日本書紀 卷十三 允恭紀/安康紀

【允恭天皇】【安康天皇】


雄朝津間稚子宿禰天皇(をあさつまわくごのすくねのすめらみこと) 允恭天皇(いんぎょうてんわう)


仁德天皇系 皇統譜
仁德帝系皇統,至清寧帝而無子,得弘計、億計以承天日繼,是顯宗、仁賢二帝也。後至武烈帝而復無嗣。終迎應神帝五世孫男大迹王繼位持統,是為繼體帝。
一、天皇即位

 雄朝津間稚子宿禰天皇(をあさつまわくごのすくねのすめらみこと)瑞齒別(みづはわけ)天皇同母弟(いろど)也。
 天皇自岐嶷(きぎよく),至於總角(あげまき),仁惠儉下(へりくだる)。即壯篤病(あつきみやまひ)容止(みふるまひ)不便。
 六年,春正月瑞齒別(反正)天皇崩。
 爰群卿(まへつきみたち)議之曰:「方今大鷦鷯(おほさざき)天皇之子,雄朝津間稚子宿禰皇子與大草香皇子(おほくさかのみこ)。然雄朝津間稚子宿禰皇子(このかみ)仁孝(ひとをめぐみおやのしたがふみち)。」即選吉日,跪上天皇之(みしるし)。雄朝津間稚子宿禰皇子(さり)曰:「我不天(さきはひなきこと),久離篤疾(あつきやまひ)不能步行(あるくことあたはず)。且我既欲除病,獨非奏言,而密破身治病,猶勿(いゆる)。由是先皇(仁德)責之曰:『汝患病(ほしきのまま)破身,不孝孰甚於茲矣。其長生之,遂不得繼業(あまつひつぎしらす)。』亦我兄二天皇,愚我而輕之(かろみし),群卿所共知。夫天下者大器(うつはもの)也,帝位者鴻業(おほきいこと)也。且民之父母,斯則聖賢之職(さかしひとひじりのつかさ),豈下愚(おろかひと)(たへる)乎。更選賢王宜立矣,寡人(おのれ)弗敢當。」
 群臣再拜言:「夫帝位(みかどのくらゐ)不可以久(むなしい)天命(あまつよさし)不可以謙距(ゆづりこばむ)。今大王留時逆眾,不正號位(なくらゐ),臣等恐百姓(おほみたから)望絕也!願大王雖(いたはし),猶即天皇位。」雄朝津間稚子宿禰皇子曰:「奉宗廟社稷(くにいへ),重事也。寡人(われ)篤疾,不足以(かなふ)。」猶辭而不聽(いなびてゆるしたまはず)。於是群臣(まへつきみたち)固請(かたくこひ)曰:「臣伏計之,大王奉皇祖宗廟(みおやのくに),最宜稱。雖天下萬民(おほみたから),皆以為宜。願大王聽之!」
 元年,冬十有二月,妃忍坂大中姬命(おしさかのおほなかつひめのみこと)苦群臣之憂吟(うれへさまよふ),而親執洗手水(おみてみづ),進于皇子前,仍啟之曰:「大王辭而不即位。位空之,既經年月。群臣(まへつきみたち)百寮(ももつかさたち),愁之不知所為(せむすべしらず)。願大王從群望,(あながち)即帝位。」然皇子不欲聽,而背居不言。於是大中姬命(かしこまり)之不知退而侍之,經四五剋(よときいつとき)
 當于此時,季冬之節(しはすのをり),風亦烈寒。大中姬所捧鋺水(かなまりのみづ),溢而(かひな)凝,不堪寒以將死。皇子顧之驚,則扶起謂之曰:「嗣位(ひつぎのみくらゐ)重事,不得輙就(たやすくつく)。是以於今不從。然今群臣之請,事理灼然(ことわりいやちこ)。何遂(いなび)耶。」爰大中姬命仰歡,則謂群卿曰:「皇子將聽群臣之請。今當上天皇璽符(すめらみことのみしるし)。」於是群臣大喜,即日捧天皇之璽符,再拜(をろがみ)上焉。皇子曰:「群卿共為天下請寡人。寡人何敢遂辭。」乃即帝位(あまつひつぎしろしめす)是年也,太歲壬子

