日本書紀 卷廿八 天武紀【上】

天渟中原瀛真人天皇(あまのぬなはらおきのまひとのすめらみこと) 天武天皇(てんむてんわう)


天武天皇像


宮瀧遺跡 傳天武天皇吉野離宮跡。或有丹生川上神社說,而與書紀矛盾,蓋誤。


虎著翼放焉
一、大海人皇子出家入吉野

 天渟中原瀛真人天皇(あまのぬなはらおきのまひとのすめらみこと)【渟中,此云ぬな(農難)。】天命開別(あめみことひらかすわけ)天皇同母弟(いろど)也。
 幼曰大海人皇子(おほしあまのみこ),生而有岐嶷之姿(きぎよくなるすがた)。及(をとこざかり)雄拔神武(ををしくたけし),能天文(てんもん)遁甲(とんかふ)
 納天命開別(天智)天皇女菟野皇女(うののひめみこ),為正妃(むかひめ)
 天命開別(天智)天皇元年,立為東宮(まうけのきみ)
 四年,冬十月庚辰(十七),天皇臥病(みやまひ),以痛之甚矣。於是,遣蘇賀臣安麻侶(そがのおみやすまろ),召東宮,引入大殿(おほとの)。時安摩侶(やすまろ)素東宮所好,密顧東宮曰:「有意(こころしらひ)而言矣。」東宮於茲,疑有隱謀(かくせるはかりこと)(つつしみ)之。
 天皇敕東宮,授鴻業(あまつひつぎのこと)。乃辭讓(いなび)之曰:「臣之不幸(さきはひなき)(もとより)有多病。何能保社稷(くにいへ)?願陛下(きみ)天下(あめのした)皇后(きさき),仍立大友皇子(おほとものみこ)宜為儲君(まうけのきみ)。臣今日出家(いへでし),為陛下欲修功德(のりのこと)。」天皇聽之。
 即日,出家法服(ころも)。因以收私兵器(わたくしのつはもの),悉納於(おほやけ)
 壬午(十九),入吉野宮(よしののみや)。時左大臣(ひだりのおほまへつきみ)蘇賀赤兄臣(そがのあかえのおみ)右大臣(みぎのおほまへつきみ)中臣金連(なかとみのかねのむらじ)大納言(おほきものまをすつかさ)蘇賀果安臣(そがのはたやすのおみ)等送之,自菟道(うぢ)返焉。(あるひと)曰:「(とら)著翼放之(はなてり)。」
 是夕,御嶋宮(しまのみや)
 癸未(廿),至吉野(よしの)而居之。是時,聚諸舍人(とねり),謂之曰:「我今入道修行(おこなひ),故隨欲修道(おこなひ)者留之。若(つかへ)欲成名者,還仕於司。」然无退者(しりぞくもの)。更(つどへ)舍人,而(みことのり)(さき)。是以舍人等,(なかば)留半退(まかりぬ)
 十二月天命開別(天智)天皇(かむあがり)

二、針峰相對,意決出征

 元年,春三月壬辰朔己酉(十八),遣內小七位(うちのせうしちゐ)阿曇連稻敷(あづみのむらじいなしき)筑紫(つくし),告天皇(みも)郭務悰(くわくむそう)等。於是郭務悰等咸著喪服(あさのころも)三遍舉哀(みたびみねたてまつり),向東稽首(をろがむ)
 壬子(廿一),郭務悰等再拜(をろがみ),進書函(ふみはこ)信物(くにつかひのもの)
 夏五月辛卯朔壬寅(十二),以(よろひ)(かぶと)弓矢(ゆみや)賜郭務悰等。是日,賜郭務悰等物,總合(すべて)(あしきぬ)一千六百七十三(ひき)(ぬの)二千八百五十二(むら)綿(わた)六百六十六(はかり)
 戊午(廿八)高麗(こま)前部(ぜんほう)富加抃(ふかべん)進調(みつきたてまつる)
 庚申(),郭務悰等罷歸(まかりかへりぬ)
 是月朴井連雄君(えのゐのむらじをきみ)奏天皇曰:「臣以有私事(わたくしごと),獨至美濃(みの)。時朝庭(みかど)宣美濃、尾張(をはり)國司(くにのみこともち)曰:『為造山陵(みさざき)(あらかじめ)差定人夫(えのたみ)。』則人別(ひとごと)令執(つはもの)。臣以為(おもはく):『非為山陵,必有事矣。』若不早避,當有(あやふきこと)歟!」或有人(まをし)曰:「自近江京(あふみのみやこ)至于倭京(やまとのみやこ),處處置(うかみ)。亦(おほせ)菟道守橋者(はしもり),遮皇大弟(まうけのきみ)宮舍人運私糧(わたくしのくらひもの)事。」天皇惡之(にくみ),因令問察(とひあきらめし),以知事已(まこと)。於是詔曰:「(われ)所以讓位(のがるる)世者,(ひとり)治病(またく)身,(ひたぶる)百年(ももとせ)。然今不獲(やむこと),應承(わざはひ)。何(もだし)亡身耶!」


