日本書紀 卷三十 持統紀

高天原廣野姬天皇(たかあまのはらひろのひめのすめらみこと) 持統天皇(ぢとうてんわう)


日本歷代天皇大鑑 持統天皇像

一、皇后臨朝稱制

 高天原廣野姬天皇(たかあまのはらひろのひめのすめらみこと)(わかきとき)鸕野讚良皇女(うののさららのひめみこ)天命開別(あめみことひらかすわけ)天皇第二女也。母曰遠智娘(をちのいらつめ)【更名,美濃津子娘(みのつこのいらつめ)。】
 天皇深沉(しめやか)大度(おほきなるのり)
 天豐財重日足姬(あめとよたからいかしひたらしひめ)天皇三年(みあひ)天渟中原瀛真人(あまのぬなはらおきのまひと)天皇為(みめ)
 雖帝王女(みかどのみむすめ),而好禮(ゐやをこのみ)節儉(をしつりたまひ),有母儀德(おもたるいきほひ)
 天命開別(天智)天皇元年,生草壁皇子尊(くさかべのみこのみこと)大津宮(おほつのみや)
 十年,十月,從沙門(ほふし)天渟中原瀛真人(天武)天皇,入於吉野(よしの)(さり)猜忌(うたがひ)。語在天命開別(天智)天皇(みまき)
 天渟中原瀛真人(天武)天皇元年,夏六月,從天渟中原瀛真人(天武)天皇,避難東國(あづまのくに)鞠旅(いくさにつげ)會眾(もろひとをつどへ)(つひに)與定(はかりこと)。迺(わかち)敢死者(たけきひと)數萬,置諸要害之地(ぬみのところ)
 秋七月美濃(みの)軍將(いくさのきみ)等與大倭(やまと)桀豪(いさを),共誅大友皇子(おほとものみこ),傳(かうべ)不破宮(ふはのみや)
 二年,立為皇后(きさき)。皇后從始迄今,(たすけ)天皇定天下(あめのした)。每於侍執(つかまつり)之際,(すなはち)言及政事(まつりごと),多所毘補(たすけ)
 朱鳥(あかみとり)元年,九月戊戌朔丙午()天渟中原瀛真人(天武)天皇(かむあがり)。皇后臨朝稱制(みかどまつりごときこしめす)

二、大津皇子事件

 冬十月戊辰朔己巳()皇子(みこ)大津謀反發覺(あらはれぬ)
 逮捕(からめ)皇子大津(おほつ),并捕為皇子大津所詿誤(あざむかえたる)直廣肆(ぢきくわうし)八口朝臣音橿(やくちのあそみおとかし)小山下(せうせんげ)壹伎連博德(いきのむらじはかとこ),與大舍人(おほとねり)中臣朝臣臣麻呂(なかとみのあそみおみまろ)巨勢朝臣多益須(こせのあそみたやす)新羅(しらき)沙門行心(かうじむ)帳內(とねり)礪杵道作(ときのみちつくり)等,三十餘人。
 庚午()賜死(みまからしむ)皇子大津於譯語田舍(をさたのいへ)。時(とし)二十四。
 妃皇女山邊(やまのへ)被髮(かみをみだし)徒跣(すあし)奔赴(はしりゆき)殉焉(ともにみまかる)。見者皆歔欷(すすりなく)
 皇子大津,天渟中原瀛真人(天武)天皇第三子也。容止(みかほ)墻岸(たかくさがしく)音辭(みことば)俊朗(すぐれあきらか),為天命開別(天智)天皇所愛(めぐまれ)。及(ひととなる)(わきわきしく)才學(かど)(もとも)文筆(ふみつくる)詩賦(ふみ)(おこり),自大津始也(はじまれり)
 丙申(廿九)(みことのり)曰:「皇子大津謀反(みかどかたぶけむ)。詿誤吏民(つかさひと)、帳內不得已(やむことえず)。今皇子大津已滅(すでにほろびぬ)從者(ともびと)(かかれる)皇子大津者,皆赦之(ゆるす)(ただし)礪杵道作(ながせ)伊豆(いづ)。」又詔(のたまはく):「新羅沙門行心(くみせ)皇子大津謀反,(われ)不忍(しのびず)加法(つみする)(うつせ)飛驒(ひだ)伽藍(てら)。」
 十一月丁酉朔壬子(十六)(つかへまつれる)伊勢神祠(いせのかみのまつり)皇女大來(おほく),還至京師(みやこ)
 癸丑(十七)地震(なゐふる)
 十二月丁卯朔乙酉(十九)奉為(おほみため)天渟中原瀛真人(天武)天皇,設無遮大會(かぎりなきおがみ)五寺(いつつのてら)大官(だいくわん)飛鳥(あすか)川原(かはら)小墾田豐浦(をはりたのとゆら)坂田(さかた)
 壬辰(廿六)(たまふ)京師孤獨(ひとりひと)高年(としたかきひと)(ぬの)(きぬ)有差(しなあり)
 (うるふ)十二月筑紫(つくし)大宰(おほみこともち)三國(みつのくに)高麗(こま)百濟(くだら)、新羅百姓(おほみたから)男女并僧尼(ほふしあま)六十二人。
 是歲(このとし)(をろち)(いぬ)相交(つるめり)(しばらく)俱死(ともにしぬ)


藥師寺藏 大津皇子像
懷風藻』:「狀貌魁梧,器宇峻遠。幼好學博覽能屬文,壯愛武多力能擊劍。性放蕩,不拘法度降節禮士,人多附託。新羅僧行心解天文卜筮:『太子骨法非人臣之相,久在下位恐不全身!』因進逆謀,迷此詿誤,遂圖不軌。鳴呼惜哉!蘊彼良才,不以忠孝保身,近此奸豎,卒以戮辱自終。古人慎交遊之意,因以深哉。時年廿四。」


伊勢齋宮跡 大來皇女萬葉歌碑
齋宮大來皇女退下,或因坐大津皇子謀反,或緣天武帝崩,并凶事。


賀茂御祖神社 葵祭 采女
『養老』後宮職員令膳司:「膳司/尚膳一人。【掌知御膳進食先嘗。惣攝膳羞、酒醴、諸餅蔬菓之事。】典膳二人,掌膳四人,采女六十人。」


常陸、下總國郡圖
『續日本紀』靈龜二年五月:「以駿河、甲裴、相模、上總、下總、常陸、下野七國高麗人千七百九十九人遷武藏國,始置高麗郡。」是知投化高麗人等後遷武藏。『後漢書』光武帝紀:「給稟高年鰥寡孤獨及篤癃無家屬貧不能自存者。」又云:「賦田受稟,使安生業。」『說文』:「稟,賜榖也。」


華鬘 華縵 御蔭
華縵、御蔭,頭戴髮飾之謂,此蓋為莊嚴殯宮之華鬘歟。


龍象壺瓶
龍象,『潛確居類書』:「佛法曰之。智度論曰:『水行之中,龍力為大;陸行之中,象力為大。』故負荷大法者,比為龍象。」是以龍象大德,諭高僧也。


天武、持統帝 檜隈大內陵


大內陵 墳丘、橫口式石槨


天武、持統帝 檜隈大內陵
『延喜式』諸陵:「檜隈大內陵,在大和國高市郡。兆域東西五町,南北四町。陵戶,五煙。」『墓陵要覽』:「高市郡明日香村大字野口。」嘉禎三年,遭盜掘。故時頃書物『明月記』、『阿不幾之山陵記』等,載其陵規模。墳丘八角,玄室壁塗以朱紅,天武帝遺骸納夾紵棺中。持統帝歿,火葬,遂合葬其陵。


