日本書紀 卷廿四 皇極紀

天豐財重日足姬天皇(あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと) 皇極天皇(くわうぎよくてんわう)


皇極天皇系譜
一、皇后踐祚

 天豐財重日足姬天皇(あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと)【重日,此云いかしひ(伊柯之比)。】渟中倉太珠敷(ぬなくらのふとたましき)天皇曾孫,押坂彥人大兄皇子(おしさかのひこひとおほえのみこ)孫,茅渟王(ちぬのおほきみ)女也。母曰吉備姬王(きびひめのおほきみ)
 天皇順考古道(いにしへのみちにかむがへ),而為(まつりごと)也。
 息長足日廣額(舒明)天皇二年,立為皇后(きさき)
 十三年,十月息長足日廣額(舒明)天皇(かむあがり)
 元年,春正月丁巳朔辛未(十五),皇后即天皇位(あまつひつぎしらしめす)
 以蘇我臣蝦夷(そがのおみえみし)大臣(おほおみ)如故(もとのごとし)。大臣兒入鹿(いるか)【更名鞍作(くらつくり)。】自執國政(くにのまつりごと)(いきほひ)勝於父。由是盜賊(ぬすびと)恐攝,路不拾遺(みちにおちたるをひりはず)

二、百濟、高麗政變

 乙酉(廿九),百濟使人大仁阿曇連比羅夫(だいにんあづみのむらじひらぶ),從筑紫國(つくしのくに)驛馬(はゆま)來言:「百濟國(くだらのくに)聞天皇崩,奉遣(たてまだす)弔使。臣隨弔使(とぶらひのつかひ),共到筑紫。而(やつかれ)望仕於葬,故先獨來也。然其國(百濟)者今大亂矣。」
 二月丁亥朔戊子(),遣阿曇山背連比羅夫(あづみのやましろのむらじひらぶ)草壁吉士磐金(くさかべのきしいはかね)倭漢書直縣(やまとのあやのふみのあたひあがた),遣百濟弔使所,問彼消息(あるかたち)。弔使報言:「百濟國主(こにきし)謂臣言:『塞上(さいじょう)恒作惡之。請付還使,天朝(すめらみこと)不許。』」百濟弔使傔人(ともびと)等言:「去年十一月,大佐平智積(だいさへいちしやく)卒。又百濟使人(つかひ)崐崘使(こんろんのつかひ)海裏(うみのうち)。今年正月(むつき),國主母薨。又弟王子(おとせしむ)翹岐(げうき)及其母妹女子(いろものえはしと)四人,內佐平岐味(ないさへいきみ),有高名之人四十餘,被放於(せま)。」
 壬辰()高麗(こま)使人泊難波津(なにはつ)
 丁未(廿一),遣諸大夫(まへつきみたち)難波郡(なにはのこほり)(かむがへしむ)高麗國所貢金銀(くがねしろかね)等并其獻物(たてまつれるもの)。使人貢獻既訖,而(まをし)云:「去年(いにしとし)六月,弟王子薨。秋九月(ながづき),大臣伊梨柯須彌(いりかすみ)大王(こにきし),并殺伊梨渠世斯(いりこせし)等百八十餘人。仍以弟王子兒為王,以己同姓(うがら)都須流金流(つするこむる)為大臣。」『三國史記』云:「廿五年冬十月,蓋蘇文弒王。」
 戊申(廿二),饗高麗、百濟(まらひど)於難波郡。詔大臣曰:「以津守連大海(つもりのむらじおほあま),可使於高麗。以國勝吉士水雞(くにかつのきしくひな),可使於百濟。【水雞,此云くひな(俱毘那)。】草壁吉士真跡(くさかべのきしまと),可使於新羅(しらき)。以坂本吉士長兄(さかもとのきしながえ),可使於任那(みまな)。」
 庚戌(廿四),召翹岐,安置(はべらしむ)於阿曇山背連家。
 辛亥(廿五),饗高麗、百濟客。
 癸丑(廿七),高麗使人、百濟使人並罷歸(まかりかへる)
 三月丙辰朔戊午(),無雲而雨。
 辛酉(),新羅遣賀騰極使(ひつぎよろこぶるつかひ)弔喪使(みもをとぶらふつかひ)
 庚午(十五),新羅使人罷歸。
 是月霖雨(ながめす)
 夏四月丙戌朔癸巳()大使(こむつかひ)翹岐,(ゐて)其從者拜朝(みかどをろがみす)
 乙未()蘇我大臣於畝傍家(うねびのいへ)喚百濟翹岐等,親對語話(ものがたりす)。仍賜良馬(よきうま)一疋、(ねりかね)二十鋌。唯不喚塞上。
 是月。霖雨(ながめ)
 五月乙卯朔己未(),於河內國依網屯倉(かふちのくによさみのみやけ)前召翹岐等,令觀射獵(うまゆみ)
 庚午(十六),百濟國調使(みつきのつかひ)船與吉士船,俱泊于難波津。(けだし)吉士前(うけたまはり)使於百濟乎。】
 壬申(十八),百濟使人進調(みつきたてまつる)。吉士服命(かへりことまをす)
 乙亥(廿一),翹岐從者(ともびと)一人死去。
 丙子(廿二),翹岐兒死去。是時翹岐與妻,畏忌(おぢいみ)兒死,果不臨喪。凡百濟、新羅風俗(くにわざ),有死亡者(しにひと),雖父母(ちちはは)兄弟(えおと)夫婦(いもせ)姊妹(あねいも)(ひたぶる)不自看。以此而觀,無慈(うつくしびなき)之甚,豈別禽獸(とりけだもの)
 丁丑(廿三)熟稻(あからめるいね)始見。
 戊寅(廿四),翹岐將其妻子(めこ),移於百濟大井家(くだらのおほゐのいへ),乃遣人葬兒於石川(いしかは)