二、立后與皇嗣、天皇病癒

 二年,春二月丙申朔己酉(十四),立忍坂大中姬為皇后(きさき)
 是日,為皇后定刑部(おさかべ)
  皇后生,木梨輕皇子(きなしのかるのみこ)名形大娘皇女(ながたのおほいらつめのひめみこ)境黑彥皇子(さかひのくろひこのみこ)穴穗天皇(あなほのすめらみこと)輕大娘皇女(かるのおほいらつめのひめみこ)八釣白彥皇子(やつりのしろひこのみこ)大泊瀨稚武天皇(おほはつせわかたけるのすめらみこと)但馬橘大娘皇女(たぢまのたちばなのおほいらつめのひめみこ)酒見皇女(さかみのひめみこ)
 初皇后隨母在家,獨遊(その)中。時闘雞國造(つけのくにのみやつこ)從傍徑行之,乘馬而蒞(かき)(かたり)皇后,嘲之曰:「能作(その)乎,汝者(なびと)也?【汝,此云なびと(那鼻苔)。】」且曰:「壓乞(いで)戶母(とじ),其(あららぎ)一莖焉。【壓乞,此云いで(異提)。戶母,此云とじ(覩自)。】」皇后則採一根蘭,與於乘馬者,因以問曰:「何用求蘭也耶?」乘馬者對曰:「行山撥(まぐなき)也。【蠛,此云まぐなき(摩愚那岐)。】」時皇后(おもひむすび)意裏(みこころのうち),乘馬者辭無禮(ゐやなき),即謂曰:「(おびと)也,余不忘矣。」是後皇后登祚(なりいで)之年,覓乘馬乞蘭者,而(せめ)昔日之罪以欲殺。爰乞蘭者(ひたひ)搶地叩頭曰:「臣之罪,實當萬死(しぬるつみ)。然當其日,不知貴者(たふときひと)。」於是皇后赦死刑(ころすつみ),貶其(かばね)稻置(いなき)
 三年,春正月辛酉朔(),遣使求良醫(よきくすし)新羅(しらき)
 秋八月,醫至自新羅。則令治天皇病。未經幾時(いくばく),病已差也(いえぬ)。天皇歡之,厚賞醫以歸于國。


允恭帝皇胤


野蒜
蘭,野蒜古名。『和名抄』:「蘭蒚草,阿良良岐。【あららぎ】」刀自【とじ】或云戶母【とじ】,戶主【とぬし】之略也。


盟神探湯
古傳占法。或手入沸水、沸埿,或置灼斧掌上,見手潰傷與否,以占凶吉、斷是非、辨虛實。味橿丘,『延喜式神名:「甘樫坐神社。」『皇極紀』:「甘檮岡。」
三、盟神探湯,校定氏姓

