日本書紀 卷廿二 推古紀

豐御食炊屋姬天皇(とよみけかしきやひめのすめらみこと) 推古天皇(すいこてんわう)


推古天皇 飛鳥豐浦宮趾碑
豐浦宮跡即豐浦寺,今向原寺。
一、推古帝登極

 豐御食炊屋姬天皇(とよみけかしきやひめのすめらみこと),天國排開廣庭(あめくにおしはらきひろには)天皇中女(なかつひめみこ)也,橘豐日(たちばなのとよひ)天皇同母妹(いろど)也。
 幼曰額田部皇女(ぬかたべのひめみこ),姿色端麗(みかほきらぎらし),進止軌制(みふるまひをさをさし)。
 年十八歲,立為渟中倉太玉敷(ぬなかくらふとたましき)天皇之皇后(きさき)。
 三十四歲,渟中倉太珠敷(敏達)天皇崩(かむあがり)。
 三十九歲,當于泊瀨部(はつせべ)天皇五年十一月,天皇為大臣蘇我馬子宿禰(おほおみうまこのすくね)見殺。嗣位(みつぎのくらゐ)既空(むなし)。群臣(まへつきみたち)請渟中倉太珠敷(敏達)天皇之皇后額田部皇女,以將令踐祚(あまつひつぎしろさしめまつらむ)。皇后辭讓(いなび)之。百寮(もものつかさ)上表勸進,至于三,乃從之。因以奉天皇之璽印(みしるし)。
 冬十二月壬申朔己卯(八),皇后即天皇位於豐浦宮(とゆらのみや)。
 元年,春正月壬寅朔丙辰(十五),以佛舍利(ほとけしやり),置于法興寺(ほふこうじ)剎柱礎(いしずゑ)。
 丁巳(十六),建剎柱(せつのはしら)。

二、聖德太子攝政,佛法興隆

 夏四月庚午朔己卯(十),立廄戶豐聰耳皇子(うまやとのとよとみみのみこ)為皇太子(ひつぎのみこ)。仍錄攝政(まつりごとふさねつかさどらしめ),以萬機(よろづのまつりごと)悉委焉。
 橘豐日(用明)天皇第二子也,母皇后曰穴穗部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)。皇后懷妊開胎(みこあれまさむ)之日,巡行禁中(みやのうち),監察諸司(つかさつかさ)。至于馬官(うまのつかさ),乃當廄戶(うまやのと),而不勞(なやみたまはず)忽產之。
 生而能言(よくものいひ),有聖智(ひじりのさとり)。及壯(をとこさかり),一聞十人訴(うたへ),以勿失能辨(わきまへたまひ),兼知未然(ゆきさきのこと)。且習內教(ほとけのみのり)於高麗僧慧慈(こまのほふしゑじ),學外典(とつふみ)於博士覺哿(はかせかくか),並悉達矣(さとり)。父天皇(用明)愛之,令居宮南上殿(うへのみや)。故稱其名,謂上宮廄戶豐聰耳太子(うへのみやのうまやとのとよとみみのひつぎのみこと)。
 秋九月,改葬橘豐日(用明)天皇於河內磯長陵(かふちのしながのみさざき)。
 是歲,始造四天王寺於難波荒陵(なにはのあらはか)。是年也,太歲癸丑。
 二年,春二月丙寅朔(一),詔皇太子及大臣,令興隆三寶(さむほう)。是時諸臣連等(もろもろのおみむらじたち),各為君親之恩(きみおやのみめぐみ),競(きほひ)造佛舍(ほとけのおほとの)。即是謂寺(てら)焉。
 三年,夏四月,沉水(ぢむ)漂著於淡路嶋(あはぢのしま)。嶋人不知沉水,以交薪(たきぎ)燒於竈(かまど)。其烟氣(けぶり)遠薰,則異以獻之。
 五月戊午朔丁卯(十),高麗僧慧慈歸化(まゐおもぶく)。則皇太子師之。
 是歲,百濟(くだら)僧慧聰(ゑそう)來之。此兩僧弘演佛教(ほとけのみのり),並為三寶之棟梁(むねうつはり)。
 秋七月,將軍(いくさのきみ)等至自筑紫(つくし)。
 四年,冬十一月,法興寺造竟。則以大臣男善德臣(ぜんとこのおみ)拜寺司(てらのつかさ)。
 是日,慧慈、慧聰二僧,始住(はべり)於法興寺。
 五年,夏四月丁丑朔(一),百濟王(こにきし)遣王子阿佐(せしむあさ)朝貢。
 冬十一月癸酉朔甲午(廿二),遣吉士磐金(きしいはかね)於新羅(しらき)。
 六年,夏四月,難波吉士磐金(なにはのきしいはかね)至自新羅,而獻鵲(かささぎ)二隻。乃俾養(かはしむ)於難波社(なにはのもり),因以巢(くすひ)枝而產之。
 秋八月己亥朔(一),新羅貢孔雀(くさく)一隻。
 冬十月戊戌朔丁未(十),越國(こしのくに)獻白鹿(しろきか)一頭。
 七年,夏四月乙未朔辛酉(廿七),地動(なゐふり),舍屋(やかす)悉破。則令四方(よも),俾祭地震神(なゐのかみ)。
 秋九月癸亥朔(一),百濟貢駱駝(らくだ)一匹、驢(うさぎうま)一匹、羊(ひつじ)二頭、白雉(しろききぎす)一隻。