芳荑洞百濟古墳群


百濟王室系譜
百濟武王崩於在位卌二年三月,唐贈光祿大夫號。封其嫡子義慈為柱國、帶方郡主、百濟王。武王死後百濟大亂,義慈王遂亡命日本。本文所云百濟國主,即義慈王也。


蓋蘇文
伊梨柯須彌,淵蓋蘇文是也。高句麗末期宰相、將軍。伊梨者,高句麗語水源之意。柯須彌者,蓋蘇文音譯矣。或作泉蓋蘇文、泉蓋金者,避唐高祖李淵諱也。


石川 河內國石川、錦部二郡
翹岐兒死,葬於石川。雙親不往奔喪。五倫者,君臣、父子、夫婦、兄弟、朋友。故父慈子孝,當倫常之本矣。而韓人流俗若此,故云韓人素性不及禽獸。


延喜式祥瑞 白雀


四天王像
四天王乃佛法守護神。左起多開天、持國天、增長天、北目天。


飛鳥川
皇極帝祈雨南淵川上而天下溥潤。川上者,上游之謂也。


飛鳥川上坐宇須多伎比賣命神社
皇極帝南淵河上祈雨承傳地。


吉備池廢寺 百濟大寺跡
百濟大寺址有諸說,吉備池廢寺有金堂基盤遺構,蓋是。
三、入鹿祈雨不成而天皇成之

 六月乙酉朔庚子(十六)微雨(こさめ)
 是月,大(ひでりす)
 秋七月甲寅朔壬戌()客星(まらひとほし)入月。
 乙亥(廿二),饗百濟使人大佐平智積等於朝。乃命健兒(ちからひと)相撲(すまひ)於翹岐前。智積等(とよのあかり)畢而退,拜翹岐門。

 丙子(廿三),蘇我臣入鹿豎者(しとべわらは),獲白雀子(しろすずみのこ)。是日同時,有人,以白雀納(),而送蘇我大臣。
 戊寅(廿五),群臣相語(あひかたり)之曰:「隨村村祝部(はふりべ)所教,或殺牛馬祭諸社神(もろもろのやしろのかみ),或(しきり)(いち),或禱河伯(かはのかみ),既無所效。」蘇我大臣報曰:「可於寺寺轉讀大乘經典(だいじょうきゃうてん)悔過(くゑくわす)(ほとけ)說,敬而祈雨。」
 庚辰(廿七),於大寺南庭(おほば)(よそひ)佛、菩薩(ぼさつ)像與四天王(してんわう)像,屈請(ゐやびます)(ほふし),讀大雲經(だいうんきやう)等。于時蘇我大臣手執香鑪(かうろ)燒香(こりたき)發願。
 辛巳(廿八),微雨。
 壬午(廿九)不能(あたはず)祈雨。(かれ)停讀經。
 八月甲申朔(),天皇幸南淵河上(みなぶちのかはかみ)(ひざまづき)四方(よも),仰天而祈。即雷大雨(ひさめ)。遂雨五日,溥潤(あまねくうるほす)天下。【或本云,五日連雨(ながめ)九榖登熟(たなつものみのれり)。】於是天下百姓(おほみたから)俱稱萬歲(よろづとせ)曰:「至德(いきほひまします)天皇!」
 已丑(),百濟使、參官(さむくわん)罷歸(まかりかへる)。仍賜大舶(つむ)同船(もろきふね)三艘。【同船,もろき(母慮紀)舟。】是日夜半(よなか)(いかづち)鳴於西南角(ひつじさるのすみ),而風雨。參官等所乘船舶,(つき)岸而破。
 丙申(十三),以小德(せうとく)授百濟(むかはり)達率長福(ちやうふく)中客(なかつまらひと)以下授位一級(くらゐひとしな)。賜物各有差(おのもおのもしなあり)
 戊戌(十五),以船(たまひ)百濟參官等,發遣(たてつかはす)
 己亥(十六),高麗使人罷歸。
 己酉(廿六),百濟、新羅使人罷歸。
 九月癸丑朔乙卯(),天皇詔大臣曰:「朕思欲(おもふ)起造大寺,宜發近江(あふみ)(こし)(よほろ)百濟大寺(おほてら)。】」復(おほせ)諸國,使造船舶(ふね)
 辛未(十九),天皇詔大臣曰:「起是月,限十二月以來(このかた),欲營宮室(おほみや)。可於國國取殿屋材(とののき),然東限遠江(とほつあふみ),西限安藝(あぎ),發造宮丁。」
 癸酉(廿一),越(ほとり)蝦夷,數千內附(まゐきつく)

