日本書紀 卷廿六 齊明紀

天豐財重日足姬天皇(あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと) 齊明天皇(さいめいてんわう)


扶桑略記 齊明帝記元年五月條
乘龍騰空者有諸說。按扶桑略記:「時人言蘇我豐浦大臣之靈也。」帝王編年記:「人多死亡,此靈所為。」住吉神代記:「住吉大神巡檢神域。」尚有唐人託修驗道窺倭、或青龍星座祈雨之象說。


川原寺跡
飛鳥川原宮,或云同飛鳥河邊行宮。而川原寺跡發掘之際,察有創寺以前暗渠,或云蓋川原宮跡乎。
一、天皇重祚飛鳥板蓋宮

 天豐財重日足姬(あめとよたからいかしひたらしひめ)天皇(すめらみこと),初適於橘豐日(たちばなのとよひ)天皇之孫高向王(たかむくのおほきみ),而生漢皇子(あやのみこ)
 後適於息長足日廣額(おきながたらしひひろぬか)天皇,而生二男一女。
 二年,立為皇后(きさき)。見息長足日廣額(舒明)天皇紀。
 十三年,冬十月息長足日廣額(舒明)天皇(かむあがり)
 明年,正月,皇后即天皇位(あまつひつぎしらしめす)
 改元四年,六月,讓位於天萬豐日(あめよろづとよひ)天皇。稱天豐財重日足姬(皇極)天皇曰皇祖母尊(すめみおやのみこと)
 天萬豐日(孝德)天皇,後五年十月,崩。
 元年,春正月壬申朔甲戌()皇祖母尊(皇極)即天皇位於飛鳥板蓋宮(あすかのいたぶきのみや)
 夏五月庚午朔()空中(おほそらのなか)有乘(たつ)者。(かたち)唐人(もろこしひと),著青油笠(あをきあぶらきぬのかさ),而自葛城嶺(かづらきのたけ)馳隱膽駒山(いこまのやま)。及至午時(うまのとき),從於住吉松嶺(すみのえのまつのみね)之上,西向馳去。
 秋七月己巳朔己卯(十一),於難波朝(なにはのみかど)饗北蝦夷(えみし)九十九人,【北,(こし)。】(あづま)蝦夷九十五人。【東,陸奧(みちのく)。】并設百濟調使(みつきのつかひ)一百五十人。仍授柵養(きかふ)蝦夷九人,津刈(つかる)蝦夷六人,(かがふり)二階(ふたしな)
 八月戊戌朔()河邊臣麻呂(かはへのおみまろ)等自大唐(もろこし)還。
 冬十月丁酉朔己酉(十三),於小墾田(おはりた)造起宮闕(おほみや),擬將瓦覆(かはらぶき)。又於深山廣谷(ふかきやまひろきたに)(する)宮殿(みや)之材,朽濫(くちただれる)者多。遂止弗作(つくらず)
 是冬(ひつけり)飛鳥板蓋宮。故遷居飛鳥川原宮(あすかのかはらのみや)
 是歲高麗(こま)百濟(くだら)新羅(しらき),並遣使進調。【百濟大使(おほきつかひ)西部達率余宜受(せいほうだちそちよげす)副使(そひつかひ)東部恩率調信仁(とうほうおんそちてうしんに),凡一百餘人。】蝦夷、隼人(はやひと)率眾內屬(まゐきしたがひ),詣(みかど)朝獻。新羅別以及飡彌武(きふさんみむ)(むかはり),以十二人為才伎(てひと)者。彌武遇疾(やまひ)而死。是年也,太歲乙卯
 二年,秋八月癸巳朔庚子(),高麗遣達沙(だちさ)等進調。【大使達沙,副使伊利之(いりし),總八十一人。】
 九月,遣高麗大使膳臣葉積(かしはでのおみはつみ),副使坂合部連磐鍬(さかひべのむらじいはすき)大判官(おほきまつりごとひと)犬上君白麻呂(いぬかみのきみしろまろ)中判官(すけのまつりごとひと)河內書首(かふちのふみのおびと)(もらせり)名。】小判官(すなきまつりごとひと)大藏衣縫造麻呂(おほくらのきぬひのみやつこまろ)

