地豐草豐後國風土記
總記/日田郡/球珠郡/直入郡/大野郡/海部郡/大分郡/速見郡/國埼郡


地豐草豐後國風土記 總記


慶長豐後國繪圖


鏡餅
豐後國風土記逸文,有餅的成鳥故事。山城國風土記逸文南鳥部里、伊奈利社亦有的餅化鳥之事。


國郡部第十二 豐後國第百廿八

一、總記

 豐後國(とよくにのみちのしりのくに)
 郡捌所(やところ)(さと)四十,(こざと)一百一十。】(うまや)玖所,【並小路(せうち)。】(とぶひ)伍所,【並下國(げこく)。】(てら)貳所。僧寺(ほふしのてら)尼寺(あまのてら)。】

 豐後國者,(もと),與豐前國(とよくにのみちのくちのくに)合為一國。
 昔者(むかし)纏向日代宮(まきむくのひしろのみや)御宇(あめのしたしろしめしし)大足彥(おほたらしひこ)天皇(景行)(みことのりし)豐國直(とよくにのあたひ)等祖菟名手(うなで)遣治(をさめしめたまひ)豐國(とよのくに)往到(ゆきいたりき)豐前國仲津郡(なかつのこほり)中臣村(なかとみのむら)

 于時(ときに)日晚(ひくれ)僑宿(やどりき)
 明日(あくるひ)昧爽(あけぼの)(たちまち)白鳥(しろきとりk),從北飛來(とびきたり)翔集(かけりつどひき)此村。
 菟名手,即(おほせ)僕者(やつこ)遣看(みしむる)其鳥。鳥化為(もちひ)片時(しまし)之間,更化芋草(いへついも)數千許株(いくちもと)花葉(はなは)(さかえき)。菟名手見之為(あやし)歡喜(よろこび)云:「化生(なりかはれる)之芋,未(むかし)有見。實,至德之盛(みめぐみのさかり)乾坤之瑞(あめつちのしるし)!」既而參上(まゐのぼり)朝庭(みかど),舉(ことのさま)奏聞(まをし)

 天皇(すめらみこと),於茲,歡喜之有,即敕菟名手云:「天之瑞物(あめのみづもの)地之豐草(つちのとよくさ)(いまし)治國(をさむるくに)可謂(いふべし)豐國!」(かさね)(),曰豐國直(とよくにのあたひ)。因(いふ)豐國。

 後分兩國,以豐後國為名。

地豐草豐後國風土記 日田郡

一、日田略記

 日田郡(ひたのこほり)
 鄉伍所(いつところ)(こざと)一十四。】(うまや)壹所。】【○據『和名抄』,其鄉有六,日田(ひだ)在田(ありた)夜開(やけ)曰里(わたり)刃連(ゆきえ)、石井。】
 昔者(むかし)纏向日代宮(まきむくのひしろのみや)御宇(あめのしたしろしめし)大足彥(おほたらしひこ)天皇(景行)征伐(うち)球磨贈於(くまそ)【○球磨贈於(くまそ)熊襲(くまそ)是也。】,於凱旋(かちかへり)之時,發筑後國(つくしのみちのしりのくに)生葉行宮(いくはのかりみや)(いでましき)於此郡。有神,名曰久津媛(ひさづひめ)。化而為人參迎(まゐむかへ)辨申(わきまへまをしき)(くに)消息(あるかたち)。因(これ)久津媛之郡(ひさづひめのこほり)。今(いふ)日田郡者,(よこなまれる)也。

 石井鄉(いしゐのさと)【在郡(みなみ)。】昔者,此村有土蜘蛛(つちぐも)(をき)不用(もちゐず)石,(つきけり)以土。(より)斯名曰無石堡(いしなしのをき)後人(のちのひと)謂石井鄉,(あやまれる)也。
 鄉(うち)有河,名曰阿蘇川(あそがは)。其(みなもと)肥後國(ひのみちのしりのくに)阿蘇郡(あそのこほり)少國之峰(をくにのみね),流到此鄉,即(とほり)球珠川(くすがは)(あひ)一川(ひとつのかは)。名曰日田川(ひだがは)年魚(あゆ)多在。(はて)筑前(つくしのみちのくち)筑後(つくしのみちのしり)等國,入於西海(にしのうみ)
 鏡坂(かがみさか)【在郡西(にし)。】昔者,纏向日代宮御宇大足彥(景行)天皇(すめらみこと)(のぼり)坂上(さかのうへ)御覽(みそなはし)國形,(すなはち)敕曰:「此國地形(かたち),似鏡面(かがみのおも)哉。」因曰鏡坂,斯其(ことのもと)也。

