日本書紀 卷十一 仁德紀

大鷦鷯天皇(おほさざきのすめらみこと) 仁德天皇(にんとくてんわう)

一、菟道稚郎子禪位

 大鷦鷯天皇(おほさざきのすめらみこと)譽田(ほむた)天皇之第四子也。母曰仲姬命(なかつひめのみこと)五百城入彥皇子(いほきいりびこのみこ)之孫也。
 天皇幼而聰明叡智,貌容美麗。及(おとこざかり),仁寬慈惠。
 四十一年,春二月譽田(應神)天皇崩。
 時太子菟道稚郎子(うぢのわきいらつこ)讓位于大鷦鷯尊,未即帝位。仍諮大鷦鷯尊:「夫君天下以治萬民(よろづのたみ)者,蓋之如天,容之如地。上有驩心(よろこぶみこころ)以使百姓,百姓欣然,天下安矣。今我也弟之,且文獻不足(さとりたらず)。何敢繼嗣位(つぎてのみくらゐ),登天業(あまつひつぎ)乎?大王者,風姿岐嶷(きぎよく),仁孝遠聆,以(みよはひ)且長,足為天下之君。其先帝立我為太子,豈有能才乎?唯愛之者也。亦奉宗廟社稷(くにいへ),重事也。僕之不佞(みつなく),不足以(かなふ)。夫(このかみ)上而(おと)下,聖君而愚臣,古今之常典(つねののり)焉。願王勿疑,須即帝位。我則為臣之助耳。」大鷦鷯尊對言:「先皇謂:『皇位(きみのみくらゐ)者,一日之不可空。』故預選明德,立王為貳,(さきはへ)之以嗣,授之以民,崇其寵章(めぐみしな),令聞於國。我雖不賢(をさなし),豈棄先帝(さきのみかど)之命,輙從弟王之願乎?」固辭不承,各相讓(あひゆづり)之。
 是時額田大中彥皇子(ぬかたのおほなかつひこのみこ)將掌(やまと)屯田及屯倉(みやけ),而謂其屯田司(みたのつかさ)出雲臣(いづものおみ)之祖淤宇宿禰(おうのすくね)曰:「是屯田者自本山守(やまもり)地。是以今吾將治矣。爾之不可(つかさどる)。」時淤宇宿禰啟于皇太子(稚郎子)。皇太子謂之曰:「汝便啟大鷦鷯尊。」於是淤宇宿禰啟大鷦鷯尊曰:「臣所任屯田者,大中彥皇子(ふせき)不令治。」大鷦鷯尊問倭直(やまとのあたひ)麻呂(まろ)曰:「倭屯田者元謂山守地,是如何?」對言:「臣之不知。唯臣弟吾子籠(あごこ)知也。」適是時,吾子籠遣於韓國(からくに)而未還。爰大鷦鷯尊謂淤宇曰:「爾躬往於韓國,以喚吾子籠。其兼日夜而急往。」乃差淡路(あはぢ)海人(あま)八十為水手(かこ)
 爰淤宇往于韓國,即率吾子籠而來之。因問倭屯田。對言:「傳聞之,於纏向玉城宮(まきむくのたまきのみや)御宇天皇(垂仁)之世,科太子大足彥尊(おほたらしひこのみこと),定倭屯田也。是時敕旨:『凡倭屯田者,每御宇帝皇(あめのしたをさめたまふすめらみこと)之屯田也。其雖帝皇之子,非御宇者不得掌矣。』是謂山守地,非之也。」時大鷦鷯尊遣吾子籠於額田大中彥皇子,而令知(あるかたち)。大中彥皇子更無如何焉。乃知其(さがなき),而赦之勿罪。
 然後大山守皇子(おほやまもりのみこ)每恨先帝廢之非立,而重有是怨。則謀之曰:「我殺太子(稚郎子),遂登帝位。」爰大鷦鷯尊預聞其謀,密告太子,備兵令守。時太子設兵待之。大山守皇子不知其備兵,獨領數百兵士(いくさ),夜半發而行之。
 會明,詣菟道(うぢ),將渡河。時太子服布袍(ぬのきぬ),取檝櫓(かぢ),密接度子(わたりもり),以載大山守皇子而濟。至于河中,(あとらへ)度子,蹈船而(かたぶけ)。於是大山守皇子墮河而沒更浮,流之歌曰:

 然伏兵(ふしいくさ)多起,不得著岸,遂沉而死焉。令求其(しかばね)(うき)考羅濟(かわらのわたり)。時太子視其屍,歌之曰:

 乃葬于那羅山(ならやま)
 既而,興宮室(おほみや)於菟道而居之,猶由讓位於大鷦鷯尊,以久不即皇位。
 爰皇位空之,既經三載(みとせ),時有海人,齎鮮魚之苞苴(あざらけきうなのにへ),獻于菟道宮(うぢのみや)也。太子令海人曰:「我非天皇。」乃返之,令進難波(なには)。大鷦鷯尊亦返以令獻菟道。於是海人之苞苴,(あざれぬ)往還(かよふあひだ)。更返之,取他鮮魚而獻焉。讓如前日(さきのひ)。鮮魚亦鯘。海人苦於屢還,乃棄鮮魚而哭。故(ことわざ)曰:「有海人耶,因己物以泣。」其是之緣也。
 太子曰:「我知不可奪兄王之志。豈久生之,煩天下乎!」乃自死(みづからおはり)焉。時大鷦鷯尊聞太子(かむさり),以驚之從難波馳之,到菟道宮。爰太子薨之經三日。時大鷦鷯尊摽擗叫哭(みむねうちおらびなき),不知所如,乃解髮(みくじをとき)跨屍,以三呼曰:「我弟皇子!」乃應時(たちまち)而活,自起以居。爰大鷦鷯尊語太子曰:「悲兮!惜兮!何所以(ゆゑ)歟自逝之!若死者(すぎにしひと)(さとり)先帝(應神)何謂我乎?」乃太子啟兄王曰:「天命(いのちのかぎり)也,誰能留焉。若有向天皇(應神)之御所,具奏兄王聖之,且有讓矣。然聖王(ひじりのみこ)聞我死,以急馳遠路,豈得無(ねぎらひ)乎?」乃進同母妹(いろも)八田皇女(やたのひめみこ)曰:「雖不足納采,僅充掖庭(うちつみや)之數。」乃且伏(ひとき)而薨。於是大鷦鷯尊素服(あさのみそ)為之發哀(かなしび),哭之甚(なげき)。仍葬於菟道山上。


仁德天皇 大鷦鷯尊


淤宇 出雲國意宇郡


菟道河 宇治川


考羅濟

大山守墮河歌:「 千早逸靈威 今立菟道渡濟間 執棹掌槳者 汝得操船諳激流 速來助吾為我仲

太子視大山守屍歌:「千早逸靈威 菟道渡兮渡濟場 渡瀨渡手者 今立其濟兮 梓弓良材檀木矣 心欲以伐之 吾心縱雖有此思 心欲以取之 吾心縱雖有此思 立於根邊者 憶汝大山守皇子 立於梢邊者 憶汝大山守妹妻 惻隱苛甚矣 居於其處不忍伐 悲傷哀憐矣 居於此處不忍取 故不伐之來歸者 梓弓良才檀木矣


大山守命 那羅山墓


菟道稚郎子菟道宮 宇治上神社


菟道稚郎子 菟道山宇治墓


仁德天皇 難波高津宮
傳高津宮遺址,尚有餘處。


木菟【貓頭鷹】、鷦鷯
二、仁德即位與立后

 元年,春正月丁丑朔己卯(),大鷦鷯尊即天皇位。尊皇后(仲姬)曰皇太后。
 都難波,是謂高津宮(たかつのみや)。即宮垣(みかき)室屋(みほとの)堊色(うはぬり)也。(はへき)(うつはり)(はしら)(うだち)弗藻飾也。茅茨之蓋(かやのやね)弗剖齊也。此不以私曲(わたくし)之故,留耕績(たかへしをうむ)之時者也。
 初天皇生日,木菟(つく)入于產殿(うぶとの)。明旦,譽田(應神)天皇喚大臣武內宿禰(たけうちのすくね)語之曰:「是何瑞也?」大臣對言:「吉祥(よきさが)也。復當昨日,臣妻產時,鷦鷯(さざき)入于產屋。是亦異焉。」爰天皇曰:「今朕之子與大臣之子,同日共產,兼有瑞,是天之表(あまつしるし)焉。以為,取其鳥名,各相易名子,為後葉(のちのよ)(しるし)也。」則取鷦鷯名以名太子,曰大鷦鷯皇子(おほさざきのみこ);取木菟名號大臣之子,曰木菟宿禰(つくのすくね)。是平群臣(へぐりのおみ)之始祖也。是年也,太歲癸酉
 二年,春三月辛未朔戊寅(),立磐之媛命(いはのひめのみこと)為皇后。
  后生,大兄去來穗別天皇(おほえのいざほわけのすめらみこと)住吉仲皇子(すみのえのなかつみこ)瑞齒別天皇(みづはわけのすめらみこと)雄朝津間稚子宿禰天皇(をあさつまわくごのすくねのすめらみこと)
 又妃,日向髮長媛(ひむかのかみながひめ)
  生,大草香皇子(おほくさかのみこ)幡梭皇女(はたびのひめみこ)

