針間播磨國風土記 讚容郡/宍禾郡/神前郡/託賀郡/賀毛郡/美囊郡


針間播磨國風土記 讚容郡

一、讚容略記

 讚容郡(さよのこほり)
 所以云讚者,大神妹妋(おほかみいもせ)二柱(ふたはしら)(おのもおのも)(きほひ)占國之時,妹玉津日女命(たまつひめのみこと)捕臥(とらへふせ)生鹿(いけるしか)(さき)其腹而(まき)稻其血。(すなはち)一夜之間(ひとよのま),生(なへ)。即令取(うゑ)
 爾,大神敕云:「汝妹(なにも)者,五月夜(さつきよ)殖哉(うゑつるかも)。」即(いたりき)他處(あたしところ)。故號五月夜郡(さつきよのこほり),神名贊用都比賣命(さよつひめ)。今有讚容町田(まちだ)也。【○贊用,讚容,佐用,并訓さよ。】鹿放山(しかはなちしやま),號鹿庭山(かにはやま)。山四面(よつのおもて)有十二(たに),皆有生(いだせり)(まかね)也。難波豐前於朝庭(なにはのとよさきのみかど)(たてまつりき)也。【○孝德。】顯人(みあらはししひと)別部犬(わかべのいぬ),其孫等初發(はじめ)奉之。

 讚容里(さよのさと)(こと),與郡同。(つち),上(なか)。】
 吉川(えがは)【本名,玉落川(たまおちがは)。】大神(おほかみ)(たま),落於此川。故曰玉落。今云吉川者,稻狹部大吉川(いなさべのおほえがは)(すみき)於此村。故曰吉川。【其山生黃蓮(かくまくさ)。】
 桉見(くらみ)佐用姬(佐用都比賣)命,於此山得金桉(かなくら)。故曰山名金肆(かなくら),川名桉見(くらみ)
 伊師(いし)。即是桉見之河上(かはかみ)川底(かはぞこ)(いし),故曰伊師。【其山生精鹿(訓不詳)升麻(とりのあしぐさ)。】
 速湍里(はやせのさと)【土,上中。】川湍(かはせ)速。速湍社(はやせのやしろ)坐神(ますかみ)廣姬命(ひろ比賣のみこと)故那都姬(故那都比賣)(いろど)
 凍野(こほりの)廣姬命(廣比賣命)此土(このくに)之時,凍冰(ひこほりき)。故曰凍野、凍谷(こほりだに)

 邑寶里(おほのさと)【土,中上。】彌麻都彥命(彌麻都比古命)(はり)(みをし)(かれいひ),即云:「吾(しめつ)多國(おほくのくに)。」故曰大村(おほのむら)。治()處,號御井村(みゐのうた)
 鍬柄川(くはえがは)神日子命(かむひこのみこと)鍬柄(くはのえ)令採(とらしめき)此山。故其山之川,(なづけ)曰鍬柄川。
 室原山(むろふやま)屏風(かぜをふせく)如室。故曰室原。【生,人參(かのにけくさ)獨活(うど)藍漆(やまあさ)升麻(とりのあしぐさ)白朮(おけら)石灰(いしばひ)。】
 久都野(くつの)彌麻都彥命(彌麻都比古命)告云(のりたまひし):「此山,踰者(ふまば)可崩(くつるべし)。」故曰久都野。後(あらため)而云宇努(うの)。其(あたり)為山。中央(もなか)()

 柏原里(かしはばらのさと)。由柏多生(さはにおふる),號為柏原(かしはばら)
 筌戶(うへど)。大神,從出雲國(いづものくに)來時,以嶋村岡(しまむらのをか)吳床(あぐら)(いまし)而,(うへ)置於此川。(かれ)號筌戶也。不入(うを)而入鹿(しか)。此取作(なます)(をし)不入口,而(おちき)於地。故,(さり)此處遷(あたしところ)