二、狂心之土木造營

 是歲,於飛鳥岡本(をかもと),更定宮地(みやどころ)。時高麗、百濟、新羅(ならびに)遣使進調。為張紺幕(ふかきはなだのあげはり)於此宮地而饗焉(あへたまふ)
 遂起宮室(おほみや)。天皇乃遷,號曰後飛鳥岡本宮(のちのあすかのをかもとのみや)。於田身嶺(たむのみね)冠以周垣(めぐれるかき)【田身,山名。此云たむ(大務)。】復於嶺上兩槻樹(つきのき)邊起(たかどの),號為兩槻宮(ふたつきのみや),亦曰天宮(あまつみや)
 時好興事(おこしつくること),迺使水工(みづたくみ)穿(みぞ),自香山(かぐやま)西至石上山(いそのかみのやま)。以舟二百隻(つみ)石上山石,順流(みづのまにまに)控引於宮(ひむがし)山,(かさね)石為垣。時人(そしり)曰:「狂心渠(たぶれこころのみぞ)損費(おとしつひやす)功夫(ひとちから)三萬餘矣。費損(つひやしおとす),造垣功夫七萬餘矣。宮材(みやのき)爛矣。山椒(やまのすゑ)埋矣。」又謗曰:「作石山丘(いしのやまをか)隨作(つくるまにまに)(こほれなむ)。」(けだし)據未成之時,(なせる)此謗乎。】
 又作,吉野宮(よしののみや)
 西海使(にしのみちのつかひ)佐伯連栲繩(さへきのむらじたくなは)【闕位階級(くらゐのしな)。】小山下(せうせんげ)難波吉士國勝(なにはのきしくにかつ)等,自百濟還,獻鸚鵡(あうむ)一隻。
 災,岡本宮(をかもとのみや)
 三年,秋七月丁亥朔己丑()覩貨邏國(とくわらのくに)男二人、女四人,漂泊(ただよひよれる)筑紫(つくし)(まをさく):「(やつかれ)等初漂泊于海見嶋(あまみのしま)。」乃以(はゆま)召。
 辛丑(十五),作須彌山像(すみのやまのかた)飛鳥寺(あすかのてら)西,且設盂蘭瓮會(うらんぼんのをがみ)(ゆふへ),饗覩貨邏人。【或本云,墮羅人(たらひと)。】


