神字日文傳 下巻
平篤胤 謹輯考
門人 武藏國 森川士義
下總國 石上鑒賢
武藏國 原田秀親 同校
○
是
これ
より,
彼此
そこここ
に
傳
つた
はれる
日文
ひふみ
を,
次次
つぎつぎ
に
論
あげつら
へり。
右
出雲國大社
いづもくにのおほやしろ
所傳云。
【以上は
墨
すみ
にて
記
しる
し,以下は朱を
以
も
て記したり。】
武藏國人金井滌身麻呂,傳政文者也。
【金井滌身麻呂,
何人
なにびと
と云ふ
事
こと
を知らず。政文が事は
既
すで
に
言
い
へりき。】
○一本云:「右神世草文,中古所謂薩人書也。」○
此
こ
は
佐藤信淵
さとうのぶひろ
が見せたる
一書
あるふみ
に
有
あ
りしを
本
もと
に
採
と
り。また一本を
得
え
て校正したる
也
なり
。此遺文を
得
え
たるに
依
よ
りて,
今傳
いまつた
ふる
日文
ひふみ
の草書
等
など
は,
の草書なる事を
始
はじ
めて知れり。
【
あはれ
阿波禮
此一枚
このひとひら
を
得
え
ざらましかば,
此日文傳
このひふみのつたへ
の
考
かむがへ
は
出來
いでく
まじく,
可惜神字
あたらかむな
の
永埋
ながくうづ
もれなまし物をと,
甚尊嬉
いとたふとうくうれし
く,
此
こ
は
實
まこと
に信淵が
贈物
たまもの
にぞ
有
あ
りける。】
然
しか
れども,
下
しも
に
隸
つけ
たる真字の
中
なか
に,
上
かみ
に
舉
あ
げたる
縱橫二體真字
たてよこふたつのまな
と,
異
こと
なる
字
もじ
の
多
おほ
かるは,
甚心得難
いとこころえがた
く
所思
おぼゆ
るが
中
なか
に,
の五字は,
異字
こともじ
に
非
あら
ず異體
也
なり
。
然
さ
れば
は
を二つ重ねたるなり。
は正くは
と書くべきㄴを∨と書き。
は正くは
と書くべきㅏをㅗと書きたるなり。
は正くは
と書くべきを
縱樣
たてさま
に
書
か
き。
【諺文の初聲字の
中
なか
にあるㅎは,此草字を
誤傳
あやまりつた
へたる
事
こと
,
上
かみ
に
既
すで
に
云
い
へるが
如
ごと
し。】
は
正
ただ
しくは
と
書
か
くべきを,ㄱを
〇
まろ
くㅓと
橫體
よこさま
に
書
か
ける
也
なり
。
此
こ
は
按
おも
ふに,草體を真字體に
書
か
ける物なるべし。
【
漢
から
にも
倭
やまと
にも,草軆の真字體になれるが
幾等
いくら
も
有
あ
る
事
こと
は,
誰
たれ
も
知
し
れるが如し。】
偖
さて
モ
チ
ユ
ハ
エ
ニ
ス
ホ
等
など
の八字は,
如何
いか
なる
所以有
ゆゑあ
りて,
、
、
、
、
、
、
、
等字
などのもじ
を用ひず,
斯
か
かる異字を
書交給
かきまじへたまへ
るにか,
甚心得難
いろこころゑがた
し。
後人良
のちのひとよ
く
考
かむが
へて
定
さだ
むべし。
【
若
も
しくは,
縱橫
たてよこ
同畫の字の
多
おほ
かる
故
ゆゑ
に,草字の
同形
おなじさま
に見えて,
錯
あやま
らむ事を
覺
おぼ
して,
唯此
ただこ
は
某字
それのじ
の草字と
云
い
ふ
目印
まじるし
に,
甚
いた
く
形
かたち
を
變
か
へて
作給
かきたま
へるが,
下
しも
に
隸
つ
けたる真字は,
此
これ
も其草軆を真字軆に
直
なほ
せるにも有るべし。漢字にも
然
さ
る例は
甚多
いとおほ
かり。】
偖
さて
、
今傳
いまつた
ふる草字の
多
おほ
かる
中
なか
に,
此一枚
このひとひら
は
殊
こと
に轉寫の
誤
あやまり
も
多
おほ
かりと見ゆ。
中
なか
にも
テ
字は,真字に
少
いささ
かも
似
に
ざるは
更
さら
にも
言
い
はず。
次次
つきつき
に
舉
あげ
る遺文どもにも,
曾
かつ
て
似付
につ
かざる異體なるは,
甚寫誤
いたくうつしあやま
れりと見えたり。此遺文に
限
かぎ
らず,轉寫すとて,
誤
あやま
りたり,と見ゆる
字
もじ
の
多
おほ
かれば,
熟
よ
く
餘
ほか
の遺文ともと
比校
くらべみ
て,筆意字體の
種種
くさぐさ
に
轉
うつ
れる
樣
さま
を
見辨
みわきま
へ,中に
就
つき
て,字體の穩雅なるを
用
もち
ふべし。
○
偖
さて
此遺文を,出雲國大社所傳と云へれば,彼新井白石ぬしの見られたる,
竹簡
たけふた
に
漆以
うるしも
て
記
かき
たりし
文字
もじ
を
寫
うつ
せる物か。
其竹簡
そのたけふた
,今も彼社に
存
あ
りや
其
そ
は知らず。
【次次に
舉
あ
ぐる遺文
共
ども
も,
彼
かの
神社,
茲
ここ
の佛閣に傳へたりと奥書ある
中
なか
には,傳聞の
誤
あやまり
も
有
あ
るべく,
復信
またまこと
に
傳持
つたへもち
たるも,
前
さき
に
人選
ひとえら
びして,
秘
ひそか
に
授
さづ
けるが,
弘
ひろ
ごれるにこりて,本書を見する事を
惜
をし
みて,
隱置
かくしお
くも有るべく。
復一度竊
またひとたびひそか
に傳へたる後に,本書の
紛失
まぎれうせ
たるも
有
あ
るべければ今は
某某
それそれ
に本書
共
ども
の
無
なく
とも,
右類
みぎのたぐひ
の
奧書共
おくがきども
を,
偽言
いつはりごと
とは云ふべからず。】
偖
さて
復此
またこ
を,中古
所謂
いはゆる
薩人書也と云へる
事
こと
,
何處
いづこ
の
傳
つたへ
なるらむ
知
し
るべからず。薩人書の
事
こと
は,仁和寺書目に,肥人書に
竝
なら
べて,薩人書と見えたるのみにて,
餘
ほか
に所見
無
な
ければ,
如何
いかに
とも
考合
かむがへあは
すべき
便無
たづきな
し。然れども肥人之書と云に
準
なぞら
へて思へば,
薩摩人
さつまびと
の
書
か
きたる
日文
ひふみ
と
通
きこ
えたり。
然
しか
れば此遺文
誠
まこと
に彼國人の
書
か
きたるが。出雲大社に
遺傳
のこりつた
はれるに有るべし。よし此奥書どもは,
悉信難
みなうけがた
きにも有れ,
正
ただ
しき
日文字
ひふみもじ
の一體の,
舊
ふる
く
傳
つた
はれる
物
もの
なる
事
こと
は,
更
さら
に
疑無
うたがひな
き物
也
なり
かし。
其
そ
は
上下
かみしも
に
載
の
せる遺文どもを,
熟
よ
く
委曲
つばらか
に
察辯
みわきま
へ,
予
おの
が上にも下にも
言
い
へる
說等
ことども
をも
良
よ
く
讀
よ
みて
,
知辯
しりわきま
ふべき
也
なり
。
右神代四十七字者,
聖德皇儲
せいとくのくわうちょ
所寫也,
和州
やまとのくに
法隆寺庫中所藏也。
【以上は墨にて
記
しる
し,以下は朱を
以
も
て
書
しる
せり。】
右原本,在筑紫
筥崎宮
はこさきのみや