橘寺 聖德皇太子御誕生所碑


聖德太子上宮遺跡


用明天皇 河內磯長原陵


前賢故實 廄戶皇子


多多羅 釜山多大浦
境部臣,未詳何人。或云境部摩理勢,或云境部雄摩侶。新羅王,按『東國通鑑』,蓋真平王也。


夢殿 聖德太子斑鳩宮跡
九年,太子初興宮室于斑鳩。


檜笠岡址 日笠山
十一年,葬舍人姬王於赤石。龜田次郎『舍人姫檜笠岡御墓考』攷日笠山一號墳為舍人媛御陵。


推古帝小墾田宮跡 古宮土壇
古宮遺跡,或云小治田宮跡,或云蘇我蝦夷邸跡。近於豐浦宮跡。


蜂岡寺跡 廣隆寺
三、新羅征討

 八年,春二月,新羅與任那相攻(あひせむ)。天皇欲救任那(みまな)。
 是歲,命境部臣(さかひべのおみ)為大將軍(おほいくさのきみ),以穗積臣(ほづみのおみ)為副將軍(そひのいくさのきみ)。【並闕名。】則將萬餘眾(よろづあまりのいくさ),為任那擊新羅。於是直指新羅,以泛(うかび)海往之。乃到于新羅,攻五城(いつつのさし)而拔。於是新羅王惶之,舉白旗(しらはた),到于將軍之麾下(しるしのはたのもと)而立。割多多羅(たたら)、素奈羅(すなら)、弗知鬼(ほちき)、委陀(わだ)、南迦羅(ありしのから)、阿羅羅(あらら)六城,以請服(まつろはむ)。時將軍共議曰:「新羅知罪服之。強擊不可(よからじ)。」則奏上。
 爰天皇更遣難波吉師神(なにはのきしみわ)於新羅,復遣難波吉士木蓮子(なにはのきしいたび)於任那。並檢校(かむがふ)事狀。爰新羅王、任那王,二國遣使貢調(みつきたてまつる)。仍奏表(ふみ)之曰:「天上(あめ)有神,地(つち)有天皇。除是二神,何亦有畏乎?自今以後,不有相攻。且不乾船柂(ふなかぢ),每歲必朝(まゐこむ)。」則遣使以召還(めしかへす)將軍。將軍等至自(より)新羅,即新羅亦侵(をかす)任那。
 九年,春二月,皇太子初興宮室(おほみや)于斑鳩(いかるが)。
 三月甲申朔戊子(五),遣大伴連囓(おほとものむらじくひ)于高麗,遣坂本臣糠手(さかもとのおみぬかで)于百濟,以詔之曰:「急(すむやけく)救任那!」
 夏五月,天皇居于耳梨行宮(みみなしのかりみや)。是時大雨(ひさめふり),河水漂蕩(ただよひ),滿于宮庭(おほみや)。
 秋九月辛巳朔戊子(八),新羅之間諜者迦摩多(うかみひとかまた)到對馬(つしま)。則捕以貢之。流上野(かみつけの)。
 冬十一月庚辰朔甲申(五),議(はかる)攻新羅。
 十年,春二月己酉朔(一),來目皇子(くめのみこ)為擊新羅將軍,授諸神部(かむとものを)及國造(くにのみやつこ)、伴造(とものみやつこ)等,并軍眾(いくさ)二萬五千人(ひと)。
 夏四月戊申朔(一),將軍來目皇子到于筑紫。乃進屯嶋郡(しまのこほり),而聚船舶(ふね)運軍糧(かて)。
 六月丁未朔己酉(三),大伴連囓、坂本臣糠手,共至自百濟。是時,來目皇子臥病(やまひ)以不果(はたさず)征討。
 冬十月,百濟僧觀勒(くわんろく)來之。仍貢曆本(こよみのためし)及天文(てんもん)、地理(ちり)書,并遁甲(とんかふ)、方術(はうじゆつ)之書(ふみ)也。是時,選書生(ふみまなぶひと)三四人,以俾學習(ならびならはしむ)於觀勒矣。陽胡史(やごのふびと)祖玉陳(たまふる)習曆法(こよみ),大友村主高聰(おほとものすぐりかうそう)學天文、遁甲,山背臣日立(やましろのおみひたち)學方術。皆學以成業(みち)。
 潤(うるふ)十月乙亥朔己丑(十五),高麗僧僧隆(そうりゆう)、雲聰(うんそう),共來歸(まゐおもぶけり)。
 十一年,春二月癸酉朔丙子(四),來目皇子薨(みうせ)於筑紫。仍驛使(はゆま)以奏上。爰天皇聞之大驚,則召皇太子、蘇我大臣,謂之曰:「征新羅大將軍來目皇子薨之。其臨大事而不遂矣,甚悲乎(いとかなしきかも)!」仍殯(もがりす)于周芳娑婆(すはのさば)。乃遣土師連豬手(はじのむらじゐて),令掌殯事。故豬手連之孫(ゐてのむらじがうみのこ)曰娑婆連(さばのむらじ),其是之緣(えに)也。後葬於河內埴生山岡(かふちのはにふのやまのをか)上。
 夏四月壬申朔(一),更以來目皇子之兄當麻皇子(たぎまのみこ),為征新羅將軍。
 秋七月辛丑朔癸卯(三),當麻皇子自難波發船(ふなたちす)。
 丙午(六),當麻皇子到播磨(はりま)。時,從妻舍人姬王(とねりのひめみこ)薨於赤石(あかし)。仍葬于赤石檜笠岡(ひかさのをか)上。乃當麻皇子返之,遂不征討(うたず)。
 冬十月己巳朔壬申(四),遷于小墾田宮(おはりたのみや)。
 十一月己亥朔(一),皇太子謂諸大夫(まへつきみたち)曰:「我有尊佛像(たふときほとけのみかた),誰得是像以恭拜(ゐやまひをろがまむ)?」時秦造河勝(はだのみやつこかはかつ)進曰:「臣拜之。」便受佛像。因以造蜂岡寺(はちをかでら)。
 是月,皇太子請于天皇,以作大楯(おほたて)及靫(ゆき),【靫,此云ゆき(由岐)。】又繪于旗幟(はた)。

四、始行冠位十二階

 十二月戊辰朔壬申(五),始行冠位(かうぶりのくらゐ)。
 大德(だいとく)、小德(せうとく)、大仁(だいにん)、小仁(せうにん)、大禮(だいらい)、小禮(せうらい)、大信(だいしん)、小信(せうしん)、大義(だいぎ)、小義(せうぎ)、大智(だいち)、小智(せうち),并十二階(しな),並以當色絁(あしきぬ)縫之。頂撮總如囊(ふくろ),而著緣(もとほし)焉。唯元日(むつきのつきたち)著髻華(うず)。【髻華,此云うず(于孺)。】
 十二年,春正月戊戌朔(一),始賜冠位於諸臣。各有差(おのもおのもしなあり)。


