日本書紀 卷廿五 孝德紀

天萬豐日天皇(あめよろづとよひのすめらみこと) 孝德天皇(かうとくてんわう)

一、王位禪讓

 天萬豐日天皇(あめよろづとよひのすめらみこと)天豐財重日足姬(あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと)天皇同母弟(いろど)也。
 尊佛法(ほとけのみのり),輕神道(かみのみち)【斮生國魂社(いくくにたまのやしろ)樹之類,是也。】為人(ひととなり)柔仁(めぐみまします)(はかせ),不擇貴賤,(しきり)恩敕(めぐみのみことのり)
 天豐財重日足姬(皇極)天皇四年,六月庚戌(十四)天豐財重日足姬(皇極)天皇思欲傳位於中大兄(なかのおほえ),而詔曰:「云云(しかしか)。」中大兄退語於中臣鎌子連(なかとみのかまこのむらじ)。中臣鎌子連(はかり)曰:「古人大兄(ふるひとのおほえ)殿下(きみ)()也。輕皇子(かるのみこ),殿下之(をぢ)也。方今,古人大兄在,而殿下陟天皇位(あまつひつぎしらしめさば),便違人弟恭遜之心(つつしみしたがふこころ)。且立舅以答民望(おほみたからのねがひ),不亦可乎?」於是,中大兄深(よみし)厥議,密以奏聞(まをしたまふ)天豐財重日足姬(皇極)天皇,授璽綬(みしるし)禪位。(おほみこと)曰:「()(なむぢ)輕皇子。」云云。
 輕皇子再三固辭(ふたたびみたびいなび)(うたた)讓於古人大兄,【更名,古人大市皇子(ふるひとのおほいちのみこ)。】曰:「大兄命(おほえのみこと)(さき)天皇所生,而又年長(としおい)。以斯二理(ふたつのことわり),可居天位(たかみくら)。」於是古人大兄避座逡巡(しりぞき),拱手辭曰:「奉順(うけたまはりしたがふ)天皇聖旨(おほみこと),何勞推讓(ゆづらむ)(やつこ)?臣願出家(いへです)入于吉野(よしの),勤修佛道(ほとけのみち),奉(たすけ)天皇。」辭訖,解所佩刀,投擲(なげうち)於地,亦命帳內(とねり)皆令解刀。即自詣於法興寺佛殿(ほふこうじのほとけのおほとの)(たふ)間,剔除髯髮(ひげ),披著袈裟(けさ)。由是輕皇子不得固辭,升壇即祚(あまつひつぎしろしめす)
 于時,大伴長德連(おほとものながとこのむらじ)(あざな)馬飼(うまかひ)。】金靫(くがねのゆき),立於(たかみくら)右。犬上健部君(いぬかみのたけるべのきみ)帶金靫,立於壇左。百官(ももつかさ)(おみ)、連、國造(くにのみやつこ)伴造(とものみやつこ)百八十部(ももあまりやそとものを)羅列匝拜(つらなりてめぐりをろがみ)


萬物雛形畫譜 孝德天皇
輕皇子繼天皇位,是謂孝德帝。


京都御所 紫宸殿 高御座
文言天位、壇者,高御座之謂也。


日本歷代天皇大鑑 皇極、齊明像
大化元年,尊皇極帝為皇祖母尊。


多武峯緣起 中臣鎌足捧靴圖
鎌足偶遇中大兄於法興寺槻樹之下打毱,取落靴恭奉。大槻樹者,即法興寺槻樹之謂也。


孝德紀 皇室系譜


神幣
供神之幣,有二說。或云大嘗祭神幣。或云發遣東國國司之道饗。
二、新政權揭幕

 是日,奉號於豐財(とよたから)天皇,曰皇祖母尊(すめみおやのみこと)。以中大兄為皇太子(ひつぎのみこ)。以阿倍內麻呂臣(あへのうちまろのおみ)左大臣(ひだりのおほおみ)蘇我(そがの)倉山田石川麻呂臣(くらのやまだのいしかはまろのおみ)右大臣(みぎのおほおみ)。以大錦冠(だいきむのかがふり)授中臣鎌子連,為內臣(うちのおみ),增(へひと)若干(),云云。中臣鎌子連懷至忠之誠(いさをしきまこと),據宰臣之勢(まつりごとまへつきみのいきほひ),處官司之上(つかさつかさのうへ)。故進退廢置(すすめしりぞけやめおくこと)計從(はかりごとしたがふ)事立,云云。以沙門旻法師(のりのしみんほふし)高向史玄理(たかむくのふびとげんり)國博士(くにのはかせ)
 辛亥(十五),以金策(こがねのふみた)阿倍倉梯麻呂(あへのくらはしまろ)大臣與蘇我山田石川麻呂(そがのやまだのいしかわまろ)大臣。【或本云,賜練金(こなかね)。】
 乙卯(十九),天皇、皇祖母(皇極)尊、皇太子於大槻樹(おほつきのき)之下召集群臣(まへつきみたち)盟曰(ちかはしめ)

 改天豐財重日足姬(皇極)天皇四年,為大化(たいくわ)元年。
 大化元年(乙巳),秋七月丁卯朔戊辰(),立息長足日廣額(おきながたらしひひろぬか)天皇女間人皇女(はしひとのひめみこ)皇后(きさき)。立二妃。
 元妃(はじめのみめ),阿倍倉梯麻呂大臣女,曰小足媛(をたらしひめ)
  生,有間皇子(ありまのみこ)
 次妃,蘇我山田石川麻呂大臣女,曰乳娘(ちのいらつめ)
 丙子()高麗(こま)百濟(くだら)新羅(しらき),並遣使進調(みつき)。百濟調使兼領(かねあづかり)任那使,進任那(みまな)調。唯百濟大使佐平(おほつかひさへい)緣福(えんふく)遇病(やまひ)津館(つのむろつみ)而不入於(みやこ)
 巨勢德太臣(こせのとこだのおみ)詔於高麗使曰:「明神御宇(あきつみかみとあめのしたしらす)日本天皇(やまとのすめらみこと)詔旨:『天皇所遣之使與高麗神子(かみのこ)奉遣之使,既往(いにしかた)短而將來(ゆくさき)長。是故,可以溫和之心(やはらけきこころ),相繼往來(かよふ)而已。』」又詔於百濟使曰:「明神御宇日本天皇詔旨(おほみことらま):『始我遠皇祖之世(とほつみおやのみよ),以百濟國為內官家(うちつみやけ),譬如三絞之綱(みつよりのつな)中間(なかごろ)以任那國屬賜(つけたまふ)百濟。後遣三輪栗隈君東人(みわのくるくまのきみあづまひと),觀察任那國(さかひ)。是故百濟王隨敕悉示其堺。而調有(もらせる)。由是卻還(かへし)其調。任那所出物(たてまつるもの)者,天皇之所明覽(あきらかにみそこなはす)。夫自今以後,可(つぶさ)題國與所出調。汝佐平等不易面(おもかはりせず)來,早須明(かへりことまをす)。今(かさねて)三輪君東人(みわのきみあづまひと)馬飼造(うまかひのみやつこ)【闕名。】』」又敕:「可送遣鬼部達率(くゐほうだちそち)意斯(おし)妻子等。」
 戊寅(十二),天皇詔阿倍倉梯萬侶(あへのくらはしまろ)大臣、蘇我石川萬侶(そがのいしかはのまろ)大臣曰:「當遵上古聖王(いにしへのひじりのきみ)之跡,而治天下(あめのした)。復當有(まこと),可治天下。」
 己卯(十三),天皇詔阿倍倉梯麻呂大臣、蘇我石川萬侶大臣曰:「可(あまねく)大夫(まへつきみ)百伴造(もものとものみやつこ)等,以(よろこぶるこころ)使(おほみたから)之路。」
 庚辰(十四),蘇我石川麻呂大臣奏曰:「先以祭鎮(いはひしづめ)神祇,然後應議政事(まつりごと)。」
 是日,遣倭漢直比羅夫(やまとのあやのあたひひらぶ)尾張國(をはりのくに)忌部首子麻呂(いみべのおびとこまろ)美濃國(みののくに)(おほす)供神之(みてぐら)

三、發遣東國國司

 八月丙申朔庚子(),拜東國等(あづまのくにぐに)國司。仍詔國司(くにのみこともち)等曰:「隨天神之所奉寄(うけよせたまひ),方今始將修萬國(くにぐに)。凡國家(あめのした)所有公民(おほみたから),大小所領人眾(あづかれるひとども),汝等之任,皆作戶籍(へのふみた),及校田畝(たはたけ)。其薗池水陸(そのいけみづくぬが)(くほさ)與百姓俱。又國司等在國不得(ことわる)罪。不得取他貨賂(まひなひ),令致民於貧苦(まづしき)(まゐのぼらむ)京之時,不得多從百姓(おほみたから)於己。唯得使從國造、郡領(こほりのみやつこ)。但以公事(おほやけ)往來之時,得騎部內(くぬち)之馬,得(くらふ)部內之飯。(すけ)以上,奉法,必須(すべからく)褒賞。違法,當降爵位(かがふりくらゐ)判官(まつりごとひと)以下,取(ひと)貨賂,二倍徵之(はたり),遂以輕重(おほせむ)罪。其長官(かみ)從者九人,次官(すけ)從者七人,主典(ふびと)從者五人。若(すぎ)限外將者,(かみ)所從之人(ともならむひと),並當科罪。若有求名之人,元非國造、伴造、縣稻置(あがたのいなき),而輙詐訴(いつはりうたへ),言:『自我祖時,領此官家,治是郡縣(こほり)。』汝等國司不得隨詐便(たやすく)牒於(みかど)(つばひらかに)實狀(まことのかたち),而後可申。又於閑曠之所(いたづらなるところ)起造兵庫(つはものぐら)收聚(をさめあつめ)國郡(たち)(よろひ)(ゆみ)()邊國(ほとりのくに)近與蝦夷(えみし)(さかひ)處者,可盡數集(かぞへあつめ)其兵,而猶假授(あづけたまふ)本主。其於(やまと)國六縣被遣使者,宜造戶籍,并(かむがふ)田畝。【謂檢覈(あなぐる)墾田頃畝(ひろさ)及民戶口年紀(へひとのとし)。】汝等國司,可明(うけたまはり)退。」即賜帛布(きぬ)各有差(おのもおのもしなあり)