,並
河內
かふち
平岡神庫云。○
此
こ
は京入岩田友靖と
云
い
ふ人の藏たるを,伴信友が
寫
うつ
せると,屋代翁の
藏
もた
れたると,上野國の閑亭と
云
い
ふ人の集めたる
字等
じども
を,大野尚芳が
寫
うつ
せる
中
なか
に
有
あ
りしと。三本
得
え
たるが,
共
とも
に
甚正整
いとまさやか
に
寫傳
うつしつた
へたり。聖德皇儲とは,
即
すなは
ち聖德太子の
御事
おほむこと
を
申
まを
せり。此を
此皇子
このみこ
の
寫傳給
うつしつたへたま
へりと云ふ
事
こと
,
然
さ
も
有
あ
るべく
所思
おぼ
ゆる
由有
よしあ
り。
其
そ
は第十三文,
伊夜比古神社
いやひこのかみやしろ
に
傳
つた
はれる
字
もじ
の
下
ところ
に
言
い
ふを
見
み
るべし。
右神代假字四十七音
也
なり
。此外雖有異體
數多
あまた
,就中寫置雅體一通者
也
なり
。四娟堂。○此遺文は何許より
出
いで
たりと
云
い
ふ
事
こと
を知らず。四娼堂と
云
い
ふ人も,
何處
いづこ
の
誰人
たれ
と云ふ
事知
ことし
る
可
べか
らず。森川士義が
集
あつ
めたる
中
なか
に
有
あ
りしを,
其儘
そのまま
に
寫
うつ
し
舉
あ
げたる
也
なり
。
右四十七音之神代文字者,
或人云
あるひといはく
:「神祇伯王殿御家之所傳者也。」信偽未詳矣。傳者姓名有憚,故略之。文化五年六月三日,上總國
菊麻神社
きくまのかみやしろ
神主根本河內守平佳胤謹焉。
○此一枚も森川士義が
集
あつ
めたる
中
なか
に
有
あり
しを
寫
うつし
たる
也
なり
。
右神文四十七字者,
天思兼命
あまのおもひかねのみこと
所製云。從桑原為重傳受之。
○一本云,以上神文四十七字者,
周防國
すはうのくに
玖郡珂郡野浦,賀茂大明神社之神主,桑原播磨守藤原為重傳書。
出雲
いづも
北島式文所授也。
○
前
さきの
一本は,
近江國
あふみのくに
彥根の海量法師が,森川士義に
授
さづ
けたる
也
なり
。
後
のちの
一本は,信友が,或人の
寫持
うつしもち
たりし
一卷
ひとまき
を,
借
か
りて
見
み
せたるが
中
なか
より
寫
うつ
せる
也
なり
。
【
但
ただ
し其一本に,天照大神所作,傳之於
大己貴命
おほなむぢのみこと
云云と有れど,
此
こ
は
誤
あやま
れる
傳
つたへ
なれば,
採用
とりもち
ひずなむ。】
字體雅なちず。
甚
いた
く
寫誤
うつしあやま
れる
物
もの
と
見
み
えたり。
右神代假名四十七言之字者,
綿向神社
わたむくのかみのやしろ
神主,紀某所傳云。文化二年十一月
寫之
これをうつす
。海量。
○
此一枚
このひとひら
も,海量法師が森川士義に
授
さづ
げたる
也
なり
。
綿向神社
わたむくのかみのやしろ
と
云
い
ふは,
神名式
じんみゃうしき
に,近江國
蒲生郡馬見岡
かまふのごほりうまみがをか
神社二座と
有
あ
る
社也
やしろなり
。彼社に
舊
もと
より
傳
つた
はれるか,紀某が
他
ひと
より
傳
つた
へたるか,
奧書文詳
おくがきのふみさだか
ならず。
右
大和國
やまとのくに
三輪神庫
みわのほくら
所藏神代文字也。從三輪
神人
じにん
得之,竊寫之。吉邑正敏。天明四年甲辰二月二十日,乞於友人正敏
摹寫之
これをもしゃす
。白蓮社。
○此は屋代翁の
寫藏
うつしも
たれたるを
借
かり
て
寫
うつ
せる
也
なり
。
此
こ
を
得
え
て
後
のち
に,上野國人閑亭が
集
あつめ
たるをも
見
み
たるに,右大和國
三輪大神
みわのおほかみ
庫中所藏と
有
あ
り。
復
また
一本を
得
え
たるに,大和國三輪大神庫中極秘,神代文字。源義亮。と
有
あ
りて,
三枚共
みひらとも
に字體
異
こと
なる
事無
ことな
し。
右神世文字四十七音者,從
吉田祠官
よしだしくわん
傳受之。
卜部家
うらべけ
所傳云留守友信。
○一本云,右
阿波國
あはのくに
名方郡
大宮神社
おほみやのやみやしろ
之所傳神世文字也。婦人某所傳寫之。而
陸奥國
みちのくに
二宮長官從五位下源惟一,
再
ふたたび
傳寫之者也。○
此
こ
はト部家所傳と
云
い
ひ,大宮神社之所傳と
云
い
ひ,所傳の
甚異
いたくこと
なるは,
不審
いぶかし
き
事也
ことなり
。
何
いづ
れ
一方
ひとかた
は,傳聞の
誤
あやまり
なるべし。
【
若
もし
くは
元
もと
は大宮神社より
出
いで
たるを,卜部家に
寫傳
うつしつた
へたる
物
もの
ならむか。】
前
さき
なるは,森川士義が
輯
あつめ
たる
中
なか
に
在
あ
り。
後
のち
なるは,佐藤信淵が
他
ひと
に
借
か
りて見せたる
一卷
ひとまき
に
有
あり
しを
寫
うつ
せる
也
なり
。
右神代之字符,
大己貴命
おほなむちのみこと
御製作也。勅封之御祕訣,所納於
鶴岡八幡宮
つるがをかはちまんぐう
寶藏之深祕之由承之。依神道執心之厚感,寫傳之條,
堅
かたく
禁他傳焉。于時
文化
ぶんくわ
五年戊辰初冬吉辰,菅生兼就。
○一本云,右鶴岡八幡宮庫中之
神代文字
かみよもじ
。
河內國
かふちのくに
枚岡神社
ひらをかのやみやしろ
、
筑紫
つくし
筥崎宮
はこさきぐう
之所傳亦同之云。○
此
こ
は
前
さき
なるは,信友が
寫藏
うつしもち
たるを
寫
うつ
せる
也
なり
。
【大己貴命の
御製作
みつくれり
と云るは,傳說の
誤也
あやまりなり
。
然
さ
るは,筆意は
異也
ことなり
と
見
み
ゆれど,
上下
かみしも
に
舉
あ
ぐる遺文どもに
全
また
く同じければ,
此
これ
も
日文
ひふみ
の草軆にて,
思兼命
おもひかねのみこと
の
作給
つくりたま
へる文字なる
事疑無
ことうたがひな
し。】
後
のち
なるは,森川士義が
集
あつめ
たるが中の
一枚也
ひとひらなり
。神國神字辨論に,空華老人の
著
あらは
せるも
即此
すなはちこの
遺文にて,書體奥書どもに
違
たが
ふ
事無
ことな
し。
然
さ
れど右
三枚共
みひらとも
に,
ロ
ラ
ネ
ワ
の
四字錯亂
よもじみだれ
て,
ヰ
ヲ
の
間
あひだ
に
出
いで
たり。
故今改
かれいまあらた
めて
載
しる
せり。
復始
またはじめ
にも
言
い
へる
如
ごと
く,
此
こ
は
元
もと
音譯の
無
な
かりしを,
上下
かみしも
に
舉
あげ
たる遺文どもに
照考
てらしかむが
へて,
片假名
かたかな
をそへつ。
偖
さて
此一枚はしも,卜部家の舊說に:「
神代字
かみよもじ
は,
節
ふし
はかせを
指
さ
したる
様也
さまなり
。」と云へるに
良
よ
く
符
あ
へる書體
也
なり
。
【
然
さ
れど