 四年,秋九月辛巳朔己丑(),詔曰:「上古之治(いにしへのくにをさむること)人民(おほみたから)得所,姓名(かばねな)(たがふ)。今朕踐祚(あまつひつぎしろしめし),於茲四年矣。上下相爭(かみしもあひあらそひ),百姓不安(やすからず)。或誤失己(かばね),或(ことさら)高氏(たかきうぢ)。其不至於治者,蓋由是也。朕雖不賢(をさなし),豈非正其錯乎?群臣,議定(はかりさだめ)奏之!」群臣皆言:「陛下舉(あやまち)(まがれる),而定氏姓(うぢかばね)者,臣等冒死。」奏可。
 戊申(廿八),詔曰:「群卿、百寮及諸國造(くにのみやつこ)等皆各言,或帝皇之裔(みかどのみあなすゑ),或異之天降(あまくだれり)。然三才顯分(みつのみちあらはれわかれ)以來,多歷萬歲(よろづとせ)。是以一氏蕃息(うまはる),更為萬姓(よろづのかばね),難知其實。故諸氏姓人等沐浴齋戒(ゆかはあみきよまはり),各為盟神探湯(くかたち)。」則於味橿丘(あまかしのをか)辭禍戶𥑐(ことまがとのさき)探湯瓮(くかへ),而引諸人令赴曰:「得實則全,偽者必害。」【盟神探湯,此云くかたち(區訶陀智)。或(ひぢ)(なべ)煮沸,攘手探湯埿。或燒(をの)火色,置于(たなうら)。】於是諸人各著木綿手繈(ゆふたすき),而赴釜探湯。則得實者自全,不得實者皆傷。是以故詐者(いつはれるもの)愕然之(あらかじめ)退無進。自是以後,氏姓自定,更無詐人。

四、討玉田宿禰

 五年,秋七月丙子朔己丑(十四)地震(なゐふる)
 先是,命葛城襲津彥(かづらきのそつびこ)之孫玉田宿禰(たまたのすくね),主瑞齒別(反正)天皇之(もがり)。則當地震夕,遣尾張連吾襲(をはりのむらじあそ),察殯宮(もがりのみや)之消息。時諸人悉聚無闕,唯玉田宿禰無之也。吾襲奏言:「殯宮大夫(かみ)玉田宿禰,非見殯所。」則亦遣吾襲於葛城,令視(みしむ)玉田宿禰。
 是日,玉田宿禰方集男女而酒宴(うたげす)焉。吾襲舉狀,具告玉田宿禰。宿禰則畏有事,以馬一匹授吾襲為禮幣(ゐやのまひ),乃密(さきぎり)吾襲,而殺于道路。因以逃隱武內宿禰(たけうちのすくね)墓城(はか)。天皇聞之,喚玉田宿禰。宿禰疑之(よろひ)(ころも)中而參赴。甲端自衣中出之。天皇分明(あきらかに)欲知其狀,乃令小墾田采女(をはりたのうねめ),賜酒于玉田宿禰。爰采女分明瞻衣中有鎧,而具奏于天皇。天皇設兵將殺。玉田宿禰乃密逃出而匿家。天皇更發卒(かくみ)玉田家,而捕之乃誅。
 冬十有一月甲戌朔甲申(十一),葬瑞齒別(反正)天皇于耳原陵(みみはらのみさざき)


