御用意有れと仰ければ、田村聞し召し、こは恨めしき御事かな、もし諸共に上り、都の住まゐもかなとこそ思ひつるに、如何で見捨て參らすべきと仰ける、鈴鹿御前聞し召し、先先此度は我に任せて、御昇り候て、やがて又降り給へとありしかば、力無く、俊宗上らく有て、先參內されければ。
 御門衛いかん有て、管弦亂舞(くはげんらんぶ)御歌合樣樣の御持成(もてな)しなり、上くぎやう天上人、とりとりの御慰めに、さらによるひるかけて御暇も無し、斯くて彌生(やよひ)の末より、神無月の始め頃まで、御遊覽(ゆふらん)有ける所に、鈴鹿仰せし如く、淡海の國に、高丸と言ふ鬼居できて、往來の者を喪ふ事數を知らず、急ぎ討つて下さるべしとて、在所在所より申來る、此由相聞申ければ、たまたま將軍の在京也、此年月の辛苦をも慰めんと思ひつるに、程も無くて、掛かる事こそらめしけれ、去りながら誰に仰せ付けられん物無しと仰ければ、俊宗は時の面目(めんぼく)是にすきしと、悅び御受けを申、(まか)り立て、鈴鹿へ此由申さはやと思し召しけるか、いやいやつうりきにて、とくしり給ふべき物を、時移りては足柄(あしかり)なんと思し召し、十六萬きの兵を引ぐして、高丸かぢゃうへをしよせ、內の有樣見給ふに、石の築地(つゐぢ)を高くつき回し、鐵の門さをさし固めて、せめ入べき樣も無し、俊宗門前に駒掛け寄せ、如何に鬼共確かに聞け、只今汝か討つてに向ふたる者を、如何なる者とか思ふらん、一刻までも隱れ無き、藤原の俊仁の嫡子(ちやくし)に、田村將軍藤原俊宗也。手並みの程は定めてきき及び給ふらんに、何とて()り出てか胡散(うさん)して、命を繼ぎ、己が本國へ歸らぬぞとの給へは、じゃうにはなりを鎮めて、音もせず、俊宗(はら)を立て、鈴鹿御前の傳へ給ふ和諧印(くわかひのいん)を結びて、じゃうの內へなげ給げば、 花苑(くわゑん)と成てやけ上がる。高丸は雲に乘りて、信濃(しなの)布施屋(ふせや)(だけ)へ落ち行きける、田村續ひて責められければ、駿河(するか)國富士嶽へ落ち行きける、是をやがて攻め落とされ、外の濱に落ち行けるか、是を責め付けられて、たうと日本の境に、岩を刳り貫き、じゃうとして、引篭もりければ、ろく地に續く程は責めけるが、海上の事なれば、如何せん、先引取り兵船を(ととの)へてよせんとて、引き給ふが、十六萬期の(つはもの)、此処かしこにて討たれ、やうやう二萬旗ばかりになり、都へ上り給ふとて、鈴鹿の坂の下、罷りのしゆくにつき給ふそと仰ける、俊宗聞し召し、その御事にて候、罷り向ふ時も、御いとまこいに參らばやと存知候へども、時刻移りなんと思ひ、罷り通り候也、高丸をは随分責め候へとも、今は海中に岩を刳り貫きて、引篭もり候あひだ舟を整へん為に、先都へ上り候、其上人余た討たれ候、此由申上、やがて又打寄せ候べしと仰ければ、鈴鹿聞し召し、舟も兵も、如何程集め給ふ共ぼんぶの身に叶ふべからず、兵共をば、急ぎ都へ(のぼ)せ申さんとて、神通(じんつう)の車乘り、只二人剎那が間に、外の濱に著き給ふ、高丸は折伏し、昼寝して居たりつるが、かつは(とほ)き、例の田村か又來るぞ、用心せよと言ふままに、岩戸を立てて引篭もる、其の時鈴鹿は左の手を差し上、天を(まね)き給へば、十二の星、二十五の菩薩、天降り給ひて、見目(みめ)うの音楽を揃へ、斯の岩屋の上にて、舞ひ遊び給へば、高丸勝て合ひの娘是を聞、あら面白の音楽や、天竺に在りし時、度度聞けれ共、斯程の楽は今