彼舊說
かのふること
に,
其字
そのもじ
一萬五千三百六十字
有
あり
と云へるは,例の
信難
うけかた
き
言也
ことなり
。】
節
ふし
はかせとは,
節博士
フシハカセ
の
義也
こころなり
。
【
節博士
フシハカセ
と
云
い
ふ
字
じ
は,魚山蠆芥抄に見えたり。
又
また
樂家錄には,
節墨譜
ふしはかせ
と
書
か
きて,フシハカセと
訓
よ
みたり,
謠
うたひ
の
曲節
ふし
を
教
おし
ふる,
博士
はかせ
なる
由也
よしなり
。】
神樂催馬樂等
かぐらさいだらなど
の古本に
指
さ
したる
節博士
ふしはかせ
の
狀
さま
,
左
ひだり
に
舉
あ
ぐるが
如
ごと
し。
大抵如斯
おほかたかくのごと
くなれば,
合
あは
せ見て,卜部家の
舊說
ふること
に,
神世文字
かみよもじ
を,
節博士
ふしはかせ
を
指
さ
したる
如
ごと
し。と
言
い
へる
意
こころ
を
辨
わきま
ふべし。
右
鹿嶋神宮
かしまのかむみや
所藏,借彰考館總裁平伯時寫而寫畢。日隅東。
【屋代翁の
寫藏
うつしもた
たれたるに
如是有
かくあ
り。日隅東とは,御旗本、那佐久左衛門
日下部
くさかべ
勝皋ぬしの
事也
ことなり
とぞ。彰考館とは,水戶殿の學館の
號也
ななり
。】
○一本云,右
神代
かみよ
四十七字,水藩立原伯時所傳,而鹿嶋神宮所藏云。源義亮。
【
茲
これ
も,屋代翁の
寫置
うつしお
かれたる,一本の奧書
也
なり
。】
○一本云,右鹿嶋神宮
神庫
ほくら
所藏云。
【
上野國人
かみつけののくにびと
閑亭が
輯
あつ
めたるに
如此記
かくしる
せり。
後
のち
に
又
また
一本を得たるにも,同じ奧書
也
なり
。】
○
此
この
鹿嶋神宮に
傳
つた
はれりと
云
い
ふ遺文を
得
え
たる
事
こと
。
凡
すべ
て
四枚
よひら
なるが。
各各些
おのおのいささ
かの
寫誤
うつしあやま
りこそ
有
あ
れ。
全
また
く同じ書體
也
なり
。
故彼此較見
かれそれこれくらべみ
て
載
しる
せり。
【
但
ただ
し
四枚共
よひらとも
に,
ハ
ク
の二字,
ソ
ヲ
の
間
あひだ
に
入
い
りたるは,
舊
もと
よりの
錯亂
みだれ
ど
見
み
えたり。今は
上下
かみしも
に
舉
あ
げたる遺文
等
ども
に
合
あは
せ見て
改
あらた
め
載
しる
しつ。】
偖
さて
屋代翁も,
往年神世文字云
いにしとしかみよもじて
ふ物を,
彼此寫輯
かれこれうつしあつ
めて,
其
そ
を
訂
ただ
さむの
志有
こころざしあ
りて,
世
よ
の
事識人達
ことしりびとたち
の
思由
おもふよし
をも
探
たづ
ねられたる
程
ほど
,京人藤原貞幹
許
がり
,
事
こと
の
次手
ついで
に,
此
この
鹿嶋神宮に
傳
つた
はりし文字を
寫贈
うつしおく
りて,
其意
そのこころ
を
問
と
はれたるに,
彼
かれ
が
言興
いひおこ
せける
說
こと
に,鹿嶋の神代文字,
己
おのれ
も
傳寫
つたへうつ
せるが,
此は
漢籍八紘譯史に
よりて
考
かむが
ふるに苗國の
文字
もじ
にて
侍
はべ
り。
上代
かみつよ
に,苗人
來
きた
りて
書
か
きたるが,鹿嶋に傳はりたるか,
其
そ
は
止
とま
れ。苗の文字に
違無
たかひな
し。
外
ほか
に神代文字と
云
い
ふ
物有
ものあ
るべしとも
覺
おぼ
えず。古語拾遺に:「上古之世未有文字,貴賤老少口口相傳。」云云と,齋部廣成の
說
とけ
るにて
濟侍
すみはべ
る
事
こと
にや。と
言遣
いひおこ
せたり
然
しか
ば,屋代翁
軈
やが
て八紘譯史を
求
もと
めて
視
み
られたるに,繊志志餘と云ふ
篇
くだり
に,左の
如
ごと
く
有
あ
り。
苗書
苗人有書非鼎鐘,亦非
蝌蚪
かと
。作者為誰,不可考也。錄其二章,以正博物君子。
鐸訓
孝順父母
,
尊敬長上
,
和睦鄉里
。
教訓子孫
,
各各安生理
,
母作非為
。
猶今
なほいま
一章
有
あ
るを,
此
ここ
には
只
ただ
一章を
出
いだ
せり。屋代翁
此
こ
を抄錄して,
未考
いまだかむが
へをも
記
しる
さず
置
お
かれたるを,
己
おの
が
神世字
かみよもじ
を
糺
ただ
さむとする
志
こころざし
を
語
かた
りしかば,
取出
とりいで
て
示
み
せられたり。
故考
かれかむが
ふるに,
先此
まづこの
苗人の
字
もじ
,
此漢字
このからもじ
に
配
あ
てたる
様
さま
を
觀
み
るに,
假字
かりな
には
非
あら
ず。
字每
もじごと
に
義有
こころあ
りて,
象
かたち
こそ
異
こと
なれ。
漢字
からもじ
の
用格
つかひさま
と
異無
かはりな
しと見ゆ。
然
しか
れば
字數
もじのかず
も
漢字
からもじ
と同じ
程
ほど
に,
甚多有
いとおほかれ
こと
著明
いちじる
し。
然
しか
るを貞幹が
說
こと
に,鹿嶋に
傳
つた
はる
文字
もじ
を,
此也
これなり
と
云
い
へる
事甚謾也
こといとみだりなり
。
其
そ
は鹿嶋の
文字
もじ
,
若
も
し苗人の
書
て
ならましかば,其國の
語
こと
なるべく字數も,四十七字ならで,
多
おほ
くも
少
すくな
くも
有
あ
るべきを,四十七字なるべき
由無
よしな
し。
中
なか
に一二字,
聊
いささ
か
似
に
たりげなるも
有
あ
れど。
此
こ
は
適
たまたま
に
似
に
たるにこそ
有
あ
れ。
其
その
一二字の
聊
いささ
か
似
に
たるを
以
も
て,
押
お
して全文を,苗人の
書
て
に
違無
たがひな
しと
言
い
へるは,
謾說
みだりごと
ならずやも,
殊
こと
に鹿嶋宮なる文字は
餘所
ほか
にも
彼此傳
かれこれつた
はれる遺文と,
全
また
く同じ物にて,
次第
ついで
も
日文
ひふみ
なる物をや,
此
この
貞幹と
云
い
ひける人は,衝口發と云ふ
妄書
みだりふみ
を
作
つく
りて,
皇國
みくに
の
古
いにしへ
を
言腐
いひくた
さむと
為
し
たる。
忌
いみ
じき
穢心
けがれこころ
の
人為
ひとな
りしかば,
【衝口發の
妄說
みだりこと
をば,吾が師の鉗狂人と
云
い
ふ
書
ふみ
を
著
あらは
して,
委
くは
しく
辨
わきま
へられたるを見るべし。】
普
あまね
く人の見ざる
遠
とほ
き
漢籍
からぶみ
に,
偶
たまたま
聊
いささ
か
似
に
たる
文字
もじ
の
交
まじ
れるを
以
も
て,
其
そ
を
記
しる
せる
物
もの
ぞと
誣言
しひごと
して,人を
惑
まど
はさむと
為
し
たる
也
なり
けり。古語拾遺の
說
こと
の
非言
ひがこと
なる
由
よし
は,古史徵開題記に