市神神社 聖德太子像


古活字版聖德太子憲法十七箇條


聖德太子與二王子御像


法隆寺夢殿藏 救世觀音像
傳聖德太子等身像。『法隆寺東院緣起』云:「則八角圓堂安置太子在世所造御影救世觀音像。」
五、肇作憲法十七條

 夏四月丙寅朔戊辰(三),皇太子親肇作憲法(いつくしきのり)十七條(とをあまりななをち):
  • 一曰,以和(やはらぐ)為貴(たふとし),無忤(さかふるなき)為宗(むね)。
       人皆有黨(ともがら),亦少達者(さとるひと)。是以,或不順君父(きみかぞ),乍違于鄰里(さととなり)。然上和下睦(むつび),諧(かなふ)於論(あげつらふ)事,則事理自通(かよふ),何事不成?
  • 二曰,篤敬(ゐやまへ)三寶。
       三寶者,佛(ほとけ)、法(のり)、僧(ほふし)也。則四生(よつのうまれ)之終歸(をはりのよりどころ),萬國(よろづのくに)之極宗(きはめのむね)。何世何人,非貴是法。人鮮(すくなし)尤惡,能教(をしふる)從之。其不歸三寶,何以直枉(まがれる)?
  • 三曰,承(うけたまはり)詔必謹(つつしめ)。
       君則天之,臣(やつこらま)則地之。天覆(おほひ)地載(のす),四時(よつのとき)順行,萬氣(よろづのしるし)得通。地欲覆天,則致壞耳。是以,君言臣承,上行下靡(なびく)。故承詔(みことのり)必慎,不謹自敗。
  • 四曰,群卿(まへつきみたち)百寮,以禮(いやび)為本。
       其治(をさむる)民之本,要(かならず)在乎禮。上不禮而下非齊(ととのほらず),下無禮以必有罪。是以,群臣有禮,位次(くらゐのつぎて)不亂;百姓(おほみたから)有禮,國家(あめのした)自治。
  • 五曰,絕餮(あぢはひのむさぼり)棄欲(たからのほしみ),明辨訴訟(うたへ)。
       其百姓之訟(うるたへ),一日千事。一日尚爾(なほしかり),況(いはむや)乎累歲?頃治訟者,得利(くふさ)為常,見賄(まひなひ)聽讞(ことわりまをす)。便有財(たからあるひと)之訟,如石投水;乏者(ともしきひと)之訴(うるたへ),似水投石。是以貧民(まづしきたみ)則不知所由(せむすべ),臣道亦於焉闕(かく)。
  • 六曰,懲(こらす)惡勸(すすむ)善,古之良典(よきのり)。是以无匿(かくす)人善,見惡必匡(ただせ)。
       其諂詐(へつらひあざむく)者,則為覆國家之利器(ときうつはもの),為絕人民之鋒劍(ときつるぎ)。亦佞媚(かだみこびる)者,對上則好說下過(あやまり),逢下則誹謗(そしる)上失。其如此人,皆无忠(いさをしきなく)於君、无仁(めぐみなし)於民。是大亂之本(もと)也。
  • 七曰,人各有任(よさし),掌(つかさどること)宜不濫(みだれざる)。
       其賢哲(さかしひと)任官(つかさ),頌音(ほむるこゑ)則起;姧者(かだましひと)有官,禍亂(わざはひみだれ)則繁。世少生知(うまれながらしるひと),剋念(よくおもひ)作聖(ひじり)。事無大少,得人必治;時無急緩(ときおそき),遇賢自寬(ゆるらかならむ)。因此國家永久(ときは),社稷(くに)勿危。故古聖王(ひじりのきみ)為官以求人,為人不求官。
  • 八曰,群卿百寮,早朝晏退(はやくまゐりておそくまかでよ)。
       公事靡盬(いとまなく),終日(ひねもす)難盡。是以遲朝不逮(およばず)于急;早退必事不盡(つきず)。
  • 九曰,信(まこと)是義(ことわり)本,每事有信。
       其善惡成敗(よさあしきなりならぬ),要在于信。群臣共信,何事(なにごと)不成?群臣无信,萬事悉敗(ことごとくにやぶる)。
  • 十曰,絕忿(こころのいかり)棄瞋(おもへりのいかり),不怒人違(ひとのたがふこと)。
       人皆有心,心各有執。彼是(よみす)則我非,我是則彼非(あしみす)。我必非聖,彼必非愚(おろか),共是凡夫(ただひと)耳。是非(よしあしき)之理,詎(たれか)能可定。相共(あひとも)賢愚,如鐶(みみかね)无端。是以,彼人雖瞋(いかる),還恐我失,我獨雖得,從眾同舉(おこなへ)。
  • 十一曰,明察功過(いさみあやまり),賞罰必當(あて)。
       日者(このころ),賞(たまひものす)不在功,罰(つみなふ)不在罪。執事群卿,宜明(あきらむべし)賞罰。
  • 十二曰,國司(くにのみこともち)、國造(くにのみやつこ),勿斂(をさめとることなかれ)百姓。
       國非二君(ふたりのきみ),民無兩主(ふたりのあるじ)。率土兆民(くにのうちのおほみたから),以王為主。所任官司(つかさみこともち),皆是王臣(やつこらま)。何敢與公(おほやか),賦斂(をさめとらむ)百姓?
  • 十三曰,諸任官者,同知職掌(つかさこと)。
       或病(やまひ)或使(つかひ),有闕(おこたる)於事。然得知之日,和(あまなふ)如曾識(むかしよりしれる)。其以非與(あづかり)聞,勿防公務(まつりごと)。
  • 十四曰,群臣百寮,無有嫉妬(うらやみねたむ)。
       我既嫉人,人亦嫉(うらやむ)我。嫉妬之患(うれへ),不知其極(きはまり)。所以(このゆゑ),智勝於己則不悅(よろこびず),才(かど)優於己則嫉妬。是以,五百(いほとせ)之乃今(いま)遇賢,千載(ちとせ)以難待一聖。其不得賢聖(さかしひとひじり),何以治國?
  • 十五曰,背(そむき)私向(ゆく)公,是臣之道矣。
       凡夫(おほよそそれ),人有私(わたくし)必有恨,有憾(うらみ)必非同。非同(ととのほらず)則以私妨公(おほやけ),憾起則違制(ことわり)害法。故初章(はじめのくだり)云,上下和諧(かみしもあまなひととのほる),其亦是情(こころ)歟。
  • 十六曰,使民(たみ)以時,古之良典。
       故,冬月有間(いとま),可以使民。從春至秋,農桑(なりはひこかひ)之節(とき),不可使民。其不農(たつくりせず)何食(くらふ),不桑(こかひせず)何服(きむ)?
  • 十七曰,夫事不可獨斷(さだむ),必與眾宜論。
       少事(いささけしこと)是輕,不可必眾。唯逮論大事,若疑有失。故與眾相辨(あひわきまふる),辭(こと)則得理。

 秋九月,改朝禮(みかどのゐや)。因以詔之曰:「凡出入宮門(みかど),以兩手押地,兩腳跪(ひざまづく)之,越梱(しきみ)則立行。」
 是月,始定黃書畫師(きふみのゑかき)、山背畫師(やましろのゑかき)。

六、佛師鞍作鳥

 十三年,夏四月辛酉朔(一),天皇詔皇太子、大臣及諸王(もろもろのおほきみ)、諸臣(もろもろのおみ),共同發誓願(こひちかふ),以始造銅(あかがね)、繡(ぬひもの)丈六佛像,各一軀。乃命鞍作鳥(くらつくりのとり)為造佛之工(ほとけつくりのたくみ)。
 是時,高麗國大興王(だいこうわう)聞日本國(やまとのくに)天皇造佛像,貢上黃金三百兩(こがねみももころ)。
 閏七月己未朔(一),皇太子命諸王、諸臣,俾著褶(ひらおび)。
 冬十月,皇太子居斑鳩宮(いかるがのみや)。
 十四年,夏四月乙酉朔壬辰(八),銅、繡丈六佛像(ぢやうろくのほとけのみかた)並造竟。
 是日也,丈六銅像坐於元興寺(ぐわんごうじ)金堂。時佛像高於金堂戶(こむだうのと),以不得納堂。於是,諸工人(たくみ)等議曰:「破(こほち)堂戶而納之。」然鞍作鳥之秀工(すぐれたるたくみ),不壞戶,得入堂。
 即日,設齋(をがみす)。於是,集會人眾,不可勝數(あげてかぞふ)。
 自是年初,每寺四月八日(やかのひ)、七月十五日(もちのひ)設齋。
 五月甲寅朔戊午(五),敕鞍作鳥曰:「朕欲興隆內典(うちつのり),方將建佛剎(ぶつせつ),肇求舍利。時汝祖父司馬達等(しまのだちと)便獻舍利。又於國無僧尼(ほふしあま)。於是汝父多須那(たすな)為橘豐日(用明)天皇,出家恭敬(つつしみゐやまふ)佛法。又汝姨嶋女(しまめ)初出家(いへです),為諸尼導者(みちびき),以修行釋教(ほとけのみのり)。今朕為造丈六佛,以求好佛像。汝之所獻佛本(ためし),則合朕心。又造佛像既訖,不得入堂。諸工人不能計,以將(まさに)破堂戶。然汝不破戶而得入。此皆汝之功(いさをし)也。」即賜大仁位(くらゐ),因以給近江國坂田郡水田(あふみのくにのさかたのこほりのた)二十町焉。
 鳥以此田,為天皇作金剛寺(こむがうじ),是今謂南淵坂田尼寺(みなみぶちのさかたのあまでら)。
 秋七月,天皇請皇太子,令講勝鬘經(しようまんぎやう)。三日說竟之(ときをへつ)。
 是歲,皇太子亦講法華經(ほふくゑきやう)於岡本宮(をかもとのみや)。天皇大喜之,播磨國水田百町,施于皇太子。因以納于斑鳩寺(いかるがでら)。
 十五年,春二月庚辰朔(一),定壬生部(みぶべ)。
 戊子(九),詔曰:「朕聞之,曩(むかし)我皇祖(みおや)天皇等宰(をさめ)世也,跼(せかがまり)天蹐(ぬきあしにふみ)地,敦禮神祇(あまつかみくにつかみ),周祠山川,幽(はるかに)通乾坤(あめつち)。是以陰陽開和(ふゆなつひらけあまなふ),造化共調(なしいづることともにととのほる)。今當朕世,祭祀(いはひまつる)神祇,豈有怠乎?故群臣為竭(つくし)心,宜拜神祇!」
 甲午(十五),皇太子及大臣,率百寮,以祭拜(いはひゐやぶ)神祇。