だ聞かず、哀れ見ばやとこそ天へけれ、高丸申やう、誠の楽と思ふべからず、田村と鈴鹿、我を謀り出さんとてする事ぞかし、構へて見る事むやくなりと言へば、娘重ねて申やう、(あらは)にも出て見ばこそあしからめ、戸を細目に開けて見候に、何の子細の有べきと言ひければ、力無く岩屋の戸を三寸斗開けて覗きければ、廿五の菩薩天童子集まりて、殊に(たえ)なる音楽を揃へ舞給へば、余りの面白さに明くるとは思はね共、廣廣と開きければ、鈴鹿田村に、あれ遊ばせとの給ふ、俊宗鐵の弓に、神通の鏑矢撃つがひ、暫し固めてはなち給ふ、(いかづち)の如くに成り渡り、高丸か眉間(みけん)(いくだ)き、腰骨(こしぼね)掛けて、後なる石につなぬかれける。其の時劍を投げ給へば、高丸親子七人が首を打落とし、八人のつつの忍足(にんそく)にもたせて、都へ上り給ひければ、くんか受けじゃう、思ひのままに頂戴(ちやうだい) して、又鈴鹿へ下り給ふ、御前は悅びの神酒(みき)(すす)め、夜もすがらく半減して、明石(あかし)蔵させ給ふ。
 有時鈴鹿仰けるは、一年大嶽丸が、釼明連(けみゃうれん)の劍を取殘せしし故に、魂魄(こんはく)殘て天竺へ歸り、又日本へ渡り、陸奧の國に、(きり)山ヶ嶽に立て篭りて、世の妨げを成すべきとの瑞相(ずいさう)有、急ぎ都に上り、良き馬を求め給へと仰ければ、やがて上洛(しやうらく)して馬を尋ね給ふ所に、五條の傍らに、すみあらしたる(やかた)に立寄り見れば、二百さいにも及びたる大きな、馬屋の前にねふり居たり、又世の常の馬五つばかり一つにしたる程の馬を、金鎖(かなくさり)にて、八方へ繋ぎたるが、百日にも巻くさくれたり共見えす、引き立つる共一足も行くべきとも見えず、俊宗此馬売るべきかと仰ければ、大きな嘲笑ひ何の用に此馬買ひ給ふべき、欲しくは値はいるべからず、引かせ給へと言ふ、俊宗嬉しく思し召し、明日引かせ申さんとて、歸り給ひて、斯の大き何百石百貫に色好き小袖を添へて(くだ)したぶ、大きな大きに悅びけるなり。さて其馬を買ひ給ふに、世中に並び無き名馬にて、俊宗乘り給へば、山を駈けり海を渡るも、同じ平地の如し、不思議に思し召し、鈴鹿へ()かんと思ひ乘り出し給へば、剎那か間に著き給ふ。鈴鹿御前は御覽じて、天晴(あつはれ)(むま)候、これに召されて、陸奧の國霧山ヶ嶽を御覽しをかれ候へ、大嶽丸が來り候共、駒の足立を知らせ給はば、唯一かせんのしやうぶそと仰られければ、やがて此駒に打乘りて、東を指して打ち給ふに、反しの間に、霧山當たりを驅け回り、元の所に歸り給ふ、斯くて月日をすぐし給へば、案の如く、大嶽丸かしんはく、元の如くに成て、霧山ヶ峰に居て、人を捕る事限りなし、此由相聞申ければ、二十萬()軍兵(ぐんびやう)を田村將軍に付け給ひて、急ぎ討つ立つべしとの宣旨なり。俊宗畏まつて受け給り、此由鈴鹿に語り給へば、人數はさやうに入べからす、唯御手勢(てぜい)謀り連れ給ふべしとて、皆人人をは返し給ひて、五百よきの手せい謀り召し連れ給ふ、都より霧山までは三十五日の道なるを、軍兵共をばさきに立て、俊宗は鈴鹿御前と酒宴管絃(しゆゑんくはんげん)、樣樣の御遊びにて、七日の末より八月半ばまで、夜と共の御()ふ樣樣なりしか、都を出て三十四日と申に鈴鹿を出る、御前は飛行(ひぎやう)の車に召す、俊宗は斯の駒に打乘り、へんしの間に、霧山の麓に著き給ふに、軍兵共は今た二時ばかり後に著きける、去程に鬼神は山を掘り抜き、口には大磐石(ばんしゃく)を戸枚として、せめ入べきやう話、去れ共田村は、兼ねて案內(あんない)走るなり、絡め手に廻り、せめ入て見給へば、大嶽丸は無かりけり、門守りの鬼一人出、何者なれは、我に案內も岩で通るらん、物見せんとて、鐵のばうにて討たんととすれば、俊宗(あふぎ)にて打下し、(にく)き者の振る舞ひかなとて、 