委
くは
しく
辨
わきま
へたれば,彼記に
就
つ
きて
見
み
るべし。
右
神代文字
かみよもじ
者,
推古天皇
すいこてんわう
端正元己卯年,所納於當社也。相傳云,
天八意命
あめのやこころのみこと
之御作。
廄戶皇子
うまやとのみこ
之御書焉。
伊夜比古神社
彌彥神社
神主
時
ときに
文明九丁酉歳 高橋兼之
右元書,惜哉,天文二十二年之
兵火
へいくわ
被燒失畢。幸先祖兼之手澤存于予家耳。
然
しかれども
真字、假名在傍讀不便也。故今
改
あらためて
為五十連韻,不違本書之假名音替
片假名
かたかな
者也。
伊夜比古神社
いやひこのかみやしろ
神主 于時
貞享
ぢゃうきゃう
五年戊辰八月 彌彥左近光賴 寫之畢。
○
此
こ
は伴元甫が
寫藏
うつしも
たるを,
借
か
りて
寫
うつ
しつ。
【
但
ただ
し光賴の奧書に記せる
如く,原本は五十音圖に
書きたりしを,
於乎
おを
の所屬
’等
など
も
違
たが
ひて
紛
まぎら
はしく,
且上
かつかみ
に
舉
あ
げたる遺文
等
ども
は,
咸日文
みなひふみ
の
次第
ついで
なる故に,
其
それ
に
倣
なら
ひて,
此
こ
をも
日文
ひふみ
の
次第
ついで
に
改
あらた
めたる
也
なり
。
復前
またさき
の奧書なる兼之の二字は,花押の
傍
かたはら
に,朱を
以
も
て小字に
書
か
きたりしを,
見易
みやす
からむ
事
こと
を思ひて。右の如く
記
しる
せり。】
偖此
さてこ
を
得
え
つるより
前
さき
に,森川士義が
輯
あつ
めたる文字
共
ども
の
中
なか
より。
寫置
うつしお
きたる
一枚
ひとひら
も右と同じ遺文にて,奧書に,右神代文字四十七音者,
越後國
ゑちごのくに
蒲原郡,
伊夜比古
彌彥
神社所藏。
天八意命
あめのやこころのみこと
之御作也。借平心舍高橋光賴寫。而寫畢。
不許
ゆるさず
他見者也。天和三癸亥年二月,橘三喜齋謹識。と
有
あ
り,
斯
か
くて字體筆意互に
異
こと
なる
事無
ことな
し。
【
此
この
彌比古神社
いやひこのかみやしろ
の遺文の
事
こと
,彼社の
彌宜
ねぎ
高橋齋宮國彥は,
軈
やが
て神主の
同族
うから
にて,故大人の
弟子也
おしへこなり
しが。大人の
世
よ
を
避給
さりたま
へる
後
のち
には,
己
おのれ
に
從
したが
ひてあれば,
江戶
えど
に
來
きた
れる時に,兼之の本書の
事
こと
を
問
と
へるに,
信
まこと
に
此
この
奧書の
如
ごと
く神主の
家
いへ
に,
代代持傳
よよもちつた
へたりしを,貞享の
頃
ころ
,
此
この
光賴と云ひける人,
社
やしろ
に
屬
つき
たる
僧
ほふし
,
訟事有
うたへごとあ
りて,
三年許
みとせばかり
江戶に
召
め
されて
在
あり
けるが,
非分
ひがこと
に
落
お
ちて,
國
くに
に
歸
かへ
る
頃
ころ
,江戶の
旅居
たびゐ
にて
使
つか
ひたる妾の,
汙
きたな
き
奴
やつ
にて,
或男
あるをのこ
と
密通
みそかわざ
して,光賴の衣服
其外品品物
そのほかくさくさのもの
を
盜取
ねすみと
りて
逃
に
げたるを,光賴は
御尤
みとがめ
を
蒙
かふむ
りて,
國
くに
に
歸
かへ
る
程
ほど
の事なれば,
其
そ
を
探
たづ
ぬる
事
こと
も
得
え
せで,
過
す
ぐしぬるが,其の中に
紛
まぎ
れて,彼本書を
始
はじ
め,
種種
くさくさ
の古文書をも
失
うしな
ひたりと
語
かた
りき。
如是
かく
て
後
のち
に,國彥が
叔父
をぢ
なる谷伴藏秀壽とて,
七十歲餘
ななそぢあまり
なるが,江戶に
來
き
て
在
あ
るをも
伴來
ともなひきた
れるに,此老人の
古道
いにしへのみち
を
尊
たふとむ
む
志深
こころざしふか
く,
余
まろ
が講說の
日每
ひごと
に二里
許有
ばかりあ
る
道
みち
を,
厭無
いとひな
く
在通
ありかよ
ひけるが,
我
われ
も
語
かた
りけらくは,吾が
祖父
おぢ
は,
此
この
光賴の
弟子也
おしへごなり
しかば,父なる人は,此事を
良
よ
く
和
し
りて
語
かた
られき。兼之の本書を
寫
うつ
したるが有りしを,
己甚弱
おのれいとわか
き
程
ほど
に,高橋某と云ふ社人の
家
いへ
にて見たるに,
此得給
このえたま
へるに,花押も
何
なに
も
違
たか
ふ
事無
ことな
かりき。
其
それ
さへに,今は
其有無
そのありなし
を
知
し
らず。光頼ぬし,社僧に
負
まけ
たるは,
公事
おほやけごと
なれは,
嘗恨
かつてうらみ
とせざりしが,兼之の本書を
失
うしな
ひたる事をば,
世限
よのかぎ
り
歎
なげ
きたりしと,父の
語
かた
られし
也
なり
。
然
しか
るに
今思
いまおも
ほわず,其寫の
儘
まま
なるを見る事よとて,
淚墮
なみだおと
して,
余
まろ
が
此一枚
このひとひら
を
得
え
たる事を悅びき。其後も
屢屢
しばしば
光賴の事を
問
と
へるに,江戶に
在
あり
ける
程
ほど
,橘三喜齋と云ふ,垂加流の神道を
教
おし
ふる人の弟子と
成
な
りて,平心舍と
云
い
ふ舍號も,三喜が
令負
つけ
たる
也
なり
。姓は尾張連より
出
い
でたる,高橋氏なるが,
其
其
を
所謂
いはゆる
苗字にも
稱
よ
ひ,
復
また
の苗字を,
彌彥
いやひこ
とも
云
い
ふと
語
かた
りき。此物語にて,光賴の事も知られ,橘三喜齋に,
此
こ
を
授
さづ
けたる
由緒
ゆいしょ
も知られ。
又上
またかみ
に
次次舉
つぎつぎあ
げたる遺文
共
ども
の,
茲
これ
に
準
なづら
へて,正しき事をも
辨
わきま
へつ。】
偖
さて
天八意命
あまのやこころのみこと
とは,
思兼命
おもひかねのみこと
の
亦名也
またのななり
。國造本紀に,
八意思兼命
やごころおもひかねのみこと
とあるを
始
はじ
め,
古書
ふるきふみ
に
多
おほ
く
見
み
えたり。
【古史の第六十段の傳を
見
み
て知るべし。】
偖
さて
推古天皇の端正元己卯年と
云
い
ふ
事
こと
,
甚
いた
く
心得難
こころえがた
く。
前
さき
には法師流の
妄說
みだりごと
なるべく
思
おも
へりしを,此遺文どもを信ずる
意出來
こころいでき
て,
後
のち
に此事信友と
語相
かたらひ
しかば信友が
言
い
ひけらく。古代の年號の,國史に
載
のせ
られざるが,
當昔
そのかみ
の文書
石文等
いしぶみなど
に
存
のこ
り,
或
ある
は
古書籍
ふるきふみ
,
復
また
は神社佛刹の古緣起、古家の系譜
等
など
に見え,
復
また
古き年代記
等
など
にも
種種有
くさくさあ
るが
上
うへ
に,漢韓の