四、天地異變續發

 冬十月癸未朔庚寅()地震(なゐふり)而雨。
 辛卯(),地震。是夜,地震而風。
 甲午(十二),饗蝦夷(えみし)於朝。
 丁酉(十五),蘇我大臣設蝦夷於家,而躬慰問(やすめとふ)
 是日,新羅弔使船與賀騰極使船,泊于壹岐嶋(いきのしま)
 丙午(廿四),夜中,地震。
 是月,行夏令(なつのまつりごと)。無雲而雨。
 十一月壬子朔癸丑(),大雨雷。
 丙辰(),夜半,雷一鳴於西北(いぬゐ)角。
 己未(),雷五鳴於西北角。
 庚申(),天暖如春氣(はるのけ)
 辛酉(),雨下。
 壬戌(十一),天暖如春氣。
 甲子(十三),雷一鳴於北方(きたのかた),而風發(かぜおこる)
 丁卯(十六),天皇御新嘗(にひなへ)
 是日皇太子(天智)、大臣各自新嘗。
 十二月壬午朔(),天暖如春氣。
 甲申(),雷五鳴於(ひる),二鳴於夜。
 甲午(十三),初發息長足日廣額(舒明)天皇(みも)
 是日,小德巨勢臣德太(こせのおみとこだ),代大派皇子(おほまたのみこ)(しのひことたてまつる)。次,小德粟田臣細目(あはたのおみほそめ),代輕皇子(かるのみこ)而誄。次,小德大伴連馬飼(おほとものむらじうまかひ),代大臣而誄。
 乙未(十四)息長山田公(おきながやまだのきみ),奉誄日嗣(ひつぎ)
 辛丑(廿),雷三鳴於東北(うしとら)角。
 庚寅(),雷二鳴於東,而風雨。
 壬寅(廿一),葬息長足日廣額(舒明)天皇于滑谷岡(なめだにのをか)
 是日,天皇遷移(うつり)小墾田宮(をはりたのみや)【或本云,遷於東宮(ひつぎのみや)南庭之權宮(かりみや)。】
 甲辰(廿三),雷一鳴於夜。其聲若(さくる)
 辛亥(),天暖如春氣。

玄界灘 壹崎諸島 辰島
壹崎島,全島為低平之溶岩台地。古來為對馬至朝鮮之航路要衝。

神宮徴古館藏 齋庭稻穗
新嘗者,新贄之轉矣。『日本書紀』卷二,天照大神敕曰:「以吾高天原所御齋庭之穗,亦當御於吾兒。」則授稻穗於忍穗耳尊。往後每逢秋稔,九月獻上新穀於天照大神,是謂神嘗祭。天皇以十一月奉新穀,乃新嘗祭是也。又登極後之首次新嘗祭,謂之踐祚大嘗祭。


飛鳥之里
皇極帝元年十二月,葬舒明帝於滑谷岡。和漢三才圖會云:「在大和國高市郡冬野村邊。」所在未詳。二年九月,改葬押坂內陵。


推古帝小墾田宮跡 古宮土壇
小墾田宮,即推古帝皇居矣。


葛城高宮 極樂寺ヒビキ遺跡


葛城大型建物想像圖
葛城高宮,和名抄云:「在大和國葛上郡高宮鄉。」

蘇我蝦夷八佾儛歌:「磯輪大和國 忍海葛城川廣瀨 今欲渡彼處 手作腳帶調足結 整裝腰帶繫佩刀


八佾儛
八佾,八列也,六十四人方陣之儛。依禮數斷之,唯天子可行,臣子行之為僭越之舉,不敬帝皇。詳見論語八佾篇。


傳飛鳥板蓋宮跡


河內名所圖會 茨田池
按『河內名所圖會』,在茨田郡平池村。池水如藍汁云云,以天地異變,為人事易革之兆。『後漢書』五行志:「河東池水變色,皆赤如血。」劉昭注:「京房占曰:『流水化為血,兵且起。』」


舒明天皇押坂內陵
皇極二年,舒明帝改葬押坂內陵。


吉備嶋皇祖母命墓 猿石
吉備姬王墓,『延喜式』諸陵:「高市郡檜隈【欽明帝】陵域內。」

蘇我入鹿謀廢上宮王時童謠:「上宮岩之上 林臣小猿炊米燒 山羊小父矣 務食其米通彼道 噫乎山羊小父矣
按後文,此謠以岩上喻上宮,小猿喻入鹿,炊米喻燒上宮,山羊小父云云山背王喻棄宮匿山之相也。
五、蘇我蝦夷、入鹿專橫

 是歲,蘇我大臣蝦夷,立己祖廟(おやのみたまや)葛城高宮(かづらきのたかみや),而為八佾之儛(やつらのまひ),遂作歌曰:

 又盡發舉國(あめのした)之民,并百八十部曲(ももやそのかきべ),預造雙墓(ならびのはか)今來(いまき)。一曰大陵(おほみさざき),為大臣墓。一曰小陵(をみさざき),為入鹿臣(いるかのおみ)墓。望死之後,勿使勞人。更悉聚上宮乳部(うへのみやのみぶ)之民,【乳部,此云みぶ(美父)。】役使塋兆(はか)所。
 於是,上宮大娘姬王(うへのみやのいらつめのひめみこ)發憤而歎曰:「蘇我臣專擅(ほしきまま)國政,多行無禮。天無二日,國無二王。何由(なにのゆゑ)任意悉役封民(よさせるたみ)?」自茲(これより)結恨,遂取俱亡。是年也,太歲壬寅
 二年,春正月壬子朔()五色(いつつのいろ)大雲,滿覆於天而闕於(とらのところ)。一色青霧,周起(めぐりおこる)於地。
 辛酉(),大風。
 二月辛巳朔庚子(廿)桃華(もものはな)始見。
 乙巳(廿五)(あられ)傷草木華葉。
 是月,風雷雨冰(ひさめ)。行冬令。
 國內巫覡(かむなぎ)等折取枝葉(しば)懸掛木綿(ゆふ)伺候(うかかひ)大臣渡橋之時,爭陳神語入微之說(かむことのたへなることば)。其巫甚多,不可悉聽。
 三月辛亥朔癸亥(十三)(ひつけり)難波百濟客館堂(むろつみ)與民家室(いへ)
 乙亥(廿五)(しも)傷草木華葉。
 是月,風雷雨冰。行冬令(ふゆのまつりごと)
 夏四月庚辰朔丙戌(),大風而雨。
 丁亥(),風起天寒。
 己亥(廿),西風而雹天寒。人著綿袍三領(わたきぬみつかさね)
 庚子(廿一)筑紫大宰(つくしのみこともちのつかさ)馳驛奏曰:「百濟國主兒翹岐弟王子,共調使來。」
 丁未(廿八),自權宮移幸飛鳥板蓋新宮(あすかのいたぶきのにひみや)
 甲辰(廿五)近江國(あふみのくに)言:「雹下,其大(わたり)一寸。」
 五月庚戌朔乙丑(十六),月有蝕之(はゆる)
 六月己卯朔辛卯(十三),筑紫大宰馳驛(はゆま)奏曰:「高麗遣使來朝(まゐけり)。」群卿(まへつきみたち)聞而謂之曰:「高麗自己亥(つちのとのゐ)年不朝而今年(ことし)朝也。」
 辛丑(廿三),百濟進調船(みつきたてまつるふね)(とまれり)于難波津。
 秋七月已酉朔辛亥(),遣數大夫(まへつきみたち)於難波郡,檢百濟國調與獻物。於是,大夫問調使曰:「所進國調(くにのみつき),欠少前例(さきのあと)。送大臣物,不改去年所還之色(かへせるいろ)。送群卿物,亦(もはら)不將來。背違(たがへり)前例,其狀何也?」大使達率自斯(だちそちじし)副使(そひつかひ)恩率軍善,俱答諮曰:「即今(すむやけく)可備。」自斯,質達率武子(むし)之子。
 是月茨田池(まむたのいけ)水大(くさり)小蟲(ちひさきむし)覆水。其蟲口黑而身白。
 八月戊申朔壬戌(十五),茨田池水變如藍汁(あゐのしる),死蟲(おほへり)水。溝瀆之流(うなてのみづ),亦復凝結(こほり)厚三四寸,大小魚臭如夏爛死(ただれしぬ)。由是不中(あたらず)喫焉。
 九月丁丑朔壬午(),葬息長足日廣額(舒明)天皇于押坂陵(おしさかのみさざき)【或本云,呼廣額(ひろぬか)天皇為高市(たけち)天皇也。】
 丁亥(十一)吉備嶋皇祖母命(きびのしまのすめみおやのみこと)薨。
 癸巳(十七),詔土師娑婆連豬手(はじのさばのむらじゐて),視皇祖母命(吉備姬王)喪。天皇自皇祖母命臥病及至發喪,不避床側(もとこ)視養(とりみ)無倦。
 乙未(十九)(はぶり)皇祖母命于檀弓岡(まゆみのをか)
 是日大雨(ひさめ)而雹。
 丙午()(やむ)造皇祖母命墓(えだち)。仍賜(おみ)(むらじ)伴造(とものみやつこ)帛布(きぬ)各有差。
 是月,茨田池水(やくやく)變成白色。亦無臭氣(くさき)
 冬十月丁未朔己酉(),饗賜群臣(まへつきみたち)、伴造於朝堂庭(みかどのおほば)。而議授位之事(くらゐさづけむこと)。遂詔國司(くにのみこともち):「如前所(みことのり),更無改換(かふること)。宜之(その)任,(つつしめ)爾所治。」
 壬子(),蘇我大臣蝦夷,緣病不朝。(ひそかに)紫冠(むらさきのかがふり)於子入鹿,(なずらふ)大臣位。復呼其弟,曰物部(もののべ)大臣。大臣之祖母(おば)物部弓削大連(もののべのゆげのおほむらじ)之妹。故因母(たから),取威於世。
 戊午(十二),蘇我入鹿獨謀將廢上宮王等(うへのみやのみこたち),而立古人大兄(ふるひとのおほえ)為天皇。于時,有童謠(わざうた)曰:

 是月,茨田池水還(すむ)