元興【飛鳥】寺本堂 丈六佛像
飛鳥大佛,日本現存最古佛像。與規模最大之奈良大佛,鑄工最精之鎌倉大佛並稱三大佛。


坂田寺跡 坂田金剛寺址碑
鞍作鳥以近江國坂田郡水田為天皇作金剛寺,即南淵坂田尼寺。


聖德太子繪傳 勝鬘經講讚圖


依網池址
按『崇神紀』六十二年既云:「造依網池。」『應神紀』亦有和歌述之。而以池址之遺物鑒定年代,蓋為推古朝時所營。或造于崇神朝,而脩于推古朝乎。


太子町 道祖小野妹子墓
夫小野妹子墓有大阪府南河內郡太子町、滋賀縣小野妹子公園唐臼山古墳二所。而攷故實,後者為妹子墓之說,未見於江戶時代之前。


隋煬帝 楊廣
本段唐帝、皇帝,皆指隋煬帝。又倭皇云云,蓋為史人改竄。時中國國書,依國勢高低,有「皇帝敬問某」與「皇帝問某王」等,此為後者之儔。又通事者,譯語是也。


肥後國葦北津


碾磑
碾磑者,水臼是也。


平安京朝堂院模式圖
十八年十月條:「共引以自南門入之。」所謂南門,即會昌門。
七、遣隋使小野妹子

 秋七月戊申朔庚戌(三),大禮小野臣妹子(をののおみいもこ)遣於大唐(もろこし)。以鞍作福利(くらつくりのふくり)為通事(をさ)。
 是歲冬,於倭國(やまとのくに)作高市池(たけちのいけ)、藤原池(ふぢはらのいけ)、肩岡池(かたをかのいけ)、菅原池(すがはらのいけ)。山背國(やましろのくに)掘大溝(おほうなて)於栗隈(くるくま),且河內國(かふちのくに)作戶苅池(とかりのいけ)、依網池(よさみのいけ)。亦每國置屯倉(みやけ)。
 十六年,夏四月,小野臣妹子至自大唐。唐國(もろこしのくに)號妹子臣曰蘇因高(そいんかう)。
 即大唐使人裴世清(はいせいせい)、下客(しもべ)十二人,從妹子臣至於筑紫。遣難波吉士雄成(なにはのきしをなり),召大唐客(もろこしのまらひと)裴世清等。為唐客,更造新館(にひしきむろつみ)於難波高麗館(こまのむろつみ)之上。
 六月壬寅朔丙辰(十五),客等泊于難波津(なにはのつ)。
 是日,以飾船(かざりぶね)三十艘,迎客等于江口(えぐち),安置(はべらしむ)新館。於是,以中臣宮地連烏磨呂(なかとみのみやどころのむらじをまろ)、大河內直(おほしかふちのあたひ)糠手(ぬかで)、船史王平(ふねのふびとわうへい)為掌客(まらひとのつかさ)。
 爰妹子臣奏之曰:「臣參還之時(まゐくるとき),唐帝(もろこしのみかど)以書授臣。然經過百濟國之日,百濟人探以掠取(かすみとれり)。是以不得上。」於是群臣議之曰:「夫使人(つかひたるひと)雖死之,不失旨(むね)。是使矣,何怠之失大國(もろこし)之書哉?」則坐流刑(ながすつみ)。時天皇敕之曰:「妹子雖有失書之罪,輙(たやすく)不可罪。其大國客等聞之,亦不良。」乃赦(ゆるし)之不坐也(つみしたまはず)。
 秋八月辛丑朔癸卯(三),唐客入京(みやこ)。
 是日,遣飾騎(かざりうま)七十五匹,而迎唐客於海石榴市(つばきち)衢。額田部連比羅夫(ぬかたべのむらじひらぶ)以告禮辭(ゐやのこと)焉。
 壬子(十二),召唐客於朝廷(みかど),令奏使旨。時阿倍鳥臣(あへのとりのおみ)、物部依網連抱(もののべのよさみのむらじ),二人為客之導者也。
 於是大唐之國信物(くにつかひのもの)置於庭中。時使主(おみ)裴世清親持書,兩度再拜,言上(まをし)使旨而立之。其書曰:「皇帝(きみ)問倭皇(やまとのすめらみこと)。使人長吏(ちやうり)大禮蘇因高等至具懷(おもひ)。朕欽(よろこび)承寶命(たからのみこと),臨仰區宇(あめのした)。思弘德化(いきほひ),覃(およぼし)被含靈(よろづのもの)。愛育之情(めぐみやしなふこころ),無隔遐邇(とほくちかき)。知皇介居海表(わたのほか),撫寧民庶(おほみたから),境內(くにのうち)安樂,風俗(くにのしわざ)融和,深氣(こころばへ)至誠,遠脩朝貢。丹款(ねむごろにまこと)之美,朕有嘉焉(よみする)。稍暄(やくやくあたたかなり),比(このころ)如常也。故遣鴻臚寺(こうろじ)掌客裴世清等,旨宣(しめしのべ)往意,并送物如別。」時阿倍臣出進,以受其書而進行。大伴囓連(おほとものくひのむらじ)迎出承書,置於大門前机(つくゑ)上而奏之,事畢而退焉。
 是時,皇子、諸王、諸臣,悉以金髻華(こがねのうづ)著頭。亦衣服(よそひ)皆用錦(にしき)、紫(むらさき)、繡、織(おりもの)及五色綾羅(いついろのあやうすはた)。【一云,服色(きぬのいろ)皆用冠(かがふり)色。】
 丙辰(十六),饗唐客等於朝(みかど)。
 九月辛未朔乙亥(五),饗客等於難波大郡(おほこほり)。
 辛巳(十一),唐客裴世清罷歸(まかりかへりぬ)。則復以小野妹子臣為大使(おほつかひ),吉士雄成為小使(そひつかひ),福利為通事,副于唐客而遣之。
 爰天皇聘唐帝,其辭曰:「東天皇(やまとのすめらみこと)敬白西皇帝(もろこしのきみ)。使人鴻臚寺掌客(しやうかく)裴世清等至,久憶(ひさしきおもひ)方解。季秋薄冷(やうやくすずし),尊何如?想清悆(おだひかならむ)。此即如常。今遣大禮蘇因高、大禮乎那利(をなり)等往。謹白,不具(つぶさならず)。」
 是時遣於唐國學生(ふむやわらは),倭漢直福因(やまとのあやのあたひふくいん)、奈羅譯語惠明(ならのをさゑみやう)、高向漢人玄理(たかむくのあやひとげんり)、新漢人大國(いまきのあやひとおほくに)。學問僧(ものならふほふし),新漢人日文(にちもん)、南淵漢人請安(みなみぶちのあやひとしやうあん)、志賀漢人慧隱(しがのあやひとゑおん)、新漢人廣濟(くわうさい)等,并八人也。
 是歲,新羅人多化來(まゐおもぶく)。
 十七年,夏四月丁酉朔庚子(四),筑紫大宰(つくしのおほみこともちのつかさ)奏上言:「百濟僧道欣(だうこん)、惠彌(ゑみ)為首,一十人,俗(しろきぬ)七十五人,泊于肥後國葦北津(ひのみちのしりのくにのあしきたにつ)。」
 是時,遣難波吉士德摩呂(なにはのきしとくまろ)、船史龍(ふねのふびとたつ),以問之曰:「何來也?」對曰:「百濟王命以遣於吳國(くれのくに)。其國有亂(みだれ),不得入。更返於本鄉(もとのくに)。忽逢暴風(あらし),漂蕩海中(わたなか)。然有大幸,而泊于聖帝(みかど)之邊境(ほとり)。以歡喜。」
 五月丁卯朔壬午(十六),德摩呂等復奏之(かへりことまをす)。則返德摩呂、龍二人,而副百濟人等,送本國(もとのくに)。至于對馬,以道人(おこなひびと)等十一,皆請之欲留。乃上表(ふみたてまつり)而留之。因令住元興寺。
 秋九月,小野臣妹子至(まゐたる)自大唐。唯通事福利不來。
 十八年,春三月,高麗王貢上僧曇徵(ほふしどむてう)、法定(ほふぢやう)。曇徵知五經(ごきゃう),且能作彩色(しみのもののいろ)及紙墨(かみすみ),并造碾磑。蓋造碾磑(みづうす),始于是時歟。
 秋七月,新羅使人沙㖨部奈末竹世士(さたくほうなまちくせいし)與任那使人㖨部大舍首智買(たくほうたさしゅちばい),到于筑紫。
 九月,遣使召(めす)新羅、任那使人。
 冬十月己丑朔丙申(八),新羅、任那使人臻(まゐたる)於京。
 是日,命額田部連比羅夫,為迎新羅客莊馬(かざりうま)之長(をさ),以膳臣大伴(かしはでのおみおほとも),為迎任那客莊馬之長。即安置阿斗河邊館(あとのかはへのむろつみ)。
 丁酉(九),客等拜朝廷。於是命秦造河勝、土部連菟(はじのむらじうさぎ),為新羅導者(みちびきひと),以間人連鹽蓋(はしひとのむらじしほふた)、阿閉臣大籠(あへのおみおほこ)為任那導者。共引以自南門(みなみのみかど)入之,立于庭中(おほば)。
 時大伴咋連(おほともくひのむらじ)、蘇我豐浦蝦夷臣(そがのとゆらのえみしのおみ)、坂本糠手臣、阿倍鳥子臣(あへのとりこのおみ),共自位起之,進伏于庭。
 於是兩國客等各再拜,以奏使旨。乃四大夫(よたりのまへつきみ)起進啟於大臣。時大臣自位起,立廳(まつりごとどの)前而聽焉。既而賜祿(ものたまふ)諸客,各有差。
 乙巳(十七),饗使人等於朝。以河內漢直贄(かふちのあやのあたひにへ)為新羅共食者(あひたげひと),錦織首久僧(にしこりのおびとくそ)為任那共食者。
 辛亥(廿三),客禮畢(ゐやのことをはり),以歸焉。

