日本書紀 卷廿三 舒明紀


息長足日廣額天皇(おきながたらしひひろぬかのすめらみこと) 舒明天皇(じよめいてんわう)

一、推演先帝遺言,朝廷不和

 息長足日廣額天皇(おきながたらしひひろぬかのすめらみこと)渟中倉太珠敷(ぬなくらのふとたましき)天皇孫,彥人大兄皇子(ひこひとのおほえのみこ)之子也。母曰糠手姬皇女(ぬかでひめのみこ)
 豐御食炊屋姬(とよみけかしきやひめ)天皇二十九年,皇太子豐聰耳尊(とよとみみのみこと)薨,而未立皇太子(ひつぎのみこ)
 以三十六年,三月,天皇(かむあがり)
 九月葬禮(みはぶりのゐや)畢之。嗣位(ひつぎのくらゐ)未定。
 當是時,蘇我蝦夷臣(そがのえみしのおみ)大臣(おほおみ),獨欲定嗣位,顧畏群臣(まへつきみたち)不從,則與阿倍麻呂臣(あへのまろのおみ)議,而聚群臣,(あへす)於大臣家。食訖將散,大臣令阿倍臣(あへのおみ),語群臣曰:「今天皇既崩無嗣(みつぎなし)。若(すみやけく)不計,畏有(みだれ)乎。今以詎王(いづれのみこ)為嗣。天皇臥病(みやまひ)之日,詔田村皇子(たむらのみこ)曰:『天下大任(おほきなるよさし),本非輙言(たやすくいふもの)。爾田村皇子,慎以察之(あきらかにせよ)不可緩(おこたるべからず)。』次詔山背大兄王(やましろのおほえのみこ)曰:『汝獨莫諠讙(ひとりなとよきそ)。必從群言,慎以勿(たがふ)。』則是天皇遺言(のちのおほみこと)焉。今,誰為天皇?」
 時群臣嘿之(もだし)無答。亦問之。非答。強且問之。於是,大伴鯨連(おほとものくぢらのむらじ)進曰:「既從天皇遺命耳,更不可待群言。」阿倍臣則問曰:「何謂也?開其(こころ)。」對曰:「天皇(いかに)思歟,詔田村皇子,曰:『天下(あめのした)大任也,不可緩。』因此而言,皇位(きみのみくらゐ)既定。誰人異言(ことなることをさむ)?」時采女臣摩禮志(うねめのおみまれし)高向臣宇摩(たかむくのおみうま)中臣連彌氣(なかとみのむらじみけ)難波吉士身刺(なにはのきしむざし),四臣曰:「隨大伴連言,更無異。」許勢臣大摩呂(こせのおみおほまろ)佐伯連東人(さへきのむらじあづまひと)紀臣鹽手(きのおみしほて),三人進曰:「山背大兄王,是宜為天皇。」唯蘇我倉摩呂臣(そがのくらまろのおみ)【更名雄當(をまさ)。】獨曰:「臣也當時(ただいま)不得便言(たやすくまをす)。更思之後(まをさむ)。」爰大臣知群臣不和(あまなはず),而不能成事,退之(まかりぬ)
 先是,大臣獨問境部摩理勢臣(さかひべのまりせのおみ)曰:「今天皇崩,無嗣。誰為天皇?」對曰:「(あげ)山背大兄為天皇。」