先(いまし)めて引出す、扨大(たけ)は幾つに有そと問ひ給へば、八大(わう)と申は我らかしうの主也、蝦夷ヶ嶋(ゑそがしま)に坐します、御見舞ひの為に、昨日御輿(こし)候程に、やがて歸り給はんと申せば、俄かに空曇り、(かみなり)して、黒雲一叢の中より、鬼の聲凄まじくして、あら珍しいや田村殿、久敷き程の減算(げんさん)也、一年伊勢の鈴鹿山にて、御身は某を打ち止めたりと思ふらん、我は其の頃天竺に用有て、玉しゐ一つの輿をきて歸る也、其れを我本體を思ふらん、人間の智慧(ちゑ)の浅ましさよと、笑ひければ、田村聞給ひて、其れは去事も有べし、汝か劍は如何にと仰ければ、是こそ釼明連(けみゃうれん)よそて差し上る、俊宗御覽じて嬉しし嬉しし、二つの劍は給りて、日本の寶となし、今一つの劍を取り殘し、心に掛かり思ひしに、此までの持參何より満足也との給へば、大嶽丸腹を立て、何のわつはに物無いはせそ、三面鬼は無きかと言へば、面の三つ有る赤き鬼、躍り出て、大石を雨の降る程打けれ共、一つも当たらず。其時俊宗、例の大弓に鏑矢つがひ、暫し固めて放ち給へば、三面鬼かまつかうい砕かれ、朝の霧と消えにけり、大嶽腹を据へかね、手取にせんと、半町ばかり一飛に飛んで懸るを、飛ちかえて切給へば、首は前に落ちけるか、其のまま天へ舞上がる、鈴鹿御前は御覽じて、此首只今落ちかかるべし、用心あれとて、鎧甲を重てき給ふに、二時計有て鳴渡り、田村の甲の手偏(てへん)(くらひ)付、俊宗甲を脱ぎ御覽するに、其まま首は死にける。殘の眷族共には繩を掛け、引上り、皆切て獄門(ごくもん)に懸られける、又大御丸が首をば、末代の傳へにとて、家の寶蔵(ほうそう)に納、千本の大頭と申て、今の世までも、見越し先に渡るは、この大嶽丸が頭也。
 去程に將軍の御幾方(いくはう)、いよいよ優りける、斯くて俊宗、鈴鹿御前と尚淺からぬ仲と成り給ひけるか、鈴鹿御前、唯風の心地と仰られしが、次第にをもらせ給ふ、俊宗心憂く思し召し、樣樣の御祈りあれば、鈴鹿此由聞し召し、我はかりに此界に生るる也、此世の機縁付きたれば、如何に祈り給ふとも甲斐有まし、遑申て田村殿、聖林(しやうりん)を愛をしみ給へと言ひ捨てて、終に虛しく成給ふ、俊宗の御嘆き、中中申はかり無し、余り悲しみ給ひて、一七日()がれじににしに給ふが、やがて冥土に行き給ひて、俱生神(くしやうじん)を呼び、汝は十王の下人か、されは我娑婆(しやば)の田村の大將軍俊宗也、汝が主に對面申た聞由(きよし)申べしとの給へば、俱生神(くしやうじん)大きに怒り、娑婆(しやば)にて