八、藥獵菟田野

 十九年,夏五月五日,藥獵(くすりがりす)於菟田野(うだのの)。取雞鳴時(あかとき),集于藤原池(ふぢはらのいけ)上。以會明(あけぼの),乃往之。粟田(あはた)細目臣(ほそめのおみ)為前部領(さきのことり),額田部比羅夫連為後(しりへ)部領。
 是日,諸臣服色,皆隨冠色,各著(させり)髻華。則大德、小德並用金,大仁、小仁用豹尾(なかつかみのを),大禮以下用鳥尾(とりのを)。
 秋八月,新羅遣沙㖨部奈末北叱智(さたくほうなまほくしち),任那遣習部大舍親智周智(しふほうたさしんちしゆち),共朝貢。
 二十年,春正月辛巳朔丁亥(七),置酒宴(とよのあかりす)群卿。
 是日,大臣上壽(おほみきたてまつり)歌曰:

 天皇和(こたへ)曰:

 二月辛亥朔庚午(廿),改葬皇太夫人堅鹽媛(おほきさききたしひめ)於檜隈大陵(ひのくまのおほみさざき)。
 是日,誄於輕街(かるのちまた)。
  第一,阿倍內臣鳥(あへのうちのおみとり),誄天皇(推古)之命(おほみこと),則奠靈(みたまにものたてまつる)。明器(みけもの)、明衣(みけし)之類,萬五千種也。
  第二,諸皇子等,以次第(つぎて)各誄之。
  第三,中臣宮地連烏摩呂(なかとみのみやどころのむらじをまろ),誄大臣之辭。
  第四,大臣引率八腹臣(やはらのおみ)等,便以境部臣摩理勢(さかひべのおみまりせ),令誄氏姓之本(うぢかばねのもと)矣。時人云:「摩理勢、烏摩呂二人能誄,唯鳥臣不能誄(しのひことまをす)也。」
 夏五月五日,藥獵之。集于羽田(はた),以相連參趣(まゐおもぶく)於朝(みかど)。其裝束(よそひ)如菟田之獵。
 是歲,自百濟國,有化來者。其面(おもて)、身(むくろ)皆斑白(まだら)。若有白癩(しらはた)者乎。惡(にくみ)其異於人,欲棄海中嶋。然其人曰:「若惡臣之斑皮(まだらはだ)者,白斑(しろまだら)牛馬不可畜(かふ)於國中(くぬち)。亦臣有小才(かど),能構山岳之形(やまのかたち)。其留臣而用,則為國有利(くほさ)。何空之(むなしく)棄海嶋耶?」於是聽其辭以不棄,仍令構須彌山(すみのやま)形及吳橋(くれはし)於南庭(おほば)。時人號其人曰路子工(みちこのたくみ)。亦名芝耆摩呂(しきまろ)。
 又百濟人味摩之(みまし),歸化曰:「學于吳,得伎樂儛(くれがくまひ)。」則安置櫻井(さくらゐ),而集少年(わらはべ),令習伎樂儛。於是,真野首弟子(まののおびとでし)、新漢齊文(いまきのあやひとさいもん)二人,習之傳其儛。此今大市首(おほちのおびと)、辟田首(さきたのおびと)等祖也。
 二十一年,冬十一月,作掖上池(わきのかみのいけ)、畝傍池(うねびのいけ)、和珥池(わにのいけ)。又自難波至京,置大道(おほち)。