長門國衙跡比定地
受領東國國司等,前往各國國府治理東國八道。國司治國政廳者,謂之國衙。倭國六縣,此云高市、葛木、十市、志貴、山邊、曾布。又,大正元年八月,廢國造職,確立中央集權組織。


宇治橋斷碑銘既復原模型
銘有「名曰道登」云云。道登生山尻惠滿家,大化二年造宇治橋,濟渡人畜。按『日本靈異記』,道登留學高麗,住元興寺。
按宇治橋者,『續日本紀』云道昭所架與碑銘矛盾。而『靈異記』、『扶桑略記』、『今昔物語集』等書云道登所架,『帝王編年記』曰道登、道昭所共造。


安倍文殊院
大化元年阿倍倉梯麻呂奉敕建立。乃安倍氏寺,或稱安倍寺。
四、鍾匱之制,男女之法,僧尼統制

 是日,設(かね)(ひつ)於朝 ,而詔曰:「若憂訴之人(うれへうたふるひと),有伴造者,其伴造先勘當(かむがへ)而奏。有尊長(ひとごのかみ)者,其尊長先勘當而(まをせ)。若其伴造、尊長,不審(あきらかにせず)所訴,收(ふみ)納匱,以其罪罪之。其收牒者,昧旦(あけぼの)執牒,奏於內裏(おほうち)。朕(しるし)年月,便示群卿(まへつきみたち)。或懈怠(おこたり)不理,或阿黨(おもねり)(まぐること),訴者可以撞鍾。由是懸鍾置匱於朝,天下之民(ことごとく)朕意(わがこころ)。又男女(をのこめのこ)之法者,良男(おほみたからをのこ)良女(おほみたからめのこ)共所生子配其父。若良男(まき)婢所生子配其母,若良女(とつぎ)奴所生子配其父,若兩家奴婢(やつこめやつこ)所生子配其母。若寺家仕丁(てらのつかへのよほろ)之子者,如良人(おほみたから)法。若(ことに)入奴婢者,如奴婢法。今克見(よくしめさむ)人為(のり)之始。」
 癸卯(),遣使於大寺(おほてら),喚聚僧尼(ほふしあま)而詔曰:「於磯城嶋宮(しきしまのみや)御宇(あめのしたしらしめしし)天皇(欽明)十三年中,百濟明王(めいわう)奉傳佛法於我大倭(やまと)。是時群臣俱不欲傳,而蘇我稻目宿禰(そがのいなめのすくね)獨信其法。天皇乃詔稻目宿禰,使奉其法。於譯語田宮(をさたのみや)御宇天皇(敏達)之世,蘇我馬子宿禰(そがのうまこのすくね)追遵考父之風(ちちののり),猶重能仁之教(ほとけのをしへ)。而餘臣(あたしまへつきみ)不信,此典幾亡(ほとほとにほろびなむ)。天皇詔馬子宿禰,而使奉其法。於小墾田宮(をはりだのみや)御宇天皇(推古)之世,馬子宿禰奉為天皇,造丈六繡像(ぢやうろくのぬひもののみかた)、丈六銅像(あかがねのみかた),顯揚佛教(ほとけのみのり),恭敬僧尼。朕更復思崇正教(おほきのり),光啟大猷(みのり)。故以沙門狛大法師(こまのだいほふし)福亮(ふくりやう)惠雲(ゑうん)常安(じやうあん)靈雲(りやううん)惠至(ゑし)【寺主 。】僧旻(そうみん)道登(だうとう)惠鄰(ゑりん)惠妙(ゑめう),而為十師(とたりののりのし)(ことに)以惠妙法師,為百濟寺(くだらのてら)寺主。此十師等,宜能教導(をしへみちびき)眾僧,修行釋教(ほとけののり)(かならず)使如法。凡自天皇至于伴造所造之寺,不能營者,朕皆助作。今拜寺司(てらのつかさ)等與寺主(てらしゆ)巡行(めぐりゆき)諸寺,(かむがへ)僧尼、奴婢、田畝之(むざね),而盡顯奏。」即以來目臣(くめのおみ)【闕名。】三輪色夫君(みわのしこぶのきみ)額田部連甥(ぬかたべのむらじをひ)法頭(ほふづ)

五、古人皇子謀反,遷都難波

 九月丙寅朔(),遣使者於諸國(くにぐに)(をさむ)兵。

 戊辰()古人皇子(ふるひとのみこ)【或本云,古人太子(ひつぎのみこ)。或本云,古人大兄。此皇子入吉野山(よしののやま),故或云吉野太子(よしののひつぎのみこ)。】蘇我田口臣川堀(そがのたぐちのおみかはほり)物部朴井連椎子(もののべのえのゐのむらじしひ)吉備笠臣垂(きびのかさのおみしだる)【垂,此云しだる(之娜屢)。】倭漢文直麻呂(やまとのあやのふみのあたひまろ)朴市秦造田來津(えちのはだのみやつこたくつ)謀反(みかどかたぶけむとはかる)
 丁丑(十二),吉備笠臣垂,自首(あらはしまをし)於中大兄曰:「吉野古人皇子與蘇我田口臣川堀等謀反。臣預其(ともがら)。」

 中大兄即使菟田朴室古(うだのえむろのふる)高麗宮知(こまのみやしり)()若干(そこばく),討古人大市皇子等。

 甲申(十九),遣使者於諸國,錄民元數(おほきかず)。仍詔曰:「自古以降(いにしへよりこのかた),每天皇(みよ),置標代(みよをあらはす)民,垂名於後。其臣、連等,伴造、國造,各置己(たみ)(ほしきまま)駈使(つかひ),又割國縣(くにあがた)山海、林野(はやしの)池田(いけた),以為己(たから)爭戰(あらそひたたかふ)不已。或者兼并數萬頃田(あまたよろづしろのた),或者全無容針少地(はりさすばかりのところ)。進調賦(みつき)時,其臣、連、伴造等,先自收斂(をさめとり),然後分進(わかちたてまつる)。修治宮殿(おほみや),築造園陵(みさざき),各率己民,隨事而作。(えき)曰:『損上益下。節以制度(のり),不傷財,不害民。』方今百姓猶乏(なほしともし)。而有(いきほひ)者,分割水陸(たはたけ),以為私地(わたくしのところ),賣與百姓,年(もとむ)(あたひ)。從今以後(のち),不得賣地。勿(みだりに)作主兼并劣弱(つたなくよわき)。」百姓大悅。
 冬十二月乙未朔癸卯(),天皇遷都難波長柄豐碕(なにはのながへらのとよさき)老人(おきな)相謂(あひかたり)之曰:「自春至夏,(ねずみ)向難波。遷都之兆(みやこをうつすきざし)也。」
 戊午(廿四)越國(こしのくに)言:「海畔(うみへた)枯查(うきき)向東移去。沙上有跡,如耕田狀(たつくれるかたち)。」是年也,太歲乙巳


吉野川
方是時,吉野為佛教聖地,往後大海人皇子【天武】亦入吉野出家。


孝德帝 難波長柄豐碕宮跡


鼠徙
按以鼠徙兆遷都者,『北史』魏本紀:「二月, 熒惑入南斗, 眾星北流, 群鼠浮河向鄴。【中略】冬十月,高歡推清河王子善見為主,徙都鄴, 是為東魏。」


枯楂
漂浮枯木。『和名抄』云:「查、楂,うきき。水中浮木也。」


伊賀國 名張川
畿內、外東堺,名墾橫河名張川


紀伊國 兄山
畿內南境,紀國兄山【背山。】


赤石 明石川 奇淵
畿內西境,櫛淵者有二說。或云須磨區一谷町至垂水區鹽屋町海岸線狀如櫛齒。或云明石川奇淵。
北境合坂山者,逢坂是也。


驛鈴
鈴契者,驛鈴、關契是也。


明日香 棚田

大化改新之詔,一云公地公民制、二云國郡里制、三云班田收授法、四云新式調稅制。
六、大化改新宣詔

 二年,春正月甲子朔()賀正禮畢(みかどをがみのことをはり),即宣改新之詔(あらたしきにあらたむるみことのり)曰:

  •  其一曰:「罷昔在(むかし)天皇等所立子代(こしろ)之民、處處屯倉(みやけ),及(ことに)臣、連、伴造、國造、村首(むらのおびと)所有部曲(かきべ)之民、處處田莊(たどころ)。仍賜食封(へひと)大夫以上,各有差。降以布帛(きぬ)官人(つかさ)、百姓有差。」又曰:「大夫所使(をさめ)民也,能盡其(まつりごと)則民賴之(たのむ)。故重其祿(たまもの)所以(ゆゑ)為民也。」
  •  其二曰:「初修京師(みやこ),置畿內國司(うちつくにのみこともち)郡司(こほりのみこともち)關塞(せきそこ)斥候(うかみ)防人(さきもり)驛馬(はゆま)傳馬(つたはりうま),及造鈴契(すずしるし),定山河(やまかは)。凡京,每(まち)(をさ)一人,四坊置(うながし)一人。掌按檢戶口,督察姧非(かだましあしき)。其坊令,取坊內明廉強直(いさぎよくこはくただしくす),堪時務(まつりごと)者宛。里坊(さとまち)長,並取里坊百姓清正(いさぎよくただし)強幹(いさをしき)者宛。若當里坊無人,聽於(ならび)里坊簡用(えらひもちゐる)。凡畿內,東自名墾橫河(なばりのよこかは)以來,南自紀伊()兄山(せのやま)以來,【兄,此云()。】西自赤石櫛淵(あかしのくしふち)以來,北自近江狹狹波合坂山(あふみのささなみのあふさかやま)以來為畿內國。凡郡以四十里為大郡(おほこほり),三十里以下(しも)四里以上(かみ)中郡(なかつこほり),三里為小郡(ちひさきこほり)。其郡司,並取國造性識(ひととなりたましひ)清廉(いさぎよくす)(たふる)時務者,為大領(こほりのみやつこ)少領(すけのみやつこ)強幹聰敏(こはくいさをしさとし)書算(てかきかずとる)者,為主政(まつりごとひと)主帳(ふみひと)。凡給驛馬、傳馬、皆依鈴、傳符(つたへのしるし)(きざみ)數。凡諸國及(せき),給鈴契,並長官執。無,次官(とれ)。」
  •  其三曰:「初造戶籍、計帳(かずのふみ)班田收授之法(あかちだをさめさづくるのり)。凡五十戶為里,每里置長一人。掌按檢戶口,課執農桑(なりはひくは),禁察非違(のりにたがへる)催駈(うながしつかふ)賦役。若山谷阻險(やまはさまさがし),地遠人稀之處,隨便量置(はかりおけ)。凡田長三十(あし),廣十二步為(きだ),十段為(ところ)。段租稻(たちからのいね)二束二(たばり),町租稻二十二(つか)。」
  •  其四曰:「罷舊賦役(えつき),而行田之調(たのみつき)。凡(かとり)(あしきぬ)(いと)綿(わた),並隨鄉土(くに)所出。田一町絹一丈,四町成(ひき)。長四丈,廣二尺半。絁二丈,二町成疋,長、廣同絹。(ぬの)四丈,長、廣同絹、絁。一町成(むら)【絲、綿絇屯(めみせ),諸處不見。】別收戶別(へごと)之調,一戶貲布(さよみのぬの)一丈二(さか)。凡調副物鹽贄(そはりつもののしほとにへ),亦隨鄉土所出。凡官馬(つかさうま)者,中馬(なかのしなのうま)每一百戶(いたせ)一疋,若細馬(よきうま)每兩百戶輸一疋。其買馬(あたひ)者,一戶布一丈二尺。凡兵者人身輸刀、甲、弓、矢、(はた)(つづみ)。凡仕丁者改(もと)每三十戶一人,【以一人宛(くりや)也。】而每五十戶一人,【以一人(あて)廝。】以宛諸司(つかさつかさ)。以五十戶宛仕丁一人之(かて)。一戶(ちからしろ)布一丈二尺,庸米五(はこ)。凡采女(うねめ)者貢郡少領以上姊妹及子女形容端正(かほきらぎらし)者。從丁(ともよほろ)一人,從女(ともめわらは)二人。】以一百戶宛采女一人糧。庸布、庸(こめ),皆(なずらへ)仕丁。」

 是月,天皇御子代離宮(こしろのかりのみや)。遣使者(つかひ),詔郡國修營(つくらしむ)兵庫。蝦夷親附(まゐしたがふ)

七、鍾匱之制與其後發展

 二月甲午朔戊申(十五),天皇幸宮東門(ひむがしのみかど),使蘇我右大臣詔曰:「明神御宇(あきつみかみとあめのしたしらす)日本倭根子天皇(やまとねこのすめらみこと),詔於集侍(うごなはりはべる)卿等、臣、連、國造、伴造及諸百姓:『朕聞:「明哲(さかしひと)(をさめる)民者,懸鍾於(みかど)而觀百姓之憂,作屋於(ちまた)而聽路行之謗(みちゆきひとのそしり)。雖蒭蕘之說(くさかりわらはのこと),親問為(しるべ)。」由是朕前下詔曰:「古之治天下,朝有進(ほまれ)(はた)誹謗之木(そしりのき)。所以通治道(まつりごとのみち),而來諫者也。皆所以廣(とぶらふ)于下也。管子(くわんし)曰:『黃帝(くわうてい)明堂(めいだう)之議者,上觀於賢也。(げう)衢室(くしつ)之問者,下聽於民也。(しゆん)有告善之旌,而(ぬし)不蔽也。()建鼓(けんこ)(てう),而備訊望(とぶらふのぞむ)也。(たう)總街之庭(そうがいのには),以觀民非也。武王(ぶわう)靈台之囿(れいだいのその),而賢者(けんじや)進也。此故聖帝明王(せいていめいわう)所以(たもち)而勿失,得而勿(ぼうする)也。』所以懸鍾設匱,拜收表人(ふみとるひと)。使憂諫人(うれへいさむるひと),納表于匱,詔收表人,每旦奏請。朕得奏請(まをし),仍示群卿,便使勘當。(こひねがはく)留滯(とどこほる)。如群卿等,或懈怠不懃(ねもころならず),或阿黨比周(かたちはひし),朕復不肯聽諫,憂訴之人當可(つく)鍾。」詔已如此。既而有民明直(あかくなほき)心,懷國土(くに)(のり)(たしかに)陳疏(まをしぶみ)納於設匱。故今顯示(みす)集在黎民(おほみたから)。其表稱:「緣奉國政(くにのまつりごと),到於京民,官官留使於雜役(くさぐさのえだち)。」云云。朕猶以之傷惻(いたむ),民(あに)復思至此。然遷都未久,還似于(たびびと)。猶是不得不使,而強役之。每念於斯,未嘗安寢(やすい)。朕觀此表,嘉歎(よしみほむ)難休。故隨所諫之言,(やめむ)處處之雜役。昔詔曰:「諫者(しるせ)名。」而不隨詔命(みことのり)者,自非求利,而將助國。不言(うはぶみする)不,諫朕廢忘(すたれわすれたる)。』」
 又詔:「集在國民(おほみたから),所訴多在。今將解(ことわり)(つばひらかに)聽所宣。其欲決疑,入京朝集(まゐできうごなはる)者,且莫退散(まかりあかつ)聚侍(つどひはべれ)於朝。」高麗、百濟、任那、新羅,並遣使,貢獻(たてまつる)調賦。
 乙卯(廿二),天皇還自子代離宮。