佐用都比賣神社 祀玉津日女命
讚容郡,兵庫縣佐用郡佐用、南光、上月、三日月町一帶。讚容町田,蓋佐用都比賣神田之古稱。


鹿庭山 大撫山


吉川村、 讚容里 佐用郡佐用町
吉川村,佐用町西北。讚容里,同町西北以外。吉川,今江川。


凍野、凍谷 上月町上月


御間都比古神社 祭大三間津彥
彌麻都彥命,或與大三間津日子同神。或云,即孝昭天皇是也。


中川里 三日月町


石上神宮
苫編部犬豬獻異劍於朝庭,天武朝遣曾禰連麿,返送本處。天武紀三年八月,敕還諸家貯於神府寶物於子孫。知蓋藏諸石上神宮。


石上、物部氏遠祖 饒速日尊
曾禰連,按『姓氏錄』,曾根連,與石上同祖。是亦物部氏之後。


船引山 三方里山
三日月町,舊名船引庄。


雲濃里 佐用郡大畑

二、恠劍傳說

 中川里(なかつがはのさと)【土,(かみ)下。】所以名仲川(なかつがは)者,苫編首(とまあみのおびと)遠祖(とほつおや)大仲子(おほなかつこ)息長帶日賣命(おきながたらしひめのみこと)度行(わたりいき)韓國(からくに)之時,船宿淡路石屋(あはぢのいはや)之。爾時,風雨(かぜあめ)大起,百姓(おほみたから)(ぬれき)。于時,大中子,以苫作屋。天皇(神功皇后)敕云:「此為國富(くにのとみ)。」即,賜(かばね)為苫編首。(より)居此處。故(なづく)仲川里。
 昔,近江(あふみ)天皇(天智)之世,有丸部具(わにべのそなふ)也。是仲川里人也。此人,買取河內國(かふちのくに)兔寸村(とのきのむら)人之齎劍(もちをたるつるぎ)也。得劍以後,舉家(いへのことごと)滅亡(ほろびたりき)
 然後,苫編部犬豬(いぬゐ)(はたけつくる)彼地之(あと),土中得此劍。土與相去(あひさる)(めぐり)一尺許。其()朽失(くちうせ),而其()不澀(さびず)(ひかり)明鏡(あきらけきかがみ)。於是,犬豬,即(おもふ)(あやしき)心,取劍歸家,仍招鍛人(かぬち)令燒(やかしむ)其刃。爾時,此劍,屈申(のびかがみ)(へみ)。鍛人大(おどろき)不營(つくらず)而止。於是,犬豬,以為異劍(あやしきつるぎ)獻之(ささげたり)朝庭(みかど)
 後,淨御原(きよみはら)朝廷(天武)甲申(きのえさる)年七月,遣曾禰連麿(そねのむらじまろ),返送本處(もとつところ)。于今安置(おけり)此里御宅(みやけ)

 船引山(ふなびきやま)近江(天智)天皇之世,道守臣(ちもりのおみ),為此國之(みこともち),造官船(おほやけのふね)於此山,令引下(ひきおろし)。故曰船引。此山住(かささぎ),一云,韓國烏(からくにのからす)(すみ)枯木之穴(からきのあな),春時見,夏不見。【生,人參(かのにけくさ)細辛(みらのねぐさ)。】此山之邊,有(すもも)五根(いつもと)。至于仲冬(しもつき)其實(そのみ)不落(おちず)

 彌加都岐原(みかつきはら)難波高津宮(なにはのたかつのみや)天皇(仁德)之世,伯耆加具漏(ははきのかぐろ)因幡邑由胡(いなばのおほゆこ)二人,大驕(いたくおごり)無節(ことわりなく),以清酒(すみさけ)手足(てあし)。於是,朝庭(みかど),以為過度(ほどにすぎたり),遣狹井連佐夜(さゐのむらじさよ)(めし)此二人。
 爾時,佐夜,仍悉(とらへ)二人之(うがら)赴參之時(まゐくるとき)(しばしば)(ひたし)水中,酷拷之(からくうちき)。中有女二人,玉(まけり)手足。於是,佐夜(あやしみ)問之,答曰:「吾此(われはこれ)服部彌蘇連(はとりみそのむらじ)(あひ)因幡國造(くにのみやつこ)阿 良佐加姬(あらさか比賣)生子,宇奈姬(うな比賣)久波姬(くは比賣)。」爾時,佐夜驚云:「此是(これこれ)執政大臣(おほきまへつぎみ)(むすめ)。」即還送之(かへしおくりき)所送之處(おくれるところ),即號見置山(みおきやま)所溺之處(かづけしところ),即號美加都岐原(みかつきはら)【○美加都岐(みかづき)原,見溺岐(みかづき)原也。】

 雲濃里(うののさと)【土,上(なか)。】大神之(みこ)玉足彥(たまたらし日子)玉足姬(たまたらし比賣)命生子,大石命(おほいしのみこと)。此子,(かなへり)父心(かそのうら)。故曰有怒(うの)
 鹽沼村(しほぬまのむら)。此村出海水(うしほ)。故鹽沼村。


針間播磨國風土記 宍禾郡

一、宍禾略記

 宍禾郡(しさはのこほり)
 所以(ゆゑ)名宍禾者,伊和大神(いわのおほかみ),國作堅了(つくりかたまふことをはりし)以後,(さかひ)山川谷尾(たにを)巡行之時,大鹿(おほきなるしか)出己(した),遇於矢田村(やだのむら)(ここに)敕云:「()彼舌(あり)者。」故號宍禾郡,村名(なづく)矢田村。

 比治里(ひぢのさと)(つち),中(かみ)。】所以(なづくる)比治者,難波長柄豐前(なにはのながらのとよさき)天皇(孝德)之世,(わかち)揖保郡,作宍禾郡之時,山部比治(やまべのひぢ),任為里長(さとをさ)。依此人名(ひとのな),故曰比治里。
 宇波良村(うはらのむら)葦原志許乎命(大國主)占國之時,敕:「此地小狹(ちさくあれ),如室戶(むろのと)。」故曰表戶(うはと)
 比良美村(ひらみのむら)。大神之(ひらび),落於此村。故曰褶村。今人云比良美村。
 川音村(かはとのむら)天日槍命(あめのひぼこのみこと),宿於此村,敕:「川音(かはのおと)甚高(いとたかし)。」故曰川音村。
 庭音村(にはとのむら)【本名庭酒(にはき)。】大神御糧(みかれひ)(ぬれ)生酶(かびはえき)。即令釀(かましめ)酒,以(たてまつり)庭酒而宴之(さかみづく)。故曰庭酒村(にはきのむら)今人(いまのひと)云庭音村。