三、民竈興繁

 四年,春二月己未朔甲子(),詔群臣曰:「朕登高臺(たかどの)以遠望之,烟氣(けぶり)不起於域中(くぬち)。以為,百姓(おほたから)(まづし),而家無炊者(いひかしくひと)。朕聞:『古聖王之世,人人誦詠德之音(ほむるこゑ),家家有康哉歌(やすらかなりといふうた)。』今朕臨億兆(おほたから),於茲三年。頌音不聆,炊烟轉疎(うたたおろそか)。即知,五穀不登(いつつのたなつものみのらず),百姓窮乏(きはまる)也。邦畿之內(うちつくに)尚有不給者,況乎畿外諸國(とつくにぐに)耶!」
 三月己丑朔己酉(廿一),詔曰:「自今以後,至于三載(みとせ),悉除課役(えつき),息百姓之苦。」是日始之,黼衣(おほみそ)絓屨(おほみくつ),不弊盡不更為也。溫飯(おほみもの)煖羹(おほみあつもの),不酸餒(すえくさ)不易也。削心約志,以從事乎無為。是以宮垣崩而不造,茅茨壞以不葺。風雨入隙而沾(おほみそ)(おほみふすま)星辰(ほしのひかり)漏壞而露(みゆか)(みまし)。是後,風雨順時,五穀豐穰(ゆたか)三稔(みとせ)之間,百姓富寬(とみゆたか),頌德既滿,炊煙亦繁。
 七年,夏四月辛未朔(),天皇居臺上,而遠望之。烟氣多起。
 是日,語皇后曰:「朕既富矣。豈有愁乎。」皇后對諮:「何(のたまふ)富焉?」天皇曰:「烟氣滿國,百姓自富歟。」皇后且言:「宮垣壞而不得(をさむ),殿屋破之衣、被露。何謂富乎?」天皇曰:「其天之立君,是為百姓。然則君以百姓為本。是以古聖王者一人飢寒(うゑこゆる),顧之責身。今百姓貧之則朕貧也,百姓富之則朕富也。未之有百姓(とみ)之君貧矣。」
 秋八月己巳朔丁丑(),為大兄去來穗別皇子定壬生部(みぶべ)。亦為皇后定葛城部(かづらきべ)
 九月,諸國悉請之曰:「課役並免,既經三年。因此以宮殿朽壞(おほとのくちこほれ)府庫已空(みくらすでにむなし)。今黔首富饒(おほみたからとみにぎはひ),而不拾遺。是以里無鰥寡(やもをやもめ),家有餘儲(あまりのたくはへ)。若當此時,非貢(おほみちから)調(みつき),以脩理(つくろふ)宮室者,懼之,其獲罪于天乎!」然猶(しのび)之不聽也。
 十年,冬十月,甫科課役,以構造(つくる)宮室。於是,百姓之不領(うながされず),而扶老攜幼,運材負簣,不問日夜,竭力爭作。是以未經幾時,而宮室悉成。故於今稱聖帝(ひじりのみかど)也。