酒船石遺跡


宮東山 石垣跡
出土於酒石船所在丘陵,全長十餘公尺之天理砂石石垣遺跡。


龜形石造物 狂心渠跡
以酒船石、龜石遺跡為中心,飛鳥岡地有廣大之水利工程遺跡出土。


有間皇子神社 有間皇子像


大正時代之牟婁溫湯


齶田
三、有間皇子佯狂

 九月有間皇子(ありまのみこ)性黠(ひととなりさとく)陽狂(つはりたぶれす)云云(しかしかいふ)。往牟婁溫湯(むろのゆ)(まねし)(をさむ)病來,讚國體勢(なり)曰:「(ひただ)觀彼地,病自蠲消(のぞこりぬ)。」云云。天皇聞悅,思欲(おもほす)(みそこなはさむ)
 是歲,使使於新羅曰:「欲將沙門智達(ほふしちだち)間人連御廄(はしひとのむらじみまや)依網連稚兒(よさみのむらじわくご)等,付汝國使,令送到大唐。」新羅不肯聽送(うけたまはり)。由是沙門智達等還歸。
 西海使小花下(せうくゑげ)阿曇連頰垂(あづみのむらじつらたり)、小山下津臣傴僂(つのおみくつま)【傴僂,此云くつま(俱豆磨)。】自百濟(かへり),獻駱駝(らくだ)一箇、(うさぎうま)二箇(ふたつ)
 石見國(いはみのくに)言:「白狐(しろきつね)見。」
 四年,春正月甲申朔丙申(十三)左大臣(ひだりのおほおみ)巨勢德太臣(こせのとこだのおみ)薨。
 夏四月阿倍臣(あへのおみ)【闕名。】船師(ふないくさ)一百八十(ふね)蝦夷(えみし)齶田(あぎた)渟代(ぬしろ)二郡蝦夷,望怖乞(したがはむ)。於是(ととのへ)(つらぬ)船於齶田浦(あぎたのうら)。齶田蝦夷恩荷(おが)進而誓曰:「不為官軍(みいくさ)故持弓矢(ゆみや),但(やつこ)等性食肉(ししをくらふ)故持。若為官軍,以(まうけ)弓矢,齶田浦神知矣。將清白心(きよきこころ)仕官(みかど)矣。」仍(さづく)恩荷以小乙上(せうおつじやう),定渟代、津輕(つかる)二郡郡領(こほりのみやつこ)。遂於有間濱(ありまのはま)召聚渡嶋(わたりのしま)蝦夷等,大饗而歸。

四、皇孫建王薨

 五月,皇孫建王(たけるのみこ),年八歲(みうせましぬ)今城谷(いまきのたに)上,起(もがり)(をさむ)。天皇本以皇孫有順(みさをかなる)器重(ことにあがめ)之,故不忍哀傷慟(いたみまとひ)極甚。詔群臣(まへつきみたち)曰:「萬歲千秋(よろずとせちあき)之後,要合葬(あはせはぶれ)於朕陵。」(すなはち)作歌曰:

 天皇時時唱而悲哭(みね)
 秋七月辛巳朔甲申(),蝦夷二百餘詣闕朝獻(ものたてまつる)。饗賜贍給(にぎはへたまふ),有(まされる)於常。仍授柵養蝦夷二人(くらゐ)(しな),渟代郡大領沙尼具那(さにぐな)小乙下(せうおつげ)或所(あるところ),云授位二階,使檢戶口(へひと)。】少領(すけのみやつこ)宇婆左(うばさ)建武(けんむ),勇建者二人位一階。(ことに)賜沙尼具那等鮹旗(たこはた)二十頭、(つづみ)二面、弓矢二具、(よろひ)二領。授津輕郡大領馬武(めむ)大乙上(だいおつじやう),少領青蒜(あをひる)小乙下,勇建者(いさみたけきもの)二人位一階。別(たまふ)馬武等鮹旗二十頭、鼓二面、弓矢二具、鎧二領。授都岐沙羅柵造(つきさらのきのみやつこ)【闕名。】位二階,判官位一階。授渟足(ぬたり)柵造大伴君稻積(おほとものきみいなづみ)小乙下。
 又詔渟代郡大領(こほりのみやつこ)沙尼具那,檢覆(かむがへあなぐらしむ)蝦夷戶口與(とりこ)戶口。
 是月,沙門智通(ちつ)、智達奉敕乘新羅船(しらきのふね)大唐國(もろこしのくに),受無性眾生義(むしやうしゆじやうのことわり)玄奘法師(げんじやうほふし)所。
 冬十月庚戌朔甲子(十五),幸紀溫湯(きのゆ)。天皇憶皇孫(みまご)建王,愴爾悲泣(いたみかなしび),乃口號(くつうたす)曰:

 詔秦大藏造萬里(はだのおほくらのみやつこまろ),曰:「傳斯歌,勿令忘於世。」


牽牛子塚古墳 墓穴
按宮內廳治定車木ケンノウ古墳為齊明陵。而牽牛子塚古墳以合葬墓建築,視為齊明陵之有力候補。

天皇殯建王哀歌:「嗚呼今城谷 今城谷兮小丘上 觀其大虛空 如雲著立得顯見 何須愴嘆至如此【古傳見立雲者,輙得見遠去戀人、思人魂魄。】其二:「射彼豬鹿獸 識認彼獸追其跡 川上稚草青 吾不思彼猶稚草 不思彼年猶弱冠其三:「大和飛鳥川 飛鳥川急流滿溢 逝水如斯夫 不捨晝夜不曾絕 思憶慟情莫有息