宇治川宇治橋 「虎著翼放焉」之地


吉野宮復原模型。


壬申之亂 大海人皇子東遷路徑


阿紀神社能舞台 菟田吾城宮跡
社傳垂仁帝世,倭姬命祀天照於宇多,起阿騎宮。吾城宮矣。壬申年六月甲申,皇軍到菟田吾城。


橫河 名張、宇陀川合流
隱郡,名張郡也。驛家,驛務役所也。按律令:「每卅里置驛家。大路廿疋,中路十匹,小路五匹。」按橫河在名張、宇陀二川合流處,則隱驛家蓋在其西南,名張市黑田、結馬一帶。


西漢漆栻盤
式,或云栻,占具也。『史記』日者傳:「分策定卦,旋式正棊。」注:「索隱按,式即栻也。栻之形上圓象天,下方法地,用之則轉天綱加地之辰,故云旋式。」


江寄山常福寺 伊賀郡家跡
伊賀驛家,所在未詳,或云在伊賀郡家邊。或云在伊賀郡神戶村。


鈴鹿關跡
大和街道關町,過此則入伊勢。
三、壬申亂起。大海人皇子入東國

 六月辛酉朔壬午(廿二),詔村國連男依(むらくにのむらじをより)和珥部臣君手(わにべのおみきみて)身毛君廣(むげつのきみひろ),曰:「今聞:『近江朝庭之(やつこ)等,為朕謀害。』是以汝等(いましたち)三人(すむやけく)往美濃國,告安八磨郡(あはちまのこほり)湯沐令(ゆのうながし)多臣品治(おほのおみほむぢ),宣示機要(はかりことのぬみ),而先發當郡兵(そのほこりのいくさ)。仍經國司等,差發諸軍,急塞不破道(ふはのみち)。朕今發路(いでたたむ)。」
 甲申(廿四),將入(あづま)。時有一臣奏曰:「近江群臣(まへつきみたち)元有謀心(はかれるここと),必(いたらむ)天下。則道路(みち)難通。何無一人兵,徒手(むなで)入東。臣恐事不就(ならざらむ)矣。」天皇從之,思欲返召(かへしめさむ)男依等。
 即遣大分君惠尺(おほきだのきみゑさか)黃書造大伴(きふみのみやつこおほとも)逢臣志摩(あふのおみしま)留守司(とどまりまもるつかさ)高坂王(たかさかのおほきみ),而令乞驛鈴(うまやのすず)。因以謂惠尺等曰:「若不得鈴,(すなはち)志摩還而復奏(かへりことまをせ)。惠尺馳之往於近江,喚高市皇子(たけちのみこ)大津皇子(おほつのみこ),逢於伊勢(いせ)。」既而惠尺等至留守司,舉東宮之(おほせこと),乞驛鈴於高坂王。然不聽(ゆるさず)矣。時惠尺往近江。志摩乃還之,復奏曰:「不得(えず)鈴也。」
 是日發途(みちたち)東國(あづまのくに)事急(ことにはかに)不待(おほみま)而行之。(にはかに)遇縣犬養連大伴鞍馬(くらおけるうま),因以御駕(みのり)。乃皇后載輿(こし)從之。(いたり)津振川(つふりかは)車駕(おほみま)始至,便(すなはち)乘焉。是時元從者(もとよりしたがへるひと)草壁皇子(くさかべのみこ)忍壁皇子(おさかべのみこ)及舍人朴井連雄君、縣犬養連大伴(あがたのいぬかひのむらじおほとも)佐伯連大目(さへきのむらじおほめ)大伴連友國(おほとものむらじともくに)稚櫻部臣五百瀨(わかさくらべのおみいほせ)書首根摩呂(ふみのおびとねまろ)書直智德(ふみのあたひちとこ)山背直小林(やましろのあたひをばやし)山背部小田(やましろべのをだ)安斗連智德(あとのむらじちとこ)調首淡海(つきのおびとあふみ)之類,二十有餘人,女孺(めのわはは)十有(あまり)人也。
 即日,到菟田吾城(うだのあき)大伴連馬來田(おほとものむらじまくた)、黃書造大伴從吉野宮追(まゐけり)。於此時,屯田司(みたのつかさ)舍人土師連馬手(はじのむらじうまて)從駕者(しがへるひと)食。