戒國
からくに
の古書にも,
希希
まれまれ
は
書載
かきの
せたり。
然
さ
れど
其
そ
は,
後世
のちのよ
の妖僧等が
所為
しわざ
ならむか,と
思
おも
はるる
事少
ことのすくな
からねど,
古證有
ふるきあかしあ
りて,
悉皆
ことごとく
偽稱とも
思定兼
おもひさだめか
ねて,
然
さ
る年號を,
物
もの
に
見當
みあた
りたる
時時
ときどき
は,
書留等
かきとめなど
しつるに,
近
ちか
く寛政九年の
頃
ころ
,
既
すで
に京人藤原貞幹が,逸號年表と
云
い
ふ
書
ふみ
を
編
あらは
して,
摺本
すりまき
に
為
し
たるを見れば,
然
さ
る異年號を,二十四部の古文書
共
ども
に
據
よ
りて
採纂
とりあつ
め,
年紀
としだて
して表して
云
い
はく。續日本紀,
【聖武天皇。】
神龜
じんき
元年十月朔日,詔曰:「
白鳳
はくほう
以來
朱雀
すざく
以前,年代玄遠,尋問難明。」而朱雀、白鳳二號,
日本紀
やまとふみ
皆不載。其他
水鏡
すいきゃう
、諸書所載紀號,國史亦無所見,俱未詳其故也。今一一推以
干支
えと
,輯錄為年表。如其遺漏,則俟後考云と
言
い
へり。
【
又
また
柴野邦彥主の敘に
云
い
はく,異年號者,不可詳其所出也。撰字既淺俗義又多取之
浮屠
ふと
,恐非
朝廷
てうてい
頒降也。獨
神龜
じんき
詔,舉
白鳳
はくほう
、
朱雀
すざく
號,
延曆
えんりゃく
解稱大長號則,不可謂朝宇間全無聞知也。而
舍人王
とねりしんわう
史,皆闕不載,何也。豈以陋謬不可示遠邪。將參差錯出,不可整以
干支
えと
邪,皆可疑也。要之史缺有間,百口異傳。王以宏才精識,修成一王法,取信
萬世
よろづよ
。其於疑者則闕如。固其所也,似今不可必更幽索僻討以攪之。但碑志
雜記
ざっき
,徃徃用以
紀年
きねん
。外國人又傳錄著之策,則又有不得,
遂
つひに
略而不省者焉。友人藤子東博古好奇,凡
天下
あめのした
古文斷崖邃壑,搜訪靡遺。一日就其中,檢出異號,推以
干支
えと
,作表以譜而後參差可整。而世代可考,足以補
史家
しか
之遺,亦鑑古之佳冊也。と
云
い
はれたるは
然
然
る
說也
ことなり
。此敘に
盡
つく
されざる事は,
下
しも
に
云
い
ふ
說
こと
に
因
よ
りて
思辨
おもひわきま
ふべし。】
既
すで
に盡囊抄に,「吾朝に,
初
はじめ
は年號
無
な
かりき。
武烈天皇御世
ぶれつてんわうのみよ
に,
始
はじ
めて善紀と
云
い
ふ
號有
なあり
しかども,
續
つづ
かずして有無不定
也
なり
。其後
孝德天皇御世
かうとくてんわうのみよ
に,
大化
たいくわ
、
白雉
はくち
,
天武天皇御時
てんむてんわうのおほむとき
に,
白鳳
はくほう
、
朱雀等云
すざくなど
いふ
號有
なあり
しかども,今の
年紀
としだて
に
連
つら
ねず。
文武天皇御宇
もんむてんわうのみよ
大寶
たいほう
よりこそ,絕ぬ
事
こと
とは戚にけれ。但し
復
また
,善紀より次第する本あり。
白鳳
はくほう
を,
天智天皇御代
てんでてんわうのみよ
に
繋
か
け,
大化
たいくわ
を
天武天皇
てんむてんわう
の
末
すゑ
に
係
か
け。此本
頗
すこぶ
る
違
たか
ふ
事多
ことおほ
き
故
ゆゑ
に,此を
用
もち
ひずと云ふ。
唯
ただ
文武天皇五年に
係
かか
る。大寶より次第するを
善
よし
とする
也
なり
。」とも
記せり。
己
おのれ
その逸號年表に
引漏
ひきもら
せる古文書於
等
ども
に,
見當
みあた
りたるを
補綴
そへつつ
らむと
欲
ほし
て,古文書五十餘部を
集
あつ
めて,
姑
しばら
く本書に
書收置
かきいれお
きたるが,端正と
云
い
ふ年號,
安藝國嚴嶋神社
あきのくに伊都岐しまのかむやしろ
緣起にも,推古天皇端正五年癸未と有リて。
年紀干支
としだてえと
,
此神代字
このかみよもじ
の
奧書
おくかき
と
符合
よくあ
へり。
今姑
いましばら
く
日本紀
やまとのふみ
の年號に
據
よ
りて
考
かむがふ
るに。
【以下は
年紀干支論也
としだてえとのあげつらひなり
。】
端正元年は,
推古天皇御世
すいこてんわうのみよ
の
二十七年
已卯
の年號に
當
あた
れり。
然
しか
るに,前代
崇峻天皇御世
すしゆんてんわうのみよ
二年己酉の年號を,端政、瑞正、瑞政
等書
などか
ける
物有
ものあ
りて,
【朝鮮の海東諸國記に,皇國の年號を
記
しる
せるには,端政と
作
あ
り,
全
すべ
てを考ふるに,古本年代記、皇代記と
全
また
く
同
おなじ
く見ゆれば,此二書
等內
などのうち
を
傳見
つたへみ
て,
書
か
ける
物
もの
なるべし。
但
ただ
し字の
參差
たがへ
るに
似
に
て,
異
こと
なるが多きは,
彼此共
かれこれとも
に傳寫の
誤
あやま
れる
也
なり
。】
互
たがひ
に
紛
なぎら
はしきを考へ
合
あ
はするに,
先
ま
づ其崇峻天皇の
御世
みよ
の二年の年號を,古代の
年號
ねんがう
に,瑞政元年とし。古本年代記には,端正元年とし。
【
何
いづ
れも四年に
止
とと
まれり。】
平家物語
へいけものがたり
、
源平盛衰記
げんぺいじゃうすいき
に
記
しる
せるも端正と
有
あ
りて,
同年紀
おなじとしだて
に
當
あた
れり。
【
平家物語
へいけものがたり
、
源平盛衰記
げんぺいじゃうすいき
の二書は安藝國
嚴島明神
いつくしまみゃうじん
の由來を
記
しる
して
推古天皇御宇
すいこてんわうのみよ
,癸丑端正五年十一月云云と
有
あ
り,此癸丑元年を已酉とせるに
合
あ
へり。
然
さ
れど,上に引きたる同社の緣起に推古天皇端正五年癸未と
有
あ
ると同じ傳へにて,平家物語、盛衰記なるは,既に未を丑と
誤
あやま
りたるにもや有らむ。
然
さ
らでも
年紀干支合
としだてえとあ
へれば難
無
な
し。】
今併
いまあは
せ考ふるに,瑞政、瑞正とあるが正しくて,政正
孰
いづれ
をも書傳へたるなるべし。
然
しか
れば端政、端正と
書
か
ける端は,瑞の誤寫とこそ
思
おも
はるれ。
【
偖
さて
古代年號に瑞政四年の次,推古天皇の元號より,喜樂元、瑞正元、始哭元,と三年うち
續
つづ
きて三號有れど,此は
餘
ほか
に
相證
あひあか
すべき
事無
ことな
し。
想
おも
ふに喜樂は餘文の
雜入
まじりいり
たるにて,瑞正は本來の年號の,更に
錯入
まがひい
りたる
也
なり
。始哭は異本に大哭と
有
あ
り,
當昔
そのかみ
佛意にまれ,儒意にまれ,哭の字を年號に用ふべきに
非
あら
ず。
玆
これ
も余文の
錯入
まがひい
りたるなるべし。】
又
また