大水上神社 雨乞神事跡 竜王淵
不崇朝,午前也。『毛詩』蝃蝀:「朝隮于西,崇朝其雨。」傳:「崇,終也。從至食時為終朝。」
三、天武帝殯儀并大葬

 元年,春正月丙寅朔()皇太子(ひつぎのみこ)公卿(まへつきみ)百寮(ももつかさ)人等,適殯宮(もがりのみや)慟哭(みね)焉。
 納言(ものまをしつかさ)布勢朝臣御主人(ふせのあそみみあるじ)誄之。(ゐや)也。(しのひことたてまつる)畢,眾庶(もろびと)發哀。次,梵眾(ほふしたち)發哀。於是,奉膳(うちのかしはでのつかさ)紀朝臣真人(きのあそみまひと)奉奠(みけたてまつる)。奠(をへ)膳部(かしはで)采女(うねめ)發哀(みね)樂官(うたまひのつかさ)奏樂(うたまひつかへまつる)
 庚午(),皇太子(ゐて)公卿、百寮人等,(まゐで)殯宮而慟哭焉。梵眾(したがひ)而發哀。
 庚辰(十五),賜京師年自八十以上(かみつかた)篤癃(やまひあつきひと)(まづし)不能自存(わたらふこと)者,(あしきぬ)綿(わた)各有差。
 甲申(十九),使直廣肆田中朝臣法麻呂(たなかのあそみのりまろ)追大貳(ついだいに)守君苅田(もりのきみかりた)等,使於新羅,(つげしむ)天皇(みも)
 三月乙丑朔己卯(十五),以投化(おのづからまゐおもぶけり)高麗五十六人,居于常陸(ひたち)國,賦田受稟(たたまひかてたまひ),使安生業(なりはひ)
 甲申(廿),以華縵(はなかづら)(たてまつる)于殯宮。此曰御蔭(みかげ)。是日,丹比真人麻呂(たぢひのまひとまろ)誄之。禮也。
 丙戌(廿二),以投化新羅十四人,居于下毛野(しもつけの)國。賦田受稟,使安(やすからしめ)生業。
 夏四月甲午朔癸卯(),筑紫大宰(たてまつる)投化新羅僧尼及百姓男女(をのこめのこ)二十二人。(はべらしむ)武藏(むざし)國,賦田受稟,使安生業(なりはひ)
 五月甲子朔乙酉(廿二),皇太子率公卿、百寮人等,適殯宮而慟哭焉。於是隼人(はやひと)大隅(おほすみ)阿多(あた)魁帥(ひとごのかみ),各(ひきゐて)(ともがら)(たがひ)進誄焉。
 六月癸巳朔庚申(廿八),赦罪人(つみひと)
 秋七月癸亥朔甲子(),詔曰:「凡負債者(もののかひおへるもの),自乙酉(十四)以前(さき)物,莫收(このしろ)也。若(すでに)()者,不得(つかふ)利。」
 辛未()賞賜(ものたまふ)隼人大隅、阿多魁帥等三百三十七人。各有差。
 八月壬辰朔丙申()(みけたてまつる)于殯宮。此曰御青飯(あをきおものあてまつる)也。
 丁酉()京城(みやこ)耆老(おいたるひと)、男女,皆(のぞみ)慟哭於橋西(はしのにし)
 己未(廿八),天皇使直大肆(ぢきだいし)藤原朝臣大嶋(ふぢはらのあそみおほしま)、直大肆黃書連大伴(きふみのむらじおほとも)請集(ませつどへ)三百龍象大德(おこしきほふし)等於飛鳥寺(あすかでら)奉施(おくりたてまつり)袈裟(けさ)人別(ひとごと)(りやう)。曰:「此以天渟中原瀛真人(天武)天皇御服(みそ)縫作(ぬひつくれる)也。」詔詞(みことのりのことば)酸割(からくいたし)不可具陳(つぶさにのぶべからず)
 九月壬戌朔庚午(),設國忌齋(こくきのおがみ)於京師諸寺。
 辛未()設齋(おがみ)於殯宮。
 甲申(廿三),新羅遣王子(せしむ)金霜林(こむさうりむ)級飡(きふさん)金薩慕(こむさちも)及級飡金仁述(こむにんじゆつ)大舍(だいさ)蘇陽信(そやうしん)等,奏請國政(くにのまつりごと),且獻調賦(みつき)學問僧(ものならふほふし)智隆(ちりう)附而至焉(まゐけり)。筑紫大宰便(つぐ)天皇崩於霜林等。即日(そのひ),霜林等皆著喪服(あさのきぬ),東向三(をろがみ)三發哭焉。
 冬十月辛卯朔壬子(廿二)皇太子(草壁)率公卿、百寮人等(あはせ)國司(くにのみこともち)國造(くにのみやつこ)百姓(おほみたから)男女,始(つく)大內陵(おほちのみさざき)
 十二月辛卯朔庚子(),以直廣參(ぢきくわうさむ)路真人迹見(みちのまひととみ),為(あへたまふ)新羅敕使(みかどのつかひ)是年也,太歲丁亥
 二年,春正月庚申朔(),皇太子率公卿、百寮人等,適殯宮而慟哭焉。
 辛酉(),梵眾發哀於殯宮。
 丁卯(),設無遮大會於藥師寺(やくしじ)
 壬午(廿三),以天皇崩,奉宣(のたまふ)新羅金霜林等。金霜林等乃(みたび)發哭。
 二月庚寅朔辛卯(),大宰獻新羅調賦,(くがね)(しろかね)(かとり)、布、(かは)(あかがね)(ねりかね)(たぐひ)十餘物,并別所獻佛像(ほとけのみかた)種種(くさぐさ)彩絹(しみのきぬ)(とり)(うま)之類十餘種,及霜林所獻金、銀、彩色(しみのもの),種種珍異之物(めづらしきもの),并八十餘物。
 己亥(),饗霜林等於筑紫館(つくしのむろつみ)賜物(ものたまふ)各有差。
 乙巳(十六),詔曰:「自今以後(のち),每(あたらむ)國忌日,要須齋也(かならずをろがみすべし)。」
 戊午(廿九),霜林等罷歸(まかりかへりぬ)
 三月己未朔己卯(廿一),以華縵進于殯宮。藤原朝臣大嶋誄焉。
 五月戊午朔乙丑(),以百濟敬須德那利(きやうすとくなり),移甲斐(かひ)國。
 六月戊子朔戊戌(十一),詔:「(のりごとし)天下,繫囚(とらへびと)極刑(しぬるつみ)本罪(もとのつみ)(しな)輕繫(かるきとらへひと)赦除之(ゆるしやめよ)。其令天下皆半入(なかばいれしめ)今年調賦。」
 秋七月丁巳朔丁卯(十一)大雩(おほきにあまごひす)旱也(ひでりなればなり)
 丙子(廿),命百濟沙門道藏(だうざう)請雨(あまごひ)不崇朝(あしたををへぬ)(あまねく)雨天下。
 八月丁亥朔丙申()(みけ)于殯宮而慟哭焉。於是大伴宿禰安麻呂(おほとものすくねやすまろ)誄焉。
 丁酉(十一),命淨大肆(じやうだいし)伊勢王(いせのおほきみ),奉宣葬儀(みはぶりのよそほひ)
 辛亥(廿五)耽羅(たむら)(こにきし)佐平(さへい)加羅(から),來獻方物(くにつもの)
 九月丙辰朔戊寅(廿三),饗耽羅佐平加羅等於筑紫館。賜物各有差。
 冬十一月乙卯朔戊午(),皇太子率公卿、百寮人等與諸蕃(となりのくにぐに)賓客(まらひと),適殯宮而慟哭焉。於是奉奠,奏楯節儛(たたふしのまひ)諸臣(まへつきみたち)各舉己先祖(おや)所仕狀(つかへまつれるかたち)(たがひに)進誄焉。
 己未()蝦夷(えみし)百九十餘人,負荷(になひ)調賦而誄焉。
 乙丑(十一),布勢朝臣御主人、大伴宿禰御行(おほとものすくねみゆき),遞進而誄。直廣肆當麻真人智德(たぎまのまひとちとこ),奉誄皇祖(すめみおや)等之騰極(ひつぎのこと )次第(つぎて)。禮也。(いにしへ)日嗣(ひつぎ)也。(おはり)葬于大內陵。
 十二月乙酉朔丙申(十二),饗蝦夷男女二百一十三人於飛鳥寺西(つき)下。仍授冠位(かうぶりのくらゐ),賜物各有差。