天皇、蘇我家系譜
按山背大兄、田村皇子,各為聖德太子、押坂彥人大兄皇子之子,并有角逐天位之格。亦知蘇我氏深入皇室權力中心之態。


法隆寺聖靈院 山背大兄王像


夢殿 聖德太子斑鳩宮跡
山背大兄皇子者,即聖德太子之子。故繼其父領,居斑鳩宮。


推古帝小墾田宮禁內構造圖
禁省者,天皇居所,即小墾田宮。


向原寺 豐浦寺趾碑


豐浦寺講堂遺構
今向原寺境內東側,可見金堂、講堂、塔、回廊與尼房基壇。


欽明天皇 磯城嶋金刺宮址
磯城嶋宮御宇天皇者,欽明帝也。
二、山背大兄王令問蝦夷大臣

 是時,山背大兄居於斑鳩宮(いかるがのみや),漏聆是議,即遣三國王(みくにのおほきみ)櫻井臣和慈古(さくらゐのおみわじこ)二人,密謂大臣曰:「傳聞之,叔父(をぢのおきな)以田村皇子欲為天皇。我聞此言,立思矣,居思矣,未得其(ことわり)。願分明(あきらけく)欲知叔父之意。」
 於是,大臣得山背大兄之告,而不能獨對。則喚阿倍臣、中臣連、紀臣、河邊臣(かはへのおみ)、高向臣、采女臣、大伴連、許勢臣等,仍(つばひらかに)舉山背大兄之語。
 既而便且(また),謂大夫(まへつきみ)等曰:「汝大夫等共詣於斑鳩宮,當啟山背大兄王曰:『賤臣(やつこらま)何之獨(たやすく)定嗣位?唯舉天皇之遺詔(のちのみことのり),以告于群臣。群臣並言:『如遺言,田村皇子自當嗣位。更(たれ)異言。』是群卿言也,特非臣心。但雖有臣私意,而惶之不得傳啟(つたへまをす),乃面日(まみえむひ)親啟焉。』」
 爰群大夫等(まへつきみたち),受大臣之言,共詣于斑鳩宮,使三國王、櫻井臣,以大臣之辭啟於山背大兄。時大兄王使傳問群大夫等曰:「天皇遺詔奈之何(いかにぞ)?」對曰:「臣等不知其深。唯得大臣語狀(かたらふかたち)稱:『天皇臥病之日,詔田村皇子曰:「非輕輙(かろかろしくたやすく)(ゆくさき)國政。是以(いまし)田村皇子慎以(つつしみ)言之,不可緩。」次(みことのり)大兄王曰:「汝肝稚(きもわかし),而勿諠言(とよきいふこと),必宜從(したがふべし)群臣言。」是乃近侍(つかへまつ)女王(ひめおほきみ)采女(うねめ)等悉知之,且大王所(あきらか)。』」
 於是,大兄王且令問之曰:「是遺詔也,(もはら)誰人聆焉(ききし)?」答曰:「臣等不知其(ひそかにあること)。」
 既而更亦,令告群大夫等曰:「愛之(うつくしき)叔父勞思(いたはしくおもひ),非一介之使(ひとりのつかひ),遣重臣(いかしきまへつきみ)等而教覺(をしへさとす)。是大(みめぐみ)也。然今群卿所(いふ)天皇遺命者,小小(すこし)違我之所聆。吾聞天皇臥病,而馳上之(はせのぼり),侍于門下(みかどのもと)。時中臣連彌氣,自禁省(みやのうち)出之曰:『天皇(おほみこと)喚之(めす)。』則參進(まゐすすみ)向于閤門(うちつみかど)。亦栗隈采女黑女(くるくまのうねめくろめ),迎於庭中(おほば),引入大殿(おほとの)。