渟足柵
越後北部渟垂郡。孝德大化三年造柵。紀溫湯,同牟婁溫湯。玄奘法師,法相宗開祖,或云三藏法師。

天皇憶建王哀歌:「雖越千仞山 縱渡汪洋大海原 愉悅欣樂兮 今城谷內出來事 一一銘心無以忘其二:「川口水門湊 乘潮渡兮隨潮下 渡循海路下 然念其後心沉黯 只得置之行而去其三:「親親吾所愛 我若子兮建王矣 今置汝兮行而去


藤白坂 有間皇子墓


有間皇子墓


牟婁津
五、有間皇子事件

 十一月庚辰朔壬午()留守官(とどまりまもるつかさ)蘇我赤兄臣(そがのあかえのおみ),語有間皇子曰:「天皇所治政事(まつりごと)有三(あやまち)矣。大起倉庫(くら),積聚民財(たみのたから),一也。長穿渠水(みぞ),損費公糧(おほやけのくらひもの),二也。於舟載石,運積(はこびつみ)為丘,三也。」有間皇子乃知赤兄之(うるはしき)己,而欣然報答(よろこびてこたへ)之曰:「吾,年始(としはじめ)可用(いくさ)時矣。」
 甲申(),有間皇子向赤兄家,登(たかどの)而謀。夾膝(おしまづき)自斷。於是知(しるまし)不祥(さがなきこと),俱(ちかひ)而止。皇子歸而宿之。是夜半,赤兄遣物部朴井連鮪(もののべのえのゐのむらじしび),率造宮丁(みやつくるよほろ)(かくましめ)有間皇子於市經家(いちふのいへ)。便遣驛使(はゆま),奏天皇(みもと)
 戊子(),捉有間皇子與守君大石(もりのきみおほいは)坂合部連藥(さかひべのむらじくすり)鹽屋連鯯魚(しほやのむらじこのしろ),送紀溫湯。舍人新田部米麻呂(とねりにひたべのこめまろ)從焉。於是,皇太子(中大兄)親問有間皇子曰:「何故謀反(みかどかたぶけむ)?」答曰:「(あめ)與赤兄知,吾全不解(あれもはらしらず)。」
 庚寅(十一),遣丹比小澤連國襲(たぢひのをざはのむらじくにそ)(くびらしむ)有間皇子於藤白坂(ふぢしろのさか)
 是日(きる)鹽屋連鯯魚、舍人新田部連米麻呂於藤白坂。鹽屋連鯯魚臨誅(ころされむ),言:「(ながはく)右手(みぎのて)(くに)寶器(たからもの)。」(ながす)守君大石於上毛野國(かみつけのくに),坂合部藥於尾張國(をはりのくに)

六、比羅夫,討肅慎、蝦夷

 是歲越國守(こしのくにのかみ)阿倍引田臣比羅夫(あへのひけたのおみひらふ)肅慎(みしはせ),獻生羆(しくま)二、羆皮(しくまのかは)七十枚。
 沙門智踰(ちゆ)指南車(しなんのくるま)
 出雲國(いづものくに)言:「於北海濱(きたのうみのはま)魚死而積。厚三尺許,其大如(ふく)雀啄(すずめのくち)針鱗(はりのいろこ)。鱗長數寸(あまたき)(くにひと)曰:『雀入於海,化而為魚。名曰雀魚(すずめうを)。』」