 奪谷(うばひだに)葦原志許乎命(大國主)與天日槍命二相奪(あひうばひたまひき)此谷。故曰奪谷。以其相奪之(ゆゑ),形如曲葛(まがれるかづら)
 稻舂岑(いねつきのみね)。大神,令舂(いねつかしめ)於此岑。故曰稻舂前(いねつきのさき)【生味栗(うまぐり)。】(ぬか)飛到之處,即號粳前(ぬかさき)
 高家里(たかやのさと)【土,(しも)中。】所以名曰高家者,天日槍命,告云:「此村高(まされり)他村(あたしむら)。」故曰高家。
 都太川(つたがは)眾人(もろひと)不能得稱(えいはず)
 鹽村(しほのむら)處處(ところどころ)鹹水(からきみづ)。故曰鹽村。牛馬等,(このみ)飲之(のめり)
 柏野里(かしはのの)【土,中上。】所以名柏者,柏生此野。故曰柏野。
 伊奈加川(いなかがは)葦原志許乎命(大國主)與天日槍命,占國之時,有嘶馬(いなくうま),遇於此川。故曰伊奈加川。
 土間村(ひぢまのむら)神衣(かむみそ),附土上(ひぢのうへ)。故曰土間。
 敷草村(しきくさのむら)。敷草為神座(かみのみまし)。故曰敷草。此村有山。南方(みなみのかた)去十里許,有(さは)二町許(ふたところばかり)。此澤生(すげ),作笠最好(いとうるはし)【生,(ひのき)(すぎ)(くり)黃蓮(かくまくさ)黑葛(くろかづらき)等。生,(まかね)。住,(おほかみ)(くま)。】
 飯戶阜(いひべのをか)占國之神(くにしまししかみ)(いひかひし)於此處。故曰飯戶阜。阜形亦似(こしき)()(かまど)等。


比治里 新宮、山崎町境堺
比治里,山崎町上比地、中比地、下比地。宇波良村,揖保郡新宮町香山平見。川音村,山崎町川戶。


比地瀧


奪谷 宍粟郡山崎町斷層地形


都太川 伊澤川
高家里,山崎町庄能至伊澤川。


敷草村 宍粟市千種


安師里 石作神社


石作里 山崎町五十波
起一宮町伊和迄山崎町五十波之揖保川流域一帶。


雲箇里 伊和神社


志爾嵩 一宮町高峰


伊和大神形見 御形神社 御形神社社傳,伊和大神、大國主命同神。


神酒 春日大社御神酒

二、安師傳說

 安師里(あなしのさと)【本名酒加里(すかのさと)(つち),中上。】大神,(すかしましき)於此處。故曰須加(すか)。後所以號山守里(やまもりのさと)者,(しかる)山部三馬(やまべのみま),任為里長(さとをさ)。故曰山守。今改名為安師者,因安師川(あなしがは)為名。其川者,因安師姬神(あなし比賣のかみ)為名。伊和大神(いわのおほかみ),將娶誂(つなどひ)之。爾時,此神固辭(かたくいなび)不聽(ゆるさず)。於是,大神大瞋(いたくいかり),以石塞川源(かはのみなもと)流下(ながしくだし)三形之方(みかたのかた)。故此川(すくなし)水。此村之山,生,(ひのき)(すぎ)黑葛(くろかづら)等。住,(おほかみ)(くま)

 石作里(いしつくりのさと)本名(もとのな)伊和(いわ)。土,下中。】所以(ゆゑ)名石作者,石作首(いしつくりのおびと)等,(すめり)村。故,庚午(かのえうま)年,為石作(さと)
 阿和賀山(あわかやま)。伊和大神之妹阿和加姬命(あわか比賣のみこと),在於此山。故曰阿和加山(あわかやま)
 伊加麻川(いかまがは)。大神,占國之時(くにしめまししとき)烏賊(いか)在於此川。故曰烏賊間川(いかまがは)
 雲箇里(うるかのさと)【土,(しも)下。】大神之妻木花咲耶姬命(許乃波奈佐久夜比賣のみこと),其(かたち)美麗(うるはしかりき)。故曰宇留加(うるか)【○木花咲耶姬命,蓋與瓊瓊杵尊妻同名異神(ことなるかみ)。】
 波加村(はかのむら)。占國之時,天日槍命(あめのひぼこのみこと)先到此處。伊和大神後(いたりたまふ)。於是,大神大恠(いたくあやし)之云:「非度(はからず)先到之乎?」故曰波加村。到此處者,不洗手足(てあし)必雨(かならずあめふる)【其山,生,柂、枌、(まゆみ)、黑葛、山薑(わさび)等。住,(おほかみ)(くま)。】

 御方里(みかたのさと)【土,下(かみ)。】所以號御形者,葦原志許乎命(大國主)與天日槍命,到於黑土志爾嵩(くろつちのしにたけ),各以黑葛三條(みかた),著足投之(なげたまひき)。爾時,葦原志許乎命(あしはらのしこをのみこと)之黑,一條落但馬(たぢま)氣多郡(けたのこほり),一條落夜夫郡(やぶのこほり),一條(おちき)此村。故曰三條。天日槍命之黑葛,皆落於但馬國。故(しめ)但馬伊都志地(いづしのところ)在之(いましき)一云(あるひといへらく),大神為形見(じゃたみ)(たてたまふ)御杖(ぬつゑ)於此村。故曰御形。

 大內川(おほうちがは)小內川(こうちがは)金內川(かなうちがは)。大者(いひ)大內,小者稱小內,(いだす)(まかね)者稱金內(かなうち)。其山,生柂、枌、黑葛(ども)。住,狼、熊。
 伊和村(いわのむら)本名(もとのな)神酒。】大神,(かみたまふ)酒此村。故曰神酒村(みわのむら)。又云於和村(おわのむら)。大神,國作訖以後(つくりをへてのち)云:「おわ(於和)(ひとし)於我神酒(美岐)【○於和(おわ),感嘆辭。每岐(みき)者,御酒也。意云,良作此國,等同我酒。】


針間播磨國風土記 神前郡

一、神前略記

 神前郡(かむさきのこほり)
 右,所以(なづくる)神前者,伊和大神(いわのおほかみ)之子建石敷命(たけいはしきのみこと)山使村(やまつかひのむら)神前山(かむさきやま)(すなはち),因神在(かみいます)為名。(かれ)曰神前郡。