四、草壁皇子薨與淨御原令

 三年,春正月甲寅朔(),天皇朝萬國(くにぐに)前殿(おほとの)
 乙卯()大學寮(ふむやのつかさ)(みつゑ)八十枚。
 丙辰()務大肆(むだいし)陸奧(みちのく)優嗜曇郡(うきたまのこほり)城養蝦夷(きかふのえみし)脂利古(しりこ)男,麻呂(まろ)鐵折(かなをり),請剔鬢髮(ひげかみ)為沙門。詔曰:「麻呂等少而閑雅(みやび)(すくなし)(ものほり)。遂至於此,蔬食(くさびらくらひ)(いみのり)。可隨所請出家(いへです)修道(おこなふ)。」
 庚申()(とよのあかり)公卿,賜袍袴(きぬはかま)
 辛酉(),新羅使人(つかひ)田中朝臣法麻呂等,還自新羅。
 壬戌(),詔出雲(いづも)國司,上送(あげおくらしむ)遭值風浪蕃人(となりのくにのひと)
 是日,賜(こし)蝦夷沙門道信(だうしん),佛像一(はしら)灌頂幡(くわんぢやうばん)(かね)(はち)各一口,五色綵(ごしきのしみのきぬ)各五(さか),綿五(みせ),布一十(むら)(すき)一十(ひら)(くら)(そなへ)。筑紫大宰粟田真人朝臣(あはたのまひとのあそみ)等,(たてまつる)隼人一百七十四人,并布五十(きた)牛皮(うしのかは)六枚,鹿皮(しかかは)五十枚。
 戊辰(十五)文武官人(ふみつはもののつかさひと)(みかまぎ)
 己巳(十六),賜百官(ももつかさ)人等(をしもの)
 辛未(十八),天皇(いでます)吉野宮。
 甲戌(廿一),天皇至自吉野宮(よしののみや)
 二月甲申朔丙申(十三),詔:「筑紫防人(さきもり),滿年限(としのかぎり)(かへ)。」
 己酉(廿六),以淨廣肆(じやうくわうし)竹田王(たけだのおほきみ)、直廣肆土師宿禰根麻呂(はじのすくねねまろ)大宅朝臣麻呂(おほやけのあそみまろ)藤原朝臣史(ふぢはらのあそみふびと)、務大肆當麻真人櫻井(たぎまのまひとさくらゐ)穗積朝臣山守(ほづみのあそみやまもり)、中臣朝臣臣麻呂、巨勢朝臣多益須、大三輪朝臣安麻呂(おほみわのあそみやすまろ),為判事(ことわるつかさ)
 三月癸丑朔丙子(廿四)大赦(おほきにつみゆるす)天下。唯常赦(つねのゆるし)不免(ゆるされぬ),不在赦例(ゆるしのかぎり)
 夏四月癸未朔庚寅(),以投化新羅人,居于下毛野。
 乙未(十三),皇太子草壁皇子尊(かむさり)
 壬寅(廿),新羅遣級飡金道那(こむだうな)等,奉(とぶらひ)瀛真人(天武)天皇喪,并上送(おくりたてまつる)學問僧(ものならふほふし)明聰(みやうそう)觀智(くわんち)等。別獻金銅(あかがね)阿彌陀(あみだ)像、金銅觀世音菩薩(くわんぜおんばさつ)像、大勢至菩薩(だいせいしばさつ)像各一軀,綵帛(しみのきぬ)(にしき)(あや)
 甲辰(廿二)春日王(かすがのおほきみ)薨。
 己酉(廿七),詔:「諸司(もろもろのつかさ)仕丁(つかへのよろほ),一月(ゆるし)(いとま)四日。」
 五月癸丑朔甲戌(廿二),命土師宿禰根麻呂,詔新羅弔使(とぶらひつかひ)級飡金道那等曰:「太政官(おほきまつりごとのつかさ)卿等(まへつきみたち)奉敕(みことのりうけたまはり)奉宣(のたまはく)。二年,遣田中朝臣法麻呂等,相告(つげしめき)大行天皇(さきのすめらみこと)喪。時新羅言:『新羅奉敕人者元來(もとより)蘇判位(そはんゐ)。今將(また)(しかせむ)。』由是法麻呂等不得(えざりき)奉宣赴告之詔(つぐるみことのり)。若言前事(さきのこと)者,在昔(むかし)難波宮(なにはのみや)治天下(あめのしたしらしめし)天皇(孝德)崩時,遣巨勢稻持(こせのいなもち)等,(つげし)喪之日,翳飡(えいさん)金春秋(こむしゆんじう)奉敕。而(まをす)用蘇判奉敕,即(たがへり)前事也。又於近江宮(あふみのみや)治天下天皇(天智)崩時,遣一吉飡(いつきつさん)金薩儒(こむさちぬ)等奉弔。而今以級飡奉弔,亦違前事。又新羅元來奏云:『我國自日本遠皇祖代(とほつみおやのみよ)並舳(へをならべ)不乾檝(かぢをほさず)奉仕之國(つかへまつれるくに)。』而今一艘,亦(たがへり)故典(ふるきのり)也。又奏云:『自日本(やまと)遠皇祖代,以清白心(あきらけきこころ)仕奉。』而不惟(おもはず)竭忠(まめこころをつくし)宣揚(のべあぐ)本職(もとつかさ)。而(やぶり)清白,(いつはり)幸媚(まめきこぶる)是故(このゆゑ)調賦與別獻(ことにたてまつれるもの),並(ゆひかため)以還之。然自我國家(みかど)遠皇祖代,廣(めぐみ)汝等之(みいきほひ)不可絕之(やゆべからず)。故彌勤(いよいよつとめ)(つつしみ)戰戰兢兢(おぢかしこまり)(をさめ)職任(つかさ),奉(したがひ)法度者,天朝(みかど)廣慈(ひろくめぐみ)(のみ)(いまし)道那等奉(この)所敕,奉宣汝王。」
 六月壬午朔(),賜衣裳(きもの)筑紫大宰等。
 癸未(),以皇子施基(しき)、直廣肆佐味朝臣宿那麻呂(さみのあそみすくなまろ)羽田朝臣齊(はたのあそみむごへ)【齊,此云むごへ(牟吾閉)。】勤廣肆(ごんくわうし)伊余部連(いよべのむらじ)馬飼(うまかひ)調忌寸老人(つきのいみきおきな)務大參(むだいさむ)大伴宿禰手拍(おほとものすくねたうち)與巨勢朝臣多益須等,(めす)撰善言司(よきことえらふつかさ)
 庚子(十九),賜大唐(もろこし)續守言(しよくしゆげん)薩弘恪(さつこうかく)(いね)(おのもおのも)有差。
 辛丑(廿),詔筑紫大宰粟田真人朝臣等,賜學問僧明聰、觀智等,為送新羅師友(とも)綿,各一百四十斤。
 乙巳(廿四),於筑紫小郡(をごほり)(あへたまふ)新羅弔使金道那等。賜物各有差。
 庚戌(廿九)班賜(わかちたまふ)諸司,(のりふみ)一部二十二卷。
 秋七月壬子朔()付賜(さづけたまふ)陸奧蝦夷沙門自得(じとく)所請(こひまをせる)金銅藥師佛(やくしぶつ)像、觀世音菩薩像各一軀,鍾、娑羅(さら)寶帳(ほうちやう)香爐(かうろ)(はた)等物。
 是日,新羅弔使金道那等(まかり)歸。
 丙寅(十五),詔左右京職(ひむがしにしのみさとつかさ)及諸國司,築習射所(いくひならふところ)
 辛未(廿),流偽兵衛(かすゐのとねり)河內(かふち)澀川郡(しぶかはのこほり)柏原廣山(かしははらのひろやま)土佐(とさ)國。以追廣參(ついくわうさむ)(さづく)(とらへたる)偽兵衛廣山兵衛(とねり)生部連虎(みぶべのむらじとら)
 甲戌(廿三),賜越蝦夷八釣魚(やつりな)等。【魚,此云()。】各有差。
 秋八月辛巳朔壬午(),百官會集(まゐうごなはり)神祇官(かむづかさ),而奉宣天神地祇(あまつかみくにつかみ)之事。
 甲申(),天皇幸吉野宮。
 丙申(十六)禁斷(いさめやめ)漁獵(すなどりかり)攝津()武庫海(むこのうみ)一千步內,紀伊()阿提郡(あてのこほり)那耆野(なきの)二萬(しろ)伊賀(いが)伊賀郡(いがのこほり)身野(みの)二萬頃,置守護人(もりひと)(なぞらふ)河內國大鳥郡(おほとりのこほり)高腳海(たかしのうみ)
 丁酉(十七)賞賜(たまものす)公卿。各有差。
 辛丑(廿一),詔伊豫(いよ)總領(すべをさ)田中朝臣法麻呂等曰:「讚吉(さぬき)御城郡(みきのこほり)所獲白鷰(しろつばくらめ),宜放養(はなちかふ)焉。」
 癸卯(廿三)(みそこなはす)(いくひ)
 閏八月辛亥朔庚申(),詔諸國司曰:「今冬,戶籍(へのふみた)可造。宜(かぎり)九月,糺捉(ただしからむ)浮浪(うかれびと)。其兵士(いくさひと)者,每於一國四分而(さだめ)其一,令習武事(つはもののわざ)。」
 丁丑(廿七),以淨廣肆河內王(かふちのおほきみ),為筑紫大宰帥(おほみこともちのかみ)。授兵杖(つはもの)及賜物。以直廣壹(ぢきくわういち),授直廣貳(ぢきくわうに)丹比真人嶋(たぢひのまひとしま)。增(へひと)一百戶通前(さきにかよはす)
 九月庚辰朔己丑(),遣直廣參石上朝臣麻呂(いそのかみのあそみまろ)、直廣肆石川朝臣虫名(いしかはのあそみむしな)等於筑紫,給送(おくりたまふ)位記(くらゐのふみ)。且(みしめ)新城(にひき)
 冬十月庚戌朔庚申(十一),天皇幸高安城(たかやすのき)
 辛未(廿二),直廣肆下毛野朝臣子麻呂(しもつけののあそみこまろ),奏欲免奴婢(やつこ)陸佰口。奏可。
 十一月己卯朔丙戌(),於中市(いちなか)褒美(ほめ)追廣貳(ついくわうに)高田首石成(たかたのおびといはなり)(ならへる)三兵(みつのつはもの),賜物。
 十二月己酉朔丙辰(),禁斷雙六(すぐろく)


熱田神宮 踏歌神事 卯杖舞
卯杖,上月上卯,擊地驅鬼之杖。以梅、桃、樁木,切作五尺三寸,卷五色絲而由大學寮獻上宮中。


前賢故實 粟田真人


前賢故實 藤原不比等
藤原史,即藤原不比等是也。


粟原寺跡
中臣大嶋為弔草壁皇子而始建,後比賣額田續築,歷廿二年以成。


大日本史略圖會 朝鮮遠征
神功皇后征三韓,飛廉起風陽侯舉浪,不勞㯭楫便到韓土。新羅王封圖籍,叩頭降:「今後長與乾坤,伏為飼部。不乾船柂,春秋獻馬梳馬鞭。復不煩海遠,每年貢男女之調。非日出西、除河逆流,殊闕春秋之朝,怠廢梳鞭之貢。」高麗、百濟國王亦降曰:「從今以後,永稱西蕃,不絕朝貢。」


西安 端午習射
習射所,訓練官兵射技之處。八月有觀射云云,蓋驗其成果歟。


武庫海
步,『養老』雜令云:「凡度地,以五尺為一步。」阿提郡亦名安諦郡,在紀伊國東,名草、那賀二郡南。『和名抄』那耆野:「在田郡奈鄉」,未詳。高腳海本天皇漁獵區,故禁百姓獵補。于此解禁。


讚吉國御城郡
讚吉國,即讚岐國是也,或云紗拔國。御城郡,按『和名抄』:「讚岐國三木郡。」


鳥居清滿 碁將棋双六遊 雙六
盤雙六,源自埃及、印度。奈良以前,經中國傳入日本。置黑白十五子於盤,以筒中搖出二采之目定駒子進數,最早入敵陣者勝。『養老律令』雜令:「博戲而賭財物,故禁。」又云:「雙六樗蒲,雖不賭即坐。」是知方時風行過盛,有害風氣,不惜連坐禁之。


神道資料館 近世大嘗宮模型
物部麻呂、中臣大嶋,即石上麻呂、藤原大嶋是也。元會、踐祚大嘗祭,名負氏等,遵循古法,暫復本氏而奉侍,以偲神代之職。


持統天皇
天武帝崩,皇后臨朝稱制。然稱制三年四月,草壁太子薨。故於稱制四年,即天皇位,是為持統帝。


鴨都波神社郊 葛城川
腋上陂有腋上池堤、葛城川堤等說


天武、持統朝文官朝服
舒明朝大派王提案始朝卯初,終於巳末【午前五時至十一時】。孝德朝定寅刻【午前四時】須羅列南門外,待日出。『養老義解』宮衛令:「寅一剋開諸門,卯二剋開大門。」蓋昔云云,乃持統紀編者加注。