仁徳帝登高臺望炊煙 高津宮藏
帝見炊煙不起,故知黎民貧困,遂詔天下停課役三載。其後復望國中,炊煙四起,遂復課役,民無不服,竭力爭作。謂之聖帝。


甘檻山【國望丘】遠望
天皇登高臺者,『古事記』仁德記作:「天皇登高山【國望丘】見四方之國。」亦云:「今科課役,是以百姓之榮,不苦役使。故稱其御世謂聖帝世也。」


難波堀江


茨田堤
茨田堤以仁德帝十一年築成,乃文獻見在日本最初治水工事。


強頸斷間 強頸絕間之址碑
築茨田堤,而二處難塞。神誨以強頸、衫子祭河伯則可成。強頸泣悲沒水,衫子生智,雖不死堤成。


和珥池
和珥池所在未詳。若非難波、河內,蓋『推古紀』大和和珥池。

天皇示玖賀媛歌:「遊魚水底經 臣之少女玖賀媛 孰能代朕妻養哉速待返歌:「嚴潮怒濤擊 播磨速待不佞臣 巖下落谷底 戰慄惶恐兮頓首 不才吾願妻養之


前賢故實 砥田宿禰像
盾人宿禰,以射的功,賜砥田宿禰,亦曰的戶田宿禰。
四、營造堀江、池堤

 十一年,夏四月戊寅朔甲午(十七),詔群臣曰:「今朕視是國者,()(さは)曠遠,而()(はたけ)少乏。且河水橫逝,以流末不(とく)。聊逢霖雨(ながめ),海潮逆上,而巷里乘船,道路亦(ひぢ)。故群臣共視之,決橫源(よこしまなるみなもと)而通海,塞逆流以全田(いへ)。」
 冬十月,掘(高津)北之郊原(のはら),引南水以入西海。因以號其水曰堀江(ほりえ)。又將防北河之(こみ),以築茨田堤(まむたのつつみ)
 是時有兩處之(たえま),而乃壞之難塞。時天皇夢有神,誨之曰:「武藏人強頸(むさしのひとこはくび)河內人茨田連衫子(かふちのひとまむたむらじころものこ)【衫子,此云ころものこ(莒呂母能古)。】二人以祭於河伯(かはのかみ),必獲塞。」則覓二人而得之,因以禱于河神(かはのかみ)。爰強頸泣悲之(しづみ)水而死。乃其堤成焉。唯衫子取全匏(おふしひさこ)兩箇,臨于難塞水。乃取兩箇匏投於水中,請之曰:「河神崇之,以吾為(まひ)。是以今吾來也。必欲得我者,沉是匏而不令(うかばせ)。則吾知真神,親入水中。若不得沉匏者,自知偽神(いつはりのかみ)。何徒亡吾身?」於是飄風(つむじかぜ)忽起,引匏沒水。匏轉浪上而不沉,則潝潝汎(すむけやくうきただよひ)以遠流。是以衫子雖不死,而其堤且成也。是因衫子之(いさみ),其身非亡耳。故時人號其兩處曰強頸斷間(こはくびのたえま)衫子斷間(ころものこのたえま)
 是歲新羅(しらき)人朝貢。則(つかふ)是役(築堤)
 十二年,秋七月辛未朔癸酉()高麗(こま)國貢鐵盾(くろがねのたて)鐵的(くろがねのまと)
 八月庚子朔己酉(),饗高麗(まらひと)(みかど)
 是日,集群臣及百寮,令射高麗所獻之鐵盾、的。諸人不得射通(いとほす)的,唯的臣(いくはのおみ)盾人宿禰(たたひとのすくね),射鐵的通焉。時高麗客等見之,畏其射之勝巧(すぐれ),共起以拜朝(みかどをがみ)
 明日,美盾人宿禰,而賜名曰的戶田宿禰(いくはのとだのすくね)
 同日小泊瀨造(をばつせのみやつこ)宿禰臣(すくねのおみ),賜名曰賢遺臣(さかしのこりのおみ)也。【賢遺,此云さかしのこり(左舸之能莒里)。】
 冬十月,掘大溝(おほうなて)山背栗隈縣(やましろのくるくまのあがた)以潤田。是以其百姓每豐年(としう)也。
 十三年,秋九月,始立茨田屯倉(まむたのみやけ)。因定舂米部(つきしねべ)
 冬十月,造和珥池(わにのいけ)
 是月,築橫野堤(よこののつつみ)
 十四年,冬十一月,為橋於豬甘津(ゐかひのつ)。即號其處曰小橋(をばし)也。
 是歲,作大道(おほぢ)置於京中,自南門直指之,至丹比邑(たぢひのむら)。又掘大溝於感玖(こむく),乃引石河(いしかは)水,而潤上鈴鹿(かみつすずか)下鈴鹿(しもつすずか)上豐浦(かみつとゆら)下豐浦(しもつとゆら),四處郊原,以墾之得四萬餘頃之田。故其處百姓,寬饒之無凶年之患(としえぬうれへ)
 十六年,秋七月戊寅朔(),天皇以宮人桑田玖賀媛(くはたのくがひめ),示近習舍人(とねり)等曰:「朕欲愛是婦女,苦皇后之妬,不能合。以經多年(あまたのとし)。何徒棄其盛年(さかりなるとし)乎?」即歌曰:

 於是播磨國造(はりまのくにのみやつこ)速待(はやまち),獨進之歌曰:

 即日(そのひ),以玖賀媛賜速待。
 明日之夕,速待詣于玖賀媛之家。而玖賀媛不和(あまなはず)。乃強近帷內(ねどころ)。時玖賀媛曰:「妾之寡婦(やもめ)以終年。何能為君之妻乎?」於是天皇聞之,欲遂速待之志,以玖賀媛副速待,送遣於桑田。則玖賀媛發病(やまひおこり)死于道中。故於今有玖賀媛之(はか)也。
 十七年,新羅不朝貢(みつきたてまつらず)
 秋九月,遣的臣祖砥田宿禰(とだのすくね)、小泊瀨造祖賢遺臣,而問闕貢之事。於是新羅人懼之,乃貢獻。調絹一千四百六十(むら)及種種雜物,并八十(かはら)

五、天皇、皇后不睦

 二十二年,春正月,天皇語皇后(磐之媛)曰:「(めしいれ)八田皇女,將為妃。」時皇后不聽。爰天皇歌以乞於皇后曰:

 皇后答歌(かへしうた)曰:

 天皇又(うたよみ)曰:

 皇后(きさき)答歌曰:

 天皇又歌(のたまはく)

 皇后遂謂不聽,故默之(もだし)亦不答言。
 三十年,秋九月乙卯朔乙丑(十一),皇后遊行紀國(きのくに),到雄野岬(くまののみさき),即取其處之御綱葉(みつなかしは)而還。【葉,此云かしは(箇始婆)。】於是日,天皇伺皇后不在(ましまさぬ),而娶八田皇女納於宮中(おほみやのうち)
 時皇后到難波濟(なにはのわたり),聞天皇(めしつ)八田皇女,而大恨之。則其所採御綱葉投於海,而不著岸(とまり)。故時人號散葉(ちりしかしは)之海曰葉濟(かしはのわたり)也。
 爰天皇不知皇后忿不著岸,親幸大津(おほつ),待皇后之船,而歌曰:

 時皇后不泊于大津,更引之(さかのぼり)江,自山背迴而向倭。
 明日,天皇遣舍人鳥山(とねりとりやま),令還皇后,乃歌之曰:

 皇后不還,猶行之。至山背河(やましろがは)而歌曰:

 即越那羅山,望葛城(かづらき)歌之曰:

 更還山背,興宮室於筒城岡(つつきのをか)南而居之。
 冬十月甲申朔(),遣的臣祖口持臣(くちもちのおみ)【一云,和珥臣(わにのおみ)口子臣(くちこのおみ)。】喚皇后。爰口持臣至筒城宮(つつきのみや),雖謁皇后,而默之不答。時口持臣沾雪雨(しぐれ)以經日夜,伏于皇后殿前而不避(まかりさらず)
 於是,口持臣之妹國依媛(くによりひめ)仕于皇后。適是時,(はべり)皇后之側,見其兄沾雨,而流涕(かなしび)歌之曰:

 時皇后謂國依媛曰:「何爾泣之(いさつる)?」對言:「今伏庭請謁(こひまをす)者,妾兄也。沾雨不避,猶伏將謁。是以泣悲(いさちかなしぶる)耳。」時皇后謂之曰:「告汝兄,令速還。吾遂不返焉。」口持則返之,復奏(かへりことまをす)于天皇。
 十一月甲寅朔庚申(),天皇(ふねうけ)江幸山背。時桑枝(くはのえ)沿水而流之。天皇視桑枝歌之曰:

 明日乘輿(すめらみこと)詣于筒城宮,喚皇后。皇后不參見。時天皇歌曰:

 (また)歌曰:

 時皇后令奏言:「陛下(きみ)納八田皇女為妃。其不欲(そひ)皇女而為后。」遂不奉見。乃車駕(すめらみこと)還宮。天皇於是恨皇后大忿,而猶有戀思(しのひおもほす)
 三十一年,春正月癸丑朔丁卯(十五),立大兄去來穗別尊為皇太子。
 三十五年,夏六月,皇后磐之媛命(かむさり)於筒城宮。
 三十七年,冬十一月甲戌朔乙酉(十二),葬皇后於那羅山。是為,平城坂上陵(ならのさかのうへのみささぎ)

仁德帝、磐之媛對歌其一:「尊高貴人者 貴人立言有此說 儲弦備弓弦 此為斷間得有繼 遂並置兮八田女其二:「若為衣裳者 並著二重無所非 然云夜床者 君欲相並共相寢 此君何可不畏哉其三:「日光押照矣 一猶難波崎之上 相並海濱矣 洽為相並共置者 遂有此子八田女其四:「飛蛾夏蠶兮 蠶蛾作絲成繭裳 二重繭不祥 汝欲圍宿二女間 豈可稱善豈良哉其五:「奈良朝妻地 朝妻避箇小坂上 失戀片泣矣 形單影孤道行者 有偶相慰豈不善


葉濟
天皇伺皇后遊行紀國,納八田皇女納於腋庭。磐之媛命聞之大怒,投綱葉於海而不著岸。『景行紀』有柏濟云云,蓋同所歟。

仁德、磐之媛對歌其六:「難波津船人 速引鈴船取其綱 下腰滯水間 牽引其船執船回 引綱牽回大御船其七:「追及山背兮 追兮舍人鳥山君 追及復追及 速速追至吾慕妻 追及令吾得相逢
其八:「苗木繼根生 繼根生兮山背河 今溯其河者 吾躬溯河逆流上 在其河隈隈 茂生繁植欣向榮 百而不足兮 八十葉之繁木者 汝威如此猶大君其九:「苗木繼根生 繼根生兮山背河 今溯難波宮 青丹精良兮 奈良那羅山已過 小楯山背國 山城大倭亦過之 何謂寡人欲見國 青柳葛城國高宮 吾家之畔吾宮邊


磐之媛命 山背筒城宮
傳繼體天皇山背筒城宮也。

國依媛憐兄沾衣歌:「山城山背國 山背筒城宮之中 伏庭欲請謁 見此吾兄沾雪雨 不覺涕泣落淚下

仁德、磐之媛對歌其十:「角障蔓多這 吾所愛妻磐之媛 不以朦朧聞 衷愛心護兮 衷心美兮桑蠶木 漂泊無處可寄身 當往川上河隈角 寄身著岸以行之 衷心美兮桑蠶木十一:「苗木繼根生 繼根生兮山背女 彼女持木鍬 掘土鋤壤摘大根 白爽音騷然 以承汝言嘖頻頻 大勢從者來 繁掘八桑枝如矣 來入謁見共參迎十二:「苗木繼根生 繼根生兮山背女 彼女持木鍬 掘土鋤壤摘大根 其根素且白 一如汝腕白且晰 汝今不欲共纏綿 豈當離棄訴不識