 堲岡里(はにをかのさと)生野(いくの)大川內(おほかふち)湯川(ゆかは)粟鹿(あはか)波自加村(はじかのむら)。土,下(しも)。】所以(ゆゑ)號堲岡者,昔,大汝命(おほなむちのみこと)小比古尼命(すくなひこね)相爭(あらそひ)云:「(にらひ)堲荷(はにのに)遠行(とほくゆく),與不下屎(くそまらず)而遠行,此二事(ふたつのこと)何能為乎(いづれかよくせむ)?」大汝命(大國主)曰:「我不下屎(おもふ)行。」小比古尼命(少彥名)曰:「我(もち)堲荷欲行。」
 如是(かく),相爭而行之。()數日,大汝命(大國主)云:「我不能(あへず)忍行(しのびゆき)。」即坐而下屎之(くそまり)爾時(そのとき)小比古尼命(少彥名)(わらひ)曰:「(しかり)(くるし)。」亦(なげうち)其堲於此岡。故號堲岡。又,下屎之時,小竹(しの)彈上(はじきあげ)其屎,(うちき)於衣。故號波自賀村(はじかのむら)。其堲與屎,成石,于今不亡(うせず)一家(あるひと)云,品太(應神)天皇,巡行之時(めぐりいでまししとき),造宮於此岡,敕云:「此(つち)為堲(のみ)。」故曰堲岡。

 所以號生野者,昔,此處在荒神(あらぶるかみ)半殺(なかばころしき)往來之人(かよふひと)(より)此號死野(しにの)以後(そののち)品太(應神)天皇,敕云:「此(おもほす)惡名(あしきな)。」改為生野。
 所以號粟鹿川內(あはかかふち)者,彼自但馬(たぢま)阿相郡(あさごのこほり)粟鹿山(あはかやま)流來。故曰粟鹿川內。【生(にれ)。】
 大川內。因(ひろき)為名。(おふ)(ひのき)(すぎ)。又有異俗人(あたしくにひと)卅許口(みとたりばかり)。】
 湯川。昔,湯(いでき)此川。故曰湯川。【生,檜、枌、黑葛(くろかづら)。又(あり)異俗人卅許口。】

 川邊里(かはのべのさと)勢賀川(せかがは)𪿓川山(とがはやま)。土,(なか)下。】此村,(すむ)於川邊。故號川邊里。
 所以云勢賀(せか)者,品太(應神)天皇,狩於此川內,()鹿(しか)約出(せめいたし)於此處殺。故曰勢賀。至于星出(ほしのいづる)狩殺(かしころしき)。故山名星肆(ほしくら)
 所以云𪿓川山者,彼山𪿓()。故曰𪿓川山。
 高岡里(たかをかのさと)神前山(かむさきやま)奈具佐山(なぐさやま)。土,中中。】右,云高岡者,此里有高岡(たかきをか)。故號高岡。
 神前山。與上同(かみとおなじ)。】
 奈具佐山。【生檜。不知其由(そのゆゑ)。】


堲岡里 日吉神社

日吉神社 屏風岩
堲岡里,大河內町全境與朝來郡生野町部份。日吉神社境內屏風岩,傳少彥名命擲埴所化。


波自賀村 初鹿野


生野 朝來市生野
土地神、荒神將通行者半留半殺之事,多見於風土記。


粟鹿山


奈具佐山 七種山


伊和坐大名持御魂神社
按播磨國風土記中,天日槍命與大國主命征地之事有四件,與伊和大神爭地之事有二件。而大國主、伊和大神爭地之事,未有之也。或云伊和大神、大國主為同神,或云二神時代不同。若為後者,則天日槍命在播磨國之勢力甚久矣。


石坐神山 田川神社毘沙門堂


高野社 高野神社

二、伊和大神與天日桙命

 多駝里(ただのさと)邑曰野(おほわちの)八千軍野(やちぐさの)粳岡(ぬかをか)。土,中下。】所以號多駝者,品太(應神)天皇巡行之時,大御伴人(おほみともびと)佐伯部(さへきべ)始祖(とほつおや)阿我乃古(あがのこ),申:「欲(こふ)(くに)。」爾時,天皇(すめらみこと)敕云:「(ただ)請哉(こひつるや)。」故曰多駝。
 所以云邑曰野者,阿遲須伎高日古尼命神(あぢすきたかひこねのかみ),在於新次社(にひすきのやしろ),造神宮(かむつみや)於此野之時,大蕝茅(意保和知)苅迴(かりもとほし)【○苅其所束茅群迴之以為垣。】(かき)。故名邑曰野。
 粳岡者,伊和大神(いわのおほかみ)天日桙命(あめのひぼこのみこと)二神,(おのもおのも)(おこし)相戰(たたかひ)。爾時,大神之(いくさ),集而舂稻之(いねをつきき)。其粳(あつまり)為丘。其簸置(あふきおける)(ぬか),云(はか),又云城牟禮山(きむれやま)一云(あるひといへらく)掘城處(きをほりしところ)者,品太(應神)天皇御俗(みよ)【○御俗,御世也。】參度來(まゐわたりこし)百濟(くだら)人等,(まにまに)(しわざ)【○俗,風俗也。】造城居之(をりき)。其孫等(うまごども)川邊里(かわのべのさと)三家人(みやけのひと)夜代等(やしろら)
 所以云八千軍(やちぐさ)者,天日桙命軍,(ありき)八千。故曰八千軍野(やちぐさの)