史蹟大官大寺跡
七寺,蓋大官大寺、飛鳥寺、川原寺、小墾田豐浦寺、坂田寺、藥師寺、橘寺。三寺,蓋大官大寺、藥師寺、飛鳥寺歟。


八女中央大茶園
上陽咩郡,『和名抄』云:「筑後國上妻郡。」又『景行紀』八女縣者,蓋合上妻、下妻二郡。


大伴部博麻呂碑
大伴部博麻,賣身充糧,以防唐人謀國。滯留異域,凡卅年也。


特別史蹟藤原宮跡


持統天皇、文武天皇藤原宮趾
藤原京者,日本首次採用中國條坊制規劃所築之新京也。
五、持統帝即位與新政

 四年,春正月戊寅朔()物部麻呂朝臣(もののべのまろのあそみ)(たつ)大盾(おほたて)神祇伯(かむつかさのかみ)中臣大嶋朝臣(なかとみのおほしまのあそみ),讀天神壽詞(あまつかみのよごと)。畢,忌部宿禰色夫知(いみべのすくねしこぶち),奉上神璽(かみのしるし)(つるぎ)(かがみ)於皇后。皇后即天皇位(あまつひつぎしるしめす)。公卿、百寮羅列(つらなり)匝拜(あまねくをろがみ)拍手(てうつ)焉。
 己卯(),公卿、百寮拜朝(みかどをろがみ),如元會儀(むつきのついたちのよそひ)丹比嶋真人(たぢひのしまのまひと)布勢御主人朝臣(ふせのみあるじのあそみ),奉賀騰極(ひつぎよろこぶる)
 庚辰(),宴公卿於內裏(おほうち)。仍賜衣裳。
 壬辰(十五),百寮(たてまつる)薪。
 甲午(十七),大赦天下。(ただし)常赦所不免,不在赦例。
 賜有位人(くらゐあるひと)爵一級(かがふりひとしな)鰥寡(やもめ)、孤獨、篤癃,貧不能自存者,賜稻,蠲服(ゆるし)調役(えつき)
 丁酉(廿),以解部(ときべ)一百人,拜刑部省(うたへのつかさ)
 庚子(廿三),班(みてぐら)畿內(うちつくに)天神地祇,及增神戶(かむへ)田地(みとしろ)
 二月戊申朔壬子(),天皇幸于腋上陂(わきのかみのつつみ),觀公卿大夫(まへつきみたち)(うま)
 戊午(十一),新羅沙門詮吉(せんきち)、級飡北助知(ほくじよち)等五十人歸化(まゐおもぶけり)
 甲子(十七),天皇幸吉野宮。
 丙寅(十九),設齋於內裏。
 壬申(廿五),以歸化新羅韓奈末(かんなま)許滿(こまん)等十二人,居于武藏國。
 三月丁丑朔丙申(廿),賜京與畿內人,年八十以上(かみつかた)者,嶋宮(しまのみや)稻,(ひとごと)二十(つか)。其有位者(くらゐあるひと)加賜(ましたまふ)布二(むら)
 夏四月丁未朔己酉(),遣使祭廣瀨大忌神(ひろせのおほいみのかみ)龍田風神(たつたのかぜのかみ)
 癸丑(),賜京與畿內耆老(おきな)耆女(おみな)五千三十一人稻,人二十束。
 庚申(十四),詔曰:「百官人及畿內人,有位者限六年,無位者(くらゐなきひと)限七年。以其上日(つかへまつれるひかず)選定(えらひさだめ)九等。四等以上者,依考仕令(かうじりやう),以其(よき)(いさをし)(いたはり)(しわざ)(うぢ)(かばね)大小,(はかり)授冠位。其朝服(みこところも)者,淨大壹(じやうだいいち)已下(しもつかた)廣貳(くわうに)已上(かみつかた)黑紫(ふかきむらさき)淨大參(じやうだいさむ)已下,廣肆(くわうし)已上赤紫(あかむらさき)正八級(しやうのやしな)赤紫。(ぎき)八級()(ごん)八級深綠(こきみどり)()八級淺綠(あさみどり)(つい)八級深縹(こきはなだ)(しん)八級淺縹(あさはなだ)。別淨廣貳(じやうくわうに)已上,一畐(ひとの)一部(ひとつぼ)綾羅(あやうすはたら)等,種種(ゆるす)用。淨大參已下,直廣肆已上,一畐二部(つたつぼ)之綾羅等,種種聽用。上下(かみつしもつ)通用(かよはしもちゐ)綺帶(かにはたのおび)白袴(しろきはかま),其(ほか)者如常。」
 戊辰(廿二),始祈雨(あめごひ)所所(ところどころ)。旱也。
 五月丙子朔戊寅(),天皇幸吉野宮。
 乙酉(),百濟男女二十一人歸化。
 庚寅(十五),於內裏始安居講說(かうせつ)
 六月丙午朔辛亥(),天皇幸泊瀨(はつせ)
 庚午(廿五)(ことごとく)召有位者,唱知(となへしらしむ)位次(くらゐのつぎて)年齒(よはひ)
 秋七月丙子朔(),公卿、百寮人等,始著(にひしき)朝服。
 戊寅()(あかち)幣於天神地祇。
 庚辰(),以皇子高市(たけち),為太政大臣(おほまつりごとのおほまへつきみ)。以正廣參(しやうくわうさむ)(さづけ)丹比嶋真人,為右大臣(みぎのおほまへつきみ)。并八省(やつのすぶるつかさ)、百寮,皆遷任(まけたまふ)焉。
 辛巳(),大宰、國司皆遷任焉。
 壬午(),詔:「(のりごとし)公卿、百寮,(おほよそ)有位者,自今以後,於家內(いへのうち)著朝服,而參上(まゐこしめ)未開門(みかどあけざらむ)以前。」蓋昔者(いにしへ)宮門(みかど)而著朝服乎。
 甲申(),詔曰:「凡朝堂(みかど)座上,見親王(みこ)者如常。大臣(まへつきみ)(おほきみ)起立(たて)(まつりごとどの)前。二王(ふたしなのおほきみ)以上(おり)座而(ひさまづけ)。」
 己丑(十四),詔曰:「朝堂座上(くらゐのうへ)(みむとき)大臣,(うごき)(しきゐ)而跪。」
 是日(もち)絁、絲、綿、布,奉施(おくりたまふ)七寺安居(あんご)沙門三千三百六十三。(ことに)皇太子(草壁),奉施於三寺(みつのてら)安居沙門(ほふし)三百二十九。
 癸巳(十八),遣使者(つかひ)(まつらしむ)廣瀨大忌神與龍田風神。
 八月乙巳朔戊申(),天皇幸吉野宮。
 乙卯(十一),以歸化新羅人等,居于下毛野國。
 九月乙亥朔(),詔諸國司等曰:「凡(つくる)戶籍者,依戶令(こりやう)也。」
 乙酉(十一),詔曰:「朕將巡行(めぐみそこなはさむ)紀伊之。(かれ)勿收今年京師田租(たちから)口賦(ひとごとのみつき)。」
 丁亥(十三),天皇幸紀伊。
 丁酉(廿三),大唐學問僧智宗(ちそう)義德(ぎとく)淨願(じやうぐわん)軍丁(いくさよほろ)筑紫國上陽咩郡(かみつやめのこほり)大伴部博麻,從新羅送使(おくるつかひ)大奈末金高訓(こむかうくん)等,還至筑紫。
 戊戌(廿四),天皇至自紀伊。
 冬十月甲辰朔戊申(),天皇幸吉野宮。
 癸丑(),大唐學問僧智宗等,(まゐたる)于京師。
 戊午(十五)(つかはし)使者,(みことのり)筑紫大宰河內王等曰:「饗新羅送使大奈末(だいなま)金高訓等,(なぞらへ)上送學生(ふむやわらは)土師宿禰甥(はじのすくねをひ)等送使之(あと)。其慰勞(ねぎらへ)賜物,一依詔書(みことのりのふみ)。」
 乙丑(廿二),詔軍丁筑後國上陽咩郡人大伴部博麻(おほともべのはかま)曰:「於天豐財重日足姬(齊明)天皇七年,救百濟之(えだち),汝為唐軍(もろこしのいくさ)(とりこ)(および)天命開別(天智)天皇三年,土師連富杼(はじのむらじほど)冰連老(ひのむらじおゆ)筑紫君薩夜麻(つくしのきみさつやま)弓削連元寶兒(ゆげのむらじぐわんほうのこ)四人,思欲(おもへ)奏聞唐人(もろこしひと)所計,緣無衣糧(きものかてな)(うれふ)不能(とづく)。於是博麻(かたり)土師富杼等曰:『我欲共汝,還向(まゐおもぶかむ)本朝(もとつみかど),緣無衣糧,俱不能(あたはず)去。(ねがはく)我身(わがみ),以(あて)衣食(きものをしもの)。』富杼等,依博麻(はかりこと),得(とづく)天朝。汝獨淹滯(ひさしくとどまり)他界(ひとくに),於今三十年矣。朕嘉厥(たふとび)(おもひ)國,賣己(あらはせる)忠。故賜務大肆,并絁五(ひき)、綿十一屯、布三十端、稻一千束、水田(こなた)(ところ)。其水田及至(いたせ)曾孫(ひひこ)也。免三族(みつのやから)課役(えつき),以顯其(いさをし)。」
 壬申(廿九)高市皇子(たけちのみこ)藤原宮地(ふぢはらのみやどころ)。公卿、百寮從焉。
 十一月甲戌朔庚辰(),賞賜送使金高訓等,各有差。
 甲申(十一)(うけたまはり)敕始行元嘉曆(げんかれき)儀鳳曆(ぎほうれき)
 十二月癸卯朔乙巳(),送使金高訓等罷歸。
 甲寅(十二),天皇幸吉野宮。
 丙辰(十四),天皇至自吉野宮。
 辛酉(十九),天皇幸藤原,(みそこなはす)宮地。公卿、百寮皆從焉(みなおほともにしたがへり)
 乙丑(廿三),賞賜公卿以下(しもつかた),各有差。