於是,近習(ちかくつかへまつる)栗下女王(くるもとのおほきみ)(このかみ)女孺鮪女(めのわらはしびめ)等八人并數十人,侍於天皇之(みもと),且田村皇子在焉。時天皇沈病(みやまひおもり),不能(みそなはす)我。乃栗下女王奏曰:『所喚山背大兄王參赴(まゐけり)。』即天皇起臨(おき)之詔曰:『朕以寡薄(いやしきみ),久勞大業(あまつひつぎ)。今曆運將終(よつきなむ),以病不可諱(いむべからず)。故汝本為朕之心腹(こころ)愛寵之情(めぐみあがむるこころ),不可為比(くらぶ)。其國家大基(くにのおほきなるもと),是非朕世,自本務之(つとめなり)。汝雖肝稚,慎以言。』乃當時侍之近習者,悉知焉。故我蒙是大恩(おほきなるめぐみ),而一則以懼,一即以悲,踊躍歡喜(ほどはしりうれしき),不知所如(せむすべ)。仍以為(おもへらく):『社稷宗廟(くにいへ)重事(おもきわざ)也。我眇少以不賢(わかくしてをさなし),何敢當焉。』當事時,思欲(おもへり)語叔父及群卿等,然未有可噵(いふべき)之時,於今非言耳。我曾將(とぶらはむ)叔父之病,向(みやこ)而居豐浦寺(とゆらでら)。是日,天皇遣八口采女鮪女(やくちのうねめしびめ),詔之曰:『汝叔父大臣常為汝(うれへ)言,百歲之後(ももとせののち),嗣位非當汝乎?故慎以自愛(つとめ)矣。』既分明有是事,何疑也?然我豈(むさぼらむ)天下,唯顯聆事(のみ),則天神地祇(あまつかみくにつかみ)(ことわり)之。是以冀正欲知天皇之遺敕(のちのみことのり),亦大臣所遣群卿者,從來(もとより)嚴茅取中(いかしほこのなかとりもてる)事,【嚴茅,此云いかしほこ(伊箇之倍虛)。】奏請人(ものまをすひと)等也。故(よく)宜白叔父。」
 既而,泊瀨仲王(はつせのなかのみこ)別喚中臣連、河邊臣,謂之曰:「我等父子(ちちこ),並自蘇我(そが)出之,天下所知,是以如高山恃之(たのめり)。願嗣位勿輙言。」則令三國王、櫻井臣,副群卿而遣之曰:「欲聞還言(かへりこと)。」時大臣,遣紀臣、大伴連,謂三國王、櫻井臣曰:「先日言訖,更無異矣。然(やつかれ)敢之(かろみし)誰王也,(おもみせむ)誰王也?」
 於是數日之後(ひをへてのち),山背大兄亦遣櫻井臣,告大臣曰:「先日(さきのひ)之事,(のべつらく)聞耳。(いづくに)違叔父哉?」
 是日,大臣病動(やまひおこり),以不能(まのあたり)言於櫻井臣。
 明日,大臣喚櫻井臣,即遣阿倍臣、中臣連、河邊臣、小墾田臣(をはりだのおみ)、大伴連,啟山背大兄言:「自 磯城嶋宮御宇天皇之世(しきしまのみやにあめのしたしらししすめらみことのみよ)近世(ちかつよ)者,群卿皆賢哲(さかし)也。唯今臣不賢,而(たまさかに)乏人時(ひとともしきとき),誤居群臣上耳。是以不得定(もとゐ)。然是事重也,不能傳噵(つたへまをす)。故老臣(おきな)(いたはし),面啟之。其唯不誤遺敕者也,非臣私意(わたくしのこころ)。」