は何者にてもあれかし、今我等にさやうの事を言はん物、無間(むけん)へ落とすべしとて、黒き鬼と赤き鬼か、引き立てんとしけるを、高足だにて、ころころと踏みたをし、我言ふ事を聞くまじきかと仰ければ、俱生神霸氣を消し、唯呆れ果てたるばかり成り、ややありておきあかり、是非の子細も無く十王の前に逃げて行き、此由斯くと申ければ、十王出給ふ、其時俊宗、我妻七日以前に身罷りて候、急ぎ返し給はるべしとの給へは、其れは定業(ぢやうごう)限りあれは叶ふまし、汝は非業(ひごう)成り、急ぎ返れと仰ければ、定業(ぢやうごう)なればこそ返してたべと申候へ、非業(ひごう)成れば言い分は無し、返し給はずは、狼藉(らうぜき)の有べしとて、和諧印(くわかひのいん)を結び()げ給へば、大釈奠(しやくでん)やけ上がる、その時大通連(とうれん)を抜き給ひて、驅け回り給ふ、此大通連は、文珠の化身(けしん)なれば、十王も俱生神も、如何で容易く思ふべき、閻魔(ゑんま)王は獄卒(ごくそつ)を召し、斯の者を返せと仰ければ、獄卒(ごくそつ)申けるは、定業(ぢやうごう)の者也、其上早からだも候はず、如何はせんと申ければ、鈴鹿と同じ時に生まれた女の美濃國東海(とふかい)と言ふ所有、彼に取り替へよと仰ければ、獄卒承て、斯のからに取替へて、田村の前に出しけるか、有しより姿も變はり、(かたち)劣りければ、俊宗は腹を立て、元の如くに成して度給へと仰ければ、第三の冥官(みやうくはん)を御使ひにて、東方淨瑠璃(じゃうるり)世界の祝寶積(いわうほうしやく)の薬を進め給へば、尚其の昔より、(いつく)しくならせ給ひけるとかや、さて帝釈(たいしゃく)の給ふは、今より三年の暇を取らする也と其の給ひける、冥土の三年は娑婆の四十五年也、さてこそ田村將軍と鈴鹿御前の御契りは、二世の縁とは申なれ、有難りきためし也。
 さても此の大將軍(しやうぐん)は、觀音(くはんをん)の化身にてましませば、眾生濟度(しゆじやうさいど)方便(はうべん)に、假に人間と現れ給ふ、又鈴鹿御前は、竹生嶋(ちくぶしま)辨財(へんざい)天女なるか、(あつ)き邪神を助け、佛道(ぶつだう)に入給ふべきとて、樣樣に變化(へんげ)給ふも、御慈悲深(じひふか)き事也。させ末代の(ためし)には、清水寺の御建立(こんりう)、大同二年に聖眾(しやうじゆ) して、大同寺と申せしか、水の御中身(みなかみ)清くして、、流れの末も久方の、空も(どか)に巡る日の、掛け清水寺とし改めて、尚此寺の坂の上なる、田村だうの軒ばの松の深碧、千代萬代の蔭染めて、貴賤(きせん)訓示(くんじ)()する事、佛法繁昌(はんじやう)の故也。此草子見給はん人人は、いよいよ觀音(くはんをん)を信じ給ふべし。

『田村草子』下卷、迄
頁首


 被稱作『田村草子』之御伽草子,是為橫越藤原俊祐、俊仁(日龍丸)、俊宗(田村丸)三代之怪物退治譚。﹝或作坂上俊祐、俊仁、俊宗,乃結合坂上田村麻呂與藤原俊仁所為。﹞『鈴鹿(すずか)』一書之名、則來自作中與俊宗相契許,協助其退治大嶽丸、高丸之鈴鹿山天女・鈴鹿御前之名。﹝或本為第六天魔王之女兒。﹞藤原俊重將軍之子俊祐與益田池大蛇所化身之美女相契,而生下日龍丸。日龍丸退治近江國大蛇之後,則改名為俊仁將軍。十七歲時與照日前結婚、生下兩人的女兒。由於照日前為陸奧高山之惡路王所奪、即赴奧州以退治之、更救出照日前。前往奧州途中、與初瀨郡田村賤女﹝或本作惡玉。﹞相契、產下伏殿(ふせり。後稱俊宗。)、長大後父子得以相逢。俊仁則死於遠征唐土之戰、繼承其事業之俊宗,退治了奈良坂山之靈山坊。受宣旨而前往鈴鹿山退治大嶽丸、與鈴鹿御前結合而育有一子、其後又再度收到征討近江國惡事高丸之 宣旨而退治之。其後,大嶽丸再度復活,便再踏征途,遂以其首供於平等院寶物殿。退治鈴鹿山鬼神之事,則常見於謠曲『田村』之中。








底本:台灣大學藏古活字版たまらのさうし

[久遠の絆] [再臨ノ詔]