 過甘羅村(かむらのむら),有獵者(かりひと)二十餘人。大伴朴本連大國(おほとものえのもとのむらじおほくに),為獵者之(ひとごのかみ)。則悉喚令從駕(おほみもとにつかへ)。亦徵美濃王(みののおほきみ),乃參赴(まゐり)而從矣。運湯沐之米(ゆのよね)伊勢國(いせのくにの)(におひうま)五十匹,遇於菟田郡(うだのこほり)家頭(みやけのほとり)。仍皆棄米,而令乘步者(かちひと)。到大野(おほの)日落(ひくれぬ)也,山暗不能進行(みたする),則壞取當邑(そのむら)家籬(いへのまがき)(とのしび)。及夜半(よなか),到隱郡(なばりのこほり),焚隱驛家(なばりのうまや)。因(よばひ)邑中曰:「天皇入東國。(かれ)人夫諸參赴。」然一人不肯來(きかへず)矣。
 將及橫河(よこかは),有黑雲(くろくも),廣十餘丈(わたれり)天。時天皇異之(あやしび),則舉燭親秉(ちよく)(うらなひ)曰:「天下兩分之(しるし)也。然朕(つひに)得天下歟。」即急行到伊賀郡(いがのこほり),焚伊賀驛家。逮于伊賀中山(なかやま),而當國郡司(こほりのみやつこ)等,率數百(いくさ)歸焉。
 會明(あけぼの),至莿荻野(たらの)(しまし)(みゆき)進食(みをし)。到積殖山口(つむゑのやまぐち),高市皇子自鹿深(かふか)越以遇之(まゐあへり)民直大火(たみのあたひおほひ)赤染造德足(あかそめのみやつことこたり)大藏直廣隅(おほくらのあたひひろすみ)坂上直國麻呂(さかのうへのあたひくにまろ)古市黑麻呂(ふるいちのくろまろ)竹田大德(たけだのだいとこ)膽香瓦臣安倍(いかごのおみあへ)從焉(したがへり)
 越大山(おほやま),至伊勢鈴鹿(すずか)。爰國司(かみ)三宅連石床(みやけのむらじいはとこ)(すけ)三輪君子首(みわのきみこびと)及湯沐令田中臣足麻呂(たなかのおみたりまろ)高田首(たかたのおびと)新家(にひのみ)等參遇于鈴鹿郡(すずかのこほり)。則且(おこし)五百(いくさ),塞鈴鹿山道(やまみち)。到川曲坂下(かはわのさかもと),而日暮(ひくれぬ)也。以皇后疲之,暫(とどめ)輿而(やすみ)。然夜曀(よくもり)欲雨,不得淹息(ひさしくやすむ)而進行。於是寒之雷雨(いかづちなりあめふる)已甚(はなはだし)。從駕者衣裳(きもの)濕,以不堪(たへず)寒。乃到三重郡家(みへのこほりのみやけ)(やき)屋一間,而令熅(あたためしむ)寒者(こいたるひと)
 是夜半,鈴鹿關司(せきのつかさ)遣使奏言:「山郡王(やまべのおほきみ)石川王(いしかはのおほきみ),並來歸之(まゐよれり)。故(はべらしむ)關焉。」天皇便使路直益人(みちのあたひますひと)徵。
 丙戌(廿六)(あした),於朝明郡(あさけのこほり)跡太川邊(とほかはのへ)望拜(たよせにをろがみ)天照大神(あまてらすおほみかみ)。是時,益人到之奏曰:「所置關者非山部王、石川王。是大津皇子也。」便隨益人參來矣。大分君惠尺、難波吉士三綱(なにはのきしみつな)駒田勝忍人(こまだのすぐりおしひと)山邊君(やまへのきみ)安摩呂(やすまろ)小墾田豬手(をはりたのゐて)埿部胝枳(はつかしべのしき)大分君稚臣(おほきだのきみわかおみ)根連金身(ねのむらじかねみ)漆部友背(ぬりべのともせ)(ともがら)從之。天皇大喜,將及郡家,男依乘(はゆま)來奏曰:「發美濃(いくさ)三千人,得(さふる)不破道。」
 於是天皇(ほめ)雄依之(いさをし),既到郡家,先遣高市皇子於不破,令監軍事(いくさのこと)。遣山背部小田、安斗連阿加布(あとのむらじあかふ),發東海(うみつぢ)軍。又遣稚櫻部臣五百瀨、土師連馬手,發東山(やまつぢ)軍。
 是日,天皇宿于桑名郡家(くはなのこほりのみやけ),即停以不進。