宇陀
藥獵者,男捕鹿茸之類,女採藥草之儔。所謂菟田野,蓋在宇陀一代,無定說。近傍之阿騎野者,亦古代皇室藥獵聖地。

蘇我馬子上壽天皇歌:「八隅治天下 吾之大君炊屋姬 聖君所隱坐 天八十蔭崴峨宮 今自殿出幸 翹首仰望虛空者 縱過萬代矣 壯麗如斯恒永久 縱過千代矣 壯麗如斯恒永久 誠惶且誠恐 奉仕吾皇獻赤誠 頓首復再拜 奉仕吾皇獻赤誠 今獻上壽歌奉之」

天皇和歌:「賢也真蘇我 蘇我子等族裔矣 汝若為馬者 必為日向駿馬歟 汝若為太刀 必為吳國真刀乎 諾也誠如此 蘇我子等族裔者 代代為所用 綿延大君天皇使」


欽明天皇、堅鹽媛 檜隈坂合陵


見瀨丸山古墳 傳檜隈大陵
宮內廳治定梅山古墳為檜隈坂合陵。然以丸山古墳石室中發現家形石棺兩具,故亦疑為欽明帝、堅鹽媛合葬之陵。未有定說。


和珥池跡 廣大寺池


片岡山 達磨寺
傳太子所遇飢者,達磨化身也。故於彼處建達磨寺。

聖德太子嘆飢者歌:「級照坂暉矣 肩岡傍岡片岡山 田夫飢於飯 伏臥彼山間 其田夫者可憐矣 誰無父母乎 汝生於世當有親 刺竹枝繁茂 明君何處在以不 田夫飢於飯 伏臥彼山間 其田夫者可憐矣」


掖玖 屋久島
掖玖、夜句者,今屋久島是也。


出雲國神戶郡 玉造溫泉
『出雲國風土記』云:「忌部神戶,郡家正西廿一里二百六十步。國造神吉詞奏參向朝廷時,御沐之忌里,故云忌部。即川邊出湯,出湯所在兼海陸。」今玉造溫泉。


蒲生河 今日野川


瑞龍寺藏 人魚木乃伊
部分寺社藏有人魚、河童木乃伊。亦有食人魚肉得不老不死、長生百年之人魚傳說。按『傳曆』,太子謂左右曰:「禍始于此。夫人魚者瑞物也。今無飛菟,出人魚者,是為國禍。汝等識之。」
九、太子與飢者。撰錄天皇記、國記

 十二月庚午朔(一),皇太子遊行(いでます)於片岡(かたをか)。時飢者(うゑたるひと)臥道垂(みちのほとり)。仍問姓名(うぢな),而不言。
 皇太子視之,與飲食(をしもの)。即脫衣裳(みけし),覆飢者而言:「安臥也。」則歌之曰:

 辛未(二),皇太子遣使,令視飢者。使者還來之曰:「飢者既死。」爰皇太子大悲之,則因以葬埋(をさめうづましめ)於當處(そのところ),墓固封(つきかため)也。
 數日之後(ひをへて),皇太子召近習者(ちかくつかへまつるひと),謂之曰:「先日臥于道飢者,其非凡人(ただひと)。必真人(ひじり)也。」遣使令視。於是使者還來之曰:「到於墓所(つかどころ)而視之,封埋(かためうづみ)勿動。乃開以見,屍骨(かばね)既空。唯衣服(みけし)疊置棺(ひつき)上。」於是皇太子復返使者,令取其衣(みそ),如常且服矣。時人大異之曰:「聖之知聖,其實(まこと)哉!」逾惶(いよいよかしこまる)。
 二十二年,夏五月五日(丙申朔庚子),藥獵也。
 六月丁卯朔己卯(十三),遣犬上君御田鍬(いぬかみのきみみたすき)、矢田部造(やたべのみやつこ),【闕名。】於大唐。
 秋八月,大臣臥病。為大臣而男女(をのこをみな)并一千人出家。
 二十三年,秋九月,犬上君御田鍬、矢田部造,至自大唐。百濟使,則從犬上君而來朝(まゐけり)。
 十一月己丑朔庚寅(二),饗(あへ)百濟客矣。
 癸卯(十五),高麗僧慧慈歸于國。
 二十四年,春正月,桃李(ももすもも)實之。
 三月,掖玖(やく)人三口歸化。
 夏五月,夜句(やく)人七口來之。
 秋七月,亦掖玖人二十口來之。先後并三十人,皆安置於朴井(えのゐ)。未及還,皆死焉。
 秋七月,新羅遣(まだし)奈末竹世士,貢佛像。
 二十五年,夏六月,出雲國(いづものくに)言:「於神戶郡(かむとのこほり)有瓜,大如缶(ほとき)。」
 是歲,五穀登之(いつつのたなつものみのれり)。
 二十六年,秋八月癸酉朔(一),高麗遣使貢方物(くにつもの)。因以言:「隋煬帝(ずいのやうだい)興三十萬眾(いくさ)攻我,返之為我所破。故貢獻俘虜貞公(とりこていこう)、普通(ふとう)二人及鼓吹(つづみふえ)、弩(おほゆみ)、拋石(いしはじき)之類十物,并土物(くにつもの)、駱駝(らくだ)一匹。」
 是年,遣河邊臣(かはへのおみ),【闕名。】於安藝國(あぎのくに),令造舶(ふね)。至山覓舶材(ふねのき)。便得好材(よきき),以名將伐(きらむとす)。時有人曰:「霹靂木(かむときのき)也,不可伐。」河邊臣曰:「其雖雷神(いかづちのかみ),豈逆皇命(きみのみこと)耶?」多祭幣帛(みてぐら),遣人夫(えのたみ)令伐。則大雨雷電(いかづちなりいなびかり)之。爰河邊臣案劍(つるぎのたかみとりしばり)曰:「雷神無犯人夫,當傷我身。」而仰待之。雖十餘霹靂,不得犯河邊臣。即化少魚(いささけきうを),以挾樹枝。即取魚焚之。遂修理(つくり)其舶。
 二十七年,夏四月己亥朔壬寅(四),近江國言:「於蒲生河(かまふがは)有物,其形如人。」
 秋七月,攝津國(つのくに)有漁父(あま),沉罟(あみ)於堀江(ほりえ)。有物入罟,其形如兒(わくご)。非魚非人,不知所名。
 二十八年,秋八月,掖玖人二口,流來於伊豆嶋(いづのしま)。
 冬十月,以砂礫(さざれし)葺檜隈陵(ひのくまのみさざき)上。則域外(めぐり)積土成山。仍每氏科之(おほせ),建大柱(おほはしら)於土山上。時倭漢(やまとのあや)坂上直(さかのうへのあたひ)數柱,勝之太高。故時人號之曰大柱直(おほはしらのあたひ)也。
 十二月庚寅朔(一),天有赤氣(あかきしるし)。長一丈餘,形似雉尾(きぎしのを)。
 是歲,皇太子、嶋大臣(しまのおほおみ)共議之,錄天皇記(すめらみことのふみ)及國記(くにつふみ),臣、連、伴造、國造、百八十部(ももあまりやそとものを)并公民(おほみたから)等本記(もとつふみ)。