 靫編鄉(ゆぎあみのさと)【在郡東南(ひむがしみなみ)。】昔者,磯城嶋宮(しきしまのみや)御宇天國排開廣庭(あめくにおしはるひろには)天皇(欽明)之世,日下部君(くさかべのきみ)等祖邑阿自(おほあじ)仕奉(つかへたてまつりき)靫部(ゆぎべ)(その)邑阿自,(つき)於此村,造(いへ)居之。因斯,名曰靫負村(ゆぎおひのむら)。後人(あらため)曰靫編鄉。
 村中有川,名曰球珠川。其(みなもと)球珠郡(くすのこほり)東南山出,流到石井鄉,通阿蘇川,會為一川。(いた)謂日田川是也(これなり)
 五馬山(いつまやま)【在郡南。】昔者,此山有土蜘蛛,名曰五馬媛(いつまひめ)。因曰五馬山。
 飛鳥淨御原宮(あすかのきよみはらのみや)御宇天皇(天武)御世,戊寅(つちのえとら)年,大有地震(なゐ),山崗裂崩(さけくえぬ)。此山一峽(ひとつのかひ)崩落(くえおち)慍之泉(いかれるいづみ)處處(ところどころ)(いづ)湯氣(ゆのけ)熾熱(さかりてあつく)炊飯(いしをかしく)早熟(つとになる)。但一處之湯,其穴(にたり)井。口徑(くちのわたり)丈餘(ひとつゑあまり)無知(しることなし)深淺(ふかきあさき)水色(みづのいろ)(はなだ),常不流(ながれず)。聞人之聲(ひとのこゑ)驚慍(おどろきいかり)騰埿(ひぢをあぐる),一丈餘許。今謂慍湯(いかりゆ)是也。


小碓尊女裝誅梟帥 大和櫻
按『日本書紀』,景行帝遣日本武尊征熊襲。時熊襲有魁帥,名川上梟帥,日本武尊解髮化童女姿,密伺酒宴,抽裀中劍刺之。所謂球磨贈於者,即熊襲是也。


石井鄉 筑後川左岸日田市石井


鏡坂 日田市上野
筑後國生葉郡延三隈川左岸東行入豐後之坂道。為古來交通要衝。


球珠川 今玖珠川
靫編鄉,日田市東南,玖珠川、三隈川流域。同市日高,通稱刃連。


地豐草豐後國風土記 球珠郡


球珠郡 玖珠郡

一、球珠略記

 球珠郡(くすのこほり)
 鄉參所,【里九。】壹所(ひとところ)【○據『和名抄』,其鄉今巳(こご)小田(をだ)永野(ながの)。】
 昔者,此村有洪樟樹(おほきなるくすのき)。因曰球珠郡。【○球珠(くす)(くす)也。】


地豐草豐後國風土記 直入郡

一、直入略記

 直入郡(なほりのこほり)
 鄉肆所(よところ)(こざと)一十。】(うまや)壹所【○據『和名抄』,鄉有三,朽網(くたみ)三宅(みやけ)、直入。加柏原以為四。】
 昔者(むかし),郡東桑木村(くはきのむら)【○桑木,底本作垂水(たるみ),蓋訛以字形相近哉。】有桑生之(おひたり)。其高極陵(きはまりてたかく)枝幹(えだももとも)直美(なほくうるはし)(くにひと)直桑村(なほくはのむら)後人(のちのひと)改曰直入郡,是也。

 柏原鄉(かしはばらのさと)【在郡南。】昔者,此鄉柏樹(かしはぎ)多生。因曰柏原鄉。
 禰疑野(ねぎの)【在柏原鄉之(みなみ)。】昔者,纏向日代宮(まきむくのひしろのみや)御宇(あめのしたしろしめしし)天皇(景行)行幸(いでまし)之時,此野有土蜘蛛(つちぐも),名曰打猿(うちさる)八田(やた)國摩侶(くにまろ)等三人。天皇,(みづから)(うたむ)(あた),在茲野(このの),敕,歷勞(あまねくねぎたまひき)兵眾(いくさびとども)。因謂禰疑野,是也(これなり)
 蹶石野(ふみいしの)【在柏原鄉之(うち)。】天皇(景行)(おもほし)伐土蜘蛛之賊,幸於柏峽大野(かしはをのおほの)。野中有石,長六(さか)(ひろさ)三尺,(あつさ)一尺留五()天皇(すめらみこと)祈曰(うけひたまひ):「(あれ)將滅(ほろぼさむ)此賊。當蹶(ふまむ)茲石,(たとへば)柏葉(かしはば)!」(すなはち)蹶之,(あがりき)如柏葉。因曰蹶石野。