磐之媛命 平城坂上陵
磐之媛命遂不參見,薨於筒城宮。葬那羅山,是謂平城坂上陵。


菟餓野

皇女織女歌:「遙遙久方天 天津棚機金織機 雌鳥侍織女 織金機者別無他 洽為隼總別皇子 所織御襲裳御襲料


隼與鷦鷯
本段所載,隼別皇子、大鷦鷯【仁德】尊、雌鳥皇女,皆因鳥名諱。又雌鳥皇女,八田皇后胞妹矣。

隼別皇子舍人歌:「隼者迅而捷 展翼天際凌虛空 飛翔襲而下 速擒齋場森之上 緩拙鷦鷯斃其命

隼別皇子得免歌:「梯立勢陡峭 峻險山兮雖難涉 然與我妹子 雙雙過嶺越之者 其後逸樂猶安蓆


玉代
玉代是即魂代,所以獻地以替死罪者。『大和志』大和國葛上郡有玉手丘,『河內志』河內國安宿郡有玉手山、玉手村。
六、八田皇女立后、隼別皇子濫職

 三十八年,春正月癸酉朔戊寅(),立八田皇女為皇后。
 秋七月,天皇與皇后居高臺而避暑(すずみ)。時每夜(よなよな),自菟餓野(とがの)有聞鹿鳴(かのこゑ)。其聲寥亮(さやか)而悲之。共起可憐(あはれ)之情。及月盡(つきこもり),以鹿鳴不聆。爰天皇語皇后曰:「當是夕而鹿不鳴,其何由焉?」
 明日豬名縣(ゐなのあがた)佐伯部獻苞苴(にへ)。天皇令膳夫(かしはて)以問曰:「其苞苴何物也?」對言:「牡鹿(しか)也。」問之:「何處鹿也?」曰:「菟餓野。」時天皇以為,是苞苴者必其鳴鹿也,因謂皇后曰:「朕(このころ)懷抱(ものおもひ),聞鹿聲而慰之(こころやすむ)。今推佐伯部(さへきべ)獲鹿之日夜及山野,即當鳴鹿。其人雖不知朕之(いとほしみ),以適逢獮獲(えたり),猶不得已而有恨。故佐伯部不欲近於皇居(みやこ)。」乃令有司(つかさ),移鄉于安藝渟田(あぎのぬた)。此今渟田佐伯部之祖也。
 (よのひと)曰:「昔有一人,往菟餓(とが),宿于野中。時二鹿(めをとめか)臥傍。將及雞鳴(あかとき),牡鹿謂牝鹿(めか)曰:『吾今夜夢之,白霜(しろきしも)多降之覆吾身。是何(しるし)焉?』牝鹿答曰:『汝之出行,必為人見射而死。即以白鹽(あわしほ)塗其身,如霜(しろき)(しるし)也。』時宿人心裏(こころのうち)異之。未及昧爽(あけぼの),有獵人(かりびと)以射牡鹿而殺。是以時人(ことわざ)曰:『鳴牡鹿矣,隨相夢(いめあはせ)也。』」
 四十年,春二月,納雌鳥皇女(めとりのひめひこ)欲為妃,以隼別皇子(はやぶさわけのみこ)(なかだち)。時隼別皇子密親娶,而久之不復命。於是,天皇不知有夫,而親臨雌鳥皇女之殿(よどの)。時皇女織縑女人(きぬおりめ)等歌之曰:

 爰天皇知隼別皇子密婚而恨之。然(はばかり)皇后之言,亦敦友于之義(えおとのことわり),而忍之勿罪。俄而隼別皇子枕皇女之膝以臥,乃語之曰:「孰(とき)鷦鷯與隼焉?」曰:「隼捷也。」乃皇子曰:「是我所先也。」天皇聞是言,更亦起恨。時隼別皇子之舍人(とねり)等歌曰:

 天皇聞是歌,而勃然大怒之曰:「朕以私恨(わたくしのうらみ),不欲失(はらがら),忍之也。何(ひま)矣,私事(わたくしごと)將及于社稷(くに)?」則欲殺隼別皇子。時皇子率雌鳥皇女,欲納伊勢神宮(いせのかむみや)而馳。於是天皇聞隼別皇子逃走(にげぬ),即遣吉備品遲部雄鯽(きびのほむちべのをふな)播磨佐伯直阿俄能胡(はりまのさへきのあたひあがのこ)曰:「追之所逮即殺!」爰皇后奏言:「雌鳥皇女寔當重罪(おもきつみ)。然其殺之日,不欲(あらは)皇女身。」乃因敕雄鯽等:「莫取皇女所齎之足玉(あしだま)手玉(ただま)。」
 雄鯽等追之至菟田(うだ),迫於素珥山(そにのやま)。時隱草中僅得免,急走而越山。於是皇子歌曰:

 爰雄鯽等知免,以急追及于伊勢蔣代野(こもしろのの)而殺之。時雄鯽等探皇女之玉,自裳中得之。乃以二王屍,埋于盧杵河(いほきのかは)邊,而復命。皇后令問雄鯽等曰:「見皇女之玉乎?」對言:「不見也。」
 是歲,當新嘗(にひなへ)之月,以宴會(とよのあかり)日,賜(おほみき)內外命婦(うちとのひめとね)等。於是,近江山君稚守山(あふみのやまのきみわかもりやま)妻與采女磐坂媛(うねめいはさかひめ),二女之手有纏良珠(よきたま)。皇后見其珠,既似雌鳥皇女之珠。則疑之,命有司問其玉所得之(よし)。對言:「佐伯直阿俄能胡之妻玉也。」仍推鞫(とひ)阿俄能胡。對言:「(ころし)皇女之日,探而取之。」即將殺阿俄能胡。於是阿俄能胡乃獻己之私地(わたくしのところ),請免(しぬるつみ)。故納其地,赦死罪(しぬるつみ)。是以號其地曰玉代(たまて)