十、聖德太子薨

 二十九年,春二月己丑朔癸巳(五),半夜,廄戶豐聰耳皇子命(うまやとのとよとみみのみこのみこと)薨于斑鳩宮。
 是時,諸王、諸臣及天下(あめのした)百姓,悉長老(おきな)如失愛兒(めぐきこ),而鹽酢之味(しほすのあぢはひ)在口不嘗。少幼(わかき)者如亡慈(うつくしび)父母,以哭泣之聲滿於行路(みち)。乃耕夫止耜(たかへすをのこすきをやみ),舂女不杵(いねつくをみなきねおとせず)。皆曰:「日月失輝(ひかり),天地(あめつち)既崩!自今以後(のち),誰恃(たのまむ)哉?」
 是月,葬上宮太子於磯長陵(しながのみさざき)。
 當是時,高麗僧慧慈聞上宮皇太子薨,以大悲之,為皇太子,請僧而設齋。仍親說(とく)經之日,誓願曰:「於日本國有聖人(ひじり),曰上宮豐聰耳皇子。固(まことに)天攸縱(ゆるされたり),以玄(はるかなる)聖之德(いきほひ),生(あれ)日本之國。苞貫(つつみぬき)三統,纂(つぎ)先聖之宏猷(おほきなるのり),恭敬三寶,救黎元(おほみたから)之厄,是實大聖也。今太子既薨之,我雖異國(あたしくに),心在斷金(うるはしき)。其獨生之,有何益(しるし)矣?我以來年(こむとし)二月五日必死(みまからむ)。因以遇上宮太子於淨土(じやうど),以共化(わたさむ)眾生。」於是,慧慈當于期日(ちぎりしひ)而死之。是以時人之彼此共言:「其獨非上宮太子之聖,慧慈亦聖也。」
 是歲,新羅遣奈末伊彌買(なまいみばい)朝貢。仍以表書(ふみをたてまつり)奏使旨(つかひのむね)。凡新羅上表,蓋始起于此時歟。
 三十一年,秋七月,新羅遣大使奈末智洗爾(なまちせんに),任那遣達率奈末智(だちそちなまち),並來朝。仍貢佛像一具及金塔(こがねのたふ)并舍利,且大觀頂幡(くわんぢやうのはた)一具、小幡十二條。即佛像居於葛野秦寺(かづののうづまさでら)。以餘舍利、金塔、觀頂幡等,皆納于四天王寺(してんわうじ)。
 是時,大唐學問者(ものならひひと)僧惠齊(ゑさい)、惠光(ゑくわう)及醫(くすし)惠日、福因等,並從智洗爾等來之。於是,惠日(ゑにち)等共奏聞曰:「留于唐國學者(ならひひと),皆學以成業(みち)。應喚(めすべし)。且其大唐國者,法式(のり)備定珍國(めづらしきくに)也。常須達(つねにかよふべし)。」


推古帝太子 聖德太子磯長墓


聖德太子肖像


四天王寺 浪速名所圖屏風


朝鮮半島古國圖


石舞台古墳
傳蘇我大臣馬子桃原墓,諸說多有。或云,按石種、築年,蓋蘇我稻目墓乎。或云石室壁上刻有「馬子墓」三字。古墳形式以封土既崩而不詳,有方墳、上圓下方墳、下方八角墳等說。亦云封土非自然崩落,蓋科蘇我氏之罰乎。


鵲森宮 森之宮神社
推古帝六年,難波吉士磐至自新羅,獻鵲二隻。。傳所俾養難波社之森,即此處矣。
十一、策劃新羅征討

 是歲,新羅伐(うつ)任那。任那附新羅。
 於是天皇將討新羅,謀及大臣,詢(とひ)于群卿。田中臣(たなかのおみ)對曰:「不可急討(にはかにうつ)。先察狀,以知逆(したがはぬ),後擊之不晚也。請試遣使,覩其消息。」中臣連國(なかとみのむらじくに)曰:「任那元是我內官家(うちつみやけ),今新羅人伐而有之。請戒戎旅(いくさ),征伐新羅,以取任那附百濟。寧(いかにぞ)非益有于新羅乎!」田中臣曰:「不然。百濟是多反覆(かへすこと)之國,道路(みち)之間尚詐之(あざむく),凡彼所請皆非之(よくもあらず)。故不可附百濟。」則不果(はたさず)征焉。
 爰遣吉士磐金於新羅,遣吉士倉下(きしのくらじ)於任那,令問任那之事。時新羅國主遣八大夫(やたりのまへつきみたち),啟新羅國事於磐金,且啟任那國事於倉下。因約(ちぎり)曰:「任那小國,天皇附庸(ほどすかのくに)。何新羅輙(たやすく)有之?隨常定內官家,願無煩(わづらふ)矣。」則遣奈末智洗遲(なまちせんぢ)副於吉士磐金,復以任那人達率奈末遲(だちそちなまぢ)副於吉士倉下,仍貢兩國之調。
 然磐金等未及于還,即年以大德境部臣雄摩侶(さかひべのおみをまろ)、小德中臣連國為大將軍,以小德河邊臣禰受(かはへのおみねず)、小德物部依網連乙等(もののべのよさみのむらじおと)、小德波多臣廣庭(はたのおみひろには)、小德近江腳身臣飯蓋(あふみのあなむのおみいひふた)、小德平群臣宇志(へぐりのおみうし)、小德大伴連、【闕名。】小德大宅臣軍(おほやけのおみいくさ),為副將軍,率數萬眾,以征討新羅。
 時磐金等共會於津(つ),將發船以候風波(かぜなみ)。於是,船師(ふないくさ)滿海多至,兩國使人望瞻(のぞみ)之愕然(かしこまり),乃還留焉。更代堪遲大舍(たんぢたさ),為任那調使而貢上。於是,磐金等相謂之曰:「是軍起之,既違前期。是以任那之事,今亦不成矣。」則發船(ふなだち)而渡之。
 唯將軍等始到任那而議之,欲襲新羅。於是,新羅國主聞軍多至,而豫慴(あらかじめおぢ)之請服。時將軍等共議以上表之。天皇聽(ゆるし)矣。
 冬十一月,磐金、倉下等至自新羅。時大臣問其狀(あるかたち)。對曰:「新羅奉命,以驚懼之。則並差專使(たうめづかひ),因以貢兩國之調。然見船師至,而朝貢使人(みつきのつかひ)更還耳(のみ)。但調猶貢上。」爰大臣曰:「悔乎(くやしきかも),早遣師矣。」時人曰:「是軍事(いくさごと)者,境部臣、阿曇連(あづみのむらじ),先多得新羅幣物(まひなひ)之故,又勸大臣。是以未待使旨(つかひのむね),而早征伐耳。」
 初磐金等渡新羅之日,比及津,莊船(かざりぶね)一艘迎於海浦(わたのうら)。磐金問之曰:「是船者何國迎船(むかへぶね)?」對曰:「新羅船也。」磐金亦曰:「曷(いかにぞ)無任那之迎船?」即時(そのとき)更為任那加(くはふ)一船。其新羅以迎船二艘,始于是時歟(か)。
 自春至秋,霖雨大水(ながめにしておほみづ),五穀不登焉。