 球覃鄉(くたみのさと)【在郡(きた)。】此村有(いづみ)。同天皇(景行),行幸之時,奉膳(かしはで)之人,(せむ)御飲(みもひ)令汲(くましむる)泉水(いづみのみづ),即有蛇靇(おかみ)【謂おかみ(於箇美)。】於茲,天皇(すめらみこと)敕云:「(かならず)將有(くさく)()汲用(くみもちゐし)。」因斯名曰臭泉(くさいづみ),因為村名。今謂球覃鄉者,(よこなまれる)也。
 宮處野(みやこの)朽網鄉(くたみのさと)所在之野。○朽網鄉,即球覃鄉。天皇(景行),為征伐土蜘蛛之時,起行宮(かりみや)於此野。是以(ここをもて),名曰宮處野。
 救覃峰(くたみのみね)(あり)郡北。】此峰(いただき),火恒燎之(つねにもゆ)(もと)數川(あまたのかは),名曰神河(かみのかは)。亦有二湯河(ゆのかは),流(あふ)神河。


直入郡 阿蘇外輪山


柏原鄉 荻町柏原 白水之瀧


禰疑野 七ツ森古墳群


蹶石野 直入中臣神社 蹶石


救覃峰 久重連山


地豐草豐後國風土記 大野郡


大野郡 豐後大野市
豐後國南,直入郡東陵。幅廣大。


大野郡烽 佩楯山


網磯野 豐後大野市綿田

一、大野略記

 大野郡(おほののこほり)
 (さと)肆所,(こざと)一十一。】(うまや)貳所,(とぶひ)壹所。【○據『和名抄』,其鄉,田口(たぐち)、大野、緒方、三重。】
 此郡所部(くにのうち)悉皆(ことごとに)原野(はらの)。因斯(なづけ)曰大野郡。

 海石榴市(つばいち)血田(ちだ)(とも)在郡南。】昔者,纏向日代宮御宇(景行)天皇(すめらみこと),在球覃行宮(くたみのかりみや)。仍欲(つみなはむ)鼠石窟(ねずみのいはや)土蜘蛛,而詔群臣(まへつきみたち)伐採(きりとり)海石榴樹(つばきのき),作(つち)(つはもの),即(えらみ)猛卒(たけきいくさ)(さづけ)兵椎(つはもののつち),以穿(うがち)(なびけ)草,(おそひ)土蜘蛛而悉誅殺(つみなひころさしめたまひき)流血(ながるるち)(いれき)(つぶなき)。其(つくりし)椎之處,曰海石榴市。(また)流血之處,(いふ)血田也。
 網磯野(あみしの)【在郡西南(にしみなみ)。】天皇(景行)行幸之時(いでまししとき)此間(ここ)土蜘蛛(つちぐも),名曰小竹鹿奧(しのかおき)(いふ)しのかおき(志努汗意枳)。】小竹鹿臣(しのかおみ)。此土蜘蛛二人(ふたり)()御膳(みけ),作田獦(かり)。其獦人(かりびと)甚譧(いとかまびす)【○譧者,言不正也。】天皇,敕云:「大囂(あなみす)【謂あなみす(阿那美須)。】」因斯曰大囂野(あなみすの)。今謂網磯野者,(よこまなれる)也。

地豐草豐後國風土記 海部郡

一、海部略記

 海部郡(あまのこほり)
 (さと)肆所,(こざと)一十二。】(うまや)壹所,(とぶひ)貳所。【○據『和名抄』,其鄉佐加(さか)穗門(ほと)佐井(さゐ)、丹生。】
 此郡百姓(おほみたから),並海邊白水郎(うみべたのあま)也。【○白水郎,漁民也。】因曰海部郡。

 丹生鄉(にふのさと)【在郡西。】昔時(むかし)之人,取此山沙(このやまのすなご)(あやまちき)朱沙()【○詄,(あやまり)也。】因曰丹生鄉。

 佐尉鄉(さゐのさと)【在郡東。】此鄉舊名(もとのな)酒井(さかゐ)。今謂佐尉鄉者,訛也。

 穗門鄉(ほとのさと)【在郡南。】昔者(むかし)纏向日代宮(まきむくのひしろのみや)御宇(あめのしたしろしめし)天皇(景行)御船(みふね)泊於此門,海底(うみのそこ)多生海藻()長美(ながくうるはしかりき)。即敕曰(のりたまひき):「取最勝海藻(ほつめ)【謂ほつめ(保都米)。】」便令以進(たてらつましめたまひき)(みをし)。因曰最勝海藻門(ほつめのと)。今謂穗門者,(よこなまれる)也。