四、近江朝驚駭與大友皇子對策

 是時,近江朝(あふみのみかど)大皇弟(まうけのきみ)入東國,其群臣悉(おぢ)京內震動(みやこのうちさわく)。或(のがれ)欲入東國,或退將匿山澤(やまさは)。爰大友皇子謂群臣曰:「將何計?」一臣(ひとりのまへつきみ)進曰:「遲謀將後(おくれなむ)。不如,急聚驍騎(ときうまいくさ),乘(あと)而逐之。」皇子不從。則以韋那公磐鍬(ゐなのきみいはすき)書直藥(ふみのあたひくすり)忍坂直大摩侶(おしさかのあたひおほまろ)(つかはし)于東國;以穗積臣百足(ほづみのおみももたり)及弟五百枝(いほえ)物部首日向(もののべのおびとひむか),遣于倭京;且遣佐伯連男(さへきのむらじをとこ)於筑紫,遣樟使主磐手(くすのおみいはて)吉備國(きびのくに),並(ことごとく)令興(いくさ)。仍謂男與磐手曰:「其筑紫大宰(おほみこともち)栗隈王(くるくまのおほきみ)與吉備國(かみ)當摩公廣嶋(たぎまのきみひとしま)二人,元有(つきまつる)大皇弟。疑有(そむく)歟。若有不服色(まつろはぬおもへり),即殺之。」
 於是,磐手到吉備國,授(おしてのふみ)之日,紿(あざむき)廣嶋令解(かたな)。磐手(すなはち)拔刀以殺也。
 男至筑紫。時栗隈王(うけ)(こたへ)曰:「筑紫國者,元(まもる)邊賊之難(ほかのわざはひ)也。其(たかく)城深(みぞ)(のぞみ)海守者,(あに)內賊(うちのあた)耶?今(かしこみ)命而發軍,則國空矣(くにむなしけむ)。若不意之外(おもひのほか),有倉卒之事(にはかなること)(ひたぶる)社稷傾之(かたぶき)。然後(いふとも)(ももたび)(やつかれ),何(しるし)焉?豈(あへて)(いきほひ)耶?(たやすく)不動兵者,其是(えに)也。」時栗隈王二子三野王(みののおほきみ)武家王(たけいへのおほきみ)(つるぎ)立于(かたはら)而無退。於是男(とりしぼり)劍欲進,還恐見亡(ころされむ)。故不能(あたはず)成事,而(むなしく)還之。
 東方(ひむがしのかた)驛使(はゆまつかひ)磐鍬等將及(いたらむ)不破,磐鍬獨疑山中有兵,以(おくれ)(やくやく)行。時伏兵(かくしいくさ)自山出,遮藥等之(うしろ)。磐鍬見之,知藥等見捕(とらはるる),則返逃走(にげ),僅得(まぬかるる)
 當是時,大伴連馬來田、弟吹負(ふけひ)並見時(よくもあらぬ),以稱病退於(やまと)家。然知其登嗣位(あまつひつぎしらしめさむ)者,必所居吉野大皇弟(大海人)矣。是以馬來田(まづ)從天皇。唯吹負留(おもはく):「立名于一時(ひととき),欲寧艱難(わざはひ)。」即(をき)一二(やから)及諸豪傑(いさを)(わづかに)得數十人。


縣神社 傳桑名郡家跡
按『勢陽五鈴遺響』云桑名市本願寺:「日本書紀天武紀曰桑名郡家之地,此地是也。」題天武天皇頓宮舊址曰「在屬邑本願寺村,天武天皇伊勢潛幸桑名頓宮旧地也。此舊墟有清泉,云菊井。」