 蔭山里(かげやまのさと)蔭岡(かげをか)胄岡(かぶとをか)。土,中下。】云蔭山者,品太(應神)天皇御蔭(みかげ)(おちき)於此山。故曰蔭山。又號蔭岡。(ここに)除道刃(みちをはらふは)(にぶかりき)。仍云:「砥掘來(磨布理許)。」故云磨布理村(とほりのむら)
 胄岡者,伊與都彥神(いよつ比古のかみ)宇知賀久牟豐富命(うちかくむとよほのみこと),相鬥之時,胄墮此岡。故曰胄岡。

 的部里(いくはべのさと)石坐神山(いはくらのかみやま)高野社(たかののやしろ)。土,中(なか)。】右,的部等,居於此村。故曰的部里(いくはべのさと)
 云石坐山者,此山,(いただく)石。又,在豐穗命神(とよほのみことのかみ)。故曰石坐神山。
 云高野社者,此野,(たかし)他野(あたしの)。又,在玉依姬命(たまより比賣のみこと)。故曰高野社。【生,(ゑにす)(かつら)。】


針間播磨國風土記 託賀郡

一、託賀略記

 託賀郡(たかのこほり)
 (みぎ)所以(ゆゑ)名託賀者,(むかし),在大人(おほひと),常勾行也(かがまりゆきき)。自南海(みなみのうみ)到北海,自東巡行之時(めぐりゆきしとき),到來此土(このくに)云:「他土(あたしくに)卑者(みじかければ),常勾伏(かがまりふし)而行之。此土高者(たかければ)申而行之(のびてゆく)高哉(たかきかも)。」(かれ)曰託賀郡。【○(のび)(のび)也。】踰跡(ふみしあと)處,數數(あまた)(ぬま)

 賀眉里(かみのさと)大海山(おほみやま)荒田村(あらたのむら)(つち)(しも)上。】右,因居川上(かはかみ)為名。
 所以號大海(おほみ)者,昔,明石郡(あかしのこほり)大海里(おほみのさと)人,到來(いたりき)居於此山底(やまのふもと)。故(いふ)大海山。【生(まつ)。】
 所以號荒田(あらた)者,此處(ここ)在神,名道主日女命(みちぬしひめのみこと),無父而生兒(こをうみ)。為之釀盟酒(うけひざけ),作田七町(ななところ)七日七夜(ななひななよ)之間,稻成熟竟(みのりをはりき)。乃(かみ)(つどへ)諸神(もろもろのかみ)(やり)其子(ささげ)酒而令養之(やしなはしめき)於是(ここに),其子,(むき)天目一命(あめのまひとつのみこと)奉之(たてまつりき)。乃知其父。後(あれき)其田。故(なづく)荒田村。

 黑田里(くろだのさと)【袁布山、支閉岡、大羅野。土,下(かみ)。】右,以土黑(つちくろき)為名。
 云袁布山(をふやま)者,昔,宗形大神(むなかたのおほかみ)奧津島姬命(おきつしま比賣のみこと)(はらみ)伊和大神(いわのおほかみ)之子,到來此山云:「我可產之時(こうむべきとき)(をふ)。」故曰袁布山。
 云支閉丘(きへのをか)者,宗形(宗像)大神云:「我可產之月,(きへぬ)。」故曰支閉丘。
 云大羅野(おほあみの)者,昔,老夫(おきな)老女(おみな),張(あみ)袁布中山(をふのなかやま),以捕禽鳥(とり)眾鳥(もろもろのとり)多來(さはにき)(おひ)羅飛去,落於件野(かのの)。故(いふ)大羅野。


賀眉里大海山 多可町加美區


黑田里 黑田庄村道路元標


宗像大社 沖津宮遙拜所
祭神田心姬,亦名奧津島姬命。婚與大國主,產子味耜高彥根神、下照姬命。沖津宮位於沖島,為禁足地。古代祭祀遺跡出土八萬餘件神寶,人稱海上正倉院。遙拜所位於中津宮所在之宗像大島。