坂市 龜塚古墳
丹生鄉,大分市坂市町丹生。佐衛鄉,今大分市坂市小佐井。


最勝海藻門 津玖見灣保戶島
最勝或作秀,訓ほつ,最優也。御,御食、御膳、供御之略。


地豐草豐後國風土記 大分郡


推定豐後古國府跡 大國社


推定豐後高國府跡 岩屋寺


酒川 柏野川、黑川
『太宰管內志』:「其色如酒。」
一、大分略記

 大分郡(おほきだのこほり)
 鄉玖所(ここのところ)【里二十五。】壹所(ひとところ),烽壹所,寺貳所(ふたところ)【一僧寺(ほふしのてら)、一尼寺(あまのてら)○據『和名抄』,其鄉有十。阿南(あなみ)稙田(わさだ)津守(つもり)荏隈(えのくま)判太(はんだ)跡部(あとべ)武臟(むさし)、笠租、笠和(かさわ)神前(かんざき)。其中,笠租、笠和疑重記,未不詳。
 昔者,纏向日代宮御宇(景行)天皇,從豐前國(とよくにのみちのくちのくに)京都行宮(みやこのかりみや)(いでまし)於此郡,遊覽(めし)地形(くにがた)嘆曰(なげきのりたまひ):「廣大哉(ひろくおほきなるかな),此郡也。宜名(なづくべし)碩田國(おほきだのくに)【○碩田(おほきだ),謂大分(おほきだ)。】」今謂大分,斯其(ことのもと)也。

 大分河(おほきだがは)【在郡南。】此河之(みなもと),出直入郡(なほりのこほり)朽網之峰(くたみのみね)(さし)下流(くだりながれ)經過(すぎ)此郡,遂入東海(ひむがしのうみ)。因曰大分川。年魚(あゆ)多在。】
 酒水(さかみづ)【在郡西。】此水之源,出郡西柏野之磐中(かしはののいはのうち),指南下流。其色如水,味小酸焉(すこしすし)。用(いやす)痂癬(はたけ)【謂はたけ(胖太氣)。】


地豐草豐後國風土記 速見郡

一、速見略記

 速見郡(はやみのこほり)
 鄉伍所(いつところ)(こざと)一十三。】(うまや)貳所,(とぶひ)壹所。【〇據『和名抄』,其鄉朝見(あさみ)八坂(やさか)由布(ゆふ)大神(おほが)山香(やまか)。由布即柚富也。】
 昔者(むかし)纏向日代宮(まきむくのひしろのみや)御宇(あめのしたしろしめし)天皇(景行),欲(つみなはむ)球磨贈於(くまそ),幸於筑紫(つくし),從周防國(すはうのくに)佐婆津(さばつ)發船(ふなだち)而渡,泊於海部郡(あまのこほり)宮浦(みやうら)。時,於此村有女人(をみな),名曰速津媛(はやつひめ),為其處之(をさ)。即聞天皇(景行)行幸,親自(みづから)奉迎(むかへまつり)奏言(まをし):「此山有大磐窟(おほきなるいはや),名曰鼠磐窟(ねずみのいはや)土蜘蛛(つちぐも)二人住之(すめり),其名曰(あを)(しろ)。又,於直入郡(なほりのこほり)禰疑野(ねぎの),有土蜘蛛三人,其名曰打猿(うちさる)八田(やた)國摩侶(くにまろ)(この)五人,並為人(ひととなり)強暴(ちはやび)眾類(ともがら)多在(さはにあり)悉皆(みな)(そしり)云:『不從(したがはじ)皇命(おほみこと)。』(もし)強喚者(しひてめさば)(おこし)(いくさ)(ふせき)焉。」於茲(ここに)天皇(すめらみこと)(いくさびと)(さへ)要害(ぬみ),悉誅滅(つみなひほろぼし)。因斯,名曰速津媛國(はやつひめのくに)後人(のちのひと)改曰速見郡。