宮代廢寺跡
不破郡家跡候補地。又壬申之亂功臣宮勝木實氏寺。或云聖武天皇美濃行幸之宮處寺也。


野上行宮跡
天武帝興野上行宮祈曰:「天地神祇助朕者,雷雨息矣。」即止。


大海人皇子 兜掛石跡


大海人皇子 沓脫石跡
和蹔,今關之原也。


勝利之舞 犢鼻褌
犢鼻,犢鼻褌之略。按『史記集解』:「三尺布作,形如犢鼻。」
五、大海人皇子悉授軍事於野上行宮

 丁亥(廿七),高市皇子遣使於桑名郡家以奏言:「遠居御所(おはしますところ)行政(まつりごとをおこなはむ)不便。宜御近處(ちかきところ)。」
 即日,天皇留皇后,而入不破。比及郡家,尾張國司守小子部連鉏鉤(ちひさこべのむらじさひち)率二萬眾歸之(よりまつる)。天皇即(ほめ)之,(くばり)其軍,(たふ)處處道也。到于野上(のがみ),高市皇子自和蹔參迎(まゐむかへ),以便奏言:「昨夜,自近江朝驛使馳至。因以伏兵而捕者,則書直藥、忍坂直大麻呂(おほまろ)也。問何所往,答曰:『為所居吉野大皇弟(大海人),而遣發東國軍韋那公磐鍬之(ともがら)也。然磐鍬見兵起,乃逃還(にげかへりぬ)之。』」
 既而天皇謂高市皇子曰:「(それ)近江朝,左右大臣(ひたりみぎのおほまへつきみ)智謀群臣(かしこきまへつきみたち)共定議。今朕無(ともに)計事者,唯有幼少孺子(いとけなきこども)耳。奈之何(いかにかせむ)?」皇子(かきはつり)臂按劍奏言:「近江群臣雖多,何敢逆天皇之靈(すめらみことのみたま)哉。天皇雖(ひとりのみ),則臣高市賴神祇之靈(あまつかみくにつかみのみたまふゆ)(うけ)天皇之(みことのり),引率諸將(もろもろのいくさのきみ)征討(うたむ)。豈有(ふせく)乎?」爰天皇(ほめ)之,(とり)(かきなで)背曰:「慎,不可怠(なおこりたりそ)。」因賜鞍馬,悉授軍事。皇子則還和蹔(わざみ)。天皇於茲,行宮(かりみや)興野上而居焉。
 此夜雷電(いかづちなり)雨甚。天皇祈之曰:「天地神祇(あまつかみくにつかみ)(たすけ)朕者,雷雨息矣。」言訖即雷雨止之(やみぬ)
 戊子(廿八),天皇往於和蹔,檢校(かむがへ)軍事而還。
 己丑(廿九),天皇往和蹔,命高市皇子,號令(のりごとし)軍眾。天皇亦還于野上而居之。
 是日大伴連吹負(おほとものむらじふけひ)密與留守司坂上直熊毛(さかのうへのあたひくまけ)議之,謂一二(ひとりふたり)漢直(あやのあたひ)等曰:「我(いつはり)稱高市皇子,率數十(うまいくさ),自飛鳥寺(あすかでら)北路出之臨(いほり)。乃汝內應(うちにこたへ)之。」既而(つくろひ)兵於百濟家(くだらのいへ),自南門(みなみのかど)出之。先秦造熊(はだのみやつこくま)犢鼻(たふさぎ),而乘馬馳之,俾謂於寺西營中(いほりのうち)曰:「高市皇子(より)不破至。軍眾(いくさのひとども)(したがへり)。」
 爰留守司高坂王及興兵使者(つはものをおこすつかひ)穗積臣百足等據飛鳥寺西槻下(つきのみと)為營。唯百足居小墾田兵庫(おはりたのつはものぐら)(はこぶ)兵於近江。時營中軍眾聞熊叫聲(とばふこゑ),悉散走(あらけにげぬ)。仍大伴連吹負率數十騎劇來(にはかにきたる)。則熊毛及諸直(もろもろのあたひ)等共與連和(うるはし)軍士(いくさのひとども)亦從。乃舉高市皇子之(みことのり)(めす)穗積臣百足於小墾田兵庫。(ここに)百足乘馬(やくやく)來,(いたる)于飛鳥寺西槻下。有人曰:「下馬也。」時百足下馬遲之(おそし)。便取其(ころものくび)引墮(ひきおとし),射中一箭。因拔刀(きり)而殺之。
 乃(とらふ)穗積臣五百枝(ほづみのおみいほえ)、物部首日向。(しばらくあり)(ゆるし)之置軍中(いくさのなか)。且喚高坂王、稚狹王(わかさのおほきみ),而令從軍焉。既而遣大伴連安麻呂(おほとものむらじやすまろ)坂上直老(さかのうへのあたひおきな)佐味君宿那麻呂(さみのきみすくなまろ)等於不破宮(ふはのみや),令奏事狀(ことのかたち)。天皇大喜之。因乃令吹負拜將軍(いくさのきみ)。是時三輪君高市麻呂(みわのきみたけまろ)鴨君蝦夷(かものきみえみし)等及群豪傑者(もろもろのいさをしきひとども),如(ひびき)(つどひ)將軍麾下(しるしのはたのもと),乃(はかる)襲近江。因以(えらひ)眾中之英俊(いくさのなかのすぐれたるひと),為別將(こといくさのきみ)軍監(まつりごとひと)
 庚寅(七月一日),初向乃樂(なら)

六、越大山至倭,自不破擊近江

 秋七月庚寅朔辛卯(),天皇遣紀臣阿閉麻呂(きのおみあへまろ)、多臣品治、三輪君子首、置始連菟(おきそめのむらじうさぎ)(ゐて)數萬眾,自伊勢大山越之向倭。且遣村國連男依、書首根麻呂(ふみのおびとねまろ)、和珥部臣君手、膽香瓦臣安倍,率數萬眾,自不破出,(ただに)入近江。(おそり)其眾與近江師難(わき),以赤色(あかいろ)衣上(ころものうへ)。然後(ことに)命多臣品治,率三千眾(いはましめ)于莿荻野,遣田中臣足麻呂,令守倉歷道(くらふのみち)
 時近江命山部王(やまべのおほきみ)蘇賀臣果安(そがのおみはたやす)巨勢臣比等(こせのおみひと),率數萬眾,將襲(おそはむ)不破,而(いくさだちす)犬上川濱(いぬがみのかはのほとり)。山部王為蘇賀臣果安、巨勢臣比等見殺(ころされぬ)。由是(みだれ),以軍不進(すすまず)。乃蘇賀臣果安自犬上返,刺頸而死。
 是時,近江將軍羽田公矢國(はたのきみやくに),其子大人(うし)等,率己族(おのがやから)來降(まゐしたがひまつる)。因授斧鉞(おのまさかり)(めし)將軍,即(きたのかた)(こし)
 (さき)是,近江放精兵(ときいくさ),忽衝玉倉部邑(たまくらべのむら)。則遣出雲臣狛(いづものおみこま)擊追之(うちおはしむ)