六、入鹿襲擊斑鳩宮

 十一月丙子朔(),蘇我臣入鹿遣小德巨勢德太臣(こせのとこだのおみ)、大仁土師娑婆連,(おそはしむ)山背大兄王等於斑鳩(いかるが)【或本云,以巨勢德太臣、倭馬飼首(やまとのうまかひのおびと)將軍(いくさのきみ)。】於是,(やつこ)三成與數十舍人(とねり),出而拒戰(ふせきたたかふ)。土師娑婆連中箭而死,軍眾(いくさども)恐退。軍中之人相謂之曰:「一人當千(ひとりひとちなみ),謂三成(みなり)歟!」
 山背大兄仍取馬骨(うまのほね),投置內寢(よどの),遂率其(みめ)子弟(みうがら)等,得(ひとま)逃出,隱膽駒山(いこまのやま)三輪文屋君(みわのふみやのきみ)、舍人田目連(ためのむらじ)及其女,菟田諸石(うだのもろし)伊勢阿部堅經(いせのあべのかたふ),從焉。巨勢德太臣等燒斑鳩宮,(はひ)中見骨,誤謂王死,解(かくみ)退去。
 是由,山背大兄王(やましろのおほえのみこ)等,四五日間,淹留(ひさしくとどまり)於山,不得喫飯(ものもえまゐのぼらず)。三輪文屋君進而勸曰:「請移向(ゆき)深草屯倉(ふかくさのみやけ),從玆乘馬詣東國(あづまのくに),以乳部(みぶ)為本,興師,還戰。其勝必矣。」山背大兄王等對曰:「如卿所(いふ),其勝必然(かならずしからむ)。但吾情冀,十年不役(つかはじ)百姓。以一身之故(ひとつのみのゆゑ),豈煩勞(わづらはし)萬民?又於後世(のちのよ)不欲(ほりせじ)民言由吾之故喪己父母。豈其戰勝之後,(まさに)言丈夫哉?夫(すて)身固國,不亦丈夫(ますらを)者歟?」
 有人遙見上宮王等於山中,還噵蘇我臣入鹿。入鹿聞而大懼,速發軍旅(いくさ),述王所在於高向臣國押(たかむくのおみくにおし)曰:「速可向山求捉彼王。」國押報曰:「(やつかれ)守天皇宮,不敢外出。」入鹿即將自往。
 于時,古人大兄皇子喘息(あへき)而來問:「向何處?」入鹿具說所由。古人皇子曰:「鼠(かくれ)穴而生,失穴而死。」入鹿由是止行,遣軍將(いくさのきみ)等,求於膽駒(いこま)。竟不能覓。
 於是,山背大兄王等自山還入斑鳩寺(いかるがでら),軍將等即以兵圍寺。於是山背大兄王使三輪文屋君謂軍將等曰:「吾起兵伐入鹿者,其勝定之(うつなし)。然由一身之故,不欲傷殘(やぶりそこなはむ)百姓。是以吾之一身,賜於入鹿。」終與子弟、妃妾,一時自經(みづからわなき),俱死也。于時五色幡蓋(はたきぬがさ),種種伎樂(おもしろきこゑ)照灼(てりひかり)於空,臨垂(のぞみたれり)於寺。眾人仰觀稱嘆(たたへなげき),遂指示(さししめす)於入鹿。其幡蓋等變為黑雲,由是入鹿不能得(あたはず)見。
 蘇我大臣蝦夷聞山背大兄王等總被亡於入鹿,而嗔罵(いかりのり)曰:「()!入鹿極甚愚痴(はなはだおろか),專行橫暴(あしきわざ)()身命(いのち),不亦(あやふい)乎。」時人說前謠(さきのわざうた)(こたへ)曰:「以『岩上に(伊波能杯儞)』,而(たとふ)上宮。以『小猿(古佐屢)』,而喻林臣(はやしのおみ)【林臣,入鹿也。】以『米燒く(渠梅野俱)』,而喻燒上宮。以『米だにも(渠梅多儞母)食げて通らせ(多礙底騰裒囉栖)山羊小父(柯麻之之能嗚膩)。』而喻山背王之頭髮斑雜毛(ふふき)山羊(かましし)。」又曰:「棄捨其宮,匿深山(しるし)也。」
 是歲,百濟太子餘豐(こにせしむよほう),以蜜蜂房(みちはちのす)四枚,放養於三輪山(みわやま)。而終不蕃息(うまはらず)