近江國甲賀郡大原莊,三島大明神緣起に,推古天皇瑞正三年庚戌と
有
あ
るは,崇峻天皇の三年にて,上に
論
あげつら
へる瑞政二年に當れり。
然
さ
れば三年は,二年の
寫誤
うつしあやまれ
りならむか。
【本書を見て
定
さだ
むべし。】
然
さ
も有らば此も
合
あ
へり。
然
さ
らでも
證
あかし
とはなるべき
也
なり
。
如是辨
かくわきま
ふる
時
とき
は,瑞政は,
【また瑞政とも
作
か
く。】
崇峻天皇の年號,端正は推古天皇年號
也
なり
し事は,明なるが
如
ごと
し。
然
しか
るに
伊豫
いよ
風土記なる,
湯岡側
ゆのをかのかたはら
に
立在
たちたり
と
云
い
ふ
碑文
いしぶみ
に,法興六年十月歲在丙辰
云云
かくかく
と
見
み
え,
大和國
やまとのくに
法隆寺なる古物の,釋迦佛光後銘に,法興元卅一年歲次辛巳云云と
有
あ
り。
【法興元とは元年よりと
云
い
ふ意に
置
おき
たる文と通えたり。】
此
これ
に因て
考
かむが
ふれば,瑞政三辛亥年は,法興元年に
當
あた
れり。
【瑞政は上に
云
い
ふ如く,四五年
續
つづ
きたるに,其中間の三年より,
復
また
法興の年號有りし
也
なり
。】
抑抑此年號
そもそもこのみよのな
は,色葉字類抄に:「元興寺,有本、新兩寺。
推古天皇
すいこてんわう
御願建立於
大和國武市郡
やまとのくにたけちのこほり
。」格云:「此寺
佛法
ぶっぽふ
元興之場,
聖教
しゃうげう
最初之地。」云云。寺家緣起云:「
崇峻天皇
すしゆんてんわう
第二年己酉,
聖德太子
しゃうとくたいし
與
蘇我馬子
そがのうまこ
大臣,
武內郡
たけうちのこほり
飛島地建
法興寺
ほふこうじ
。本
元興寺
ぐわごうじ
是也。天平十七年,造末寺,今元興寺是也。」と有ると,
碑文
いしぶみ
に,「法興六年丙辰。」と
有
あ
るを
推上
おしのぼ
せて
考
がむが
ふるに,元年は辛亥にて,崇峻天皇の
御世
みよ
の第四年に
當
あた
れり。
所謂
いはゆる
格文に,「此寺佛法元興之場。」云云と見え,
寺號
てらのな
とも
為
せ
られたるを思へば,
復年號
またみよのな
とも
為
せ
られしなるべし。瑞政は
上
かみ
に
論
い
へる
如
ごと
く,四五年の
間
あひだ
の年號と
通
きこ
ゆるに,此法興元年は,瑞政三年に
當
あた
れば年號
重
かさな
れり。
故熟熟
かれつらつら
其世の
趣
さま
を
推量考
おしはかりかむが
ふるに,聖德太子の
御慮
みこころ
にて,崇峻天皇の
御世
みよ
に,
私
わたくし
に年號を
作
つく
りて瑞政と
稱
とな
へ,
物
もの
にも
記給
しるしたま
へるが。
後
のち
に推古天皇の御世に
成
な
りて,彼法興寺の
事
こと
によりて,
後
あと
より
前
さき
の瑞政三年を,法興と
改
あらた
めて
稱給
となへたま
ひ。
上御代代
かみつみよみよ
に
逆上
さかのぼ
りて,
稱號
たたへな
の如く
名給
なづけたま
へるなるべし。
其
そ
は
漢風
からぶり
に
例給
ならひたま
へれど,
字
もじ
は太子の
好
この
み給へる佛道の
意
こころ
に
據
よ
れるを,
用給
もちひたま
へりと
通
きこ
ゆるをも,
思合
おもひあ
はすべし。
【
又按
またおも
に瑞政三年に,法興の號を
複
かさ
ねて,瑞政法興元年と
建
たて
られけむも知るべからず。
其
そ
は
後御代
のちのみよ
に,天平二十一年を
改
あらた
めて,天平感寶元年と
為
な
され,同年內に復改めて,天平勝寶元年と為され。同九年を天平寶字,その九年を天平神護と
改給
あらためたま
へり。年號は
元
もと
,
漢國之制
からくにのさだめ
に
例給
ならひたま
へるに,漢國にて,四字の年號
有
あ
リし
事無
ことな
し。
若
もし
くは
當時昔
そのかみのむかし
,瑞政法興
云
て
ふ
複字
かさねもじ
の年號有リしに,
例給
ならひたま
へるにも有るべし。
然
しか
らば其四字號を,二字に
引放
ひきはな
ちても
用
もち
ひたりけむから今にては,
二字紛
ふたつのなまぎは
らはしきにもや有らむ。
其
そ
は東寺に
在
あ
る古文書に,天平勝寶を勝寶,天平寶字を寶字とも天平とも,神護景雲を景雲とも書るが有るをも
思合
おもひあは
すべくや。】
其頃
そのころ
,
未
いま
だ上御代代の
事
こと
は,
大略
おほらか
に
語傳
かたりつた
へ,
書
か
きも傳へて
漢風
かさざま
の曆法支干を
用給
もちひたま
はざりつる
以前
さき
の事なれば,
年紀
としたて
きはやかならず。
況
まし
て
支干等
えとなど
は,
慥
たしか
に
推定給
おしさだめたま
はざりつる時なれば,
年紀
としたて
も支干も。
大
おほ
らかにしてぞ。
年號名
みよのなつ
け給ひけむから,
取取
とりどり
に
參互
たが
ひて,
紛
まぎら
はしく
傳
つたは
れる
也
なり
。
偖後御世御世
さてのちのみよみよ
も
其
それ
に
倣
なら
ひて,年號を
名
つけ
られたりと
通
きこ
ゆれど,
後御世
のちのみよ
の
如
ごと
く,
重
おも
き事として,天下に
頒降
おこなは
せ給ふ
許
ばかり
には
非
あら
で
經
へ
に來しから。
詳
さだか
ならぬを,孝德天皇の即位乙巳年に大化と
稱
となへ
られたるより,
大方世間
おほかたよのなか
に
頒降給
おこなひたま
ひけるか,日本紀に,此御世の年號より
載
のせ
られたるなるべしと言へり。
此
これ
にて端正と
云
い
ふ異年號の
事
こと
は知られたり。
斯
かく
て其元年己卯は,推古天皇紀二十七年と
云
い
ひける
年
とし
にて,此頃は聖德太子攝政として,天皇の
御事
みわざ
を
行給
おこなひたま
ひ,
素
もと
より
漢風佛法
からぶりほとけざま
を
好
この
み給ふ
御心
みこころ
の
隨
まにま
に,
古風
いにしへぶり
を
止
や
めて
漢風
からぶり
を
移
うつ
し。此年蘇我馬子と
共
とも
に
議
はか
りて,天皇記、國記、諸本記を
錄始
しるしはじめ
られたる
頃也
ころなり
き。欽明天皇紀本註に,「帝王本紀
多
さは
有古字云云,後人習讀以意刊改。」云云と見え。
【此全文は,開題記に
引
ひ
きて,
既
すで
に
委
くはし
く
論
い
へりき。】
貞治六年に,忌部正通宿禰の
著
あらは
せる神代口訣に,「
神代文字
かみよもじ
象形也。
應神天皇
おうじんてんわう
御宇,異域典經始來朝以降,至
推古天皇
すいこてんわう
,
聖德太子
しゃうとくたいし
以漢字付和字。後百有餘年而成此書焉。」と云へるは,
傳有
つたへあり
し
說
こと
と
通
きこ
え。
【神代文字象形也と
有
あ
るを,
前
さき
に開題記を
著
あら
はせる時は,漢籍說文に
所謂