六、十八氏墓記獻進并新益京鎮祭

 五年,春正月癸酉朔(),賜親王、諸臣、內親王(ひめみこ)女王(ひめおほきみ)內命婦(うちのひめとね)(くらゐ)
 己卯(),賜公卿飲食(をしもの)、衣裳。優賜(にぎほへたまふ)正廣肆(しやうくわうし)百濟王(くだらわう)余禪廣(よぜんくわう)、直大肆遠寶(をんほう)良虞(らうぐ)南典(なむてん),各有(しな)
 乙酉(十三),增(へひと),皇子高市二千(),通前三千戶。淨廣貳(じやうくわうに)皇子穗積(ほづみ)五百戶。淨大參皇子川嶋(かはしま)百戶,通前五百戶。正廣參右大臣丹比嶋真人三百戶,通前(まへにかよせば)五百戶。正廣肆百濟王禪廣百戶,通前二百戶。直大壹(ぢきだいいち)布勢御主人朝臣與大伴御行宿禰(おほとものみゆきのすくね)八十戶,通前三百戶。其餘(ます)封各有差。
 丙戌(十四),詔曰:「直廣肆筑紫史益(つくしのふびとまさる),拜筑紫大宰府(おほみこともちのつかさ)(ふびと)以來,於今二十九年矣。以清白(ただしき)忠誠(まめこころ)不敢怠惰(あへてたゆまず)。是故賜食封(へひと)五十戶、絁十五匹、綿二十五屯、布五十端、稻五千束。」
 戊子(十六),天皇幸吉野宮。
 乙未(廿三),天皇至自吉野宮。
 二月壬寅朔(),天皇詔公卿等曰:「卿等(いましたち)天皇世(さきのすめらみことのみよ),作佛殿(ほとけのおほとの)經藏(きやうざう),行(つきごと)六齋。天皇時時(よりより)遣大舍人問訊(とひたまへり)。朕世亦如之(かくのごとく)。故當勤心(いそしきこころ)佛法(ほとけのみのり)也。」
 是日,授宮人(みやひと)位記。
 三月壬申朔甲戌(),宴公卿於西廳(にしのまつりごとどの)
 丙子(),天皇觀公私(おほやけわたくし)馬於御苑(みその)
 癸巳(廿二),詔曰:「若有百姓(おと)()見賣者,從(おほみたから)。若()父母(かそいろ)見賣者,從(やつこ)。若(なぞらへ)貸倍(かりもののこ)(いれらむ)賤者,從良。其子雖(たぐへ)奴婢所生(うまる),亦皆從良。」
 夏四月辛丑朔(),詔曰:「若氏祖(うぢのおや)所免(ゆるされた)奴婢既(のぞかれたらむ)(へふみた)者,其眷族(やから)等,不得(えじ)(うたへ),言我奴婢(やつこ)。」
 賜大學博士(ふむやのはかせ)上村主百濟(うへのすぐりくだら)大稅(おほちから)一千束。以(すすむる)學業(みち)也。
 辛亥(十一),遣使者,祭廣瀨大忌神與龍田風神。
 丙辰(十六),天皇幸吉野宮。
 壬戌(廿二),天皇至自吉野宮。
 五月辛未朔辛卯(廿一),褒美百濟淳武微子(じゆんむみし)壬申年(いさをし),賜直大參(ぢきだいさむ)。仍賜絁、布。
 六月,京師及郡國(こほりくに)四十雨水(あめふれり)
 戊子(五月十八),詔曰:「此夏陰雨(ながあめ)(たがへり)(とき)(おそるらく)必傷(なりはひ)。夕(いたみ)迄朝憂懼(うれへおそり)思念(おもふ)厥愆(そのあやまり)。其令公卿、百寮人等,禁斷(さけ)(しし)(をさめ)心悔過。京及畿內諸寺梵眾(ほふしども),亦當五日誦經。(ねがはく)(おきぬひ)焉。」自四月雨,至于是月。
 己未(廿),大赦天下。但盜賊(ぬすびと)不在赦例。
 秋七月庚午朔壬申(),天皇幸吉野宮。
 是日,伊豫國司田中朝臣法麻呂等獻宇和郡(うわのこほり)御馬山(みまのやま)白銀(しろかね)三斤八兩、𨥥(あらかね)()
 丙子(),宴公卿。仍賜朝服。
 辛巳(十二) ,天皇至自吉野。
 甲申(十五),遣使者,祭廣瀨大忌神與龍田風神。
 八月己亥朔辛亥(十三),詔十八氏(とをあまりやのうぢ)大三輪(おほみわ)雀部(さざきべ)石上(いそのかみ)藤原(ふぢはら)石川(いしかは)巨勢(こせ)膳部(かしはで)春日(かすが)上毛野(かみつけの)大伴(おほとも)紀伊()平群(へぐり)羽田(はた)阿倍(あへ)佐伯(さへき)采女(うねめ)穗積(ほづみ)阿曇(あづみ)。】上進(たてまつらしむ)其祖等墓記(おくつふみ)
 辛酉(十三),遣使者,祭龍田風神,信濃(しなの)須波(すは)水內(みぬち)等神。
 九月己巳朔壬申(),賜音博士(こゑのはかせ)大唐續守言、薩弘恪,書博士(てかきのはかせ)百濟末士善信(ばつしぜんしん),銀人二十(りやう)
 丁丑(),淨大參皇子川嶋薨。
 辛卯(廿三),以直大貳(ぢきだいに),贈佐伯宿禰大目(さへきのすくねおほめ),并賜賻物(はふりもの)
 冬十月戊戌朔(),日有蝕之(はゆる)
 乙巳(),詔曰:「凡先皇(さきのすめらみこと)陵戶者,置五戶以上(かみ)自餘(これよりほか)王等有功者(いさをしあるひと)(おけ)三戶。若陵戶(みさざきへ)不足,以百姓(あて)(ゆるし)徭役(さしつかはること),三年一替(ひとたびかへ)。」
 庚戌(十三),畿內及諸國(もろもろのくに),置長生地(いきはなつところ)各一千步。
 是日,天皇幸吉野宮(よしののみや)
 丁巳(廿),天皇至自吉野(よしの)
 甲子(廿七),遣使者,鎮祭(しづめまつらしむ)新益京(しんやくのみやこ)
 十一月戊辰朔()大嘗(おほにへ)。神祇伯中臣朝臣大嶋,(よむ)天神壽詞。
 壬辰(廿五),賜公卿(おほみふすま)
 乙未(廿八),饗公卿以下至主典(ふびと)。并賜絹等各有差。
 丁酉(),饗神祇官長上(ながつかへ)以下至神部(かむとものを)等,及供奉(そのことにつかへまつれる)播磨(はりま)因幡(いなば)郡司(こほりのみこともち)以下至百姓男女,(あはせ)賜絹等各有差。
 十二月戊戌朔己亥(),賜醫博士(くすしのはかせ)務大參德自珍(とくじちん)呪禁博士(じゆこむはかせ)木素丁武(もくそていむ)沙宅萬首(さたくまんしゆ),銀人二十兩。
 乙巳(),詔曰:「賜右大臣宅地(いへどころ)四町。直廣貳以上二町。大參以下一町。(ごん)以下至無位(くらゐなき),隨其戶口(へひと)。其上戶(かみつへ)一町,中戶(なかつへ)半町(なかば)下戶(しもつへ)四分之一(よつにかわちてのひとつ)(おほきみ)等亦(なぞらへ)此。」


大學寮址
大學博士,按『養老令』職員令,大學寮置博士一人、助教二人。


宇和郡御馬山 金山城跡
宇和郡,伊豫國西南。藤原宮出土木簡:「宇和評。」御馬山,『和名抄』,在宇和郡三間鄉、美方之山。今有金山城跡、舊金銅村。


諏訪大社 下社秋宮
信濃須波,今諏訪大社。『延喜式』神名帳:「信濃國諏訪郡南方刀美神社二座。」祭健御名方神、八坂刀賣神。


健御名方富命彥神別神社
水內神,健御名方命之子。『延喜式』神名帳 :「信濃國水內郡健御名方富命彥神,別神社。」


藤原京跡 左京六條三坊鳥瞰


藤原京跡 左京七坊一條鳥瞰


藤原京跡 京城北面中門鳥瞰


藤原京跡 京城內裏區域鳥瞰
新益京,即藤原京也。


呪符、木簡
呪禁博士、醫博士所緣遺品。


藤原京朱雀大路跡


葛城高宮 想像圖


前賢故實 大三輪高市麻呂
諫爭,『玉篇』:「爭,止也。野王案,今世為爭字。爭,諫也。」


日本國現報善惡靈異記
高市麻呂賭其官位,脫冠諍諫天皇莫煩農忙,然未得聽。往後十數年間,其名不見正史。蓋因指斥乘輿而坐免官。然高市麻呂以其忠諫,民望頗厚。藥師寺僧景戒著日本最古說話集『日本靈異記』,述其塞己田口,施水百姓。龍神感應,降雨唯澍卿田,不落餘地。


志摩國 英虞灣
按『萬葉集』幸于伊勢國時柿本人麿留京作歌三首,可見嗚呼見浦、答志崎、伊良虞島等伊勢、志摩地名。或云嗚呼見乃嗚呼兒之訛,即阿胡行宮處。


藤原京跡
新宮,即藤原宮。奧可見香具山。


伊勢神宮外宮 神樂殿
一郡全體為神社封戶時,稱神郡。依『皇太神宮儀式帳』,時度會、多氣二郡為伊勢神宮神郡。


初生衣神社
境內織殿,以三河產赤引絲,【閏五月丁未】織為奉皇大神宮之御衣。


氣比神宮
笥飯神,敦賀市氣比神宮。祭神,伊奢沙和氣命。


菟名足 宇奈多理坐高御魂神社
按『延喜式』神名:「大和國添上郡宇奈多理坐高御魂神社。」『大和志』:「在法華寺村,今曰楊梅天神。」又伊勢、住吉、紀伊、大倭者,蓋伊勢神宮、住吉坐神社、伊太祁曾神社、【或云日前、國懸神社。】大和坐大國魂神社乎。
七、伊勢行幸與三輪高市麻呂諫爭