七、設鷹甘部、雁產

 四十一年,春三月,遣紀角宿禰(きのつののすくね)百濟(くだら),始分國郡疆場(くにこほりのさかひ),具錄鄉土所出(くにつもの)
 是時百濟(こにきし)之族酒君(さけのきみ)无禮。由是紀角宿禰訶責(ころふ)百濟王。百濟王懼之,以鐵鎖(くろがねのくさり)縛酒君,附襲津彥而進上。爰酒君來,則逃匿于石川錦織首許呂斯(いしかはのにしこりのおびところし)之家,則欺之曰:「天皇既赦臣罪,故寄汝而活焉(わたらはむ)。」久之,天皇遂(ゆるし)其罪。
 四十三年,秋九月庚子朔()依網屯倉阿弭古(よさみのみやけのあびこ)捕異鳥獻於天皇曰:「臣每張網捕鳥,未曾得是鳥之(たぐひ)。故奇而獻之。」天皇詔酒君,示鳥曰:「是何鳥矣?」酒君對言:「此鳥類多在百濟。得馴而能從人,亦捷飛之(かすむ)諸鳥。百濟俗號此鳥曰俱知(くち)【是今時(たか)也。】」乃授酒君,令養馴(かひなつけ)。未幾時(いくばく)而得馴。酒君則以韋緡(をしかはのあしを)著其足,以小鈴(こすず)著其尾,居腕上,獻于天皇。
 是日,幸百舌鳥野(もずの)遊獵(かり),時雌雉(めきぎし)多起。乃放鷹令捕,忽獲數十雉。
 是月(はじめ)鷹甘部(たかかひべ)。故時人號其養鷹之處曰鷹甘邑(たかかひのむら)也。
 五十年,春三月壬辰朔丙申(),河內人奏言:「於茨田堤,(かり)產之。」即日,遣使令視,曰:「既實也。」天皇於是歌以(とひ)武內宿禰曰:

 武內宿禰答歌(かへしうた)曰:


俱知
今時鷹也。阿弭古捕奇鳥獻天皇,命酒君養馴之。

鴈產問答 其一:「玉極靈剋兮 內庭武內宿禰臣 汝壽比南山 渺遠昔世所生人 汝壽如東海 吾國最長瑞耆老 秀真秋津島 虛空見日本國中 雁產卵事例 汝可嘗識曾聞哉其二:「八方治天下 八紘御宇我聖皇 大哉問矣大哉問 問於吾兮心甚感 秀真秋津島 虛空見日本國中 所謂雁產事 前所未曾聞


白鹿



伊寺水門 石卷港
陸奧國牡鹿郡石卷。又『和名抄』云「上總國夷郡。伊志美。」


田道墓 蛇穴山古墳
八、諍與新羅,蝦夷叛

 五十三年,新羅不朝貢(みつきたてまつらず)
 夏五月,遣上毛野君(かみつけののきみ)竹葉瀨(たかはせ),令問其闕貢(みつきたてまつらぬこと)。是道路之間,獲白鹿(しろきか)。乃還之獻于天皇,更改日而行。俄且重遣竹葉瀨之弟田道(たみち),則詔之曰:「若新羅距者(ふせかば),舉兵擊之。」仍授精兵(ときいくさ)
 新羅起兵而距之。爰新羅人日日挑戰(いとみたたかふ),田道固塞而不出。時新羅軍卒一人,有放于營外(いほりのと)。則掠俘之(とらへ),因問消息(あるかたち)。對曰:「有強力者(ちからひと),曰百衝(ももつき)。輕捷猛幹(たけくこはし),每為軍右前鋒(みぎのさき)。故伺之擊左則敗也。」時新羅空左備右。於是田道連精騎(ときうまいくさ)擊其左,新羅軍潰之(にげあかる)。因(はなち)兵,乘之殺數百人,即虜四邑之人民(たみ)以歸焉。
 五十五年蝦夷(えみし)叛之。遣田道令擊。則為蝦夷所敗,以死于伊寺水門(いしのみなと)
 時有從者(つかひびと),取得田道之手纏(たまき),與其妻。乃抱手纏而縊死(わなきしぬ)。時人聞之流涕矣(かなしぶ)。是後蝦夷亦襲之略人民(おほみたから)。因以掘田道墓,則有大蛇(をろち)發瞋(いから)目自墓出以(くふ)。蝦夷悉被蛇毒(をろちのあしきけ),而多死亡,唯一二人得免耳。故時人云:「田道雖既亡,遂報(あた)。何死人(すぎにしひと)無知(さとりなからむ)耶!」
 五十八年,夏五月,當荒陵松林(あらはかのまつはら)之南道,忽生兩歷木(くぬぎ),挾路而末合(すゑあへり)
 冬十月吳國(くれのくに)、高麗國,並朝貢。
 六十年,冬十月,差白鳥陵守(しろとりのみさざきもり)等充役丁(えのよろほ)。時天皇臨于役所(えたちのところ)
 爰陵守目杵(めき)忽化白鹿以走。於是天皇詔之曰:「是陵自本空。故欲除其陵守,而甫差役丁。今視是(しるまし)者,甚懼之。無動陵守者。」則且,授土師連(はじのむらじ)等。
 六十二年,夏五月遠江國司(とほつあふみのくにのみこともち)表上言:「有大樹(おほきなるき),自大井河(おほゐがは)流之,(とどまれ)河曲(かはくま)。其大十圍(とうだき),本一以末(ふたまた)。」
 時遣倭直吾子籠令造船,而自南海(みなみのうみ)運之,將來于難波津(なにはのつ),以充御船也。