いはゆる
象形と,
同義
おなじこころ
に思へりしかど,今
熟思
よくおも
へば,神代文字は
太兆驗象
ふとまにのしるしがた
を
原
もと
にして作れる故に,象形とは云へるにて,說文に
所謂
いはゆる
象形の義とは,
異
こと
なるべくぞ
所思
おぼ
ゆる。
偖
さて
推古天皇の己卯の年より,貞治六年
迄
まで
,七百五十年に
五六年足
いつとせむとせた
らぬ
間
ほど
なれば,
然
さ
る
正
ただ
しき
傳書
つたへふみ
の有リしを見て,聖德太子云々の
事
こと
は記されにけむ。】
復
また
日本紀跋に:「推古天皇御宇,聖德太子始以漢字,付神代之字傍。」と
有
あ
るを合せて
考
かむが
ふるに,上古より
有來
ありこ
し
日文字
ひふみもじ
を
刊
けづ
りて,
漢字
からもじ
を
填
あ
てられたるが。
然
しか
すがに皆
絕
た
やし捨てむ
事
こと
を
可惜
あたらし
みて,
別
こと
に人にも
書
か
かしめ,
親書
みづからかき
もし給ひて,
古
ふる
き神社,
復
また
は佛寺にも
遺
のこ
し
納置
をさめお
かれたるを,勅封
等
など
も
言傳
いひつた
へたるにぞ
有
あ
るべき。
【
鶴岡八幡宮
つるがをかはちまんぐう
に傳はれる遺文に,敕封して
納給
をさめたま
ふと云ひ、法隆寺に
傳
つた
はれりと
云
い
ふ遺文にも,聖德皇儲の御書なる
由
よし
見えたり。
猶
なほ
開題記に
著
あら
はせる,神代文字の論を
合
あは
せ見るべし。】
所謂
いはゆる
端正元己卯年より,高橋兼之の
其
そ
を
寫
うつ
せる。文明九年
迄
まで
,八百五十九年に
成
な
り。文明九年より,光賴の
再寫
またうつ
せる貞享五年
迄
まで
,二百十二年に
成
な
り。貞享五年の九月に元祿と改元
有
あ
り。其年より今の文政二己卯年
迄
まで
,百三十二年に
成
な
れば,
納
をさめ
られたる端正元年より,
總
すべ
て千二百一年にや
成
な
りぬらむ。
【
竊
ひそか
に
按
おも
ふに,
納
をさめ
られたる年は,推古天皇の二十七己卯年なるに,今己が此書に
著
あらは
して,世に
弘
ひろ
むる年も,
復
また
己卯年なるは
甚奇
いとあや
しき
事也
ことなり
。】
偖
さて
兼之の手澤に,
真字
まな
の假名
傍
かたはら
に在しを,光賴の
其
そ
を
片假名
かたかな
に改めたりと
有
あ
る。真字假名は,
所謂真假名
いはゆるまがな
にて,
其
そ
は
後世
のちのよ
に,
日文
ひふみ
を
讀難
よみがて
に
為
せ
む事を
覺
おぼ
して,聖德太子の
加
そへ
られたるにて,
此
こ
は
伊夜比古神社
いやひこのかむやしろ
に納たる
日文
ひふみ
のみならず,諸社に
納
をさ
られたるも
然為給
しかしなしたま
ひけむを,
何
いづ
れも
寫
うつ
す時に
刪捨
けづりすて
て,片假字に
改
あらた
め。
其事
そのこと
をさへに
言漏
いひもら
せりと知られたり。
然
さ
るは何れも
然
もとつまき
元本に,
真假名
まがな
を
附
つ
けて
無
な
からましかば,其字意を
知
し
るべき
由
よし
の
無
な
ければ
也
なり
。
【聖德太子はも,
生涯
よのかぎり
佛道を
興
おこ
し,
漢風
からぶり
を移して,
皇御祖神之御道
すめみをやがみのみち
を亂されたる
事
こと
,開題記
復
また
古史傳に
論
あけつら
へる如くなるに,然すがに,神字を
絕
た
やさむ事をば
惜
をし
みて,
遺傳
のこしつた
へられしは,
皇御祖神之道
すめみをやがみのみち
に
違給
ちがひたま
へる
御態
みわさ
をも,
聊
いささ
か
贖
あがな
ふべくぞ
覺
おぼ
ゆる。】
偖
さて
廄戶皇子
うまやとのみこ
の御書と
言傳
いひつた
へたる
元書
もとつふみ
の,兵火に燒失たりと
有
あ
る。天文二十二年の
頃
ころ
は,
國國
くにぐに
に
軍有
いくさあ
りて,越後國も
常
つね
に兵亂
有
あ
りし頃
也
なり
しかば,兼之の
住居
すまゐ
,
復
また
は
神庫等
かみのほぐらなど
の
燒
や
かれたりける
時
とき
にぞ,
燒失
やけう
せたりけむ。
此
こ
は
力無
ちからな
き
事為
ことな
れど,光賴の時
迄傳持
までつたへも
たりし,兼之の手澤をさへに失ひたりと
聞
きこ
ゆるは,
甚惜
いとをし
き
事也
ことなり
。今も
何處
いつご
にか
存
のこ
りや
亡
な
しや。 ○
偖
さて
前に,開題記を
著
あら
はせる時に,
上代文字
かみつよのもじ
は,
決
きは
めて
左
ひだり
より
右
よこ
へ,
橫
なら
に竝べて
書列
かきつら
むと
考記
かむがへしる
せりしを,今此書に著はし傳ふる
日文
ひふみ
の遺文に,
一枚
ひとひら
だにしか
書
か
けるが
無
な
きは,
己
おの
が
前
さき
の考の
非也
ひがごとなり
しかと思ふに。
彼神隨
かのかむながら
なる理の,
違
たか
ふべくも
非
あら
ざるに就きて,
猶思
なほおも
ふに,第一に
舉
あ
げたる
日文真字
ひふみのまな
を
察
み
るに,初聲の字を
左
ひだり
より
書始
かきはじ
めて,
右
みぎ
に終聲の字を
隷
つ
けたるは,
玆自然書體
これおのづからのかきざま
なれば,
如是書
かくかき
もて
行
ゆ
きつつ,
數字
あまたのもじ
を
書
か
く
時
とき
は,
橫行
よこくだり
となるめり。
是
これ
ぞ
正
ただ
しき
書體
かきざま
なるを,
又
また
初聲字を
上
うへ
に終聲字を
下
した
に
隷
つ
けて。ㅇㅏと
樣
やう
に
書
か
きたる一體も
有
あ
れば,
此
こ
は
縱行
たてくだり
に
書
か
くべき
勢也
いきほひなり
。
然
しか
れば
上代
かみつよ
に,縱行にも
書
か
けりしを,
後
のち
に漢文を
見倣
みなら
ひて,
益益
ますます
に
縱行
たてくだり
に
書
か
く
事
こと
となれる世に,記せる
日文
ひふみ
の傳はれる
也
なり
けり。
偖然書慣
さてしかかきな
れたる今になりては,
橫行
よこくだり
に書きたらむは,
卻
かへ
りて
異樣
ことさま
に見ゆれば。
若
も
し
日文字以
ひふみもじも
て
物書真欲
ものかきまほし
く思はむ人も
有
あ
らば,
如常
つねのごと
縱行
たてくだり
に
書
か
くべし。
其
そ
は
衣服
きもの
の
襟
えり
を
合
あ
はする
樣
さま
も
漢
から
に
倣
なら
ひて,天武天皇の
御世
みよ
より,右衽と
為賜
したま
へるを,今更に本の左衽に
復
かへ
したらむには,
異樣
ことざま
に
見
み
ゆめり。
此
これ
に
準
なぞら
へて思ふべし。
○或人問:「
上代
かみつよ
には,文字を
何物
なにもの
に
書
か
きたる?