 六年,春正月丁卯朔庚午(),增封皇子高市二千戶,通前五千戶。
 癸酉(),饗公卿等,(よりて)賜衣裳。
 戊寅(十二),天皇觀新益京(おほち)
 壬午(十六),饗公卿以下至初位(はじめのくらゐ)以上。
 癸巳(廿七),天皇幸高宮(たかみや)
 甲午(廿八),天皇至自高宮。
 二月丁酉朔丁未(十一),詔諸官(もろもろのつかさ)曰:「當以三月三日,將幸伊勢(いせ)。宜知此(こころ)(そなふ)衣物(きもの)。」
 賜陰陽博士(おむやうはかせ)沙門法藏(ほふざう)道基(だうき)銀二十兩。
 乙卯(十九),詔刑部省,赦輕繫。
 是日中納言(すけのものまをすつかさ)直大貳(ぢきだいに)三輪朝臣高市麻呂(みわのあそみたけちまろ)上表(ふみたてまつり)(あへて)直言(ただにまをし)諫爭(いさめまつる)天皇欲幸伊勢,(さまだけ)農時(なりはひのとき)
 三月丙寅朔戊辰(),以淨廣肆廣瀨王(ひろせのおほきみ)、直廣參當麻真人智德、直廣肆紀朝臣弓張(きのあそみゆはり)等,為留守(とどまりまもる)官。於是中納言大三輪朝臣高市麻呂(おほみわのあそみたけちまろ)(ぬき)冠位(かがふり)擎上(ささげ)(みかど)(かさね)諫曰:「農作之節(なりはひのとき)車駕(きみ)未可以動!」
 辛未(),天皇不從(したがひたまはず)諫,(つひに)幸伊勢。
 壬午(十七),賜所過(よきります)神郡(かむこほり)及伊賀、伊勢、志摩(しま)國造等冠位,并(ゆるし)今年調役,復免供奉(つかへまつれる)騎士(うまいくさ)、諸司荷丁(にもちよほろ)造行宮丁(かりみやつくれるよほろ)今年調役,大赦天下。但盜賊不在赦例(ゆるしのつら)
 甲申(十九),賜所過志摩百姓男女年八十以上,稻人五十束。
 乙酉(廿)車駕(すめらみこと)還宮。每到行(おはします),輙(くわいし)郡縣吏民,(ねもころに)勞賜(なぎらひものたまひ)(うたまひ)
 甲午(廿九),詔免近江(あふみ)、美濃、尾張(をはり)參河(みかは)遠江(とほつあふみ)等國供奉騎士()及諸國荷丁、造行宮丁今年(ことし)調役。詔令天下百姓困乏窮者(まづしくせまれるひと)稻。男三束,女二束。
 夏四月丙申朔丁酉(),贈大伴宿禰友國(おほとものすくねともくに)直大貳,并賜賻物。
 庚子()(やめたまふ)四畿內(よつのうちつくに)百姓為荷丁者今年調役。
 甲寅(十九)(まだし)使者,祭廣瀨大忌神與龍田風神。
 丙辰(廿一),賜有位親王以下至進廣肆(しんくわうし),難波大藏(おほくら)(すき)各有差。
 庚申(廿五),詔曰:「(おほよそ)繫囚、見徒(いまみつかふつみ)(もはら)原散(ゆるしあかて)。」
 五月乙丑朔庚午(),御阿胡行宮(あごのかりみや)時,進贄者(おほにへたてまつりしひと)紀伊國牟婁郡(むろのこほり)阿古志海部河瀨麻呂(あこしのあまのかはせまろ)兄弟(えおと)三戶(ゆるす)十年調役、雜徭(ぃさぐさのみゆき)。復免挾杪(かぢとり)八人今年調役。
 辛未()相模(さがむ)國司獻赤烏(あかからす)(ひな)二隻,言:「獲於御浦郡(みうらのこほり)。」
 丙子(十二),幸吉野宮。
 庚辰(十六),車駕還宮。
 辛巳(十七),遣大夫(まへつきみ)謁者(ものもうし)(まつらしめ)名山岳瀆(なあるやまをかかは),請雨。
 甲申(廿),贈文忌寸智德(ふみのいみきちとこ)直大壹,并賜賻物。
 丁亥(廿三),遣淨廣肆難波王(なにはのおほきみ)等,鎮祭藤原宮地(ふぢはらのみやどころ)
 庚寅(廿六),遣使者,奉幣于四所─伊勢(いせ)大倭(やまと)住吉(すみのえ)紀伊(おほかみ),告以新宮(にひしきみや)
 閏五月乙未朔丁酉()大水(おほみづ)。遣使,循行(めぐり)郡國,稟貸(かりあへ)災害(わざはひ)不能自存(わたらふこと)者,令得漁採(すなどり)山林(やまはやし)池澤(いけさは)。詔令京師及四畿內,講說金光明經(こむくわうみやうきやう)
 戊戌(),賜沙門觀成(くわんじやう)絁十五匹、綿三十屯、布五十端,(ほめ)其所造鉛粉(えんふん)
 丁未(十三)伊勢大神(いせのおほかみ)奏天皇曰:「免伊勢國今年調役。然應(いたす)其二神郡赤引絲(あかひきのいと)參拾伍斤,於來年(こむとし)(へぐ)(しろ)。」
 己酉,詔筑紫大宰率(みこともちのかみ)河內王等曰:「宜遣沙門於大隅與阿多,可傳佛教(ほとけののり)。復上送(たてまつれ)大唐大使(おほつかひ)郭務悰(くわくむそう)御近江大津宮(あふみのおほつのみや)天皇所造阿彌陀像(あみだのみかた)。」
 六月甲子朔壬申(),敕郡國長吏(このかみつかさ),各(いのらしむ)名山岳瀆。
 甲戌(十一),遣大夫、謁者,(まゐでしめ)四畿內,請雨。
 甲申(廿一),賜直丁(つかへよほろ)八人官位(つかさくらゐ),美其造大內陵時,(いそしみ)不懈(おこたらざり)
 癸巳(),天皇觀藤原宮地。
 秋七月甲午朔乙未(),大赦天下。但十惡(とをのあしきもの)、盜賊,不在赦例。
 賜相模國司布勢朝臣色布智(ふせのあそみしこふち)等、御浦郡少領(すけのみやつこ)【闕姓名(うぢな)。】與獲赤烏者鹿嶋臣櫲樟(かしまのおみくす),位及祿(もの)(ゆるす)御浦郡二年調役(えつき)
 庚子(),宴公卿。
 壬寅(),幸吉野宮。
 甲辰(十一),遣使者,(まつらしむ)廣瀨與龍田。
 辛酉(廿八),車駕還宮。
 是夜熒惑(けいごく)歲星(さいせい),於一步(ひとあし)內,乍光(あるときひかり)(かくれつつ)相近(あひちかつき)相避(あひさる)(たび)
 八月癸亥朔乙丑(),赦罪。
 己卯(十七),幸飛鳥皇女(あすかのひめみこ)田莊(なりどころ)。即日,還宮。
 九月癸巳朔辛丑(),遣班田大夫(たたまひのまへつきみ)等於四畿內。
 丙午(十四),神祇官奏上神寶書(かむたからのふみ)(まき)(かぎ)九箇、木印(きのおして)一箇。
 癸丑(廿一),伊勢國司獻嘉禾(よきいね)(もと)越前(こしのみちのくち)國司獻白蛾(しろきあり)
 戊午(廿六),詔曰:「獲白蛾於角鹿郡(つぬがのこほり)浦上之濱(うらかみのはま)。故增封笥飯神(けひのかみ)二十戶,通前。」
 冬十月壬戌朔壬申(十一),授山田史御形(やまだのふびとみかた)務廣肆(むくわうし)(さき)為沙門,學問(ものならひき)新羅。
 癸酉(十二),幸吉野宮。
 庚辰(十九),車駕還宮。
 十一月辛卯朔戊戌(),新羅遣級飡朴憶德(ぼくよくとく)金深薩(こむしむさち)()進調。賜擬遣新羅使直廣肆息長真人老(おきながのまひとおゆ)務大貳(むだいに)川內忌寸連(かふちのいみきつら)祿(もの),各有差。
 辛丑(十一)饗祿(あへたまふ)新羅朴憶德於難波館(なにはのむろつみ)
 十二月辛酉朔甲戌(十四),賜音博士續守言、薩弘恪,水田人四町。
 甲申(廿四),遣大夫等,奉新羅調於五社(いつつのやしろ)─伊勢、住吉、紀伊、大倭、菟名足(うなたり)