九、冰室

 是歲,額田大中彥皇子獵于闘雞(つけ)
 時皇子自山上望之,瞻野中,有物,其形如(いほ)。仍遣使者令視。還來之曰:「(むろ)也。」因喚闘雞稻置大山主(つけのいなきおほやまぬし),問之曰:「有其野中者,何窟矣?」啟之曰:「冰室(ひむろ)也。」皇子曰:「其(をさむるさま)如何?亦(なにに)用焉?」曰:「掘土丈餘(ひとつゑあまり),以草蓋其上。敦敷()(すすき),取(こほり)以置其上。既經夏月(なつ)不泮(きえず)。其用之,即當熱月(なつ),漬水酒(みづさけ)以用也。」
 皇子則將來(もちきたり)其冰,獻于御所(おほみもと)。天皇歡之。自是以後,每當季冬(しはす),必藏冰,至春分(きさらぎ)(くばる)冰也。


闘雞野神社
傳額田大中彥皇子闘雞獵場跡,額田大中彥皇子以闘雞狩獵,遂覓得冰室。冰室跡傳在其近郊。


兩面宿儺像
十、飛驒宿儺

 六十五年飛驒國(ひだのくに)有一人,曰宿儺(すくな)
 其為人壹體(ひとつのむくろ)兩面(ふたつのかほ),面各相背,(いただき)合無(うなじ)。各有手足。其有膝而無(よほろくぼ)(くひひす)。力多以輕捷。左右佩劍,四手並用弓矢。是以不隨皇命(おほみこと),掠略人民為樂。
 於是遣和珥臣祖難波根子武振熊(なにはねこたけふるくま)而誅之。

十一、百舌鳥野陵與天皇崩御

 六十七年,冬十月庚辰朔甲申(),幸河內石津原(いしつのはら),以定陵地(みさざきどころ)
 丁酉(十八),始(つく)陵。
 是日,有鹿,忽起野中走之,入役民(えのたみ)之中而仆死。時異其忽死,以探其(きず),即百舌鳥(もず)自耳出之飛去。因視耳中,悉咋割剝(くひさきかきはげり)。故號其處曰百舌鳥耳原(もずのみみはら)者,其是之緣也。
 是歲,於吉備中國川嶋河派(きびのみちのなかつくにのかはしまのかはまた),有大虬(みつち)令苦人。時路人觸其處而行,必被其毒,以多死亡(みうす)
 於是,笠臣(かさのおみ)縣守(あがたもり),為人勇悍而強力(ちからこはし)。臨派淵(ふち),以三全瓠(おふしひさこ)投水曰:「汝屢吐毒,令苦路人。(われ)殺汝虬。汝沉是瓠,則余避之。不能(あたはず)沉者,仍斬汝身。」
 時水虬(みつち)化鹿,以引入瓠。瓠不沉。即舉劍入水斬虬。更求虬之黨類(ともがら),乃諸虬族(みつちのやから)滿淵底之岫穴(ふちそこのくき)。悉斬之,河水變血。故號其水曰縣守淵(あがたもりのふち)也。
 當此時,妖氣稍動(わざはひやくやくにうごく)叛者(そむくもの)一二始起。於是天皇夙興夜寐(つとにおきおそにいね),輕賦薄斂,以寬民萌(おほみたから),布德施惠,以振困窮,弔死問疾,以養孤孀。是以政令流行(まつりごとしきながれ),天下太平,二十餘年無事矣。
 八十七年,春正月戊子朔癸卯(十六),天皇崩。
 冬十月癸未朔己丑(),葬于百舌鳥野陵(もずののみさざき)

日本書紀卷十一 終


大虬【みつち】
虬或作蛟,身形似龍而格低。說文解字:「虬,龍無角者。」


仁德天皇 百舌鳥野陵
墳丘長四百八十六米,後圓部高卅五米。茲與中國秦始皇陵,埃及法老王墓,並為世界三大陵墓。百舌鳥者,伯勞鳥也。

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