山東武氏祠 齊桓公、管仲拓像

『藝文類聚』惣載帝王 管子
詔中之文,典出『管子』桓公問篇,然詔文實引自『藝文類聚』。

子代離宮者,所在未詳。


近江國廳政廳復元模型


出雲國廳跡地


下野國廳跡 復原前殿跡


出羽國廳跡 復原東門跡


菟礪
菟礪,在駿河國有度郡。駿河國廳迹,未詳。而故以駿府稱靜岡市,國府當在市內。


大嘗宮


國學院大學藏 大嘗祭圖繪
天皇踐祚後首次新嘗者,稱大嘗祭。平安末期一度中止,明智維新後復權。按「將幣諸神」云云,蓋為大嘗祭之準備。
八、東國國司論功行賞

 三月癸亥朔甲子(),詔東國國司等曰:「集侍群卿大夫(まへつきみたち)及臣、連、國造、伴造并諸百姓等,咸可聽之。夫君於天地(あめつち)之間而宰萬民(よろづのたみ)者,不可獨制(ひとりをさむ),要須臣(たすけ)。由是代代之我皇祖(すめみおや)等,共卿祖考(みおや)俱治。朕復思欲蒙神護力(まもりのちから),共卿等治。故前以良家(たかきいへ)大夫使治東方八道(やつのくに)。既而國司之(まけどころ),六人奉法,二人違令,毀譽(そしりほまれ)各聞。朕便(すなはち)美厥奉法,(にくむ)斯違令。凡將治者,若君如臣,先當正己而後正他。如不自正,何能正人?是以不自正者,不擇君臣,乃可受(わざはひ)豈不慎矣(あにつしまざらむや)。汝(ひきゐ)而正,(たれか)敢不正。今隨前敕(さきのみことのり),而處斷之(おこなひさだめよ)。」
 辛巳(十九),詔東國朝集使(まゐでうごなはるつかひ)等曰:「集侍群臣大夫(まへつきみたち)及國造、伴造并諸百姓等,咸可聽之(みなうけたまはるべし)。以去年(こぞ)八月(はつき),朕親(をしへ)曰:『莫因官勢(つかさのいきほひ),取公私(おほやけわたくし)物。可(くらふ)部內之(いひ),可騎部內之馬。若違所誨,次官以上降其爵位,主典以下決其(ふときすはえ)(ほそきすはえ)。入己物者,倍而徵之。』詔既若斯。今問朝集使及諸國造等:『國司至任,奉所誨不?』於是朝集使等具陳其(かたち):『穗積臣咋(ほづみのおみくひ)(をかせる)者,於百姓中每戶求索(もとめこひ),仍悔還物,而不盡與。其介富制臣(ふせのおみ)【闕名。】巨勢臣紫檀(こせのおみしたの)二人之過者,不正(たださず)其上,云云。凡以下官人,咸有(とが)也。其巨勢德禰臣(こせのとこねのおみ)所犯者,於百姓中每戶求索,仍悔還物,而不盡與,復取田部(たべ)之馬。其介朴井連(えのゐのむらじ)押坂連(おしさかのむらじ)【闕名。】二人者,不正其上所(あやまてる),而(かへり)共求己利,復取國造之馬。臺直(うてなのあたひ)須彌(すみ),初雖諫上,而遂俱(けがる)。凡以下(しもつかた)官人,咸有過也。其紀麻利耆拖臣(きのまりきたのおみ)所犯者,使人於朝倉君(あさくらのきみ)井上君(ゐのうへのきみ),二人之所,而為牽來(ひききしめ)其馬視之。復使朝倉君作刀,復得朝倉君之弓、布。復以國造所(たてまつる)兵代之物(つはものしろのもの),不明還主,妄傳國造。復於所任之國被他偷刀,復於倭國(やまとのくに)被他偷刀。是其紀臣(きのおみ)、其介三輪君大口(みわのきみおほくち)河邊臣百依(かはへのおみももより)等過也。其以下官人,河邊臣磯泊(かはへのおみしはつ)丹比深目(たぢひのふかめ)百舌鳥長兄(もずのながえ)葛城(かづらきの)福草(さきくさ)難波癬龜(なにはのくひかめ)癬龜,此云くひかめ(俱毘柯梅)。】犬養五十君(いぬかひのいきみ)伊岐史麻呂(いきのふびとまろ)丹比大眼(たぢひのおほめ),凡是八人等,咸有過也。其阿曇連(あづみのむらじ)【闕名。】所犯者,和德史(わとこのふびと)所患(うれへ)時,言於國造,使送官物(つかさのもの)。復取湯部(ゆべ)之馬。其介膳部臣百依(かしはでのおみももより)所犯者,草代之物(くさしろのもの)收置於家,復取國造之馬,而換他馬(ひとのうま)來。河邊臣磐管(かはへのおみいはつつ)湯麻呂(ゆまろ)兄弟二人亦有過也。大市連(おほいちのむらじ)【闕名。】所犯者,違於前詔。前詔曰:「國司等,莫於任所(まけどころ)自斷民之所訴。」輙違斯詔,自判菟礪人(うとのひと)所訴(うたへ)中臣德(なかとみのとこ)之奴事。中臣德亦是同罪(おなじつみ)涯田臣(きしたのおみ)【闕名。】之過者,在於倭國被偷官刀(つかさのたち),是不謹也。小綠臣(をみどりのおみ)丹波臣(たにはのおみ)【並闕名。】(つたなき)而無犯。忌部木菓(いみべのこのみ)中臣連正月(なかとみのむらじむつき)二人,亦有過也。羽田臣(はたのおみ)田口臣(たぐちのおみ)【並闕名。】二人並無過也。平群臣(へぐりのおみ)【闕名。】所犯者,三國(にくに)人所訴有而未問。』以此觀之,紀麻利耆拖臣、巨勢德彌臣、穗積咋臣,汝等三人所怠拙(おこたりつたなき)也。(おもふに)斯違詔,豈不(いたはし)情。夫為君臣以(やしなふ)民者,自率而正,孰敢不直。若君或臣,不正心者,當受其罪。追悔何及(なにぞしかむ)。是以凡諸國司,隨過輕重(かろさおもさ)考而罰之(かむがへてつみせむ)。又諸國造違詔送財於己國司,遂俱求利,恒懷穢惡(けがらはしきこと)。不可不治。念雖若是,始處新宮(にひしきみや)將幣諸神,屬乎今歲(ことし)。又於農月(なりはひのつき)不合使(つかふべからず)民,(より)造新宮,(まこと)不獲己。深感二途(ふたつのみち)大赦(おほきにつみゆるす)天下。自今以後,國司、郡司勉之勗之(つとめつとめよ),勿為放逸(あだめきわざする)。宜遣使者,諸國流人(ながしびと)獄中囚(ひとやのうちのとらへびと),一皆放捨(ゆるせ)。別鹽屋鯯魚(しほやのこのしろ)【鯯魚,此云このしろ(舉能之慮)。】神社福草(かむこそのさきくさ)、朝倉君、椀子連(まりこのむらじ)三河大伴直(みかはのおほとものあたひ)蘆尾直(すすきをのあたひ)【四人並闕名。】此六人奉(したがひ)天皇。朕深讚美厥心(そのこころ),宜罷官司(つかさ)處處屯田(みた)吉備嶋皇祖母(きびのしますめみおや)處處貸稻(いらしのいね),以其屯田班賜(あかちたまはむ)群臣及伴造等。又於脫籍寺(ふみたにもりたるてら),入田與(やま)。」
 壬午(廿),皇太子使使奏請曰:「昔在天皇等世,混齊(まろかしひとしめ)天下而治。及逮(いたり)于今,分離失業(わかれはなれてわざをうしなふ)【謂國業(くにのわざ)也。】屬天皇我皇(わがきみ)可牧萬民之(みよ),天人合應(こたへ)厥政維新(これあらたなり)。是故慶之尊之(よろこびたふとひ)頂戴(いただきいただき)伏奏(かしこまりまをす)。現為明神御八嶋國(あきつみかみとやしまぐにしらす)天皇,問於臣曰:『其群臣、連及伴造、國造所有昔在天皇日所置子代入部(こしろいりべ),皇子等私有御名入部(みないりべ)皇祖大兄(すめみおやおほえ)御名入部,【謂彥人大兄(ひこひとのおほえ)也。】及其屯倉,猶如古代(むかし)而置以不?』臣即恭承所詔,奉答(こたへ)而曰:『天無雙日(ふたつのひ),國無二王(ふたりのきみ)。是故兼并(かねあはせ)天下可使萬民,唯天皇(のみ)。別以入部及所封民(よさせるおほみたから)簡宛(えらひあてむ)仕丁,從前處分(ことわり)自餘以外(これよりほか),恐私駈役(つかはむ)。故獻入部五百二十四(たり)、屯倉一百八十一(ところ)。』」

九、薄葬令并廢止舊俗

 甲申(廿二),詔曰:「朕聞:『西土之君(もろこしのくにのきみ)戒其民曰:「古之(はぶり)者,因(たかき)為墓。不封不樹(つちつかずきうゑず)棺槨(ひつぎ)足以朽骨,衣衿(きもの)足以(くたす)而已(のみ)。故吾營此丘墟(をか)不食之地(いたづらなるところ)(ほりす)使易代之後,不知其所。無藏金、(しろかね)、銅、(ねりかね)(もはら)瓦器(かはらのうつはもの),合古塗車(くるまかた)蒭靈之義(ひとかたのことわり)。棺漆際會(ひまあひめ)(たび)飯含(ふくむる)無以珠玉(たま)。無施珠襦(たまのこしころも)玉柙(たまのはこ)。諸愚俗(おろかひと)所為也。」又曰:「(それ)葬者(かくす)也,欲人之不得見(みることえざる)也。」』迺者(このごろ)我民貧絕(まづしくともし),專由(つくる)墓。爰(のべ)其制,尊卑(たかきひきさ)使別。夫(みこ)以上之墓者,其內長九尺,濶五尺,其外域(とのめぐり)(たださよこさ)九尋,高五尋,(えよほろ)一千人,七日使訖。其葬時帷帳(かたびらかきしろ)等用白布(しろぬの)。有轜車(きくるま)上臣(たかきまへつきみ)之墓者,其內長、濶及高,皆(なずらへ)於上。其外域方七尋,高三(ひろ),役五百人,五日使訖。其葬時帷帳等用白布,擔而行之。【蓋此以肩擔輿(こし)而送之乎。】下臣(ひくきまへつきみ)之墓者,其內長、(ひろさ)及高,皆准於上。其外域方五尋,高二尋半,役二百五十人,三日使訖。其葬時帷帳等用白布,亦准於上。大仁(だいにん)小仁(せうにん)之墓者,其內長九尺,高、濶各四尺,不封使平(たひらかならしめ),役一百人,一日使訖。大禮(だいらい)以下小智(せうち)以上之墓者,皆准大仁。役五十人,一日使訖。凡王以下小智以上之墓者,宜用小石(ちひさきいし)。其帷帳等宜用白布。庶人(おほみたから)亡時,收埋(をさめうづめよ)於地。其帷帳等可用麤布(あらぬの)。一日莫停。凡王以下及至庶民,不得營(もがりや)。凡自畿內及諸國等,宜定一所而使收埋,不得汙穢(けがらはし)散埋處處。凡人死亡(しぬる)之時,若(わなき)自殉(したがひ),或(くびり)人殉,及強殉亡人(しにたるひと)之馬,或為亡人藏(たからもの)於墓,或為亡人斷髮刺(もも)(しのひことす)。如此舊俗(ふるきしわざ),一皆悉斷。【或本云:「無藏金、銀、(にしき)(あや)五綵(いつくさのしみのきぬ)。」又曰:「凡自諸臣及至于民,不得用金、銀。」】縱有違詔犯所(いさむ)者,必罪其(やから)。復有見言不見,不見言見,聞言不聞,不聞言聞。(かつて)無正語正見,巧詐者(たくみにいつはるもの)多。復有奴婢(あざむき)貧困(まづしくたしなめる),自託勢家(いきほひあるいへ)求活。勢家仍強留買(とどめかひ),不送本主(もとのあるじ)者多。復有妻妾(めをみな)為夫被放之日,經年之後,(とつぐ)恒理(つねのことわり)。而此前夫(さきのをひと)三四年後,貪求後夫(のちのをひと)財物,為己利者甚眾。復有(たのむ)勢之男,(みだりに)要他女而未納際(いまだむかへざるあひだ),女自適人,其浪要者(いかり)求兩家財物(たからもの),為己利者甚眾。復有亡夫之(),若經十年及二十年,適人為婦,并未嫁之女(いまだとつがざるむすめ)始適人時,於是(ねたみ)夫婦(をひとめ),使祓除(はらへ)多。復有為妻被嫌離者,特由慙愧(はぢ)所惱(なやまさるる)(あながち)事瑕(ことさか)之婢。【事瑕,此云ことさか(居騰作柯)。】復有(しばしば)嫌己婦(かだめ)他,好向官司請(ことわり)。假使得明三証(みつのあかし),而俱顯陳,然後可諮(まをすべし)(いかにぞ)生浪訴。復有被役邊畔(ほとりのくに)之民,事了還鄉之日,忽然得疾,臥死路頭(みちのほとり)。於是路頭之家乃謂之曰:『何故使人死於余路(あがあたり)?』因留死者友伴(ともがき),強使祓除。由是兄雖臥死(しぬ)於路,其弟不收者多。復有百姓溺死(おぼほれしぬ)於河逢者,乃謂之曰:『何故於我使遇溺人?』因留溺者友伴,強使祓除。由是兄雖溺死於河,其弟不救者眾。復有被役之民,路頭炊飯(かしきはむ),於是路頭之家乃謂之曰:『何故任情(こころのまにまに)炊飯余路?』強使祓除。復有百姓就他借(こしき)炊飯,其甑觸物而覆,於是甑主乃使祓除。如是等類,愚俗所染(ならへるところ)。今悉除斷(やめ),勿使復為。復有百姓,臨(まゐくる)京日,恐所乘馬疲瘦(つかれやせ)不行,以布二尋、(あさ)二束送參河(みかは)、尾張兩國之人,雇令養飼(やとひてかはしめ),乃入于京。於還(くに)日,送(すき)()。而參河人等不能(あたはず)養飼,翻令瘦死。若是細馬,即生貪愛(をしむ)(たくみ)謾語(いつはりこと),言被偷失(ぬすまれたり)。若是牝馬(めうま)孕於己家,便使祓除,遂奪其馬。飛聞(つてにきく)若是。故今立制,凡養馬於路傍國(みちのほとりのくに)者,將被雇人(やとはるるひと)(つばひらかに)告村首,【首,(をさ)也。】方授詶物(おくりもの),其還鄉日,不須更(つくのふ)。如致疲損,不合得物。縱違斯詔,將科重罪(おもきつみ)。罷市司(いちのつかさ)要路(ぬみのみち)津濟渡子(つわたりのわたりもり)之調賦,給與田地(たどころ)。凡始畿內及四方國,當農作(なりはひ)月,早務營田(たつくる)。不合使喫美物(うましもの)與酒。宜差清廉使者(のたまへ)於畿內。其四方諸國國造等,宜擇善使,依詔催勤(もよほしつとめ)。」