 又西海使小花下阿曇連頰垂自百濟還言:「百濟伐新羅還時,馬自行道(めぐり)於寺金堂(こむだう),晝夜勿(やむ)。唯食草時(やむ)。」

 五年,春正月己卯朔辛巳(),天皇(かへりいたり)自紀溫湯。
 三月戊寅朔(),天皇幸吉野(よしの)肆宴焉(とよのあかりきこしめす)
 庚辰(),天皇幸近江(あふみ)平浦(ひらのうら) 【平,此云ひら(毘羅)。】
 丁亥()吐火羅(とくわら)人共妻舍衛婦人(しやゑのめひと)來。
 甲午(十七)甘檮丘(あまかしのをか)東之川上,造須彌山,而(あへ)陸奧與越蝦夷。【檮,此云かし(柯之)。川上,此云かはら(箇播羅)。】
 是月,遣阿倍臣,【闕名。】(ひきゐて)船師一百八十艘,討蝦夷國。阿倍臣,簡集(えらひあつめ)飽田(あぎた)、渟代二郡蝦夷二百四十一人,其虜三十一人,津輕郡蝦夷一百二十人,其虜四人,膽振鉏(いふりさへ)蝦夷二十人於一所,而大饗賜祿(ものたまふ)【膽振鉏,此云いふりさへ(伊浮梨娑陛)。】即以船一隻與五色綵帛(いついろのしみのきぬ),祭彼地神(そのところのかみ)
 至肉入籠(ししりこ)時,問菟(とひう)蝦夷膽鹿嶋(いかしま)菟穗名(うほな),二人(すすみ)曰:「可以後方羊蹄(しりへし)政所(まつりごとどころ)焉。」【肉入籠,此云ししりこ(之之梨姑)。問菟,此云とひう(塗毘宇)。菟穗名,此云うほな(宇保那)。後方羊蹄,此云しりへし(斯梨蔽之)。政所,蓋蝦夷(こほり)乎。】隨膽鹿嶋等(こと),遂置郡領而歸。授道奧(みちのく)與越國司(くにのみこともち)位各二階,郡領與主政(まつりごとひと)各一階。


指南車
傳黃帝所作,用磁石而恒指南方。或云為周公作之。


雀魚
石河豚、二齒魨之儔。『昭明文選』吾都賦云:「王鮪,鯸鮐。」劉淵林注:「鯸鮐魚,狀如科斗,大者尺余,腹下白,背上青魚,有黃文,性有毒,雖小獺及大魚,不敢餤之。蒸煮啖之甘美。」


近江平浦
比良湊。『萬葉集高市連黑人羇旅歌云:「枚乃湖。」『家傳』上:「我先帝陛下平生之日,遊覽淡海及平浦宮處,猶如昔日焉。」


甘檮丘
或云甘檮岡、甘樫丘、味檮丘。古代被敬為飛鳥地方之神奈備山。


前賢故實 津守吉祥
遣唐副使。對唐天子所問,吉祥敷陳詳悉,高宗善之。


遣唐使船
此行吳唐海路,以北路途上三韓交戰,故採南路,直行江南。


唐高宗李治
齊明朝時,唐天子者高宗李治。太宗李世民第九子也。


出雲大社
出雲國造修繕神宮云云,神之宮者,杵築大社,即出雲大社也。


揖夜神社
言屋社,揖夜神社也。或云揖屋神社、伊布夜社。近有伊賦夜坂,即黃泉津比良坂、泉津平坂是矣。
七、遣唐使渡海,謁見唐高宗

 秋七月丙子朔戊寅(),遣小錦下坂合部連石布(さかひべのむらじいはしき)大仙下(だいせんげ)津守連吉祥(つもりのむらじきさ),使於唐國。仍以道奧蝦夷男女二人示唐天子(もろこしのみかど)