伊勢、伊賀國境 伊勢之大山


前賢故實 村國男依


犬上川 發鈴鹿山,注琵琶湖


前賢故實 大野果安、田邊小隅
七、戰敗乃樂山,擊退莿荻野

 壬辰(),將軍吹負屯于乃樂山(ならやま)上。時荒田尾直赤麻呂(あらたをのあたひあかまろ)啟將軍曰:「古京(飛鳥倭京)本營(もとのいほり)處也,宜固守(かたくまもる)。」將軍從之。則遣赤麻呂、紀部首子人(いみべのおびとこびと),令戍古京(ふるきみやこ)
 於是,赤麻呂等詣古京(倭京),而解取道路橋板(みちのはしいた),作(たて)(たつ)於京邊(ちたま)以守之。
 癸巳(),將軍吹負與近江將大野君果安(おほののきみはたやす),戰于乃樂山,為果安所敗(やぶらる)軍卒(いくさひとども)(にげ),將軍吹負(わづかに)(まぬかるる)身。於是果安追至八口(やくち)(のぼり)山而視京,每街(ちたまごと)豎楯。(うたがひ)有伏兵,乃稍引還(ひきてかへる)之。
 甲午(),近江別將田邊小隅(たなへのをすみ),越鹿深山(かふかのやま),而卷(はた)(つづみ),詣于倉歷(くらふ)。以夜半之,(くくみ)(くちき)穿城,(にはかに)入營中。則(おそり)己卒與足麻侶(たりまろ)(がたきこと)別,以每人(ひとごと)令言:「(かね)。」仍拔刀而毆之(うち)(あらざる)言「金」(すなはち)斬耳(きる)
 於是,足摩侶眾(たりまろがいくさ)悉亂之,事忽起(たちまちにおこり)不知所為(せむすべをしらず)。唯足摩侶聰知之(とくしり),獨言:「金。」以僅得免。
 乙未(),小隅亦進,欲襲莿荻野營而忽(いたる)
 爰,將軍多臣品治遮之(たへ),以精兵追擊(おひうつ)之。小隅獨免走焉。以後(これよりのち),遂復不來也。

八、近江會戰,大友皇子自縊

 丙申(),男依等與近江軍(あふみのいくさ)息長橫河(おきながのよこかは)破之(やぶり),斬其將境部連藥(さかひべのむらじくすり)
 戊戌(),男依等(うち)近江將秦友足(はだのともたり)鳥籠山(とこのやま),斬之。
 是日東道將軍(うみつみちのいくさのきみ)紀臣阿閉麻呂等聞倭京將軍大伴連吹負為近江所敗,(すなはち)分軍以遣置始連菟,率千餘騎而急(はせしむ)倭京。
 壬寅(十三),男依等戰于安河(やすのかは)濱,大破。則獲社戶臣大口(こそへのおみおほくち)土師連千嶋(はじのむらじちしま)
 丙午(十七),討栗太(くるもと)軍,追之。
 辛亥(廿二),男依等到瀨田(せた)
 時大友皇子及群臣等共營於橋西,而大成(つら),不見其(しりへ)旗幟(はた)蔽野,埃塵(ちり)連天,鉦鼓(かねつづみ)之聲,聞數十里。列弩(つらなれるゆみ)亂發,矢(くだる)如雨。其將智尊(ちそん)率精兵,以先鋒(さき)距之。仍切斷橋中須容(いるばかり)三丈,置一長板(ながきいた)(たとひ)蹋板度者(いたをふみてわたるもの),乃引板將墮(おとさむとす)。是以不得進襲(すすみおそふ)
 於是,有勇敢士(たけきつはもの),曰大分君稚臣。則棄長矛(ほこ)重擐(かさねき)甲,(ぬき)刀急(ふみ)度之(わたる)。便斷著板綱(いたにつけたるつな),以被矢(いえつつ)入陣。眾悉亂而散走之,不可禁(とどむべからず)。時將軍智尊,拔刀斬退者(にぐるもの)。而不能(とどむること)(よりて)以斬智尊於橋邊(はしのほとり)
 則大友皇子、左右大臣等僅身免(みまぬかれ)以逃之。男依等即(いくさだち)粟津岡(あはづのをか)下。
 是日,羽田公矢國、出雲臣狛,合共(ともに)三尾城(みをのき)降之(くだしつ)
 壬子(廿三),男依等斬近江將犬養連五十君(いぬかひのむらじいきみ)谷直鹽手(たにのあたひしほて)粟津市(あはづのいち)
 於是,大友皇子(にげて)所入(いらむところ),乃還隱山前(やまさき),以自縊焉(みづからくびれぬ)(ときに)左右大臣及群臣,皆散亡(ちらけうせぬ)(ただし)物部連麻呂(もののべのむらじまろ)(また)一二舍人從之。


大友皇子自縊址 自害峰三本杉


前賢故實 石上麻呂智尊


弘文帝【大友】 長等山前陵
日本書紀定天智天皇崩翌年為天武元年。不承認大友皇子即位。然前田家本『西宮記』等史料,有大友王子即位事。明治三年,追諡弘文天皇。改天武元年為弘文元年,天武二年為天武元年。