八、頻幸吉野,新宮整地,軍事整備

 七年,春正月辛卯朔壬辰(),以淨廣壹(じやうくわういち)授皇子高市,淨廣貳授皇子(なが)與皇子弓削(ゆげ)
 是日,詔令天下百姓服黃色衣(きそめのきぬ),奴皁衣(くろきぬ)
 丁酉(),饗公卿大夫等。
 癸卯(十三),賜京師及畿內有位年八十以上人衾一領、絁二匹、綿二屯、布四端。
 乙巳(十五),以正廣參(おひてたまひ)百濟王善光(ぜんくわう),并賜賻物。
 丙午(十六),賜京師男女年八十以上及困貧窮者(まづしくせまれるもの),布各有差。賜船瀨(ふなせ)沙門法鏡(ほふきやう),水田三町。
 是日漢人(あやひと)等奏踏歌(あられはしり)
 二月庚申朔壬戌(),新羅遣沙飡(ささん)金江南(こむかうなむ)韓奈麻(かんなま)金陽元(こむやうぐゑん)等,來赴(神文)喪。
 己巳(),詔造京司(みやこつくるつかさ)衣縫王(きぬぬひのおほきみ)等,收所掘尸(ほりいだせるかばね)
 己丑(),以流來(まゐける)新羅人牟自毛禮(むじもれ)等三十七人,付賜(さづけたまふ)憶德等。
 三月庚寅朔(),日有蝕之。
 甲午(),賜大學博士勤廣貳(ごんくわうに)上村主百濟,食封三十戶。以(にぎはへたまふ)儒道(はかせのみち)
 乙未(),幸吉野宮。
 庚子(十一),賜直大貳葛原朝臣大嶋(ふぢはらのあそみおほしま)賻物。
 壬寅(十三),天皇至自吉野宮。
 乙巳(十六),賜擬遣(つかはさむとする)新羅使直廣肆息長真人老、勤大貳(ごんだいに)大伴宿禰子君(おほとものすくねこきみ)等及學問僧辨通(べんつう)神叡(しんえい)等,絁、綿、布各有差。又賜新羅王賻物(はふりもの)
 丙午(十七),詔:「令天下,勸殖(くは)(からみし)(なし)(くり)蕪菁(あをな)草木(くさき)。以助五穀(いつつのたなつもの)。」
 夏四月庚申朔丙子(十七),遣大夫、謁者,詣諸社祈雨。又遣使者,祀廣瀨大忌神與龍田風神。
 辛巳(廿二)(みことのり):「內藏寮(くらのつかさ)(まつりごとひと)大伴男人(おほとものをひと)(ぬすみもの)(くだし)位二階,解見任官(いまよさせるつかさ)典鑰(かぎつかさ)置始多久(おきそめのおほく)菟野大伴(うののおほとも),亦(つみす)贓。降(くらゐ)一階,(とけ)見任官。監物(おろしもののつかさ)巨勢邑治(こせのおほぢ)雖物不入於(おのがみ),知(こころ)令盜之。故降位二階,解見任官。然置始多久有勤勞(いそしきこと)壬申(みづのえさる)(えだち)之,故赦之(ゆるし),但贓者依(のり)徵納(めしいれ)。」
 五月己丑朔(),幸吉野宮。
 乙未(),天皇至自吉野宮。
 癸卯(十五)(まく)無遮大會於內裏。
 六月己未朔(),詔高麗沙門福嘉(ふくか)還俗(しろきぬにかへす)
 壬戌()(もちて)直廣肆(さづく)引田朝臣廣目(ひけたのあそみひろめ)、守君苅田、巨勢朝臣麻呂(こせのあそみまろ)葛原朝臣臣麻呂(ふぢはらのあそみおみまろ)、巨勢朝臣多益須、丹比真人池守(だぢひのまひといけもり)紀朝臣麻呂(きのあそみまろ),七人。
 秋七月戊子朔甲午(),幸吉野宮。
 己亥(十二),遣使者,祀廣瀨大忌神與龍田風神。
 辛丑(十四),遣大夫、謁者,詣諸社(もろもろのやしろ)請雨。
 是日,天皇(かへりおはします)自吉野。
 八月戊午朔(),幸藤原宮地。
 甲戌(十七),幸吉野宮。
 戊寅(廿一),車駕還宮。
 九月丁亥朔(),日有蝕之。
 辛卯(),幸多武嶺(たむのみね)
 壬辰(),車駕還宮。
 丙申(),為清御原(きよみはら)天皇(天武),設無遮大會於內裏。繫囚悉原遣(ゆるしやる)
 壬寅(十六),以直廣參,贈蚊屋忌寸木間(かやのいみきこのま),并賜賻物。以(ほめ)壬申年之役(いさをし)
 冬十月丁巳朔戊午(),詔:「自今年,始於親王,下至進位(しんゐ),觀所儲兵(まうくるつはもの)淨冠(じやうくわん)直冠(ぢきくわん),人(よろひ)一領、大刀(たち)一口、(ゆみ)一張、()一具、(とも)一枚、鞍馬(くらおけるうま)勤冠(ごんくわん)進冠(しんくわん),人大刀一口、弓一張、矢一具、鞆一枚。如此(かく)預備(あらかじめそなへ)。」
 己卯(廿三),始講仁王經(にんわうきやう)百國(くにぐに)。四日而(をはり)
 十一月丙戌朔庚寅(),幸吉野宮。
 壬辰(),賜耽羅王子(せしむ)、佐平等各有差。
 乙未(),車駕還宮。
 己亥(十四),遣沙門法員(ほふゐん)善往(ぜんわう)真義(しんぎ)等,試飲近江國益須郡(やすのこほり)醴泉(れいせん)
 戊申(廿三),以直大肆,授直廣肆引田朝臣少麻呂。仍賜食封五十戶。
 十二月丙辰朔丙子(廿一),遣陣法博士(ぢんはふはかせ)等,教習(をしへならはしむ)諸國。


律令官位暨服色當色表
按『養老令』制服條云:「無位著黃袍,家人、奴婢著橡墨衣。【皁衣。】」賻物,為助喪主而贈之布帛、財貨總稱。所掘尸,營造藤原京時所掘壞之墓所之屍。


漢人踏歌
踏歌,『舊唐書』睿宗紀:「上元日夜,上皇御安福門觀燈,出內人連袂踏歌,縱百僚觀之,一夜方罷。」本中國民間行事。傳日以後,為男女踏歌之宮中行事。儛後必述「萬年阿良禮」祈壽萬年。


葵祭 內藏寮行列
內藏寮,按『養老令』職員令,屬中務省所轄,統管金、銀、珠玉等天皇所有之高價珍寶。又『養老律』雜律:「凡坐贓致罪者,一尺笞十。一端加一等。十二端徒一年。十二端加一等。罪止徒三年。【謂,非監臨主司,因事受財者。】


鈴鹿峠 壬申之亂 古戰場跡


多武嶺
多武嶺,亦云多武峰、田身嶺。櫻井南部,與寺川上游明日香村交界,最高峰御破裂山。


仁王經曼荼羅
仁王經,仁王般若波羅密經


歐陽詢 九成宮醴泉銘
醴,一夜釀且未分粕之濃酒,甘酒。醴泉,味如甘酒之泉。『爾雅』:「甘雨時降,萬物以嘉,謂之醴泉。」疏云:「醴泉者,水泉之味甘如醴也。」


開彌鑄造遺跡 鑄錢之遺跡碑


宋應星『天工開物』 冶鑄
鑄錢司,未載於大寶、養老令,為令外之官。近江崇福寺跡、飛鳥川原寺跡等,皆有無文銀錢出土。


益須寺遺跡
益須寺遺跡,蓋在守山市吉身町,有瓦、磚積側溝等檢出。都賀山,概在同市三宅町,或云岡町。


上弦玄
上玄,上弦是也。陰曆七八日頃。


藤原宮圖


藤原京復原圖
持統帝八年十二月,遷居藤原宮。藤原京,蓋天武帝所企劃,都北、東、西三面,各有耳成、香久、畝傍三山,南臨飛鳥川,可謂龍穴。規模之大,更勝平城、平安二京。
九、遷都藤原京

 八年,春正月乙酉朔丙戌(),以正廣肆,(さづけ)直大壹布勢朝臣御主人與大伴宿禰御行。增封人二百戶,通前五百戶。並為氏上(うぢのかみ)
 辛卯(),饗公卿等。
 己亥(十五),進御薪(みかまぎ)
 庚子(十六),饗百官人等。
 辛丑(十七),漢人(つかへまつる)踏歌。五位以上(いくひす)
 壬寅(十八),六位以下射。四日而(をはりぬ)
 癸卯(十九),唐人奏踏歌。
 乙巳(廿一),幸藤原宮(ふぢはらのみや)。即日,還宮。
 丁未(廿三),以務廣肆(むくわうし)(くらゐ),授大唐(もろこしひと)七人與肅慎(みしはせひと)二人。
 戊申(廿四),幸吉野宮。
 三月甲申朔(),日有蝕之。
 乙酉(),以直廣肆大宅朝臣麻呂、勤大貳臺忌寸八嶋(うてなのいみきやしま)黃書連本實(きふみのむらじほんじつ)(めす)鑄錢司(ぜにのつかさ)
 甲午(十一),詔曰:「凡以無位人(くらゐなきひと)任郡司者,以進廣貳(しんくわうに)大領(こほりのみやつこ),以進大參(しんだいさむ)小領(すけのみやつこ)。」
 己亥(十六),詔曰:「(ここ)以七年歲次癸巳(ほしきしにやどるとし),醴泉(わけり)於近江國益須郡都賀山(つがやま)。諸疾病(やまひ)停宿(やどり)益須寺(やすでら),而療差者(をさめいゆるひと)眾。故(いれ)水田四町、布六十端,原除(ゆるしやめ)益須郡今年調役、雜徭,國司(かみ)(さくわん)(すすめしむ)位一階。賜其初(みしるしせる)醴泉者葛野羽衝(かづののはつき)、百濟土羅羅女(つららめ)(ひとごと)絁二匹、布十端、鍬十口。」
 乙巳(廿二),奉幣於諸社。
 丙午(廿三),賜神祇官(かみ)祝部(はふり)等一百六十四人,絁、布各有差。
 夏四月甲寅朔戊午(),以淨大肆,贈筑紫大宰率(つくしのおほみこともちのかみ)河內王,并賜賻物。
 庚申(),幸吉野宮。
 丙寅(十三),遣使者,祀廣瀨大忌神與龍田風神。
 丁亥(ママ),天皇至自吉野宮。
 庚午(十七),贈律師(りつし)道光(だうくわう)賻物。
 五月癸未朔戊子(),饗公卿大夫於內裏。
 癸巳(十一),以金光明經一百部,送置(おくりおかむ)諸國。(かならず)(あたり)每年正月上玄(かみつゆばり)讀之。其布施(おくりもの)以當國官物(おほやけもの)(あて)之。
 六月癸丑朔庚申(),河內國更荒郡(さららのこほり)白山雞(しろやまどり)。賜更荒郡大領、小領,位人一級,并賜物。以進廣貳,賜獲者刑部造韓國(おさかべのみやつこからくに),并賜物。
 秋七月癸未朔丙戌(),遣巡察使(めぐりみるつかひ)於諸國。
 丁酉(十五),遣使者,祀廣瀨大忌神與龍田風神。
 八月壬子朔戊辰(十七),為皇女飛鳥,(いへでせしむ)沙門一百四(たり)
 九月壬午朔(),日有蝕之。
 乙酉(),幸吉野宮。
 癸卯(廿二),以淨廣肆三野王(みののおほきみ)(めす)筑紫大宰率。
 冬十月辛亥朔庚午(廿),以進大肆(しんだいし),賜獲白蝙蝠(しろかはぼり)者飛驒國荒城郡(あらきのこほり)弟國部弟日(おとくにべおとひ),并賜絁四匹、綿四匹、布十端。其()課役限身(みをかぎり)(ゆるし)
 十一月辛巳朔丙午(廿六),赦殊死(しつぬるつみ)以下。
 十二月庚戌朔乙卯()遷居(うつしおはします)藤原宮。
 戊午(),百官拜朝。
 己未(),賜親王以下至郡司等,絁、綿、布各有差。
 辛酉(十二)(とよのあかりしたまふ)公卿大夫。