都麻里 西脅市津万井


比也山 大津乃命神社
兵庫縣西脅市比延町東。


鈴堀山 數曾寺山
高瀨,西脇市高島町或鄉瀨町。法太里,多可郡八千代町、西脅市。


甕坂 西脅市明樂寺町


花波山 八千代町花宮 貴船神社

二、建石命與讚伎日子之戰

 都麻里(つまのさと)【都多支、比也山、比也野、鈴堀山、伊夜丘、阿富山、高瀨、目前、和爾布多岐(わにふたき)、阿多加野。土,(しも)上。】所以(なづくる)都麻者,播磨刀賣(はりまとめ)丹波刀賣(たにはとめ)(さかひし)國之時,播磨刀賣,到於此村,(くみ)井水而飡之(のみ)云:「此水有味(うまし)。」故曰都麻。【○都麻(つま),此云與(うまし)雙關,稍顯牽強,蓋附會也。】
 云都多支(つたき)者,昔,讚伎日子神(さぬきひこのかみ)(つまどひき)冰上刀賣。爾時,冰上刀賣(ひかみとめ)答曰:「(いな)。」日子神(ひこがみ)猶強(なほししひ)而誂之。於是,冰上刀賣(いかり)云:「何故(なにのゆゑ)()?」即(やとひ)建石命(たけいはのみこと),以(つはもの)相鬥。於是,讚伎日子,(まけ)還去(かへりい)云:「我(それ)怯哉(つたなきかも)。」故曰都多岐。【○(それ),或此(いと)之訛也。】
 云比也山(やひやま)者,品太(應神)天皇,狩於此山,一鹿(しか)立於前。鳴聲(なくこゑ)比比(ひひ)天皇(すめらみこと)聞之,即(とめたまひき)翼人(おもとびと)【○翼,佐也。翼人,佐天皇狩獵者。】(かれ)山者(なづけ)比也山,野者號比也野(ひやの)
 鈴堀山(すずほりやま)者,品太(應神)天皇,巡行(めぐりいで)之時,鈴(おちき)於此山。雖求(もとむれども)不得。乃掘土而求之(もとめき)。故曰鈴堀山。
 伊夜丘(いやをか)者,品太(應神)天皇獵犬(かりいぬ)【名真名白(麻奈志漏)。】()走上(はしりのぼりき)此岡。天皇見之云:「射乎(いよ)。」故曰伊夜岡(いよをか)。此犬,與豬相鬥死(たたかひてしにき)。即作墓(はふりき)。故,此岡西有犬墓(いぬのはか)
 阿富山(あふやま)者,以(あふこ)(になひき)(しし)。故號阿富。
 云高瀨村(たかせのむら)者,(より)川瀨(かはのせ)為名。
 目前田(まさきだ)者,天皇(應神)獵犬,為豬所打害(うちさかれき)()。故曰目割(まさき)
 阿多加野(あたかの)者,品太(應神)天皇,狩於此野,一豬(おひ)矢,為(阿多岐)【○あたき(阿多岐),有鳴聲、遺恨等說。】故曰阿多賀野(あたかの)
 法太里(はふだのさと)【甕坂、花波山。土,下上。】所以(ゆゑ)號法太者,讚伎日子(さぬきひこ)建石命(たけいはのみこと)相鬥之時,讚伎日子,負而逃去(にげゆく),以手匐去(はひいにき)。故曰匐田(はふだ)
  甕坂(みかさか)者,讚伎日子逃去之時,建石命(おひ)此坂云:「自今以後(いまよりのち)(また)不得入此界(このさかひ)。」即御冠(みかがふり)置此坂。一家(あるひと)云,昔,丹波(たには)播磨(はりま),堺國之時,大甕(おほきみか)掘埋(ほりうめ)此土(このつち),以為國境(くにのさかひ)。故曰甕坂。
 花波山(はななみやま)者,近江國(あふみのくに)花波之神(はななみのかみ),在於此山。故因為名(なとなす)


針間播磨國風土記 賀毛郡

一、賀毛略記

 賀毛郡(かものこほり)
 所以(なづくる)賀毛者,品太(應神)天皇之世,於鴨村(かものむら)雙鴨(ふたつのかも)()(かひご)(かれ)曰賀毛郡。【○()()也。】

 上鴨里(かみかものさと)(つち),中(かみ)。】
 下鴨里(しもかものさと)【土,(なか)中。】(みぎ)二里,所以(ゆゑ)鴨里(かもさと)者,已(つまびらか)於上。但,後(わかち)為二里。故曰上鴨、下鴨。
 品太(ほむだ)天皇巡行之時(めぐりいでまししとき),此鴨發飛(たちとび),居於條布井樹(するのゐのき)【○條、()相通。『說文通訓定聲』云:「條,假借為修。」】此時,天皇(應神)問云:「何鳥哉(なにのとりぞ)?」阿從(おもとびと)當麻品遲部君前玉(たぎまのほむちべのきみさきたま),答曰:「(すむ)於川鴨。」(のり)令射時,(はなち)()(あてき)二鳥。即(おひ)矢,從山岑(やまのみね)飛越之處,號鴨坂(かもさか)落斃(おちたふれし)之處者,仍號鴨谷(かもだに)。煮(あつもの)之處者,煮坂(にさか)
 下鴨里。有碓居谷(うすゐのたに)箕谷(みのたに)酒屋谷(さかやのたに)。此大汝命(おほなむちのみこと),造碓稻舂(いねつき)之處者,號碓居谷。箕(おき)之處者,號箕谷。造酒屋之處者,(なづく)酒屋谷。

 條布里(すふのさと)【土,中中。】所以號條布者,此村在井。一女(をとめ)(くむ)水,即被吸沒(すはれてしづみき)。故曰號條布(すふ)
 鹿咋山(かくひやま)。右,所以號鹿咋者,品太(應神)天皇,狩行之時(みかりにいでまししとき)白鹿(しろきしか),咋己舌,(あひき)於此山,故曰鹿咋山。
 品遲部村(ほむちべのむら)。右,號(しか)者,品太(ほむだ)天皇之世,品遲部(ほむちべ)遠祖(とほつおや)前玉(さきたま)所賜(たまはりき)此地。故號品遲部村。
 三重里(みへのさと)【土,中中。】所以云三重者,昔在一女(をみな)。拔(たかむな)(ぬの)裹食(つつみくらへ)重居,【○按『景行記』云:「吾足如三重(みへ)勾,甚疲。」】不能起立(たたざりき)。故曰三重。