三、擁山背大兄派境部摩理勢之終末

 既而大臣(つたへ)阿倍臣、中臣連,更問境部臣曰:「誰王(いづれのみこ)為天皇?」對曰:「先是大臣親問之日(みづからとへるひ),僕啟既訖之(をはりぬ)。今何更亦傳以告耶?」乃大忿而起行之。
 適是時,蘇我氏諸族(そがのうぢのやからども)等悉(つどひ),為嶋大臣(しまのおほおみ)造墓,而(やどれり)于墓所。爰摩理勢臣壞墓所之廬(はかどころのいほ),退蘇我田家(なりどころ)不仕(つかへず)。時大臣慍之(いかり),遣身狹君勝牛(むさのきみかつし)錦織首赤豬(にしこりのおびとあかゐ),而(をしへ)曰:「吾知汝言之(よからぬ),以干支之義(えおとのことわり),不得害。唯他非汝是,我必(さかひ)他從汝。若他是(なむぢ)非,我當(そむき)汝從他。是以汝遂有不從者,我與汝有(ひま),則國亦亂。然乃後生(のちのよのひと)言之,吾二人破國也。是後葉之惡名(のちのよのあしきな)也。汝慎以勿起逆心(さかふるこころ)。」然猶不從,而遂赴于斑鳩,住於泊瀨王(はつせのみこ)宮。
 於是大臣益怒,乃遣群卿(まへつきみたち),請于山背大兄曰:「頃者(このころ),摩理勢違臣匿於泊瀨王宮。願得摩理勢,欲推其所由(よし)。」爰大兄王答曰:「摩理勢素聖皇(聖德太子)所好,而暫來耳。豈違叔父之情耶?願勿(とがめ)。」則謂摩理勢曰:「汝不忘先王(さきのみかど)之恩而來,甚愛矣(はなはだめぐし)。然其因汝一人(ひとり),而天下應亂。亦先王臨沒(うせたまはむとせ),謂諸子等曰:『諸惡莫作,諸善奉行(おこなへ)。』余承斯言(このみこと),以為永戒(ながきいましめ)。是以雖有私情,忍以無怨。復我不能違叔父。願自今以後,勿(はばかる)改意,從群而無退。」
 是時,大夫等且誨摩理勢臣之曰:「不可違大兄王之命。」於是摩理勢臣進無所歸(よらむところ)。乃泣哭更還之居於家十餘日,泊瀨王忽發病(やまひおこり)薨。
 爰摩理勢臣曰:「我生之誰恃矣?」大臣將殺境部臣,而興(いくさ)遣之。境部臣聞(いくさ)至,率仲子阿椰(なかちのあや),出于門,坐胡床(あぐら)而待。時軍至,乃令來目物部伊區比(くめのもののべのいくひ)絞之(くびらしめ),父子共死。乃埋同處。唯兄子毛津(えのけつ),逃匿于尼寺瓦舍(あまでらのかはらや),即(をかしつ)一二尼。於是,一尼嫉妒(ねたみ)令顯。圍寺將捕。乃出之入畝傍山(うねびやま)。因以探山,毛津(にげ)無所入,刺(くび)而死山中。時人(ときのひと)歌曰:


石舞台古墳 傳蘇我馬子墓


石舞台古墳入口


聖德太子子嗣
泊瀨王者泊瀨仲王是也。聖德太子之子而山背大兄王異母弟矣。


畝傍山

時人嘆毛津歌:「奈良畝傍山 山上斑駁木疏稀 疏木豈可侍 毛津若子賴彼處 籠於其間無所入


復原遣唐使船


掖玖 屋久島


舒明天皇 飛鳥岡本宮跡
岡本宮跡,有雷丘附近、奧山東岡西麓、板蓋宮下層遺構等說。又以板蓋宮下層遺構說最為有力。


有間溫湯 有馬溫泉


遣唐使船航路圖
四、舒明帝即位與政治、外交

 元年,春正月癸卯朔丙午(),大臣及群卿,共以天皇之璽印(みしるし),獻於田村皇子。則辭之(いなび)曰:「宗廟(くにいへ),重事矣。寡人不賢,何敢當乎?」群臣伏固請(かたくまをし)曰:「大王(きみ)先朝(さきのみかど)鍾愛,幽顯(かみもひとも)屬心。宜纂皇綜(きみのみつぎをつぎ)光臨(てらしのぞむ)億兆(おほみたから)。」
 即日即天皇位(あまつひつぎしらしめす)
 夏四月辛未朔(),遣田部連(たべのむらじ)【闕名。】於掖玖。是年也,太歲己丑
 二年,春正月丁卯朔戊寅(十二),立寶皇女(たからのひめみこ)皇后(きさき)。后生二男一女。
  一曰,葛城皇子(かづらきのみこ)近江大津宮御宇(あふみのおほつのみやにしてあめのしたしらしめしし)天皇。】
  二曰,間人皇女(はしひとのひめみこ)
  三曰,大海皇子(おほしあまのみこ)淨御原宮(きよみはらのみや)御宇天皇。】
 夫人,蘇我嶋大臣(そがのしまのおほおみ)法提郎媛(ほてのいらつめ)
  生,古人皇子(ふるひとのみこ)【更名,大兄皇子(おほえのみこ)。】
 又娶,吉備國蚊屋采女(きびのくにのかやのうねめ)
  生,蚊屋皇子(かやのみこ)
 三月丙寅朔(),高麗大使宴子拔(おほつかひあむしはい)小使若德(そひつかひにやくとく),百濟大使恩率素子(おんそちすし)、小使德率武德(とくそちむとく),共朝貢(みつきたてまつる)
 秋八月癸巳朔丁酉(),以大仁犬上君三田耜(だいにんいぬかみのきみみたすき)、大仁藥師惠日(くすしゑにち),遣於大唐(もろこし)
 庚子(),饗高麗(こま)百濟(くだら)客於()朝。
 九月癸亥朔丙寅(),高麗、百濟(まらひと)歸于國。
 是月,田部連等至自掖玖(やく)
 冬十月壬辰朔癸卯(十二),天皇遷於飛鳥岡傍(あすかのをかのほとり)。是謂岡本宮(をかもとのみや)
 是歲(あらため)修理難波大郡(なにはのおほこほり)三韓館(みつのからひとのむろつみ)
 三年,春二月辛卯朔庚子(),掖玖人歸化(まゐおもぶけり)
 三月庚申朔(),百濟(こにきし)義慈(ぎじ),入王子豐章(せしむほうしやう)(むかはり)
 秋九月丁巳朔乙亥(十九),幸于津國有間溫湯(つのくにのありまのゆ)
 冬十二月丙戌朔戊戌(十三),天皇至自溫湯()
 四年,秋八月,大唐遣高表仁(かうへうじん),送三田耜。共泊于對馬(つしま)。是時,學問僧靈雲(ものならふほふしりやううん)僧旻(そうみん)勝鳥養(すぐりのとりかひ)新羅送使(しらきのおくるつかひ)等,從之。
 冬十月辛亥朔甲寅(),唐國使人高表仁等,泊于難波津(なにはのつ)。則遣大伴連馬養(おほとものむらじうまかひ),迎於江口(えぐち)。船三十二艘及(つづみ)(ふえ)旗幟(はた),皆具整飾(よそひ)。便告高表仁等曰:「聞天子(もろこしのみかど)所命之使,到于天皇朝。迎之。」時高表仁對曰:「風寒之日(かぜさむきひ),飾整船艘(ふね)以賜迎之,歡愧也(よろこびかしこまる)。」於是令難波吉士小槻(なにはのきしをつき)大河內直矢伏(おほしかふちのあたひやふし)導者(みちびき),到館前也。乃遣伊岐史乙等(いきのふびとおと)難波吉士八牛(ななはのきしやつし),引客等入於館。
 即日,給神酒(みわ)
 五年,春正月己卯朔甲辰(廿六),大唐客高表仁等歸國。送使吉士雄摩呂(きしのをまろ)黑麻呂(くろまろ)等,到對馬而還之。