十、新藤原宮之政治情勢

 九年,春正月庚辰朔甲申(),以淨廣貳授皇子舍人(とねり)
 丙戌(),饗公卿大夫於內裏。
 甲午(十五)(たてまつる)御薪。
 乙未(十六),饗百官人等。
 丙申(十七),射。四日而畢。
 閏二月己卯朔丙戌(),幸吉野宮。
 癸巳(十五),車駕還宮。
 三月戊申朔己酉(),新羅遣王子金良琳(こむらうりぬ)補命(ふみやう)薩飡(さつさん)朴強國(ぼくがうこく)等及韓奈麻金周漢(こむしうかん)金忠仙(こむちうせん)等,奏請(まをす)國政。且進調(みつきたてまつり)獻物(ものたてまつる)
 己未(十二),幸吉野宮。
 壬戌(十五),天皇至自吉野。
 庚午(廿三),遣務廣貳(むくわうに)文忌寸博勢(ふみのいみきはかせ)進廣參(しんくわうさむ)下譯語諸田(しもをさのもろた)等於多禰(たね),求(ひな)所居(ゐどころ)
 夏四月戊寅朔丙戌(),遣使者,祀廣瀨大忌神與龍田風神。
 甲午(十七),以直廣參,贈賀茂朝臣蝦夷(かものあそみえみし),并賜賻物。本位(もとのくらゐ)勤大壹(ごんだいいち)。】以直大肆,贈文忌寸赤麻呂(ふみのいみきあかまろ),并賜賻物。【本位,大山中(だいせんちう)。】
 五月丁未朔己未(十三),饗隼人大隅。
 丁卯(廿一),觀隼人相撲(すまひ)西槻(にしのつき)下。
 六月丁丑朔己卯(),遣大夫、謁者,詣京師及四畿內諸社,請雨。
 壬辰(十六)賞賜(ものたまふ)諸臣年八十以上及痼疾(ながきやまひひと)各有差。
 甲午(十八),幸吉野宮。
 壬寅(廿六),至自吉野。
 秋七月丙午朔戊辰(廿三),遣使者,祀廣瀨大忌神與龍田風神。
 辛未(廿六),賜擬遣新羅使直廣肆小野朝臣毛野(をののあそみけの)、務大貳伊吉連博德(いきのむらじはかとこ)等物各有差。
 八月丙子朔己亥(廿四),幸吉野。
 乙巳(),至自吉野。
 九月乙巳朔戊申()原放(ゆるしたまふ)行獄徒繫(とらはれるつみびと)
 庚戌(),小野朝臣毛野等發向(たちまかる)新羅。
 十月乙亥朔乙酉(十一),幸菟田(うだ)吉隱。
 丙戌(十三),至自吉隱(よなばり)
 十二月甲戌朔戊寅(),幸吉野宮。
 丙戌(十三),至自吉野。賜淨大肆泊瀨王(はつせのおほきみ)賻物。


前賢故實 舍人親王
舍人親王。養老二年正月昇一品。參與編纂天武天皇發案之『日本書紀』,為其責任編輯。養老四年,完成奏上。同年,官拜知太政官事。天平七年十一月薨,追贈太政大臣。以為淳仁天皇父,天平寶字三年六月,追尊崇道盡敬皇帝。


隼人盾

飛鳥寺復元圖 西槻廣場
九年五月,隼人相撲飛鳥寺西槻下


菟田吉隠
菟田,宇陀郡。吉隱,舊初瀨村之東,今屬櫻井市,本在城上郡。後造天武帝皇女但馬皇女墓于吉隱。


津輕半島
度島或作渡島,概津輕半島是也。二槻宮,齊明紀兩槻宮。續日本紀云二槻離宮。遺跡未詳。


風速郡 忽那群島
伊豫國中央偏北,見於和名抄。


高市皇子萬葉歌碑
相對草壁皇子尊,高市皇子以同務太政大臣,故謂後皇子尊。『延喜式』諸陵:「三立岡墓。高市皇子墓,在大和國廣瀨郡。兆域東西六町,南北四町。無守戶。」或云高松塚古墳被葬者之說。


前賢故實 葛野王
葛野王,大友皇子長子。高市皇子薨,皇太后引王公卿士於禁中,謀立日嗣。時群臣各挾私好,眾議紛紜。王子進奏:「我國家為法,神代以此典。仰論天心,誰能敢測?然以人事推之,從來子孫相承,以襲天位。若兄弟相及,則亂聖嗣,自然定矣。此外誰敢閒然乎?」弓削皇子在座,欲有言。王子叱之乃止。皇太后嘉其一言定國,特閱授正四位,拜式部卿。時年卅七。
十一、高市皇子薨

 十年,春正月甲辰朔庚戌(),饗公卿大夫。
 甲寅(十一),以直大肆,授百濟王南典。
 戊午(十五),進御薪。
 己未(十六),饗公卿、百寮人等。
 辛酉(十八),公卿、百寮射於南門(みなみのみかど)
 二月癸酉朔乙亥(),幸吉野宮。
 乙酉(十三),至自吉野。
 三月癸卯朔乙巳(),幸二槻宮(ふたつきのみや)
 甲寅(十二),賜越度嶋(わたりのしま)蝦夷伊奈理武志(いなりむし)與肅慎志良守叡草(しらすえさう)錦袍袴(にしきのきぬはかま)緋紺絁(ひはなだのあしきぬ)(をの)等。
 夏四月壬申朔辛巳(),遣使者,祀廣瀨大忌神與龍田風神。
 戊戌(廿七),以追大貳,授伊豫國風速郡(かざはやのこほり)物部藥(もののべのくすり)肥後(ひのみちのしり)皮石郡(かはしのこほり)壬生諸石(みぶのもろし),并賜人絁四匹、絲十(すが)、布二十端、鍬二十口、稻一千束、水田四町,(ゆるす)戶調役。以(ねぎらひ)久苦唐地(もろこしのくに)
 己亥(廿八),幸吉野宮。
 五月壬寅朔甲辰(),詔大錦上(だいきむじやう)秦造綱手(はだのみやつこつなて),賜(かばね)忌寸(いみき)
 乙巳(),至自吉野。
 己酉(),以直廣肆,授尾張宿禰大隅(をはりのすくねおほすみ),并賜水田四十町。
 甲寅(十三),以直廣肆,贈大狛連百枝(おほこまのむらじももえ),并賜賻物。
 六月辛未朔戊子(十八),幸吉野宮。
 丙申(廿六),至自吉野。
 秋七月辛丑朔(),日有蝕之。
 壬寅(),赦罪人。
 戊申(),遣使者,祀廣瀨大忌神與龍田風神。
 庚戌()後皇子尊(のちのみこのみこと)薨。
 八月庚午朔甲午(廿五),以直廣壹,授多臣品治(おほのおみほむぢ),并賜物。褒美元從之功(はじめよりしたがひたてまつれるいさをし)(かたく)(せき)事。
 九月庚子朔甲寅(十五),以直大壹,贈若櫻部朝臣五百瀨(わかさくらべのあそみいほせ),并賜賻物。以(あらはし)元從之功。
 冬十月己巳朔乙酉(十七),賜右大臣丹比真人(たぢひのまひと)輿(こし)(つゑ)。以哀致事(おいてまかる)
 庚寅(廿二)假賜(たまふ)正廣參位右大臣丹比真人資人(つかひびと)一百二十人,正廣肆大納言(おほきものまをすつかさ)阿倍朝臣御主人(あへのあそみみあるじ)、大伴宿禰御行並八十人,直廣壹石上朝臣麻呂、直廣貳藤原朝臣不比等(ふぢはらのあそみふびと)並五十人。
 十一月己亥朔戊申(),賜大官大寺(だいくわんだいじ)沙門辨通,食封(へひと)四十戶。
 十二月己巳朔()敕旨(みことのり)(より)讀金光明經,每年十二月晦日(みそか),度淨行者(おこなふひと)十一人。

十二、禪位文武帝

 十一年,春正月戊戌朔甲辰(),饗公卿大夫等。
 戊申(十一),賜天下鰥寡(やもめ)、孤獨、篤癃(やまひあつきひと),貧不能自存者,稻各有差。
 癸丑(十六),饗公卿、百寮。
 二月丁卯朔甲午(廿八),以直廣壹當麻真人國見(たぎまのまひとくにみ)東宮大傅(みこのみやのおほきかしづき),直廣參路真人跡見(みちのまひととみ)春宮大夫(みこのみやのつかさのかみ),直大肆巨勢朝臣粟持(こせのあそみあはもち)(すけ)
 三月丁酉朔甲辰(),設無遮大會(かぎりなきおがみ)春宮(みこのみや)
 夏四月丙寅朔己巳(),授滿選者(かがふりたまはるべきひと)淨位(じやうゐ)直位(ぢきゐ)各有差。
 壬申(),幸吉野宮。
 己卯(十四),遣使者,祀廣瀨與龍田。
 是日,至(かへりおはし)吉野。
 五月丙申朔癸卯(),遣大夫、謁者,詣神社,請雨。
 六月丙寅朔丁卯(),赦罪人。
 辛未(),詔(よましむ)經於京畿(みやこうちつくに)諸寺。
 辛巳(十六),遣五位以上,掃灑(はらひきよめしむ)京寺。
 甲申(十九),班幣於神祇(あまつかみくにつかみ)
 辛卯(廿六),公卿、百寮始造為天皇(みやまひ)所願佛像(ほとけのみかた)
 癸卯(ママ),遣大夫、謁者,詣神社,請雨。
 秋七月乙未朔辛丑()夜半(よなか),赦常𨰃盜賊(ひたぬすびと)一百九人。(なほ)賜布人四常。但外國(とつくにびと)者,稻人二十束。
 丙午(十二),遣使者,祀廣瀨與龍田。
 癸亥(廿九),公卿、百寮,設開佛眼會(ほとけのみまなこをあらはしまつるをかみ)於藥師寺。
 八月乙丑朔(),天皇定(みはかりこと)禁中(おほうち)禪天皇位(くにさりたまふ)皇太子()

日本書紀卷三十 終


長岡京春宮坊【皇太子役所】跡地
春宮坊長官稱春宮大夫。草壁皇子嫡子輕【珂瑠】皇子,立太子。『續日本紀』文武紀:「高天原廣野姬天皇十一年,立皇太子。」


道成寺藏 文武天皇像


柿本人麿與輕皇子宿安騎野
持統帝讓位輕皇子,是為文武帝。『釋日本紀』引『日本紀私記』:「王子技別記曰,文武天皇少名珂瑠皇子。天武天皇皇太子草壁皇子尊之子也。持統天皇十一年春二月丁卯朔壬午,立為皇太子。」

【久遠の絆】【卷廿九】【卷第一】【再臨詔】