薄葬令


近飛鳥博物館特展 大化薄葬令


塗車,埴泥車形。蒭靈,草束人形。并陪葬品也。『禮記』檀弓下:「塗車、芻靈,自古有之。明器之道也。」帷帳,蔽棺之帳。轜車,葬車矣,車載喪屋之疇也。


土師器 甑
甑者,炊飯具是也。


齋宮寮正月食事
美物或指魚、酒。『日本後紀』:「農人喫魚酒,禁制惟久。」


大阪府高津高校 高津宮跡碑
蝦蟇行宮,所在未詳。蝦蟇音同川津,蓋近難波堀江。故或云蝦蟇行宮在仁德帝難波高津宮故地。


射 宮中射禮也
『雜令』:凡大射者,正月中旬,親王以下初位以上皆之以射。


伊勢神宮 宇治橋
惟神,或稱隨神。不矯偽做作,合神之意,順其清明本質行動。折口信夫『高御座』釋惟神云:「神自身、神其物。」神道本質,在於清明。惟神之道,是即神道。


有馬溫湯 湯泉神社境內圖
大己貴命所拓,日本最古名泉。


公智神社 孝德天皇行在所址
武庫行宮,有諸說。或云在武庫川西岸,今寶塚市高司、小林一帶,有御幸道、御所前之名。或云自難波通有馬溫湯之古道,如公智神社參道東側有孝德天皇行在所址。
十、廢止品部

 秋八月庚申朔癸酉(十四),詔曰:「(たづねみれば)夫天地陰陽(めを),不使四時(よつのとき)相亂。惟此天地,生乎萬物(よろづのもの),萬物之內,人是最(くしひ)。最靈之間,(ひじり)為人主。是以聖主(ひじり)天皇,(のり)御㝢(あめのしたをしらしめ),思人獲所,暫不廢(こころ)。而始王之名名(みなみな),臣、連、伴造、國造,分其品部(しなじなのとものを),別彼名名(なな)。復以其民品部,交雜(まじり)使居國縣。遂使父子易(うぢ)兄弟(はらから)(おや),夫婦更互殊名,一家五分六割。由是爭競之訟(あらそひきほふうたへ)(みち)(みち)朝,終不見治,相亂彌盛(いよいよさかり)(ここに)以,始於今之御㝢天皇及臣、連等,所有品部,宜悉皆罷,為國家(おほやけ)民。其假借(かり)王名為伴造,其襲據(より)祖名為臣、連,斯等深不悟情,忽聞若是(かく)所宣,當思:『祖名所借(きえぬ)。』由是預宣(あらかじめのべ),使聽知朕所懷(おもふところ)王者之兒(きみのみこ)相續(あひつぎ)御㝢,信知時帝(ときのきみ)祖皇(みおや)名,不可見忘於世,而以王名(かろがろ)川野(かはの)呼名。百姓誠可畏焉。凡王者之號將隨日月遠流,祖子(みこ)之名可共天地長往。如是思故宣之。始於祖子奉仕卿大夫、臣、連、伴造、氏氏(うぢうぢ)人等,【或本云,名名王民(ななのおほみたから)。】咸可聽聞。今以汝等使仕狀者,改去舊職(もとのつかさ),新設百官,(また)位階(くらゐのしな),以官位(つかさくらゐ)敘。今發遣(たてつかはす)國司,并彼國造,可以奉聞。去年付於朝集之政者,隨前處分(ことわり),以收數(をさめかぞふる)田,均給於民。勿生彼我(それとわれ)。凡給田者,其百姓家近接於田,必先於近。如此奉宜。凡調賦者,可收男身之調(をのこのみのみつき)。凡仕丁者,每五十戶一人,宜觀國國疆堺(さかひ),或(ふみ)(かた)持來奉示。國縣之名,來時將定。國國可築(つつみ)地,可穿(うなて)所,可(はる)田間,均給使造。當聞解此所宣。」
 九月,遣小德高向博士黑麻呂(せうとくたかむくのはかせくろまろ)於新羅,【黑麻呂,更名玄理(げんり)。】而使貢(むかはり),遂罷任那之調。
 是月,天皇御蝦蟇行宮(かはづのかりみや)【或本云,離宮。】
 是歲,越國之鼠,晝夜相連(ひるよるあひつらなり),向東移去(うつりゆく)
 三年,春正月戊子朔壬寅(十五)(いくひす)朝廷(みかど)
 是日,高麗、新羅,並(まだし)使,貢獻調賦。
 夏四月丁巳朔壬午(廿六),詔曰:「惟神(かむながら)【惟神者,謂隨神道(かみのみち)。亦謂(みづからに)有神道也。】我子應治故寄(ことよさしき)。是以與天地之初,君臨之國(きみとしらすくに)也。自始治國皇祖(はつくにしらししすめみおや)之時,天下大同(おなじ),都無彼此(かれこれ)者也。既而頃者(このころ)始於神名(かみのみな)、天皇名名,或(わかれて)為臣、連之氏,或別為造等(みやつこらのしな)之色。由是率土(くにのうち)民心,(かたく)執彼此,深生我汝(あれいまし),各守名名。又拙弱(つたなき)臣、連、伴造、國造,以(それ)(うぢ),神名、王名(きみのみな)自心(おのがこころ)之所歸,(みだりに)前前處處(ひとびとところどころ)【前前,猶謂人人(ひとびと)也。】爰以神名、王名為人賂物(まひなひ)之故,入他奴婢,穢汙清名(きよきな),遂即民心不整,國政難治。是故今者隨在天神(あまつかみながら)可治平之運(をさめむくべきよ),使悟斯等,而治國治民,是先是後,今日明日(けふあす),次而續詔。然(もとより)賴天皇聖化(みおもぶけ)而習舊俗(もとのしわざ)之民,未詔之間,必當難待。故始於皇子、群臣及(もろもろ)百姓,將賜庸調(ちからつき)。」
 是歲(こほち)小郡而(つくる)宮。天皇處小郡宮(をごほりのみや),而定禮法(ゐやののり)。其(のり)曰:「(おほよそ)有位者,要於寅時(とらのとき)南門(みなみのみかど)之外,左右羅列(つらなり)(うかかひ)日初出,就(おほば)再拜,乃侍于(まつりごとどの)。若晚參者,不得入侍。臨到午時(うまのとき),聽鍾而(まかれ)。其擊鍾(つかさ)者,垂赤巾(あかいろのちきり)於前。其鍾臺(かねのかけもの)者,起於中庭(おほば)。」
 工人大山位倭漢直荒田井比羅夫(たくみだいせんゐやまとのあやのあたひあらたゐのひらふ),誤穿溝瀆(うなて)控引(ひき)難波,而改穿(あらためほり)疲勞百姓。爰有上疏(ふみたてまつり)諫者。天皇詔曰:「妄聽比羅夫所詐,而空穿(うなて)。朕之(あやまり)也。」即日(そのひ)罷役。
 冬十月甲寅朔甲子(十一),天皇幸有馬溫湯(ありまのゆ)左右大臣(ひだりみぎのおほおみ)、群卿大夫從焉(したがへり)
 十二月(つごもり),天皇還自溫湯,而停武庫行宮(むこのかりみや)【武庫,地名也。】
 是日,災皇太子宮(ひつぎのみこのみや)。時人大驚怪(おどろきあやしむ)