 赤湯泉(あかゆのいづみ)【在郡西北。】湯泉之穴(ゆのあな),在郡西北竈門山(かまどやま)。其(めぐり)十五(ばかり)(つゑ)湯色(ゆのいろ)赤而有(ひぢ)。用(たる)屋柱(やのはしら)。埿流出()(かはり)清水(すみみづ),指東下流。因曰赤湯泉。
 玖倍理湯井(くべりゆのゐ)【在郡西。】此湯井,在郡西河直山(かはなほやま)(きし)口徑(くちのわたり)(あまり)。湯色黑,埿常不流(ながれず)。人(ひそかに)井邊(ゐのほとり)(あげ)大言(さけべ)驚鳴(おどろきなり)涌騰(わきあがる),二丈餘許。其氣(そのけ)熾熱(さかりてあつく),不可向昵(むかひちがづく)緣邊(ほとり)草木,悉皆枯萎(かれなゆ)。因曰慍湯井(いかりゆのゐ)。俗語曰玖倍理湯井。【○玖倍理(くべり),易燃之意歟。未詳。】

 柚富鄉(ゆふのさと)【在郡西。】此鄉之(うち)栲樹(たくのき)多生,(つね)取栲(かは),以造木綿(ゆふ)。因曰柚富鄉。
 柚富峰(ゆふのみね)【在柚富鄉東北。】峰頂(みねのいただき)石室(いはや)。其深一十餘丈,高八丈四尺,廣三丈餘。常有水凝(みづのこぼれる),經夏不解(とけず)(おほよそ)柚富鄉,近於此峰。因以為峰名。
 頸峰(くびのみね)【在柚富峰西南。】此峰下,有水田(こなた)。本名宅田(やけだ)。此田苗子(なへ),鹿恒喫之(つねにくらふ)田主(たぬし),造()伺待(うかがひまつ),鹿到來(いたりき)(あげ)己頸,(いれ)柵間,即喫苗子。田主,捕獲(とらへ),將斬其頸。于時,鹿請云:「我今立(ちかひ)(ゆるし)死罪(しぬるつみ)。若垂大恩(おほきめぐみ),得更存(またいくること)者,告我子孫(このすゑ)勿喫苗子。」田主,於茲,大(おもひ)恠異(あやし)放免(ゆるし)不斬。自時以來(それよりこのかた),此田苗子,不被鹿喫,全獲(またくう)(みのり)。因曰頸田。兼(なす)峰名。
 田野(たの)【在郡西南。】此野廣大(ひろく),土地沃腴(こえたり)開墾(にひばり)便(たより)無比(たぐふものなし)(ところ)。昔者,郡內(くぬち)百姓(おほみたから),居此野,多(ひらき)水田,餘(かて)宿(とどめ)(うね)大奢(いたくおごり)已富(おのがとみ),作(もちひ)(いくは)。于時,餅化白鳥(しらとり)(たち)而南飛。當年(そのとし)(ほど),百姓死絕(しにたえ),水田不造(つくらず),遂以荒廢(あれはてたり)。自(それ)以降,不宜(よろしからず)水田。今(いふ)田野,斯其緣也。


周防國佐婆津


海部郡宮浦 米水津村宮野浦


宇奈岐日女神社
傳宇奈岐日女,即速津媛命。


赤湯泉 血池地獄
野田血池地獄,【舊名赤江地獄。】 泉北有竈門遺稱地。


玖倍理湯井 鐵輪溫泉


頸峰 湯布院町城ヶ岳


地豐草豐後國風土記 國埼郡


國埼郡 國東半島 兩子寺


伊美鄉 國見町伊美 伊美別宮社
伊美鄉,國東半島北,面周防灘。

一、國埼略記

 國埼郡(くにさきのこほり)
 鄉陸所(むところ)(こざと)一十六。○案『和名抄』,其鄉七武藏(むさし)來繩(くなは)國前(くにさき)田染(たしぶ)阿岐(あき)、津守、伊美。據『豐後國誌』,津守鄉當屬大分郡,蓋『和名抄』訛也。除津守(つもり)則六鄉。】
 昔者,纏向日代宮御宇(景行)天皇御船(みふね),從周防國(すはうのくに)佐婆津(さばつ)發而度之(わたりたまひ)(はるか)(みそなはし)此國,敕曰:「彼所見(みゆる)者,(けだし)國之埼(くにのさき)。」因曰國埼郡。

 伊美鄉(いみのさと)【在郡北。】(景行)天皇(すめらみこと),在此村,敕曰:「此國,道路(みち)遙遠(はるかにとほく)山谷(やまたに)阻深(さがしくふかく)往還(ゆきき)疏稀(まれなり)(すなはち)得見國。」因曰國見村(くにみのむら)。今謂伊美鄉,其(よこまれる)也。



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