 庚寅(十五),詔群臣:「於京內(みやこのうち)諸寺,勸講盂蘭盆經(うらぼんきやう),使報七世父母(ななつぎのかぞいろはのめぐみ)。」
 是歲,命出雲國造(いづものくにのみやつこ)【闕名。】修嚴(つくりよそふ)神之宮(かみのみや)(きつね)嚙斷於友郡(おうのこほり)役丁(えのよほろ)所執葛末(かづらのすゑ)而去。又(いぬ)嚙置死人手臂(しにひとのただむき)言屋社(いふやのやしろ)【言屋,此云いふや(伊浮瑘)。天子崩兆。】又高麗使人持羆皮一枚,稱其(あたひ)曰:「綿(わた)六十斤。」市司(いちのつかさ)咲而避去(さりぬ)。高麗畫師子麻呂(ゑかきこまろ),設同姓賓(うがらのまらひと)於私家日,借官羆皮七十枚,而為賓(しきゐ)。客等羞怪(はぢあやしび)而退。
 六年,春正月壬寅朔(),高麗使人乙相賀取文(がすもん)等一百餘,泊于筑紫。
 三月,遣阿倍臣,【闕名。】率船二百(ふな),伐肅慎國。
 阿倍臣以陸奧蝦夷,令乘己船,到大河(おほかは)側。於是渡嶋蝦夷一千餘,屯聚(いはみ)海畔,向河而(いほりす)。營中二人進而急叫(にはかにさけび)曰:「肅慎船師多來將殺我等之故,願欲(わたり)河而仕官(つかへまつらむ)矣。」阿倍臣遣船喚至兩箇(ふたり)蝦夷,問賊隱所(かくれどころ)與其船數(ふなかず)。兩箇蝦夷便指隱所曰:「船二十餘艘。」即遣使喚。而不肯來(まゐきかへず)
 阿倍臣乃積綵帛、兵、(ねりかね)等於海畔(うみのほとり),而令貪嗜(むさぼらしむ)。肅慎乃陳船師,繫(はね)於木,舉而為(はた)。齊(さを)近來,停於淺處(あさきところ)。從一船裏,出二老翁(おきな)迴行(めぐりありかしめ)(つらつら)視所積綵帛等物。便換著單衫(ひとへきぬ),各提(ぬの)(むら),乘船還去。俄而(しばらくありて)老翁更來,脫置換衫,并置提布(ひきさげたるぬの),乘船而退。
 阿倍臣遣數船使喚,不肯來,復於弊賂辨嶋(へろべのしま)【弊賂辨,渡嶋之(わかれ)也。】食頃(しばらくありて)(あまなはむ)。遂不肯聽。據己柵戰。于時,能登臣馬身龍(のとのおみまむたつ)為敵被殺。猶戰未倦之間(うまざるあひだ),賊(やぶれ)殺己妻子(めこ)
 夏五月辛丑朔戊申(),高麗使人乙相(いつさう)賀取文等,到難波館(なにはのむろつみ)
 是月有司(つかさ)奉敕,造一百高座(かうざ)、一百納袈裟(なふのけさ),設仁王般若之會(にんわうはんにやのをがみ)。又皇太子(中大兄)初造漏剋(ろこく),使民知時。又阿倍引田臣,【闕名。】(えみし)五十餘。又於石上池邊(いそのかみのいけのほとり)作須彌山。高如廟塔(べうたふ),以饗肅慎四十七人。又舉國百姓(くにこぞるおほみたから)無故持(つはもの),往還於道。國老(くにのおきな)言:「百濟國失所之(しるし)乎。」】

八、百濟滅亡與遺臣奮鬥

 秋七月庚子朔乙卯(十六),高麗使人乙相賀取文等罷歸(まかりかへりぬ)
 又覩貨羅(とくわら)乾豆波斯達阿(けんづはしだちあ)欲歸本土(もとつくに)求請(こひまをし)送使曰:「願後(つかへまつらむ)大國(やまと)。所以留妻為(しるし)。」乃與數十人入于西海之路(にしのうみつぢ)