十一、施行新冠位制

 是歲,制七色一十三階(ななつのいろのとをあまりみしな)之冠。
  •  一曰,織冠(おりもののかがふり)。有大小二階。以織為之,以(ぬひもの)裁冠之(もとほり)服色(きぬのいろ)並用深紫(ふかむらさき)
  •  二曰,繡冠(ぬひもののかがふり)。有大小二階。以繡為之,其冠之緣、服色,並同織冠。
  •  三曰,紫冠(むらさきのかがふり)。有大小二階。以紫為之(つくり),以織裁冠之緣。服色用淺紫(あさむらさき)
  •  四曰,錦冠(にしきのかがふり)。有大小二階。其大錦(だいきむ)冠,以大伯仙錦(だいはくせんのにしき)為之,以織裁冠之緣。其小錦(せうきむ)冠,以小伯仙(せうはくせん)錦為之,以大伯仙錦裁冠之緣。服色並用真緋(あけ)
  •  五曰,青冠(あをきかがふり)。以青絹(あをきぬ)為之,有大小二階。其大青冠,以大伯仙錦裁冠之緣。其小青冠,以小伯仙錦裁冠之緣。服色並用(ふかきはなだ)
  •  六曰,黑冠(くろきかがふり)。有大小二階。其大黑冠,以車形(くるまかた)錦裁冠之緣。其小黑冠,以菱形(ひしかた)錦裁冠之緣。服色並用(みどり)
  •  七曰,建武(けんむ)初位(はじめのくらゐ),又名立身(りふしむ)。】黑絹(くろきぬ)為之,以紺(たちいれ)冠之緣。(ことに)鐙冠(つぼかがふり),以黑絹為之(つくれり)

     其冠之()漆羅(うるしぬりのうすはた),以緣與(うず)異其高下(たかさみじかさ),形似於(せみ)。小錦冠以上之鈿,(まじへ)金、銀為之。大小青冠之鈿,以銀為之。大小黑冠之鈿,以銅為之。建武之冠無鈿也。此冠者,大會(おほきわざ)、饗客,四月、七月(をがみ)時所著焉。
 新羅遣上臣大阿飡金春秋(だいあさんこむしゆんしう)等,送博士小德高向黑麻呂、小山中中臣連押熊(せうせんちうなかとみのむらじおしくま)來,獻孔雀(くさく)一隻、鸚鵡(あうむ)一隻。仍以春秋為質。春秋美姿顏(かほよく),善談咲(ほたきごと)
 造渟足柵(ぬたりのき),置柵戶(きのへ)。老人等相謂之曰:「數年(あまたとせ)鼠向東行,此造柵之兆乎。」
 四年,春正月壬午朔(),賀正焉。
 是夕,天皇(いでます)難波碕宮(なにはのさきのみや)
 二月壬子朔(),於三韓(みつのからくに)學問僧(ものならふほふし)三韓,謂高麗、百濟、新羅。
 己未(),阿倍大臣請四眾(よくさのおこなひひと)四天王寺(してんわうじ),迎佛像(ほとけのみかた)(はしら),使坐于塔內。造靈鷲山(りやうじゆせん)像,累積(かさね)(つづみ)為之。
 夏四月辛亥朔(),罷古冠(ふるきかがふり)。左右大臣猶著古冠。
 是歲,新羅遣使貢調。治磐舟柵(いはぶねのき)以備蝦夷。遂選越與信濃(しなの)之民,始置柵戶。
 五年,春正月丙午朔(),賀正焉。
 二月(つくる)十九階(とをあまりここのしな)。一曰,大織(だいしよく)。二曰,小織(せうしよく)。三曰,大繡(だいしう)。四曰,小繡(せうしう)。五曰,(だい)()。六曰,小紫(せうし)。七曰,大花上(だいくゑじやう)。八曰,大花下(だいくゑげ)。九曰,小花上(せうくゑじやう)。十曰,小花下(せうくゑげ)。十一曰,大山(だいせん)(じやう)。十二曰,大山下(だいせんげ)。十三曰,小山上(せうせんじやう)。十四曰,小山下(せうせんげ)。十五曰,大乙上(だいおつじやう)。十六曰,大乙下(だいおつげ)。十七曰,小乙上(せうおつじやう)。十八曰,小乙下(せうおつげ)。十九曰,立身。
 是月,詔博士高向玄理與釋僧旻(ほふしそうみん),置八省(やつのすぶるつかさ)、百官。


七色十三階冠


灌佛會
每年四月八日例行。


盂蘭盆會
每年七月十五日例行。所謂「大會、饗客,四月、七月齋時」指灌佛會、盂蘭盆會是也。


四天王寺 五重塔
肇於推古朝。『大同緣起』:「塔內小寺天王,安倍大臣敬請者。」


石船神社
岩船潟北明神山麓式內社石船神社,磐舟柵概在此區。


前期難波宮 朱雀門
朱雀門者,仿大唐皇城之俗制,宮城南面中央大門是也。唯未詳大化五年實稱南門曰朱雀門與否。


特別史跡 山田寺跡碑


特別史跡 山田寺跡
蘇我倉山田氏寺,今講堂、金堂,并塔遺構尚存。經挖掘調查,概為嘗奉四天王寺之伽藍。


丹比道
最古官道,今竹內街道也


御鹽殿神社 伊勢神宮御鹽
堅塩,未精製之固形鹽。係為伊勢神宮神饌所不可缺之物。


川原史滿進皇太子哀太子妃歌歌碑

野中川原史滿奉歌:「山川河之洲 鴛鴦二羽居相睦 雙偶成雙對 欲為佳偶吾妹妻 誰人率去不復返滿奉歌其二:「參差株株每 妍花開咲處處綻 何以吾所愛 可愛吾妻可憐妹 不得復咲莫再綻
十二、蘇我倉山田麻呂與造媛之死

 三月乙巳朔辛酉(十七),阿倍大臣(みまかりぬ)。天皇幸朱雀門(すざくもん)舉哀(みねたてまつり)(まとひたまふ)皇祖母(皇極)尊、皇太子(中大兄)等及諸公卿(まへつきみ),悉隨哀哭(みね)
 戊辰(廿四)蘇我臣日向(そがのおみひむか)【日向,(あざな)身刺(むさし)。】(しこぢ)倉山田大臣於皇太子曰:「僕之異母兄麻呂(ことはらのえまろ),伺皇太子遊於海濱(うみへた),而將害之。將(そむき),其不久(ひさしからじ)。」皇太子信之(うけたまふ)
 天皇使大伴狛連(おほとものこまのむらじ)三國麻呂公(みくにのまろのきみ)穗積嚙臣(ほづみのくひのおみ)於蘇我倉山田麻呂大臣所,而問反之虛實(いつはりまこと)。大臣答曰:「被問之(かへりこと),僕(まのあたり)當陳天皇之所(おほみもと)。」天皇更遣三國麻呂公、穗積嚙臣,審其反狀。麻呂大臣亦如前答。天皇乃將興(いくさ)(かくまむ)大臣宅。大臣乃將二子法師與赤豬(あかゐ)【更名(はだ)。】茅渟道(ちぬのみち)逃向於倭國境。大臣長子(このかみこ)興志,先是在倭,【謂,在山田之家(やまだのいへ)。】營造(つくる)其寺。今忽聞父逃來(にげくる)之事,迎於今來大槻(いまきのおほつき)近就前行(さきだち)入寺。(かへりみ)謂大臣曰:「興志(ごし)請,(みづから)直進,逆拒(むかへふさかむ)來軍。」大臣不許焉。
 是夜,興志意欲燒宮,猶聚士卒(いくさびと)【宮,謂小墾田宮。】
 己巳(廿五),大臣謂長子興志曰:「汝(をしむ)身乎?」興志對曰:「不愛也。」大臣仍陳說(とき)山田寺(やまだでら)眾僧及長子興志,與數十人曰:「夫為人臣(やつこ)者,(いづくにぞ)(さかふる)於君?何失(したがふ)於父?凡此伽藍(てら)者,元非自身(みづから)故造。奉為(おほみため)天皇誓作。今我見譖(しこぢられ)身刺,而恐(よこしまに)誅。聊望黃泉(よもつくに)尚懷(いさをし)退。所以來寺,使易終時。」言畢,開佛殿之戶,作發(たて)誓曰:「願我生生世世(よよ),不怨君王(きみ)。」誓訖,自經而死(みづからわなきてみうせぬ)。妻子殉死者(しぬるにしたがふもの)(やたり)
 是日,以大伴狛連與蘇我日向臣(そがのひむかのおみ),為將(ひきゐる)眾,使追大臣。將軍大伴連等,及到黑山(くろやま)土師連身(はじのむらじむ)采女臣使主麻呂(うねめのおみおみまろ),從山田寺馳來(はせきたり)告曰:「蘇我大臣既與三男一女(みたりのをのこひとりのむすめ)俱自經死。」由是將軍(いくさのきみ)等從丹比坂(たぢひのさか)歸。
 庚午(廿六)山田大臣(やまだのおほおみ)妻子(めこ)隨身者(ともびと),自經死者(おほし)穗積臣嚙(ほづみのおみくひ)捉聚大臣伴黨(ともがら)田口臣筑紫等,著(くびかし)反縛(しりへでにしばる)
 是夕木臣麻呂(きのおみまろ)、蘇我臣日向、穗積臣嚙,以軍圍寺。喚物部二田造鹽(もののべのふつたのみやつこしほ),使斬大臣之(くび)。於是二田鹽仍拔大刀(たち),刺舉其(しし)叱詫啼叫(たけびさけび),而(いまし)斬之。
 甲戌()(かかり)蘇我山田大臣而被戮(ころされし)者,田口臣筑紫(たぐちのおみつくし)耳梨道德(みみなしのだうとこ)高田醜雄(たかたのしこ)【醜,此云しこ(之渠)。】額田部(ぬかたべ)湯坐連(ゆゑのむらじ)【闕名。】秦吾寺(はたのあてら)等,(すべて)十四人,被絞(くびられし)者九人,被流(ながされし)者十五人。
 是月,遣使者收山田大臣資財(たからもの)。資財之中,於好書(よきふみ)(しるす):「皇太子書。」於重寶(おもきたから)上題:「皇太子物。」使者還申所收之狀(をさめしかたち)。皇太子始知大臣心猶貞淨(ただしくきよき),追生悔恥(くいはづる)哀歎(かなしびなげく)難休。即(めす)日向臣於筑紫大宰帥(つくしのおほみこともちのかみ)世人(よひと)相謂之曰:「是隱流(しのびながし)乎。」
 皇太子妃蘇我造媛(そがのみやつこひめ),聞父大臣為鹽所斬,傷心痛惋(こころやぶりいたみなげく),惡聞鹽名。所以近侍(ちかくつかへまつる)於造媛者,(いみ)稱鹽名,改曰堅鹽(きたし)。造媛遂因傷心而致死焉。皇太子聞造媛徂逝(みうせぬ)愴然傷恒(いたみ)哀泣極甚(かなしびたまふことはなはだし)。於是,野中川原史滿(のなかのかはらのふびとみつ)進而奉歌。歌曰:

 皇太子慨然頹歎褒美(なげきほめ)曰:「善矣(よきかも)悲矣(かなしきかも)。」乃授御琴(みこと)而使唱,賜絹四疋、布二十端、綿二(かます)
 夏四月乙卯朔甲午(廿),於小紫巨勢德陀古臣(こせのとこだこのおみ)(さづけ)大紫為左大臣。於小紫大伴長德連,【字馬飼。】授大紫為(みぎ)大臣。
 五月癸卯朔(),遣小花下三輪君色夫(みわのきみしこぶ)、大山上掃部連角麻呂(かにもりのむらじつのまろ)等於新羅。
 是歲,新羅(こきし)沙㖨部沙飡金多逐(さたくほうささんこむたすい)為質。從者(とも)三十七人。【僧一人,侍郎(じらう)二人,(じよう)一人,達官郎(だちくわんらう)一人,中客(なかつまらうと)五人,才伎(てひと)十人,譯語(をさ)一人,雜傔人(くさぐさのともびと)十六人,并三十七人也。】

十三、白稚改元與遷宮難波

 白雉(はくち)元年,春正月辛丑朔(),車駕幸味經宮(あぢふのみや),觀賀正禮。【味經,此云あぢふ(阿膩賦)。】
 是日車駕(すめらみこと)還宮。
 二月庚午朔戊寅()穴戶(あなと)國司草壁連醜經(くさかべのむらじしこふ),獻白雉(しろきぎし)曰:「國造首之同族(くにのみやつこのおびとがやから)(にへ)正月(むつき)九日,於麻山(をのやま)獲焉。」於是問諸百濟君(くだらのきみ)。百濟君曰:「後漢明帝(ごかんのめいてい)永平(えいへい)十一年,白雉在所(ところどころ)見焉。」云云。又問沙門(ほふし)等。沙門對曰:「耳所未聞,目所未覩。宜(つみゆるし)天下,使悅民心(たみのこころ)。」道登法師曰:「昔高麗欲營伽藍,無地不覽。便於一所白鹿(しろしか)徐行,遂於此地營造伽藍,名白鹿薗寺(びやくろくをんじ)住持(たもつ)佛法。又白雀(しろすずめ)見于一寺田莊(なりどころ)。國人僉曰:『休祥(よきさが)。』又遣大唐(もろこし)使者,持死三足烏(みつあしのからす)來。國人亦曰:『休祥。』斯等雖(いやし),尚謂祥物(さがもの),況復白雉。」僧旻法師曰:「此謂休祥,足為希物(めづらしきもの)。伏聞,王者旁流四表(よもをあまねくほどこれば),則白雉見。又王者祭祀不相踰(まつりあひこえず)宴食(とよのあかり)衣服(おほみそ)(かぎり)則至。又王者清素(しづか),則山出白雉。又王者仁聖(めぐみひじり)則見。又周成王(しうのせいわう)時,越裳氏(をつじやうし)來獻白雉曰:『吾聞,國之黃耇(おきな)曰:「久矣無別風淫雨(よものかぜひさめ),江海不波溢(なみあふれざる),三年於茲矣。」(おもはく)中國(なかつくに)聖人(ひじり)乎,(なにぞ)往朝之。故(かさねて)(をさ)而至。』又,晉武帝(しんのぶてい)咸寧(かむねい)元年,見松滋(しようじ)。是則休祥,可赦天下。」是以白雉使放于(その)
 甲申(十五),朝庭隊仗(つはもののよそほひ),如元會儀(むつきのついたちのよそほひ)。左右大臣、百官人等,為四列於紫門(みかど)外。以粟田臣(あはたのおみ)飯蟲(いひむし)等四人,使執雉輿(きぎしのこし),而在前(さきだち)去。左右大臣(すなはち)率百官及百濟君豐璋(くだらのせしむほうしやう),其弟塞城(さいじやう)忠勝(ちうしよう),高麗侍醫毛治(みもとくすしもうち),新羅侍學士(じがくじし)等,而至中庭。使三國公麻呂(みくにのきみまろ)豬名公高見(ゐなのきみたかみ)三輪君甕穗(みわのきみみかほ)紀臣乎麻呂岐太(きのおみをまろきた)四人,代執雉輿,而進殿前(おほとののまへ)。時左右大臣就執輿前頭(まへ)伊勢王(いせのおほきみ)、三國公麻呂、倉臣小屎(くらのおみをくそ),執輿後頭(しり),置於御座(みまし)之前。
 天皇即召皇太子,共執而觀。皇太子退而再拜(をろがみ),使巨勢大臣奉賀(よごとたてまつらしめ)曰:「公卿、百官人等奉賀,陛下(きみ)清平之德(しづかなるいきほひ)治天下之故,爰有白雉自西方出。乃是陛下及至千秋萬歲(ちよよろづよ)(きよく)四方八大嶋(よものおほやしま),公卿、百官及諸百姓等,冀(つくし)忠誠(いそひ)(つかへ)。」奉賀訖再拜。
 詔曰:「聖王出世治天下時,天則應之示其祥瑞(みつ)曩者(むかし)西土(にしのくに)之君周成王世與漢明帝時,白雉(ここに)見。我日本(やまと)譽田(ほむた)天皇之世,白烏(すくふ)宮。大鷦鷯(おほさざき)帝之時,龍馬(りゆうば)西見。是以自古(いたり)今,祥瑞時見,以應有德,其類多矣。所謂鳳凰(ほうわう)騏驎(きりん)、白雉、白烏(しろからす),若斯鳥獸(とりけもの)及于草木(くさき),有符應(しるしこたへ)者,皆是天地所生休祥嘉瑞(よきみつ)也。夫明聖之君(ひじりのきみ)獲斯祥瑞,(まさに)其宜也。朕惟虛薄(いやし),何以享斯。蓋此專由扶翼(たすけ)公卿、臣、連、伴造、國造等,各盡丹誠(まことのこころ),奉遵制度之所致也。是故始於公卿及百官等,以清白意(あきらけきこころ),敬奉神祇(あまつかみくにつかみ),並受休祥,令榮(さかえしめむ)天下。」
 又詔曰:「四方諸國郡(くにこほり)等,由天委付(ゆだねさづく)之故,朕總臨(ふさねのぞみ)而御寓。今我親神祖(むつかむろき)之所知穴戶國中,有此嘉瑞。所以大赦天下,改(はじめのとし)白雉。」仍禁放(たか)穴戶堺(あなとのさかひ),賜公卿大夫(まへつきみ)以下至于令史(ふびと),各有差。於是褒美(ほめ)國司草壁連醜經,授大山,并大給祿(ものたまひ)(ゆるす)穴戶三年調役(えつき)
 夏四月,新羅遣使貢調(みつきたてまつる)