 楢原里(ならはらのさと)【土,中中。】所以號楢原者,(なら)(おふ)此村。故曰柞原(ならはら)
 伎須美野(きすみの)。右,號伎須美野者,品太(應神)天皇之世,大伴連(おほとものむらじ)等,(こひ)此處之時,喚國造(くにのみやつこ)黑田別(くろだわけ),而問地狀(くにのかたち)爾時(そのとき)(こたへ)曰:「縫衣(ぬへるきぬ)(きすめる)櫃底(ひつのそこ)。」故曰伎須美野。【○伎須美(きすみ),按『禮記』檀弓:「葬者,藏也。(きすみ)者,不欲人見得也。」】
 飯盛嵩(いひもりたけ)。右,(なづくる)然者,大汝命(大國主)御飯(みいし),盛於此嵩。故曰飯盛嵩。
 粳岡(ぬかをか)。右,號粳岡者,大汝命(大國主)令舂(つかしめ)稻於下鴨村,散粳(ちりしぬか)飛到(とびいたりき)於此岡。故曰粳岡。
 有玉野村(たまののむら)。所以者,意奚(おけ)袁奚(をけ)皇子(みこ)等,【○仁賢、顯宗。】(いまし)美囊郡(みなぎのこほり)志深里(しじみのさと)高野宮(たかののみや),遣山部小楯(やまべのをたて)(つまどひ)國造(くにのみやつこ)許麻(こま)(むすめ)根日女命。於是,根日女(ねひめ)(すでに)依命訖(みことによりをへき)。爾時,二皇子,相辭(あひいなび)不娶(あひたまはざりき)(ふる)于日間,根日女,老長逝(おいてしにき)。于時,皇子等大哀(いたくかなしび),即遣小立(小楯),敕云:「朝夕日不隱之地(かくろはぬくに),造墓(をさめ)(),以玉(かざらむ)墓。」故(よりて)此墓號玉丘(たまをか)。其村號玉野(たまの)


鴨坂 鴨谷町至古坂峠


大歲神社 牛居構居
牛居町牛居構居,傳碓居谷遺跡。


條布里 吸谷廢寺礎石遺構


修布井戶 條布井戶


鹿咋山 女鹿山


粳岡 糠塚山


玉丘史蹟公園 根日女傳說之鄉


淨土寺
黑川,起小野市黑川町淨土寺山之南,注入加古川之舊黑川。


豬養野 山田町橋形、船付


端鹿里 加東郡東條町遺跡


穗積里 穗積陣屋跡竹藪
詠小目野笹歌:「美也伶麗哉 小目野間笹葉矣 縱令霰零而 縱使霜降積其上 還願勿枯矣 美哉小目笹葉矣


法太川、雲潤里 野間川


鴨川


川合里 河合中町

二、笹御井之歌

 起勢里(こせのさと)【土,(しも)中。臭江、黑川。】右,號起勢者,巨勢部(こせべ)等,居於此村。仍(なす)里名。
 臭江(くさえ)。右,號臭江者,品太(ほむだ)天皇之世,播磨國(はりまのくに)田村君(たのむらぎみ),在百八十村(ももやそのむら)君而,己村(ごと)相鬥之時,天皇(應神),敕,追聚(おひあつめ)於此村,悉皆(ことごと)斬死(きりころし)。故曰臭江。其血黑流(くろくながれき),故號黑川(くろかは)
 山田里(やまだのさと)【土,中下。豬飼野(ゐかひの)。】右,號山田者,人居山際(やまのきは)(つひに)由為里名。
 豬養野(ゐかひの)。右,號豬飼(ゐかひ)者,難波高津宮(なにはのたかつのみや)御宇(あめのしたしろしめしし)天皇(すめらみこと)之世(仁德)日向肥人(ひむかのくまひと)朝戶君(あさべのきみ)天照大神(あまてらすおほみかみ)坐舟於,豬持參來(もちまゐき)進之(たてまつり)可飼所(かふべきところ)求申仰(ねぎまをしおふぎき)。仍所(たまはり)此處,而放飼(はなちかひき)豬。故曰豬飼()

 端鹿里(はしかのさと)【土,下(かみ)。】右,號端鹿者,昔,(かみ)於諸村(わかち)菓子(このみ)【○神,或依『日本書紀』神代第六,以為五十猛命。或依住吉神領,以為住吉三神。】至此村不足(たらず),故仍云:「間有哉(はしなるかな)。」故號端鹿。【今在其神。】此村,至于(いたるまで)有今(いま)山木(やまのき)無菓子。【生,真木(まき)(ひのき)(すぎ)。】
 穗積里(ほづみのさと)本名(もとのな)鹽野。小目野。土,下上。】所以鹽野(しほの)者,鹹水(しほみづ)出於此村。故曰鹽野。今,號穗積者,穗積臣(ほづみのおみ)等族,居於此村。故號穗積。

 小目野(をめの)。右,號小目野者,品太(應神)天皇巡行之時,宿於此野。仍望覽(みそなはし)四方(よも),敕云:「彼觀者(そのみゆるは),海哉、河哉。」從臣(おもとびとたち)對曰:「此(きり)也。」爾時,(のりたまひ)云:「大體(おほきかたち)雖見(みゆれども),無小目(をめ)哉。」故曰號小目野。
 又因此野,(うたひたまひき)歌:

 於是(ここに),從臣,(ひらきき)井。故云佐佐御井(ささのみゐ)

 雲潤里(うるみのさと)【土,中中。】右,號雲潤者,丹津日子神(につひこのかみ):「法太之川底(はふだのかはじり),欲(こさまく)雲潤之(かた)。」云爾之時(しかいひたまへるとき),在於彼村太水神(おほみづのかみ)(いなび)云:「吾以宍血(ししのち)(たつくる),故不欲河水(かはのみづ)。」爾時,丹津日子云: 「此神,(うみ)掘河事,云爾而已(しかいへるのみ)。」故號雲彌(うるみ)。今人號雲潤。
 河內里(かふちのさと)【土,中下。】右,由川為名。此里之田,不敷(しかず)(おろす)苗子(いなだね)。所以(しかる)者,住吉大神(すみよしのおほかみ)上坐之時(のぼりまししとき),食於此村。爾,從神(みとものかみ)等,人苅置草(かりおけるくさ)解散(ときちらし)為坐。爾時,草主(くさぬし)大患(いたくうれへ)(まうし)於大神,(ことわり)云:「汝田(なへ)者,(かならず)雖不敷草,如敷草(おひむ)。」故其村田,于今不敷(くさ),作苗代(なはしろ)
 川合里(かはひのさと)【土,中上。腹辟沼。】右,號川合者,端鹿川底(かはじり)鴨川(かもかは)(あふ)村。故號川合里。
 腹辟沼(はらさきのぬま)。右,號腹辟者,花浪神(はななみのかみ)之妻淡海神(あふみのかみ),為追己夫(おのがつま),到於此處,遂怨瞋(うらみいかり),受以(かなた)辟腹,(しづみき)於此沼。故號腹辟沼。其沼(ふな)等,今無五藏(わた)