十二、統制寺院、僧尼

 三十二年,夏四月丙午朔戊申(三),有一僧,執斧(をの)毆祖父(おほぢ)。
 時天皇聞之,召大臣,詔之曰:「夫出家者頓(ひたぶる)歸三寶,具懷戒法(いむことののり)。何無懺忌(くいいむ),輙犯惡逆?今朕聞:『有僧以毆祖父。』故悉聚諸寺僧尼,以推問(かむがへとへ)之。若事實者,重罪之!」
 於是集諸僧尼而推之。則惡逆(あくぎゃく)僧及諸僧尼,並將罪。於是,百濟觀勒僧(くわんろくほふし)表上以言:「夫佛法(ほとけのみのり)自西國(てんぢく)至于漢(もろこし),經三百歲,乃傳之至於百濟國,而僅一百年矣。然我王聞日本天皇之賢哲(さかしき),而貢上佛像及內典,未滿百歲。故當今時,以僧尼未習法律(のり),輙犯惡逆。是以諸僧尼惶懼(かしこまり),以不知所如(せむすべしらず)。仰願其除惡逆者以外僧尼,悉赦而勿罪。是大功德(のりのこと)也。」天皇乃聽之。
 戊午(十三),詔曰:「夫道人(おこなひびと)尚犯法,何以誨俗人(ただひと)?故自今已後(のち),任僧正(そうじやう)、僧都(そうづ),仍應檢校(かむがふ)僧尼。」
 壬戌(十七),以觀勒僧為僧正,以鞍部德積(くらつくりのとくしやく)為僧都。
 即日,以阿曇連,【闕名。】為法頭(ほふづ)。
 秋九月甲戌朔丙子(三),校寺及僧尼,具錄其寺所造之緣(つくれるえに),亦僧尼入道(おこなふ)之緣及度(いへです)之年、月、日也。當是時,有寺四十六所(ところ),僧八百十六人,尼五百六十九人,并一千三百八十五人(たり)。


百濟寺參道


百濟寺本堂
傳聖德太子所創,而為百濟僧慧聰、道欣、觀勒等之故居。


葛城縣
天皇、朝庭所領地者為縣,縣主授命轄之。『延喜式』祈年祭祝詞有「葛木縣」云云。蓋葛上、葛下郡之域,今奈良御所、大和高田、香芝、葛城、北葛城一帶。
十三、馬子請賜葛城縣

 冬十月癸卯朔(一),大臣遣阿曇連、【闕名。】阿倍臣摩侶(あへのおみまろ)二臣,令奏于天皇曰:「葛城縣(かづらきのあがた)者,元臣(やつかれ)之本居(うぶすな)也。故因其縣為姓名。是以冀之常得其縣,以欲為臣之封縣(よさせるあがた)。」
 於是,天皇詔曰:「今朕則自蘇何(そが)出之,大臣亦為朕舅(をぢ)也。故大臣之言,夜(よひ)言矣夜不明(あかさず),日(あした)言矣日不晚(くらさず),何辭(いづれのこと)不用。然今朕之世,頓(にはかに)失是縣。後君(のちのきみ)曰:『愚痴婦人(おろかにかたくなしきめのこ)臨天下,以頓亡其縣!』豈獨朕不賢(をさなき)耶?大臣亦不忠(つたなく)。是後葉之惡名(のちのよのあしきな)。」則不聽。
 三十三年,春正月壬申朔戊寅(七),高麗王貢僧惠灌(ゑくわん)。仍任(めす)僧正。

十四、蘇我馬子薨

 三十四年,春正月,桃李華之(はなさけり)。
 三月,寒以霜降(しもふる)。
 夏五月戊子朔丁未(廿),大臣薨。仍葬于桃原墓(ももはらのはか)。大臣則稻目宿禰(いなめのすくね)之子也。性(ひととなり)有武略(たけきたばかり),亦有辨才(わきわきしこと)。以恭敬三寶,家於飛鳥河(あすかがは)之傍。乃庭中開小池,仍興小嶋(ちひさきしま)於池中。故時人曰嶋大臣(しまのおほおみ)。
 六月,雪也(ゆきふれり)。
 是歲,自三月至七月,霖雨。天下大飢之(うう)。老(おきな)者噉(くらひ)草根而死于道垂,幼者(いとけなき)含乳(ちち)以母子(ははこ)共死。又強盜竊盜(ぬすびと),並大起之,不可止。
 三十五年,春二月,陸奧國(みちのくのくに)有狢(むじな)化人以歌之。
 夏五月,有蠅(はへ)聚集。其凝累(かさなる)十丈之,浮虛(おほぞら)以越信濃坂(しなののさか)。鳴音如雷,則東至上野國(かみつけのくに)而自散。


島庄遺跡 方形池
傳蘇我馬子邸庭池跡,然未見小嶋形跡。位在石舞台古墳東北方。


信濃坂 碓冰峠


植山古墳


植山古墳西側 推古帝陵比定地
推古天皇原與竹田皇子合葬,後遷河內磯長山田陵。『古事記』云:「御陵在大野岡上,後遷科長大陵也。」『延喜式』諸陵云:「磯長山田陵。小治田宮御宇推古天皇。在河內國石川郡,兆域東西二町,南北二町,陵戶一烟,守戶四烟。」合葬陵所在,諸說紛紜,有植山古墳、山田高塚古墳、高松古墳等說。又植山古墳傳其西側為推古陵,東側為竹田皇子陵。
十五、天皇崩御

 三十六年,春二月戊寅朔甲辰(廿七),天皇臥病(みやまひしたまふ)。
 三月丁未朔戊申(二),日有蝕盡(はえつきたる)之。
 壬子(六),天皇病甚之,不可諱(いむべからず)。
 則召田村皇子(たむらのみこ),謂之曰:「昇天位(たかみくら)而經綸鴻基(あまつひつぎ),馭萬機(よろづのまつりごと)以亭育(やしなふ)黎元,本非輙言(たやすくいふもの),恒之所重。故汝慎以察之(あきらかにせよ),不可輙言。」
 即日,召山背大兄(やましろのおほえ),教之曰:「汝肝稚之(きもわかし)。若雖心望,而勿諠言(とよき)。必待群言(まへつきみたちのこと)以宜從。」
 癸丑(七),天皇崩之。【時年七十五。】即殯於南庭。
 夏四月壬午朔辛卯(十),雹零(あられふる)。大如桃子(もものみ)。
 壬辰(十一),雹零。大如李子(すもものみ)。
 自春至夏,旱之(ひでり)。
 秋九月己巳朔戊子(廿),始起天皇喪禮(みものゐや)。是時群臣各誄於殯宮(もがりのみや)。
 先是,天皇遺詔(のちのみことのりす)於群臣曰:「比年(としごろ)五穀不登,百姓大飢,其為朕興(たて)陵以勿厚葬(あつくはぶる)。便(すなはち)宜葬于竹田皇子之陵(たけだのみこのみさざき)。」
 壬辰(廿四),葬竹田皇子之陵。

日本書紀卷廿二 終

【久遠の絆】【卷廿一】【卷廿三】【再臨詔】