 九月己亥朔癸卯(),百濟遣達率【闕名。】沙彌覺從(さみかくじゆ)等來奏曰:【或本云,逃來(にげまゐきて)(わざはひ)。】「今年七月,新羅(たのみ)力作(いきほひ)不親(むつびず)於鄰。引構(ゐあはす)唐人,傾覆(かたぶけくつがへす)百濟!君臣總俘(みなとりこにす)略無噍類(ほぼのこるものなし)【或本云,今年七月十日,大唐蘇定方,率船師軍尾資之津(びしのつ),新羅王春秋智率兵馬(いくさだちす)怒受利之山(ぬずりのむれ)夾擊(はさみうつ)百濟,相戰三日,陷我王城(こにさし)。同月十三日,始破王城。怒受利山,百濟之東堺(ひむがしのさかひ)也。】 於是,西部(せいほう)恩率鬼室福信(くゐしつふくいん)赫然發憤(いかりむつかり),據任射岐山(にざぎのむれ)【或本云,北任敘利山(きたのにじょりのむれ)。】達率餘自進(よじしん)中部久麻怒利城(ちうほうくまぬりのさし)【或本云,都都岐留山(つつきるのむれ)。】各營一所,誘聚(をこつりあつむ)散卒。(つはもの)前役(さきのえだち),故以(つかなぎ)戰。新羅軍破,百濟奪其兵。繼而百濟兵翻(とし),唐不敢入。福信等遂鳩集(あつめ)同國,共保王城。國人(たふとび)曰:『佐平(さへい)福信!佐平自進!』唯福信起神武之權(あやしくたけきはかりこと),興既亡之國(すでにほろびしくに)。」


北濟滅亡略圖 【依三國史記推之】
『舊唐書』高宗本紀:「十一月戊戌朔,邢國公蘇定方獻百濟王扶余義慈,太子隆等五十八人俘於則天門,責而宥之。」嚼類,活口也。


尾資津


怒受利山


任射岐山


鬼室神社
嗣福信。百濟最高官階云佐平。以佐平呼福信、自進,非為官位,實乃敬稱。日本亦敬彼復國遺臣,沿稱佐平。佐平貴智為遣日交涉官,蓋實官乎。


祓川
續麻郊,『和名抄』云:「伊勢國多氣郡麻續鄉。」蓋祓川下游,近有麻續神社。


巨坂 神坂峠
景行、推古紀稱信濃坂。

將伐新羅時童謠:此謠除「甲子」外,皆唯假名傳世。實意不詳,甚難解矣。時至今日,解法都合二十餘種,仍無定說。然大致指出,該謠敘述百濟覆亡及預言日本援軍敗戰之兆。細部解說、翻譯
九、百濟,對日求援

 冬十月,百濟佐平鬼室福信,遣佐平貴智(くゐち)等,【或本云,佐平貴智、達率正珍(しやうちん)也。】來獻唐(とりこ)一百餘人。今美濃國(みののくに)不破(ふは)片縣(かたあがた)二郡唐人(もろこしひと)等也。又乞師請救。并乞王子餘豐璋(よほうしやう)曰:「唐人率我蝥賊(あしきあた),來蕩搖(ただよふ)疆場(さかひ),覆我社稷(くに),俘我君臣(きみやつこ)【百濟王義慈,其妻恩古(おんこ),其子隆等,其臣佐平千福、國辨成、孫登(そんとう)等凡五十餘。秋七月十三日,為蘇將軍所捉,而送去於唐國。蓋是無故(ゆゑなく)持兵之(しるし)乎。】而百濟國遙(かがふり)天皇護念(みめぐみ),更鳩集以成(くに)。方今謹願,迎百濟國遣侍天朝(みかど)王子豐璋,將為國主(にりむ)。」云云。
 詔曰:「乞(いくさ)(すくひ),聞之古昔(いにしへ)(たすけ)(つぐ)絕,(あらはれたり)恒典(つねののり)。百濟國(せまり)(より)我。『以本邦喪亂(ほろびみだれる),靡依靡告,枕(ほこ)()。必存拯救(すくひ)。』遠來表啟(まをす)(こころざし)有難奪。可分命(わかちおほせ)將軍,百道(もものみち)(すすむ)。雲會(いかづち)動,聚集沙㖨(さたく)(きり)鯨鯢(あた)(のべて)倒懸(せまれる)。宜有司具為與之(つぶさにそなへあたへ),以(ゐや)發遣。」云云。【送王子豐璋及妻子與其叔父忠勝(ちうしよう)等。其(まさしく)發遣之時,見于七年。或本云:「天皇(たて)豐璋為(こきし),立塞上(さいじやう)(たすけ),而以禮發遣(たてつかはす)焉。」】
 十二月丁卯朔庚寅(廿四),天皇(いでます)難波宮(なにはのみや)。天皇方隨福信所乞之意,思幸筑紫,將遣救軍(すくひのいくさ),而初幸斯,備諸軍器(つはもの)
 是歲,欲為百濟,將伐新羅。乃敕駿河國(するがのくに)造船。已訖,(ひき)續麻郊(をみの)之時,其船夜中無故艫舳相反(へともあひかへれり)。眾知(つひに)敗。
 科野國(しなののくに)言:「蠅群(はへむらがれ)向西,飛踰(とびこゆ)巨坂(おほさか)。大十圍許(といだきばかり),高至蒼天(あめ)。」或(さとる)救軍敗績之怪(やぶれむしるまし)。有童謠(わざうた)曰:

十、天皇海路西征

 七年,春正月丁酉朔壬寅()御船(みふね)西征,始就于海路(うみつち)
 甲辰(),御船到于大伯海(おほくのうみ)。時大田姬皇女(おほたのひめみこ)產女焉。仍(なづけ)是女曰大伯皇女(おほくのひめみこ)
 庚戌(十四),御船泊于伊豫(いよ)熟田津(にきたつ)石湯行宮(いはゆのかりみや)【熟田津,此云にきたつ(儞枳柁豆)。】
 三月丙申朔庚申(廿五),御船還至于娜大津(なのおほつ)。居于磐瀨行宮(いはせのかりみや)。天皇改此,名曰長津(ながつ)
 夏四月,百濟福信遣使上表,乞迎其王子糺解(くげ)

 五月乙未朔癸卯(),天皇遷居于朝倉橘廣庭宮(あさくらのたちばなのひろにはのみや)。是時,斮除(きりはらひ)朝倉社(あさくらのやしろ)木,而作此宮之故,神忿(かみいかり)殿(おほとの)。亦見宮中鬼火(おにび)。由是大舍人(おほとねり)及諸近侍(ちかくはべるひと)病死者眾。
 丁巳(廿三)耽羅(たむら)始遣王子阿波伎(あはぎ)貢獻(みつきたてまつる)


萬葉熟田津歌碑
熟田津承傳地有多說,蓋護國神社近郊額田王歌碑最負盛名。傳齊明帝征途間,暫泊熟田津時額田王詠之。石湯者,道後溫泉。娜大津,宣化紀稱那津。磐瀨行宮,『延喜式』:「筑前國石瀨驛。」


朝倉社 麻氐良布神社


朝倉橘廣庭宮跡

太子哀慕獻歌:「欲會與君晤 吾戀汝目欲相見 雖泊雖共居 思慕之情仍難耐 欲會君面晤君顏


飛鳥川原宮 川原寺中門跡
飛鳥川原蓋指川原宮。孝德帝亦殯於其故皇居難波宮南庭。
十一、天皇崩御與皇太子輓歌

 六月伊勢王(いせのおほきみ)薨。
 秋七月甲午朔丁巳(廿四),天皇崩于朝倉宮。
 八月甲子朔(),皇太子奉徙(うつしまつり)天皇(みも),還至磐瀨宮(いはせのみや)
 是夕,於朝倉山(あさくらのやま)上有(おに),著大笠(おほかさ),臨視喪儀(みものよそほひ)。眾皆嗟怪(あやしぶ)
 冬十月癸亥朔己巳(),天皇之喪歸就于海。於是皇太子泊於一所(あるところ)哀慕(しのひ)天皇,乃口號曰:

 乙酉(廿三),天皇之喪,還(はつ)于難波。
 十一月壬辰朔戊戌(),以天皇喪殯于飛鳥川原(あすかのかはら)。自此發哀(みねたてまつる)(いたる)于九日。

日本書紀卷廿六 終

【久遠の絆】【卷廿五】【卷廿七】【再臨詔】