五、天地異變紛起

 六年,秋八月長星(ながきほし)見南方。時人曰篲星(ははきほし)
 七年,春三月,篲星迴見于(ひむがしのかた)
 夏六月乙丑朔甲戌(),百濟遣達率柔(だちそちぬ)等,朝貢。
 秋七月乙未朔辛丑(),饗百濟客於(みかど)
 是月瑞蓮(あやしきはちす)生於劍池(つるぎのいけ)一莖(ひとつのくき)二花。
 八年,春正月壬辰朔()日蝕(ひはゆ)
 三月,悉(かむがへ)姧采女者,皆罪之(つみす)。是時,三輪君小鷦鷯(みわのきみをさざき),苦其推鞫(かむがふること),刺頸而死。
 夏五月,霖雨大水(おほみづ)
 六月(ひつけり)岡本宮。天皇遷居田中宮(たなかのみや)
 秋七月己丑朔()大派王(おほまたのおほきみ)豐浦大臣(とゆらのおほおみ)曰:「群卿及百寮(ももつかさ)朝參(みかどまゐり)(おこたれり)。自今以後,(うのとき)朝之(まゐり)(みのとき)退之(まかでむ)。因以(かね)(さだめ)。」然大臣不從。
 是歲大旱(おほきひでりし),天下飢之(うう)
 九年,春二月丙辰朔戊寅(廿三)大星(おおきなるほし)從東(ながる)西,便有(おと)(いかづち)。時人曰:「流星(よばひほし)之音。」亦曰:「地雷(つちいかづち)。」於是僧旻僧(そうみんほふし)曰:「非流星,是天狗(あまつきつね)也。其吠聲(ほゆるこゑ)似雷耳。」
 三月乙酉朔丙戌(),日蝕之。
 是歲蝦夷(えみし)叛以不朝(まゐこず)。即拜大仁上毛野君形名(かみつけののきみかたな),為將軍(いくさのきみ),令討。還為蝦夷見敗(うたれ),而走入(そこ),遂為(あた)所圍。軍眾(いくさのびと)(うせ)空之(むなし),將軍(まとひ),不知所如。
 日暮(ひくれ)(こえ)垣欲逃。爰方名君(かたなのきみ)妻歎曰:「慷哉(うれたきかも),為蝦夷將見殺。」則謂夫曰:「汝祖等渡蒼海(あをうなばら),跨萬里(とほきみち),平水表政(をちかたのまつりごと),以威武(かしこくたけき)傳於後葉。今汝頓屈先祖(おや)之名,必為後世見嗤(わらはれ)。」乃(くみ)酒,強之令飲夫,而親(はき)夫之劍,張十弓(とをのゆみ),令女人(めのこ)數十,俾鳴弦。既而夫更起之,取(つはもの)而進之。蝦夷以為:「軍眾猶多。」而稍引退之(ひきしりぞく)。於是散卒(あらけたるいくさども)更聚,亦振旅焉(いくさととのふ)。擊蝦夷大敗,以悉(とりこ)
 十年,秋七月丁未朔乙丑(十九),大風之,折木(こほつ)屋。
 九月霖雨(ながめ),桃李(はなさけり)
 冬十月,幸有間溫湯宮(ありまのゆのみや)
 是歲,百濟、新羅、任那(みまな),並朝貢。
 十一年,春正月乙巳朔壬子()車駕(すめらみこと)還自溫湯。
 乙卯(十一)新嘗(にひなへきこしめす)(けだし)因幸有間,以闕新嘗歟。
 丙辰(十二),無雲而雷。
 丙寅(廿二),大風而雨。
 己巳(廿五),長星見西北。時旻師(みんし)曰:「彗星(ははきほし)也。見則飢之。」
 秋七月,詔曰:「今年,造作大宮(おほみや)大寺(おほでら)。則以百濟川(くだらがは)側為宮處(みやどころ)。」是以西民造宮,(ひむがし)民作寺。便以書直縣(ふみのあたひあがた)大匠(おほたくみ)
 秋九月,大唐學問僧惠隱(ゑおん)惠雲(ゑうん),從新羅送使入京。
 冬十一月庚子朔(),饗新羅客於朝。因給冠位(かうぶり)一級。
 十二月己巳朔壬午(十四),幸于伊豫溫湯宮(いよのゆのみや)
 是月,於百濟川側建九重塔(ここのこしのたふ)
 十二年,春二月戊辰朔甲戌(),星入月。
 夏四月丁卯朔壬午(十六),天皇至自伊豫(いよ),便居廄坂宮(うまやさかのみや)
 五月丁酉朔辛丑(),大設齋(をがみす)。因以請惠隱僧,令說無量壽經(むりやうじゆきやう)
 冬十月乙丑朔乙亥(十一),大唐學問僧清安(しゃうあん)學生高向漢人玄理(ふむやわらはたかむくのあやひとげんり)(つたはり)新羅而至之。仍百濟、新羅朝貢之使共從來之(したがひてまゐけり)。則各賜(かがふり)(しな)
 是月,徙於百濟宮(くだらのみや)
 十三年,冬十月己丑朔丁酉(),天皇崩于百濟宮。
 丙午(十八)(もがりす)於宮北。是謂百濟大殯(くだらのおほもがり)。是時東宮開別皇子(まうけのきみひらかすわけのみこ),年十六而誄之(しのひことす)

日本書紀卷廿三 終


篲星


劍池


高松塚古墳壁畫 婦人像
采女者,近侍天皇、皇后陛下之女官。『百寮訓要抄』:「采女者,自諸國臨選美女合宜者,參侍天子之女房也。『古今集』等詠歌亦多矣。」『雄略紀』:「面貌端麗、形容溫雅。」『和漢官職秘抄』:「或得美人之名,或有詩歌之譽。若有能琴瑟之女,其諸國受領奏聞。」或曰神社巫女之原形。


田中宮跡 田中廢寺 法滿寺
法滿寺。或云伊勢部田中神社。


前賢故實 上毛野形名妻


湯泉神社


百濟大寺跡
百濟宮,舊說北葛城郡廣陵町百濟,近世研究頃向百濟大寺郊。

【久遠の絆】【卷廿二】【卷廿四】【再臨詔】