前賢故實 壹伎韓國


前賢故實 廬井鯨


高市御縣坐鴨事代主神社
河俣神社,祀鴨八重事代主神。


身狹社 牟佐坐神社
祀身狹【牟佐】生靈神。今奉高皇產靈命、孝元帝以為祭神。


村屋坐彌富都比賣神社
或稱守屋宮、森屋宮。祀村屋神,即彌富都比賣神、大物主命。
九、近江軍臻倭,大伴吹負距之

 初將軍吹負向乃樂至稗田(ひえだ)之日,有人曰:「自河內(かふち),軍(さはに)至。」則遣坂本臣財(さかもとのおみたから)長尾直真墨(ながをのあたひますみ)倉墻直麻呂(くらかきのあたひまろ)民直小鮪(たみのあたひをしび)谷直根麻呂(たにのあたひねまろ),率三百軍士,距於龍田(たつた)。復遣佐味君少麻呂(さみのきみすくなまろ),率數百人,屯大坂(おほさか)。遣鴨君蝦夷,率數百人,守石手道(いはてのみち)
 是日,坂本臣財等(やどれり)平石野(ひらいしのの)(ときに)聞近江軍在高安城(たかやすのき)登之(たつ)。乃近江軍知財等(きたる),以悉(やき)稅倉(ちからくら),皆散亡。仍宿城中。
 會明(のぞみ)見西方,自大津(おほつ)丹比(たぢひ)兩道,軍眾多至,(あきらかに)見旗幟。有人曰:「近江將壹伎史韓國(いきのふびとからくに)之師也。」財等自高安城降,以渡衛我河(ゑがのかは),與韓國戰于河西(かはのにし)。財等眾少不能距。
 先是,遣紀臣大音(きのおみおほと),令守懼坂道(かしこのさかのみち)。於是財等退懼坂,而居大音之營。是時,河內國司守(かふちのくにのみこともちのかみ)來目臣鹽籠(くめのおみしほこ),有(まゐよる)於不破宮之情,以(つどふ)軍眾。(ここに)韓國到之,(ひそかに)聞其(はかりこと),而將殺鹽籠。鹽籠知事漏(ことのもれしこと),乃自死(みづからみうす)焉。
 經一日,近江軍(あたり)諸道而多至。即(ならび)不能相戰,以解退(ときしりぞく)
 是日,將軍吹負為近江所敗,以獨率一二騎走之(にぐ)。逮于墨坂(すみさか)(たまたま)菟軍(うさぎがいくさ)至,更還屯金綱井(かなづなのゐ),而招聚(をきあつむ)散卒(あかれるいくさ)。於是,聞近江軍至大坂道(おほさかのみち),而將軍(ひき)(ゆく)西。到當麻衢(たぎまのちまた),與壹伎史韓國軍戰葦池(あしいけ)側。
 時有勇士(たけきひと)來目(くめ)者,拔刀急馳(すむやけくはせ),直入軍中。騎士(うまいくさ)繼踵而進之(しきりてすすむ)。則近江軍悉走之,追斬(はなはだ)多。爰將軍令軍中曰:「其(おこす)兵之元意(もとのこころ),非殺百姓(おほみたから),是為元兇(あた)。故莫妄殺(みだりにころす)。」於是,韓國離軍獨逃也。將軍遙見之,令來目以俾(いしむ)。然不中(あたらず),而(つひに)走得免焉。
 將軍更還本營。時東師(あづまのいくさ)(しきり)(いたる)。則分軍,各當上中下道(かみなかしものみち)而屯之。唯將軍吹負親當中道。於是,近江將犬養連五十君,自中道至之留村屋(むらや),而遣別將廬井造鯨(いほゐのみやつこくぢら),率二百精兵,(つかしむ)將軍營。當時麾下軍少,以不能距。爰有大井寺奴(おほゐでらのやつこ)德麻呂(とこまろ)等五人,從軍。(すなはち)以德麻呂等為先鋒,以進射之(すすみている)。鯨軍不能(あたはず)進。
 是日,三輪君高市麻呂、置始連菟當上道,戰于箸陵(はしのはか)。大破近江軍,而乘勝(かちにのり)(たつ)鯨軍之(しりへ)。鯨軍悉解走,多殺士卒(いくさ)。鯨乘白馬(あをうま)以逃之,馬墮泥田(ふかた),不能進行(すすみゆく)。則將軍吹負謂甲斐勇者(かひのたけきひと)曰:「其乘白馬者,廬井鯨也。急追以射。」於是甲斐勇者馳追之,(ころほひ)(いたる)鯨,鯨(たちまち)(むちうち)馬,馬能拔以出(ひぢりこ),即馳之得脫。將軍亦更還本處(もとのところ)軍之(いくさだち)自此以後(これよりのち),近江軍遂不至。
 先是軍金綱井之時,高市郡(たかちのこほり)大領(こほりのみやつこ)高市縣主許梅(たかちのあがたぬしこめ)儵忽(にはかに)口閉(くちつくび),而不能言也。三日之後,方著神(かみかかり)以言:「吾者,高市社(たけちのやしろ)所居,名事代主神(ことしろぬしのかみ)。又身狹社(むさのやしろ)所居,名生靈神(いくみたまのかみ)者也。」乃顯之(あらはし)曰:「於神日本磐余彥(かむやまといはれびこ)天皇之(みさざき),奉(うま)種種(くさぐさ)兵器。」便亦言:「吾者,立皇御孫命(すめみまのみこと)前後(みさきしりへ),以送奉(おくりまつり)于不破而還焉。今且立官軍(みいくさ)中而守護(まもり)之。」且言:「自西道,軍眾將至之。宜慎也(つづしむべし)。」言(をはり)醒矣(さめぬ)
 故(ここ)以便遣許梅,而祭拜(まつりをろがましめ)御陵,因以奉馬及兵器。又捧(みてぐら)禮祭(ゐやまひまつる)高市、身狹二社之神。然後(しかるのちに)壹伎史韓國自大坂來。故時人(ときのひと)曰:「二社神(ふたやしろのかみ)所教之辭,適是也(まことにこれなり)。」
 又,村屋神(むらやのかみ)(はふり)曰:「今自吾社中道(なかつみち),軍眾將至。故宜塞社中道。」故,未經幾日(いくか),廬井造鯨軍,自中道至。時人曰:「即神所教之辭(をしへたまへるみことば)是也。」
 軍政(いくさのまつりごと)既訖,將軍等舉是三神(みはしらのかみ)教言而奏之(まをす)。即(みことのり)登進(あげすすめ)三神之(しな)祠焉(まつりたまふ)