法隆寺東院下層構造 斑鳩宮跡


欣浄寺 深草少將邸宅跡
深草屯倉,『和名抄』:「山城国紀伊郡深草鄉。」今京都伏見區。


膽駒山
入鹿襲斑鳩宮,三成拒戰,一騎當千。山背大兄王逃匿膽駒山。三輪文屋進取勝之策,而山背大兄慮民傷而不聽。後山背大兄與其族,俱自經於斑鳩寺。


蜜蜂房
扶餘豐璋放飼蜜蜂房之條,乃日本養蜂記載之初出。


藤原鎌足 中臣鎌子
中臣即藤原之先。鎌子亦稱鎌足。


中臣鎌足捧御靴圖


多武峯緣起繪卷 談合之圖
鎌足、中大兄,談合多武山中,議策大化改新,後謂談山。
七、中臣鎌子、中大兄皇子相善

 三年,春正月乙亥朔(),以中臣鎌子連(なかとみのかまこのむらじ)神祇伯(かむつかさのかみ)。再三固辭(いなび)不就,稱(やまひ)退居三嶋(みしま)
 于時,輕皇子患腳(あしのやまひ)不朝,中臣鎌子連曾善於(うるはしくありき)輕皇子,故(まゐり)彼宮而將侍宿(とのゐにはべらむ)。輕皇子深識中臣鎌子連之意氣高逸(こころばへのたかくすぐれ)容止難犯(かたちをかそがたき),乃使寵妃阿倍氏(めぐみたまふみめあへし),淨掃別殿(ことどの),高鋪新蓐(にひしきとね),靡不(つぶさ)給,敬重(ゐやびあがめたまふ)特異。
 中臣鎌子連便(すなはち)所遇(めぐまるる)而語舍人曰:「殊奉恩澤(みうつくしび),過前所望(のぞみ)。誰能不使王天下(あめのした)乎。」【謂(あて)舍人為駈使(つかひ)也。】舍人便以所語(まをす)於皇子,皇子大(よろこびたまふ)
 中臣鎌子連,為人忠正(ただし),有匡濟(ただすすくふ)心。乃憤蘇我臣入鹿失君臣長幼之序(きみやつこらまこのかみおととのついで),挾闚覦(うかがふ)社稷之(はかりこと)歷試(つたひこころみ)接於王宗(きみたち)之中,而求可立功名(いたはり)哲主(さかしききみ)。便附心於中大兄,疏然(さかり)未獲展其幽抱(ふかきおもひ)
 (たまさか)遇中大兄於法興寺(ほふこうじ)槻樹之下打毱之侶(まりくうるのともがら),而候皮鞋(みくつ)隨毱脫落,取置掌中(たなうら)前跪(すすみてひざまづき)恭奉。中大兄對跪(ゐやび)執。自玆相善(あひむつび),俱述所(おもふ),既無所匿。復恐他嫌頻接(しきりにまじはる),而俱手把黃卷(ふみまき),自學周孔(しうこう)之教於南淵先生(みなぶちのせんじやう)所。遂於路上,往還(かよふ)之間,並肩潛圖(ひそかにはかり),無不相協(あひかなはず)
 於是,中臣鎌子連議曰:「謀大事(おほきなること)者,不如有(たすけ)。請納蘇我倉山田麻呂(そがのくらのやまだのまろ)長女為妃,而成婚姻(むこしひと)(むつび)。然後陳說(のべとき),欲與計事。成(いたはり)之路,莫近於玆。」中大兄聞而大悅,(ひばひらかに)從所議。
 中臣鎌子連即自往媒要訖(なかだちむすびをはりぬ)。而長女所期之夜(ちぎりしよ)(ぬす)(やから)【族,謂身狹臣(むさしのおみ)也。】由是倉山田臣憂惶仰臥,不知所為。少女(おとひめ)怪父憂惶(うれへかしこまり),就而問曰:「憂惶何也?」父陳其由。少女曰:「願勿為憂。以我奉進(たてまつり),亦復不晚。」父便大悅,(つひに)進其女。奉以赤心(きよきこころ),更無所忌(いむところ)。中臣鎌子連舉佐伯連子麻呂(さへきのむらじこまろ)葛城稚犬養連網田(かづらきのわかいぬかひのむらじあみた),於中大兄曰:「云云(しかしか)。」

八、預兆與謠歌

 三月鵂鶹(いひどよ)產子於豐浦大臣大津宅倉(おほつのいへのくら)【鵂鶹,茅鴟(ぼうし)也。】
 倭國(やまとのくに)言:「頃者菟田郡(うだのこほり)押坂直(おしさかのあたひ)【闕名。】(ゐて)一童子欣遊(うれしぶ)雪上。登菟田山(うだのやま),便見紫菌(むらさきのたけ)挺雪而生。高六寸餘,滿四町許。乃使童子(わらは)採取,還示鄰家。總言:『不知。』且疑毒物(あしきもの)。於是押坂直與童子煮而食之。大有氣味(かぐはしきあぢはひ)。明日往見,都不在焉。押坂直與童子由喫菌羹(たけのあつもの),無病而(いのちながし)。」或人云:「蓋(くにひと)不知芝草(しさう),而(みだりに)言菌乎。」
 夏六月癸卯朔()大伴馬飼連(おほとものうまかひのむらじ)百合華(ゆりのはな)。其(くき)長八尺,其本異而末連(すゑあへり)
 乙巳()志紀上郡(しきのかみのこほり)言:「有人於三輪山見猿晝睡(ひるねぶる),竊執其臂,不害其身。猿猶合眼(ねぶり)歌曰:

  其人驚怪猿歌,放捨而去。此是經歷數年(あまたのとし),上宮王等為蘇我鞍作,圍於膽駒山之(きざし)也。」
 戊申(),於劍池(つるぎのいけ)蓮中,有一莖二(はなぶさ)者。豐浦大臣(とゆらのおほおみ)妄推曰:「是蘇我臣將來(ゆくさき)(みづ)也。」即以金墨(くがねのすみ)書,而獻大法興寺丈六佛(じやうろくのほとけ)
 是月國內(くぬち)巫覡等折取枝葉,懸掛(かけしで)木綿,伺大臣渡橋之時,爭陳神語入微之說。其(かむなぎ)甚多,不可具聽。老人(おきな)等曰:「移風(ときかはらむ)之兆也。」
 于時,有謠歌(わざうた)三首。其一曰:

 (その)二曰:

 (その)三曰:


鵂鶹。或作休留、𪁪、鵋。

藤原鎌足與中大兄皇子
鎌子所以先依輕【孝德】,而後付中大兄【天智】者,藤原『家傳』云:「然皇子器量,不足與謀大事。更欲擇君。歷見王宗,唯中大兄,雄略英徹,可與撥亂。」


芝草 紫芝

眠猿謠歌:「向峰山巔上 所立貴人夫等矣 唯彼柔手者 得取我手執我臂 然誰裂手歟 竟以彼裂糙手者 欲執我手取我臂


元興寺 飛鳥大佛
法興寺丈六佛,後置於元興寺。

時人謠歌其一:「遙遙渺遠處 議言之聲幽可聞 島之藪原茂林間
其二:「迢迢遠方之 淺野所居雉飛鳴 吾雖不發響 寢眠不欲他人知 然他人鳴告眾悉
其三:「野外小林中 誘吾引入彼林間 犯我姧人者 吾懵懵不識其面 吾惘惘不知其家


