水江(いづのえ)の　浦嶋子(うらしまのこ)が　玉匣(たまくしげ)　開(あけ)ての後(のち)ぞ　悔(くや)しかりける

玉匣(たまくしげ)　開(あ)け行雲(ゆくくも)に　後居(をくれゐ)て　海人(あま)つやぞにも　成(なり)にける哉(かな)

結(むす)びてし　玉緒弱(たまのをよわ)み　解染(わかそめ)て　指南雲(をしへのくも)に　後(をくれ)ぬる哉(かな)

世間(よのなか)を　思海(おもふのうみ)の　我身(わがみ)には　老波(おいのなみ)さへ　立(た)つぞ張(は)りける

故鄉(ふるさと)も　見知(みし)たらちめも　失(なく)にけり　我身(わがみ)も露(つゆ)と　滅(ほろ)や果(は)てなむ

逢事(あふこと)の　雲居遙(くもゐはるか)に　阻(はばむ)れば　心(こころ)に虛(うつ)に　思(おも)ひなりぬる

戀(こひ)しきに　負(まけ)て雲居(くもゐ)に　成寢(なりいね)は　結(結)びし節(ふし)を　違(たが)つればやな

大海原(わたのはら)　浪潮(なみのしほ)りを　憑(たのめ)てや　指南雲(をしへのくも)を　先遣(さきやり)てけり

玉匣(たまくしげ)　籠垂(もりた)る物(もの)を　開(あけ)たれば　我身柄(わがみから)とは　詫(わぶ)る成(なり)けり

夢(ゆめ)ながら　覺(をほ)へぬ物(もの)を　玉匣(たまくしげ)　開(あけ)れば我(われ)に　成(なり)ける物(もの)を

　已上，浦嶋子之詠十首，畢。

紫(むらさき)の　雲(くも)の歸(かへ)りを　見(み)ながらに　何我袖(いかわがそで)の　紅(くれなゐ)に染(そ)む

海童(うみわら)の　波立出(なみのたて)て　別(わか)れしを　夜夜獨(よなとなひとり)　怨(うらみ)てぞ寢(ね)む

世(よ)を海(うみ)て　我泣淚(われなきなみだ)　澄江(すみのえ)に　紅深(くれなゐふか)き　波(なみ)とよならむ

今世(いまのよ)に　逢事難(あふことかた)く　成(なり)ぬれば　後世(のちのよ)にだに　相見(あひみ)てし哉(かな)

底本文獻：群書類從九　文筆部　『浦嶋子傳』