武內宿禰墓
武內宿禰室破賀墓,今宮山古墳。


反正天皇 百舌鳥耳原北陵


弟姬 衣通郎姬
身光自衣通出。『古事記』作衣通姬,或云輕大郎女。『日本書紀』以弟姬、輕大郎女別為他人。


大原之里 藤原之第
藤原鎌足生誕之地,傳亦允恭帝置衣通姬之藤原宮。

衣通姬戀天皇歌:「此宵當何夕 妾背子兮將來夕 細根細蟹兮 蜘蛛張網碎動者 今夜殊更映心弦

天皇聆曲感懷歌:「袖珍細模樣 華美錦紐吾欲解 解紐褪衣裳 雖冀夜夜相共寢 恨限春宵唯一晚

天皇翫井傍櫻華歌:「花細花艷美 井傍櫻華惹人憐 願如憐此華 早日寵幸然不得 吾所愛兮姬君矣


衣通郎姬 茅渟宮舊址

衣通姬茅渟歌:「雖欲與君逢 常久相逢不可得 一猶鯨魚取 海濱藻兮無定所 只願偶時得寄岸


茅渟宮舊蹟 衣通郎姬墓
五、衣通姬與茅渟頻幸

 七年,冬十二月壬戌朔()(うたげし)新室(にひむろ)。天皇親之撫琴,皇后起儛。儛既終而不言禮事(ゐやのこと)。當時風俗(ひと),於宴會(うたげ)儛者儛終則自對座長(くらかみ)曰:「奉娘子(をみな)也。」時天皇謂皇后曰:「何失常禮(つねのゐや)也?」皇后惶之,復起儛。儛竟(まひをはり)言:「奉娘子。」天皇即問皇后曰:「所奉娘子者誰也?欲知姓字(うぢな)。」皇后不獲已(やむことをえず)而奏言:「妾弟,名弟姬(おとひめ)焉。」
 弟姬容姿絕妙無比(かほすぐれることならびなし),其艷色(うるはしきいろ)徹衣而晃之(てれり)。是以時人號衣通郎姬(そとほしのいらつめ)也。天皇之志存于衣通郎姬,故(しひ)皇后而令進。皇后知之,不(たやすく)言禮事。爰天皇歡喜,則明日(くるつひ)遣使者喚弟姬。
 時弟姬隨母以在於近江坂田(ちかつあふみのさかた)。弟姬畏皇后之情,而不參向。又重七喚(ななたびめす)。猶固辭以不至。於是天皇不悅,而復敕一舍人中臣烏賊津使主(なかとみのいかつのおみ)曰:「皇后所進之娘子弟姬,喚而不來。汝自往之,召將弟姬以來。必敦(たまひもの)矣。」爰烏賊津使主(うけたまはり)命退之,(かれひ)(ころも)中到坂田。伏于弟姬庭中言:「天皇命以召之。」弟姬對曰:「豈非懼天皇之命。唯不欲傷皇后之志耳。妾雖身亡(みうす),不參赴。」時烏賊津使主對言:「臣既被天皇命,必召率來矣。若不將來,必罪之。故返被極刑(しぬるつみ),寧伏庭而死耳。」仍經七日(なぬか),伏於庭中。與飲食(みづいひ)不飡(くらはず),密食懷中之糒。於是弟姬以為:「妾因皇后之(ねたみ),既拒天皇命。且亡君之忠臣(ただしきひと),是亦妾罪。」則從烏賊津使主而來之。到倭春日(やまとのかすが),食于櫟井(いちひゐ)上。弟姬親賜(みき)于使主,(なぐさむ)其意。
 使主即日至京,留弟姬於倭直吾子籠(やまとのあたひあごこ)之家,復命天皇。天皇大歡之,美烏賊津使主,而敦寵焉。然皇后之色不平(みおもへりよくもあらず)。是以勿近宮中(みやのうち),則別構殿屋(との)藤原(ふぢはら)而居也。
 適產大泊瀨(雄略)天皇之夕,天皇始幸藤原宮(ふぢはらのみや)。皇后聞之恨曰:「妾初自結髮(かみあげ),陪於後宮(きさきのみや),既經多年(あまたのとし)甚哉(いたきかも),天皇也!今妾產之,死生相半(しにいきあひなかば)。何故,當今夕,必幸藤原!」乃自出之,燒產殿(うぶどの)而將死。天皇聞之,大驚曰:「朕過也!」因慰喻(なぐさめさとし)皇后之意焉。
 八年,春二月,幸于藤原,密()衣通郎姬之消息。
 是夕,衣通郎姬(しのひ)天皇而獨居(ひとりはべり)。其不知天皇之臨,而歌曰:

 天皇聆是歌,則有感情(めでたまふみこころ),而歌之曰:

 明旦,天皇見井傍櫻華(さくらのはな),而歌之曰:

 皇后聞之,且大恨也。於是衣通郎姬奏言:「妾常近王宮(おほみや),而晝夜相續,欲視陛下之威儀(みよそほひ)。然皇后則妾之姊也,因妾以恒恨陛下,亦為妾苦。是以冀離王居(おほみや)而欲遠居,若皇后嫉意少息歟。」天皇則更興造宮室於河內茅渟(かふちのちぬ),而衣通郎姬令居。因此以屢遊獦(みかり)日根野(ひねの)
 九年,春二月,幸茅渟宮(ちぬのみや)
 秋八月(いでます)茅渟。
 冬十月,幸茅渟(ちぬ)
 十年,春正月,幸茅渟(ちぬ)
 於是皇后奏言:「妾如毫毛(けのすゑばかり),非嫉弟姬。然恐陛下屢幸于茅渟,是百姓之苦。仰願宜除車駕(いでまし)之數也。」是後希有(まれ)之幸焉。
 十一年,春三月癸卯朔丙午(),幸於茅渟宮。衣通郎姬歌之曰:

 時天皇謂衣通郎姬曰:「是歌不可聆他人(あたしひと)。皇后聞必大恨。」故時人號濱藻(はまも)奈能利曾毛(なのりそも)也。奈能利曾毛(なのりそも)者,勿告藻(なのりそも)也。
 先是,衣通郎姬居于藤原宮時,天皇詔大伴室屋連(おほとものむろやのむらじ)曰:「朕頃得美麗孃子(かほよきをみな),是皇后母弟(いろど)也。朕心異愛之,冀其名欲傳于後葉(のちのよ)。奈何?」室屋連依(みことのり)而奏可。則科諸國造等,為衣通郎姬定藤原部(ふぢはらべ)

六、赤石真珠

 十四年,秋九月癸丑朔甲子(十二),天皇獦于淡路嶋(あはぢのしま)。時麋鹿(おほしか)(さる)()莫莫紛紛(ありのまがひ)盈于山谷,(ほのほ)蠅散(はへのごとさわく)。然終日(ひねもす)以不獲一獸。於是獦止以更卜矣(うらふ)
 嶋神(たたり)之曰:「不得獸者,是我之心也。赤石(あかし)海底有真珠(しらたま),其珠祠於我,則悉當得獸。」爰更集處處之白水郎(あま),以令探赤石海底(うなそこ)。海深不能至底。唯有一海人(あま),曰男狹磯(をさし),是阿波國長邑(あはのくにのながむら)之海人也,(すぐれ)於諸海人。是腰繫繩入海底,差頃之(ややしばらく)出曰:「於海底,有大鰒(おほあはび)。其處光也。」諸人皆曰:「嶋神所請之珠,殆有是鰒腹乎!」亦入探之。爰男狹磯抱大鰒而泛出之(うかびいで),乃息絕以死浪上。既而下繩測海底,六十尋。則割鰒,實真珠有腹中,其大如桃子(もおのみ)。乃祠嶋神而獦之,多獲獸也。唯悲男狹磯入海死之,則作墓厚葬(あつくはぶり)。其墓猶今存之。


蜑塚 海人男狹磯墓


輕之神社

輕太子戀妹姬歌:「足引山險峻 陡峭山間作山田 以此山高聳 遂牽下樋引水流 下樋潺地底 吾暗啜泣戀吾妻 片泣不能止 吾啜泣兮戀吾妻 直至昨夜者 方得心安觸汝膚

其二:「親親吾姬君 汝雖見流伊豫島 船餘返戻兮 終將一日歸若船 吾將潔齋不穢疊 此誓必謹守 吾雖云疊寔意妻 汝亦齋潔莫為穢

其三:「雁飛天高翔 輕孃子兮吾妹子 汝若甚泣者 此事將為天下知 宜若幡舍山 彼山鳩低鳴 暗自隱忍啜泣矣
七、木梨輕太子與妹姬之畸戀

 二十三年,春三月甲午朔庚子(),立木梨輕皇子為太子(ひつぎのみこ)容姿佳麗(すがたうるはし),見者自(めづ)同母妹(いろも)輕大娘皇女亦艷妙(かほよし)也。太子恒念合大娘皇女,畏有罪而默之。然感情(めでたまふみこころ)既盛,殆將至死。爰以為(おもほさく):「徒空(いたづら)死者,雖有罪,何得(しのぶる)乎?」遂竊(たはけ),乃悒懷少息(いきどほりすこしくやみ)。因以歌之曰:

 二十四年,夏六月御膳羹汁(みにへのあつもの)凝以作冰。天皇異之,卜其所由(ゆゑ)。卜者曰:「有內亂。蓋親親相姧(はらからどちあひたはけ)乎!」時有人曰:「木梨輕太子姧同母妹輕大娘皇女。」因以推問(かむがへとひ)焉。(こと)既實也。太子是為儲君(まうけのきみ),不得罪。則(ながす)輕大娘皇女於伊豫(いよ)。是時,太子歌之曰:

 又歌之(のたまはく)

八、允恭天皇崩御

 四十二年,春正月乙亥朔戊子(十四),天皇(かむあがり)。時年若干(そこばく)
 於是,新羅王(しらきのこにきし)聞天皇既崩,驚愁之,貢上調船(みつきのふね)八十艘及種種樂人(うたまひひと)八十。是泊對馬(つしま)大哭(おほきにみねたてまつる)。到筑紫(つくし),亦大哭。泊于難波津(なにはのつ),則皆素服(あさのみそ)之,希捧御調(みつき),且(つらぬ)種種樂器(うたまひのうつはもの)。自難波至于(みやこ),或哭泣(なきいさち),或歌儛(うたまひ),遂參會(まひつどへり)殯宮(もがりのみや)也。
 冬十一月,新羅弔使(とぶらひつかひ)喪禮(みものゐや)(をはり)而還之。爰新羅人恒愛京城傍耳成山(みみなしやま)畝傍山(うねびやま)。則到琴引坂(ことひきのさか),顧之曰:「宇泥咩巴椰(うねめはや)彌彌巴椰(みみはや)。」是未習風俗(くにひと)之言語。故(よこなばり)畝傍山謂宇泥咩(うねめ),訛耳成山謂瀰瀰(みみ)耳。
 時倭飼部(やまとのうまかひべ)從新羅人,聞是辭,而疑之以為(おもへらく):「新羅人通采女(うねめ)耳。」乃返之啟于大泊瀨皇子(雄略帝)。皇子則悉禁固(からめとらへ)新羅使者,而推問。時新羅使者啟之曰:「無犯采女。唯愛京(ほとり)之兩山而言耳。」則知虛言(いつはりこと),皆(ゆるし)。於是新羅人大恨,更減貢上之物色(もののしな)及船數。
 冬十月庚午朔已卯(),葬天皇於河內長野原陵(かふちのながののはらのみさざき)


允恭天皇 河內長野原陵


穴穗天皇(あなほのすめらみこと) 安康天皇(あんかうてんわう)


穴穗括箭【鐵鏃】

輕括箭【銅鏃】

穴穗皇子喻物部大前宿禰歌:「石上物部氏 大前小前宿禰者 今立金門蔭 如斯當速參來矣 切莫徒然待雨歇

大前宿禰答歌:「百敷大宮人 足結小鈴落地響 太子竄出宮 宮人騷動圍此里 里人亦慎莫輕舉
一、木梨輕太子自滅

 穴穗天皇,雄朝津間稚子宿禰(允恭)天皇第二子也。【一云,第三子也。】母曰忍坂大中姬命,稚渟毛二岐皇子(わかぬけふたまたのみこ)之女也。
 四十二年,春正月天皇(允恭)崩。
 冬十月葬禮(みはぶりのゐや)畢之。
 是時太子()暴虐(あらくさかしまなるわざ),淫于婦女。國人謗之(そしり),群臣不從,悉隸穴穗皇子(あなほのみこ)。爰太子()欲襲穴穗皇子,而密設兵。穴穗皇子復興兵將戰。故穴穗括箭(あなほや)輕括箭(かるや),始起于此時也。
 時太子()知群臣不從,百姓乖違(そむきたがへる),乃出之匿物部大前宿禰(もののべのおほまへのすくね)之家。穴穗皇子聞則圍之。大前宿禰出門而迎之。穴穗皇子(みうたよみ)之曰:

 大前宿禰答歌(かへしうた)之曰:

 乃啟皇子曰:「願勿害太子。臣將議。」由是太子自死于大前宿禰之家。【一云,流伊豫國(いよのくに)。】

二、大草香皇子枉死

 十二月己巳朔壬午(十四),穴穗皇子即天皇位。尊皇后(忍坂大中姬)曰皇太后。則遷都于石上(いそのかみ),是謂穴穗宮(あなほのみや)
 當是時,大泊瀨皇子欲聘瑞齒別(反正)天皇之女等。【女名不見諸記(もろもろのふみ)。】於是皇女等對曰:「君王恒暴強(あらくこはし)也。儵忽(たちまち)忿起,則朝見者夕被殺,夕見者朝被殺。今妾等顏色不秀,加以情性拙之(ひととなりつたなし)。若威儀(ふるまひ)言語(ことば),如毫毛(けのすゑ)不似王意,豈為親乎?是以不能奉命。」遂(のがれ)以不聽矣。
 元年,春二月戊辰朔(),天皇為大泊瀨皇子,欲(あとふ)大草香皇子妹幡梭皇女(はたびのひめみこ)
 則遣坂本臣(さかもとのおみ)根使主(ねのおみ),請於大草香皇子曰:「願得幡梭皇女,以欲配大泊瀨皇子。」爰大草香皇子對言:「僕頃患重病不得(いゆる),譬如物積船以待潮者。然死之(いのちのかぎり)也,何足惜乎。但以妹幡梭皇女之(みなしご),而不能易死耳。今陛下不嫌其(みにくき),將滿荇菜(をみなめ)之數,是甚之大恩也。何辭命辱(おほみことのかたじけなき)?故欲呈丹心(きよきこころ),捧私寶名押木珠縵(おしきのたまかづら)【一云,立縵(たちかづら)。又云,磐木縵(いはきのかづら)。】附所使(まへつきみ)根使主而敢奉獻。願物雖輕賤(かろくいやし),納為信契(しるし)。」
 於是,根使主見押木珠縵,感其麗美(うるはしき)以為(おもはく):「(ぬすみ)為己寶。」則詐之(いつはり)奉天皇曰:「大草香皇子者不奉命,乃謂(やつかれ)曰:『其雖同族(おなじやから),豈以吾妹得為妻耶?』」既而留縵,入(おのがみ)而不獻。
 於是天皇信根使主之讒言(よこしまこと),則大怒之起兵,圍大草香皇子之家而殺之。是時難波吉師日香蚊(なにはのきしひかか)父子並仕大草香皇子。共傷其君無罪死之,則父抱王頸,二子各執王足而唱曰:「吾君無罪以死之,悲乎!我父子三人生事之。死不(したがひ),是不臣矣(やつこにあらず)!」即自刎(みづからくびはね)之死于皇尸側。軍眾(いくさびと)流涕(かなしぶ)
 爰取大草香皇子之妻中蒂姬(なかしひめ),納于宮中,因為妃。復遂喚幡梭皇女,配大泊瀨皇子。是年也,太歲甲午
 二年,春正月癸巳朔己酉(十七),立中蒂姬命為皇后,甚寵也。
  初中蒂姬命生眉輪王(まよわのおほきみ)於草香皇子。乃依母以得免罪,常養宮中。
 三年,秋八月甲申朔壬辰(),天皇為眉輪王見弒。【辭(つぶさ)大泊瀨(雄略)天皇紀。】
 三年後,乃葬菅原伏見陵(すがはらのふしみのみさざき)

日本書紀卷十三 終


墓山古墳 傳大草香皇子墓


前賢故實 難波日香蚊


安康天皇  菅原伏見西陵

【久遠の絆】【卷十二】【卷十四】【再臨詔】