前賢故實 秦河勝

時人褒秦河勝歌:「太秦造河勝 縱聞此為神中神 偉哉河勝矣 惡民所惑於佞詐 太秦打懲常世神
九、秦河勝打懲常世神

 秋七月,東國不盡河(ふじのかは)邊人大生部多(おほぶべのおほ),勸祭(むし)村里(むらさと)之人曰:「此者常世神(とこよのかみ)也。祭此神者,致(とみ)(いのち)。」巫覡等遂(あざむき)託於神語曰:「祭常世神者,貧人(まづしきひと)致富,老人(おいたるひと)還少。」由是加勸(ますますすすめ)捨民家財寶(たから)(つらね)酒陳菜、六畜(むくさのけもの)路側(みちのほとり),而使呼曰:「新富入來(にひしきとみきたれり)。」
 都(ひな)之人,取常世蟲(とこよのむし),置於清座(しきゐ),歌儛求(さきはひ),棄捨珍財(たから)。都無所益,損費(おとりつひゆる)極甚。於是,葛野(かづの)秦造河勝(はだのみやつこかはかつ)(にくみ)民所惑,打大生部多。其巫覡等恐(やむ)勸祭。時人(ときのひと)便作歌曰:

 此蟲者,常生於橘樹(たちばなのき),或生於曼椒(ほそき)【曼椒,此云ほそき(褒曾紀)。】其長四寸餘,其大如頭指(おほよび)許,其色綠而有黑點(くろまだら),其(かたち)全似養蠶(かひご)

十、蘇我氏盛極轉衰之兆

 冬十一月,蘇我大臣蝦夷、兒入鹿臣,雙起(ならべたつ)家於甘檮岡(うまかしのをか)。稱大臣家曰上宮門(うへのみかど),入鹿家曰谷宮門(はさまのみかど)【谷,此云はさま(波佐麻)。】稱男女曰王子(みこ)。家外作城柵(きかき),門傍作兵庫(つはものぐら)。每門置盛水舟一,木鉤(きかぎ)數十,以備火災(ひのわざはひ),恒使力人(ちからひと)(つはもの)守家。
 大臣使長直(ながのあたひ)大丹穗山(おほにほのやま),造鉾削寺(ほこげてら)。更起家於畝傍山(うねびのやま)東,穿(うかち)池為城,起(つはものぐら)儲箭。恒將五十兵士(いくさびと)(めぐらし)身出入。名健人(ちからひと),曰東方儐從者(あづまのしとりべ)氏氏人等(うぢうぢのひとども)入侍其門,名曰祖子儒者(おやのこわらは)漢直(あやのあたひ)等全侍二(かど)
 四年,春正月,或於阜嶺(をかのたけ),或於河邊(かはへ),或於宮寺(みやてら)之間,遙見有物,而聽猿吟(さるのさまよふおと)。或一十(ばかり),或二十許。就而視之,物便不見,尚聞鳴嘯之響(うそむくおと),不能獲睹(えみ)其身。時人曰:「此是伊勢大神(いせのおほかみ)之使也。」

 夏四月戊戌朔(),高麗學問僧(ものならふほふし)等言:「同學(ともにならふひと)鞍作得志(くらつくりのとくし),以虎為友,學取其(ばけ)。或使枯山(からやま)變為青山(あをやま),或使黃地(きなるつち)變為白水(しろきみづ)。種種奇術,不可殫究(きはめつくすべからず)。又虎授其(はり)曰:『慎矣慎矣(ゆめゆめ),勿令人知。以此治之,病無不愈(いえず)。』果如所言,治無不差(いえず)。得志恒以其針隱置柱中。於後虎折其柱,取針走去(にげさる)。高麗國知得志欲歸之意,與(あしきもの)殺之。」


甘檮岡東麓遺跡
傳蘇我宅跡。出土燒痕建材、土器


大仁保神社 傳鉾削寺跡


孝德帝 難波長柄豊崎宮跡


飛鳥板蓋宮復原圖


多武峯緣起 倉山田麻呂讀表


多武峯緣起 乙巳之變
鎌足恨入鹿專橫,謀戮之。使倉山田麻呂唱表,令子麻呂、網田執劍。而子麻呂懼入鹿威,倉山田麻呂亦惶。中大兄皇子大叱咄嗟,躬斬入鹿頭肩。子麻呂傷入鹿腳。