針間播磨國風土記 美囊郡

一、美囊略記

 美囊郡(みなぎのこほり)
 所以(なづくる)美囊者,昔,大兄伊射報和氣命(おほえのいざほわけ)【○大兄去來穗別尊,履中帝。】(さかひたまひ)國之時,到志深里(しじみのさと)許曾社(こそのもり),敕云:「此(くに)水流(みながれ)甚美哉(いとうるはしきかな)。」(かれ)號美囊郡。【○此以水流(みなが)美囊(みなぎ)音近而言。】

 志深里(しじみのさと)【土,中中。】所以(ゆゑ)號志深者,伊射報和氣命(履中)御食(みをしし)於此井之時,信深貝(しじみかひ)遊上(もとほりのぼりき)御飯筥(みいしのはこ)(もとより)。爾時,敕云:「此貝者,於阿波國(あはのくに)和那散(わなさ),我所食之貝哉。」故號志深里。
 於奚(仁賢)袁奚(顯宗)天皇(すめらみこと)等,所以坐於此土(このくに)者,御父(おんちち)市邊天皇命(いちのべのすめらみことのみこと)所殺(ころさえまし)近江國(あふみのくに)摧綿野(くたわたの)之時,率日下部連意美(くさかべのむらじおみ)逃來(のがれき)(かくり)惟村(このむら)石室(いはや)
 然後,意美(おみ),自知重罪(おもきつみ)乘馬(のれるうま)等,切斷(たち)(すぢ)逐放之(おひはなちき)。亦,持物(もてるもの)(くら)等,(ことごと)燒廢之(やきすて),即經死之(わなきしにき)(ここに),二人(みこ)等,隱於彼此(かに)(まとひ)東西(かく),仍志深村首(しじみのむらのおびと)伊等尾(いとみ)之家所役也(つかはえたまひき)
 因伊等尾新室(にひむろ)(うたげ),而二子(ふたはしらのみこ)令燭(ひともさしめ),仍令舉詠辭(ほきうた)。爾,兄弟各相讓(ゆづり),乃弟立詠。其(うた)曰:

 又(うたひたまひき)。其辭(いひしき)

 即諸人等(ひとびと),皆畏走出(かしこみてはしりいでき)。爾,針間國(はりまのくに)山門領(やまとのみやつこ)所遣山部連少楯(やまべのむらじをたて)相聞相見(あひききあひみ)(かたり)云:「為此子,(いまし)手白髮命(たしらがのみこと)(ひる)不食(をさず),夜者不寢(いねず)有生(あるはいき)有死(あるはしに)泣戀(なきしたひませる)子等。」仍參上(まゐのぼり)(まをし)右件(かく),即歡哀(よろこびかなしみ)泣,還遣(かへしやり)少楯召上(めしあげ)。仍,相見相語。
 自此以後(これよりのち),更還下(かへりくだり),造(みや)此土(このくに)而坐之。故有高野宮(たかののみや)少野宮(をののみや)川村宮(かはむらのみや)池野宮(いけののみや)。又,造屯倉(みやけ)之處,即號御宅村(みやけのむら)。造倉之處,號御倉尾(みくらを)

 高野里(たかののさと)。坐於祝田社(はふだのやしろ)神,玉帶志彥大稻男(たまたらし比古おほいなを)玉帶志姬豐稻女(たまたらし比賣とよいなめ)
 志深里(しじみのさと)。坐三坂(みさか)神,八戶挂須御諸命(やとかかすみもろのみこと)大物主葦原志許(おほものぬしあしはらのしこ)國堅以後(くにかためまししのち)(より)(くだり)三坂岑(みさかのみね)
 吉川里(よかはのさと)。所以號吉川者,吉川大刀自神(よかはのおほとじのかみ)(います)於此。故云吉川里。
 枚野里(ひらののさと)。因(くにがた)為名。【○(くにがた),地形也。】
 高野里(たかののさと)。因體(なす)名。


縮見山石室 志染石室
仁賢、顯宗帝所隱志深里石室。時意美攜億計、弘計皇子逃難,但恐逆君之罪,故自經死之。信深貝,蜆貝也,或作海蜂蛤。高野宮,兵庫縣三木市志染町細目高宮。池野宮,志染町窟屋池野。
弘計皇子顯宗歌:「呵護垂乳兮 真金吉備精鐵製 狹鍬手持之 洽猶耕田矣 手舞足蹈而 手拍憀亮吾將儛其二:「淡海近江者 汪洋水渟國是也 蜻蛉大和者 青垣層層籠國矣 坐於山跡彼國間 天萬國萬押磐尊 市邊天皇苗裔者 無非他人僕是也


高野里 三木市別所町


吉川里 美囊郡吉川町


美囊川

[久遠の絆] [賀古郡] [國地名] [再臨詔]