 冬十月,為入宮地(みやのところ),所壞丘墓(はか)被遷人(うつされたるひと)者,賜物各有差。即遣將作大匠荒田井直比羅夫(たくみのつかさあらたゐのあたひひらぶ),立宮堺標(みやのさかひのしめ)
 是月,始造丈六繡像、俠侍(けふじ)八部(はつぶ)等三十六像。
 是歲漢山口直大口(あやのやまぐちのあたひおほくち),奉詔刻千佛像(せんぶつのみかた)。遣倭漢直縣(やまとのあやのあたひあがた)白髮部連鐙(しらかべのむらじあぶみ)難波吉士(なにはのきし)胡床(あぐら)安藝(あぎ)國,使造百濟舶(くだらのつむ)二隻。
 二年,春三月甲午朔丁未(十四),丈六繡像等成。
 戊申(十五)皇祖母尊(皇極)請十師等設齋(をがみす)
 夏六月,百濟、新羅遣使貢調獻物(ものたてまつる)
 冬十二月(卅一),於味經宮請二千一百餘僧尼,使讀一切經(いつさいきやう)
 是夕(ともし)二千七百餘(みあかり)於朝廷內,使讀安宅(あんたく)土側(どそくら)等經。於是天皇從於大郡遷,居新宮。號曰難波長柄豐碕宮(なにはのながらのとよさきのみや)
 是歲,新羅貢調使(みつきたてまつるつかひ)知萬沙飡(ちまささん)等,著唐國服(もろこしのくにのきもの)泊于筑紫。朝廷惡(ほしきまま)(しわざ)訶嘖(せめ)追還。于時,巨勢大臣(こせのおほおみ)奏請之曰:「今方不伐新羅,於後必當有悔。其伐之狀,不須(こぞる)力。自難波津(なにはつ)至于筑紫海(つくしのうみ)裏,相接浮盈艫舳(ふね),召新羅問其罪者,可(やすかる)得焉。」
 三年,春正月己未朔()元日禮(みかどをがみのこと)訖,車駕幸大郡宮(おほこほりのみや)
 自正月至是月,班田既(をはりぬ)。凡田長三十步為段,十段為町。【段(たちから)稻一束半,町租稻十五束。】
 三月戊午朔丙寅(),車駕還宮。
 夏四月戊子朔壬寅(十五),請沙門惠隱(ゑおん)於內裏,使講無量壽經(むりやうじゆきやう),以沙門惠資(ゑし)論議者(ろんげしや),以沙門一千為作聽眾(さちやうじゆ)
 丁未(廿),罷講。自於此日初,連雨水(あめ)。至于九日,損壞宅屋(やかず),傷害田苗(たのなへ)。人及牛馬溺死者眾。
 是月,造戶籍。凡五十戶為里,每里(をさ)一人。凡戶主(へぬし)皆以家長(いへのかみ)為之。凡戶皆五家相保(いついへあひまもり),一人為長,以相檢察(かむがへみしむ)
 新羅、百濟(まだし)使貢調,獻物。
 秋九月,造宮已訖。其宮殿之狀不可殫論(ことごとくいふべからず)
 冬十二月(卅一),請天下僧尼於內裏,設齋,大捨(かきうてる),燃燈。
 四年,夏五月辛亥朔壬戌(十二)發遣(つかはす)大唐大使小山上吉士長丹(きしのながに)副使(そひつかひ)小乙上吉士駒(きしのこま)【駒,更名(いと)。】學問僧道嚴(だうごん)道通(だうつう)道光(だうくわう)惠施(ゑせ)覺勝(かくしよう)辨正(べんしやう)惠照(ゑせう)僧忍(そうにん)知聰(ちそう)道昭(だうせう)定惠(ぢやうゑ)【定惠,內大臣(うちのおほおみ)之長子也。】安達(あんだち)【安達,中臣渠每連(なかとみのこめのむらじ)之子。】道觀(だうくわん)【道觀,春日粟田臣百濟(かすがのあはたのおみくだら)之子。】學生(ものならひひと)巨勢臣藥(こせのおみくすり)【藥,豐足臣(とよたりのおみ)之子。】冰連老人(ひのむらじおきな)【老人,真玉(またま)之子。或本,以學問僧知辨(ちべん)義德(ぎとく),學生坂合部連磐積(さかひべのむらじいはつみ)而增焉。】(あはせ)一百二十一人,(ともに)乘一船。以室原首御田(むろはらのおびとみた)送使(おくるつかひ)。又大使大山下高田首根麻呂(たかたのおびとねまろ)【更名,八掬脛(やつかはぎ)。】副使小乙上掃守連小麻呂(かにもりのむらじをまろ),學問僧道福(だうふく)義向(ぎきやう),并一百二十人,俱乘一船。以土師連八手(はじのむらじやつて)為送使。
 是月,天皇幸旻法師(むろ),而問其疾,遂口敕恩命(めぐみのみことのり)

 六月,百濟、新羅遣使貢調,獻物。修治(をさむ)處處大道(おほち)
 天皇聞旻法師命終(いのちうせぬ),而遣使(とぶらはしめ),并多送(おくりもの)皇祖母尊(皇極)及皇太子等,皆遣使弔旻法師()。遂為法師,命畫工狛豎部子麻呂(ゑかきこまのたてべのこまろ)鯽魚戶直(ふなとのあたひ)等,多造佛、菩薩(ぼさつ)像,安置於川原寺(かはらでら)【或本云,在山田寺。】
 秋七月,被遣大唐使人(つかひ)高田根麻呂等,於薩麻之曲(さつまのくま)竹嶋(たかしま)之間,(こぞり)沒死(おちりぬ)。唯有五人,繫胸一板,流遇(ながれより)竹嶋,不知所計。五人之中,門部金(かどべのかね)採竹為(いかだ),泊于神嶋(しとけしま)。凡此五人經六日六夜,而(もはら)不食飯。於是褒美金,進位(くらゐをすすめ)給祿。


大阪市古地圖 味原
味經宮,所在不詳。萬葉集卷六難波宮作歌云:「味原宮。」故宮趾蓋在大阪市天王寺區味原町一代。


白雉
按『延喜式治部省祥瑞條:「白雉,岱宗之精也。」松滋,地名。『宋書』符瑞志:「晉武帝咸寧元年四月丁巳,白雉見安豐松滋。」別風者,『尚書大傳疏』:「謂風從自東西南北來,四方可分別,故云別風。」


萬物雛形畫譜 鳳凰、麒麟
白雉、鳳凰、麒麟等,僉休祥之兆也。『爾雅』釋言云:「休者,慶也。」祥瑞、上瑞是也。故孝德帝改元白雉。


熊野本宮大社神紋 頭八咫烏
三足烏,『延喜式治部省祥瑞條:「三足烏,日之精也。」


難波長柄豐碕宮


前期難波宮跡
跡地存於今大阪歷史博物館地下。


川原寺跡


川原寺跡


飛鳥資料館 川原寺復原模型


竹嶋
竹嶋,在薩摩半島南,硫磺島東。神嶋,肥前國西南海中神嶋。或云薩摩國上甑島。


飛鳥稻淵宮殿跡


飛鳥稻淵宮殿跡碑
倭飛鳥河邊行宮比定地。

天皇送間人皇后歌:「鉗著堅金木 吾繫飼駒金木上 不令人引出 何以吾密飼駒者 為人所覓為人獲


吐火國 泰 Dvaravati 王國
吐火國,齊明紀作覩貨邏、墮羅、覩貨邏國等,舊唐書稱墮和羅國。蓋為泰他叻瓦滴王國時代。


孝德天皇 大坂磯長陵
十四、皇太子遷至飛鳥

 是歲,太子奏請曰:「欲冀(ねがはくば)遷于倭京(やまとのみやこ)。」天皇不許焉。
 皇太子乃奉皇祖母尊(皇極)間人皇后(はしひとのきさき),并率皇弟(大海人)等,往居于倭飛鳥河邊行宮(やまとのあすかのかはらのかりみや)。于時,公卿大夫、百官人等,皆隨而遷。由是天皇恨欲捨於國位(くにのみくらゐ),令造宮於山碕(やまさき),乃送歌於間人皇后曰:

 五年,春正月戊申朔(),夜,鼠向倭都(やまとのみやこ)而遷。
 壬子(),以紫冠授中臣鎌足連(なかとみのかまたりのむらじ),增封若干戶。
 二月,遣大唐押使(すべつかひ)大錦上高向史玄理,【或本云,夏五月,遣大唐押使大花下高向玄理。】大使小錦下河邊臣麻呂(かはへのおみまろ),副使大山下藥師惠日(くすしゑにち),判官大乙上書直麻呂(ふみのあたひまろ)宮首阿彌陀(みやのおびとあみだ)【或本云,判官小山下書直麻呂。】小乙上岡君(をかのきみ)(よろし)置始連大伯(おきそめのむらじおほく)、小乙下中臣間人連老(なかとみのはしひとのむらじおゆ)【老,此云おゆ(於喻)。】田邊使鳥(たなべのふびととり)等,分乘二船,留連(つたよふ)數月,取新羅道(しらきのみち),泊於萊州(らいしう)。遂到于京,奉覲天子(みかど)
 於是,東宮監門(とうぐうかむもん)郭丈舉(くわくぢやうきよ),悉問日本國(やまとのくに)地里(ところさと)國初之神名(くにのはじめのかみのな)。皆隨問而答。
 押使高向玄理,(みうせぬ)於大唐。

 夏四月吐火羅國(とくわらのくに)男二人、女二人,舍衛(しやゑ)女一人,被風流來于日向(ひむか)
 秋七月甲戌朔丁酉(廿四)西海使(にしのみちのつかひ)吉士長丹等,共百濟、新羅送使泊于筑紫。
 是月,褒美西海使等奉對唐國天子,多得文書(ふみ)寶物(たからもの),授小山上大使吉士長丹以少花下(せうくゑげ),賜封二百戶,賜(うぢ)吳氏(くれのうぢ)。授小乙上副使吉士駒以小山上。
 冬十月癸卯朔(),皇太子聞天皇病疾(みやまひ),乃奉皇祖母尊(皇極)、間人皇后,并率皇弟、公卿等,赴難波宮。
 壬子(),天皇崩于正寢(おほとの)。仍起殯於南庭(おほば)。以小山上百舌鳥土師連土德(もずのはじのむらじつちとこ),主殯宮(もがりのみや)之事。
 十二月壬寅朔已酉(),葬于大坂磯長陵(おほさかのしながのみさざき)
 是日,皇太子奉皇祖母尊,遷居(うつりましたまふ)倭河邊行宮。老者(おいひと)語之曰:「鼠向倭都,遷都之兆也。」
 是歲,高麗、百濟、新羅,並遣使奉弔(とぶらひたてまつる)

日本書紀卷廿五 終

【久遠の絆】【卷廿四】【卷廿六】【再臨詔】