復
また
其
筆墨等
ふですみなど
は
如何
いか
に?」答ふ,
此
こ
は信友が說に,
往昔
そのかみ
は
和布
にぎて
に
書
か
きたりけむを,其後
漢製
からざま
の
紙漉
かみつく
る
事
こと
を
習
なら
ひて,漢字を
書
か
き,
又元
またもと
よりの古字をも書きけむ。
其
そ
は敏達天皇紀元年の
下
ところ
に,「高麗上表疏,書于
烏羽
からすのは
云云。
王辰爾
わうじんに
乃蒸羽於
飯氣
いひのけ
,以帛印羽,悉
寫
うつす
其字。」と
有
あ
り。紙
有
あ
らば,
其
そ
を
用
もち
ひむ方
便宜
たよりよ
かるべきに,
帛
ねりきぬ
を用ひたるは,
未
いま
だ紙は
無
な
かりしにや。
其
そ
は
止
と
まれ。推古天皇の紀に,「十八年,高麗王貢上僧
曇徵
どむてう
、
法定
ほふぢやう
。曇徵能作
彩色
しみのもののいろ
及
紙墨
かみすみ
。」云云と
有
あ
るは,此僧始めて紙墨を
作
つく
れりと
聞
きこ
ゆ。漢國にしては,
舊
もと
は
竹筒
たけふだ
を用ひたるが,
後
のち
に縑帛を用ひて,
茲
これ
を
紙
し
と云ふ。
【○糸に
屬
つ
きたる字なる
事
こと
を思ふべし。】
其後に,後漢の元興元年の頃に,蔡倫と云ふ人,樹膚麻頭,及弊布漁網を
以
も
て,紙に作り。其君に
上
たてまつ
れるより始て,世に
從用
したがひもち
ひたる
由
よし
,後漢書に記せり。
【
是
これ
より
以前
さき
の物に,紙字の
出
い
でたるを
証
しるし
として,蔡倫より以前に,樹膚云云
以
も
て
製
つく
れる紙の,
有
あ
りと云へる說
有
あ
れど,其は紙字の本義を
失
わす
れたる說なりかし。】
復墨
またすみ
は,
松木等
まつのきなど
の
烟
けむり
を用ひ,
筆
ふで
は
鹿毛等以
しかのけなども
て作りたるなるべし。
【漢國にても
然
しか
するは,
此方
こなた
に
自
おの
づから
似
に
てるか,
又學
またまねび
たるにても有るべし。】
姓氏錄に,「
筆氏
ふみてし
,燕相國衛滿公之後也。善作筆,
預
およぶ
十一流。因茲賜筆姓。」と
有
あ
るは,
何
いづれ
の
御世也
みよなり
けむ知るべからねど,
此
こ
は
漢風
からざま
の筆を作れる
由也
よしなり
。と
言
い
へるは
然
さ
る
說也
ことなり
。世に
筆草
ふでくさ
と云ふ草
有
あ
りて,
出雲杵築浦
いづもきつきうら
ことに
宜
よろ
しく,
其外
そのほか
にも有て,予も
數多蓄藏
あまたたくはへも
てり。其根,毛を集めたるが
如
ごと
くにて,
能
よ
く墨を
含
ふく
めり。此を用ひて
物書試
もにかきこころ
むるに,大抵の事は
書得
かきえ
らるる物
也
なり
。
然
さ
れば筆の製作
無
な
き以前は,
此
こ
を用ひてぞ
書
か
きたりけむ。
甚
いと
も
奇妙
くしび
なる草にこそ,
猶
なほ
此等の事は,古史推古天皇卷十八年の傳に,
委
くはし
く
注
い
ふ見るべし。
文政二年己卯歲五月八日に
考
かむが
へをへつ。
神字日文傳 跋
己常
おのれつね
に思へるやう,我が大御國に,
本
もと
より文字
無
な
しと云ふ
事
こと
は,早くより聞えたる事には有れど,此は
非說
ひがごと
なるべし。
然
さ
るは
先
ま
づ、世中次次に
開行
あけゆ
くに
隨
したが
ひて,
事業繁
ことわざしげ
く,
萬物出來
よろづのものいでく
るに就ては,必それに
名付
なづ
くべし。其名あるからは,必
其
そ
に當る文字なくは有べからず。
其
そ
は
漢國
からくに
の如く,
煩
うる
さく
言痛
こちた
く,
作出
つくりいづ
る事は
非
あら
ざるべしけれど,印度を始め,西洋なる,末とも末の國國
迄
まで
,
體
さま
こそ
異
かは
れ,各各文字
無
な
き國やは
有
あ
る。
其
そ
は
譬
たと
へば,
一
ひと
つにはゝと
書
か
き,
二
ふた
つには〻と書き,
縱
たて
なる物は|を
書
か
き,
橫
よこ
なる物には—を書けば,
如何
いか
に
稚
をさな
き者と
云
い
へども,
必然
かならずしか
すべく。
且漢人
かつからびと
も云へる如く,象形とて,日月車馬
等
など
の字の如く,
唯
ただ
に打見たる
儘
まま
に
寫
うつ
せるもあり。
其餘萬物
そのほかよろづのもの
,
茲
これ
に準へて
悟
さと
るべし。此ゝ〻|一
等
など
,
是即
これすなはち
文字の
原
もと
にて,
茲
これ
に
據
よ
らば,
如何
いか
なる文字か
制得
つくりえ
られざらむ。
況
まし
て
奇
くす
しく
尊
たふ
き神神の御上に
於
お
くをや,然れば
大皇國
おほみくに
に
文字無
もじな
しと
云
い
ふは,
如何
いか
に
非說
ひがこと
ならじやは。
然思定
しかおもひさだ
むるに
就
つき
ては,其由
書著
かきあらは
さばやとは思ふ
物
もの
から,
本
もと
より
學
むな
びの
力無
ちからな
く,
痴
をこ
がましき
態
わざ
にし
有
あ
れば,
默
もだれ
止在りける。
此程
これほど
師の
御教
みをしへ
を受け,
且
かつ
神字日文傳をも
拜讀
をがみよみ
て,始めて我が御國文字の,
其原
そのもと
は
太兆
ふとまに
の
町形
まちがた
よりいてて,
神達
かみたち
の
如是愛
かくめで
たく
優
うる
はして,
制成
つくりな
し給ひ,
將
はた
古人の
書風先
てぶりさき
,
其儘
そのまま
に
傳
つた
はれるを見るに,
豫
かね
て
己
おの
が思へるよりも,
遙
はる
かに
勝
まさ
りて,
斯斯
かくかく
こそ,
萬國
よろづのくに
の
祖國
おやぐに
の
神字
かむな
なる事
灼然
いちしる
く,
最
いと
も正しく,
最
いと
も尊く,
憘
うれ
しさ
辱
かたじけ
なさ,
云
い
はむ方ぞ
無
な
かりける。
故此由
かれこのよし
,
一言書記
ひとことかきしる
して,師の御許に
贈參
をくりまゐ
らすになむ。
甚切惶恐
あなかしこ
。
秋田人 源小笠原以忠