多武峯緣起 賜鞍作臣屍於蝦夷


蘇我入鹿首塚
大化改新之肇,中臣鎌足等斬蘇我入鹿於飛鳥板蓋宮。傳斬首之際,入鹿生首飛躍,終落此地。
十一、蘇我氏滅亡

 六月丁酉朔甲辰(),中大兄密謂倉山田麻呂臣曰:「三韓(みつのから)進調之日,必將使(いまし)讀唱其(ふみ)。」遂陳欲斬入鹿之(はかりこと)。麻呂臣奉許焉。
 戊申(十二),天皇御大極殿(おほあんどの)。古人大兄侍焉。中臣鎌子連知蘇我入鹿臣為人(ひととなり)多疑,晝夜持(たち),而教俳優(わざをき)方便(たばかり)令解。入鹿臣咲而解劍,入侍于(しきゐ)。倉山田麻呂臣進而讀唱(よみあぐ)三韓表文。
 於是,中大兄戒衛門府(ゆけひのつかさ),一時俱(さしかため)十二通門(よものみかど),勿使往來。召聚衛門府於一所,將給祿(ものさづけ)
 時中大兄即自執長槍(ながきほこ),隱於殿側。中臣鎌子連等持弓矢而為助衛(ゐまもる)。使海犬養連勝麻呂(あまのいぬかひのむらじかつまろ)授箱中兩劍於佐伯連子麻呂與葛城稚犬養連網田曰:「努力努力(ゆめゆめ)急須(あからさまに)應斬!」子麻呂等以水送飯(いひすき),恐而反吐(たまひつ)。中臣鎌子連嘖而使勵(せめてはげましむ)
 倉山田麻呂臣恐唱表文(ふみ)將盡,而子麻呂等不來,流汗(うるほひ)身,亂聲(わななく)手。鞍作臣怪而問曰:「何故掉戰(ふるいわななく)?」山田麻呂對曰:「恐近天皇,不覺(おろかに)流汗。」
 中大兄見子麻呂等畏入鹿威,便旋(めぐらひ)不進曰:「咄嗟(やあ)!」即共子麻呂等,出其不意(ゆくりもなき),以劍傷割(やぶりさく)入鹿頭肩(あたまかた)。入鹿驚起。子麻呂運手揮劍,傷其一腳。入鹿轉就御座(おほみもと)叩頭(のみ)曰:「當居嗣位(ひつぎのみくらゐ)天之子(あめのみこ)也。臣不知罪(やつこつみをしらず)乞垂審察(こふあきらめたまへ)!」天皇大驚,詔中大兄曰:「不知所作(するところ)。有何事耶?」中大兄伏地奏曰:「鞍作,盡滅天宗(きみたち),將傾日位(ひつぎのみくらゐ)。豈以天孫(あめのみま)代鞍作乎!【蘇我臣入鹿,更名鞍作。】」天皇即起入於殿中(とののうち)。佐伯連子麻呂、稚犬養連網田,斬入鹿臣。
 是日,雨下,潦水(いさらみづ)溢庭。以(むしろ)障子(しとみ),覆鞍作(かばね)
 古人大兄見,走入私宮(わたくしのみや),謂於人曰:「韓人(からひと)殺鞍作臣,【謂因韓政(からひとのまつりごと)(つみせらるる)。】吾心痛矣!」即入臥內(ねやのうち)(さし)門不出。
 中大兄即入法興寺,為城而備。凡諸皇子(もろもろのみこたち)諸王(おほきみたち)諸卿大夫(まへつきみたち)、臣、連、伴造、國造(くにのみやつこ),悉皆隨侍。使人賜鞍作臣屍於大臣蝦夷。於是,漢直等總聚眷屬(やから),擐(よろひ)持兵,將助大臣設軍陣(いくさ)
 中大兄使將軍巨勢德陀臣(こせのとこだのおみ),以「天地開闢(ひらけ)、君臣始有。」說於賊黨(あたのたむら),令知所起。於是,高向臣國押謂漢直等曰:「吾等由君大郎(きみたいらう)應當被戮(ころされぬべし)。大臣亦於今日明日(けふあす),立(またむ)其誅決矣(うつなし)。然則為誰空戰(むなしくたたかひ)?盡被刑乎!」言畢解劍投弓,捨此而去。賊徒(あたのともがら)亦隨散走(ちりにぐ)
 己酉(十三),蘇我臣蝦夷等臨(つみせらるる),悉燒天皇記(すめらみことのみふみ)國記(くにつふみ)珍寶(たからもの)船使惠尺(ふねのふびとゑさか)(すみやけく)取所燒國記而(たてまつる)中大兄。
 是日,蘇我臣蝦夷及鞍作屍,許葬於墓,復許哭泣(ねつかひ)
 於是,或人(とき)第一謠歌曰:「其歌所謂(いはゆる):『遙遙に(波魯波魯儞)言そ聞ゆる(渠騰曾枳舉喻屢)島の藪原(之麻能野父播羅)。』此即宮殿(みや)接起於嶋大臣(しまのおほおみ)家,而中大兄與中臣鎌子連(しのび)大義(おほきなることわり)謀戮(ころさむ)入鹿之兆也。」說第二謠歌曰:「其歌所謂:『遠方の(烏智可拕能)淺野の雉(阿娑努能枳枳始)響さず(騰余謀佐儒)我は寢しかど(倭例播禰始柯騰)人そ響す(比騰曾騰余謀須)。』此即上宮王等性順(ひととなりゆるく)(かつて)無有罪,而為入鹿見害(ころされたり)。雖不自報(みづからむくいず),天使人誅之兆也。」說第三謠歌曰:「其歌所謂:『小林に(烏麼野始儞)我を引入れて(倭例烏比岐以例底)姧し人の(制始比騰能)面も知らず(於謀提母始羅孺)家も知らずも(伊弊母始羅孺母)。』也。此即入鹿臣忽於宮中(みやのうち)為佐伯連子麻呂、稚犬養連網田所斬(きらるる)之兆也。」
 庚戊(十四)(ゆづり)位於輕皇子,立中大兄為皇太子(ひつぎのみこ)

日本書紀卷廿四 終

【久遠の絆】【卷廿三】【卷廿五】【再臨詔】