十、壬申之亂終,大海人皇子凱旋

 辛亥(廿二),將軍吹負(すでに)倭地(やまとのところ),便越大坂往難波(なには)以餘(これよりほかの)別將等(おのもおのも)三道(みつのみち)進,至于山前,屯河南(かはのみなみ)。即將軍吹負,難波小郡(をごほり)而仰以西(にし)諸國司等,令進官鑰(かぎ)驛鈴(すず)傳印(つたへのしるし)
 癸丑(廿四),諸將軍等悉會於筱浪(ささなみ)【筱,此云ささ(佐佐)。】探捕(あなぐりとらふ)左右大臣及諸罪人(つみびと)等。
 乙卯(廿六),將軍等(まゐづ)於不破宮。因以(ささげ)大友皇子(かしら),而獻于營前(いほりのまへ)
 八月庚申朔甲申(廿五),命高市皇子,宣近江群臣犯狀(あやまつかたち)。則重罪(おもきつみ)八人坐極刑(しぬるつみ)(よりて)斬右大臣中臣連金於淺井田根(あさゐのたね)
 是日,左大臣蘇我臣赤兄(そがのおみあかえ)、大納言巨勢臣比等及子孫(うみのこ),并中臣連金(なかとみのむらじかね)之子、蘇我臣果安(そがのおみはたやす)之子,悉配流(ながす)。以餘悉赦之(ゆるす)
 先是,尾張國司守少子部連鉏鉤(ちひさこべのむらじさひち)(かくれ)山自死之。天皇曰:「鉏鉤,有功者(いさをしきもの)也。無罪(いかにぞ)自死,(それ)有隱謀歟?」
 丙戌(廿七)恩敕(めぐみのみことのり)有功勳者(いさをしきもの),而顯寵賞(めぐみたまもの)
 九月己丑朔丙申()車駕(すめらみこと)還宿伊勢桑名(くはな)
 丁酉()宿(やどり)鈴鹿。
 戊戌(),宿阿閉(あへ)
 己亥(十一),宿名張(なばり)
 庚子(十二)(いたり)于倭京,而御嶋宮(しまのみや)
 癸卯(十五),自嶋宮移岡本宮(をかもとのみや)
 是歲,營宮室(おほみや)於岡本宮南。
 即冬(うつり)以居焉。是謂飛鳥淨御原宮(あすかのきよみはらのみや)
 冬十一月戊子朔辛亥(廿四),饗新羅客(しらきのまらひと)金押實等於筑紫。
 即日賜祿(ものたまふ)各有差。
 十二月戊午朔辛酉()(えらひ)諸有功勳者,增加冠位(かがふりくらゐ)。仍賜小山(せうせん)以上(かみつかた),各有差。
 壬申(十五),船一隻,賜新羅客。
 癸未(廿六)金押實(こむあふじち)等罷歸。
 是月大紫(だいし)韋那公高見(ゐなのきみたかみ)(みまかりぬ)

日本書紀卷廿八 終


島庄遺跡 馬子宅邸比定地
島,地名。嶋大臣蘇我馬子宅邸一帶。島宮者,蓋在其地。


飛鳥資料館 淨御原宮模型


飛鳥淨御原宮正殿跡


天武帝飛鳥淨御原宮跡
飛鳥淨御原宮跡,原僅南門跡可攷,後正殿亦出土,推定規模含括飛鳥板蓋宮跡。

【久遠の絆】【卷廿七】【卷廿九】【再臨詔】